第22話 ホワイト・ボード ■ 内藤更紗
ホワイト・ボードタイトル


 エレベーターのドアが開いた。
 おれの目の前に8Fフロアの磨きこまれた床が広がる。
 透明なパーテーションには「事業開発部」のシンプルなプレート。
 おれは慣れた足取りでその奥に向かった。

 誰もいない。
 まるで昼下がりのマリーナのように、
 いくつかの島に分散した白いデスクたちが窓からの光をあびて静かに眠っている。
 職場のGW開けは明日で、デスクたちは戦闘前の午睡をたっぷりと貪っているようだった。

 手近なデスクに鞄を置き、事業部のスケジュールの書かれたホワイト・ボードをチェックする。
 社内伝達はすべてネットワークで行われているのだが、
 全員の意志統一のためにはやっぱりボードがなくてはという意見も根強いのだ。

 4月入社の新人たちが、一斉研修を終えて連休明けから各課に配属されてくる。
 だから今月のボードには、見慣れない名前が並んでいる。
 それに5月は新しいプロジェクトが多い。業者の入れ替わりが多くなったのはどこの課も同じだ。
 おれはそれぞれのプロジェクトと担当者、業者名をしっかり頭に刻み込んだ。
 連休明けからフルで動けるために。いつもの習慣だ。

 次に会議をチェックする。
 事業部会、研修会、課単位、室単位の月会議週会議歓送迎会…
 あいかわらず会議の大好きな、河合部長らしい。
 メール1行で済むような事柄でも、相手の顔を見ながら自分の口で伝えるのが好きだ。
 ワンマンだが、頭もきれる。
 おれはパーテーションで囲まれた部長のブースを見、振り返っておれの課のデスク島に視線を移す。

 課長以下、14名…休暇前に部長によほど怒鳴られたか、いつもは乱雑なPCまわりも整頓されて、見事なまでに何もない。
 引っ越してきたばかりのようなよそよそしさ。それは課長のデスクも同じだった。
 課長の相川の細い顔が目に浮かぶ。チタンフレームの眼鏡の縁をちょっと右手で直す癖。
 ホワイト・ボードの前で考えこみながら予定を書いている生真面目な横顔。

 半年前の雪の夜を、思い出す。
 私鉄沿線の住宅地の、埋もれそうな深い闇に包まれながら捜し歩いた一軒の家。
 おれは何をやっているんだろう。自分で自分がわからなかった。
 トレンチコートの背にも肩にも細かな雪片が重なっていく。

   ……………

 その日の昼過ぎ、おれは同じ課の加島香織に、木枯らしの舞うビルの屋上に呼び出された。
「島本さん、相川課長、もう、会社に来ないかもしれない」
 硬い声だった。

「どうして?…そういえばここんとこ課長の顔見てないな。出張先から直接外まわってるんじゃなかったの?」
「先々週、打ち上げが終わった後、またチーフの件で部長と口論になったらしくて…、相川さん、部長から『出社に及ばず』って言われたらしいんです」
「ふうん」
「それで出張から帰ってきても会社に出てこないんですよ」
「チーフとのいざこざって、別にいま始まったことじゃないだろう。部長も本気とは思えないな。どうせ酒も入ってたんだろ、売り言葉に買い言葉で言っただけじゃないの」
「私もそう思うんですけど、でも相川さんは、部長にそう言われたからって」
 おれは苦笑した。
「ほっとけば。そのうち仕事に響くから出てくるよ」
「だって今日はもう12月24日でしょ、今週は明日で終わりだし、来週は火曜日で仕事納めだし、それで出てこなかったら、来年はもう出て来れないんじゃないですか。このままずるずる辞めることになったら…。だから私、島本さんにお願いしてるんです」
「お願いって、何を」
「相川さんに話をしていただけませんか」
「ちょっと待てよ、おれが何で。加島さんが話してみれば」
「私もう言いました、何回も、何回も…以前からも、辞めたい辞めたいって相川さんがこぼしてるのを、何度もなだめて」
「知らなかった」
 香織はちょっと赤くなった。
「もう相川さん私の言うことなんかうるさがって聞いてくれないんです。ケータイも切られてるし、電話も留守電。それで私、社内の他の人にも頼んだんです、何人も。…でも、だめでした。島本さんなら、うちの課の中で一番経験あるし、相川さんも話をきいてくれるかもしれません。島本さんしか、もう頼める人いないんです。相川さんがいなくなったら、私……」
 おれは嘆息した。
 本音を言うとおれと加島香織はあまり親しい同僚とは言えなかった。
 彼女はいつもグループの中心にいなければ気のすまない性格で、一匹狼のおれとは別の人種だと思う。しかし裏を返せば、そんなおれにまで頼みこんでくるほど、相川の状態は悪いのかもしれない。

