月夜 内藤更紗
月夜
月 夜


 玲とふたりで暮らしはじめて、ひと月がたった。
 僕たちはこれまでの別離の時を大急ぎで取り戻そうとするかのように互いに求め合い、愛し合い、貪り合って、なお飽くことを知らなかった。
 彼の身体がゆるやかに--変わった。
 まだ青い麦の穂にも似た、つんとした硬さを残していた肢体は愛撫を重ねるたびにやわらかく熟して、花びらが開いていくように未知の扉を開けていった。それは彼自身にとっても驚くべきことだったに違いない。陶酔の波は深く、甘く、激しい奔流となって玲を襲う。全身を羞恥に震わせながら彼はその波に身をゆだねた。
 午後のやわらかな光がたゆたうなか、僕たちは何も着けずに眠るようになった。肌寒さを庇うためにフランネルや麻やコットンなどの白い布を重ねる。手触りの異なる布を一枚ずつ薄皮を剥ぐように開いていくと、そのいちばん奥に、それまでのどの布よりも白く、どの布よりもなめらかな、水蜜桃のような玲の肌が現れるのだった。
 やわらかな肌は、しかし女の肌ではない。マシュマロのようにどこまでも深く沈んでゆく女の身体ではなく、薄い脂肪の層の下にしなやかな筋肉を隠した、弾力のある男の肉体だった。全体に細いが、痩せすぎてはいない。ほどよく肉のついたなめらかな隆起の胸の上の首は長く、小さな頭が続いている。全身が優美な曲線でかたちづくられていた。たったひとつの破調--筋肉のそげた細い左腕さえ、完璧な調和をわざと乱してより高い次元の美をつくるために、敢えてそうしたのではないかと思わせるほどだった。
 玲は--美しくなった。毎日見ている僕でさえぞくぞくするほどに。以前から端正な顔立ちだったが、今は--何というか、天上から光が落ちてきたように輝いている。いきいきと動く深い色の瞳、くっきりした二重瞼、細い鼻梁の下の薄い唇、細いあご・・・・。動き、笑い、たたずむたびに--思わず見とれ、見とれたら最後、もう永遠に目を離すことができなくなりそうな美貌だ。
 生活は快適そのものだった。幼い日からひとつ屋根の下で暮らしてきたのだ。
お互いの日常の癖は知りつくしていた--ベッドの中以外は。玲は僕や葉子の面倒をみてきた時と同じように家事を難なくこなし、料理の腕をふるって僕の帰りを待った。僕は昼過ぎに青果市場の勤務を終えると、飛ぶように家に帰る。玲の手料理を楽しんだあと屋根裏部屋にあがって抱き合い、ここちよい午睡へと落ちてゆくのだ。くちづけ、愛撫、絶頂、陶酔・・・・肌と肌をぴったりつけ、抱き合ったまま玲の匂いの中で目を閉じると、頭の芯が溶けていきそうなほど幸福だった。
 僕が近頃めっきりつきあいが悪くなったというので、職場ではいろいろな噂が飛びかっていたようだ。親がわりの斉藤のおやじさんには玲のことを話してあったが、彼自身、他の職員にどうやって説明したものかわからないのでダンマリを決め込んでいる。実際、僕が玲と、兄弟ではなく恋人として暮らすのだと言ったときの、おやじさんの顔は忘れられない。メデューサに出会った人間のように固まって石になってしまい、解凍するまでゆうに三分はかかったと思う。
「--今度、職場の人たちを連れておいでよ。ご馳走つくるから」
 玲が片手で器用に洗いものをしながら、言う。
「君が世話になっている人たちなら、あいさつもしたいしさ」
「僕はいいけど--でも」
 玲がオトコオンナ、とか、オカマ、という目で見られるかもしれない。それは絶対嫌だった。
「--大丈夫だよ」
 玲はくすっと笑った。
「言っただろ、--僕は一匹の雌犬でいいって。僕は僕だから、見たままを知ってもらえばいい」
 はい終了、と、彼は水栓をキュッと捻った。





