雨音 内藤更紗
雨音
雨 音


 両親の墓参りをすませて宮崎に帰ると、そろそろ気の早い台風がいくつか訪れる季節だった。玲と僕は古い家の雨漏りにおびえながら、天窓をできるだけぴったりと閉めた。ガラスの斜面をつぎつぎに伝い落ちる雨の粒。
 久しぶりのセックスなのに、玲はのらなかった。
 松本に痛めつけられた身体は完全に回復していた--むしろ、以前よりずっと良くなったくらいだ。ぬるりとした不思議な弾力と、この、ぎゅっと絞めて吸いついてくるような感触。耳元で囁かれるアルトのように湿った、あたたかい洞窟・・・その変化は彼自身も感じていた。これまでのような苦痛が嘘のようになくなって、すごく感じるんだ--玲は少し顔を赤らめながら、僕にそう言った。
 たぶんそれは、あの医師のせいだった。
 あの青年が玲の傷口に施した薬剤。真夏の樹の香りのする蜜。生きるために蓄えた樹液のすべてを費やして、彼は玲の身体を治した。
 僕はあれから、里見おばあちゃんが紹介したという医院に行ってみた。そして、予想どおり、出てきた太っちょの医師は--僕の家に行こうとしたけど忙しくて、実は連絡を待っていてね--と言い訳をした。
 あの青年は、自分からやってきたのだ。たった一度ほほえみかけてもらった人間のもとへ。
 僕は玲に、この話をしなかった。彼が信じないだろうと思ったからではない。その逆で、悲しむのを見るのが辛かったのだ。
 雨が降る。
 いつのまにか雨はざーざーと滝のような音をたてながら窓の外を白灰色に埋めつくす。この家だけが世界から隔絶された廃船のようだ。朽ちそうな屋根裏部屋が湿っぽい匂いで覆われていく。
「徹」
 玲が僕の下になったまま、淡い瞳で僕を見上げた。
「どうした?のらないみたいだね」
 それは君の方だろ?--と言いかけて、やめた。
 玲の白い胸の丘にぽっちりと咲いた、ピンク色の乳首。触りたいが、それには彼の足を僕の肩からはずさなければならない。
 --綺麗だ。ピンク色の山の裾野がわずかににじみ、薄茶の外輪へと続いている。まだあどけない少女の唇のようだ。
 ・・・吸いたい。そのやわらかな突起を僕の舌で濡らしてみたい。
 僕は不意に、既視感にとらわれる。
 --耳の奧で鳴る雨の音。ちらりと見えるピンク色のちいさな山。誰かの手が玲のシャツをはだけている--節の高い、長い指。僕じゃない--あれは・・・
 稲葉和彦。
 長い金髪、浅黒い筋肉、とがったあごを持つ--玲の殉教者。
 突然、ひとつの考えが天啓のように僕に降りかかる。
 玲が、雨の日にかぎって、のらないのはなぜだ?





