奇妙な童話シリーズ■内藤更紗


ケヤキ

ケヤキ




 その春 僕が目を覚ましたとき
 僕は図書館の前庭に立つ
 ケヤキのやわらかな葉っぱだった
 毎日太陽をいっぱい浴びて
 兄弟たちと一緒にすくすく育った
 ほんの少しの風が吹くと
 僕たちは喜んでさわさわとしゃべった


(ねえ、あいつ、よく来るね)
(ああ、あの、白いポロシャツのやつ?)
 僕は思わずどきりとする
 この前そいつはすぐこの下で
 まぶしそうに空と僕とを見上げたのだ
 鼻筋の通ったきれいな顔だち
 水のように澄んだふたつの瞳
 僕はなぜかどきどきして
 風もないのに身を震わせていた


(あいつ、マツキっていうんだよ、おれ知ってる)
 僕の隣の葉っぱがいばる
(え、それ、僕たちのなまえに似てるよね?)
(バーカ、ただの偶然だろ)
 偶然でもいい
 マツキ、マツキ
 僕は何度も胸のなかで繰り返した


 マツキは週に二度、僕たちの樹の下を通った
(図書館に通ってるのさ。ここ、新しいし本も多いし)
(調べものでもしてるんじゃない?)
 調べものなんか 終わらなければいいな
 ずっと彼が来るといいな
 初夏の陽射しはぐんぐん強くなり
 僕たちの肌はきらきらと光る


「なぁ、この樹、なんていう樹かな」
 急に耳慣れない声がした
 赤いキャップをかぶった男が僕たちの樹の幹をさわっている
「桜じゃない?」
 マツキが答える
(ええ? マツキ、それはないよ!)
「違うよ、絶対桜じゃないって」
 赤キャップは自信ありげに言い切る
 マツキは困って、下の方の葉を1枚もぎ取り
 ふたりはそのまま図書館のなかに入っていった
(マツキ、そいつは誰?)


 夕陽が僕たちの頬を赤く染める頃
 ふたりは笑いながら建物から出てきた
「な、だからおれの言ったとおりだろ?」
「僕が事典で調べたからわかったんじゃないか」
「よくいうよ、桜とケヤキの区別もつかなかったくせに!」
「好きな樹の名前も知らなかったくせに!」
 じゃれあいながら樹の下を通り過ぎる


 そうだよ、マツキ、僕はケヤキだ
 だけど、マツキ、そいつは誰?
 どうして僕を通り過ぎるの?
 どうしてそんなに笑っているの?
 君は一度だって
 僕の前でそんな笑顔を見せてくれなかったくせに


 じりじりと身を焦がすような真夏の間
 マツキたちは一度もここに現れなかった
 僕たちはろくすっぽ水も飲めずに半死半生でうめいていた
 喉がからからだ 目がかすんでいく
(もう少しだ、頑張れ)
(もう少しで暑さがやわらぐ。しのぎやすくなるんだ)
 でも、しのいだからって、何になるんだろう
 彼はもういない
 彼はもう行ってしまったのに
 目を閉じて眠ろうとした僕の身体を
 涼しい風がすうっと撫でていく
 夏がいつの間にか通り過ぎて
 季節は秋になっていた


「松樹!」
 大きな声で僕は飛び起きた
 赤いキャップの男がマツキを幹に押しつけている
「マジか?どうして急にそんなこと言い出すんだ」
「だから…どうにもなんないだろ?」
「何が」
「これ以上、つきあってても」
「どうして」
「落ちていくばかりだ」
「落ちていく?」
「だから、…奈落の底へ」
「奈落の底?」
「ずっと、ずっと、僕は君を待つことしかできない
 僕には出口がない 
 毎日少しずつ、少しずつ落ちていくんだ
 もういやだ 落ちるのは、もう、いやなんだ」


