流氷 内藤更紗
流氷

第3部 流氷



 かすかな梅の香りがリノリウムの床の上に漂っている。
 殺風景な病院の廊下に、病棟の方から朝食のざわめきがきれぎれに聞こえてきた。
「--玲は、1週間ほど入院することになったよ」
 徹が落ち着いた声で言う。
「ここの先生は彼のかかりつけで、昔からよく診てもらってたんだ。湖に落ちたっていったら、大事をとって心臓や肺、気管支の検査とかね、あと感染症とかいろいろと診るところが多いらしい」
 同じように落ちたって言ったのに、僕なんか先生に見向きもされなかったよ、と徹はあとのふたりに愚痴った。
「玲さんは--そんなに身体が弱いんですか」
 隆史が驚いて長椅子から立ち上がる。彼らは玲の容態を気にして待っていたのだった。
「--まあね」
 徹は苦笑する。椅子には座らずに廊下の窓から見るともなく中庭を眺めた。散りかけの白梅が風に揺れている。
「生まれた時は--10才まで生きられないだろうと言われていた」
 隆史が息をのむ。
「あ、でもね--その後手術やら薬やらで頑張って治療して、今は--普通の生活はできてるから--まあ無理はできないにしても」
「--それで--あなたたちがふたりでガードしてるってわけですか」
 玲を囲んで徹と俊男がまるで息のあったナイトのように振る舞っているのはそういうわけだったのか、と隆史は納得した。
「そう、ボディガードとしちゃ俊男の方が数段上だけどね」
 徹は長椅子の端で煙草を吸っていた俊男に話題を振った。
 俊男は黙っている。
「俊男」
「--」
「--何?どうしたの」
「・・・俺はだめだよ、徹」
 床に目を落としたままで言った。
「ボディガード失格だ」
 徹は俊男のそばに寄った。
「--どうしたんだ?」
「--」
 ゆっくりと灰を落とす。
「--俺は今回の玲さんの行動が読めなかった。俺の不用意な発言でこんなことになっちまった」
「--」
「俺さ、写真週刊誌のこととか、あの人の社会的立場とか説明してて、落ち着いて冷静に聞いてくれてると思って、つい図に乗って--徹のことを言い過ぎたんだ--あなたは徹を殺すのかって--言っちまったんだ」
「--俊男・・・」
「このままでは徹は社会的信用を失ってゼロになる、それでもいいのかって--そう言えば玲さんは絶対戻ってくれると思ったから--それなのに」
「--」
「あの人は自分がスキャンダルの種になったことを知って--死ぬことでおまえの名誉を護ろうとしたんだ。自分が死ねばおまえに同情票が集まると--」
「それは違うよ」
 徹は遮った。隆史がふたりを凝視する。
「僕の名誉を護ろうとするのなら、もっとてっとり早い方法がある。--家に戻ってくれば済む話だ。--今なら噂だって広まっていないし、ふたりとも無傷で--少なくとも世間的には無傷で済ませられる。--でも、玲はそうしなかった。彼は僕のところへは帰って来ようとしなかった」
「--」
 徹の目は白梅を追っていた。瞳のなかに花びらが散る。
 ひらひらと音もなく花びらは身を投げていた。
「・・・俊男、僕はさ--」
「--」
「僕は今、ものすごく嬉しいんだ」
「--」
「僕はあの山に向かっている時、ひょっとしたら玲は--死んでしまうんじゃないかって思ってた。間に合わなかったらどうしようって、気が気じゃなかった。もし間に合わなくて、もう2度と彼に会えなかったらと考えると、気が狂いそうだった。--それが」
「--」
「・・・間に合った。--生きていてくれた、玲が--生きていてくれた。--そう思ったら、ものすごく嬉しくて--本当に、飛びあがって踊り出したいくらいに嬉しくて--もう、何にもいらないと思った。生きていてくれるだけでいい、僕のものでなくたっていい、どこかで、元気で、笑っていてくれればそれでいいと思った。--だから、玲がそんなに隆史君のことが好きなら--もうそれでいいって--後のことは何も考えなくてもいいから好きにやりなって、--玲が目覚めたら、僕はそう言うつもりなんだ」
「--徹」
「俊男に骨折ってもらって悪かったけどさ」
「--」
「--なあに、玲のことが世間にばれて、スキャンダルで会社にいられなくなったとしても、・・・いざとなりゃ僕はまた宮崎に帰って、一から出直しゃいいことだし。--もともとあそこで、浮浪者同然でひとりだけで生きてたんだしさ。--案外、失うもののない生活の方が、今より気楽かもしれないぜ」
 神戸に呼んじゃったおまえには悪いけど--と、徹は俊男に笑いかけた。
「--」
 俊男の眉がひくひくした。
「--というわけで」
 徹は隆史の方に向き直った。
「--隆史君」
 隆史は徹を見上げた。
 --いい目をしてるな、と徹は思った。僕もかつてはこんな目をしていたのだろうか。
「・・・玲を頼むよ」
 穏やかに言った。
「さっきも言ったけど--身体が弱いから、それだけは気をつけてやってくれ。--夏の冷房、煙草の煙、荒っぽい車の運転は御法度だ。それから--」
 徹があれこれと頭をめぐらせる。
 俊男が目をそむけた。
「徹さん」
 隆史がぽつんと言った。
「・・・お断りします」
「--え?」
 徹は棒立ちになった。俊男がぽかんと口を開けている。
「徹さん--僕」
 隆史は静かにスタ・ジャンのポケットに手を入れた。
「徹さんに渡すものがあるんです」
 隆史は徹の手にそれを握らせた。俊男が駆け寄る。
 徹はてのひらを見た。
 --それは年代物のアーミー・ナイフだった。



「これを、僕に?--随分使い込んであるみたいだけど--君の物?」
「--ええ。僕が高架下の米軍の中古ショップで買ったんです--徹さんにあげようと思って」
 徹はいぶかしげに隆史を見た。隆史が微笑する。
「・・・あなたの身体に直接あげるつもりでした」
「何だって?」
 徹と俊男が同時に叫んだ。





