蛍 内藤更紗
蛍


 「おーい、卓也、いるか」
 その週の日曜日に木村俊男が大声をはりあげながら門を入ってきたとき、僕は庭でひとかかえもある布団を相手に悪戦苦闘していた。
「--何やってんの」
「見りゃわかるだろ--おい、半分持ってくれよ」
 ようやく視界が開け、やれやれと思いながらふたりで部屋の中に布団を運ぶと、居間では玲が念入りに床にワックスをかけている。
「何の騒ぎ?」
「--ああ、今日客が来るんだ、泊まりに」
「--ふうん・・・・」
 俊男のがっかりした声に、玲が振り向いた。
「あ、木村さん、ですね--いらっしゃい」
 いきなりだったので、俊男はうろたえて赤くなる。
 この春、僕の家で初めて会って話してから、彼はすっかり玲のファンになってしまったのだ。--とはいってもそっちの方の気はないので、本人曰く、
「要するにさ、きれいだーって見てるだけってやつよ、俺は」
 ということらしい。公認のファン第一号として認めろとうるさいが、今のところ、恋人の僕が却下している。--なんせ玲のファンなら昔から星の数ほどいたんだし、第一号の席は空けといてやらないとかわいそうだ--妹の葉子のために。
 まあ俊男はこれでなかなかいい男だし、結構女の子にもてているのも僕は知っている。でも、休日に急にやってくるのは珍しかった。
「そうだ、俊男、何しにきたの、何か用事--?」
「うん・・・・でも--お客さん来るんなら」
「来るっていっても夜遅い時間だから、少しぐらいなら大丈夫だけど」
「--そう?」
 俊男はちらっと玲の方を見た。
「--この先の川、ちょっと行ったところに--蛍がたくさんいるところがあってさ・・・・昨日見つけたんだけど、すごくきれいで--見に行かないかって誘いに来たんだ」
「・・・・へえ」
 蛍か。
 僕はかたわらの玲を見た。--準備の方もあらかたできたし、何よりこの蒸し暑さだ。川沿いの散歩は涼しげで、悪くなかった。
「--行こうか」
 玲も乗り気だった。僕たちは急いで身支度をして、十分後には俊男のバンに乗り込んでいた。
 暑い--宮崎の夏は本当に暑い。まるで地面の下に鉄板でも入れているのではないかと思うほど、日中の太陽に暖められた大地は夜になっても一向に冷める気配を見せなかった。風もぬるり、と吹いている。
 目的地に近づくと、玲がちいさく叫び声をあげた。夕暮れの中に光の点がちらちらと点滅しながら近づいてくる。俊男が車を停めた。
 日没の鈍い光を浴びて川面が輝いている。照柿色の水の奥には、もう濃い夜の闇が荒い息を吐きながら出番を待ちかまえていた。草むらには早駆けの蛍。
 僕たちは川に沿ってゆっくりと歩いた。
 長い夏の陽の残光が玲の横顔をくっきりと照らす。睫毛が濃い蔭をつくった。目は茂みを追って、蛍の多いポイントを探っている。
「玲さん--あの橋の下、どう?」
 俊男が声をかけたときには、もう陽は最後まで落ちて、あたりには夕闇が迫っていた。橋のたもとから下を覗き込んだ僕たちは、思わず歓声をあげた。
 --光、光、光・・・・何百、いや、何千匹いるのだろう、無数のガラス玉を散りばめたような細かな光がまたたきながら、ふわり、ふわりと舞い踊っている。
 あたりには、音もない。--かすかに遠くで、犬の遠吠えが聞こえた。
 少し川に降りたところに俊男が手頃な岩を見つけ、そこに座る。
 玲が、くす、と笑いを漏らした。
「--君が中二のときだったっけ--蛍を追いかけて川にはまったの」
 くそ--やっぱり思い出したか・・・・僕も今、それを考えていたところだった。
「あのときは葉子が、もっと取れってうるさいから・・・・」
 部屋を暗くして蛍を放すの、ロマンチックでしょ?なんて。
 --あの日は珍しく両親も一緒だった。僕たちが育った神戸の家。裏山に流れる小さな川で、僕たちは夏が来るたびに蛍狩りをして遊んだ。
 あの両親は、もういない。
 葉子も北海道に嫁いでいってしまった。
 残ったのは、玲と僕・・・・
「--暗くなってきたね」
 俊男がぼそりと言った。いつのまにか、たっぷりと濃い闇があたりを覆いつくしていた。光の乱舞はますます華やかさを増していく。
「--知ってる?俊男。蛍の光に雄と雌があるの」
「え・・・・そんなの、わかるの?」
「僕の家の近くの蛍はさ、チカチカッって光るのが雄で、チカッって一回光るのが雌だったんだ。雄と雌は光で求愛してるってわけ」
「--ふうん」
「カップルが決まると葉っぱの裏で交尾して、雌は卵を産んですぐ死んでしまう」
「--雄は?」
「雄はまた次の雌を探しに行くんだ」
 俊男は笑った。
「そりゃ、雄の方がいいね」
「でもないよ・・・・一度交尾してるから体力もあんまり残ってないだろ?--そうすると光の明るさで他の雄に負けるから、雌を取られてしまう。だいたい、初めから雌の数が少ないんだ。--それに、めいっぱい頑張っても、成虫になってからの寿命は一週間しかない」
「・・・・ふうん、そう思うと、蛍って・・・・はかないね、光だってひとつひとつ見ると弱々しいし、・・・・虫なのに鳴かないし」
「何だっけ?--あったよね。・・・・あなた恋しと鳴く蝉よりも--」
 玲があとを引き取った。
「鳴かぬ蛍が身を焦がす、だろ?よく知ってるね、そんなの」
「そりゃ、受験に--」
「出ないよそんなの」
 僕は俊男にまで笑われた。--玲が蛍を見ながら、思い出したように言う。
「僕は蛍みたいだなあって--思ってたよ」
 え・・・・
「--いつ?」
 --玲は答えなかった。
 それで、俊男と僕は--それが僕のことだと・・・・わかってしまった。
 焦がれるほど胸の中で思いつめていた玲の恋。
 僕たちは何となく、黙り込んだ。
 漆黒の闇の中・・・・
 ふうわり、ふうわり、まるで重力から解き放たれたように舞い踊る蛍の群れ。
 光と光のランデブー。さわさわと鳴る葉ずれの音。一生一度の恋の床。この恋が結ばれたら死んでゆく雌。想い出を抱きながらいのち果てる雄。たったひとりで朽ちていくおびただしい数のはぐれ蛍--たった七日間のいのちの饗宴。
 玲と僕はどれだろう・・・・
「--帰ろうか?」
 玲が俊男に笑いかける。俊男は僕を、目で促した。
 僕たちは光の原を渡って車に戻った。蛍が二、三匹足もとにまとわりつく。
「--迷い蛍だ」
 玲がほほえんだ。





「徹--おまえ、背が伸びたなあ・・・・、玲も・・・・変わったなあ」
 松さんは久しぶりに会う玲と僕の顔をかわるがわる見て、目をまるくした。
「松さんだって--貫禄出てきたじゃん」
 僕はいっそう巨大になった太鼓腹をばんばん叩いてやった。中身がしっかり詰まっている。
 今夜の客人というのは、松さんこと、松本登だ。彼は玲の昔からの友人で、今は妹の葉子と結婚している。僕のことを徹、と呼ぶのはそれが僕の本名だからで、俊男をはじめとする僕の職場の知り合いは僕を卓也、と呼んでいる。キムタクをこよなく愛する里美おばあちゃんの命名だから、怖くて誰も逆らえないのだ。
 松さんを迎えるのに、念入りに掃除や寝具の手入れをしていたのは、別に彼が縦にも横にも大きくて、普通の布団では間に合わなかったからではない。
 実を言うと、僕たちがここ--宮崎で暮らしていることについて、僕も、玲も、正確なことを妹の葉子に言ってなかったのだ。
 両親が亡くなり、葉子が釧路に嫁いでから、それまで血が繋がらないまでも兄と弟であった玲と僕は恋人同士になった。玲は両親の会社を捨てて神戸から僕のいる宮崎にやってきたのだが、--さすがに僕と恋仲になったことまでは、妹に言えなかった。松さんが教員の夏期研修会を利用してこちらにやってきたのも、ひとつには、僕たちの暮らしぶりを見てきてほしいという葉子の依頼があったに違いない。
 その夜、松さんはうまそうに焼酎をすすりながら、積もる話に花を咲かせた。
「日頃、中学のガキンチョばっか見てるとさ--つくづく俺はもうオッサンだなと
思うよ--言葉なんかおまえ、全くわかんねえんだから」
「ずっと写生でもさせてればいいじゃないか、しゃべらなくても」
「そうもいかないの、美術史とかも教えるんだぞ--この俺が。ルネッサンス、印象派・・・・信じられんよ」
 彼は深い溜息をついていたが、玲が最近またスケッチを始めたと聞いて、小さな目を輝かせた。
「そうか・・・・おまえがアトリエを閉めたって葉子から聞いて--残念だと思ってたんだ・・・・そうだよな、片手だって関係ないよな」
 玲は苦笑していた。--玲の左腕は、動かない。・・・・僕はちょっと辛い気持ちになった。
「--そうだ、玲、俺、明日さ--桜島に行こうと思ってるんだけど・・・一緒に行かないか?スケッチブック持って」
「--」
「明日の晩、鹿児島に宿取ってあるんだ--徹もどうだ?桜島、行ったことあるか?」
「ないけど--僕は仕事があるから・・・・だめだよ、ガッコのセンセみたいに夏休みがあるわけじゃないもの--玲は行けるだろ、行ったら?」
「行こうよ、ここ二、三日は灰も降らなくて晴れるらしいし・・・・チャンスだぜ」
「--そうだね・・・・」
 玲を宮崎に呼んで四カ月、そういえば僕は彼をろくに観光にも連れて行ってなかったことに気がついた。--いつも家に閉じこめて、僕の帰りを待たせていたのだ。セックスだけ、して。料理をつくらせて--
「--玲、行きなよ。せっかく九州まできたんだもの・・・・何泊だって、してこいよ。--帰ってくるときに電話してくれればいいから」
「--じゃあ、行ってくるよ。・・・・松さんと旅行なんて、修学旅行以来だね」
「--あれをおまえ、旅行って言うか」
 玲はまぶしそうに笑って、旅の支度を始めた。



