第7話 バニラ・フレーバー ■ 内藤更紗
バニラ・フレーバータイトル


「じゃな!」陽気な声がドアの向こうに消える
 シュンの唇からためいきがもれる
 口の中には珈琲と
 喉の奥に絡んだあいつの味が残っている


 寝たりない頭を振りながら
 もう一度ポットに珈琲をわかす
 今日の天気を伝える朝のニュース
 やたら元気のいいアナウンサー


 ゆうべあいつのいびきをBGMに
 ウェブで見かけた言葉を思い出す
「イクだけのセックスが好きじゃないゲイをバニラという」
 バニラ 白くて甘いアイスクリームの香り


「抱きしめあったり キスしたり お互いの手を握ったり
 ただセックスでイクよりもそんな親密さの方がいい」 


 シュンはあいつが好きだと思う
 でも抱きしめられる以上のことは 本音を言えば苦行に近い
 つきあい出した頃は それでもいろんなことをした
 嫌われたくない一心で


 いつの頃からだろう
 その気になれないと 断ることが多くなったのは
 あいつは怒り 不機嫌になり 押し黙ってベッドで背中を向けた
 それでも別れようと言われなかったことに
 シュンは安心していた 愛されているからだと


 その言葉は不意に降ってきた
「なあ おれたち別々に生きていこうか
 おまえはおれのこと 必要じゃないみたいだし」


 そんなことないと シュンは必死で抗弁した
 でもあいつの瞳は暗く濁っている
 長い夜の間に降り積もった疲労と自嘲の色
 その夜シュンは自分から あいつのものを飲み込んだ


 口腔から喉へ 喉から食道へ
 つたいながら降りていく どろりと濃いあいつの欲望
 あいつは何も言わず シュンを全身で抱きしめた


 耳元で聞こえる安らかないびき
 こどものように投げ出された脚 満ち足りた寝顔


 この寝顔はおれだけのものだとシュンは思う
 誰にも渡したくない おれだけのものだ


 それなのに
 この空しさは何だろう
 自分はなんだか 生きてないような気がする
 もうずっと前から 息をしていないような気がする


 バニラ 白くて甘いアイスクリームの香り
 あわ雪のように舌の先で溶けて消える


     いつか 身体が心から自由になったら
     心が身体から自由になったら
     おれは あいつと同じ風景が見られるだろうか


     ふわふわと白い雲のベッドにふたりねそべって
     ああ 雲はバニラ・フレーバーだなんて笑いながら


 バニラ 白くて甘いアイスクリームの香り
 遠い雲海が銀色に輝いている



第7話 バニラ・フレーバー 了

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