海鳴り 内藤更紗
海鳴り
海鳴り


 夕暮れの空にひとすじの煙がたちのぼっていく。灰色の帯の先がはるか上空で暗い茜色に染まり、ゆらめきながら融けていくようすを、葉子は先刻から見つめていた。
「そろそろ終わり?」
 僕は消えかかった火のそばに近寄った。
「うん。今日、風がなくてよかったわ」
 ずっと上まで届くものね・・・僕も妹につられて空を見上げる。
 お盆の迎え火を焚こうと言い出したのは葉子だった。今年は両親の初盆だ。昨年の9月5日、商用で海外に出かけた父母はマイアミ沖で航空機の墜落事故に遭い、海中に消えた。遺体はまだ揚がらない。
 棺もなく、遺影だけの葬儀だった。墓の骨壷にはわずかな遺品しか入っていない。僕たちには両親の死が信じられなかった。商事会社を経営していたふたりはしょっちゅう海外に飛んでいたし、今にも何くわぬ顔で玄関のドアを開けそうな気がしてならない。
「ただいま!玲、徹、葉子、いる?」・・・
 一周忌の法要を来月に控えていたので、初盆は内輪でひっそりと行いたかった。玲と僕は宮崎から、葉子は釧路から、この神戸の家にやってきていた。
 火が消えた。
 みるみるうちに闇が濃くなっていく。葉子が手早く灰の始末をした。
「--兄さんは?」
「玲ならさっき居間にいたけど・・・会っただろ?」
「ちょっと顔を合わせただけ」
 それで気まずくて、葉子はさっさと庭に降りてきてしまったのか。
 無理もないな--口の中に苦い味が広がる。
 両親の死後、兄弟ではなく恋人として宮崎で暮らし始めた玲と僕の暮らしを案じて、葉子は夫の松本登を宮崎に寄こした。高校からの玲の親友でもあった彼は玲をスケッチ旅行に誘い、旅先で--玲を、暴力で犯してしまったのだ。玲は怪我と高熱で5日間寝込んだ。事情を知った葉子は、夫よりむしろ兄のことを心配したものだ--まだあれから半月しかたっていない。
「ねえ、徹」
 葉子は2才上の僕を呼び捨てにする。3才年上の玲だけを「兄さん」と呼ぶのは、彼だけが血の繋がった実の兄だというよりも、「ファンクラブの会長」を自認するほど、彼女にとって玲が特別な存在だからだ。
「兄さん、--すごく変わったのね・・・びっくりしたわ」
 そういえば、松本もそんなことを言っていた。
「そう?どんなふうに?」
 葉子は少し、ためらった。
「ものすごく綺麗になった--そりゃ、前からそうだったけど・・・なんていうか、咲き誇った花みたいに輝いてて--艶やかで」
「--そうかな」
「徹は毎日見てるから気がつかないのよ・・・わたし、松さんに、悪いことしたかもしれない」
「どうして?」
「徹と暮らして、こんなにも幸せです、って、顔に書いてあるようなもんじゃない。あんな--色っぽい顔して・・・ずっと兄さんを好きだった松さんは、きっと--たまらなかったでしょうね」
 その、色っぽくなった玲とホテルの一室で差し向かいで飲んで、僕たちのセックスの話を聞かされた松本。親友の気持ちに気づかなかった玲。狂熱と抵抗、混乱と絶望がないまぜになった、真夏の夜・・・
「中に入ろうよ」
 僕は先に立って歩いた。葉子が拳を握りしめながらついてくるのが見えた。





「兄さん」
 精進料理の出前に箸を進めながら、葉子が切り出した。
「この家は3人の共有名義になってるのよね--だったら、わたし、帰ってきて住んでもいいでしょ?」
「--葉子、帰ってくるって・・・」
 彼女は笑顔をつくった。
「松さんとは、もう別れたの。--おととい、届けを出して」
 玲が蒼白になった。
「勝手をしてごめんなさい。--でも、これが一番いいと話し合ったの。松さんにとっても、わたしにとっても・・・気持ちの整理も、もうついてるの。--だから」
「--葉子」
 玲が目を伏せた。僕は急いで割って入った。
「生活は?どうするの」
「うん・・・こっちなら知り合いも多いし、あてがないこともないの。--ねえ、兄さん」
 葉子はちょっと、改まった。
「兄さんたちは、どうするの?兄さんが会社に出している休暇届けは、確か半年って言ってたでしょ?9月いっぱいで切れるのよね。兄さんたちが神戸に帰ってくるんなら、わたし別にマンション借りてもいいわよ。・・・それだったら、今から探しておきたいし」
 僕は思わず、玲の顔を見た。
 そうだった--9月で休暇が終わるのだ。
 両親が僕たちに残した会社。生まれつき身体の弱かった玲のかわりに、後継者として5才の時にひきとられてきた僕。長じて僕に道を譲るために、あえて画家をめざした玲--その玲を僕は愛し、ナイフで傷つけ、そのショックで家を出て宮崎に住み着いた。玲は僕を家から解放しようと、自分が後を継ぐと両親に宣言して入社したのだ。--1カ月後の両親の死。共同設立者の片桐専務が社長になって、玲の成長を待つかたちになった。玲も必死で事業を学ぼうとしていたのだ。--それなのに。
 それなのに、相続手続きのために再会した僕たちは、お互いの愛情を知ってしまった。僕たちはもう離れることができずに、玲は健康上の理由をたてに無理矢理半年の休暇を取って、神戸から、僕のいる宮崎にやってきたのだ。会社も、家も、捨てると言って・・・
「葉子」
 玲は落ちついた声で言った。
「--僕は神戸には戻らない。休暇が終わったら、退職するつもりだ。だから、この家はおまえが好きに使っていいよ」
「会社の株とかは、どうするの」
「そうだね・・・片桐さんに相談してみるかな」
「そう--わかったわ、兄さん・・・徹」
 葉子は箸袋を納めて、にこっと笑った。
「まだ、言ってなかったわよね、--おめでとう」
 僕たちは盛大にむせかえった。 





 夏は蝉時雨とともに去り、カレンダーは9月になった。
 両親の一周忌を明日に控えた朝、玲と僕は神戸港の見えるホテルのロビーに呼び出された。葉子は約束の時間に30分も遅れている。
「一体何やってんのかなあ、あいつ」
 チェックアウトの客がちらちらと玲を見ながら通り過ぎていく。彼がどこにいてもすぐ目立ってしまうのはいつものことだから気にしないが、それにしても、もう少しましな客層のホテルの、ましな時間帯を選べないものかね、と僕は妹の無神経さに腹を立てる。
 涼しい顔で新聞に目を落としていた玲が、ふと顔を上げる。
「ごめんなさい、待った?」
 僕の背後から突然、真紅のスーツが現れる。玲が目を見張った。
 髪をショート・ボブにカットして別人のようになった葉子が、にっこりとポーズを取っていた。しかも、ひとりではない。
 後ろからのっそり現れた人物の風貌に、見覚えがあった。
「--片桐さん」
 玲が立ち上がって、挨拶をする。
「やあ、玲君--どうですか宮崎は」
 彼は丸顔に愛嬌をにじませて座に加わった。
 片桐治夫は「片桐のおじさん」こと、現社長片桐健夫のひとり息子で、K大卒業後ずっと父の片腕として社の重要ポストを歴任している。僕より6つ上だから、今年ちょうど30だ。ずんぐりした体格で見た目はあまり冴えないが、まじめで温厚な性格で、頭も悪くない。僕も子どもの頃何度か一緒に山登りをしたことがあった。
 それにしてもどうして今日、葉子と一緒に現れたんだろう。
 ひととおりの挨拶をすませると、僕たちはホテルの喫茶室に席を移した。治夫がさりげなく葉子の身体をかばうように歩く。嫌な予感がした。
 席について1分後に、嫌な予感は現実になった。
「兄さん、徹、・・・わたし治夫さんと婚約したの」
 葉子が濃いルージュをほころばせて、宣言した。
 治夫の鼻の穴が膨らんだ。





 仕事を残してるんで、と何度もお辞儀を繰り返しながら治夫がテーブルから消えると、僕たちは嫌がる葉子を家に引きずって帰った。
 僕はもちろんのこと、普段冷静な玲までが完全に怒っている。
「--どういうことなんだ、納得のいくように説明してくれ」
 居間ではなく応接間のソファに無理矢理座らされても、葉子はけろりとしている。
「どうもこうもないわ。わたしだって働かなくちゃならないから、片桐のおじさまに相談に行ったら、治夫さんが親身になってくれたのよ。治夫さんは独身だし、わたしだって、離婚したのは先月だから、あと5カ月待てば再婚できるわ。結婚しちゃいけないの?」
「いつ、決めたんだ?お盆に会ったときは何も言ってなかったね」
「ええ。会いに行ったのはあの後よ。--わたしが神戸の家に戻ってくることだって、一応は挨拶しておかなくちゃいけないでしょ?そうしたら、引っ越しの日も、治夫さんがお友達を何人も連れて来てくれて、ずいぶん助けてもらったの」
「--葉子」
「・・・なあに」
「正直に言ってくれ、お盆から今日まで2週間とちょっとだ。その間に会って、恋愛して、婚約までするのは、どう考えても不自然だろう。葉子、何か、あったのか--何か、言われたのか?・・・片桐さんに、何を言われたんだ」
「何も、言われてないわ、本当よ」
「何かの事情で--結婚しなければならなくなったのか」
 僕は玲の考えていることを想像して、ちょっとぞっとした。葉子の顔がこわばる。
「やめてよ。兄さんの考えてるようなことは何もないわ」
「--どうして治夫さんと結婚しようと思ったんだ」
「バツイチの女は幸せになっちゃいけないの」
「馬鹿!そんな言葉づかいをするんじゃない!」
「どんな言葉を使ったって中身は同じでしょ?わたしは幸せになりたいから結婚するのよ。結婚して、家庭を持って、子どもをたくさん産むわ。--だって、もう父さんも母さんもいないのよ。わたしには帰る実家だってない。たくさんの家族が欲しいと思って、何がいけないの?」
「--」
「兄さんには徹がいるわ、徹には兄さんがいるわ、わたしには--誰がいるの?誰がわたしと一緒にいてくれるの?」
「葉子、おまえさえよかったら、宮崎に--」
「やめてよ」
「--葉子」
「・・・治夫さんはいい人だもの。わたし幸せになれるわ。松さんのときよりずっと、幸せになってみせる」
「葉子」
「兄さんや徹が反対しても、わたし結婚するわ」
 僕は割って入った。
「それで、就職の方はどうなったの?」
「--え?」
「片桐のおじさんに就職を頼んだんだろ、まさか式まで、このまま働かないのか?」
「・・・いいえ、勤めるわ」
「どこに?」
「・・・」
「明日法要でおじさんに会うから、僕からも頼もうか?」
「いいわ、もう決まったから」
「--何ていうところ?」
「・・・父さんの会社よ」
「--何だって?」
「--別に、変じゃないでしょ?夫婦同じ会社で共働きなんて」
「--いつから?」
「来月・・・から」
「・・・ふうん」
「何よ」
「玲・・・ちょっと」
 僕は玲を別室に誘った。
「ちょっと思い当たるフシがあるんだけどさ・・・葉子とふたりで話しても、いい?」
「僕がいちゃ、まずいのか?」
「たぶんね・・・わからないけど」
「--どうして?」
 答えるかわりに、僕は苦笑してみせた。
 玲は了解して、外出した。
 --だってさ、玲--君はわからないかもしれないけど、
 女の子ってのはさ、王子さまの前ではどんなに痛いハイヒールだって、我慢しちゃうもんなんだよ。