 月曜の朝、僕が市場で働いているあいだに、ふたりは出発した。
 僕は家で、手持ちぶさただった。思わずロード・マップを手に取って、鹿児島あたりを見てしまう。
 今頃はふたりで桜島に渡っているだろう。レンタ・カーでも借りて付近をまわっているかもしれない。玲は車が苦手だから、松さんの運転がうまいといいんだけど・・・・
 玲、ごめん。これからもっと、あちこち一緒に行こうな・・・・
 ひんやりしたベッドに足を入れ、玲の残り香のするシーツに顔を埋めながら、僕は彼のいないひとりきりの夜を過ごした。
 火曜日になっても、玲から連絡は入らなかった。
 僕は落ちつかなかった。--そりゃ、確かに、毎日電話しろなんてことは言わなかったけど・・・・今、どこにいるのかってことぐらい、言ってきてもいいんじゃないか--それとも、そんなことを思う暇もないくらい楽しいんだろうか。--僕の
いないところでも、そんなに玲は楽しめるんだろうか。・・・・胸の中がじくじくして、情けなくて、--僕は電話機を憎々しげに睨みつけた。
 ふたつめの夜。
 僕は電話の子機を枕もとに置いて寝た--が、とても眠れなかった。--何か、あったのだろうか。病気。事故。--それなら松さんから知らせがあるはずだ。--ふたり一緒の事故--それなら松さんの免許証から、真っ先に葉子に連絡が行くはずだ。葉子に連絡が行けば、僕に教えてくれるはずだ。--遺体のあがらない事故?まさか・・・・父さんと母さんの、棺桶のなかった葬式・・・・
 水曜の朝になった。眠れなくても、仕事には出なければならない。僕は身支度をして朝四時に家を出、市場のセリの立ち会いと出庫確認をした後、デスクワークに入った。
 単純な入力作業なのにミスタッチが多くてはかどらない。正午になっても仕事が終わらず、結局一時間残業をして近くの食堂で昼食をとり、家に着いたのは二時半をまわっていた。
 ドアを開けて、はっとした。玲の靴が揃えて脱いである。
「玲!」
 僕は居間に飛び込んだ。--彼が振り返る。玲だ。・・・・心配して損をした。
 僕は思わず彼を抱き締めて、キスしようとした--とたん、彼が顔を背けたので、唇がするっと頬に滑った。僕は思わず彼を見た。--硬い表情をしている。
 何となくバツが悪くなって、僕は手を放した。
「・・・・いつ、帰ってきたんだ。教えてくれれば仕事を抜けて迎えに行ったのに」
「--」
 玲は横を向いたまま、黙っている。僕はやっとそこで、彼の様子がおかしいことに気がついた。
 髪がいつもより乱れている。顔が病的に白くて--目の縁が赤く滲んでいる。瞼がはれぼったく、頬骨にあざができていた。--硬く引き結んだ口もと。
「玲、具合が悪いのか」
 僕の声で彼が振り向いた。--僕を見る。一瞬、瞳の中に、泣き出しそうな子どもの表情が浮かんだ--と思うとすぐに目をそらし、二、三度激しくまばたきをしてから、口を開いた。
「--うん。・・・・徹、話があるんだけど」
 座らないか、と彼は言った。それから、お茶は何がいいか、と尋ねた。
「お茶なんて、いいよ--話って何」 
「・・・・長くなるから、何か飲んだ方がいいと思う。--モカにしようか」
 玲はとんでもなく長い時間をかけてドリップをいれ、僕たちの前に置いた。
 --そのまま、しばらく黙っている。
 --そういえば、松さんがいない。・・・・僕は嫌な予感がした。松さんの身に、何かあったのだろうか。
 玲は珈琲をひと口飲むと、テーブルに目を落としたままで、言った。
「--聞きにくいかもしれないけど--最後まで、遮らずに、聞いてほしい・・・・徹、僕は--」
 彼は唾を飲み込んで、ひと息に続けた。
「--松本と、寝たんだ」





「最初の日、桜島に行った後、鹿児島のホテルで--僕たちは続きの部屋をとって、食後に松本の部屋で軽く飲んでいた。--そんなに量はいってなかったと思う。・・・・彼は--僕たちが一緒に住むようになったいきさつとか、この家の住み心地を聞いてきた。僕は正直に答えた--どうせ、葉子にはいつかは言わないといけないと思っていたし--君が僕にぶつかってきてくれて、僕が--僕の方からキスをしたこと、その日に--身体の関係を持ったことなんかを、話した」
「--」
「松本はふんふんと無表情で聞いていて--俺にはどうもそういうのはよくわからん、男同士でやって、本当に--その--いいのか、と聞くので・・・・僕は、僕たちのことを少しでも理解して、味方になってほしいと思って、--徹と僕の場合は、お互いに最高だよ--って答えた。--どっちが女役なんだ、と聞くので、どっちも両方だ、と言ったら、そりゃ忙しいな、って、笑ったりなんかして・・・・」
「--」
「声とかも出るのか、って面白そうに聞くから、さあねって言ったら、おまえの場合は?って追求してくる。--僕も面白がって、声ぐらい出るんじゃないのって・・・・馬鹿だね、僕は--」
「--」
「そのうち松本の目がだんだん座ってきて、--飲み過ぎたかな、これはちょっと危ないなと思って、--間をおくために、入り口のドア近くのトイレに行ったんだ。出てすぐにドアから出て、自分の部屋に帰るつもりで・・・・」
「--」
「トイレの扉を開けたところに、松本が立っていた」
「--」
「どこへ行くんだと、低い声で聞く。別に、どこも--とごまかそうとしたら、いきなり--むしゃぶりついてきて--羽交い締めにされた。すごい力だった」
 玲は目を閉じた。
「放せよ、松本、この酔っぱらい!って叫んだとたんに、張り飛ばされて壁で頭を打った。・・・・松本は倒れた僕の胸ぐらを掴んで、もういちど、ベッドの方に張り飛ばした。--それから僕に馬乗りになって、僕の着ていた服を引き裂いた。--脱がしたんじゃなくて、引き裂いて剥ぎ取ったんだ。彼は僕のジーパンも脱がそうとした。僕が暴れて抵抗すると--みぞおちにパンチを食らった。痛みでしばらく倒れている間に--ジーパンも下着も脱がされた」
「--」
「僕を殴りながら、彼は叫んでいた。馬鹿にするな、玲、俺が何にも知らないと思っているのか--おまえと徹のことぐらい、とっくの昔にわかってたさ--馬鹿にするな、知らないと思ってるんだろう、男の抱き方ぐらい俺だって知ってる--真っ赤な形相をして--気が狂ったみたいだった」
「--」
「彼は僕をうつ伏せに転がした。--服を脱ぎ、ズボンを降ろす音が聞こえた。僕は叫んだ。やめろ、--暴力でこんなことをして--正気に戻れ、松さんって--叫んだ。すると--俺は正気だ、酔ってなんかいない、正気でおまえを抱くんだ--と・・・・軽蔑する、一生軽蔑すると僕は叫んだ。--松本は、いいよ、どうせ・・・・と
言って僕の腰を掴んで持ち上げて、いきなり--」
 ほんの一瞬、玲はつまった。
「いきなり、僕を--貫いた。・・・・痛い、なんてものじゃなかった。身体がまっぷたつに裂かれて、内臓が口から出そうだった--前にいざって逃げようとしたら、肩を掴まれて引き戻されて・・・・半鐘でも突くみたいに、力まかせにガンガン突き上げられた」
「--」
「逃げようとしたんだ・・・・でも腰を高く持ち上げられて--肩で支える逆立ちみたいな姿勢にされて・・・・その体勢で後ろから串刺しにされると、どうやっても逃げられなかった。せめて叫び声は出すまいとしたけど--最後には、痛さのあまり・・・・泣き叫んでいた。彼は僕の名をずっと叫び続けていて・・・・最後の時も、僕の名を叫んで--中に射精した」
「--」
「僕は失神していた・・・・と思う。松本が終わってからも僕から抜かず、しばらくじっとしているのをぼんやり感じてはいたけど、そのうち何もわからなくなった。・・・・気がついたとき部屋に彼の姿はなくて、時計を見ると夜の十一時を少しまわったところだった。立ち上がろうとして--びっくりした。関節をはずされた骸骨みたいに膝が笑って・・・・腰が立たないんだ。僕は這ってトイレに行って・・・・彼の精液を出した--便器が血だらけだった。それから下着とジーパンを着けて隣の僕の部屋に行ってみたが、松本は--いなかった。僕はバッグから着替えを出して、身につけて・・・・顔を洗って、彼を捜しに出た」
「--」
「松本は--死ぬつもりだ、と思った。--そのつもりで、僕を抱いたんだ。・・・・僕は正直言って、死ねばいい--とも思った。--でも、葉子は・・・・」
「--」
「葉子はどうなるんだ--あの子は松本を頼りにしている・・・・あの子のために、彼を死なせるわけにはいかない。どんなことがあっても、死なせるわけにはいかない。・・・・僕は目につく高いビルの屋上に片っ端から昇った--といっても、実際にやってみると、屋上に昇れるようになっているビルは少なくて、屋上そのものがなかったり、あってもドアにチェーンがかかっている場合が多かったけど--昇っては降り、昇っては降りして、六つくらいは昇ったかな・・・・でも、見つけられなかった。僕がまた道路に出て、違う方向のビルを探していたら--」
「--」
「交差点にばかでかい歩道橋があるのが目についた。三階分くらいの高さのあるやつ。--僕は思い出した。ホテルに来る前に彼とそれを見て、ここから落ちたらイチコロだなーって話してたんだ。--歩道橋の真上に人影が見えた。--彼かどうかは、わからない。僕は叫びながら、走った」
「--」
「階段を駆け上がって、二つある踊り場の下の方に着いたとき、人影が振り向いた。・・・・松本だった。彼にも僕がわかった。僕は手を振ろうとして・・・・突然、ぐらっときた。・・・・視界に網点が広がっていって・・・・なまあたたかいものが内股を伝う感触がして・・・・危ない、と思った。--とっさに手すりにすがったまま--僕は階段をずるずると引きずるように落ちて・・・・意識をなくした」
「--」
「また気がついたら・・・・僕はさっきのホテルのベッドに寝かされていて--かたわらに松本が立っていた。僕は下着一枚で--尻と・・・・足がきれいに拭かれていて・・・・尻にナプキンが当てられていた。--頭と下半身が割れるように痛かった。松本はぼろぼろ泣いていて・・・・僕が目を開けたのを知ると、玲、玲と叫んでまた泣き崩れて・・・・僕はどうしていいかわからなかった」
「--」
「僕はその晩、熱を出した--身体中が熱くて、喉が乾いた。・・・・松本はコンビニで氷と下着を大量に買ってきて僕の額を冷やし、身体を拭いて下着を換え、スポーツドリンクを飲ませて徹夜で看病してくれた。・・・・でも、熱は下がらなかった。僕は多分--炎症を起こしているんだと思った。抗生物質は薬局では手に入らない。・・・・一日中、僕は寝ていて・・・・彼は僕につきっきりだった」
「--」
「昨日の夜、僕の枕元で、松本は言った。--大事にする・・・・一生、大事にするから俺のそばにいてくれ・・・・葉子のことも徹のことも、俺が話して何とかする。・・・・絶対に何とかしてみせるから・・・・そばにいてくれ--おまえは俺の初恋だった。俺が小学校二年の時、扁桃腺で入院した病院でおまえを見て--俺はてっきり女の子だと・・・・世の中にこんなかわいい子がいるのかと思ってのぼせちまって・・・・でも、それきりで会えなくなって--高校で男のおまえに会ってびっくりして--でもやっぱり、おまえは玲だ・・・・俺の、玲だと思って、思い詰めて・・・・おまえがいつも弟の徹ばかり見てるんで口惜しくてたまらなくて--でも、おまえが賞を取った峰岸潤一の絵を俺に預けてくれたとき--この絵は、潤一は--徹に惚れてるおまえ自身で、そのおまえ自身を俺に預けてくれたんだと・・・・俺は、泣いた。それで、ふっきれた、ふっきれたと思った--おまえは俺の、青春だ。俺の青春のすべてだと思って大切にして、一生いい友達でいよう、と決心したんだ。--それなのにおまえは俺の前で、徹に抱かれた話なんかしやがって・・・・徹に抱かれて感じる、とか、声を出す、とか・・・・俺の前で、この、俺の前で・・・・おまえに、惚れて惚れてどうしようもないぐらい惚れぬいてる、この俺の前でだ・・・・玲、一生離さない、おまえだけだ、おまえだけだったんだ、俺には・・・・」
 暗い声だった。
「僕は--知らなかった。・・・・松本の気持ちを、何も・・・・気づかなかった。でも--僕は・・・・結局、彼に言うしかなかった。僕は徹を愛している。--こころも、身体も、全部彼のものだ。それは僕自身にさえ、もうどうにもできない。--葉子の兄として、頼む。自分から死なないでくれ。葉子を支えて、あいつを愛してやってくれ・・・・僕は自分がどんなに残酷で虫のいいことを言っているか、よく知っている。--でも、僕には本当にそれしか言えない。--頼むから、松さん--」
「--」
「松本は、何も--言わなかった。・・・・黙って僕の看病を続けてくれた。これ以上、ふたりきりでいるのはよくない、また蒸し返したら・・・・僕はいつか、彼の想いを受け入れてしまうんじゃないかと思って--それが怖かった。それで今日・・・・彼が看病疲れでぐっすり眠り込んでいる間に、書き置きと宿代を置いて朝早くホテルを出て、ここに戻ってきた・・・・君の顔を見たかったのと・・・・君には僕のことを--僕の身に起こったすべてのことを知る権利があると思ったから」