 招待客は結局三人だった。斉藤のおやじさん、おやじさんの母親である里美おばあちゃん、それから同僚の木村俊男。他の連中は興味津々のくせに、いざとなると腰がひけたらしい。俊男は同僚のうちでもいちばん気の合うやつで、以前から何かと相談を持ちかけたりしていた。玲に会ったことのあるのはおやじさんだけである。
 当日の夕刻、彼らを乗せた車は予定より三〇分も早く到着した。僕がおばあちゃんを車から降ろす。思ったより古い家なので三人とも驚いているようだった。
「まあーあ、これならうちのアパートの方が、まだ・・・・」
 大家歴四〇年のおばあちゃんの鋭い目が、貸家を子細に検分しかかったときだ。
「--初めまして」
 玲が玄関の扉から出てきて、客を迎えた。
 おばあちゃん、俊男、--おやじさんもが思わず足を止め、目を見張った。
 夕暮れにはまだ間のある、おだやかな陽射しを浴びて玲が立っている。
 マスタードイエローのシャツにブラックジーンズという軽装。やわらかくウエーブのかかった髪。涼しい目もと。気品のある微笑。
 --僕でさえ、思わず息をつめてしまった。
 玲は視線の集中砲火を浴びて、ちょっと赤くなりながら言葉を継いだ。
「--藤坂玲です。よくいらっしゃいました・・・・どうぞ」



 テーブルの中央に置かれた電磁調理器の上でぐつぐつと大鍋が煮えている。今日のメニューは、何と「おでん」なのだった。里美おばあちゃんのリクエストだ。和洋中、何でもござれの玲の腕前をよく知っている僕としては残念としか言いようがない。「簡単なものをって、気を使って言ってくれたのかもしれないね」などと玲は言うが、おばあちゃんはそんなタマではないのだ。
 とにかく、おやじさんの持ってきた地酒でまず乾杯、になった。玲が各自の皿におでんを取り分ける。右手で皿を鍋近くに寄せ、同じ手でお玉を使うのを見て、おばあちゃんが早速口をとがらせた。
「玲さん--でしたっけ。怪我でもしてなさるの」
 玲がさりげなく答える。
「行儀が悪くてすみません--ちょっと事故で、左手が使えないものですから」
 大根と--厚あげからでいいですか、と続ける。
「それはまた--事故って、どんな--」
 おやじさんが、よせよばあさん、と肘でつつく。
「神経が切れて--手術で繋がったんですが、動かすことができないんです。動かしていないと筋肉が落ちて--骨に皮がくっついてるみたいになって見苦しいので、いつも左手だけ手袋をしています。暑苦しくて申し訳ないんですが」
「玲さん、--でも料理とかそれでちゃんとやってるって、えらいですよ--俺なんかだったら両手あったってできないや」
 俊男が急いでフォローにまわる。玲がほほえむ。
「だから、右手は両腕分の力がついちゃって。--木村さん・・・・でしたよね、後で腕相撲しましょうか、何か、賭けて」
「おい、卓也--玲さんって、強いのか?」
 僕は彼らの間では、卓也、と呼ばれている。
「俊男じゃ勝負にならないな」
「あっそんな--」
「--おいくつでしたっけ、玲さん」
 おやじさんがのっそりと口を挟む。
「二十五です・・・・徹--いや、卓也よりひとつ上になります」
「お仕事は--亡くなられた親御さんの会社を・・・・」
「はい--今は少し休暇をもらってますが」
「そりゃ、宮崎から神戸までは通えないですもんねっ」
「--しかし--なんでまた、わざわざ、ここへ・・・・」
 玲は、ちょっと、つまった。
「おやじさん、玲は、僕が頼んで来てもらったんです--僕が・・・・」
 僕も、つまった。
 場が沈黙した。
 玲は席をはずして、キッチンから茶碗蒸しを運んできた。--各自の前に置きながら、答える。
