奇妙な童話シリーズ■内藤更紗
天国のエレベーター


 その日、歳末商戦を控えたSデパート本店では、7Fのバンケットルームだけが華やかな光と喧噪に包まれていた。定休日を利用して各支店の関係者たちを集めた社内パーティーが行われているのだ。
 たまたま前の期の紳士服部門の売り上げが1位だった僕のセクションのメンバー全員が、ホテルつきで招かれていた。上京した僕たちは完成したばかりの地上50階のビルを見上げて眼をみはった。その半分までがSデパート本店だ。
 表彰式の後、立食パーティになった。
 誰かが持ち込んだカラフルなホッピングで、幹部連中が盛り上がっている。
「島内くん、島内くん」と課長からお呼びがかかり、僕はぴょんぴょんと器用にまわりながら跳んでみせた。
 歓声があがる。酔いがまわってきた。
 乱れた前髪の間から、ふと視界の端に同期の連中の姿が入った。
 少し離れた場所にかたまって、僕の方をちらちら見ている。
 (調子に乗りやがって)という冷ややかな目つき。
 僕は思わず横を向いた。
 ざらっとしたものが舌の奥にあたる。


 そろそろ帰れよ。失態しちゃまずいぞ。
 切り上げどきがかんじんだ。
 僕はそろそろ会話が尽き、空気が微妙にだれはじめてきた頃あいを見て、さりげなくその場を抜け出した。
 目立ちたくなかったのでわざと階段を一階下に降り、フロアの奥にあるメイン・エレベーターに向かって歩く。いましがたのざわめきが嘘のように遠ざかって、冷たい石の床に靴音がコツコツと響いた。
 不意に、ガラガラと頭の上で雷が鳴るような音がして、僕は飛び上がった。
 10メートルほど前の天井から、黒いものが音を立てて落ちてくる。
 向こう側が透けて見える目の粗いネット状のシャッターだ。
 あわててあたりを見まわすと、広いフロアの3箇所の天井から一斉にシャッターが降りていた。
 嘘だろ。
 思うまもなく、ガシャンと金属が床に当たって、僕はシャッターの間に閉じこめられた。



「もう、…あんた、D大卒?」
 背後からいきなり声がした。驚いて振り向くと、清掃の制服を着た小熊みたいなおばちゃんがモップ片手に僕をにらんでいる。
「いや、違いますけど」
「じゃ、K大卒? あいつらときたら、中にいる者のこと考えないで、時間が来たらさっさとシャッターを降ろしちまうんだから。文句言ってもふふんって笑って、人の話を聞かないんだよ」
 そうまくしたてて、ぶりぶり怒りながらショーケースの向こうに歩いていく。
 僕はあっけにとられておばちゃんの消えた先をしばらく見ていた後、気を取り直して、一番近い中央のシャッターに向かった。
 真横の壁を注意深く調べる。
 このタイプのシャッターは僕の勤めている支店にもあって、僕は「内緒やで」と課長から教えられたことがあったのを思い出したのだ。
(あった)
 しゃがみこんだ高さに、よく目をこらさないと見分けられないほど小さな突起が見つかった。
 指で押すと、バネで扉が開く。その中にハンドルがあった。
 僕は手動ハンドルをキイキイとまわしはじめた。


 中央のシャッターをくぐり抜けた後、僕は端のシャッターも開けることにした。
 そこを出るとシースルーエレベーターに乗れるのを知っていたのだ。シースルー自体は別に珍しくないし、第一このエレベーターは30階以下ではビルの外壁に隠れていて景色も全然見えないんだけど、せっかく来た本店ビルだし、行きと同じルートでそのまま帰るのも味気ないという気がしていた。
 人ひとりがくぐれるくらいの高さまでシャッターを上げた時のことだ。
 近づいてくる足音に振り返ると、売場の制服を着た女の人がほっとしたように僕を見ていた。
 細面の白い顔に、きっちりと分けたワンレングス。
「よかった。シャッター、開いたんですね」
 この人もさっきのおばちゃんみたいに閉じこめられたらしい。やれやれ、K大卒の警備員は減点だぞ。
 僕はにっこり笑ってシャッターをくぐり、エレベーターのボタンを押した。
 一基がゆっくりと昇ってくる。
 表示板の「6」のランプが点灯すると、すぐにドアが開いた。
 手でドアを押さえながら、ほら、と振り向いて女の人をうながす。
 彼女はあいまいな微笑を浮かべ、いいですというように手を振って、後ずさった。
 なんだ。
 警戒されたのかな。親切で誘ったのに…
 僕はなんとなく憮然としながらエレベーターに足を踏み入れた。
 背後で静かにドアが閉まった。