「玲は出かけたよ」
 葉子は横目で僕を見た。ほうら、さっきと全然顔が違うんだから。
「何よ、徹」
「いや・・・葉子は正直だなと思って」
「嫌な言い方」
「--ねえ・・・どうしたんだ一体」
「--」
「さっきおまえ、玲をめいっぱい傷つけたの、知ってる?」
「--どうして?」
「松さんのことなんか言ってさ、・・・玲は、おまえが松さんと別れたことでものすごく自分を責めてるんだぞ」
「--」
「絶対、玲へのあてつけで婚約したと思ってる」
「・・・しょうがないわ、それでも」
「それにな・・・就職のことだけど」
「--」
「わかってる?自分の立場。設立者で前社長の娘なんだぞ、おまえ」
「わかってるわ」
「いくら婚約してても、結婚できるのは5カ月後だ。その間に、社内の逆タマ志願のやつが群がってくるぞ。前社長の娘、22才、しかも絶世の美人--」
「やあね」
 葉子はくすっと笑った。
「大丈夫よ、治夫さんの婚約者だもの。片桐のおじさまが守ってくれるわ--それより、徹・・・お願いがあるの」
 どきりとした。
「明日の法要のことだけど」
「--」
「兄さん、--体調が悪いということにできない?」
「--え?」
 葉子は真剣だった。
「ねえ、お願い・・・出席は見合わせて欲しいの、何とか理由をつけて」
「だって遺族代表だよ、玲は」
「でも・・・兄さん、もう、会社に戻ってくるつもりはないんでしょ?だったら会社主催の法要なんて出なくたっていいんじゃない?」
「--葉子」
 僕は妹の目を覗き込んだ。
「--どういうこと?」
「・・・」
「--玲が出たら、なぜ、いけないの?」
「・・・」
「理由を聞いて納得すれば、僕から玲に話してあげる」
 葉子はうつむいた。
「--葉子」
「--いいわ。話す・・・でも、兄さんには言わないでね。
 --わたしも、この間聞いたばかりなの。父さんたちの会社、今、内紛状態なのね。・・・きっかけは、去年父さんと母さん--社長夫妻が突然事故で亡くなったこと。兄さんがまだ入社して日が浅かったから、専務だった片桐のおじさまが社長になったんだけど、父さんたちに可愛がられてた部下の人たちで、片桐社長のやり方に反発する人たちが今、大きな勢力になってきているのね。
 その前社長派の人たちは療養中とされている兄さんの復帰を、今か今かと待っている。兄さんを神輿の上に担ぎ上げて、片桐社長と治夫さんを押さえて、いずれ主流派になりたいのね。これまでは、おじさまがあなたたちの宮崎の住所とかも一切押さえていたから巻き込まれずに済んでたんだけど--明日、法要で兄さんがみんなの前に姿を現せば、きっともみくちゃにされるわ。--退職なんて、させてもらえるはずがない。宮崎に逃げたって、みんなが追いかけてくるわ。--そうしたら」
「--」
「現社長派の人たちは、対抗するために、兄さんのマイナス点を探すわ--身体が弱いということは、まだ、何とかなる。でも--」
 そこで、口ごもる。
 葉子の言いたいことが痛いほどよくわかった。
 前社長の息子はゲイだ。
 療養とは真っ赤な嘘で、実は、会社を放って愛人と九州に逃げて、
 しかもその愛人というのが、驚いたことに弟だっていうじゃないか?
 まともに家庭も持てず、跡継ぎも作れないような人物に、われわれの会社を託せるのか?
 いやそもそも、そんなやつが会社の代表として社会的に認められるのか?
 声高な中傷、薄笑い、ひそひそ声、まるで穢いものを見るような・・・
 背筋にぶるっと悪寒が走った。
「兄さん自身がたとえ会社に戻るつもりがなくても、前社長派の人たちが擁立しようとすれば、やっぱりスキャンダルになるでしょう。--そんなことは、させないわ。そんなこと、誰にも言わせないわ、絶対に」
「葉子」
 僕には葉子の考えていることが、わかりかけてきた。
「--だから結婚するの?治夫さんと」
「・・・ええ。私は前社長の娘よ。私が会社に入って、前社長派をできるだけまとめる。現社長の長男と結婚して、彼の子どもを産む。会社はいずれ、その子のものになる。それがどちらの派閥にとっても、一番平和的な解決法でしょう。--そのかわり」
「--」
「関係のない兄さんへの個人攻撃はやめさせる」
「--葉子」
「・・・私の方から片桐のおじさまに提案したの。どちらにとっても良い話だし--それに」
 葉子はくすっと笑った。
「治夫さん、私に夢中なの。おじさまも息子には弱いみたいね」
 女の武器--か。
「--それにしても、よく思いきったね」
「--だって、徹。--おじさまは、もう知ってたのよ」
「何を?」
「あなたたちのこと。--ちゃんと興信所に調べさせてたわ。・・・見せてもらったもの、わたし」
 すうっと、血が冷えていくのがわかった。



「・・・さて、と。わたしも明日の準備があるから、出かけるわ」
 葉子は腰を上げた。
「約束よ、徹。明日、欠席するように兄さんに説得してくれるわね--できればあなたもいない方がいいとは思うんだけど。巻き込まれないように用心してね。誰にも住所を教えちゃだめよ」
「--葉子」
 ドアのところで、彼女は振り返った。
「・・・兄さんは、きっと軽蔑するわね、わたしのこと」
「--」
「--でも」
 笑顔になった。
「兄さんのファンクラブの会長としては、なかなかのものだと思ってるのよ、これでも」
 楽しそうに笑って、葉子は去った。





 僕は悩んだあげく、包み隠さず玲に話した。何よりこれは、彼自身に関わることなのだ。当事者を蚊帳の外に置いておくことはできない。
 玲は激怒した。身体中が怒りで震えている。
 夜遅く帰宅した葉子は、さっそく玄関で捕まった。
「待ってたよ、--今から片桐さんの家に行こう」
 玲が葉子の腕を取る。
「何よ、--痛い、離してよ、どうして・・・」
 有無を言わさず、ずるずる引っ張っていく。葉子はドアのノブにかじりついた。
「徹!助けてよ、徹!」
 あっけにとられてこの光景を眺めていた僕はようやく我に返って、玲をとめた。
「おい、玲・・・やめろよ」
 玲がぜいぜいと息をしながら振り返る。
 ちょっと、胸がつまった。
 彼の方が、今にも泣き出しそうに顔をゆがめていた。



 また、応接間だ。
 僕は仲裁者よろしく、ふたりを両端のソファに座らせた。
 玲が口火を切る。
「葉子、僕はこの部屋を出たら、すぐに片桐さんに電話をする」
「何--何て?」
 葉子は不安そうだ。
「婚約は解消する。就職は白紙に戻す。僕は退職する。僕たちの持っている株は引き取ってもらう。僕たちは3人とも、今後一切会社とは関係しない」
「--何を言ってるの。そんなことをしても、会社の人が・・・」
「スキャンダルを流したければ、流せばいい。--何とでも好きなように言えばいい。僕のことを、ゲイとでも、ホモとでも、オカマとでも--好きなように--」
「やめてよ!」
「・・・そんなことのためにおまえが結婚して、一体何になるんだ?おまえは自分の人生を甘く考えてないか?--一時的にヒロイックな気分に浸って、酔って、世の中をなめてないか?--第一、そんなことをしてもらって、僕が喜ぶとでも思っているのか?」
「喜んでもらおうと思ってしたわけじゃないわ」
「じゃ、何だ?--僕を、自分の名誉のために妹を差し出した、恥知らずな男にしたいのか?」
「やめろよ、玲」
「・・・葉子」
 玲は声の調子を変えた。
「・・・おまえには不足かもしれないけど、これでも僕はおまえの兄だと思ってるし、父さんや母さんがいなくなってからは、そのかわりに--たとえ何十分の一でも、親がわりになってやれたらと思ってきた。・・・松本との結婚を勧めたのは、僕だし、それを--あんな結果に--してしまったのも、僕だ。--おまえには、謝っても謝りきれるものじゃないと、思っている」
「--」
「でも、だからこそ--今度こそは、この人ならとおまえが思うような相手と結婚して、幸福になって欲しいんだ。会社とか、僕のこととか考えずに、自分のことだけ考えればいいんだ。今回のような結婚は、してはいけない」
「もう--遅いの」
「・・・え?」
 葉子は伏せていた目を上げた。
「--もう、遅い。兄さん、わたし--妊娠してるの」
 何だって?
 僕はあせった。
「ちょっと待てよ、葉子、いくら何だって、2週間でわかるわけないだろ--脅かしたってだめだよ」
「--毎朝、基礎体温つけてるの。間違いない。--今は体温計だって、検査薬だって優秀なものがたくさんあるのよ、徹」
「葉子、本当なのか--それは」
 玲の声が震えている。
「本当よ」
 葉子がきっぱりと答える。
 --一瞬だった。
 いきなり、かん高い音が部屋中に響いた。
 僕が立ち上がったときにはもう葉子が頬を押さえてうずくまり、その前で玲が仁王立ちになっていた。
 葉子は僕たちの視線の中をゆっくりと立ち上がり、涙に濡れた目で玲を見ると、黙って部屋から出ていった。
 冷え冷えとした沈黙。
「--玲」
 僕は肩に手を掛ける。
「帰ろう、宮崎に。・・・ここはもう、葉子の家だ」