「卓也と一緒に暮らしたくて、来ました。--彼と僕とは、兄弟として育ちましたが・・・・今は、兄弟だとは思っていません」
「--嫁さんがわりってわけ、卓也の・・・・」
 玲は落ちついた声で答える。
「どちらがどちらの嫁さんでもありませんが、伴侶という意味なら、そうです」
「--伴侶--ね--」
 おばあちゃんはもぐもぐと茶碗蒸しを食べる。
「わからんのう・・・・あんたみたいに男前で、女の子にもてないわけでもないだろうにね・・・・」
「そりゃ、好いた惚れたには理屈はないだろ、里美おばあ--里美さん」
 俊男が援護射撃にまわってくれる。と、思ったら--
「卓也は玲さんが自分の兄さんだって思い出す前から好きだったんだから」
「なにい?」
 おやじさんが目をむいた。お鉢がまわってくる。
 こら、俊男、バラすなよ、玲にだって言ってないのに・・・・
「--ほら、玲さんが家族の人と一緒にここへ来たことがあったでしょ、卓也が、行方不明の玲さんの弟--徹さんだっけ--じゃないかって、調べに」
「ふん、ふん」
「それで白黒もまだつかないうちに、卓也が玲さんに参っちまって」
 玲が目を見開いて僕を見る--僕は耳まで赤くなった。
「昨日は藤坂さんと一緒にバイキングにいった、今日は藤坂さんと一緒に泳ぎに行くんだって、もううるさくってさ--はしゃいでるかと思えば落ち込んで・・・・」
「俊男--いいだろ、もうやめろよ・・・・」
「--なんで落ち込むんだ?」
「それがね--もし僕が徹さんなら、僕は兄さんが好きってことになる。もし僕が徹さんでないのなら、藤坂さんは赤の他人の僕と、もう会ってはくれないだろう・・・・今の僕がいくら藤坂さんを好きでも、藤坂さんは僕の中に弟の徹さんの面影ばかりを追っていて、僕自身を見てくれない・・・・」
 場がちょっと、しん、となった。
 僕は身の置きどころがない。頬に玲の視線を痛いほど感じた。
「玲さんたちが、卓也は徹さんじゃないっていったん結論を出して神戸に帰った夜、こいつ荒れて荒れてさ・・・・」
「俊男--もう・・・・」
「--だけど、結局、卓也の記憶が戻って、卓也が徹さんだ、とわかったんだろう?」
 おばあちゃんが僕を遮った。
「そうだ--卓也、おまえ、そういえばどうして、記憶が戻ったんだ?」
 おやじさんが追求する。
 僕は窮地に陥った。
 --誰にも--玲にさえ--話したことがなかった--
 --でも、いつかは--話さなければならないことだ・・・・
 全員の視線が僕に集まった。
 僕は意を決して、口を開いた。





「おばあ--里美さんが風邪をひいて、お見舞いのリンゴを剥いてあげたことがあったでしょ?」
 僕はおばあちゃんをちらっと横目で見て、話を続けた。
「普段はまるかじりするから、皮なんて剥かないんだけど--」
 玲の顔色が変わった。--わかったね?玲。
「果物ナイフを--」
「やめろ!徹」
 玲が叫んだ。みんなが玲を見る。--顔が真っ青だ。
「果物ナイフを握った感触で--その夜--思い出したんだ--僕が玲を--」
「言わなくていい!」
「--玲をナイフで刺して、行方をくらましたんだ」
 --言えた。・・・・やっと、言えた。
 僕は玲を見て、ほほえんだ。
 玲は--震えている。
 おばあちゃんも、おやじさんも、俊男も--凍りついていた。
 無理もない--僕は人を刺した男なんだ。
「そうやって逃げる途中で、記憶をなくしたらしい--気がついたら宮崎に来ていて--おやじさんに、拾われた--それから後は、卓也として、ここで・・・・」
「--嘘だろ、卓也」
 俊男がひきつった声で笑った。
「おまえが玲さんを刺せるはずがないじゃないか・・・・冗談もほどほどにしろよ」