「--徹さん、僕があなたたちの山荘に行った日のことを覚えていますか」
 隆史は落ち着いて、長椅子に掛けた。
「僕はあの時、玲さんにあんなことをしてしまったけど、--最初からそんな気はなかったんです。--最初の目的は、あなたでした」
「--」
「あなたを--殺そうと思っていました」
 張りつめた空気のなかを、よどみなく隆史の声が流れた。
「僕はわざと人の行かない山の斜面を降りて、テラス側から山荘に忍び込むつもりでした。そのアーミー・ナイフをジーパンのポケットに入れて」
「--」
「不意をついてあなたを殺すつもりでした」
「なんで!」
 俊男が叫んだ。
「・・・徹さんが玲さんのパートナーだからです」
「--」
「--今考えても狂っていたとしか思えませんが、その頃の僕は玲さんが好きで、玲さんを自分のものにしたくてたまらなかった。毎日狭いアパートでそのことばかり考えて、悶々としていました。--でも玲さんは徹さんのパートナーで、結婚しているから振り向いてもらえないのだと--徹さんさえいなくなれば、と思ったんです」
「しかし、人を殺せば、君だって--」
「・・・僕は未成年です。--いくら罪が重くても、一生牢屋ってことはない。何年かすれば出てこれる。出てきたら、玲さんと暮らせる。--あなたさえいなければ」
 隆史は静かに徹の方を見た。
「--僕さえいなければ」
 徹は繰り返す。隆史は微笑んだ。
「だから刺し違えてでも、大怪我を負ってでも、どんなことをしてでも殺すんだ、と決心して行ったんです。--このナイフがあれば絶対大丈夫だ、そんな気がしていました。ところが--」
 隆史が山の斜面から見たものは--ガラス張りのサン・ルームで素裸で睦み合うふたりの姿だった。
「僕は玲さんのそんな姿を見て、かっとなって--我慢できなくて玲さんに襲いかかって、徹さんにたたき出されてしまいました。そして山を降りてから、肝心のナイフを落としてきたことに気づいたんです」
「--」
「僕は山のなかを逃げる時に落としたんだと思って、次の日も朝から山道を探しまわりました。--でも、結局見つからなかった」
「--」
「--見つからなかったんです」
「--じゃ、これは?」
 徹が訊いた。
 隆史の声が一段低くなった。
「・・・それを見つけたのは夕べです」
「--夕べ?」
「--玲さんの荷物を調べていたら--それがスーツケースのなかに隠してありました」
「--玲が?」
「玲さんが?」
 ふたりは同時に叫んだ。
「--多分、僕が玲さんを襲う時に、夢中でジーパンを脱ぎ捨てて--その時にポケットから布団に落ちたとしか思えない。それをあの人が拾った。それで、あの人は--」
「おまえが徹を殺そうとしているのに気がついたのか?」
 隆史は一瞬、黙った。
「あの人には・・・分かったでしょう。僕が普段からナイフなんか持ち歩かないことは知っていたし、あの時の僕の様子はどう見ても普通じゃなかった。--かといって、僕はとても自殺するようなタイプじゃないし、玲さんをやるつもりなら、チャンスはいくらでもあった。となると、--残るのは、徹さんしかいない」
「--」
 徹しかいない--
「・・・それで、玲さんはどうしたと思います?徹さん」
 隆史が徹を見上げた。
「・・・出ていったんだ」
「そう。--次の日に、僕のアパートに来ました。--急いでたんですね。あなたの命が危なかったから」
「--」
「自分から、僕のところへ来たんです」
(押し掛けなんとかってやつだ)と笑いながら--
「徹さん--玲さんの僕への態度はみんな--あなたを護るための演技だったんですよ」
「--」
「あなたからそのナイフを見せてあげてください。--そして、もう演技をする必要はなくなったよと、言ってあげてください」
 よく光る大きな瞳でじっと徹を見つめ、隆史はかすかに微笑んだ。