「玲、ごめん--まじめにやるよ・・・いい?」
 返事を待たずに僕は身体を前に屈め、腰をぐっと入れた。彼が短く声をあげる。かまわず僕は攻め始めた。
 愛撫に馴染んだ白い肢体。なめらかな表皮の上に波が寄せるようにさあっと朱が走っていく。噛みしめた唇。苦しげに寄せた眉の間からふたつの瞳が僕を見上げていた。
「どう--感じる?」
 僕はじらすようにゆっくりと腰を動かす。玲は黙っている。
「言えよ--感じる?」
 僕はウインクをしてみせる。--今日はリップ・サービス・デーだよ。
 彼が目でうなずく。
「・・・すごく、いい」
 徐々に、えぐるように回転を加える。速く、緩く、速く、緩く。
 膨らんだ玲のペニスが苦しそうに喘ぎ出す。
「--どんな風に、いい?」
 顔が更に赤くなる。
「どんな風に、いい?玲--」
 僕はスピードを上げる。動きに合わせて利き腕でペニスを挟み、その先を5本の指で揉んでいく。玲の歯の間から声が漏れる。
「玲、言え」
 僕は力を込めて、一気に貫く。
 叫び声をあげて玲がのけぞる。両手は頭の上で固定されて逃げられない。顔をそむけ、肩で大きく息をする。汗がぽつぽつ浮き上がる。僕は耳元でささやいた。
「--僕が好き?玲」
 上気した顔が振り返る。僕は繰り返す。
「僕が好き?」
「ああ--好きだ」
 僕は笑ってみせる。
「愛してる?」
「--愛してる」
「・・・じゃ」
 僕は玲の耳に口をつけ、その暗い穴の奧にむかって声を投げる。
「稲葉も、愛してた?」
 玲の瞳が大きく見開かれる。信じられないものを見たように。
 僕はその目をじっと見返す。
「稲葉も、愛してた?--玲」
「--徹」
 桜色の唇がぶるぶる震えている。
 僕はやにわに上体を上げて、怒りにまかせて玲の肉をえぐる。腰全体をたたきつけるように何度も、何度も、何度もえぐる。
「徹--やめろ--とお--」
 抵抗する玲にさらに体重をかけてのしかかり、ほとんど二つ折りになった彼に覆いかぶさって、僕はその身体の芯の、いちばん奧まで彼を刺し貫いた。玲が断末魔の声をあげる。絶叫の長い尾がかすれ、きれぎれになった声の破片が部屋のあちこちの壁に当たっては崩れていく。
 叫び疲れた玲が荒い息をし、表情をなくした子どものような目で僕を見上げる。目尻に涙が溜まっていた。僕はその玲を、さらに--
 突いた。
「とお・・・る・・・あ・・」
 喉の奥から絞り出される弱々しい抗議。
「稲葉とはどこまでいったんだ」
 玲は驚いて、首を振る。
「言えよ--どこまでいったんだ!」
 僕は突く。玲の顔がゆがむ。
「--どうして--今さら--何にも--」
「何にもないはずがないじゃないか!」
 僕は叫ぶ。泣きたいのは僕だ--
 なぜ、気づかなかったんだろう。稲葉が貧血で倒れた玲を抱きかかえてソファに寝かせ、胸をはだけたのは、僕が目の前で見ていた、あの雨の日だけじゃない。少なくともあと2回は手当をしたことがあると彼は言っていた。稲葉は玲の白い胸や、肩や--いろんなところを見ている。そして玲を、その命と引きかえにするほど愛していたのだ。
 それほどいとしい相手と、2か月もの間狭いアトリエでふたりきりで過ごして、指一本触れずに我慢し続けることができるものなのか。
 玲の親友だった松本でさえ、たったひと晩が耐えられずに、とうとう彼を犯してしまったのだ。
 我慢なんか、できるはずがない。玲を一度でも見てしまったら、そんなものは絶対にできない。それは僕がいちばんよく知っている。
 だから--だから、稲葉は--玲を・・・
 頭の中に濁流が渦を巻いて流れ込んだ。真っ黒な--真っ黒な水だ。
「徹--どうしたんだ・・・変だよ、今日は--」
「--答えろよ、玲」
「何を?」
「稲葉とどうやってやったんだ」
 玲の顔がこわばった。
「さっきから、何を言ってるんだ--いいかげんにしろよ」
 僕は、思いきり--玲を突き上げた。悲鳴があがる。魚のように身体が跳ねた。しなやかな白い魚--この肌を、稲葉に開いたのか。この顔を、稲葉に見せたのか。この声を、稲葉に聞かせたのか。この唇で、この指で、この腰で--気が狂いそうだ。身体中に凶暴な獣がのたうっている。腹から這いあがってきて脳をバリバリ喰い荒らす。何が何だかもうわからない。僕はたて続けに玲を突いた。怒りと口惜しさと絶望とでぐちゃぐちゃになりながら、玲を、突いて、突いて、突き続けた。
 呻き声をあげ、真っ赤になって髪を振り乱しながら、玲が叫ぶ。
「・・・僕は、君が初めてだったって--君だって知ってる・・・じゃないか」
「嘘だ」
「--嘘じゃない!」
 玲が睨む--睨もうとする。
「まさか、キスもしなかったっていうんじゃないだろ?」
「キスも・・・しなかった」
 僕は大声で笑った。
「--今どき小学生だって、信じないよそんな話」
「・・・本当の--話だ。僕は--君に嘘なんか・・・言わない」
 玲が短い悲鳴をあげる。
「--それじゃ、君が知らないだけなんだ」
「・・・何を--」
「何って--多分、君が貧血か何かで倒れて寝ている間に・・・」
「和彦はそんな人間じゃない!」
 玲の声が響きわたった。
「和彦は君みたいな--卑怯な人間じゃない」
 身体中の血がすうっと冷えた。僕は腰の動きをとめる。
 玲が唇を血の出るほど噛みしめながら、僕を見上げていた。