 玲はここまで話すと、少し間をとって、一語一語、噛みしめるように言った。
「--これで、僕の供述は終わりだ--聞いてくれて、ありがとう・・・・それから、松本を--そっとしておいてやってほしい・・・・君には許せないかもしれないが。・・・・それから・・・・僕のことについては・・・・」
「--」
「君の--」
「玲」
「君の、好きなように・・・・」
 玲の肩が小刻みに震える。目の前の珈琲カップを穴があくほど見つめながら、唇を噛みしめて--湧きあがる思いに耐えている・・・・
 その指の先が、真っ白になるほどきつく握られていた。
「--好きなようにって--何のことさ」
 僕は目をそらして、できるだけ軽く言った。
「君は言ってくれたんだろ、--僕を愛してるって。君のこころも身体も、みんな僕のものだって・・・・今の話のテーマって、それだと思ったけど」
 玲が顔をあげて、僕を見た。見開いた瞳がうるんでいる--きれいだ・・・・こんな場面で、まったく性懲りもなく、僕は感嘆した。
「僕の方こそ、君が帰ってきてくれて・・・・きちんと話してくれて、嬉しかった。--僕を弟じゃなく恋人として、やっと認めてくれたってことかな」
 玲はにっこり笑った。
「君を弟として見たことなんて、一度だってない」
 うわ・・・・顔が火照った。僕は立ち上がって玲の後ろにまわり、椅子ごと彼を抱き締めた。彼が首をねじって僕を見あげる。僕はその桜色の唇に接吻した。
 甘い匂いがした。--玲の匂いだ。玲のシーツと同じ匂いだった。--帰ってきた。僕のところへ・・・・帰ってきてくれた。--やわらかな唇を割って舌を入れる。あたたかい玲の舌。燃えるように絡められた玲の--
 突然、玲の頭が力を失って、がっくりと倒れた。驚いて身体を離したとたんに、彼は椅子からずるりと崩れ落ちた。--意識が、ない。
「--玲!」
 顔が蒼白だ。抱き起こした身体は、火のように熱かった。





 僕は結局、医師を呼んだ。自分だけではどうしようもなかったのだ。
 高熱の原因は察しがついた。それだけに--できれば外科で、往診してくれるところとなると僕には見当がつかない。考えたあげく、僕の前のアパートの大家さんである里美おばあちゃんの人脈に頼った。
 やってきた若い医師は時間をかけて診察を終えると、むずかしい顔をした。
「炎症がかなりひどいですね。裂傷も、今見た限りで三カ所。・・・・身体の方は打撲、擦過傷ぐらいで大したことはないですが。--抗生物質と消化薬を処方しておきましょう。それから消炎剤と栄養剤の点滴を今日から--そうですね、三日間。栄養をとって十分静養すること。当分トイレが辛いと思いますので、できるだけ繊維質の多い食事を心がけてください」
 よく通る声で所見を出し、薬と点滴は後ほどまた来ると説明して、彼はさっさと帰り支度を始めた。僕があわてて門まで見送ると、帰りまぎわにふと振り返って、ことのついで、という風に言った。
「見た目よりもずっと華奢な方ですので--大事にしてあげてください」
 僕は、思わず言った。
「いえ、あの・・・・僕が原因ではないんです」
 医師は眼鏡の奥を光らせながら、いらだたしそうに早口になった。
「見ればわかります。--もっと大男でしょう。--左腕がご不自由なようですので、なおさら抵抗しようもなかったでしょう。・・・・右肩の擦過傷、両腰骨部分の内出血の様子からみると、おそらく自由のきく右肩を床に押しつけられて宙づりにされたんだと思います」
 怒ったような口調の中に、憤りが混じっているのに僕は気がついた。--急にこの医師がぐっと身近に感じられた。
「--被害届を出されるなら、診断書も書きますよ」
「ありがとうございます・・・・届けは、本人が望んでおりませんので--」
 医師はちょっとうなずいて、帰っていった。
 僕は少しの間、柵にもたれて立ちつくしていた。
 自由のきく腕を押しつけられて・・・・宙づりに・・・・抵抗しようもなく・・・・
 玲の身体に焼き付けられた負の刻印は、彼の説明よりはるかに残酷な陵辱が加えられた事実を物語っていた。・・・・怒りで胸が張り裂けそうだった。
 僕の玲を--僕の玲を--僕の・・・・
 熱い涙があとからあとから溢れ出て頬を濡らした。
 僕は家の中にいる玲に聞かれないように、声を殺していつまでも泣き続けた。





 僕は木曜、金曜続けて休みをもらった。
 一日目に俊男から電話が入った。
「今、若い女の人からおまえに電話があってさ、携帯の番号を教えろって言うから、言っといたよ--おごれよ、あとで」
 ついにきた、と僕は思った。すぐにピピ・・・・と音が鳴った。
 僕は玲に聞かれないように、急いで庭に出た。
「--卓也さん?・・・・徹って呼んでもいいのかな。あたし、葉子。久しぶりね」
 玲と僕の妹、今は松本の妻になっている葉子だった。
「ああ葉子、僕の方こそ結婚式に出られなくてごめん。・・・・そっちの暮らし、どう?慣れた?」
「うん。北海道とはいっても釧路は都会だし--まあ冬はやっぱり寒いけどね・・・・ね、徹--松さんのことだけど」
「まだ、松さんって呼んでるの」
「まあね--そっち、行ったんでしょ?研修会の帰りに」
「--帰ってないの?」
「帰ってるわ」
「・・・・じゃ、何?--待遇が悪かったんで怒ってるって?」
「--徹」
 低い声だ。--あいつ、いつのまにこんな迫力を身につけたんだろう。
「--何かあったの?」
「--何かって、何が?・・・・」
 声がかすれた。僕はつくづく、役者には向いてない。
 電話の向こうで大きな溜息が聞こえた。
「・・・・いいわ、電話じゃむりね、こんな話--仕事中なんでしょ?」
「--ま、まあね」
 ほっとした。
「--終わったら、会って」
 --え。
「去年、みんなで来たホテルに来てるの、一時にロビーで待ってる」
「--葉子」
「・・・・兄さんには内緒、ね」
 僕が何か答える前に、電話は軽い音を立てて切れた。