「僕はそのときから玲が好きだったんだ。でも、兄貴だからって、自分で自分の気持ちを押し殺してた。僕は--訳が分からなくなって--玲を刺した。--玲の左腕が動かないのは--その時の怪我で神経を切ったせいで・・・・」
「徹、神経は完全に繋がってるんだ、だから--心因性のものなんだ、僕自身の問題なんだ、動かないのは・・・・斉藤さん、里美さん、木村さん--わかってください。怪我といっても--徹が言うほど大したものじゃない、刺したなんて大げさな--ちょっとかすめただけの、よくある兄弟喧嘩なんです。たまたま僕の心が弱かったせいで--徹、いや、卓也は--」
「卓也はやさしい子だ」
 おばあちゃんがぽつりと言った。
「あたしが発作で倒れたとき、必死になって世話をしてくれた。--こんなにやさしい子はいない。本当にいい子だ・・・・その卓也が刺すほど思いつめたんなら--それほど好きだったということなんだろう、かわいそうに・・・・玲さん、あんたも--そんなに卓也をかばってくれるのは・・・・卓也のことを--その・・・・」
「僕も--同じ気持ちです」
「--だってさ、卓也」
 おばあちゃんは僕を見て、しわしわの顔で笑いかけた。
「よかったねえ」
「おばあ--里美さん・・・・」
 僕は柄にもなく胸がキュッとなった。
「まあ、何にせよ相思相愛ってことで--そうだよな、ふたりがそれでいいってんならナイフくらい、ちょっとハードなSMだと思や」
「--何だい、そのエスエムって」
「いてっ」
 おやじさんが俊男の横腹をつねった。
 玲が笑った--笑いながら、僕と目が合った。
 --ほんの数秒、万感の想いのこもった視線が絡まり合った。
 玲は目をそらし、みんなに笑いかける。
「--お酒の新しいの、持ってきます。どんどんやってください。--胡麻豆腐もいかがですか?」
 玲がおやじさんにお酌をする。おやじさんは緊張して、もっと赤くなった。
「--きれいだね」
 俊男が僕に小声でささやく。
「俺、あんなきれいな人初めて見たよ--卓也から話聞いてた時は女みたいな人なのかなって思ってたけど・・・・全然、女っぽくない。男にしか見えないのに--きれいだ。--なんか、すごく不思議な気分だ--卓也、あのさ・・・・」
 俊男はさらに低い声になった。
「--寝てるの・・・・?あの人と」
「寝てるよ」
「--どんなの?」
「どんなのって?」
「だからさ--あの人が女役、なんだろ」
「玲は両方」
「え・・・・じゃ、卓也は?」
「同じく」
 俊男はぎょっとして僕から身を離した。
「そういうの--ありなのか」
「ありだよ」
 僕は笑った。
「でも、僕は玲だけなんだ。こんな気持ちになるの・・・・どっちだっていいんだ、相手が玲なら--」
 俊男が呆れて、黙り込んだ。
 目の前で黙々とご飯をかき込んでいたおばあちゃんが、にやっと笑った。





「ごちそうさまでした」
「また、いらしてください」
 あいさつの言葉が行きかった後、僕はおばあちゃんを車に乗せた。
「卓也」
 おばあちゃんが僕の耳をひっぱって、口を近づける。
「--口惜しいけどさ、里美さんの負けだ」
「何が?」
「何がって--あの料理」
「--おでんが?」
「そうさ・・・・おまえにはただのおでんに見えたかい」
「--」
「あの出汁のうまいこと。大根の隠し包丁、厚あげの油ぬき、じゃがいもの灰汁とり・・・・これっぽっちも手を抜いてない。・・・・茶碗蒸しもそうだ。ご飯の炊き方も。--極めつけは、胡麻豆腐--あれは手づくりだね、手で擦ったいい香りがした・・・・あれをつくるのに、おまえ何時間かかるかわかるか」
「--」