 台風はますます近づいているらしい。ガラス窓が壊れかけた玩具のように情けない音をたてて揺れた。あかりをおとした部屋に薄闇がするすると忍び寄り、玲の顔を覆っていく。
「・・・君は卑怯だ、徹。--言いたいことがあるんだったら、何もこんな--僕を組みしだいている時に言わなくてもいいだろう。・・・なぜ、今頃急に--」
「--」
「なぜ、信じないんだ?何度同じことを言えばいいんだ」
「じゃあ訊くけど」
「--ちょっと待て、その前に--身体を離してくれ、こんな格好じゃ話ができない」
 玲は腰をずらせて横に逃れようとした。僕はそれを阻む。
「・・・このままでいろよ」
「--どうして--」
「どうしても」
「--どうしたんだ、本当に変だぞ今日は」
 離したくなかった。今離したら、玲は永久に手の届かないところへ行ってしまう。この深い--深い闇の向こうへ。
「--雨のせいだよ」
「・・・雨?」
 とめどなく流れ落ちる天の涙。
「君は今日、はじめっからのらなかった。--この前そんなことがあったのはいつだろうって、考えた。--覚えてる?」
「--」
「2か月ぐらい前、何日か、そんな日があった。--梅雨時だった」
「梅雨?」
「--うん。僕はあのとき季節の変わりめで、君の体調が悪いんだとばかり、思ってた」
「--」
「でも--考えてみると--神戸に住んでいたときはそんなことなかった」
「--」
「梅雨の前だって--君が僕を避けた日は、そういえばいつも雨だった」
「--」
「・・・玲」
 僕は正面からその瞳を見つめる。
「--雨の日に、抱かれたのか」
「・・・」
 玲はゆっくりとかぶりを振った。
「--嘘だ!」
「・・・嘘じゃない。本当に、何も--」
「じゃ、何だ!雨の日に、プラトニックに愛を誓ったってか!」
「--いいかげんにしろよ!」
 玲が怒鳴った。
「いったい何なんだ、何でそんなことを言うんだ--つまらない嫉妬なら、やめてくれ!・・・僕は彼とは何でもなかった、何を誓ってもいない、嘘じゃない、--そんなに僕が信じられないなら--」
「--」
「--刺せばいい」
 低い声だった。
「また、刺せばいい--今度は右胸か?--徹」
 僕は玲を見おろした。ほの暗い闇の中に浮かび上がる白い胸。左の肩胛骨の下から肩にかけて這うように走る、醜くひきつれた傷痕。
 この傷をつけたのは、僕だ。
「--徹」
 玲は僕の涙に気づかない振りをして、顔をそらせた。
 大きな溜息をつく。
「ああ・・・進歩しないな、僕も」
 そうひとりごちて、頭を抱える。腕の下から唇をきつく噛みしめているのが見えた。ほんの2、3秒、そのままの姿勢でじっとしてから、顔を隠した手を離して僕の方を見る。薄闇を通してやわらかい視線が届いた。
「徹、ごめん--今のは、僕が言い過ぎた。・・・和彦のことを、きちんと話すよ、--でも、その前に」
 玲がふっと笑いかける。
「この姿勢を何とかしてくれ--これじゃ、まるで捕虜だ」





 シャワーを浴び、ガウンに着替えてベッドに戻ると、玲が夜食用のサンドイッチを持って上がってきた。フロアスタンドの灯があたたかい。
「玲、見ろよ--」
 いつのまにか嵐がやみ、中天に月が冴え冴えとかかっていた。
「台風の目に入ったな」
 傍らで眺める玲の瞳にも月が映っている。吸い込まれるような清冽な光だ。玲は僕の視線に気づいてちょっと顔を赤らめ、ベッドサイドの椅子に座った。
「君に身の上話をすることになるなんて、思わなかったよ」
 どこから話したものかなあ--彼は懐かしそうな目になった。