「--徹!」
 一年ぶりの葉子だ。白いワンピース、肩にかかるやわらかな髪。--結婚しても全然変わっていなかった。まわりの人がちょっと振り向く、玲に似た整った顔立ち。
 彼女はソファから立ち上がると、僕の顔をまじまじと見つめた。
「--何だか、変わったわね--徹、たくましくなった・・・・記憶が戻ったのね、父さんや母さんや--神戸のこともみんな思い出したのね。--去年ここで、卓也さんって呼んでたの、嘘みたいね・・・・」
 この一年の間に両親が亡くなり、葉子が結婚し、僕は記憶を取り戻して玲と暮らし始めた--本当に嘘みたいな一年だった。
「兄さん・・・・どうしてる?」
「うん、休暇中だから--毎日のんびりしてるよ」
 それは嘘だった、玲はまだ床から離れられない。
「いいわね、ここは気候もいいし・・・・静養にはもってこいよね」
 静養?--松本は僕たちのことを、葉子にどう説明したのだろう。
「松--さん、--釧路に帰ったんだろ?」
 僕は注意深く切り出した。葉子はちょっと僕を見て、うなずく。
「--昨日、帰ってきてからあたしの顔見ようとしなかったの。あんまり変だから問いつめたら、怒って--殴って」
「--殴るの、あいつ」
「・・・・殴られたのは、初めてよ。・・・・でも、夜、酔って遅く帰ってきて、玄関であたしの顔見るなり、ぐしゃぐしゃに泣き出して・・・・、玲、玲って・・・・」
 何で泣いたかは、想像がついた。--兄に似た白い顔。
「・・・・あたしが悪かった、無神経だったんだって--落ち込んだわ」
 葉子は溜息をついた。
「--ごめんね、徹」
「・・・・どうして謝るの」
 葉子は手もとを見て、苦笑した。
「・・・・あたしが来ればよかったの、宮崎へ・・・・来る勇気がなかったから--彼に頼んだの・・・・怖かったの、あたし。--兄さんと・・・・徹を見るのが」
 ごめんね、徹--葉子はもう一度繰り返した。
「昔から、うすうす感じてたの・・・・認めたくなかっただけ。あなたが記憶を取り戻しても神戸の家に帰ってくるつもりがないって聞いたとき、ああ、やっぱり--って思ったわ。兄さんから長期休暇を取って宮崎へ静養に行くって聞いたときも・・・・とうとう兄さんは--徹のところへ行ったんだと・・・・」
「葉子、僕が--僕の方から無理矢理せまったんだ」
「いいわよ、言い訳しなくっても」
 葉子は軽く僕を睨んだ。
「三人で暮らしてたあの頃、兄さんのまわりにいて恋愛感情を自覚しなかった人って、あなたぐらいだったのよね・・・・それが兄さんにとっては良かったのかもしれないけど。・・・・良かったと思ってるのよ、あたし--いずれ兄さんが誰かのものになるんだったら、赤の他人より徹の方が、ずっとずっといいって・・・・思ってたのよ、本当に--でも・・・・見るのが、怖くて--どんな顔をして兄さんに会えばいいのかわからなくて・・・・頼んでしまったの、松さんに--馬鹿なことをしたわ、松さんの気持ちだって・・・・知らなくはなかったのに。もう終わったものだとばかり思って、安心してたの」
 終わってたのだ。--少なくとも鹿児島に行くまでは。僕が玲に同行するようすすめさえしなければ、今だっていい友人だったはずなのだ。
「--徹。・・・・松さんは--兄さんに、何をしたの」
 --え。僕は不意打ちをくらって狼狽した。
「あの人だって、あなたたちのこと、ある程度は覚悟してたのよ、仲のいい姿を見せつけられたくらいで、あれほど・・・・おかしくなるはずがないわ」
「--」
「兄さんはあなたに、何も言わなかった?」
 答えられなかった。
 僕は被告人のように葉子の視線に耐えた。
「--じゃ、あたしから、言うわ・・・・兄さんを・・・・」
「葉子」
「兄さんを--レイプしたのね」
 僕は唇を噛んだ。
「・・・・違ったら、そう、言って。--そう、なんでしょう?・・・・そうだとすれば、つじつまがあうのよ。お願い、徹、本当のことを教えて。--あたしの夫のことなのよ、--あたしにも知る権利があるわ」
 僕は思わず笑った。--玲の台詞だ。君には僕のことを--僕の身に起こったすべてのことを知る権利がある--彼はそう言った。さすが兄妹だ。僕は観念した。
「うん、鹿児島で、一度--そういうことがあったらしい」
 相手が息を飲む音が聞こえた。
「松さんは後悔して死のうとしたらしいんだけど、玲が引きとめたって--玲は君のことをとても心配してる・・・・葉子」
 葉子はテーブルに肘をついて、両手で顔をおおっていた。
 指の間から大粒の涙がぼろぼろとこぼれる。--たまらずに、肩を震わせてしゃくりあげる。頭がだんだん低くなり、突っ伏して声をあげて泣き始めた。
 夫を宮崎に行かせてしまった葉子。恋人を鹿児島に行かせてしまった僕。世の中にこれほど馬鹿同士の組み合わせはないだろう。
 葉子はしばらく泣いて涙を拭くと、ぽつりと言った。
「徹は--兄さんを支えてくれてるのよね」
「・・・・僕の方が支えられてるよ、--今度だって」
 --今度だって。
 もし玲が僕に話してくれなかったら、僕だって今の葉子のように、必死で真相を知ろうとしただろう。嫉妬と疑心暗鬼でぼろぼろになっていたかもしれない。僕は以前、玲に近づいた稲葉和彦という男と玲に滅茶苦茶に嫉妬して、そのあげく、玲を刺してしまったことがある。そのときに玲の左腕の神経が何本か切れ、手術で繋がりはしたものの、精神的ショックで動かせなくなってしまったのだ。僕の嫉妬がそうさせたようなものだった。それなのに玲は、僕をそこまで追いつめたといって、自分を責めていた。
 玲は僕にその時の二の舞いをさせないために、あの屈辱的な体験を包み隠さず話してくれたのだ。--あの、プライドの高い彼が。
 --支えられているのは、いつだって僕の方だった。
「・・・・あなたがいてくれて、よかったわ、--徹。・・・・いつかは、ごめんなさい。・・・・ひどいことを言って」
 あなたなんか、あなたなんか、この家にこなければよかったのよ!・・・・
 あのときの葉子の罵声が、百年も遠くのように思えた。
「ひどいことって、どれかなあ。--たくさんありすぎてわかんないけど」
「なんですって」
 葉子は半分本気で、僕を睨んできた。--その調子だ。
「--わたし帰るわ」
 彼女は席を立った。
「多分、松さんとは別れると思うけど・・・・兄さんには言わないでね」
「帰りの手配はしてるの?空港まで送るよ」
 レジまで早足で歩きながら、葉子は振り返った。
「・・・・いいの、ひとりで帰れるから」
 彼女は勘定を払った。
「--あなたは兄さんに、ついててあげて・・・・お願い、ね」
 そしてタクシーに乗り込み、あっという間に見えなくなった。





 その夜、玲の身体を拭きながら、僕は昼間のことを話そうかどうしようか、迷っていた。時間の問題だという気もした。この兄妹はそろいもそろってカンがいいのだ。--僕は落ちつかなかった。
 玲はおとなしくされるままになっていたが、僕を見てクスリ、と笑ったのを僕は見逃さなかった。
「--何、玲」
 僕はぶっきらぼうに訊いた。
「--何でもない」
「そんな笑い方されたら、気になるだろ」
 玲は楽しそうに、声を立てて笑った。
「徹--早く、楽になったら?・・・・君はだいたい、秘密を持つのに向いてないんだ」
「病人の知ったことじゃないだろ--さあ終わり、寝た寝た」
 僕は玲の肩を持って、そおっと彼を横たえた。この二日で熱はほとんどひいたので、後は身体の--傷つけられた部分の回復だけだった。
「--あの先生、今日も来たの?」
「ああ、午後・・・・君が出かけてる間に診察と、点滴をしていった」
「--ふうん」
「--ねえ、徹--僕から言おうか」
 ・・・・どこかで聞いた台詞だ。
「・・・・昼間、葉子と、会ってたんだろう?」
「--」
「違ってたら、そう言ってくれ」
「--」
 玲は溜息をついた。
「そうか・・・・口止めされてるんだな--わかった、徹、多くは聞かない。・・・・ふたつだけ、教えてほしい」
「--」
「ひとつ--あの子は僕の今回のことを・・・・もう、知っているのかどうか」
 玲は僕を見た。まっすぐな目で。
「ふたつ--知っているのなら、それを聞いてあの子がどうだったか」
 僕は玲を見つめた。
「頼むよ」
「・・・・わかった。ひとつめは・・・・知っている」
 玲は目を閉じた。
「ふたつめは・・・・初めは、泣いたけど--自分で涙を拭いて・・・・しゃん、とした」
「--泣いたのか・・・・」
 彼は目を閉じたまま、顔をそむけた。
「君のことを、とても心配していた」
「馬鹿だな・・・・」
「--あのさ、玲・・・・君は自分のせいで葉子を傷つけたと思って自分を責めてるかもしれないけど、葉子は--自分が松本をここに来させたから、君を傷つけたと思ってるんだ。でもね、君が魅力的なのは君のせいではないし、妻が夫に、兄の暮らしぶりを見てきてと頼むのだって、別に変じゃないだろう?--君たちはお互いに、気を使いすぎだと思うよ」
 玲は目を見張って、聞いていた。
「--うん、そうだね・・・・君の言うとおりかもしれない。--僕は昔から、あの子に弱くてね」
「僕だってそうだよ。--知ってるだろ、いつもすぐ、お願いねって言われてさ」
「・・・・やれやれ」
 なごやかな笑いが満ちた。玲の笑い皺を見て、僕は不意に、唾を飲み込んだ。
「・・・・玲」
 僕は静かに顔を寄せて、玲に接吻した。--長い接吻。身体が火照ってくるのが抑えられない。思わず抱き締める手に力がこもった。
「--徹」
 玲--もう四日も、していない。
「徹・・・・口で、しようか?君の・・・・」
 玲が僕の髪を撫でながら、低い声でささやく。
「--いい、そんな」
 僕は身体をもぎ離した。
 玲の深い茶の瞳が、悲しそうにまたたいた。





 金曜の午後、診察に訪れた医師に、玲は徹も立ち会っていいかと尋ねた。僕は驚き、医師も奇妙な顔をしていたが、いけないとは言わなかった。
 玲はベッドに横向きに寝て、両膝を抱え込む姿勢をとる。医師は薄い手袋を着けて肛門を少し押し開き、小さな鏡を使って内部を診察し、消毒したあと、液体状の薬を塗布する。--それから仰向けに寝かせ、腕に点滴の針を刺す。滴下速度を調整すると、彼のそばを離れた。
「三十分ほどかかります」
 窓のそばに腰掛けてそっけなく言う。僕が茶の用意をするのを断って、診療鞄からミネラルウオーターを瓶のまま飲んだ。玲の身体のこともあって、この家ではクーラーを使わない。それだけに夏はやっぱり蒸し暑くて、ちょっと辛い。
 僕は庭に医師を誘った。少しは風があるし、実は聞きたいこともあった。
「あの・・・・玲の怪我は、今、どういう具合なんでしょう」
「経過は順調ですね。裂傷はふさがってますし、少しまだ炎症が残っている程度です。点滴も、今日でおわりです」
「そうですか・・・・そうすると、あの・・・・」
 僕がちょっと赤くなったのを見て、医師は抑揚のない声で言った。
「性生活のことですか」
「--はあ」
 僕は自分が助平おやじになった気がした。いつ、できますねん、センセ。
「あの方からも、昨日同じ質問を受けました」
 --え。
「そうですね、今日はまだ少し無理でしょうが、明日以降で経過が良ければ、肉体的には大丈夫だと思います--しかし」
「--」
「これは、あちらの方には申し上げませんでしたが--今回のようなケースでは、ご本人の受けてきた精神的ショックに対してきちんとしたフォローがなされないと、性行為そのものに支障をきたす場合が少なくありません。--おわかりですね、メンタルケアということですが」
 僕はうなずいた。
「特にあの方の場合・・・・非常に忍耐力と自制心の強い方ですね。--たとえば最初の診察の際などは、診察そのものが非常な痛みと苦痛--肉体的にも、精神的にもです--があったはずですが・・・・一切顔に出されなかった。身体は正直ですから緊張で固くなっているのがわかるんですが、耐えておられた。--先ほど、あなたを立ち会わせたのもそうです。あなたにはすべてを見せなければいけないと考えておられるので、自尊心や羞恥心をわざと押し殺される。--おそらく今回の被害のあとも、同じように冷静に--感情を殺してふるまわれたのではないですか」
 そうだ。珈琲を入れ、テーブルに向かい、涙ひとつこぼさずに順序よく説明を終えた彼・・・・。
「こうあらねば、という理想どおりにふるまわれる意志の強さはご立派ですが、問題は、そのことによって、さまざまな感情--悲しい、口惜しい、憎い、辛い、恥ずかしい--などといった自然な感情を無理に押し殺してしまい、それが逆に内向してご自分の身体に跳ね返ってくる場合がある、ということです・・・・専門外なので断言はできませんが、あの方の左腕--心因性のものだとお聞きしましたが」
「--」
「--だとすれば、何か--抑えておられるものがあるのでしょう--無意識のうちに。--そして今回、また被害に遭われたことでその抑圧がよりひどい重圧にならねばよいのですが--」
 医師は時計を見た。
「少ししゃべりすぎました。--部屋に戻りましょうか。気にしておられるかもしれない」
 建物に向いた足が、つと、とまった。彼は振り返った。
「--最初に申し上げましたね、華奢な方だと」
「--ええ」
「ガラス細工のようですね--身体も」
「--あの・・・・」
 こんなことを聞けるのは、今しかない。僕は勇気を振り絞った。
「--僕は彼に、無理をさせてるんでしょうか--僕のやり方が彼に、その・・・・度が過ぎるとか・・・・彼は何でも受け入れて--我慢してしまうから」
 医師は表情のない顔で応じた。
「関係を結ばれてからどの位ですか」
「四カ月です」
「その間に、アナル・セックスの回数は」
「数えたことはありませんが・・・・六十回位は--」
「失礼ですが、あなたの前には--?」
「玲は、僕が、初めてです」
 医師は足もとの石を蹴った。考えているらしい。
「--あの身体で、ほぼ恒常的にされているにしては--慢性的な炎症も見受けられませんでしたしね--今お聞きした限りでは、特に今すぐどうこうというものはありませんね。相性がいいのかもしれません。しばらく今のやりかたでいかれていいと思いますよ--ただ」
「--はい」
「何度も言うようですが、華奢ですから--行為の後に痛い、かゆい、ほてる、しみるなどの症状があったら、治るまでは控えるべきです--あたりまえですがね」
「六十回は・・・・多いですか」
 医師は眉を上げて僕を見た。
「この種の問題で平均だの、普通だの--正常だのという言葉は、ほとんど意味をなさないと思いますがね、わたしは」
 白衣の裾がひらりと舞って、家の中に消えた。