 僕たちは宮崎には帰らなかった。
 翌朝大阪空港で宮崎行きの便を確認していた僕に、玲が小声で耳うちした。
「徹--少し寄り道をしたいんだけど、いい?」
「どこへ行くの」
「--ちょっと・・・」
 乗り込んだのは長崎行きのエアライン。座席ベルトを締めながら、僕は玲の横顔を盗み見た。
 少し疲れが見えるのは、夕べ遅かったせいか--
 結局僕たちはふたりとも法要を欠席し、会社側との対応を全部葉子にまかせたかたちになった。今頃は白と黄の菊で盛大に飾り付けられた父母の遺影の前で、長い読経が始まっていることだろう。片桐治夫の隣で喪服に身を包んだ葉子の白い顔が、目に浮かぶようだ。
「--どうしたんだ?」
 気がつくと、玲が見ていた。
「いや・・・あいつ、ちゃんと頬を冷やせたかな--と思って」
「--」
「君があんなに怒るところ、初めて見たよ」
「--」
「・・・でも--子どもができたんなら--しょうがないだろう、堕ろせっていうわけにも--」
「--徹」
 玲はちいさく溜息をついた。
「--あれは、嘘だ」
「--え?」
「だから--あれは、嘘なんだ。--だから、殴った」
「--どうしてそんなことがわかるんだ?」
 玲は額に手をやって顔を隠した。言葉を探している。
「言いにくいんだけど・・・僕はあの子が中学の時から身の回りの世話をしてきただろう?だから--わかるんだ。あのとき」
「何?あのときって」
「だから、要するに--」
 --ああ。
「--え、じゃ--」
 僕は腰を浮かせそうになった。
「それは嘘だ、なんて本人にはとても言えなくてね--それに」
「--」
「--そこまで思いつめているのかって--思って」
 それっきり、玲は黙ってしまった。
 頬杖をついて窓の外の雲海を眺めている。
 僕が何か言いかけたとき、機が降下を始めた。



 長崎から更に飛行機を乗り継いで、小値賀島に着いたのは夕方だった。吸い込まれそうな透明な空。緑に、風に、夏の余韻がまだ残っている。
 僕たちは一見バスセンターのように見える空港ビルの観光案内所で民宿を紹介してもらい、ロビーで迎えの車を待った。
 15分もたつと溜まっていた乗降客がさあっと散ってしまう。後には吹き抜ける風と僕たちだけが残された。
「ねえ、玲--ここって、どの辺」
「五島列島」
「・・・聞いたことはあるけど」
「長崎の、ちょっと西。対馬海峡に面してる」
「・・・ふうん」
 そうじゃなくて--
「あの--さ、--どうして、ここに来たの」
 玲はジュースの空き瓶を陽に透かして眺めている。
「玲」
 振り向いて、ちょっと笑う。
「--言わなくちゃ、だめかな」
「気になるよ」
 彼は頭を掻いた。
「--昔、母さんからこの島の名前を聞いたことがあってさ」
「母さんから?」
「--うん。・・・君を生んだご両親ね、--ずっと神戸に住んでおられたんだけど、何代か前--ひいおじいさんか、そのまたおじいさんかが、この島の出身じゃないかなって--聞いたことがあるって」
 初耳だった。
「--本当」
「--うん、まあ--昔のことだから、住んでいる人だって--覚えてないと思うけど・・・」
 僕はあたりを見回した。僕の先祖がここで暮らしていた--この空の下で・・・飛行場の周囲は閑散として人家も見えず、茫漠とした想いだけが風に吹かれてかさこそと音を立てた。
「--ぴんとこないな」
「・・・だろうね」
 玲は床に目を落として、ほほえんだ。





 静かな島だった。
 五島列島の中でも、マリンスポーツやレジャーを楽しむ観光客たちの多くは施設の整った他の大きな島に集中し、この島を訪れるのは主に釣り客だ。島には都会から飛行機で訪れ、沖に浮かぶ島で大物をねらう太公望たちのための旅館も、何軒かあった。
 釣竿を持っていかなかったのは、ちょっと失敗だった。玲も僕も、釣りの趣味はない。カメラもない。ただ観光だけに訪れたにしては、玲は目立ちすぎる外見だった。小型のボストン2個だけの荷をトランクに入れながら、民宿からの迎えの男は玲の顔を穴のあくほど見つめ、僕の顔に視線を移して、ひとりわけ知りな笑みを浮かべたものだ。
 その夜、新鮮な海の幸を堪能した僕たちは、入浴後に戻った部屋で、八畳間の真ん中にぴったりくっつけて並べられた布団を見て赤面した。
 それに--
「・・・襖一枚、だよねえ」
 これじゃ、筒抜けだ。
「旅館にすればよかったかな」
「・・・大して違わないんじゃないの」
 玲は布団を30センチほど離して敷き直すと、外へ出ないかと僕を誘った。
「まだ寝ないだろう?・・・そのあたりでも歩かないか」
 僕たちは宿の浴衣に羽織姿で民宿を出た。



 女は、いいな--と、思った。
 女ならばもうそれだけで、あたりまえのように大きな顔をして彼と歩けて、中傷されることもなくて、いやらしい視線を浴びることもなくて、民宿で大声をあげたって、まあ--それはそういうことですんで、ラブホテルにも堂々と入れて、結婚だって--
 結婚だって、できて。
 恋愛のゴールもその後の人生も、恥ずかしいくらい煌々と照らされた街灯の下だ。たとえ路に迷ったり、悩んだりしても親切な道標がいくらでもある。世の中がおしなべてケアしてくれるんだ。
 今の僕たちのように、行くあてもなくとぼとぼと歩くなんて、きっと想像もつかないだろうな・・・



 玲が振り向いた。
「徹--」
 --ああ。
「潮の香りだ」
 あたたかな、湿った空気が漂ってきた。
「さすがに、あったかいね。神戸とはずいぶん違う」
 少し歩いた先にコンクリートの堤防があった。じゃりじゃりと下駄の歯に砂が鳴る。真っ暗な階段を一段ずつ踏みしめながら、僕たちは浜に降りた。
 暗い波の彼方にちらちらと灯がまたたいている。沖釣りの船か。
 頭上には降るような星の群れ。
 星屑と漁火のほかは何もない、すべての色を塗り込めたような漆黒の海--それは、僕たちが生まれ育った神戸の華やかな海からは思いもかけない風景だった。
 潮風がふわりと頬を撫でる。玲の湯あがりの髪が匂った。
「--あっちのほうに行ってみようか」
 目をこらすと、砂浜に打ちあげられたちいさな廃船が見える。下駄を両手に裸足で走り、船の蔭にまわって並んで砂に腰をおろした。
 --いきなり、肩を引き寄せられる。熱い唇が僕の唇を襲った。
 火のような身体・・・ 
 抱き締められた腕にぎゅっと力がこもる。
 しばらく--そうしてから、ゆっくりと唇が離れた。
 玲の顔がすぐ目の前にある。彼の方がうろたえて、真っ赤になっているのがわかった。
「玲」
「--ごめん・・・」
「何が」
「--」
 僕は玲を抱き寄せる。着ていた羽織を脱いで砂に敷き、彼の身体を横たえた。帯を解く。軽く腕枕をして、裸の胸と胸を合わせた。
 --波の音が響く。
 ざああ、ざああと寄せる波の音が頭の奥深くまで押し寄せてくる。
 玲の胸はあたたかい。湯あがりの肌が匂う。
 思わず浴衣からその裸の肩を出し、背に腕をまわしながら抱き起こして両方の袖も脱がせてしまう。夜の闇に白い裸身が細かく震える。それは彼だけではなかった。
「--玲」
 どちらからともなく、身体を重ねる。
「・・・寒くない?」
 そしてお互いの身体を舐めはじめる。うなじから背中、脇の下から胸、乳首--臍。僕の下着を取り、砂の上に這わせて、玲は僕の尻から睾丸までを舌で舐める。
 --ああ。
 快感が攻め上がってくる。全身が熱い。ペニスがいきりたっている。玲はまだ、手も触れない--じらしている。じらされている。それがわかっていても、僕は悶えてしまう。--口惜しい。
 ざああ、ざああ--波の音が高くなる。
 頬の下に、ざらざらした砂の粒がまだほんのりとあたたかい。
 身体の芯に、玲の熱い肉の棒がゆっくりと入ってくる。僕は目を閉じる。少し--痛い。でも我慢できないほどじゃない。
 今、身体の中に入っているものを僕は思い浮かべる。淡い、桜色のペニス。先は綺麗な肉桂色だ。形はこう--ちょっと弓なり。大きさは、けっこう大きい。充血すると、血管がはっきりと膨れ上がる。それが、今--僕の中にずんずん入っている、玲のペニス・・・
 玲はどんな顔をしているだろう。白い顔が上気して、苦しそうに眉をしかめて、汗で髪が乱れているかな・・・色っぽいだろうな・・・
 突然、ぐりぐりっという感じで突きまわされる。--声が出る。--ああ。攻め込まれる。--ああ。僕は砂を握りしめる。手の中で砂が固まる。額が砂にこすられる。髪に砂が入り混じる。
 ざああ、ざああ--また波の音だ。高くなり、低くなり、休みなく岸に打ちあげる海からの使者。
 僕のペニスはもうどろどろに感じている。透明なあぶくが溢れて伝い落ちる。腰から先の感覚がない。--玲の動きが、速くなった。
「--あ、あああ、あ・・・・・」
 ものすごい速さで僕は昇りつめ、砂の上に精を放った。
 --身体中の力が抜ける。玲がそっと身をはずすと、僕はうつ伏せのまま、へたり込んだ。心臓がどくんどくん鳴っている。
 玲の指が背中を撫でる。そっと浴衣が掛けられるのを感じて、僕はそのまま吸い込まれるように・・・眠ってしまった。