 相川弘毅は、1年前に河合部長にヘッドハンティングされて入社し、うちの課の課長になった。おれと同じ38歳だ。
 エンジニア出身の天才肌で、就任するなり大胆な新機軸を次々と発案したが、人間はプログラム通りに動かない。
 そこに部長が第2の男をヘッドハンティングしてチーフとして投入したから、話はややこしくなった。
 課長とチーフはことあるごとに衝突し、相川はそれを部長に訴える。そして告げられた「出社に及ばず」――。
 相川はそれを敗北と受け取っただろうか。
 その夜、就業後におれは香織に渡された住所のメモを胸に、電車に乗った。


 私鉄沿線の終着駅。
 改札を抜けると、暗い闇を背景にちらほら粉雪が舞っている。
 おれは駅のタクシーを拾って、運転手にメモを見せた。
 このあたり、と降ろされたのは外灯もまばらな住宅街の真ん中だ。
 しまった、詳しい地図を持ってくるんだった、と思ったがすでに後の祭り。
 一軒ずつ表札を確かめて歩こうとしたが、門灯のある家がほとんどない。
 家々の窓の明かりと僅かな外灯とをたよりに、まがりくねった路地から路地へ、めあての名字を探して歩いた。
 雪に風が混じってきた。視界が悪い。
 刺すような冷気が骨まで染み込んでくる。そういえば今日がクリスマス・イブだったことをおれは思い出した。
 相川は今ごろ何をしているのだろう。
 イブに誰かとよろしくやってるんじゃないか、そう思うと、自分がひどく馬鹿げたことをしているような気がしてくる。
 沈んでいたおれの視界に、突然極彩色のネオンが飛び込んできた。
「キャーハハハッ」
 ドアを開けたとたん、サンタの衣装をつけた中年のホステスと客らしい男たちが折り重なっている場面に遭遇した。
「…誰?」
 いぶかしげな彼らにメモを見せて、家を探しているのだと説明する。
「知らないわねえ」
 非礼を詫びて再び闇の中に退散する。ジングルベルが背中にかぶさった。
 もう一周あたりをぐるっとまわって、おれはとうとうその夜の探索をあきらめた。
 サンタクロースの職業を選ばなくて、正解だった。


 翌日は週末だった。
 おれの話を聞いて加島香織は落胆した。依然として相川とは連絡がとれない。
 午後になって、今夜もう一度行こうと思いながらデスクに向かっていたおれは、突然香織に河合部長のブースに引っ張り込まれた。
 香織がチーフを気にして声を低める。
「今、相川さんから部長あてに電話がかかってきて、誰もいなかったから私がたまたまとったんです。保留になってます」
 ラッキーだ。おれは電話に飛びついた。

「島本です。課長、ゆうべはご在宅でした?」
 おれは陽気な声を出した。
「え、どうして」
「おれ家まで行ったんですよ」
「…え?」
「夜9時ごろだったかな、でも暗くて場所がよくわからなくて」
「…そう、来たの、…家まで?」
「ええ、行きました。今日はいかがですか?家には?」
「私鉄の駅からじゃ遠かっただろう」
「はぁ」
「車でJRまで迎えに行くよ」
「いいんですか?」
「着いたらケータイに連絡頼む」
「わかりました。じゃ」