「--君は知ってたかな、僕は小さい頃から案外ファザ・コンの気があってさ。何せ、生まれた時に内臓のあちこちに欠陥があって、とても10才まで生きられないだろうって言われたぐらいだから、いつも母さんがつきっきりであちこちの病院を渡り歩いていただろ?入院も手術も、覚えきれないくらい、たくさんしたよ。
 父さんはたいてい仕事で海外に行っていて、めったに会えなかったけど、会うといつも外国の絵本とか、珍しいパズルとかのお土産をくれて、まるでサンタクロースみたいだと思ってた。僕は大きくなったら父さんと一緒にいろんな国へ行くんだ、ってもう--胸がわくわくしてね。
 --君が僕の家に来たのも、そんな頃だった。ちょうど家で療養していた時期で、病室に使ってた離れの窓から、父さんが君にキャッチボールを教えているのが見えた。君はなんか--仔犬みたいだったなあ。こいつは筋がいいとか何とか言って、父さんは本当に--本当に楽しそうだった。僕は父さんがあんなに幸せそうに笑っているのを見たことがなかった」
「--玲」
 玲は僕をちらっと見て、笑った。
「誤解しないでくれよ、僕は別に君を恨んでるわけじゃない。父さんには、大切にしてもらってたと思ってる。ただやっぱり僕は病弱だったから、壊れものみたいに思えて、気疲れしてたんだろうな・・・父さんはああいう人だから、活動的で、スポーツや遊びが大好きで--君に野球やサッカーを教えたり、釣りや山登りに連れまわしたりして、秘蔵っ子のように君を可愛がってた。--まぶしかった、僕には。
 僕にも君のような健康な身体があればって、口惜しかったから、よけいに治療に身が入った。
 でもね、・・・僕の身体がなんとか人並みに成人できそうなくらいになった中学生の頃--君は知ってたかな、僕たちの両親が危なかったこと」
「え?--父さんと母さんが?」
「うん。・・・要するに、父さんの会社はますます忙しくなってきていたのに、母さんは僕をまだ赤ん坊扱いしてべったりで--夫婦のすれ違いってやつかなあ--直接のきっかけは僕が中2で君が中1の時、君は陸上で県大会に出場しただろ?」
「--ああ」
「僕はその2、3日前にたまたま入院してた。大したことはなかったんだけど--君の応援に行った父さんを、あとで母さんがなじってさ--息子が危ないかもしれないっていう時に、よく応援になんて行けるわねって」
「--知らなかった」
「母さんも大げさなとこ、あるからね・・・僕は本当に大したことはなくて、むしろ君の成績の方が気になってたぐらいなのに--でも、その後、父さんたちは冷戦状態になってしまった。--君も葉子も知らなかったと思う。子どもたちの前ではそんな素振りをみせなかったから」
「君はどうしてわかったの?」
 玲は苦笑いした。
「母さんがね、僕の枕もとで泣くんだ・・・僕が眠っててわからないと思って」
「--」
「僕はあせった。僕はね--母さんには悪いけど、父さんに憎まれるのがたまらなかった。僕は病弱で、役立たずの上に、母さんを独占してる--それがそもそもの元凶なんだ。だから僕は母さんに言った。僕はもう自分で自分の世話ができるし、そうしたいから、父さんが仕事のために借りて普段暮らしている都心のマンションに、母さんも行ってくださいって」
「--」
「もちろん最初は猛反対だったけどね。やらせてみてくれ、そうしなければ僕は一生、親離れができないなんて、歯の浮くようなことを言ってさ・・・でも僕は、必死だった。だって--もし離婚なんてことになったら、当然父さんは君を、母さんは僕を連れて行くに決まってる。僕は、その頃、もう、君を・・・好きだったし・・・君と引き離されるなんて耐えられなかった。
 僕は母さんを父さんのところに送って、兄妹3人だけの暮らしを始めた。自分の健康管理をして、学校の勉強をして、離れをアトリエに改造して絵の勉強をして、君と葉子の身の回りの世話をして、君たちの家庭教師もして--僕はいい兄貴、いい息子になろうと頑張った」
 玲は完璧だった。僕も葉子も、そう思っている。
「全然辛くはなかった。僕はものすごく充実してた。僕は父さんに--ほう、あいつもなかなかやるじゃないかって--思ってほしかったんだと思う。それが僕のささやかなプライドだった。そして、いつか・・・」
 玲はちょっと言葉を切った。
「いつか、よくやったねって・・・よくやったねって言って、握手をしてもらえたらって--思ってた」
「--握手?」
「そう、握手・・・僕の、夢」
 玲は前を見つめたまま、恥ずかしそうに笑った。
「徹、僕はね--」
 睫毛を伏せる。
「父さんに・・・手を握ってもらったこともなかったんだ、一度も」
 涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。