 その週の土曜日、僕は三日振りに出勤した。久し振りの市場の活気がこころよい。月面を歩いているように身体が軽かった。
「よう、--卓也、俊男を見なかったか」
 斉藤のおやじさんがのっそりと顔を出す。俊男とは、木曜に電話で話しただけだった。それだって、単なる事務連絡だ。
「あいつ、きのうから黙ってさぼりやがって・・・・」
 この忙しいのに、とおやじさんは不機嫌だ。僕だって二日休んでいたのだからちょっとバツが悪い。僕はさっさと机に座って、休んでいた間の伝票を整理し始めた。週の中日だったから、そんなにたまってない。僕は心の中で口笛を吹きながら、コンピュータのキーボードに指をのせた。
 ピピ、ピピ。--携帯が、鳴った。おやじさんがギロリと睨む。僕はあわてて事務所を出ると、中庭のベンチに座って電話を取った。
「--徹?」
「--ああ、葉子?気になってたんだ、あいつ、どうしてる?・・・・また殴られたりしてないか?」
「松さんのこと?--もういいのよ、それは。何て言ってきたって、あたしの気持ちははっきりしてるもの。--ねえ、それよりね、あたし、つくったのよ」
 何だか興奮している。
「--つくったって--赤ん坊?」
「やーねえ、どこからそういう発想になるわけ?・・・・おこるわよ、ち、が、う、・・・・ファンク、ラ、ブ」
「--」
「藤坂玲のファンクラブ」
「・・・・話が見えないんだけど、何?--どうして--ファンクラブう?」
「そうよ」
 電話口で朗らかな笑い声がする。
「あたし、会長になったんだから--会長として、生きていくの。会員だって、もういるのよ・・・・あ、でも、徹は駄目よ、あなたは彼の、特別関係人なんだから」
「葉子、酔ってるのか?・・・・そこ、どこ?どこからかけてるの?」
「うふふふふ」
「--葉子!」
「・・・・徹」
 葉子の口調が変わった。
「酔ってるわけじゃないの--心配してくれて、ありがとう。今度のことでね、あたしよーくわかったの。あたしのなかで、兄さんがどんなに大きいかって。--松さんがどんなに荒れてめちゃめちゃになっていても、あたしには兄さんのことの方がもっともっと心配だったの。・・・・そこから目をそらそうとしたのが、そもそもの間違いだったのよ」
「--」
「ホテルのロビーで徹と別れてから、あたし、青果市場をうろうろしてたの。もう夕方だったから、徹がいないことはわかってたけど、なんとなく思い出があって、離れがたくて--」
「--」
「そうしたら、兄さんを知ってるという人とばったり会って、すっかり意見が合っちゃって、ファンクラブつくろうということになったの--それから、その人のアパートに行って、第一回会議を開いたの。それからね・・・・ずっと会議してて、今まで」
 今まで--今までって、今日は何曜日だ。葉子と会ったのは木曜だったから・・・・
 二泊。
 頭の中が白く塗りつぶされていく。
「--でも、いったん今日の便で帰ります。・・・・あたしは、大丈夫。会長として肝が座ったから、・・・・何にも怖くないわ。松さんともきちんと話して、別れます」
「葉子、--近くにいるんだったら、・・・・俊男を出してくれ」
 少しだけ、間があった。
「おーい、卓也?」
 俊男のとぼけた声が響いた。
「俊男!--馬鹿、おまえ、わかってんのか。・・・・葉子は玲の身代わりじゃないぞ!そんなつもりならやめてくれ!」
「・・・・失礼だよ、そんな言い方、葉子さんに--葉子さんは葉子さん、玲さんは玲さんだろ、全然別だよ--第一玲さんはさ、なんだか生身の人間って感じじゃなくて、雲の上の存在なんだよな・・・・俺なんかもう崇拝して崇めちゃってるわけ。葉子さんはちゃんとした、人間の、大人の女だもん。--俺さ、・・・・いいかげんに見えるかもしれないけど、案外マジなんだぜ。俺のアパートに来てもらったけど、まだ手も握ってない。信じられないだろうけど」
「--」
「それよりさ、俺ファンクラブの事務局長だから、よろしく。また正式にあいさつにいくわ・・・・今日はこれから忙しいんだ。会長を釧路まで送り届けるって任務があるし」
「おい、俊男、そういえばおやじさんが・・・・」
「月曜は無理だけど、火曜には出るからっておやじさんに言っといてよ、あ、--葉子さんに変わる」
「--徹、--そういうわけだから、心配しないでね、兄さんをよろしくね、もう時間だから、切るわ・・・・お願い、ね」
 僕が何か言おうとする前に、電話は軽い音を立てて切れた。
 僕はしばらく呆然として電話機を見ていた。
「お願い、ね、か・・・・」
 玲、また言われちゃったよ。
 僕は轟音をあげて離陸していく飛行機を思い浮かべて、苦笑した。





「おかえり」
 家に帰ると、玲がキッチンで働いていた。僕は驚いて駆け寄った。
「--もういいのか?起きたりなんかして」
 玲は振り向いて、ちょっと笑った。鍋にロールキャベツが煮えている。
「先生から電話があってね、今日は夜遅く来るって」
「ふうん」
「昼御飯食べたら--上に行こうか」
 --え。
 上って--屋根裏部屋のことか。ここ数日、玲の看病のために僕たちは一階に寝起きしていたが、もとは天窓のある屋根裏部屋のベッドで寝ていたのだ。
「メイクは--もうしてあるんだ」
 玲はライスの皿を渡しながら、少し赤くなった。
 僕も、なんとなく照れて、もじもじした。
 --何をやってるんだ、六十回もしておいて・・・・
「・・・・玲、そういえば・・・・あの先生に、聞いた?いつからなら、とか・・・・」
「聞いたよ」
「--」
「--だから・・・・大丈夫だから」
「・・・・でも--」
 ガラス細工、という言葉がひっかかっていた。
「--そんな気に、ならない?」
「--」
「--焼き肉の方がよかった?」
「馬鹿、そんなんじゃ--」
「もう、触りたくない?」
「--玲」
 僕は彼を睨んだ。玲は笑顔をつくった。
「・・・・冗談だよ」
 じゃあなぜ、指が震えているんだ。--僕は食べかけのフォークを置いた。
「--行こう」
 玲が睫毛を上げて僕を見る。
「行こう、上に・・・・今すぐ行こう」
 彼はうなずいた。



 窓を開け放すとささやかながら風が入ってきた。一面の蝉の声。
 これなら多少声をあげたってわからないな--と考えている自分に気がついて、僕は思わず赤面した。ベッドには真っ白なシーツがかけられている。
「・・・・シーツ、替えちゃったのか」
 --言ってしまってから、口を押さえた。
「--どうして?」
「いや・・・・白状するとさ、君の留守中、ずっと、同じシーツにくるまってて」
「--」
「その・・・・君の匂いがしてさ・・・・」
 玲はベッドに腰掛けたまま、目をそらせた。
「・・・・徹、ごめん--僕はたとえひと晩でも、君から離れるべきじゃなかった。--バチがあたったんだ」
「--鹿児島に行けってすすめたのは僕だよ、それに--言っただろ、君が魅力的なのは君のせいじゃない、あいつが勝手に--」
「松本は、いいやつだった」
 玲ははっきり言った。
「僕は--僕はね、徹・・・・小さい時からどうしてだかわからないけど、いろんな人に親切にされてね。学校の先生にも、近所の人にも、--入院先のあちこちの病院の看護婦さんやドクターにも。・・・・みんな僕に話しかけたり、髪を撫でたり、肩にさわったりしたがったんだ。最初のうちはちやほやされて嬉しかったけど、いつ頃からかそれが・・・・何か生臭い息を吹きかけられているような、嫌な気持ちになって・・・・」
「--」
「ドクターのなかにも、今思えば少年趣味の人がいて・・・・僕はずいぶん・・・・慰みものにされた。--とは言ってもね、極端なことはしないんだ。自分のジッパーはおろさない。僕を丸裸にしてね、指で--いってみれば、触診するんだ。身体中を、ものすごくていねいに・・・・性器までね。面白そうに--くわえられたことも何回か、ある」
「玲、それは--言ったの、誰かに」
「・・・・君も知ってるだろう、母さんが--生まれたとき、十才までしか生きられないだろうと言われたほど弱かった僕のために、あちこちの病院を駆けずりまわって、有名なドクターに必死で頼んで、診てもらってたこと」
「--」
「その有名なドクター・・・・というのがその人でね」
「--玲」
「・・・・まあ病院とは中二のときにいちおう縁が切れたから助かったんだけど、それ以来--何ていうか、まわりの人がみんな猫で、僕はその餌になったように思えて--必要以上に他人を意識して、友だちづきあいも避けるようになった」
 僕は高校時代、一学年上にいた彼を思いだした。ハンサムで成績がトップクラスだった彼は当然のごとくもてたが、いつも独特のひんやりとした壁をつくって、人を寄せつけなかった。
「そのなかで、松本はね、--僕に変な気持ちを持たないでつき合える、ほとんど唯一の友だちだった。大きくて、優しくてね・・・・僕はずいぶん彼に助けてもらった」
 僕だって、葉子だってそうだった。だから葉子は松さんと結婚したんだ。
「その彼の気持ちに自分が気づけなかったことが--やりきれないんだ。僕は、辛い恋をしているのは自分だけだと思ってて--自分が悲劇の主人公になったみたいに悲壮がってて・・・・まったく気づかなかった。でも・・・・でも、まさか、あの、松さんが・・・・」
 僕は玲の横に座って、静かにその半身を抱いた。
「--君のせいじゃない。君は彼を信頼していたからこそ、ホテルの彼の部屋でいっしょに飲んでたんだろう?信頼を裏切ったのは相手の方じゃないか」
「僕は彼を甘く見てた。--頼んだら、何でも言うことを聞いてくれると思い上がってた。気軽に挑発して--」
 玲は不意に僕を振りほどいて、窓際まで歩いた。
 入道雲をバックに、影が濃いシルエットになっている。 
「・・・・ごめん、徹--こんな話をするつもりじゃなかった」
 硬い声だ。
「・・・・こっちに来ないか、玲。--それとも、下から何か飲み物を持って来ようか?」
 彼は身体の向きを変え、窓にもたれて僕を見た。
「君は僕にやさしすぎる」
「--じゃ、うんと激しくいじめてやろうか?」
 玲が微笑した。
「・・・・いいよ」
 そして、僕に向かって歩いてきた。