 ざああ、ざああ--
 頭の奧の、ずっと奧の、はるか彼方で波が寄せている。
 それは二重奏になり、三重奏になり、大音響となって僕の頭を揺るがした。
 --とたんに、目が覚めた。
 しばらくは、自分がどこにいるのかわからなかった。--なぜだか砂の上にうつ伏せになって、裸で寝ている自分。真っ暗な闇。
 僕は身体を横にひねって、かたわらの黒い塊--たぶん、人の影--を見た。白い衣をはおり、船の蔭で膝をかかえているその影は--
 僕は息を飲んだ。



 玲が、肩を震わせて嗚咽していた。





「あーあ・・・」 
 僕はわざと大きな声をあげて起きあがった。玲がぴたっと泣きやむ。
「僕、寝てたの--どのくらい?」
 玲がほほえむ気配がした。
「大して寝てないよ--10分くらい」
「ふうん」
 持っていたタオルで身体を拭き、浴衣の帯を締めてから、僕は彼の横に並んだ。
「--玲、寒くない?・・・はおってるだけじゃ」
 覗き込んで、僕は気づいた。
「--」
 玲は僕の視線に、少し顔を赤らめた。
「ちょっとね--不調で、さ」
 さっさと下着をつけ、帯を結びはじめる。僕は羽織を手渡した。
 同じ位置に招く。僕は彼の肩を抱いた。
 少し--まだ、震えている。
「玲--あのね--」
「--ごめん」
「--何が?」
「・・・嘘なんだ」
「--え?」
「ひいおじいさんの話。このあたりだとは聞いてたけど--この島なのかどうかはわからない」
 --ああ。
「・・・どこでも、よかったんだ」
「--」
「まっすぐ帰りたくなくて--君と・・・旅がしてみたかったんだ」
「いいとこじゃない。明日、あちこちまわろうよ」
「--」
 玲は黙った。
 僕は肩に抱いた手に力をこめて、彼の顔を覗き込んだ。
「--キスしても、いい?」
 ゆっくりと唇を重ねる。やわらかい頬がまだ濡れていた。少しずつ舌を入れて絡ませ、深く、強く吸い続ける--涙の味。
 --玲・・・
 彼が何を思って泣いていたのか、わかるような気がしていた。
 その時だった。
 抱き合った僕たちの耳に・・・
 遠い海の彼方から、
 長く尾を引いた獣のような声が聞こえてきたのだ。



 それは不思議な声だった。
 暗く、哀しく、激しい悲嘆の声。
 喉の奥から絞り出すような苦しげな呻き。
 身のすべてを投げ出して放たれる絶叫。
 人の世の、ありとあらゆる情念を解き放った嵐のような咆哮・・・



「海鳴りだ」
「--海鳴り?」
「・・・父さんから聞いたことがある。低気圧や台風の来る前兆で--」
「--あれ・・・音、なのか?」
 人か獣の叫び声としか、思えない。
 玲は暗い海面をじっと見つめていた。
「--こんな話が、あった。--人が死んだら、どこへ行くか」
「--」
「・・・肉体は消滅する。では魂は、どうなるか」
「--」
「魂は、海鳴りになる。・・・海鳴りになって、恋しい人を呼ぶ。--だから、死んだ人に会いたければ・・・」
「玲」
「--海鳴りの声を聞けばいい」
 玲は立ち上がった。
 海に向かってすたすたと歩き出す。僕は後を追った。
 波打ち際だ。足の指が濡れた砂にめり込んだ。
 玲の顔は動かない。
 食い入るように海原を見つめる。漆黒の海。闇の彼方から彼を呼ぶ声。もういない、もう会えないと思っていた人の声・・・
 --玲。
 --玲。
 --玲。
 --玲。
 --玲。
 --玲。
 --玲・・・・
 突然、玲は両手で顔を覆った。肩が大きく揺れている。指の間からぼろぼろと涙がこぼれ落ちて頬を伝う。唇を噛みしめ、喉仏を震わせながら、声をあげるのだけをかろうじて耐えていた。
 僕は動けなかった。玲がいったい誰の声を聞いたのかもわからない。僕にはわけがわからない。第一これは、ただの、音で、ただの・・・
 次の瞬間、背中に冷たい水を浴びせかけられたような気がした。
 --全身が総毛立っている。
 この何ものともわからない唸り声の渦の中に、
 僕は確かに、ある声を聞いた。
 低く、張りのある若々しいバリトン。
 少し線の細い、優しいソプラノ。
 僕に呼びかけ、僕に笑いかけ、僕の手を引き、僕のそばにいた--
 なつかしい人たち。
 --もう二度と会えない、僕の・・・
 僕は後ずさった。
 片足を砂にとられて、尻餅をついた。
 死にものぐるいで、目を閉じる。--でも、僕には、わかっていた。
 --この暗い波の果てに、父さんと母さんがいる。
 墜落地点、北緯28度、西経74度5分。大西洋上で彼らは海に沈み、海流に流されて--この海のどこかに、今もいるのだ。
 すべての海は、繋がっている。すべての陸に向かって、彼らは僕らを呼ぶだろう。その、なつかしい声で・・・
「玲、徹--葉子!」
 涙が、噴き上げた。
 海鳴りの悲しげな咆哮に共鳴するかのように、僕もまた夜の浜辺にぺたりと座ったまま、いつ果てるともしれない涙を流し続けていた。



 翌日、僕たちは宿の人に弁当を頼んで、徒歩で島内を見てまわった。小高い山の頂上から海に浮かぶ島々を見渡し、橋を渡って灯台から海を眺めた。昨夜のことが嘘のように、海は青く澄みきっていた。
 その夜、僕はもう一度、廃船の蔭で玲を抱いた。海鳴りはもう聞こえない。しかし僕の頭の奧には、あの夜の海鳴りの声がいつまでも響いた。
 僕たちはもう一泊、今度は違う島を観光してから、宮崎に帰った。僕はよくしゃべった。玲も、よく笑った。できるだけ楽しい旅にしたかった。僕たちの、最初で最後の旅--これから先は、もうないのだ。



 僕は玲と別れる決心をしていた。




10


 僕はなつかしい声を聞いて、思い出した。
 あの神戸の家で過ごした、幸福な少年時代。
 玲があれほどまでに欲しがっていた父さんのあたたかい掌を、僕は毎日のように握りしめ、毎日のように遊んでもらった。
 ただ後継者として引き取られただけじゃない、本当に愛情をかけて育ててもらった。大きくなってからも僕たちを信用して放任してくれていたから、よくいわれる親子の葛藤にも無縁だった。
 --そうだ、信用してくれていたのだ・・・
 彼らの望みは僕が早く学校を卒業して事業を継ぐことだった。
 それなのに僕は彼らの息子に恋をして、身体に傷をつけたうえ、勝手に家を飛び出して・・・1年半以上も記憶をなくしたために、玲が僕の代わりに会社に入ったのだ。
 その玲を、僕は奪った。--宮崎に連れてきてしまった。
 家からも、会社からも、僕は玲を奪った。
 死んだ両親からも、奪ったのだ。--大事な長男を。
 僕は、玲が、好きだった。好きで、好きで、たまらなかった。気が狂いそうなほど、好きだった--だから、自分が、抑えられなかった。
 玲は知っていたのだ。会社の中での自分の立場を。
 宮崎に行ってしまったら、どんなことになるのかを。
 何もかも承知のうえで「家も、会社も、捨てたから」と言ったのだ。
 だが、その彼でさえ、半年の間に会社の内紛がこれほど進もうとは予想していなかった。彼の退職が許されなくなるほど、追い込まれることになろうとは。
 だから、葉子は--身を売った。兄の名誉と、僕たちの暮らしを護るために。父さんと母さんの娘は、自分から火の中に飛び込んだ。
 --葉子。
 夜の浜で、玲は声を出して泣いていた。あの時僕は気づいたのだ。
 抱き合うために海に行ったのではない、泣くために波の音が必要だったのだと。玲は泣きたかったのだ--僕に隠れて。
 葉子。
 たったひとりの妹を護れず、たったひとりの弟を愛して、もういない両親を裏切った玲。
 僕が継ぎますと宣言した会社を捨てて、宮崎にやってきた玲。
 僕も、両親を裏切った。
 会社を継ぎ、結婚をして、跡継ぎをつくる。
 たったそれだけのことが、僕にはできなかった。
 できないどころか、玲にもそれをさせなかった。
 僕たちは--出会ってしまった。もう、出会ってしまった。
 もし彼らが僕の実の親であったなら--
 僕は許しを乞うだろう。
 父さん、母さん、ごめん、でも、好きなんだ、玲が。--ごめん。
 許してもらえなくても、しょうがないと思えるだろう。
 でも、--実の親じゃなかった。
 身寄りのない僕を引き取って育て、本物の愛情をかけてくれた、かけがえのない人たちだった。どんなに感謝してもしきれない相手だった。
 それでも、生きていてくれたなら--
 生きていてくれたなら、僕は床に頭をこすりつけて、泣いて詫びるだろう。生きていてくれたなら--
 すみません。すみません。すみません。--でも、僕たちはもう離れることはできないんです。すみません・・・
 もう遅かった。死んでいった人たちには詫びることもできない。
 だから、僕は、考えた。
 考えて、考えて、考え抜いた。
 僕に何ができるか。
 僕は何をしなければならないか。




