陽炎 内藤更紗
山の湖
陽 炎


 木漏れ陽が水面で虹色の光の粒になって弾けた。
 僕は湖岸に立つ樫の樹の幹に手をかけて、振り返る。
 10歩ほど離れて、陽射しに目を細めながら徹が歩いてきた。
 褐色に灼けた額の上に細かな汗が光っている。
 真っ白なコットンのTシャツが眩しい。
 僕は笑った。
 彼は黒目がちの瞳で照れたような笑顔を返すと、僕を通り越して岸辺の草の上に軽く腰を下ろした。
「--徹」
 彼が振り返る。
「そこは暑くないか、木陰に来たら?」
 徹は顔全体をくしゃっと緩めて、僕を見る。
「ここでいいよ--なんだか、ここが湖の正面みたいな気がしてさ」
 僕は樹の陰を出て、彼の横に立った。
「--そうかな」
「--君は日陰にいろよ、玲」
 彼が口をとがらせる。
「僕もここでいい」
 僕もすまして腰を下ろした。
 目の前の湖は正面が小高い崖にはばまれ、残る三方が林に囲まれている。すっぽりとつつまれたような山なかの壺の底にも匂い立つような春が来ていた。
 風が耳もとで歌いながら僕の髪を撫でていく。
 徹はちょっと僕を見て、目をそらして湖面に向き直った。



 あの悪夢のような夜、僕がこの湖に入水して助けられ、退院してから二週間の日がたっていた。気がつくと季節は軽やかに移り変わり、桜が満開になっては散っていった。ある穏やかな休日の朝、徹は僕に、一緒にここに来ようと誘ったのだ。
 なぜ、という問いに彼は答えず、ただ、だめか?とだけ、僕に訊いた。



 徹は何も言わず、湖を見つめている。
 精悍な太い眉を少ししかめ、唇をきつく結んで、怒ったように水面を睨みつけている。強い陽射しが眉の下にくっきりと濃い陰を落としていた。ゆらゆらと陽炎が揺れる。
 静かだった。
 僕は彼から視線をはずして透明な水の膜に目をやった。何の変哲もない明るく、のどかな山の湖--これがあの夜に見た、冥界への入り口のような湖と同じ湖だとは、とても思えなかった。
 何だったのだろう--と僕は考える。
 何だったのだろう、あの夜のことは。
 身体中が蝕まれていくような恐怖と不快感の中で、湖に映るわずかな光だけをむさぼるように手を伸ばしたあの感覚。
 刻一刻と明るくなる景色に気圧されて、急げ、急げとせきたてられ、まるで内部から湧きあがる声に背中を押されるようにして飛び込んだ僕を--
 ゆらゆら、ゆらゆらと揺らめいて誘っていたあの光。
 徹。
 あの光は、君だった。僕が救われる道はもうそれしかないと、僕は思い込んでいた。
 でも僕は、知っていた。君がこの光なんかであるはずがないと。これはただの水の中の月で、僕が君だと思いたがっているだけなんだと。
 どっちでも同じだった。
 君を取り戻すためなら、僕は飛び込むしかなかった。
 君ともう二度と会えないのなら、この世にはもう用はなかった。
 僕は肉体のない魂だけになって、いつまでも君のそばにいたかったのだ。たとえ触れることができなくても。
 たとえ君がいつか僕を忘れ、ほかの誰かを愛し、ほかの誰かに笑いかけるようになったとしても--僕はずっと君のそばで、いつまでも君の顔を見ていたかったのだ。
 --徹。
 僕があの日、君に助け出されたことは偶然だったのだろうか。
 あの世から生き返った時、君が僕の目の前にいたのは偶然だったのだろうか・・・