10


 玲は僕の横に座ると、まっすぐに僕を見た。
 夏の午後の陽射しがその顔に濃い陰影をつくっている。広い額、長い睫毛に縁どられた深い色の瞳、細く通った鼻梁、くっきりと結ばれた薄い唇。きめ細かな肌の奥に少し病やつれが残っている。崩れた花のような風情が甘い情感を添えて、濡れた瞳が美しかった。僕はその頬をてのひらで包んだ。なめらかな磁器のようなひんやりした感触。
 僕は顔を近づけて、ゆっくりその額に唇をつけた。玲がぴくっと震える。舌を瞼に這わせ、頬をたどって・・・・唇まできた。玲の、唇・・・・
 身体の震えがとまらない。--心臓が飛び出しそうに鳴っていた。
 --これまで、六十回以上は抱いたはずだ。--抱かれたのまで数えると、絶対百回は越すだろう。キスなんて、何百回もしたじゃないか。
 --そうだ、何百回しても、いつも初めてのときのように、胸が、震える・・・・
 僕は唇を重ねたままで腕を彼の背にまわし、壊れものを置くようにゆっくりと体重をかけて彼をベッドに押し倒した。
 玲はずっと目を閉じている。シーツに着地した瞬間、わずかに唇が開いた。僕はそのやわらかな桜色の唇を割って、熱い舌を入れた。玲が応じる。ふたつの舌が絡まり合った。甘い--味がした。蜜の味だ。玲の身体のなかから溢れ出る、かぐわしい蜜の味だった。僕は夢中でその蜜を吸った。脳髄に甘い液体が広がった。幻惑に近い快感がからっぽの身体を満たしてゆく。
 ああ、これだ--僕が飢えていたもの、僕が渇いていたもの、それなしではひと時たりと過ごせない、麻薬のような強烈な・・・・
 玲の息が荒くなった。ようやくのところで顔をねじり、僕の唇から逃げ出して、はあはあとを息をつく。
「・・・・息が、できないよ--徹」
「皮膚呼吸をすればいい--させてあげようか」
 僕は玲のシャツのボタンをはずした・・・・玲はされるままになっている。
 それから顔を傾けて、彼のやわらかな耳の下の皮膚に接吻し、舌を這わせてシャツの前をはだけていった。白い胸があらわになる。左胸から肩にかけてのナイフの傷痕。醜いひきつれになった長い直線を僕の唇がたどった。
 胸を全部はだけると、玲は後ろ向きになった。僕はシャツの両袖を抜いた。背中がむき出しになる。僕は彼の襟足の髪をあげて、日にさらされていない真っ白なうなじにくちづけをした。玲の吐息が漏れる。
 僕は玲を後ろから羽交い締めにして、唇を首から背中の窪みに沿わせた。なめらかな曲線。その到着点にわずかに薄い体毛がある。指は彼の乳首を捕らえた。やわらかく--すぐに固くしこってくる乳首。それが美しいピンク色をしていることを僕は知っている。--腕が徐々に下に降りた。ジーパンの錨に手がかかった。
「徹、僕が--自分で脱ぐから」
 玲の手が僕をとめた。彼は起きあがり、片手で器用に服を脱いで裸になった。僕も自分で服を脱いだ。僕たちは生まれたままの姿で、少し--恥ずかしかった。
 --もう百回もしてるんだぞ。それなのに--いつも肌を触れただけで、身体中が火照ってしまう。どうしていいかわからなくなる。
 玲も照れくさそうにちょっと笑って、身を横たえて僕を誘った。僕は彼に覆いかぶさり、膨らんだペニスに舌を添えて、ていねいにミルクを絞り出した。そしてもう一度彼をうつ伏せにして指を使い、ミルクで湿しながらゆっくりと肉を押し開いた。--華奢な方ですから、と、あの医師の声を思い浮かべる。華奢な方ですから--
 僕は玲の腰を持ち上げ、膝をつかせてペニスの先をあてがった。彼がさっと緊張する。身体が完全に固くなる前に少しだけでも入れないと--僕は思いきって、ぐっと腰を入れた。玲が思わず前に逃げる。その腰を両手で掴んで引き戻したはずみで、もっとぐさりと入って--
「あ--あああああああああ--」
 動物のような絶叫が脳天をぶち抜いた。
 何だ、どうしたんだ--何が--雷でも落ちたのか--
 僕は動転した。
「やめろ--やめろ--やめろ--やめて--」
 --信じられない。
 目の前には玲が--いつのまにか僕から身を離した玲が--団子のように身体をまるめて、がたがた全身で震えていた。喉から絞り出すような悲鳴をあげて。
「やめて--松さん・・・・やめろ--やめろ--やめて・・・・」
 --玲。これは・・・・
 --フラッシュバックだ。--僕の頭がすうっと冷えた。
「ああああああ・・・・ああああ・・・・」
 悲鳴は泣き声に変わった。胸をかきむしるような悲痛な声--
 僕は玲の肩を掴み、ぐいと捻って僕の方を向かせた。
 涙に濡れて見開かれた大きな瞳。--すぐに新しい涙が玲の頬を濡らす。
「ああ、・・・・ああああ・・・・」
 席を切ったように溢れ出る涙。泣きじゃくる彼はちいさな子どものようだった。僕は玲を抱き締めた。肩に熱い涙が押しつけられる。しゃくりあげるたびに、腕の中で細い身体がしなった。
 --かわいそうに。
 かわいそうに。かわいそうに・・・・
 それは今まで持ったことのない感情だった。
 人より少し目立つ外見に生まれたばかりに、いつも他人の欲望の視線にさらされて、いたずらされても我慢して、人の好意から身を遠ざけて、友人もろくにできず、やっと信じた親友には暴力で犯されて--
 それなのに弟として育った僕さえもが、彼を欲望の対象として見てしまうのだ。
 --玲。・・・・ごめん、玲--
 僕は玲の髪を撫で、その涙の頬に唇をつけた。
 いとおしかった。
 僕よりひとつ上の、ずっと信頼してきた兄貴、何でもできる男として尊敬してきた恋人に、僕は初めて、心の底から、いとしいと思った。




11


「--徹」
 玲は少し落ちついてくると、顔を赤らめて僕を呼んだ。
「・・・・ごめん、何だか--取り乱して・・・・自分でも、よくわからない、どうして--」
「玲」
 僕はできるだけやさしく言った。
「君の泣き顔を見たのは、生まれて初めてだ」
 玲はつまった。--顔をそむける。徐々に耳たぶまで・・・・赤くなった。恥じているのだ。僕はその横顔を見ながら--
 腹を決めた。
 僕は彼を抱き締めたままの姿勢で、ささやいた。
「玲、僕が君の家にひきとられて、君に初めて会ったのは五才のときで、・・・・君は六才だった。--覚えてる?」
 彼がいぶかしげに僕を見る。
「--君はそのとき、もう・・・・おとなしくて、静かな子どもだった。僕と違って、泣きわめいたり、かんしゃくをおこしたり、汚い言葉で友達とやり合ったりしているところを見たことがない」
「--」
「--でも、いくら君だって、赤ん坊のときからそうだったわけがない。--三才ぐらいのときには自分の感情そのままに笑ったり、泣いたり、怒ったりしていたはずだと・・・・思う」
「--」
「玲、僕は・・・・僕はね、君から、どうしても欲しいものがあるんだ」
 緊張で声がねばりつく。
「--何?」
「・・・・くれる?」
 玲はちょっと笑った。
「あげられるものなら。とっくにあげてると思うけど--まだ、何かあったっけ」
「--まだ、もらってない」
「・・・・何?」
 僕は抱き締めた腕に力を込めた。
「--三才のときの、君」
 彼はまじまじと僕を--見た。その目には驚きと--不安の色がある。
「・・・・どういうこと?・・・・今、僕は二十五だよ--」
「--言葉どおりだ、・・・・三才のときの君。--三才のときの、まだ、まわりの人の思惑やら期待やらで自分の感情をセーブすることを知らない、ありのままの、感情むき出しの、・・・・泣いたり、笑ったり、怒ったりする、素顔のままの君」
「--徹」
「・・・・今回のことでも、君は自分の感情を抑えて普通どおりふるまおうとしている。--でも、そんなこと不自然だ。・・・・あんな目にあったんだ。もっと悲しんだり、憎んだり、--泣きわめいたりして当然だと思う。--今みたいに」
「--それは、・・・・長い間の僕の習性だよ。--それに、君が思ってるほど、僕は落ちついてるわけじゃない。・・・・けっこう、これでも修羅場なんだ--自分では」
「でも、僕には修羅場を見せない」
「--そりゃ、そうだ。・・・・見せてたら、僕だってやりきれない」
「--どうして」
「どうしてって--」
「どうして、とり繕うんだ」
「とり繕ってなんか、いない」
「じゃ、どうして平気なふりをするんだ」
「平気なわけじゃない」
「どうして言わないんだ」
「徹--」
 玲は顔をそらして、言葉を探した。組み敷かれた手が汗ばんでいる。
「・・・・なんで君がそんなことを言うのか、わからない。僕が自分の胸の中に起こった感情をいちいち言って、どうなるんだ。--そんなもの、原始的で、未分化で--整理されてなくて、醜いだけじゃないか。--そんなものを君の前にさらして、いったい何になるんだ」
「僕が・・・・知りたいんだ」
「--知って、どうするんだ」
「・・・・分かちあいたい」
「何を」
「君の--すべてを」
 玲がきっと僕を睨んだ。
「僕のすべてだって?--君は僕の--いったい何を知ってるんだ。君が僕の恋人だからって--僕が君に恋してたって--君は何にも知らないんだ、僕が・・・・」
 声が途切れた。彼は睫毛を伏せて、二、三度まばたきをした。
「・・・・僕が、--どんなに汚いか」
「--」
「徹、--この際だから言うけど、君は僕なんかから見るととても正直で、純粋だ。--でも、みんなが君のようなきれいなこころを持っているとは限らない。--僕の胸の中なんか開けてみたら、君は絶対卒倒するぞ」
「--玲」
「・・・・ありがとう、徹、--そんな風に言ってくれただけでも僕はものすごく嬉しいよ。--君は、僕のさっきの・・・・失態を見て、僕をかわいそうに思ってくれたんだろ?・・・・でも、同情は、嫌だ。君に同情されるのだけは、嫌だ、だから--」
「--またそうやって、逃げるのか」
「逃げる?」
 彼が向き直った。
「逃げてるじゃないか、僕から。・・・・そうやって、きれいに整理されたこころの表面だけ見せて、内側は隠したままで・・・・それで僕のことを--愛してる、なんて--言えるのか」
「--」
「--君は言ったじゃないか、こころも、身体も、みんな僕のものだって。--君の言う、こころ、とやらは--きれいに包んでリボンをかけた、よそゆきのこころななのか--僕の欲しいのは、そんなものじゃない、きれいだろうと、汚かろうと、そんなこと問題じゃない。僕は、君の、全部が欲しい。全部を、僕に、投げて欲しい--」
「--徹」
 玲は、信じられない--と言うように首を振った。
「君は自分が何を言っているのかわかってるのか。--人間が、人間に、全部を投げるなんて--そんなことができると本当に思っているのか。・・・・第一、投げてみて受けとめ損なったらどうするんだ?」
 玲は笑った。
「--僕は受けとめてみせる、玲」
「--」
「僕はそれが君なら、どんなことがあったって、受けとめてみせる」
 あの方はガラス細工のようですね、身体も--、とあの医師は言った。
 身体も、・・・・こころも。
 --受けとめ損ねたら、粉々に砕けてしまうだろう。
 それでも--僕は覚悟していた。
「玲・・・・」
「--この話はこれで終わりだ、徹」
 玲ははっきり言った。
「君の気持ちは嬉しい。--でも・・・・これは僕自身のスタイルの問題だ。・・・・自己中心的な世界しかない三才の子どもが二十五才になるまでに培った人間関係のスタイルなんだ。・・・・それがたとえ君から見て、いびつで不完全なものであっても、僕にとっては大切なものなんだ」
「そうか--玲、・・・・僕が君の恋人でも、そこから先は立ち入らせないってことなんだね」
 僕はほほえんだ。--決死の覚悟で。
「僕が君を求めても、君はお城の応接間までしか入れてくれないってわけだ」
「--徹」
「奥の部屋まで入らせたら、僕が泥棒でもするか、逃げ出すかって思ってるんだ、・・・・そうだろう?」
「--」
 玲が唇を噛んだ。
「・・・・それなら」
 僕に合わさった玲の胸。
「それなら、僕は--」
 僕に握り締められた細い指。
「僕は--ここにいる意味がない」
 見開かれた瞳。
 --ちくしょう・・・・何だってこんなときに、こんなにもきれいなんだ--
「--徹」
 玲の声がかすれている。
「・・・・どういう意味だ」
「--言ったとおりだよ」
「--」
「君が嫌だっていうんなら--僕は出ていく」
 玲の顔から血の気がひいた。
「----冗談----」
「・・・・本気だ」
 彼が息をつめる。唇が怒りで震えている。
「--卑怯だ!君は--恋愛を担保にとるのか!」
 玲が叫んだ。