「 ごめん--駄目だな僕も--まだまだだな」
 玲は立ち上がって涙を拭き、鼻をかんだ。椅子に戻って、笑いかける。
「--つまり以上は前ふりで、僕がファザ・コンの気があるという話。そこまでは、わかった?」
「--」
「わかれよ。--ものすごく恥ずかしいんだから--こんなこと言うの」
「・・・うん、わかった」
「じゃ、次はいよいよ本題だね。・・・和彦の話」
 玲は少しの間、どこから話そうかと考えあぐねているようだったが、やがて静かな声で話し始めた。
「・・・いつだったかな、君は訊いたよね。和彦が僕に、愛してるって言ったかって」
「--うん」
 彼が指名手配されたあとのことだ。
「今、答えるよ--一度だけ、言われた。--好きなんだ、って」
「--」
「その直前に、こうも言われた。--おまえを抱きたい」
「--玲」
 彼は僕をちょっと見て、笑った。その唇が震えている。
「ふつう、順序が逆だと思わないか?」
 僕は笑わなかった。
「・・・いつの話?」
「洗面所で君と言い争いをしたときがあっただろう、--君のヘアダイの瓶を僕が割ってしまって」
 稲葉のような金髪に染めようとした僕を、玲がとめた。
「あの時君は、僕と和彦がもう--できてるようなことを言って、恥知らずって僕に叫んだ。僕は、君に嫌われたと思って--結構ダメージがきつくて・・・今思えば、ガードががら空きだった」
「--」
「その日の午後アトリエで、和彦に、すぐばれた。僕が失恋の痛手を抱えてるっていうこと」
「--そんな--」
「それで、いきなり--抱き締められて、羽交い締めにされた」
「--」
「逃れようとしたら、そんなに弟がいいのかって--言われた」
「--え」
「揉み合っているうちに、彼に掛けてあったモデル用の黒布が落ちて」
「--」
「いつのまにか、和彦は裸で--僕を抱き締めて離さなかった」
「--」
「・・・こんなことを言うのは--ものすごく恥ずかしくて軽蔑されるかもしれないけど--僕は、その時--僕の全身をぎゅっと抱き締めている筋肉の弾力に、ただただ圧倒されて、一瞬--ほんの一瞬だけ--」
「--」
「父さんの腕の中にいるような夢を見た」
「・・・玲」
「馬鹿みたいだ」 
「玲」
「--父さんの腕はこんなかなって--父さんは・・・」
 玲はきつく目を閉じた。
「--馬鹿まるだし」
「・・・」
「--でも、本当にそれは一瞬のことで--僕はすぐに我に返った。この男は父さんじゃない、僕を--ずっと愛している、ひとりの男だって」
「--玲」
「うん、徹--和彦が僕に本気だってこと--僕はずいぶん前から気づいてた。僕なりに何とかガードしてたつもりだった、その日までは。--でも、その日だけは僕はぼろぼろの難破船みたいで--拒めなかった」
「--え・・・」
「拒めなかった--いや、--拒まなかった」
「玲!」
 それは--
「和彦は僕を抱き締めながら、言った。嫌か、玲、嫌と言わないんなら、抱くぞ・・・僕は、嫌だと言わなかった。つまり、承諾した」
「--玲」
「・・・なぜかって訊かれても、よくわからない。もう父さんと思っているわけでもない。--たぶん僕は、君を失ったと思い込んでもう何もかも空っぽになって、和彦に・・・あたためてほしかったんだと思う。それまでの自分を壊して、新しい自分に変わって、どこか遠くへ行ってしまいたかった」
「--」
「君をハラハラさせるほど悪趣味じゃないから、最初に言っておくよ。--結果としては、何もなかったんだ」
「--玲」
 玲はじっと僕を見つめた。
「・・・ごめん、徹。君にきちんと話せるようになるまで、詳しいことは黙っていようと思ってた。こころの整理がうまくつかなかったんだ--ノーコンのままで君にボールを投げたくなかった」
「--」
「和彦は僕の服を脱がせて、アトリエの奧のソファに寝かせた。それから僕の身体の上にのしかかって、僕の顔を眺めた--と思ったら、急に立ち上がって、奧から大きなシーツを取ってきて、僕の肩からくるぶしまでぐるぐる巻きにした。そしてもう一度僕をソファに寝かせ、その上に乗って僕の身体を両腕で抱き締めながら、自分で・・・」
「--」
「シーツに擦りつけて、自分で済ませたんだ」
「--」
「最後まで僕には触れなかった--キスも・・・しなかった」
「--玲」
「・・・それだけだ」
 玲はぽつんと言った。