 おれは電話を置いて振り返った。
「加島さん、いっしょに行く?」
 香織は弱々しく首を振った。


 雪はまだやみそうにない。
「島本!」
 駅前のロータリーで相川がでかいワゴンから合図を送ってきたのを見て、おれはちょっと面食らった。
 案外元気じゃないか。もっと参ってるのかと思っていた。
 細身の眼鏡の似合う端正な顔立ちで、カジュアルな服装もきまっている。
 彼が女性社員に人気があるのもうなずける話だった。
「…何?何かヘンな顔してる?おれ」
「いえ」
 相川はスーパーの袋をたくさん積み込んでいた。
 慣れた手つきで裏道をくねくねと通り抜けて、あっという間に一軒の家の前に車を停めると、
 おれをせきたてて中に入る。
「せっかくだから、焼肉でもしよう」
 かいがいしく支度をする。どうやらひとり暮らしというのは本当らしかった。

 とりあえずビールで乾杯する。
 相川が焼肉をメニューに選んだのは正解だった。
 焼肉なら「あ、そこ焼けてる」「もっと火おとして」などと言い合えるので、
 会話が途切れてもそれなりに間がもつのだ。
 おれたちもその法則に従って、会話はのんびりと焼肉関係を中心にまわっていた。
「…で」
 とうとう相川がじれて言い出した。
「会社の方は…」
 おれは持ってきたメモを彼に渡した。香織のメッセージだと知ると相川はちょっと身構えたが、
 内容が単に仕事上の報告だとわかると、ホッとした顔になってうなずきながら目を通した。
「部長…どうしてた」
「部長なら、この間からたびたび課長の席まで来てうろうろしてましたよ」
「…」
「気にしてるんじゃないですか、あの人なりに」
 相川は、気の強そうな眉間に皺を寄せた。
「ああ、チーフにも訊かれましたよ、相川課長どうしてるのかって」
「…」
「チーフ、なんか張り切ってましたねえ」
「そう…」
 相川は黙った。

 おれに言えることは、他に何もなかった。
 相川は課長だ。おれの知らない事情なんて山ほどあるだろう。
 おれはただ部下として、加島香織やおれの気持ちを行為で表すために来たにすぎない。
 電話でもメールでもファクシミリでも済みそうな業務報告を、わざわざ遠い自宅まで届けに来る、
 今どきださいそんな浪花節が、相川のようなスマートなタイプには、案外伝わるかもしれないのだ。
 いや、伝わらなかったらしょうがない。
 香織には悪いが、頭をさげて辞めないで下さい、なんてとてもおれには言えないし。

「S社ではね」
 相川が突然言った。S社は彼がうちの会社に来る前に勤めていた上場企業だ。
「社内検定試験というのがあってさ…」
 彼はなつかしそうに語り出した。毎年何百人単位で受ける試験制度のこと、優秀なアイデアを出した部署に対して与えられる賞のこと、その栄誉を勝ち取るために夜を徹して制作したプレゼン…。

 38歳。人生の折り返し点を過ぎて、おれも相川も、もうがむしゃらに突進して成果を得られる歳ではない。
 しかしこれまで積み重ねてきたものが燻し銀のように輝き始めるのも、これからなのに違いない。
 過去の自分が、今の自分を支えている。くぐりぬけてきた多くの時間が。

 鉄板に投入する肉はとうになくなり、野菜は尽き、酒だけがくり返し注がれる。
 相川はとめどなく喋り続け、おれは時を忘れた。
 お互いに我に返ったのは、12時をとうに過ぎた時刻だった。

 トイレにたったすきにケータイを見ると香織からのメールが何本も入っている。
 リビングに戻ったおれに、相川はもう遅いから泊まって行けと誘った。
「…どうしようかな」
 おれは迷った。
「雪もまだ降ってるみたいだよ」
「え、そうですか」
 立ち上がって窓のカーテンを開ける。
 いつのまにか外はぼたん雪に変わっていた。
 大きな花びらのような雪が、静かに風に吹かれている。
 窓ガラスに映る相川の顔。
 ちりちりと音をたてて、おれはカーテンをひいた。