12


 僕は答えなかった。
「卑怯だ、こんな--こんな--君に組み敷かれた格好で、こんな--すべてを渡すか、ゼロかなんて選択を、僕に--」
 玲の瞳に涙がにじんだ。
「何を言われても・・・・僕は君が欲しい」
「--」
「君のこころのすべてを、僕に投げて欲しい。--僕は受けとめてみせる、どんなことがあっても」
「--」
「君は怖いんだろう、僕が受けとめ損ねると思って」
「・・・・違う」
「何」
「--そんなものは--ちっとも怖くない・・・・僕が--怖いのは--」
「--」
「--怖いのは--君が・・・・」
 彼は目をそらした。
「--君が僕の本性を知って--君から嫌われるのが怖いんだ、--君に嫌われて、憎まれて、こんなはずじゃなかったと思われて--僕から去って行かれるのが怖いんだ。それぐらいなら・・・・」
 涙がひと筋、玲の頬を伝った。
「--玲、僕は君を嫌いになんてならないよ。僕は君が優秀だから、立派だから好きになったんじゃない。・・・・そんなこと、どうだっていいんだ。--うまく言えないけど、君がただそこにいて--寝て、起きて、歩いて、笑って--そうして生きている君自身が、僕にはものすごく尊くて、いとしくて、大切にしたいものなんだ。・・・・だから僕は君のどんなところを見たって驚かないし、何があったって、平気だ。まるごと君を、受けとめてみせる・・・・受けとめさせてくれ--僕に」
 玲は黙ったまま、目を閉じた。
「--玲」
 声がかすれた。
「・・・・決めるのは、君だ--どっちにする」
 玲が僕を見る。ガラスのような透明な瞳で--
「どっちに・・・・する」
 この腕の中の弾力のある身体。細い首。なめらかな皮膚。桜色のペニス。
 伸びやかな脚。やわらかい髪。長い指。--僕がつけた胸の傷痕。
 --玲・・・・君を失ったら、僕は死んでしまう・・・・玲・・・・玲・・・・
 僕は心の中で叫んだ、何度も、何度も、何度も。
 玲。
「--徹」
 玲がぽつりと言った。
 その顔に、さざ波のように微笑が広がった。
「--わかった、徹・・・・ただし、条件がある」
「--条件?」
「--僕だけが泣き顔を見られるのは割に合わない」
「--」
「--五才のときの君を僕にくれること--それが、僕の条件」
 --え。
 僕は面食らった。
「ご、五才のときなんて--今とあまり変わらないよ、今更、そんなもの--」
「--ありのままの、感情むき出しの、・・・・泣いたり、笑ったり、怒ったりする、素顔のままの君」
「--」
「・・・・僕にくれないか?--決めるのは君だよ、徹」
「玲--」
 --こいつ。
「早く答えろよ」
「--これが、答えだ!」
 僕は玲を抱き締めて、顔中を唇でぐちゃぐちゃに舐めまわした。玲がくすぐったがって身をよじる。僕は容赦しなかった。
「--玲、玲、玲・・・・」
「--こら、離せったら、徹--」
 彼はやっと腕で僕の顔を押しのけた。--腕越しに僕を見上げる。
「いいのか、・・・・徹」
 真剣な顔だった。
「--取り消すなら、今のうちだよ、今ならほんの--ピロー・トークで済む」
「取り消さないよ」
「--僕を・・・・全部・・・・預けても、いいのか」
「いいよ」
「・・・・本当に、知らないよ--どうなっても」
「--いいったら--玲、しつこい!」
 とうとう僕はどなった。
「わかった、もう、聞かない--みんな、やる。僕の--全部、君に、あげる」
 玲は観念した。
「--ありがとう」
 僕はうやうやしく、受け取った。
「じゃ、もらったよ。三才のときの君、二十五才のときの君、四十五才のときの君、・・・・六十五才のときの君」
「え、--いつの間にそんなに増えたんだ」
「全部って言っただろ、・・・・だから、一生分、もらった」
「--代償は?」
「僕の一生だ」
「--」
「僕の一生をやる。--受けとめ損なうなよ、玲」
 僕はとびっきりの笑顔をつくった。