 病室の窓から穏やかな陽射しが降り注いでいる。
 玲はカーディガンをはおったまま、見るともなく画集を開いていた。
 入院して4日。
 徹と俊男、葉子は毎日やってきたが、隆史は一度も顔を見せない。
 --考えてみればあの夜、玲がアパートから出ていって以来、話をしていないのだった。
 自分があの湖にいることを気づいてくれたのは隆史だという。彼が思い出してくれなければ、自分は今ここにおれたかどうかもわからないのだ。
 それなのに--と玲は思う。それなのに--
 玲は目を閉じる。
 ノックの音がした。軽く--2度。
 あ、と思ったとたんにドアが開き、今思い浮かべていたとおりの顔がにゅっと覗く。
「--隆史!」
 思わず声が華やぐのを感じて、玲はうろたえる。
「--おかげん、どうですか?玲さん」
 隆史はにこにこして玲の前に立った。
 たった4日見なかっただけなのに、もう背が伸びて大人っぽくなったように感じてしまう。玲は苦笑した。
 だが--隆史には言わなければならないことがあるのだ。どうしても--
 玲の顔に翳りがさしたのを敏感に感じて、隆史は明るく言った。
「すごい病室だなあ、うちのアパートよりよっぽど広いや。特別室ってやつですか?--ああ、ミニ・キッチンまである。--珈琲入れましょうか、玲さん」
 隆史は手際よく珈琲をふたつ入れると、玲に片方のカップを手渡した。
「--顔色、良くなってよかったです」
 笑いかける。--玲は胸が詰まった。
「--隆史」
「はい」
「・・・話があるんだ」
 隆史は椅子にきちんと座り直した。
「--はい」
 くっきりとした目で玲を見る。
「--これからのことだけど」
「--」
 視線は動かない。
「僕は・・・アパートへは--戻れない」
「--」
「・・・君とは--もう・・・」
「--」
「・・・暮らせなくなった」
 重いかたまりが喉から胃にすべり落ちる。玲は目を伏せてその熱さに耐えた。
 隆史は黙っている。
 --やがて、ふっと溜息が聞こえた。
「・・・とうとう白状しましたね、玲さん」
 玲は顔を上げた。隆史が笑っている。
「--玲さん、僕の忘れ物、拾ってくれたでしょ」
「--え?」
「あの山荘に僕が忘れていったもの」
 玲の顔色が変わった。
「--それでわかりました。あなたがどうしてあんな汚いアパートに来てくれたのか。--どうして僕なんかを相手にしてくれたのか」
「--隆史」
 玲は震えていた。
「あなたは徹さんを護ろうとして、僕を好きな演技をしていた--」
「--ちが--」
「僕が徹さんに近づかないように見張っていた--」
「違う!」
 玲は叫んだ。
「違う!隆史!違う--僕は--」
 僕は--
「・・・というのは、僕がこの間、徹さんにした話です」
 隆史はくいっと玲を見た。
「--隆史」
「玲さん」
 瞳にやわらかい光が宿った。
「僕は最初そう思って--あなたが僕をだましていたんだと思ってものすごくショックでした。あなたの僕への態度がみんな嘘だったと思うと気が狂いそうでした」
「--」
「--でも」
「--」
「--僕はこう見えても、案外、自信家なんだなあ、玲さん」
 隆史は明るく笑った。
「人を見る目はあるつもりです。僕の選んだあなたは、偽りの演技を続けられるような人じゃない。--それに僕だって、嘘の愛情と本物の愛情を見分けられないほどの馬鹿じゃない。あなたは本当に--僕に本物の愛情をかけてくれてたんだと思ってます--強がりかもしれないけど」
「--強がりじゃないよ。--どんな人間だって、君を見れば惹かれてしまう。--君はそういう魅力を持った人間だよ」
 隆史は頭を掻いた。
「やだなあ、玲さんにそんなこと言われると照れちゃうな。--実は僕もそう思うけど」
 玲は吹き出した。
 その笑顔が、--綺麗だ、と隆史は思った。
 僕はこの笑顔を見るためなら--何だってするだろう。
 この笑顔を一生そばで見られるためなら--何だってできただろう・・・
 ぐっとこみあげてくるものを押さえようと、彼は下を向いた。
 目をしばたかせ、必死で唇を噛みしめる。
「--隆史」
 玲が笑い止む。
「・・・すまない、僕は--」
「--」
「僕は君との約束を破った。--君が行かないでと言ったのに--」
 行かないでと言ったのに。
「--それはおあいこでしょ、玲さん」
 隆史はやっと顔を上げた。
「僕も約束を破りました」
「--」
「僕なら、絶対にあなたを悲しませるようなことはしないって言ったのに--あの湖に行かせてしまった」
「--」
「あんなに徹さんのところに帰りたがっていたあなたに、行かないでと泣くことしかできなかった。僕が泣いてしまったから、あなたは徹さんのところに帰れずに--あの湖に行って・・・」
「隆史」
 隆史はぐいと涙を拭いた。
「もし徹さんだったら、玲、行きなよって--笑って送り出してたと思う。--僕はガキだった。ガキだから、玲さんを受けとめきれなかった。僕は自分がガキだったことが、ものすごく口惜しくて--あの6畳のアパートの畳の上でうんうん唸ってました」
「--」
「でもね」
 隆史はキョロっと玲を見た。
「それが僕自身の精一杯だったんだから、--しょうがないって、思いました。唸っててもしょうがない。ガキだったことが口惜しいんなら、ガキじゃないようになるしかないって、思いました。・・・それでね、--玲さん」
 隆史はちょっと、言葉をきった。
「--実は来月から東京にある調理師学校に行くことにしたんです」
「--え?」
 隆史は照れくさそうに笑った。
「渡辺先生に相談したら、4月の入学には間に合わないけれど、5月の編入試験を受けさせてくれるところが見つかって--中卒でもいいそうなんで、そこ通いながら高卒の資格取ろうと思うんです」
「--」
「それで、おととい、家に帰って親父と話をしたんです。先生も一緒に来てもらって--その方が親父も感情的にならずにすむと思って」
 知能犯でしょ?僕って--と隆史は自慢した。
「親父の条件は、住むところは親父の知り合いの家にすること、それから--生活費は親父が出すから、無茶なバイトはせずに学校の勉強を第一にすること、でした。僕は粘って、生活費は借用書を書いて、後で僕から全額返済することにしました。--だってカネで縛られちゃたまんないもの」
 だから完全な独立独歩とは言えないですけどね--と彼はつけ加える。
「--だからね、玲さん--」
「--」
「あのアパートは、明日--引き払おうと思ってるんです」
 明日--
「--俊男さんに相談したら、玲さんの荷物やなんかは運んでくれるって--ただ、このことは僕から玲さんに直接言いたかったので、今まで黙っていてもらったんです」
「--そう」
 今日この病室に入ってきた時に感じた隆史の成長ぶりは、錯覚じゃなかったんだな--玲は淋しさの入りまじった微笑を向けた。
「それで--いつ発つの?向こうへは」
「--準備もあるし、早い方がいいと思って、しあさってに--」
「しあさって?そんなに早く--?」
 玲はまだ入院中だ。
「・・・すみません。--でも、その方がいいと思って」
「隆史」
「--玲さん」
「--」
「僕・・・そんなに強くないです。今だって--立ってるのがやっと」
 隆史は笑顔をつくった。
「決心が鈍ると、また--」
 またあなたをめちゃくちゃにしてしまうだろう。泣いて、すがって、狂って、暴れて--骨の髄まであなたが欲しくて、あなたを苦しめるだろう・・・
「隆史」
「--玲さん」
 隆史は椅子から立ち上がった。玲が見上げる。
「・・・そろそろ行きます。片づけがまだ残ってるし--」
「--落ち着いたら、連絡をくれる?」
「はい、--できれば」
 隆史はドアの前で、振り向いた。
「--玲さん」
「--」
「・・・お元気で」
「--君も」
 隆史はとびっきりの笑顔をつくった。
 玲も微笑んだ。--淋しい笑顔だった。瞳は哀しみをたたえてさざ波のように揺れていた。
 湖のようだ--と隆史は思った。青く深く、果てしない水の底--
 隆史は目を閉じた。
 勢いよくドアを開け、そのまま部屋を出る。
 かちゃり、と音がして、背後でドアが閉まった。
 ひとつの季節が終わった音。
 隆史は顔を上げ、足音を響かせて廊下を歩いていった。