11


 頭を冷やして考えてみると、思いあたることがいくつもあった。
 玲が休暇を取ったとき--片桐のおじさんに、電話一本で承諾が取れた。医師の診断書は、後から送ったのだ。前社長の息子が半年も会社を休むというのに、よく簡単に了承したものだ。
 休暇中も、一度も様子を見に来なかった。亡き父母と親しく交際していたにしては変だ。かわりに興信所を使っていた。
 宮崎の住所を他の社員たちに知られないよう押さえていた。玲をわずらわせまいという配慮とも取れるが、会社とのパイプを断っていたともとれる。そして、葉子の件。
 葉子は本当に自分から進んで婚約したのか。そう思わされただけではないのだろうか。玲のスキャンダルにしたところで、明るみに出せば、おじさん自身だってリスクを伴う。なぜならおじさんが玲の後見役になっていることは周知の事実なのだから。スキャンダルで脅すのは、兄思いの葉子の弱点をついた、おじさんの老獪な戦術じゃないのか。
 片桐のおじさんの--
 このままいけば、片桐健夫は何もせずに父さんと母さんの会社と、孫までも手に入れることになる。そして葉子は、あの冴えない治夫の妻になるのだ。婚約者に下品なスーツを着せる男。
 そんなことは、させない。あの会社は、父さんと母さんが汗水流してつくった会社だ。命の結晶じゃないか。僕が継ぐはずだった、会社じゃないか。
 僕は考えた。僕自身が会社を継ぐ、あるいは継ごうと名乗り出た場合のことを。僕が前社長派の御輿に乗れば、おそらく治夫との戦いになる。社内を二分することになるだろう。そうなれば、まとめ役としての葉子の利用価値はなくなる。おじさんは葉子を手放すのではないか。治夫との間の子どもにしても、僕に子どもができれば--
 子ども。--そう考えて、僕はぞっとした。
 それは僕に--僕が--誰か女と結婚しろということだ。
 ・・・しかし考えてみると、それは当然だった。跡継ぎもないような後継者など、災いの種だ。それに・・・
 それに、玲を狙ったスキャンダルは、そのまま僕にもあてはまるのだ。僕は自分がゲイだということを、絶対に隠さなければならない。
 --それは、玲と、別れるという、ことだった。
 --宮崎での生活は、単に兄が療養のために、弟のところにやってきただけに過ぎない。ゲイだって?とんでもない。ホテルから出てきたところでも見たのか?逆に、名誉毀損で訴えるぞ・・・
 玲のときにその手が使えないのは、要するに彼の外見が--綺麗すぎるからで、誰もが、そうだろうなと感じてしまうのだ。あの島の民宿のおやじのように。
 綺麗すぎるっていうのも、やっかいだなあ--玲。
 玲・・・
 不意に、胸が塞がった。
 本当に僕は、そんなことを--玲と別れるなんてことを、平気で考えているんだろうか?嘘じゃないか?これは、夢じゃないのか?
 そんなことが、この僕に、できるのか?
 --可能性だ、可能性。
 僕は落ちつこうと努め、次の可能性--玲が会社に戻った場合、を考えてみた。
 --駄目だ。何より、身体に負担が大きすぎる。頻繁に海外を飛びまわる仕事だ。時差ボケひとつとっても、玲の身体で持つとは思えないし--多分、寿命を縮めてしまう。本人はそれでもいいと思っていたんだろうが・・・。それに、--もうひとつの心配だってある。考えたくないけど、誘惑の可能性だ。--あの美貌だ。玲にその気がなくても、トラブルに巻き込まれるのが、目に見えてる。それを逆手にとって業績を伸ばすなんていう芸当は彼には到底できない--では、父さんのように、結婚して、妻がいつもつき添っていたら・・・
 ああ、玲が、結婚?--それこそ不可能だった。僕ならまだしも、彼は女が--駄目なのだ。もうそれだけで、会社に戻る線は、消える。
 僕は、何となく、ほっとした。
 そうだ、玲には似合わない。あの玲が取引先と商談を交わしたり、社内をまとめたり、組合と渡り合ったり、税金対策に頭を悩ませるのは、全く似合わなかった。そんな風に現実の世界で汚れていく彼を見るのは嫌だ。玲にはいつも、あの閑静なアトリエの中で、美しい絵を描いて過ごしていて欲しかった。誰にも傷つけられることなく、綺麗なままで・・・
 玲は、僕の、夢なのだ。美しい夢。見果てぬ夢。
 あの朝陽のあたるホテルでの、信じられないような夢の一夜から、宮崎の天窓のある屋根裏部屋での愛の交歓。幾度も交わり、交わり、交わりつくしてもなお飽くことのない夢のような蜜月。頭の芯が溶けていきそうな甘美な時間--
 思い直せよ、と声がする。
 思い直せよ、今ならまだ間に合う。その甘美な時間を、続けていけばいいじゃないか。玲はおまえを愛している。彼はすべての非難を承知の上で、それでもおまえとの生活を選んだ。何もかも捨ててもいい、僕は一匹の雌犬でいい、僕のこころのすべてを--3才のときも、25才のときも、45才のときも、65才のときも--一生を君にやる、受けとめてくれと--彼は言ったのだ。それでもおまえは--おまえは行くのか?
 何のために?--葉子のために?




12


 ・・・違う。
 自分のためだった。
 僕はこれまで、自分自身で何ひとつ決断してはこなかった。
 幼い頃、僕が会社を継ぐのは両親の望みだった。宮崎で市場に勤めたのは、斉藤のおやじさんが拾ってくれたからだ。ずっと宮崎で働けたのは、玲が代わりに入社したからだ。その玲と暮らせたのも、彼が宮崎にやってきてくれたからだった。
 僕は自分の人生のレールをいつも人まかせにして、流されているだけだった。僕のやってきたことといえば、ただ感情のままに玲を傷つけて記憶をなくして家を出て、ただ感情のままに玲に告白してぶつかっていっただけだった。
 玲はそんな僕を、全身で受けとめて、抱いてくれたのだ。
 今思えば、僕は玲の裸身を前にして、いつも震えをとめることができなかった。--それは、本能的に知っていたからだ。本当は、目の前のこの男が、僕などの手の届かない天上の宝石であることを。
 だから僕はいつも、天にふたつとない尊い宝石を、さあ彫ってみろと与えられた見習いの小僧のように、がたがたと震えていた。不器用な手で、つたない技術で、取り返しのつかないことになりはしないかと。宝石は僕に言った。--好きにしていいよ。僕は君になら、何をされてもいいから。
 何をされてもいいから--
 そしていつも玲は僕の前に、そのすべてを投げ出していた。
 僕はそんな彼に甘え、甘えるのを当然のことと思って、本気で彼にふさわしい職人に、一人前の男になろうとしなかったのだ。
 玲。
 --だから、僕は、決めた。
 もう周囲に流され、愛情に甘えるだけの人間では、いたくない。
 僕は愛情をかけてくれた両親の残した想いに、応えたい。
 僕たちのために身を捨てようとした葉子の潔さに、応えたい。
 そして何よりも、僕を愛してくれた君に--
 君にふさわしい男になりたい。
 だから僕は、神戸に帰る。




13


「わかった」
 玲は白い顔をしていたが、態度は落ちついていた。立ち上がって、ワインの瓶とグラスを2つ、テーブルの上に置いた。
 栓を抜き、ゆっくりとつぐ。ランプの灯が赤紫色に反射して揺れた。
 黙って自分のグラスを取ると、無造作に僕のグラスに軽く触れて、ぐいとあおった。白い喉仏が動く。
「実はね--うすうす感づいてた」
 僕の方を見て、ちょっと笑った。
「俊男から、君が市場の仕事を辞めるのは本当かって--訊かれて」
 あいつめ。
「適当に返事しておいた」
「--」
 玲は頬杖をつき、色を楽しむような目つきで2杯めをついだ。
「それで、今後の予定は?--荷物とかはいつ運ぶ?」
「・・・身のまわりのものだけ持って、明日の朝、俊男のアパートに移る。そこから、何日か後に飛行機に乗る。--いつの便になるかは--知らせない。--ほかの荷物は、悪いけど、後から送って欲しい」
「--そう」
 睫毛を伏せて、--黙っている。
「--玲」
「--ん?」
「--止めないの」
 玲はちらっと僕を見た。
「もう、決めたんだろ?」
「--」
「・・・君が決めたことだ、僕に止める権利はないよ」
「--」
 権利、とかじゃなくて--
 正直言って、もっといろいろ訊かれたり、泣かれたりするかと思っていたのだ。あっけないのが、何だか腹立たしかった。
「・・・ひとつだけ、いいかな」
「何」
「--勝算は、あるのか」
「勝算?」
「治夫さんはあんなふうに見えるけど、仕事はできるよ。人望もある」
 --ああ、そっちの話か。
「戦うと決めたのなら、どんなことをしても勝つべきだと思う--だから」
「--」
「できるだけ早く、結婚しろ」
「--え・・・」
 本気か?
「仕事のプラスになるような娘を選ぶんだ。家庭でも、君をきちんと受けとめられる、優しくて、それから--」
「--」
「丈夫で、健康な娘を」
「玲」
「僕のことは、--画家だから、ゴッホやゴーギャンみたいに、南国に憧れて宮崎へ来てしまった、くらいにごまかすんだ--いいな」
「--」
「連絡も、当分、しない」
「当分って--どのくらい」
「--」
「玲!」
「徹」
 玲は僕をじっと見つめた。
「--君は・・・よけいなことは考えるな--そうでないと、勝てないぞ」
「・・・玲--」
 迎えに来るよ--玲。迎えに来るよ--僕はそう、叫びたかった。
 ・・・だが、いつ?いつ、約束できるだろう。
 そして--その時、僕は結婚しているに違いない。
 僕は--玲を--愛人にするのか?
 この、世界にたったひとつしかない宝石を、愛人になど、できるのか?
「--徹」
 玲がテーブルの上で僕の両手を握った。
「君が悲しむ必要はない。僕は、君の決断を、正しいと思う。そこまで決断した君を、僕はとても誇りに思う。誇りに思って、君を送り出すことができる--だから、今、こうして僕は笑っていられる--本当だ」
 握られた手に力が込められた。 
「--徹」
 やわらかな、声。
「--ありがとう。この半年間、君と暮らして、楽しかった。--僕は一生、忘れない」
 光がにじむような、微笑・・・
 --胸に熱いものがこみ上げてきて、僕は--うつむいた。
 何も、言えなかった。
 こんな時に--こんな時に。
 何も、言えなかった。