(へえ…)
 僕は箱のなかを見回した。 
 三方が透明なガラス張りだが、今はコンクリートの壁に囲まれて、あかりといえば天井だけだ。それに、何しろ狭かった。デパートでこんなに狭いエレベーターは珍しい。6人も乗れば息苦しくなりそうだ。普段は上階のオフィス専用か、あるいはデパートが補助的に使っているものかもしれない。
 羨ましいな、とついため息が出る。僕のいる支店では予備のエレベーターなんかなくて、従業員はひとつしかないバックヤードのエレベーターをいつも押し合いながら使っているのだ。
 箱の奥にはルイ14世風のクラシックな肘掛け椅子まであって、まるで個室みたいだった。
 でもすぐ降りるだけだからな、と思い、そこでようやく、まだ階数ボタンを押していないことに気がついた。
 何やってるんだ、酔ったかな。 
 僕は指を伸ばした。
 数字の書かれた小さいボタンが虫の卵のようにぴっちりと並んでいる。それに暗くてよく見えない。僕は何度も眼をしばたき、震える指でやっと1階を押した。
 ガクン、と箱が揺れ、エレベーターは上昇しはじめた。
 まずい、1階のつもりで11階を押しちまった。「11」のランプが点灯している。
 しょうがないな。
 いったん昇ってからまた降りるしかないか。
 僕はやれやれとルイ14世の椅子に身を預けた。やわらかくて、程良いクッション。
 パーティの疲れがいっきょに押し寄せてくる。
 僕は瞼を閉じた。
 何かヘンだと気がついたのは、しばらくしてからだった。
 いつまでたっても、11階に着かないのだ。


 このエレベーターには、普通ドアの上にある階数表示がなかった。だから今、どこに箱がいるのかわからない。それでも、6階から11階に昇るのにこんなに時間がかかるはずはなかった。
 僕はもう一度、目をこらして虫の卵を見た。いつのまにか「11」のランプは消え、一番端の卵が闇の中で虹色に輝いている。
 「51」階のランプだった。
 
 

 51階?
 僕の全身から血の気がひいた。
 僕は高所恐怖症だ。高い塔やビルはおろか、足元が透けて見える階段でさえマジで怖くて昇れない。子供の頃は鉄棒にもジャングルジムにも近寄れなかった。おまけに心臓も丈夫じゃない。
 その僕が、よりにもよってこの椅子に座ったまま、高速で51階まで昇っていくのか?
 30階以上は透明になり、抜けるような冬の青空に向かって、弾丸のように投げ出されて―
 脂汗がにじんだ。思わず胸をぎゅっとつかんで心臓をガードする。
 心臓は後頭部にまわってハンマーのようにガンガン鐘をついている。
 ガンガン。ガンガン。目がかすみそうだ。
 立てない。
 何者かに暴力で押さえつけられたように、僕の全身が硬直していた。
 エレベーターが加速する。
 箱は吸い込まれるように天に向かって疾走する。


 昇りつめたら、墜落しかない。
 僕は落ちるのだ、この箱と一緒に。
 僕はこなごなに壊れるのだ、
 この透明なガラスの棺と一緒に。


 きゅうっと胸が絞り上げられたように痛む。
 こめかみの動脈が破裂しそうだ。
 誰か、誰か、誰か。
 悲鳴はかすれて声にならない。
 誰か、誰か、助けて。
 ウィーン…鳥の啼くような甲高い音。
 箱はさらにスピードをあげる。
 僕は目を閉じた。
 天空は目の前だ。


 不意に、ガクガクッと箱が大きく揺れて、止まった。
 僕はつむっていた眼をおそるおそる開けて、あたりを見る。
 上の方から明るい光が射しているが、周囲の壁はまだコンクリートだ。
 …どうやら30階まで行かないうちに止まってくれたらしかった。
 良かった―
 僕は全身の力が抜けて、再び椅子にへたり込んだ。
 頭のなかがまっしろだ。ネクタイをゆるめ、何度か深呼吸をして、やっと動悸が鎮まった。
 今のうちに1階のボタンを押しておこうと立ち上がりかけたとき、箱がブルッと小刻みに揺れて、僕はドスンと椅子に尻餅をついた。
 そのまま、エレベーターはゆるやかに下降をはじめた。