 平日のせいか、新神戸駅の新幹線ホームは閑散としていた。
 徹と俊男が隆史を見つけた時、彼はモップと幾人かの高校生、バイト仲間の笑いの渦に囲まれていた。
 徹たちが近づくと、遠慮したように人の輪がさっと引く。
 隆史はにこにことふたりを迎えた。
「玲さんの具合は、もういいんですか」
「ああ、--検査の結果も異常なかったそうだし、明日には退院できるよ」
「--そうですか」
 徹がモップに呼ばれて、少しだけ席を外す。俊男は小声でささやいた。
「--しかし隆史君は根性あるよな、--俺はマジですごいと思うよ」
「何がですか」
 隆史は笑いながら尋ねる。
「何がって--あの、徹と玲さんの間に割り込もうとするなんてさ」
「--」
「まあ、相手が悪かったよな、あの徹じゃあ、ちょっと勝ち目がな--10年早いってやつだ、しょうがないよ」
 隆史はにっこり笑った。
「--よかった、10年、なんですね?--じゃ、10年たったら--」
「・・・おい」
「何が10年なんだ?」
 徹が帰ってきて口を挟む。
「--徹さん」
 隆史は徹の方に向き直った。
「--今回は僕、あなたにかなわなかったけど--まだ第1ラウンドが終わったばかりです。--そう考えていいですか」
 まっすぐな目で徹を見つめる。
 --玲さんのこと。
「・・・いいよ、隆史君」
 徹も隆史を見返した。
「--でも、ナイフは、もうなしだよ--玲が心配するから」
 そう言って笑いかける。
「おい、原沢、もう5分前だぞ--デッキに乗ってから話せや」
 モップのしゃがれ声が背中を押した。
「先生、いろいろとありがとうございました」
「おう、頑張れよ」
「原沢君、元気でね」
「原沢、東京行った時泊めてくれよな」
「またおまえのラーメン喰わせろよ」
 新幹線の開いた扉をはさんで、また人垣ができかけた。その頭上を--
「隆史!」
 鋭い声が切り裂く。
 隆史は思わず身を乗り出した。
「--玲さん!」
 髪を振り乱した玲の姿が視界に飛び込んでくる。
 徹も俊男も、その場に釘づけになった。
 人垣がすうっと左右に分かれる。
 玲はぜいぜいと荒い息を吐きながら、デッキの至近距離まで近づいた。
 隆史の顔が目と鼻の先にある。
「--隆史」
 隆史の大きな目がじっと玲を見つめている。
「・・・隆史」
 こぼれそうなほど大きな瞳のなかに玲が映っている。
「たか--」
 発車のベルが鳴った。
「--玲さん」
 隆史がくしゃっと笑った。
「--また、一緒にラーメン、つくりましょう、ね?」
「た--」
 扉が閉まった。
 --何秒かそのままの位置で、ふたりは向かい合った。
 ぴくりとも動かない。
 時は永遠に止まったかのようにみえた。
 --やがて車両が、なめらかに動き出す。
 扉の向こうの隆史の姿が、あっと言う間に遠ざかっていく。
 新幹線の長い胴体がいつまでもホームの横を走り続けていた。



 窓の外を景色が通り過ぎる。
 隆史は今さっき見た玲の白い顔を思い出していた。
 何度も僕の名を呼んでいた--玲さん。
 声が震えて--僕の言葉を待っていた玲さん・・・
 自分は徹にはあんなにはっきりと玲を争う宣言をしたというのに、なぜ当の本人には何も言えなかったのだろう--と隆史は考える。
 10年たったら--とか、第二ラウンドのために戻ってくる、とか、今度こそあなたを奪うんだ、とか・・・
 言いたいことは山ほどあった。--でも--
 玲の顔を見た瞬間、すべてが真っ白に消えてしまった。
 --約束してはいけないのだ、この人に--
 待たせてはいけない。--僕はまた、この人を縛ってしまう。
 僕は新しい土地で、新しい世界でいろんな人に出会うだろう。いろんな経験をして、ゲイとしても、人間としても成長して、もっともっとでっかくなってやるのだ。そしてその時に僕がまだ、あの人を求めていたら、僕がまだ、どうしようもなくあの人を必要としていたら--
 その時こそ、僕はもう一度あの人の前に立って、あの人の心を勝ち取るために全身全霊で闘うだろう。
 しかし、--そうでない可能性だってあるのだ。僕がまた別の人と出会ってその人を好きになったり、玲さんがまた--徹さんや、徹さん以外の人に惹かれたりすることだってあるかもしれない。そうなれば、それで、自然なことなのだ。
 そうだ、どんな可能性だってあるのだ。世界は僕に向かって開かれている。どんな泉の水を汲もうがそれは僕の自由だ。僕は器をきちんとつくればいい。僕は風のようにどこへだって飛んでいける。
 列車は鉄橋にさしかかった。
 --大きな河だ。
 浅瀬に1羽の鷺が餌をついばんでいる。ほっそりとした優美な曲線、細く長い首、白い翼・・・
 あの、一見ひ弱そうに見える翼が、広げるとどんなに大きかったかを、僕は知っている。--そしてその胸にいだく羽毛がどれほどやわらかくあたたかいものであったかを僕は知っている。
 --僕は知ったのだ、あの人を。
 あの人のような人がこの世に存在するということを知ったのだ。
 --今はそれでいい、と思う。今は--
 朝の光が水面に反射してきらきらと輝いている。
 遠ざかる河。
 隆史の目がその岸を最後に捉えた時、視界の片隅に飛び立っていく白い点が映った。 