 その夜は、別々に寝た。玲がそうしたいと言ったのだ。
 僕は屋根裏部屋であかりを消して、とろとろと眠りかけていた。
 夜更けに、階段を昇ってくるしめやかな足音が聞こえた。
 ドアの開く音。
 黒い人影がゆっくりと僕の前に立ち、僕を--見つめていた。
 かすかな息づかい。
 僕は金縛りにあったように動けなかった。
 僕の顔が真っ暗に翳る--まもなく、
 額にやわらかいものが、軽く触れた。
 階下に降りていく足音がすべて消えてから、
 僕はようやく我に返った。
 僕は額に手を触れる。玲の唇のあとがまだひんやりと残っている。
 僕はシーツにつっぷして、声を殺して泣いた。




14


 翌朝は、無惨なほど快晴だった。
 僕はボストンひとつを下げて、家の前で玲と別れた。
 今さらに、何も言う言葉が見つからない。言葉で何かを伝えようとするには、あまりにも多くの想いが胸を衝いた。
 玲もあまりしゃべらない。悲しげな人形のように見えた。
 門まで来た。
 僕は立ち止まって、玲と向かい合った。
 玲はほほえんだ。
 薄茶の淡い瞳が僕を見つめていた。
「--元気で」
 いつもの声だった。何十回、何百回聞いた、あたたかくて、やさしい、玲の声だった。僕はこの声を、忘れよう。
 彼は掌を出す。僕はその手を握った。玲の手だ。白くて華奢な、細い指。僕はこの手を、忘れよう。
 僕は忘れよう、玲のことを。玲と過ごした夢のようなこの家のことを。かすかにでも思い出したら、もう生きていけない気がしていた。
「--じゃ」
 僕はこれ以上ないような見事な笑顔をつくってうなずくと、前に向かって歩き出した。
 1歩、2歩、3歩、4歩、5歩・・・数えながら、僕は歩いた。
 --20歩まで、きた。玲は、いるだろうか・・・25歩めだ、まだ、いるだろうか。
 30歩!僕はとうとう、振り返った。
 --振り返った!
 人影は、絶えていた。
 門はもとのように、ぴったりと閉められていた。
 何も、なかったかのように。
 誰も、いなかったかのように。
 僕たちの家だった家は、しんと静まり返ってたたずんでいた--
 僕は急に、ぶるっと震えた。
 僕は何か、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。何かとてつもない間違いをしでかしてしまったのではないか。一生後悔してもしきれない何かを--永久に元に戻らない何かを・・・
 大声をあげて今すぐ走って帰り、玄関を開けて玲を抱き締めたら--彼は何というだろう。
 抱き締めて抱き締めて--一生抱き締めて・・・
 一生どこへもやらないと言って・・・
 そんなことが、できたら。
 そんなことが--できたら。
 僕は知っている、玲は受け入れてくれるだろう--前と同じように。
 白い肌、やわらかい唇、僕のための--洞窟。
 何も変わらない、ふたりだけの小宇宙・・・
 --僕はそれを捨てていくのだ、
 僕は僕だけのために、それを捨てていくのだ。
 僕が初めて--自分で決めたことなのだ。
 --それなのに、なぜ、足が重いのか。一歩一歩踏み出すごとに、この足が地面にずぶりとめり込んでいく。つんのめって倒れそうになる。
 つんのめってしまえばいいのだ、動けなくなればいいのだ。
 玲のいない人生、玲のいない生活、玲のいない僕。
 一歩一歩歩くたびに、僕は玲から離れていく。
 僕は、玲から、離れていく。




15


 俊男の家で、僕は散々荒れた。ほとんど狂人に近かったかもしれない。僕は昼も夜も酒を飲み、飲んでも酔えないのに腹をたてて俊男に当たり散らした。彼の方こそ、いい迷惑だったに違いない。
 4日めに、さすがにこれでは情けないと思って、酒を抜いた。翌日のエア・チケットを取って、神戸に行く準備をした。
 白状すると、一度くらい玲から電話があるんじゃないかと、心待ちにしていたのだ。あれだけ言って別れたのに、未練たらたらなのが何ともめめしい。さすがに、玲だ、別れ際だって鮮やかなもんだ--と、変な感心のしかたをする。
 でも、おかげで、目が覚めた。
 これからは、本当に、ひとりなんだ。僕は、腹をくくった。
 僕は見送りに行くという俊男を断った。里美おばあちゃんも、斉藤のおやじさんも、他の連中も、悪いけどって、断った。ちょうど市場の忙しい時間帯のフライトだったこともあるけど、何よりも、ひとりで出発したかったんだ。
 --なんて気障なことを言って、実はみんなに見送られて泣いてしまったらカッコ悪いな、と思ってたせいもある。
 送別会で、おやじさんは泣いた。俊男も泣いた。僕も泣きそうになった。おばあちゃんだけが、しゃんとしていた。



 空港に向かうタクシーの中で、僕はしみじみと感じていた。
 --宮崎に来て、良かった。
 この明るい、だだっぴろい、透明な風の吹き抜ける南国の都市。
 圧倒されるような濃い緑の楽園。降るような星空。
 そして、この--陽光。
 3年前の年の暮れに浮浪者のようになって僕はここに流れ着き、雇われ、神戸から玲を連れて来て、ままごとのような生活を送った。
 この穏やかで、おおらかで、あたたかい土地で。
 ここだから、暮らせたのだと思う。ここだから、帰ることもできた。ここだから、こんなにもやさしく僕を送り出してくれる。
 そして、ここだから--玲を置いていくことも、できるのだ。
 --良かった。
 僕はこれまで神様を信じたこともなく、宗教にも興味がなかったけれど、それでも何かに感謝しないではいられないような気持ちだった。
 --良かった。
 この土地が、玲のためにあって、良かった。
 きっと彼は--大丈夫だ。
 窓の外を流れるフェニックスの並木に目を移しながら、僕はひとりで笑った。ガラスに男の顔が映っている。--ひきつれた、醜い笑顔。
 ・・・免罪符?そうかもしれない。そうかもしれない--玲。
 どんなに言い訳をしたって、同じことだ。僕は彼を捨てていく。僕のためにすべてを捨てた男を、僕の都合で捨てていく。
 それを、義理だの、意地だの、プライドだのと--言い換えてみたって同じことだ。
 僕は玲を捨てるのだ。
 あの、玲を、捨てるのだ・・・
 --車が停まった。
 僕は料金を払ってタクシーを降り、エア・ターミナルの白い建物に向かって歩き出した。
 --もうあきらめろ、徹。振り返るな。
 どのみち、しようがない。
 もう僕はスタートしたのだ。あとはゴールのテープを切ることだけを考えるしか、ない。スタートダッシュ、ペース配分、コーナーの駆け引きそしてラストスパート・・・
 僕の足が、止まった。
 手から--バッグがすべり落ちる。
 目はターミナルの入り口を凝視していた。
 --あれは--
 柱にもたれていた人影が振り向く。
 すらりとした細身の長身。黒いセーター、ブラックジーンズ。
 僕を見て、笑いかける・・・
 薄茶色の、あたたかい瞳。
「--徹 」
 僕を呼ぶ、やわらかな声。
「徹!」
 僕に向かって走る、しなやかな身体--



 --玲。




16


「待ってたよ--徹」
 玲がほほえみかける--僕は声が、出ない。
 心臓が、鳴っている。
 玲が床に落ちた僕のバッグを拾い、僕が不器用に受け取る。
「・・・俊男に聞いたの?この便に乗るって--あいつ、言うなって言っといたのに」
「俊男には何も聞いてないよ」
「--」
「・・・僕が来てたんだ、ここに」
「--」
「毎日--来てた」
「--え」
 どうして--
 心臓の音が一層高まる。
「徹」
「--悪いけど、見送りなら--」
「見送りに来たんじゃないよ」
 それじゃ--
 胸が激しく震えた。天に昇る歓喜--ああ、・・・でも。
 でも・・・
 僕はうつむいて、唇をきつく噛みしめた。
「玲--僕は、もう・・・行くと、決めたから--」
 決めたから--ごめん、玲--ごめん。
 僕を許してくれ・・・
「--徹」
 玲は僕の顔を覗き込んだ。
「僕は君を止めに来たんじゃない--僕は」
 --え?
「--徹」
 玲は僕に笑いかけた。
「僕は、君と一緒に行くんだ、神戸へ」