 マツキを押さえつけていた男は手を離した
 じっとマツキを見つめている
「おまえ、それでいいのか」
 そいつが言った
「それでいいんだな」
 マツキは黙っている
「松樹…」
 男はため息をついた
「答えるのも、もういやか」
 口元がゆがんだ
「…わかったよ、ごめんな、いやな思いさせて」
 男はキャップをかぶり直した
「じゃ」
 男の姿が完全に見えなくなったのと、マツキが泣き出したのが同時だった


「…裕…」
 マツキの目から涙があふれる ぼろぼろ ぼろぼろ頬を伝って落ちる
 しゃくりあげながら幹に顔をすりつける
 涙が樹のなかを伝わって 僕たちの葉脈に染み通る
 熱い、熱いマツキの涙が僕たちの身体中をかけめぐる
「裕、裕、裕…」


 マツキ 泣くな 
 僕がここにいる、僕がここにいるよ
 気がついて マツキ 僕に気がついて
 僕は身をよじる 僕は地団駄を踏む 僕は絶叫する
 でも僕の声は届かない
 ケヤキの全身がざわざわと揺れる
 マツキに手を伸ばそうとあちこちの枝が 葉が震える
(マツキ!)
(マツキ!!)
(マツキ!!!)


 やがてマツキは涙を拭くと 僕たちに背を向けて歩き始めた
 バタン、と車のドアが閉まる
 彼は振り返りもせず、遠ざかっていった
(マツキッ!!!)
 そのとき
 彼にいちばん近い枝の葉が
 ぷつん、と彼を追うように 風に身をおどらせた


 ひらひら、ひらひら
 葉は折からの風に乗り
 何も言わずに舞い落ちて 静かに地面に横たわる
 僕たちは恐怖で凍りついた


 とうとう冬がやってきたのだ


 一葉、また一葉と
 僕たちは地面に墜落する
 真っ青な空から真っ黒な地面へ
 枝から手を離せば最後
 待ち受けているのは奈落の底だ
 もう動けない もう歌えない
 もう何を感じることもできない暗黒の闇


(落ちていくばかりだ、奈落の底へ)
(もういやだ、落ちるのは、もう、いやなんだ)
 マツキがあんなにも怖がった奈落の底へ
 僕は、今日ダイブする


(じゃ、元気でね)
 僕は隣の葉にあいさつをする
(ああ、後から行くよ)
(お先にね)
 同じ春に生まれた兄弟
 あの初夏の風のなかでさわさわとしゃべったり、はしゃいだり
 あの夏の酷暑をともに乗り切ってきた僕たち
 どの顔も忘れない
(さよなら)
 僕は目をつぶって、枝から手を離した
 ふわり、と身体が宙に浮いた


 景色が通り過ぎる
 風が記憶を切り裂いていく
 思いは果てしない時間の向こうに行ってしまったかのように不確かだ
 そして永遠と思われた時間が ふいにふっつりと途切れる
 僕は背中に軽い衝撃を感じる
 地面に着いたのだ


 僕はそろそろと薄目を開ける
 目の前にそびえ立つ太い大きなケヤキの樹
 半裸の枝葉の間からこぼれ落ちる今日最後の落日の光
 金色の光の洪水
 なんて綺麗な奈落の底だ


 もし僕が生まれ変わったら
 今度こそマツキに言ってやろう
 大丈夫 奈落の底は怖くなかったよ
 落ちることは怖くないよと
 はじめて僕は君の役にたてる
 だからこの一生は無駄じゃなかった
 僕は君へのお土産をポケットに入れて
 まためぐり会える日を楽しみに待とうと思う


 ねえ マツキ
 君にいつか話す日が来るだろうか
 真冬の澄んだ大空に腕を広げる一本のケヤキの樹と
 その根元に重なりあって落ちている
 みすぼらしい小さな枯葉たち そして
 僕がその枯葉であった
 とても幸福な一生のことを





枯葉
ケヤキ  了 



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