「キスしてニャーン・・・」
 初めて、涙がこぼれた。





 新大阪駅を少し過ぎた時、窓を向いている隆史の肘にこつん、と金属の当たる感触があった。--見ると、缶コーヒーだ。
 隆史は驚いて振り向いた。
「--親父!」
 隆史の父が苦虫を噛みつぶしたような顔で隣席に座っていた。
「な、なんだよ、まさか--」
「--心配するな、次の京都で降りる」
「--」
 まるで闇討ちだ。--隆史はどぎまぎした。
「・・・いいか、隆史。--これだけは言っておく。--俺がおまえを東京に行かせるからって、おまえを認めたわけじゃないぞ」
 父親はむっと正面を向いたまま、腹に響く声を出す。
「--」
「教育に携わる者のはしくれとして、自分の息子が高校の3年間さえもきちんと終えられなかったというのが、俺には情けない」
 --またかよ。隆史はうんざりした。
「世の中はおまえが考えているほど甘くはないぞ。--ぼやぼやしているとあっと言う間に転落して、親に泣きついてくるはめになるんだ」
 --大丈夫だよ親父、あんたの世話にゃなんないから--隆史は心中ぺろっと舌を出した。
「--まあ、行くと決めたんならしょうがない。一旦決めたことなら、途中で投げ出さずにやってみるんだな。身体に気をつけるんだぞ。気力、体力、精神力だ。規則正しい生活をして、まわりに流されるんじゃないぞ」
 やれやれ。
「--母さんも心配してるから、ときどきはちゃんと家にも顔を見せろ」
「ふうん・・・親父さ、僕、--男を連れて帰るかもしんないよ--どうする?」
 隆史は意地悪く訊いてみる。
「--」
 父親の茶色い顔が赤黒くなった。
「--おまえが自分に責任の持てる生き方をしてるんなら--」
 --え?
「--親父」
「--」
 列車は急に減速した。父親はのっそり立ち上がった。
「--京都だ、じゃあな」
 通路に出る。隆史は腰を浮かせた。
「--親父」
 父親は振り返った。
「--帰る時は、きちんと玄関から入るんだぞ。こそこそ裏口から入るんじゃない。それから、--それは」
 座席の上に置かれたコンビニの袋を指さす。
「列車のなかででも食べろ」
 そう言い捨てて、さっさと下車していった。
 隆史は座席に置かれた袋を開けて、--絶句した。
 ガム、ポテトチップス、スナック菓子はまだいいとしても--
 キャラメル、キャンディ、それに--マシュマロ?幼稚園の遠足じゃあるまいし--これを、僕が、食べるのか?
 --あのこわもての親父がアニメのキャラクターのついたキャラメルやキャンディををコンビニのかごに几帳面に入れ、レジに出しているところを想像して隆史は吹き出した。
 前の座席の客が驚いて振り返る。
 隆史は腹を抱えながら、涙を流していつまでも笑っていた。





 夜風がふわりと髪を撫でる。
「俊男、--本当に泊まっていかないか?」
 玲は自宅のガレージで車に乗り込んだばかりの俊男に声をかけた。
 いままで3人で玲の退院祝いをしていたのだった。
「ありがたいけど、リエのやつが家で待ってるからさ」
 俊男は飼い猫の機嫌を気にしていた。
「今日んとこは帰るわ、また明日、会社で」
「--俊男」
「--何?」
「・・・隆史のアパートで、言ってくれたこと--ありがとう」
 俊男は眉を寄せて玲を見た。
「僕を信頼して状況をきちんと話してくれた」
「--」
「その信頼を裏切るようなかたちで六甲に行ってしまって--」
「--」
「悪かったと思っている」
 俊男はにやっと笑った。
「やめろよ、そんな--玲さんらしくもない。あなたはもっと超然と構えてりゃいいんだ」
「その--玲さんって言い方だけど」
「--何?」
「玲って呼び捨てにしてくれないか?君とは歳だってそう離れていないんだし、他人行儀な気がする」
「それは--だって、徹に悪いだろう」
「--どうして?何なら徹には僕から言っておくけど」
 俊男は目を白黒させた。
「--そういう問題じゃなくて--俺が呼びやすいんだ、玲さん、の方が」
「--」
「勘弁してくれよ」
「・・・わかった。君がそう言うんなら」
 俊男はほっとしたように前を見て車を発進させる。
 乳白のランプが夜のなかに消えていくのを見届けて、玲は家に入った。



「俊男、帰っちゃったよ」
「--そう」
 藤椅子に腰掛けてテレビを見ていた徹は、玲の不満そうな顔を見て微笑んだ。
「--気をきかせたつもりなんだろう」
「僕を呼び捨てにしてくれって言ったら、--それも嫌だって断られた」
 徹は椅子から立ち上がって玲の前に来る。
「--気を使ってるんだよ、僕に」
 なごやかな目で玲を見つめる。
「・・・玲」
 玲が睫毛をあげる。
「--久しぶりだね、ふたりきりになるの・・・病院ではどうも落ち着けなかったし、ジャズクラブでは人の目があったし--そう思うと・・・あの山荘以来だ」
 山荘--それはひどく遠い昔のことのように思えた。あの夜のサン・ルームから見た月光の冷たさを、玲は思い出した。
 喉にいくつもの刃物を飲み込むようにして切り出した徹との別れ話。
 胸が引き裂かれるほど辛かった--
「--玲」
 徹が玲の手を取った。
「・・・寝室に行かないか」