「稲葉は、君が大切だったんだ」
「・・・さあ」
「--君を--壊せなかったんだ」
「・・・わからない」
「君が綺麗すぎて--手がでなかったんだ」
「僕はそんなに綺麗じゃない!」
 玲は両手で頭を抱えた。
「僕がその時、何を考えていたと思う?--僕は--圧倒されてた。それまで僕は、人の身体というものに--ろくに触れたことがなかった。やったことのあるスポーツは水泳だけだ。体育の時間はいつも見学だったし、君とだって取っ組み合いの喧嘩をしたこともない。僕は母さんのやわらかい手しか知らなかった。でも、あの時の、和彦の、あの、身体は・・・」
「--」
「僕は彼の裸なら、アトリエでそれこそ何十回も見ていた。ヌードデッサンの時、彼は大抵これみよがしにエレクトさせてたし、見ても別に何も感じなかった--全体のフォルム、トーン、そしてスピリット、僕が描くときに考えるのはそれだけだったんだ。--それが」
 玲は唇を噛んだ。
「僕は知らなかった--人間の身体があんなに重くて、あんなに熱くて、あんなに弾力があって・・・肩の筋肉があんなに量感が--あって、汗の匂いが、あんなに・・・そして心臓があんなに---震えていて--そして全身をすっぽり抱き締められたときの、あの--総毛立つような幸福感」
「--玲」
「僕は恥知らずだ--僕は和彦にそんなにも大切にされて、その腕に抱き締められていながら、その時、何を考えていたと思う?僕は・・・僕は、これが徹なら--徹ならって--」
「玲」
「徹が僕を求めて、徹が僕を抱いているのならって・・・そう思ったとたん、僕は・・・僕は、ものすごく感じてしまった。和彦の--ペニスが僕のそれのちょうど真上にあって--シーツごしで、擦られて--これが徹の、徹のペニスなら、どんなにって・・・」
「--」
「彼のいく直前に・・・僕も、いってしまった」
 玲は真っ赤だった。
「僕は知らんぷりしてたけど・・・和彦には、わかってたと--思う。僕が誰のことを考えてそうなったかも・・・たぶん、わかってた」
「--玲」
「--僕は--最低だ」
 彼はきっぱりと言った。





「それから彼は少し話をして、煙草を吸いにアトリエの玄関に出ていった。--君が和彦に会ったのはそのときだ」
 それで--それで稲葉は僕に憎悪を燃やしていたのか。彼は玲と寝たとうそぶいて、僕がショックを受けるのを愉しんでいた。
「徹、僕はずっと附に落ちないことがあったんだ。和彦と、その--そういうことがあって、彼が玄関に出ていってから、君に会うまでの時間が--長すぎる。君が帰ってきたのは夕方だろう?」
「--うん。5時半か--6時頃かな」
「--そうか。じゃ・・・やっぱり」
 玲は重いものを飲み込んだような顔をした。
「--何?」
「・・・待ってたんだ--きっと」
「何を」
「僕が、彼を--追いかけていくのを、さ」
「--」
「あのアトリエのドアを内側からたたくのを--待ってたんだ」
「--」
「--何時間も・・・」
「--」
「僕は行かなかった。--代わりに、君が帰ってきた。それで、決めたんだ」
「--何を?」
「玄関の植え込みの中に、アジトの名前の書いてあるマッチをわざと落としていった」
「マッチ?」
「そう・・・変だろ、今時、マッチなんて--葉子も、そう思った」
「葉子?」
「カンのいい子だ。和彦が指名手配されたあと、ネバダという名前だけからそのアジトを探し出して、警察に通報した--あの子は和彦を恨んでいたからね」
 僕は葉子に訊かれたことがあったのを思い出した。--徹、ネバダっていう喫茶店、知ってる?
「僕はずっと不思議に思っていた。誰が拾うかもしれない場所に、まるで運命のサイコロを無造作に投げ出しておくようなものじゃないか。--でも、やっとわかった。あそこはアトリエの入り口だ。普段は僕しか使わない。僕が拾う可能性がいちばん高い--あれは僕が拾うはずの、マッチだった」
「--」
「僕がアジトを探し出して--彼に会いに行くか、それとも葉子のように通報するか・・・彼は賭けた。通報されれば、無期か--死刑だ」
 そして、マッチを拾ったのは、葉子だった。
 稲葉和彦は、死刑判決を受けた。刑の執行も終わっている。3年前の秋の終わり--ひどく寒い日だった。
 僕は訃報を知ったときの玲をよく覚えている。アトリエの中にろうそくをたてて、彼はひとりで稲葉を弔っていた。頬に幾筋もの涙の跡があった。人間のあれほどまでに悲痛な顔を、僕はまだ知らない。



 アトリエの玄関で何時間も玲のノックの音を待っていた稲葉。
 一縷の望みを託して植え込みにマッチを忍ばせた稲葉。
 もし、玲が--
 もし、玲がその望みに応えていたら、彼は今度こそ全身全霊で玲を抱いて、たとえどんなことがあっても離さなかっただろう。