13


 夢のような時間が過ぎた。
 僕たちは幸福で張り裂けそうな胸と胸を合わせて、お互いの心臓の音を聴いていた。少しでも動いたら破裂しそうだったのだ。接吻をするのも惜しかった。ただじっと見つめ合っていたかった。
 --玲。
 僕は信じられなかった。こんなにも人を好きになれるものなのか。
 好きという気持ちが、おとといよりは昨日、昨日よりは今日、今日よりは明日と、君に会うたびに、君を見るたびに深くなる。そうやっていつのまにか階段を深く深く降りてゆき、気がついたときには地面ははるか頭上にあって、なおこの暗闇の底は目が眩むほど遠く、果てしなく僕を誘う。君という深くあたたかい恋の淵。蜜の湧き出る洞窟の泉。むせかえる甘い香り--僕の中のすべての想いが君に向かって流れてゆく。
「徹」
 玲が睫毛をあげる。やわらかい声が耳をくすぐる。
「・・・・夜までにはまだ間がある。・・・・もう一度--抱いて欲しい」
「--大丈夫?」
「・・・・うん」
 彼が笑いかける。胸がしめつけられる。
「さっきはバックだったから--思い出したんだと思う。だから--」
「・・・・そっと、するよ」
「--そっとでなくてもいい・・・・それに、また思い出しても--また、・・・・泣けばいい。そうだろ?」
 --そうだ。また僕が抱き締めればいい。何度でも、涙が涸れるまで抱き締めればいい。そのために僕がいるのだ。
「--玲」
 僕は身を横たえたまま、両腕を広げた。玲が飛び込んでくる。火のように火照った身体が僕に絡みついた。
「--徹・・・・」
 玲の唇が性急に僕をむさぼる。
「--徹、・・・・好きだ・・・・徹・・・・」
「--玲」
 --こんなにストレートに言われたのは--初めてだ。
 玲はちょっと顔を赤らめた。
「--驚いた?・・・・ずっと言いたかったんだ--もう、素直に言ってもいいだろ?だって、三才、なんだから・・・・」
 僕はくちづけで返事をした。
 すぐに玲の熱い舌が入ってくる。頭の芯が溶けそうだ。
「徹--好きだ・・・・」
 唇が、離れたかと思うとまた重ねられる。いっそう激しく震えながら。背にまわされた手に力が入る。裸の起伏を確かめるように玲の指が這いまわる。長い長いキスのあと、やっと僕の唇が解放される。目を開けると、玲の瞳が間近で僕を見つめていた。
「徹・・・・」
 初めて恋をした少女のようにその声は切ない。
「玲、僕も好きだ・・・・本当に」
 玲の顔がぐしゃぐしゃにゆがむ。黙って僕を抱き締める。頬が燃えるように熱い。胸が破れそうだ。
 ここにいるのはいったい何才の彼だろう。僕を恋い、僕に焦がれて何も言えずに見つめ続けていた少年の日の彼だろうか。生涯秘めておこうと決めた胸の炎に灼きつくされて果てることを望んでいた何年か前の彼だろうか。
 玲が僕を見る。うっとりとして、少し悲しそうなまなざし。
 僕も彼を見る。持てる限りの想いを込めて・・・・
 君を、一生、離さないと決めたのだ。
 僕の、すべてを、やる、と誓ったのだ。
 玲--
「--何、考えてる?・・・・徹」
「--君と同じこと」
 玲は笑った。
「--いやらしいね」
 僕の腹に手が伸びる。はちきれそうになった固いものに指がかかり、リズミカルに揉み始めた。思わず--声が出る。玲はちらっとぼくを見て、僕の股間に顔を埋めた。あたたかく湿った唇。先端をチロチロと舌が舐める。裏筋をたどる器用な指。時おりペチャ、ペチャと品のない音をたてる。--ああ。
 --溶けそうだ。快感が背骨をずりあがってくる。耐えきれずに、また声が出た。次の瞬間、一気に喉の奥まで深々と--くわえられた。熱く濡れた玲の洞。自在に動きまわる舌の斥候。僕はほとんどなすすべもなく、脳髄をぎゅうっと絞られていくような快感に身をまかせていた。--ああ。--玲。--玲・・・・。僕は腕を伸ばして玲の髪を引っ張り、顔をこちらに上げさせる。真っ赤に上気した端正な顔。髪が汗で貼りつき、瞳はうるみ、唇がぬらぬらと光って赤黒い肉の棒をほおばっている。その瞳が挑戦的に僕を見返す。--どうだ?徹・・・・いいだろう?
 かっと頭の奥が熱くなる。僕は身体の向きを変え、玲を下に組み敷いた。
 両膝を持って、思いきり左右に割る。白い身体が大きく開かれて、僕を下から見上げていた。なんともいえない切ない表情--
「--徹・・・・」
 玲が僕を呼ぶ。かずれた声で僕を求める。--濡れた瞳。半開きの唇。乱れた髪。白い胸の丘。ひきつれた傷痕。乳首。臍。屹立したペニス。やわらかな袋。桜色の--アヌス。--喉がからからに渇いた。
 僕は指を湿らせてゆっくりと桜色の扉を揉みしだき、洞窟の中に潜入させた。指の先で軽くえぐりながら前に進む。熱い粘膜がひたひたと指の腹にあたる。玲の息が荒くなる。僕は指を増やした。
 少しずつ、少しずつ、玲の身体が押し拡げられてゆく。--ああ。玲が呻く。苦しそうに・・・・それが苦痛だけではないのを僕は知っている。玲の赤い顔がさらに赤くなる。眉をきつく寄せ、唇を噛みしめている。玲のペニスが悶える。ピンク色の肉の棒に太い血管が浮きあがる。僕はそれを口に含んだ。
「--あ・・・・」
 むせかえるような玲の匂い。舌に味わう極上の蜜--ああ、玲・・・・
 君が好きだ、君が好きだ、何千回、何万回繰り返したってかまわない。
 僕のために開かれた君の花園。僕しか奏でられない天上の楽器。
 僕の指が屈伸すると、口の中のものが暴れる。舌を激しく使うたびに、後ろの洞窟が伸び縮みする。僕は指と舌を同時に使った。玲が悲鳴をあげて、のけぞった。僕は愛撫をゆるめない。
 羞恥で真っ赤になった玲の顔。泣かされまいと歯をくいしばっている。その顔が僕の動きに応えてゆがむ、悶える。声を--こらえる。目を閉じて、こらえる。
「--目を開けろよ」
 僕は要求する。僕たちの約束だ。玲は目を開けて僕を睨みつける。その目に薄い膜がかかる。--降参か?・・・・もう、降参するか?それともこのまま、いかせてやろうか?
 玲の指が僕の頭に触れる。--もうやめて、と髪を撫でる。僕はやっと唇を離して、勝利の笑みを彼に送る。玲の瞳が涙でにじんで・・・・僕はほんの少し、後悔する。
 --どうする、このまま--できそうか?僕は目で問う。
 --大丈夫、と玲が答える。大丈夫だ、徹・・・・
 僕は玲の足もとにまわり、彼の両膝を持ってふくらはぎを肩に掛けた。
 大きく息を吸い込む。先ほど玲の口腔で溶けかかっていたペニスは、まだ勢いを失っていない。扉も今なら大丈夫だ。
 --玲、いくよ。・・・・ひとつに、なろう。
 僕は膝を持った手を前に押す。角度をつけて先を入れ、膝を戻してぐっと中に差し入れた。--ああ。玲が呻く。白い胸が大きく動いて、ペニスの先が細かく震えた。僕はもう少しぐっと突く。--異様な感覚が僕を貫いた。
 --どうしたんだ。いつもと違う--違いすぎる。あいかわらず細い--細いのだが、やわらかい。突くたびに、進むたびにずるずると中に入ってゆく。玲は平気か、--大丈夫なのか。これは、何だ。あたたかく、やわらかい肉がぐいぐい締めつけてくる。すごい。吸い込まれそうだ。まるでこれは女の--いや、女よりはるかに細くて--進むだけでもう果ててしまいそうな、熱帯の、洞窟・・・・
 気がつくと奥まで入っていた。湿った、あたたかい肉の壁がどくん、どくんと鼓動してぴったりと僕を包む。玲の鼓動だ。玲の白い胸の下にある心臓の鼓動だ。玲の洞窟。玲が生きて、僕を求めて、僕を迎えている洞窟だ。
 僕は玲の顔を見た。--もっと奥まで行ってもいいか。いちばん奥まで行ってもいいか?玲がうなずく。目で返事をする。早くおいで、と誘っている。
 僕は肩に彼の膝を乗せて、上体をぐっと前に屈めた。彼の身体が完全に二つ折りになり、はずみで僕はずっと奥まで--いちばん奥まで侵入した。
「--うう・・・・」
 痛いか、玲、大丈夫か--貫かれるときの痛みは、いつだってとても辛い。僕はそれだけで失神したことだって、ある。でも僕たちはいつでも、どちらが下になっても、結局はこの、いちばん結合の深い姿勢をとってしまうのだ。深く繋がりたい、繋がってひとつになりたい、ただそれだけの想いのために。
 玲がぜいぜいと息をついている。顔は汗でいっぱいだ。切なそうに僕を見上げる。君をこんなに痛めつけて、僕は何をやっているのか--
「--おいで」
 やわらかい声。深いまなざし。汗が匂う。玲の--匂い。僕の、一生。
 いいのか、玲、いいのか、僕で。僕を誘って、本当に、いいのか--
 僕は彼の目を見つめながら、泣きそうな想いを振り払うように腰を動かした。
 --ああ。
 --すさまじい快感が襲ってきた。突き上げる、突き通すように突き上げる僕にやわらかい粘膜が生きもののように絡みつき、粘りながら締めつけてくる。熱い蜜のようなベールをかぶせて。僕は突く。玲が絡む。僕が振りきる。玲が襲いかかる。僕が突く。玲が悶える。僕が叫ぶ。玲が・・・・
 ああ、玲が、玲が、玲が、絡みつく。熱い、熱い、熱い蜜を出して--
 僕の、夢。僕の、一生。僕の、いのち。僕の------
「あああ------」
 絶叫が、聞こえた。
 光が、炸裂した--極彩色の光の渦。
 眩しさに目がくらんで、僕は前に倒れ込んだ。彼の足が肩を滑り落ちて左右に投げ出される。僕の頭が玲の胸にぶつかった。
 そのまま・・・・
 僕はしばらく目を閉じて、肩で大きく息をしていた。
 玲・・・・同時に、いったのか・・・・
 僕はぺったりと玲の胸に右の頬をつけて、彼の心臓の音を聴いていた。
 どくん、どくん、どくん・・・・
「--徹・・・・」
 あたたかい声が頭上から僕を呼ぶ。髪にやさしい指の感触がした。
「--どうだった?」
 僕は自分だけでほほえんだ。
「さあね--君は?」
「・・・・それが、不思議なんだ--はじめから、全然痛くなかった・・・・魔法でもかけられたみたいに--すごくよかった。・・・・こんなのは、初めてだ」
 僕はあの洞窟のやわらかさを思い出した。
「僕はさ・・・・君がミミズでも飼い出したのかと思ったよ」
「こら」
 顔の前から手が降りてきて、僕の鼻をきゅっとつまんだ。
「痛いな、よせよ、もう・・・・髪にも、触るなよ」
 僕は頭を振り回した。
 --え。
 ・・・・何?
 --今、僕は--何て言った?
 一瞬、頭が真っ白になった。--僕はがばっと起きあがって、玲を見た。
 玲の瞳が、凍りついている。
 その目の前には、左手のてのひらが、あった。
 いま、僕の髪を撫でた左手。
 付け根から先が全く動かなかった、玲の左手。
 動かせないために肉が落ちて、骨と皮だけになった細い手を、玲はゆっくりと開き、また、ゆっくりと、--閉じた。
 今度は左の肘を、慎重に、曲げた。
 手首も同様に、動かした。
 スムーズに、何の支障もなく、以前そうだったように、腕はなめらかに動いた。
「--玲・・・・」
 僕たちは顔を見合わせた。・・・・言葉が見つからない。
 ようやく玲がにっこり笑ってから、僕は我に返った。



 玲の左腕が甦った。長い別離と再会のときを経て、僕たちを隔てたあの辛い事件が、今こそ完全に葬られてゆくのを、僕たちは見ていた。




14


「--そうだ、葉子にも教えてやろう、びっくりするよ、きっと」
 僕たちはシャワーを浴び、ワインで乾杯した。スパゲッティを食べながら。
 僕は葉子が玲のファンクラブ、とやらをつくった話をした。
「僕は駄目だって言われたよ、特別関係人だからって」
「そりゃ、ひどいな」
 玲は二本目の栓を開けた。
「配偶者とまでは言わなくても--せめてパートナー、くらい言って欲しいね」
「でもそれじゃ、里美おばあちゃんにはわかんないだろ」
 玲は変な顔をした。
「どうしてそこに、おばあちゃんが出てくるの?」
「・・・・どうも、僕のカンではね、スポンサーはおばあちゃんだ」
「--まさか」
「--言ってなかったっけ?いつかのおでん以来、玲の大、大ファンなんだぜ」
 玲はワインを吹き出した。



 その日、医師が来たのは八時をまわっていた。普段なら早朝勤務のためにもう寝ている時間だが、幸い明日は日曜なので僕たちも夜更かしができる。
 --とは言っても実際のところ、僕は少し気恥ずかしかった。玲と僕が--してしまったことなんか、一目瞭然に違いない。どんな風にやったかさえ、あの医師ならぴたりと当てるだろう。またお説教かもしれないな、と僕は覚悟していた。
 ところが案に相違して、彼は何も言わなかった。いつもどおりの診察を終えると、もう大丈夫でしょう、と僕たちに告げた。
「全快、と考えていいんですか」
 玲が嬉しそうに尋ねる。
「そうですね。--日常生活については、こちらの方に--」
 医師は僕の方を見た。
「二、三申し上げておきましたのでご留意くだされば、と思います」
「ありがとうございます」
 玲はほほえんで、礼を言った。
「--左の腕は--動くようになったんですね」
「--はい--突然だったんですが」
 いつ、どうやって--と訊かれたら何て言ったものだろう。僕はひとりであせっていたが、医師は
「良かったですね」
 と言っただけだった。
「--わたしは来週から大学に戻ることになりましたので、こちらはたたみます」
「そうですか・・・・お世話になりました」
「いえ--お大事に」
 診察は二十分もかからなかった。
 医師を送って庭に出ると、もう外は真っ暗だった。星もない。彼はすたすた先にたって歩くと、振り返って僕に訊いた。
「お顔がずいぶん明るくなられましたね--何かあったんですか」
 玲のことだ。
「ああ・・・・ちょっとしたことです。--もっと感情をぶつけてくれって、言いました」
 彼は眉を寄せた。
「よく承知されましたね」
「そうしないなら、出てくって--脅迫したんですよ、僕が」
 僕は苦笑しながら言った。彼は足もとに視線を落とした。
「危ない橋を渡りましたね。勇気のある人だ」
「--」
「・・・・あの方に、あなたがいてくださって、良かった」
「・・・・先生」
 門まで来た。
 医師は僕の方に向き直った。
「じゃ、わたしは--これで」
「いろいろと、アドバイスをありがとうございました、先・・・・」
 --あれ?
「先生、--失礼ですが、お名前を・・・・お聞きしてたでしょうか?」
 玲が聞いていたのだろうか?
 医師はいつもの無表情で、簡単に答えた。
「いえ、名前はないんです」
「--」
 僕の顔があまりに奇妙だったのか、彼はもう一度繰り返した。
「はじめから、ありません----では」
 眼鏡の奥の目に、ほんの少しほほえみが宿った。
「お大事に、--あの方を」
 そうして僕に目礼すると、彼はひとりで夜道を帰っていった。


 星もない真夏の夜。
 小柄な後姿がうずたかい闇のなかに飲み込まれていく。
 かすかな光がチカチカッっとまたたいて、消えた。



 それが彼の最期だった。
 翌朝、樹液を使い果たした一匹のはぐれ蛍が干からびて側溝に落ちていたのを、誰も知らない。 





蛍  了

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