 シャワーを浴びてガウンに着替えると、玲は寝室に置かれたいくつかのトレーニング・マシンを見て目をまるくした。
「どうしたんだ--これ」
「--ああ」
 徹は髪を拭きながら苦笑した。
「僕も隆史を見てて--思うところがあってさ。--あいつは店を持つっていう夢を持ってて、頑張ってただろ?僕は夢--までいかなくても、目標を持って生きてたか、と思うと、ちょっとね。--なんせ、毎日君ばっかり見てたものだから--いつのまにか君を護ることを自分の目標にしていた。--それじゃ、いくら君だって息が詰まっただろうし、そんな、べったり男っていうのも魅力がないなあと、反省してさ」
「--」
「でも僕の取り柄っていったら、陸上ぐらいのもんだろ?--それで、とりあえずは昔取った何とやらでハーフマラソンをまたはじめて、フルマラソンにもトライして、トレーニングを積んでから、いずれはトライアスロンにも出たいと思ってるってわけ」
「・・・へえ」
「--見てろよ、玲。--君に惚れ直させてみせるからさ」
 いつになるかわからないけど、と言って徹は笑った。
「--徹」
 玲はソファの上に座って膝をかかえ、目を伏せる。
「--君を裏切って若い男に走って、君の立場を危うくして、--おまけに水のなかに飛び込んで・・・僕はパートナー失格だな」
 徹は玲のそばに歩み寄ると、その正面に立った。
「--玲」
 玲が徹を見上げる。
「・・・ナイフのこと、聞いたよ」
「--」
「--君がどうして、普段言わないようなきついことまで無理に言って、僕から去っていったのか、君は僕を隆史から護るために--」
「徹」
 玲は遮った。--口もとに苦笑が浮かんだ。
「最初はね、確かに君の言うように、隆史から君を護るつもりだった。彼と一緒に暮らすのも--彼が落ち着くまでのつもりだった。その間にゲイとしての自信も持たせてやれたらと思っていた。・・・彼は孤独で苦しんでいたんだ。自分がゲイであることに悩んでいた。ちょうど君に応えてもらうまでの僕が、長い間そうだったようにね。だからどうしても--ほおっておけなかった」
「--」
「それが--」
 玲は睫毛を伏せた。
「隆史と暮らしはじめて、毎日彼を見ているうちに、僕は--なくしていたものを取り戻せたような、懐かしい気分になって・・・隆史が可愛くて可愛くてたまらなくなって、--別れよう、別れようと思いながら、いつのまにか--もう引き返せないところまできてしまったんだ」
「--玲」
 徹は静かに言った。
「--知ってたよ。--君があいつに本気になってたってこと」
「--」
「隆史は僕に、君は演技をしてたって言ったけど--僕は君たちを見てて、とてもそんな風には見えなかったもの。あいつといる時の君はとても幸せそうで--輝いていたよ」
 声に淋しそうな響きが宿った。
「だから、玲・・・君がそうしたいんなら、隆史と一緒に東京へ行ってもよかったんだよ。後のことは気にしないでさ・・・僕なら大丈夫だから」
「--徹」
 玲は唇を噛んだ。
「僕は、あの夜ね・・・このまま僕が君と別居していては、ふたりとも身の破滅だと俊男に諭されて、背中に冷たい水を浴びせかけられたような気がした。--その通りだと思った。--最初から、本当はわかっていたことだったんだ。だから--」
「--」
「今度こそ、何としてでも隆史と別れなければと思っていたら、隆史に--行かないでとすがりつかれて・・・身を振り絞るようにして泣かれた」
 彼は下を向いた。
「--」
「徹・・・僕には、昔からよく見る夢があるんだ」
「--夢?」
「夢のなかで僕は子どもになって泣いている。--行かないで、行かないでって叫びながら。--目の前には大きな背広の後ろ姿がある。どんなに僕が叫んでも、その人は明るい窓の外へ行ってしまう。そこには・・・別の子が待っているんだ」
「--玲」
「ただの夢だよ」
 玲は微笑した。
「--だけど僕には、行かないでとすがりつく隆史が--僕自身のように思えて、--どうしても彼を振り払うことができなかった。振り払われたあとの闇よりも深い絶望の味を思うと、--彼にだけはそんなものを--どんなことがあっても、そんなものを--味わわせたくなかったんだ」
 玲の睫毛が震えた。
「・・・甘いって言われてもしかたがない。結局、僕は隆史に別れ話を切り出せなかった。--僕はもう、君のもとへは戻れない。もう二度と君に会えないのだと思ったら・・・急に、目の前が真っ暗になった」
 玲は両手で顔を覆った。
「・・・僕は多分、--気が変になっていたんだと思う。--真っ暗な沼の底に、たったひとりで沈んでいるような気がした。何も見えず、何も聞こえない泥のなかに埋まっているんだ」
「--玲」
「・・・口のなかにも脳のなかにも泥が生き物のようにずるずると入ってくる。泣いても叫んでも、誰にも聞こえない。僕は世界中でたったひとりで、たったひとりだけでこうやって死んでいくんだと思った。だって--」
「--」
「--だって、君がいない、徹--君が僕のそばにいないんだ--僕は君をなくしてしまった。もう二度と取り戻せない、取り返しがつかない、何もかも僕のせいで、僕自身のせいで--そう思ったら、急に息が詰まって--呼吸ができないほど胸が苦しくなって、とてもその場にいられなくてコートを掴んで外へ出て--」
「--」
「気がついたら、いつの間にか山のなかに入っていた。なぜそんなところへ行ったのか、どうやって行ったのか--わからない。気がついたら、あの湖にいて、ああ、ここだ、--やっぱりここなんだと安心して湖を見ていたら、僕は、水の底に・・・君を見たような気がしたんだ」
「--僕?」
「水のなかに一カ所だけ、ゆらゆらと光っているところがあった。ぼおっとした神秘的な光だった。--多分、月か何かが水面に映っているだけなんだろうってことは--わかっていたんだ。でも--」
「--」
「僕にはそれが君に思えた。君が、真っ暗な僕に手を差し伸べてくれているんだと思った。僕はまだ君に見捨てられていないんだと--思いたかった。この光は君なんだ。これを取れば、僕はまだ生きていける・・・」
「--玲」
「--光はゆらゆら、ゆらゆら揺らめいて、僕を誘っていた。・・・僕は目を離すこともできなかった。なんて綺麗なんだろうと思って、僕はうっとりとして君を見ていた。僕は君が欲しかった--君さえいれば、もうほかには何にもいらないと思った」
「--」
「でも、僕は岸辺でまだぐずぐずと迷っていた。やめろ、水温が低すぎる、と言う声が頭の奧でした。迷っているうちに夜が明けて、空がだんだん明るくなってきた。水のなかの光は淡く薄くなって、今にも消えそうだ。僕はあせりはじめた。今潜ったら、まだ間に合う、まだ間に合うと思った。そうしたら--」
「--」
「急に枝がざわめいて、少し離れたところに、黒い人影が見えた。--とっさに、この光を奪いに来たんだ、取られる--と思って、僕は矢も楯もたまらず、飛び込んだ」
「--」
「--しまった、と思った時はもう遅かった。僕の全身が硬直して--あせったはずみで大量の水を飲んで、僕は水のなかに引きずり込まれていった。いつの間にか意識をなくして、--気がついたら、土の上に寝かされていた。むせて水を吐いたら、誰かが背中をさすってくれた。振り向いたら、目の前に・・・君がいた」
 玲の瞳がゆっくりと徹に焦点を合わせた。
「--夢じゃなくて--幻じゃなくて・・・目の前に、生きている君がいたんだ」