「おまえが男なんかを好きだなんて聞かされてさ、どんなオカマがあたしのかわいい卓也をだましたんだって、化けの皮を剥がしてやるって思って乗りこんだんだ、今日は・・・・でも、卓也、あれじゃあさ--」
「里美さん--玲はオカマじゃないよ--僕は玲のこと、女だなんて思ったことは一度もない。僕が男であるのと同じで、玲も男なんだ。男の玲が好きなんだ。男の玲じゃないと、だめなんだ」
「・・・・わかってる。よおくわかったよ、--だから言ったろ、里美さんの負けだって。--何度も言わせるんじゃないよ。・・・・おいしかったって、言っといとくれ」
「・・・・うん。また、おいでよね、--里美さん」
 おばあちゃんは顔中をしわくちゃにした。



 車は夜道を遠ざかっていく。
 エンジンの排気音も聞こえなくなるまで、僕はぼんやり立ちつくしていた。
「--徹」
 静かな声が背後に響く。僕の肩に手がまわされた。
「満月まであと三日--ってところかな」
 中空に冴え冴えと月がかかっている。僕は玲の横顔を盗み見た。
「--おいしかったって・・・・おばあちゃんが--玲・・・・今日は・・・・」
 玲はちらっと僕を見た。
「--泣き虫」
 そして僕を引き寄せて接吻し、軽く抱き締めながらささやいた。
「今夜は僕が--抱いてもいい?」
 ふふ、と短い笑い声。
 僕たちは月夜の庭を横切って、ふたりだけの巣に戻っていった。





「--寒くない?」
「ううん--どこまで入った?」
「・・・・いちばん奥まできたよ--大丈夫?」
 僕は大きく息をついた。
 緊張した一日のせいだろうか、身体が硬い。玲を受け入れるのにひどく時間がかかってしまった。玲はゆっくり僕を押し開き、ていねいに愛撫した後で僕の両膝を割り、できるだけ慎重に入ってきたのだが--めりめりと生木を裂かれるような激痛。巨大な怪物が僕の下半身にぱっくりと喰らいつき、獰猛な牙で内臓を喰い進んでくる。近づいてくる、近づいてくる、身体の芯まで--痛い--ああ・・・・
 僕の全身は汗だらけだ。緊張のあまり痙攣がとまらない。膝ががくがく震え、股関節がしびれている。初めてのときよりましだ、と必死で自分に言い聞かせる。身体の中心がどくん、どくんと脈打っている。心臓が移動したみたいだ--頭の奥がずきずきする。
「--辛いか?徹・・・・」
 僕は笑おうとする。君ならいいんだ--と心の中で話しかける。口からは呻き声しか出ない--見ている玲の方が辛そうだ。
 玲は動きをとめると、そっと僕の胸の上にフランネルのシーツをかけた。
「汗で身体が冷えるだろう」
 そして身体を屈めて僕にキスしようとした--とたんに、ずいっと肉の奥まで入ってしまう--思わず叫び声が漏れた。
 玲の顔が間近にある。
「・・・・地中深くまで入っちゃったね」
「地底何万マイルってやつ?・・・・マントルまで行ったかなあ」
 玲の顔がくしゃっと笑う。長い指が僕の頬をなでる。いとおしそうに唇に触れ--ゆっくりと彼の唇が重なった。あたたかい舌が入ってくる・・・・
 この姿勢で、長くは辛い。玲は僕を思いやってすぐに顔を離し、片手でつっぱって身体を支えた。長い睫毛を二、三度またたかせる。
「--今日、木村さんがしていた・・・・卓也の話ね」
「--」
「知らなかったよ」
「白黒つかないうちに--ってやつ?」
「うん」
「・・・・だって、恥ずかしいじゃないか、出会ってすぐに--」
 記憶をなくしていたくせに、出会ってすぐに玲に参っちまった--どうしようもないやつ、卓也--それが僕。
「--僕も君に言ってなかった」
「・・・・何を?」
「--ロシア料理のバイキングの後、ホテルのラウンジで飲んだだろう?」
「・・・・うん」
 夢のような夜だった。