 嵐が、また戻ってきていた。
 樹々が強風にあおられてざわざわと音をたてる。
 窓の外の闇が一段と濃くなった。
「--徹」
 静かな玲の声。
「僕は和彦とそんなことがあったのに、君を忘れることができなかった。・・・むしろ、逆効果だった」
「--」
「そのときまでの僕は、寝る、とか、抱く、っていっても、今思えばそのことの本当の意味をほとんど知らなかった。想像上の世界だった。でも、実際に、これが徹だったら--なんて体験をしてしまうと・・・セックスというものが、肌と肌を重ねるってことがどんなことなのか、頭じゃなく身体でわかってしまった--とはいっても、最後のところまではわからなかったけど--正直に言って、僕は君をまともに見ていられなかった。君の肩や腰や脚なんかを見ると--まあ要するに、欲情してしまうわけで--愛とか何とかいうきれいな言葉とはおよそ無縁の、ただもう--性欲の塊になった。ひとつ屋根の下に住んでてさすがにこれはまずいと思って、ずいぶん君と距離を置こうとした」
「--それで、よそよそしかったわけか」
「うん・・・僕は君をゲイにしたくなかったし--今でも、したくないけど」
「何言ってるんだ」
 僕は笑った。
「本当だよ」
 玲は顔を傾けて、ゆっくりとほほえんだ。





「もうひとつ、テーマがあったね・・・そう、雨の話」
「雨?」
「・・・そう。君はときどき、とてもカンがいいね。恋してるからかな?」
「--何もなかったって、言ったじゃないか!あれは--」
「嘘じゃないよ」
 玲が遮った。笑顔がどことなく寂しそうだ。
「--嘘じゃない。何もなかったし、何を誓ってもいない。本当を言うと、そのときはそれが大したことだったなんて、気づいてもいなかった。--気づいたのは、和彦が死んで、彼の同志の--何ていったっけ、--三好という男が謎解きに現れてからだ」
「--」
「和彦は革命組織、極赤星の指示で、僕の両親の貿易ルートが目的で僕に近づいた。僕の身も心も彼の虜にして人質にしようってね。ところが彼はせっかくアトリエに通いつめていながら、一向に僕に手を出さない。遅れに遅れた最終の期限が、10月の第2日曜--雨の日だった」
「--」
「その日は朝からふたりでドライブに出かけたのに、僕の体調が悪くてアトリエに戻ってきてしまった。和彦は僕をソファに寝かせて--あのとき、確か君もいたよね」
「うん」
「僕は半分意識がなくてよく覚えていないんだけど、ぼんやり気がついたらもう君の気配はなくて、和彦がソファの横に立っていた。何か言ってたけど、それもよく覚えていない。--お礼を言ったような気がする」
「お礼?」
「・・・うん。何となく--車の中で気分が悪くなったとき、道路沿いのホテルの看板や何かが目に入って、ああ、危ないかもしれないなんて思ったりしてさ--僕は抵抗なんかできるような状態じゃなかったし」
「稲葉が君を狙ってること、知ってたの?」
「・・・うん。彼は恋愛ゲームをふっかけてきてた。ゲームを装って実は組織の目的のために、っていうのが彼の当初のスタンスだった。・・・途中から彼が本気になってしまったわけだけど」
「--」
「彼はどのホテルにも入らずに、ものすごくあわてて僕をアトリエに連れ帰り、手当をしてくれた。僕が倒れたのは純粋に僕の側のミスだから、それを利用して僕を抱いたって、何も--悪くはなかったのに。それで--お礼を言ったんだけど、また--僕は眠ってしまった」
「--」
「どのくらい眠っていたのかわからない。雨の音が・・・していた。ぼんやりと薄目をあけると、和彦が椅子に座って僕をじっと見ていた。窓からの光で金髪がきらきらと光って--綺麗だった。包み込むような、あたたかい目で・・・僕は安心して--また、とろとろと眠りに落ちた。彼の視線を感じながら--ふかふかした雲に抱かれているような、幸福な気持ちだった。
 それからもう一度・・・かな、目を覚ました。--前と同じところに、和彦の目があった。僕は、笑った--かな、よく覚えていない。和彦も何か言ってたようだけど・・・わからない、夢かもしれない。彼の目はやさしかったけど、今度はほんの少し--悲しそうだった。何が悲しいんだろうって、不思議だった。だって僕の方は--何も悲しくなかったから。
 僕は眠りながら、身体の上に毛布が掛けられるのを感じた。そおっと、そおっと、僕を起こさないようにゆっくりとした手つきで--節の高い、骨ばった指を感じたとき、ああ、和彦だなってわかった。
 ・・・それから、夢の中で遠ざかっていく足音を聞いた」
「--」
「--ただ、それだけのことだった。僕にとっては--ふわふわした、気持ちのいい夢に過ぎなかった。・・・でも、あとからわかった。その雨の日が和彦にとっては--僕を落とすぎりぎりのタイム・リミットで、それができなければ、彼は組織から断罪されることがわかっていたということ。断罪は、死かそれに近いものだということ」
「--」
「徹、僕は和彦と寝たいなんて思ったことはなかった。組織とやらに利用されるのだって真っ平だ。--だからたとえ、和彦の事情を知ったところで、だから進んで人質になりますなんて言うほど、お人好しじゃない。僕をそんな風にしたところで、彼だって不本意だろう。
 --結局、彼は一切を彼自身で決断したんだ。自分が爆弾テロの実行者の身代わりとなることを条件に、今後組織に一切僕から手を引かせること。そしてその通りに彼は振るまった。Xデーのほんの数日前に、アトリエで僕に初めて--初めて・・・好きだと言って、シーツの上から僕を--僕を・・・死ぬほど強く・・・抱き締めたこと以外は」
「--玲」
「徹、・・・和彦の決断は、彼自身のものだ。彼は思ったようには生きられなかったかもしれないが、納得して死ぬことはできた。謝罪も、同情も彼は受けつけないだろう。僕は、結局彼に何もすることができなかったけれど、彼は、僕の偽りのこころなんて望んではいなかったと思う。僕はこういう風にしかできなかったし、彼もああいう風にしか生きられなかった--そのことについては、今でも、後悔していない。・・・だけど」
 玲は長い睫毛を伏せた。
「君の言うとおりだ、徹。・・・雨の日になると、僕は思い出す。あの日の和彦のやさしくて、少し悲しそうな瞳の色。やわらかな毛布を掛ける長い指。ふわふわとした夢の中にいるような幸福感--僕は感傷的で、甘ったれだ--笑ってくれて、いい・・・でも」
「--」
「和彦が生きている間は、僕は君しか見ていなかった、徹--今だってそれは全然変わっていない。・・・でも・・・」
「玲」
「和彦は、僕の中にいるんだ--和彦だけじゃない--松本だって、いる。僕はそれを、消そうとは思わない--徹」
「--」
「・・・わかってほしい」
 僕を見るふたつの、透きとおるようなまなざし。
 僕は黙って玲の背後にまわり、椅子ごとその肩を抱いた。
 玲が僕の腕に頭をあずける。
 東の空がゆっくりと白み始めていた。