17


「徹--君が行ってから、僕も考えた。僕も一度は父さんたちに、会社を継ぐと宣言した身だ。--それが、約束を反古にしたあげく--妹を巻き込んでしまうようでは、僕だって君にふさわしい男とはいえない」
「--」
「葉子は、僕の妹だ。君が葉子のために戦地に赴くというのに、僕がのうのうと暮らしてなんか、いられない。僕も、会社に戻るよ、徹。--ふたりで戦いたい」
「玲--でも・・・」
 僕は、ためらった。
「--僕は、会社の仕事が君に向いてるとは思えないよ。--能力の問題じゃない、君の身体にとっての負担が大きすぎるし、それに--言いたくないけど、誘惑の危険だって・・・わかるだろう」
「--」
「君は、きっと--ものすごく嫌な思いをたくさんすることになると思う。とてもじゃないけど、それは--」
「徹」
 玲が遮った。
「もし、そうなら--」
 そこで、詰まる。玲は--うつむいた。
「徹--一度しか、言わない」
 額が赤く染まっている。
「・・・僕を、護ってくれ--君が、僕を・・・護ってほしい」
「--玲」
「--いつも僕のそばにいて、僕と行動を共にして・・・国内でも、海外に行くときでも--仕事でも、家に帰っても--いつも」
「玲」
「--徹」
 玲は顔を上げて、僕を正面から見つめた。
「・・・わかってる。そんなことは君にとって負担だ。君はひとりの方がずっと身軽で、戦いやすい。僕は君の--お荷物になる」
「--」
「--わかってた。だから・・・君が出ていくって聞いても、何もできなかった。僕には止める資格がない。ついていくこともできなかった。君のお荷物になる自分なんか、いたってしょうがない。--だから僕は、笑って君を送り出すべきだと思った。そうしようとした。それが一番いいんだと、自分に言い聞かせて--」
「--」
「--でも」
「玲」
「--徹」
 玲が唇を噛みしめた。
「・・・僕のそばにいてくれ」
「--玲」
「--君は言ってくれた。僕がただそこにいて--寝て、起きて、歩いて--笑っているだけでいいんだと。もし、そうなら・・・もし、今でもそう思ってくれるのなら--」
 唇が細かく震えていた。
「僕のそばにいてくれ--ずっと」
「--」
「--君は、これまでいつも流されてきたと言った。--でも、それは僕の方だ。僕は、君のときだって、和彦や--松本のときだって、これまでいつも相手から求められるばかりで、ただの一度も、僕の方から追いかけたことがなかった--でも」
「--」
「この5日間、僕は君を、追いかけた。--生まれて初めて、僕は誰かを、本気で追いかけようと思った。・・・徹」
「--玲」
「僕のそばにいてくれ。僕を護ってくれ--徹、僕は・・・」
「--」
「あの、朝陽のあたるホテルでの、プロポーズの返事を、まだ、聞いていない」
 僕の喉元を熱い塊が突き上げる。ぱんぱんに膨れ上がって一挙に破裂し、滝のように飛沫をあげて胸の中を流れ落ちる。
 --玲。
 --僕に、何の返事があるだろう。
 僕はとうに、君に撃ち落とされた一羽の鳥にすぎなかったのに。
 この心臓も肺も肉も、みんな君のものだったのに--
 玲。
 今ほど僕は、この場所が人目のあるターミナルの玄関口なのを口惜しく思ったことはなかった。
 --僕はただ玲の両手を取って頬に擦り寄せ、接吻するだけで、我慢した。
 玲は涙のにじんだ瞳で、にっこりと笑った。
「じゃ、OKだね、徹--これから忙しくなるよ、結婚式だ」
「--え?」
「友人知人、会社関係全部を招いて、結婚式と披露宴をする。僕が君のパートナーで、君が僕のパートナーであることを、公表する。スキャンダルなんか、起こさせない。派手にやろう、徹。誰の視線も気にしないで、堂々と歩くんだ。--僕は、君を愛していることを、世界中に言いふらしてまわりたい」



 その日、神戸の家に着いたのは昼過ぎだった。玄関のドアを開けた葉子は、玲と僕が並んで笑っているのを見て、何もかもを了解した。
 僕はこの意地っ張りな妹が目にいっぱいの涙を湛えながら、吸い込まれるように兄の胸に飛び込んでいく姿を初めて見たように思った。




18


 11月末日、午前10時。外を吹き荒れる木枯らしなど別世界のように、ホテルのバンケットルームは熱気に包まれていた。
 前代未聞の結婚式だった。
 500人を越す招待客の中には僕たちの友人たちはもちろん、取引先のほとんどすべての顔が並び、その国籍もさまざまだった。
 人々は一様に招待状を見て驚き、ことの真偽を確かめて驚愕し、あるいは神に祈り、不審と好奇の表情をあらわにして会場に足を運んだ。
 開始時間になると静かに音楽が流れ、照明が暗くなる。薄闇の海の中にそれぞれのテーブルが睡蓮のようにぽっかりと浮かんだ。
 音楽が、とまる。
 --中央の演台に、ひとすじのスポットライトがあたる。
 会場のすべての視線がそこに釘づけになった。
 ごくっ、と唾を飲み込む音・・・
 純白のモーニング・コートに身を包んだ玲が、そこにいた。



 その時のことを、俊男は今も繰り返し話す。
「とにかく、そこにいた男という男は、み〜んな、立っちまったと思うよ。音が聞こえそうだったもん。女だってさあ・・・何せ、言葉が出ないんだもん、みんな」
 それはあながち誇張でもない。僕が見てさえ、絶句するほど彼は美しかった。--いや、美しいという表現では、足りない。まるで天上の光が彼の頭上に落ちてきたかのように、その全身が輝いていた。
 彼は一瞬にして、会場のすべての人のこころを奪ってしまったのだ。



 --舞台上手に、スポット・ライトがもうひとつ。
 僕は淡いグレーのモーニング・コートで光の下に立った。
 玲が演台で、この日最初の口上を述べる。
「本日はお忙しい中をご出席いただきまして、ありがとうございます。ただいまより藤坂玲、藤坂徹両名の披露宴と結婚式を始めたいと思います」
 僕がマイクを持って英語で繰り返す。この役割分担は、ジャンケンで決めた。けっこうブロークンだが、まあご愛嬌だろう。
「私は新郎の藤坂玲です。こちらが、藤坂徹で、彼も新郎です。本日は珍しいことに、新婦がおりません。その理由はおいおい申し上げることにして、本日は私たちふたりで皆様がたのお相手を務めさせていただきます」
 会場が、ちょっとどよめいた。
 玲はにっこりほほえんで、続ける。
「ご覧のとおり、本日の集まりには、そうですね--多少、変わったところがあります」
 あちこちでくすっと笑いが漏れる。
「いちばん変わっているところは、やはり私たちが新郎同士、ということだと思います。その点で、この結婚式に出席して良かったんだろうかと、もうすでに後悔されている方もおられるのではないでしょうか。
 そこで、私たちは考えました。私たちの人となり、互いに結婚したいと思うようになった経緯を、できるだけ飾らずに、正確にお伝えしよう、そしてご理解をいただいたその後で、結婚式を行おうと。
 ですから本日は、まず、披露宴が最初にあって、結婚式はその後です。通常と逆で、何のための披露だとお叱りを受けるかもしれませんが、--私たちふたりの、人となりの披露だとご解釈いただけると、非常に助かります」
 玲は僕が手渡した水で唇を湿しながら、先を続けた。
「また、結婚式についてですが、本日は神式でもキリスト教式でもない、人前結婚式をしたいと考えています。人前結婚式とは、本人たちが立会人のもとに誓約書にサインするという形をとります。
 つまり、ここにおられる皆様がたに立会人としてご署名いただくことになるのですが、ご承知のとおり、本日は少し変わったカップルです。宗教上そのほかの理由で、男同士の結婚の立会人になんかなれない、というかたもおられると思いますし、おられて当然だと思います。
 はじめに、申し上げます。ご署名はもちろん、任意です。私たちはまず、披露宴の席で、皆様がたにできるだけ私たちのことをご理解いただけるように努め、ひとりでも多くのかたに、私たちの結婚を祝福して立会人になっていただけるよう懐柔、いえ、努力したいと思っております。
 このようなわけで、本日のホスト、司会は私たちふたりで務めさせていただきたいと思います。お互いに新郎も兼ねておりますので、ゆきとどかないところもあるかと思いますが、ご容赦ください。私たちはお集まりの皆様に今日という日を楽しんでいただいて、後日愉快な話題のひとつとしてご記憶に残るよう、努めてまいりたいと思います」