「玲」
 徹はベッドに腰掛けて玲の話を聞いていた。
「あの湖には、--前から行ってたの?」
 玲は少し微笑んだ。
「・・・うん、ごめん--隠してて」
「--」
「--見つけたのは偶然なんだ。たまたまひとりでスケッチをしに行った時に、迷い込んでね。--あそこを初めて見た時、子どもの頃、父さんが話してくれたことがあったのを思い出したんだ。若い頃、六甲を歩いてて古い湖に出会ったという話をね。--僕にはすぐ、ここだったってわかった。--嬉しかったんだ。父さんと僕だけの--秘密ができたような気がして--」
 玲は目を伏せた。
「あそこでスケッチをしたり、考えごとをしたりすると、とても落ち着けた。嫌なことも何もかも遠くなって、心が癒されるような気がして--あの湖は、父さんと僕にとって・・・サンクチュアリだったんだ」
「--玲」
 徹は静かに言った。
「・・・だから泣いてたのか?--父さんのことを考えて」
「--」
 玲は振り向いて徹を見た。
「--隆史から聞いたのか」
「君を探しに行く途中でね」
「--」
 玲の顔がわずかに紅潮した。--徹から目をそらす。
「・・・違うよ--父さんのことじゃない」
「--」
「・・・君のことだよ」
「--僕?」
 玲はぽつりと言った。
「・・・僕はいつまで君といられるのだろうと--考えていた」
「--何だって?--何のことだ、それ--」
 徹は声を荒げて、--急に詰まった。
「--それ、君の--身体のことか?・・・具合が悪いのか?自覚症状があるのか?--そういうことなのか?玲」
 いつの間にか棒立ちになっている。
「--違うよ」
 玲は微笑んだ。
「自覚症状なんて、いつものことだ。--昔からだから、今更どうってことはない。僕か言ってるのは身体のことじゃなくて・・・僕自身のことなんだ。--君が、いつか僕の正体を知って、僕から去っていくだろうということなんだ」
「--正体?」
 ますますわからない。
「・・・僕には欠陥があるんだ。深くてどうしようもないところに--多分、生まれてきた時から。身体だけじゃなくて、--心にも」
「--玲」
「・・・僕は生まれた時から身体が弱かった。母さんはいつも僕のために奔走していい病院を探し、治療を受けさせるために、本当に死にものぐるいだった。僕がベッドで目を覚ますと、母さんが枕もとで眠っていることがよくあった--看病に疲れきった顔をして」
「--」
「--生まれてこなければよかった、とよく思った。僕が生まれてきたということは、それだけで目の前にいるこの人の時間をこんなにも奪っているんだ。--それは事実だった。でも、僕にはどうしようもなかった。僕が謝っても、この人は辛い思いをするだけだろう」
「--」
「かといって、今更死んでみたところで、やっぱりみんなが悲しがるだけだ。一旦生まれてきてしまった以上は、生まれてきたという事実も、それまでの軌跡も消えるものじゃない。--僕は後ろめたさと感謝を抱えたまま、この身体を抱えて生きていくのかと思った」
「--」
「・・・マイナス何千点からのスタートだ、と思った。でも、たとえそれがどんなにマイナスでも、努力して最後にプラスに持っていけばいいんじゃないか、僕のまわりの人に、僕という人間がいてよかった、と最後に思ってもらえれば、それでいいんじゃないか--と」
「--」
「そのために努力して--努力して頑張るんだと--」
「--」
「駄目だった」
「--玲」
 淡々とした口調だった。
「・・・無理があるんだ、そんなわざとらしい努力なんて--」
「--なぜ--」
「無理をして良い子ぶって、優等生でいたって--内心は醜くて汚い。見栄を張って隠しているだけだ。--父さんはさすがに人を見る目がある。--あの人はそんな僕を嫌っていた」
「玲、そんな--」
「・・・だから、手を握ろうともしなかったんだ--徹」
 玲は徹を見て、微笑んだ。
「--いいんだ、それは、もう--しょうがない。・・・きっと僕はどこか根本的なところが歪んでいるんだ。--君は僕を好きだって言ってくれて--君も、俊男もいつも僕を護ってくれて--僕は本当に感謝しているんだ」
「--」
「でも、・・・君はいつか父さんみたいに、僕の正体に気づく日がくる。なんだ、こんな奴だったのかと軽蔑して、嫌うようになる。こんな奴は僕の玲じゃないと失望するようになる・・・」
「--玲」
「僕は、あの湖で--あの湖を見ながら、考えていた・・・僕は、いつまで、君の玲でいられるのだろうと」
「--」
「いつか君が去ってしまうのなら、--どうして神戸まで追いかけてきてしまったんだろうと」
「--」
「どうして結婚してしまったんだろうと--どうして・・・」
「玲」
「--ごめん」
 玲は涙を拭いて、徹を見上げた。口もとに苦笑が浮かんだ。
「--隆史に見られたのは、不覚だった」