10


 おそらく玲のこころの周囲に築かれた塀は、とてつもなく高いのだ。
 ほとんどの人間はその高さに恐れをなし、ただ遠くから仰ぎ見てその美しさに憧れる。どれほど憧れ、焦がれたところで内に入ることはできない。
 ごく少数の命知らずの者だけがその塀を、満身創痍でよじ登る。墜ちれば、死だ。戻っても、死だ。
 だが、遂に塀の上に立てたとき--
 彼らは何を見るだろうか。
 かつて誰も目にすることのできなかった、至上の世界。
 光かがやく庭だ。
 一切のものがその中で溶けてしまう天上の光、無限の美だ。
 葡萄酒の流れる小川も、蜜の溢れる泉もない。
 ただ、光だけが、そこにある。
 一度でもそれを見た者は、もう戻ることはできない。
 人は、それを、夢だと言うだろう。 
 絵空事だと、笑うだろう。
 だが、夢を信じない者は、信じられる程度の夢しか見ることはできない。
 稲葉和彦は、その命を賭けて高い塀の上に登り、自らの命を賭けるに足る極上の世界をまのあたりにしたのだ。そしてゆっくりと、内側に墜ちていった。至福の笑みを浮かべながら。
 玲は彼の墓をつくる。光あふれる庭の一隅に、永遠に彼の庭の住人となった男の墓を。
 玲は墓に接吻する。哀しみをこめて、無上の愛をこめて。
 あの、青年医師も、葉子も、僕も、そしておそらく松本も--
 玲を愛したすべての人間を、彼はその庭に迎え入れるだろう。
 光の庭へ。



「--徹」
 玲のやわらかな声で、僕は目覚める。
「君の・・・夢を、見ていた」
 僕は光の庭の話をする。
 玲が困ったように微笑する。
「もし僕がそうなら、僕はそんな高い塀なんか、ダイナマイトで崩してやる。そうすれば、その光は世界中に広がるだろう。そして僕は、脱走する。君のいる草原へ、一目散に逃げてやる。塀も、柵もない草原だ」
「柵もないの?--僕って、馬鹿みたいじゃないか」
 玲は笑った。
「自由な人間は、得てして馬鹿みたいに見えるものだよ、徹」
「それって、ほめてるわけ」
「さあね」
「ちぇっ、やーめた、--言って損した、光の庭だなんて」
「ずいぶんだね、--僕だって、言ったのに」
「--何て」
「忘れた」
「--玲!」
 僕は逃げる彼を追いかけた。追いかけながら、思った。
 この世界の中にこうしていることが、すでに無上の光を浴びていることなのかもしれない。
 --玲と、僕。
 この、光の中で。





雨音  了 

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