19


 スピーチのひと区切りごとに通訳をしながら、僕は驚いて玲を見ていた。彼がこれまで、ほとんど人前に出たことがないなんて、誰も信じる人はいないだろう。--あの度胸。落ち着きよう。明瞭な声。
 --大したもんだ。
 僕は不思議な感動を覚えながら、彼を眺めていた。
 居並ぶ人々も同様に感じているらしい。長いスピーチなのに、皆、食い入るように玲を見ている。単に顔が綺麗というだけではない、人を惹きつける魔力のようなものが彼には備わっていた。
 照明がふっと明るくなる。各テーブルに料理が運ばれ、座の緊張がゆるやかに解けた。
 前菜が終わった頃、玲のやわらかな声がまた会場に響いた。
「どうぞ、そのままで飲食をお続けください。いま、私の手元に、さきほど皆様にお書きいただいた私たちへの質問カードがあります。えー・・・紳士的なものから、かなり過激な内容まで、いろいろですが」
 一部のテーブルで、どっと笑いが起こった。
「カードへの回答を交えながら、時間の許す限り私たちのことをご説明したいと思います。どうぞそのまま、リラックスしてお聞きくださいますようお願いいたします」
 玲は彼と僕の略歴を簡単に紹介してから、何枚かのカードを取り出した。
「結婚までの経緯--のご質問が一番多いですね。
 ご存じのかたもおられると思いますが、昨年9月に私たちの父母が他界いたしました。当時私は神戸で勤め、彼は宮崎で働いていました。半年後に相続手続きの必要が生じたために、私たちは再会し、お互いに愛情を持っていることを知りました。父母の生前は、知らなかったのです」
 ああ、玲は両親への非難を避けようとしているのだ、通訳をしながら僕は思った。
「--お互いの愛情を知った私たちは、その日、身体の関係を持ちました」
 会場がざわめいた。--そこまで、言っていいのか?--玲。
「--そして翌朝、私が彼にプロポーズをしました。やっとその返事をもらえたのが、今年の9月です。私は半年待ちました。辛抱強い方だと思っています」
 玲はにっこりと笑った。--演技派め。
「次に多かった質問です。--なぜ、結婚しようと思ったのか--理由ですね。これは・・・僕が代表して答えてもいいのかな、徹」
 僕は目で答えた。
「ごく普通の男女の場合と同じです。私たちはお互いに愛情を持っていました。私には彼が必要で、彼には私が必要でした。私たちはお互いに支え合い、励まし合って、人生をともに生きていきたいと思いました。そして普通の男女と同様に、私たちの生きるこの社会の中で、普通に私たちの関係を認められたいと願いました。どこにでもある、誰もが持つ、平凡な理由です」
 僕は通訳をしながら、会場の反応を見ていた。ほほえんでいる人、深くうなずいている人たちの隣にはむっつりした顔、いぶかしげな顔も並んでいる。西洋人の場合は、表情の差がもっと歴然と現れていた。
 カードは次々と進んだ。
 どっちがタチだネコだというようなきわどい質問もあれば、お色直しはしないの、なんていう可愛いのもあった。玲はケース・バイ・ケースですねとさらりとかわすかと思えば、突然上手の僕の方につかつかと歩み寄って、僕のグレーのモーニングを脱がせ--会場が沸き返った--自分の白いモーニングと交換して「お色直しです」とやってのけた。
 披露宴が終わる頃には宴席はかなりくつろいで、いいムードになっていた。式の立会人の署名用紙がまわされる。
 10分の休憩をはさんで、結婚式に移った。
 このときばかりは、ふたりのほかに進行役がいる。俊男がその任にあたった。いつになく緊張している。
 人々の見守る中で僕たちは宣誓し、誓約書にサインした。少し指が震える。僕はつっかえながらペンを走らせた。
 そして、マリッジ・リングのかわりにピアスの交換。玲は右の耳に、僕は左の耳に、3日前一緒に穴を開けていた。お互いのイニシアルを彫り込んだプラチナのピアスを、僕たちは互いの耳に着けた。
 --後は、誓いのキスだ。これで式はすべて終わる。
 向かい合ってから、ちょっと、うろたえた。どちらが先に動こう。打ち合わせを忘れていた。--と思ったら、僕の表情で察した玲が唇を寄せてきた。--受けとめる形になる。--2秒、3秒・・・少し長いかな、と思ったとき、唇が離れた--その、瞬間。
 パン、パン、パン!
 突然、かん高い音が会場に響き渡った。
「キャ------!」
 女性客の叫び声。
 僕はとっさに玲に覆い被さり、床に転がった。
 ピピピ・・・と電子音が響いた。




20


 携帯電話を掴んだのは、玲だった。
 彼はすぐに起きあがると、急に明るい顔になり、中国語で相手に何か話しかけてから、招待客たちに言った。
「皆さん、大丈夫、爆竹です。--南京町の、S商会の王さんから今、お祝いの電話がありました。ちょっと派手すぎたかなって」
 何だ、そういえば・・・客たちの間から安堵と失笑の溜息が漏れた。
「それで提案ですが、もういちどキスをしてもいいでしょうか」
 場が笑い声でどよめいた。
 玲は少し赤くなりながら、僕ともう一度キスをした。
 今度は、うまくいった。



 式が終わり、僕たちは出口で招待客一人ひとりをていねいに送った。
 署名をした客も、しなかった客も。
 心情的にはわかるけど、カソリックなのでね、とわざわざ断ってきた客も何人かいた。--まあ、プロテスタントだって、そうだろう。
 それでも全体の半数は署名が集まった。
「役所に婚姻届を出すときに、これがあると有利だと思う?」
「--まあ、全然変わらないと思うよ」
「ふうん」
「でも、一応の成果だろ?これだけの人が認めてくれたって、形の残る実績だ。役所なんかに出さないで、大切にとっておけばいい」
「--婚姻届は出すの?」
「うん、多分、不受理だろうけどね」
「--」
「また出すさ、定期的に・・・何度でも」
「勝算は?」
「さあね」
 玲は笑いながら、控室に消えた。



 最後の客が退出して、僕はやれやれと会場の椅子に腰を落ちつけた。
 カードをかかえた葉子がやってくる。
「お疲れさま」
「ああ、葉子も・・・カード集計の裏方も大変だったろう」
「ううん--ねえ、徹」
「何」
「--兄さん、今日、かっこよかったわね」
「そりゃ、当然」
「--会社の人たちも・・・片桐のおじさまも、治夫さんも、あっけにとられてたわ。人を惹きつけるものが違う。--成功するわよ、兄さん」
「--そうかね」
「絶対。・・・ねえ、徹」
「何」
「--わたしね、やっぱり結婚することにしたの、治夫さんと」
 --え?
僕は思わず葉子の方に向き直った。
「あなたや兄さんが戻って来るって聞いて、おじさまはもうわたしに興味をなくしたんだけど、治夫さんが--」
「葉子、同情は命取りになるよ」
「違うの」
 葉子は首を振った。
「わたしがね、落ちつくの、治夫さんといると・・・ねえ、徹」
「だから、何」
「治夫さん、--似ていると思わない?」
「誰と?」
「--」
 僕は片桐治夫の丸い顔を思い浮かべた。笑うと目に愛嬌があって--
「・・・葉子--」
「--ね?」
 彼女はなつかしそうな目になった。




21


 浴室からかすかにタルカム・パウダーの匂いがする。
 玲の白い顔にほんのり血の色が戻ってきた。睫毛を二、三度しばたかせる。僕はベッド・サイドでほほえんだ。
「・・・眠ってた?僕」
「少しね。--君が控室に戻ってきたとき、あんまり気分が悪そうだったんで、この部屋に移ったの、覚えてる?」
「--ああ、・・・悪いね。今、何時?」
「夜の8時」
「--ええ?・・・じゃ7時間も寝てたのか、--嘘だろう」
「王子さまはぐっすりお眠りで」
 玲は赤くなって、半身を起こした。
「君は何してたんだ、その間」
「何って--寝顔を見てた、ずっと」
「--ずっと?」
「そう」
「・・・暇だね」
「嘘だよ、--横で寝てた」
 僕はキング・サイズのダブル・ベッドを目で指した。シーツが皺くちゃになっている。
「僕がもぐりこんだのも気づかないくらい、君はぐっすり眠ってた。よほど疲れたんだろう--無理ないよ、今日は大活躍だったもの」
 玲は黙ってバス・ローブの袖を通す。
「ここ--スイート?」
「うん。32階のロイヤル・スイート。--いいだろう?--ちょうど新婚、なんだしさ」
 玲がドアの前で振り向いて、笑った。
「--それじゃ、ぐっすりで・・・悪かったね」
「どういたしまして。--夜はこれからだよ」
 僕は彼に歩み寄り、その耳元で低くささやいた。
「--玲、・・・今夜は、寝かさないよ」



 --静かだ。
 僕たちふたりの息づかいのほかには、この部屋に何ひとつ音がない。
 目の前の白い背中に大粒の汗が浮いている。髪が枕に流れてうなじの皮膚がむきだしになり、手は枕をきつく握りしめたままこまかく震え、肩全体を揺らしながら苦しい呼吸をしている。
 僕は玲の肩に手を掛け、枕に埋めた顔を無理に横向かせて、半開きになった唇に接吻した。--それから、精も根も尽き果てて、その身体の上にくずおれた。浜辺にうちあげられた死体のように。
 しばらく僕は目を閉じて、玲の肌を全身で感じる。
 皮膚が余韻で震えている。身体の芯はまだ熱い。太陽の熱を含んだ砂浜のようだ。どくんどくんと脈打っている。汗と唾液と、精液の匂い。
 僕は背中に唇をつける。玲の肩がぴくっと動く。
 僕は唇をうなじに這わせる。皮膚の表面がさっとざわめく。
「--徹」
 玲が僕の下で身体をねじり、仰向けになって僕を招く。
 僕は玲の胸に頭を乗せて、彼の心臓の音を聴く。
 目を閉じて耳をずらし、身体に流れる音を聴く。
 --波の音だ。
 遠く沖合いからこの砂浜へ。
 寄せては返す波の音・・・



 寝室のカーテンを開けると、一面の光の海だった。
 32階の夜景。
 昼間の木枯らしに雲が吹き散らされて、空が怖いほど澄んでいる。
 黒いビロード地に無数の宝石を散りばめたような華やかさだ。
 市街地の灯が山の中腹までひといきに連なって天に駆け昇り、山頂からは夜空の星々に姿を変える。海面には多くの船が停泊し、陸に劣らない美しいイルミネーションを競っていた。
 この濡れたような闇の濃さ。
 山腹にきらめく人家の灯のあたたかな色合い--
 東京にも、大阪にも、札幌にも、福岡にも、いや、世界中のどこにもない、神戸だけにある色合い。
「徹」
 玲が僕の肩を抱く。
「--帰ってきたね、神戸に」
「うん。・・・ふたりで」
 玲がほほえむ。



 耳の奧で、波の音が聞こえる。
 かすかに、海鳴りの声がする。



 遠くで、汽笛が鳴った。





海鳴り  了

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