「・・・・僕も本気で--卓也に恋してたよ」
「--え?」
 玲はほほえんだ。
「白黒つかないうちに、ね」
 それは--
「--知らなかっただろ?徹」
「--うん・・・・」
「こういうのも・・・・浮気って言うのかな?」
 ふたり同時に吹き出した。--なんてことだ!僕たちは大馬鹿の似たもの同士だった。僕は腹を揺すって笑った。僕の中の彼が--少し縮むのを感じた。
「次の日の海岸でね・・・・僕はわかったんだ、卓也が徹だって」
「え・・・・どうして?」
「身体の線でね・・・・ごめん、徹--わかってたんだ--もう、その時」
「・・・・じゃ、どうして・・・・神戸に帰っちゃったの」
「君をここに--宮崎に置いておきたかった、その方が--君のためだと思ったんだ・・・・辛い思いをさせて--悪かった。君がぶつかってきてくれなかったら・・・・」
 ぶつかっていかなかったら--
 僕たちは永久に離ればなれになるところだった。
「--玲」
 僕は両手を広げた。
 玲はちょっと躊躇してから、僕にかぶさってきた--結合がぐっと深くなる。僕はのけぞって、耐えた。--少し声が出た。
 大丈夫か、と玲が目で尋ねる--大丈夫、それより・・・・と僕が目で答える。
 玲は僕を見つめながら、ゆっくりと腰を動かし始めた。
 痺れるような痛みが戻ってきた。僕の中で再び膨張した玲のペニスがどん、どんと内臓を突き上げる。ああ--ああ、--逃げようと腰がずりあがる。引き戻された瞬間--信じられないほどの叫び声が喉から溢れた。
 玲は力を緩めない--多分早く終わらせた方が僕が楽だと思っているんだろうが--それはそうだが--それは・・・・思考がとぎれる。汗が飛ぶ。網膜の裏に信号灯が点滅する。--ああ--ハンマーで身体をぐちゃぐちゃに砕かれているみたいだ。僕の身体が粉々になる。粉微塵になって踏みつぶされる。身体の奥へ、奥へ、最深部へと強靭なドリルが突っこまれる。ものすごい速さで掘り進む。やわらかい粘膜の奥へ、赤いいのちの核に到達し--
 閃光が走った。
 身体の奥深くから真っ赤なマグマが噴出する。轟音を上げて地上に噴き上げ、灼熱の奔流となって僕の肉をどろどろに溶かして運んでいく。流れの中に意識の核だけが残っている。僕はどこにいるんだ。どこへ運ばれていくんだ・・・・
 --永遠。
 名前しか知らない、閉じた瞼の向こう側・・・・





 僕はぼんやりと目を開けた。
 玲の曇った顔がすぐ目の前にある。寄せた眉が・・・・とてもきれいだ。
「・・・・どうしたの?--そんな顔して」
「どうしたのって--大丈夫か、気分は?」
「--気分?」
 僕はきょとんとして聞き返した。--玲がほうっと溜息をつく。何ともいえない顔をして、僕の髪をくしゃくしゃにした。
「--覚えてない?気を失ったんだよ、君は」
「ああ、そういえば・・・・」
 思い出した。
「--何か、変な感じになって--身体が、変に・・・・あれ?」
 歯の根があってない・・・・歯がガチガチ震えている。寒くもないのに身体全体が細かく痙攣しているのに僕は気がついた。
 玲が僕の上半身を抱き起こし、やわらかなフランネルのシーツで包む。腰を動かした時にズキンと痛みが走った。
 僕たちはベッドの上に並んで座り、何も言わずに壁にもたれた。--玲が僕の肩を抱く。痙攣はまだおさまらなかった。
「--毛布を取ってこようか?」
 僕は何も答えない。
「・・・・徹--どうした?」
「--」
「--痛むのか?」
 玲が僕の顔を覗き込んだ。僕は黙ってかぶりを振る。うまく--言えなかった。
 彼はかなり長い時間、僕をじっと見つめていた。
 --やがて静かな声で、言った。
「・・・・後悔してる?--僕と、こうなったこと」