「--玲」
 徹はベッドを離れて、玲のソファの前に立った。
「・・・君は父さんに、バカヤローって、言ったこと、ある?」
「--え?」
 玲は驚いて、徹を見上げた。
「--何で僕がそんなこと言うんだ?」
「君がさっき、夢で行かないでと叫んだ背広の男は--父さんなんだろ?」
「--」
「君は父さんにバカヤローって、言うべきだったんだ」
「--」
 玲は目を見開いた。
「君の気持ちをわからないあの人に、バカヤローって、言うべきだった。--君は彼にそう言えないかわりに自分自身にバカヤローって言ってる。父さんが振り向いてくれなかったのは自分が悪かったんだ、自分に欠陥があったからだと、あの人を責めずに自分を責めてる」
「--」
「--僕に対してもそうだ」
「--」
「僕は途中から現れて、君から父さんを奪った人間だ。--君の気持ちにも気づかなかった馬鹿なやつだ。--君は僕にバカヤローって言って憎めばいいんだ。--どうしてそうしなかったんだ、玲」
「--徹」
 玲は苦笑した。
「・・・そんなことできないよ。--僕が君を憎めるはずがないじゃないか。君は僕にとって、太陽の光みたいな存在で、僕のヒーローだったんだよ?」
「--僕は君のヒーローなんかでいたくない。僕は君の光でもない。--僕は現実の僕なんだ」
「・・・徹」
「玲--」
 徹は玲をじっと見つめた。
「--僕だって君がうらやましかったよ。--君はいつもみんなに大切にされて、僕は君の--スペアだと思って--僕こそ君が憎らしかった」
「--徹」
「--だから」
「--」
「君だって僕を憎んでいい。恨んでいい。嫌っていい。--僕は、僕を憎んでいる君も好きだし、僕を嫌っている君も好きだし、僕を裏切っている君だって--腹も立つけどやっぱり好きなんだ」
「--」
「--君は、醜い感情のある自分が嫌だっていうけど、僕はそんなもの、平気だ。どんな感情が君のなかにあっても、それが現実の君だったら、僕はその感情ごと、君が好きなんだ--理屈じゃない--わかるだろう」
「--徹--」
「--玲・・・僕は小さい頃から君を知っている。君があんまり綺麗で、何でもよくできる優等生で、いつも完璧でかっこよかったから--そんな君に恋をして、愛してるって言ってもらえて嬉しくて、恋人になれて、結婚もして、毎日君を抱いて--僕は夢を手にしたと思った。そして、僕は小さい頃から、--大人になって恋人ができたら、大切に大切にして、僕がその人を護るんだって--ずっと思ってきたから、その愛し方をそのまま君に押しつけて、--それでいいと信じて疑わなかったんだ」
「--」
「--君が何でも僕を受け入れてくれるのをいいことにして、僕の方が君を勝手に理想化していたんだ。--君に、ありのままの君をくれ、心を全部僕に投げてくれなんて要求しておいて、そのくせ、いつのまにか、僕にとっての理想の恋人像を君に押しつけてた。清らかで潔癖で、人を憎んだり恨んだりするなんて考えもしない、天使のような理想像を。--君が息苦しく思うのも無理はないよ。そんな人間なんかいやしない。それなのに君は--僕の期待に応えようと自分を殺して、--応えきれない自分を責めて、自分を追いつめてしまうんだ。玲、--僕が悪い。僕はありのままの君から目をそらしてた。これからは、ありのままの君を見るようにする。君が安心して、僕の前に自然な姿を見せられるようにする。--だから」
「--」
「--もう自分を責めないでくれ。ひとりで泣かないでくれ。ひとりで苦しまないでくれ」
 徹は玲をじっと見つめ、その椅子の前に膝をついた。
 深い色の瞳のなかに光がにじんでいる。
 そっと、手を頬に触れた。
「・・・玲」
「--」
「あの湖で・・・間に合ってよかった」




10


 玲の白い裸身がおずおずと徹の腕のなかに入ってくる。
 抱きしめたなめらかな肌は氷を呑んだように冷たかった。
「・・・玲」
 このベッドで抱き合うのは何日ぶりのことだろう。
 シーツは、スプリングは僕たちの身体を覚えているだろうか。
 君の匂いを--
「徹--」
 玲が肌と肌をぴったりと合わせ、耳もとでささやく。
「--君の身体は熱いね」
「--」
「・・・溶けてしまいそうだ」
「--」
「・・・僕はね、冬になってから、ずっと・・・怖かったんだ。--君はいつも太陽みたいに輝いてて、とても熱くて--僕は君にこうして抱かれながら、いつか、日なたに置いた氷みたいに溶けてなくなって--消えてしまうだろうって--思ってた」
「--玲・・・」
 玲は徹の目を見ないようにして、続けた。
「--そりゃ、人は誰でもいつかは死んでしまう--でも、僕にとって、その、いつか、は遠い未来じゃなくて、いつも目の前にある恐怖だった。小さい頃から思っていた。この麻酔で眠ったら、手術が終わる時には僕は死んでいるかもしれない。今夜寝たら、明日の朝にはもうこの世にいないかもしれない、--そんな考えがいつも頭から離れなかった」
「--」
「--でも、誰にも・・・言えなかった。言ったところで、誰にもわかってもらえない。僕だけが死んでいく、僕だけが寿命がない」
「--玲」
 徹はたまらずに玲の顔を覗き込もうとした。玲は顔をそむける。
「・・・だから、君に抱かれていて、僕は怖かった。君の熱い身体も、君に狂っていく僕自身も、君とのセックスも・・・僕はものすごく怖くて、その恐怖を無理矢理忘れようとして、君にますますのめり込んだ」
「玲--」
 思わず玲を抱きしめてから、--あわてて徹は手を緩めた。
「--ごめん、つい--」
 玲が徹を振り向いて、にっこりと微笑んだ。自ら腕を徹の背にまわして固く抱きしめ、裸の自分を密着させる。
 薄い皮膚を通して、徹のあたたかい熱が玲の身体に流れ込んだ。
 玲は徹の肩に顔を埋める。
 --懐かしい日なたの香りがした。
「・・・徹」
 声が震えていた。
「--不思議だ、さっきから--ちっとも怖くないんだ。・・・君の身体はこんなに熱くて、僕は本当に溶けそうなのに--僕は溶けてなくなってしまいそうなのに、ちっとも怖くない・・・それどころか、僕は、幸せで--どうしようもないほど幸せで--」
「--玲」
「・・・どうしてしまったんだろう--徹、僕は・・・」
「--玲」
「--僕は、君の腕のなかでなら--」
「--」
「・・・死んでもいい」 
「--玲」
 徹は肩が熱く濡れるのを感じて、胸が詰まった。
「死なないよ、君は--ずっとずっと生きるんだ。50になっても60になっても、70になっても80になっても--ずっと僕と一緒にいるんだ」
「・・・でも、僕はきっとまた誰かを好きになるよ」
 玲はちいさな声で言った。
「--そうしたら、泣いたり怒ったりしながら、待つさ」
 徹は玲の顔をあげて、その目を見つめた。
「--君はどうなんだ、僕がほかの誰かを好きになったら--待っててくれるか?泣いたり怒ったりしながら」
「--」
 玲は黙っている。
 --徹は苦笑した。
「そうだな、君は僕と違って崇拝者が多いから、別に--」
「待っててもいいのか--徹」
 玲の瞳がまっすぐに徹を見ていた。
「--ずっと--ずっと、待ってても、いいのか?」



 腕のなかのしなやかな裸身にようやく熱い火が宿った。
 徹は抱きしめた腕に力を込める。
 玲が、身じろいだ。



 流氷がゆっくりと身体のなかを流れはじめた。





流氷  了 

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