「課長、やっぱりおれ、帰ります。まだ電車あるし」
「…え」
「すみませんでした、遅くまでおじゃまして」
 相川はじっとおれを見つめた。
「…そうか、クリスマスだったな。悪かったな気がつかなくて。…これから、誰かと…」
「え、いや、そんなんじゃないけど、ちょっとね」
 整った顔が少しゆがんだ。
 相川は、ひきとめなかった。


 それでよかったのだと、今でも思う。
 おれはずっと以前から、相川のおれへの視線に気づいていた。
 なぜわかるなんて説明できない。おれも同類だからとしか言えない。
 
 だがおれにはルールがあった。職場には恋愛感情を持ち込まないと。
 ほんの少しでも仕事にプライベートが入るのは嫌だ。それがおれなりのプライドだった。
 だが、それでも、あのときもし、相川にひきとめられたら…と思う自分がいる。
 心の底でそれを望んでいる自分がいる。
 雪が降る。
 雪が降る。
 目の前が白くかすみそうなほど、あの男に欲情しているおれがいる。


 相川課長は翌週の月曜に、真新しいスーツ姿で出社した。
 おれも、香織も、ほっとした。部長も満足そうだった。
 年が明けて1ヵ月後、事業開発部に分室が新設され、チーフはその室長として任地に赴いた。
 昨年相川の提案したプロジェクトが徐々に結果を出し始めたのも、この頃だった。
 彼もおれも忙しい。あの雪の日のことはお互いに忘れたように思っていた。
 それでも…

 一度だけ、手を握られたことがある。
 ビルの8階から地下倉庫へ向かう薄暗い階段の踊り場で
 紙片を見せて報告をし始めたおれの手を、不意にひんやりとした掌が包み込んだ。
 おれは顔をあげる。
 チタンフレームの眼鏡の奥で、相川の瞳が震えている。
 濃密な視線に、おれは言葉を失った。
 そのまま、ひきよせられた…

 ふたつの体温が、混じった。胸板から発散するくぐもった汗と男の匂い。
 それだけだった。

   ……………

 おれは課長のデスクから目を離した。
 何を今更、センチメンタルな、と思う。おれたちに立ち止まっている暇はないのだ。
 現に、GW開けから取りかからねばならないプロジェクトがこんなに山積みじゃないか。
 長居をしすぎた。
 さっさと帰って、明日のために準備をしておこう。

 帰ろうとして鞄を持ったまま、おれはエレベーターの前で立ち止まった。
 IDカードがない。
 これがなければビルの外へ出られない。
 どこへ入れたんだろう。しゃがみこんで鞄の中をかきまわす。
 いくつものポケットを開閉して、仕切りの隅にやっと1枚のカードを発見した。
 待てよ…と思い直す。
 このカード、この前更新したのはいつだったかな。

 IDカードは最低月に1度、パスワードの更新が義務づけられていた。
 先月はした記憶がない。ちぇっ、また守衛室で煩わしい質問に答えなければならないのか。やれやれ。
 カードを尻ポケットに納めかけて、おれはまたヘンな気持ちになった。

 先々月は、更新したっけ…?

 しているのが当たり前だった。そうでなければ会社に入れない。
 それなのに更新した情景も、その時決めたパスワードも思い出せないのだ。
 何やってるんだ、連休の間にとうとう脳みそまでいかれたか。
 自分自身に毒づきながら、おれはカードを裏返して更新年月日の印字を見た。

     2000.4

 かすれかかった文字を見て、おれは初めて思い出した。
 おれは5年前に、この職場を去っていたのだ。




     ***   ***   ***

 雪のように白いシーリングが病室の天井を明るく照らしている。
 おれはベッドでぼんやりと目を覚ました。
 …夢を見ていたのだろうか。
 あのビルのフロアの匂いが、まだ鼻腔に残っている。
 電話、会議、スタッフのざわめき。
 プロジェクトであふれそうなホワイト・ボード。

 目を閉じると、午後の光の残像の海を
 白いデスクたちがゆっくりと出航していった。





第22話 ホワイト・ボード 了

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