 僕は驚いて彼を見た。
 玲はちょっと僕を見て、無理に笑顔をつくった。
「--さっき、どうして気を失ったかわかる?」
「--」
「僕と同時にいったんだよ--君のは、多分・・・・オーガズム、ってやつかな」
 頭に血が昇るのがわかった。
「--前に僕が、津波に押し流されたって--言ってただろう?--まあ、津波かどうかは時と場合によるけど・・・・ものすごく変な感じ、じゃないか?ほとんど、とんでもないっていうか」
 僕はうなずいた。確かに--とんでもない感覚だった。
「同じいくのでも、射精の感覚と全然違う。僕は射精の時は飛翔感っていうか--空にぐんぐん昇りつめて、鳥や飛行機のように高速で飛んだり、ピストルの弾を発射したり・・・・っていう爽快な感覚があるんだけど--」
 玲はちらっと僕を見た。
「バックでいく--というよりいかされた場合は・・・・僕の感じだけど、なにやら得体の知れないものが突き上げてきて、身体が根こそぎ押し流されて、何もわからなくなるような受動的な感覚なんだ」
 あの、マグマの噴出--流されていく僕の肉体。
「前にも言ったと思うけど・・・・僕は初めてそれを味わったとき、悪夢だ、と思って--ものすごくショックだった。自分が女になったような気がして、おぞましかった。男の僕が、女の歓び、なんて--冗談じゃないって、思った」
「--」
「でも・・・・それから、考えたんだ。男はいつも入れる側で、その感覚しか駄目で、女はいつも入れられる側で、その感覚しか駄目なんて--いつ、誰が決めたんだろうって。男だって入れられる感覚を楽しんでもいいし、女だって入れられる以外の感覚--たとえばクリトリスとか--を楽しんでもいいんじゃないかって」
「君は--楽しんでるの?」
 玲は前を見たままうつむいて、まぶしそうに目を細めた。
「どう見える?」
「・・・・いつも、抱きながら--見とれてる・・・・なんてきれいなんだろうって」
「--よせよ」
 玲の横顔に灯がともった。
「なんで赤くなるの?昔からしょっちゅうみんなに言われてるだろ?」
「・・・・だよ」
「--え?」
「--君に言われるのは・・・・別だよ」
 かすかな声--みるみるうちに首すじまで朱に染まる。思わず--声が出た。
「・・・・きれいだ」
「--だから、よせって--」
 怒って振り向いた顔を引き寄せ、羽交い締めにして--強引に唇を重ねる。
 玲はあらがいながら--僕に応じた。・・・・やわらかな舌。
 目を閉じるとふたつの心臓の音が重なっていく。
 玲の匂いがする・・・・いつのまにか僕の痙攣も遠いものになった。
 --玲。
 君をもっと--知りたい、もっと君を抱きたい、もっと君に--抱かれたい。
 君だけが、僕の--永遠だ。
「・・・・僕も、マグマを追求して、楽しんでみようかな」
「・・・・マグマ、だったの?--さっき」
「--うん」
 玲がぷっと吹き出す。
「--津波よりスケールが大きいね、徹」
「だって--君がマントルまで穴を開けるんだもの」
 今度こそ--玲の端正な顔が夕陽のように燃えあがった。



 満月まで、あと三日--
 僕たちは冬眠中の熊のように、お互いの毛皮で暖め合って眠る。唇を重ね、乳首を重ね、腰を重ねて二枚貝のようにぴったりと身体を合わせる。青白い月の光に玲の睫毛が震える。もう一度--もう一度抱かれたら、どんな炎が闇空を焦がすだろうか。永遠へと向かう流れに乗って。
 名前しか知らない、閉じた瞼の向こう側・・・・
 玲が静かな寝息をたて始めた。





月夜  了 

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