 あっけにとられて肘掛けを握りしめていた僕は、ふと、指の腹に何かあたるものを感じた。
 精巧な彫刻の一部分に、微妙な段差がついている。
 よく見ると、そこには小さな引き出しがはめこまれていた。僕は中を開けた。
 誰がこんなところに隠したのだろう。
 僕の手のひらには、紅白の紙に包まれたミルキーが二つ、乗っていた。



 エレベーターはなめらかに降りていった。
 6階付近では、シースルーの箱の中から、別のエレベーターの前でたくさんの人が待っているのが見えた。
 こっちへまわればいいのに、でも建物の端まで歩くのが面倒なのかもしれないな、と僕はぼんやり思った。
 5階で、また箱はガクンと止まった。そしてそのまま、今度は水平に―
 列車のように水平にレール上を走り始めた。
 ガラスごしに灰色のビルの内壁の景色が続き、その後何度か直角に曲がってから、不意にトンネルから抜けるように、ガラスの箱全体にまぶしい陽光が射し込んだ。建物の外縁のテラス部分に出たのだ。
 箱は遊園地の観覧列車のようにテラスのまわりを一周して、また建物の中にもぐった。斜め下だ。長いスロープを下ったあと、勢いよくデパートの裏口を飛び出して、線路に導かれるままにゴトゴトと隣の敷地内に入り込んだ。下がコンクリートから地面に変わった感触があった。
 隣地は広い植木屋のようだった。街路樹の苗木が植えられているなかを縫うようにして土手がつくられ、線路が走っている。二度、ガクンガクンと直角に曲がってから、箱は突然止まった。
 椅子から立ち上がって見てみると、線路が途中で切れている。まだこの先は工事中とでもいうかのように、箱は所在なげにたたずんでいた。
 僕はあわててまわりをみまわす。
 途端に、誰かと眼があった。
 10メートルくらい先の温室に、植木の鉢に囲まれた中年の男が険しい目つきで僕を見ていた。
 僕はエレベーターの扉に手をかけてみた。力を入れると、なんとか開く。
 箱の外に出てすべりそうになりながら土手を下り、温室に向かった。
 男はもうひとり増えて二人になっていた。
「あの、…あのエレベーターできたんですけど、どこへいけばいいんですか」
 改装中のデパートなどでは、エスカレーターを順にたどって進んだら、途中で不意にその動線がとぎれることがよくある。大抵フロアの少し先のエスカレーターに乗り換えて目的階まで進むのだ。だから僕も、僕の乗ってきたエレベーターをどこで乗り換えればいいのか、訊こうと思ったのだ。
 二人の男はむっつりと僕を見下ろしている。
「あの…だから」
 僕はもう一度説明しようとして、線路のある土手を振り返った。
 とたんに、冷水を浴びせかけられたようにすべての思考がストップした。
 エレベーターが消えていたのだ。


 僕はどうやってその場を退去したのかよく覚えていない。
 デパートの裏手の山と積まれた段ボールの横を通り、ぽつぽつと灯のつきはじめた街灯の下を歩きながら、僕はまだ放心状態だった。
 今起きたことは、一体何だったのだろう。どう考えてもわからなかった。
 一服しようとポケットをさぐった僕の手に、硬いものがあたった。
 ミルキーだ。
 無意識の内に持ってきてしまったのか。
 僕は苦笑して、その丸い粒を口の中に放り込み、奥歯で噛んだ。
 乳臭くて、甘ったるい味。


 僕は不意に、思い出した。
 小さい頃、体が小さく弱かった僕は、よくみんなからいじめられたこと。
 ミルキーを食べていると女みたいだと言われてはやしたてられたこと。
 ジャングルジムに無理矢理あげられてべそをかいていたときにいつも助けてくれた友だちがいたこと。
 あいつは、転校していった先で、親と一緒に海に沈んだ。
(おれもミルキー、好きだよ)
 ぶっきらぼうに言った、そんな言葉しか覚えていない。
 昔は僕にも、そんな友だちがいたのだ。


「ばか」
 おまえだったら51階でも61階でも、僕は嫌と言わなかったのに。
 なんで途中でとめたんだ。
 僕は甘ったるいミルキーをしがみながら、下界のネオンの海に呑まれていった。





天国のエレベーター  了 

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