 さわさわと梢を鳴らす風の音。
 水面を撫でるようにさざ波が広がっていく。
 どこかで高く鳥が啼いた。
「--玲」
 徹がゆっくりと振り向いた。
 固い表情のまま肩に掛けたポーチを探り、その手を僕に差し出す。
「持ってて」
「--何、これ」
 薄青色の野花だった。--僕は赤くなった。まるで--
「--僕は女じゃ--」
「いいから」
 徹は強い口調で僕を遮ると、突然ぐいと僕を引き寄せ、重心を失った僕を抱きかかえるようにしていきなり唇を重ねた。
「--とお・・・」
「玲」
 言葉はそれだけだった。
 徹は僕を荒々しく抱きしめ、腰が折れるほど強く力を込める。Tシャツの袖から出たたくましい腕。薄い生地を通して彼の引き締まった胸板が僕にぎゅっと押しつけられた。彼の心臓が生き物のように激しく踊っている。身体が熱い--シャツがじっとりと汗ばんだ。目の奧で熱い闇がふつふつと沸いてくる。
 --どれほど、そうやっていただろう。
 僕が目を開けると、徹はゆっくりと腕を緩め、少し不安そうな面持ちで僕の顔を覗き込んだ。--それから逃げるように視線をそらし、身体を離して立ち上がる。ぽんぽんと片手で草を払うと、僕を促して帰途についた。
 山道を下りながら、僕たちは無言だった。





 登山道入口に着いて停めてあったパジェロに乗り込み、しばらく車を走らせて市街に入った頃、徹はようやく重い口を開いた。
「--玲」
 僕は運転席を見る。彼は前を向いたまま、固い表情をしていた。
「今日、どうして--無理にあそこに誘ったかというとね」
「--」
「僕は・・・父さんに会いに行ったんだ」
「--え?」
 僕は思わず訊き返した。徹の横顔は動かない。
「・・・この前、君の話を聞いたあとで、僕は思い出したんだ。--父さんが君にしたっていう--彼が若い頃、道に迷ってあの湖を見つけたという話ね」
「--」
「--そういえば僕も子どもの頃、父さんから同じような話を聞いたことがあったのを思い出した。--でも僕はそのことを、とっくの昔に忘れてた。君から聞いてもすぐに思い出せないくらいに。--僕だけじゃない、葉子もそうだ」
「--」
「・・・ねえ、玲」
 徹は初めて僕を見て、微笑んだ。
「僕たち兄妹が三人ともその話を聞いていたのに、実際にあの湖を見つけて、しかもそこが父さんが若い頃行ったことのある場所だと気づいたのは君だけだったんだ--どう思う?」
 僕は彼を凝視した。
「--僕はこう思う」
 徹はまた前に向き直って、カーブを曲がった。
「・・・父さんは、やっぱり君が心残りだったんだよ」
「--徹」それは--
「病弱で、思うように可愛がることのできなかった君が、心残りだった。だから、亡くなってから君をあの湖に呼び寄せたんだと思う。君とふたりだけで話をしたかったんだ--生きていた時の分までね」
「--」
 目の前に父の顔が浮かんだ。
 徹は僕をちらっと見る。
「--それに」
 彼はちょっと言葉を切った。
「僕たちは人前結婚式をしたといっても、父さんたちには報告をしてなかっただろう?」
 それは両親の遺体が揚がらず、遺骨もない、ただ形ばかりの墓に報告をする気にならなかったからだった。
「だから父さんは、--怒ったんだと思う」
「怒った?」
「--勝手に僕が、君を・・・その・・・」
 彼の額に赤みがさした。
「・・・それで、あの夜、君を湖の底に引きずり込んだんだ」
 暗い死の世界へ。
「--まさか!」
 僕は笑った。
「徹、--オカルトか何かの読み過ぎじゃないのか」
「読み過ぎだっていうのなら、別にそれでもいいんだ。ただ--」
 徹はきっぱりと言った。
「ただ僕は、決着をつけたかった」
「決着?」
「--うん」
「--何の?」
 徹はちらっと僕を見て、少しスピードを緩めた。
「--僕は今日、父さんにカミング・アウトしてきた」
「--」
「--あの湖に向かって、・・・父さん、僕はゲイです、僕は玲を愛していますと誓って・・・結婚式を」
 --あの野花は--
「徹!」
 僕は叫んだ。
「そんな--勝手に--僕に何の説明もなく--」
「説明なんかしてたら君は納得しなかっただろう、それに--」
 彼は前を見たまま、唇を引き結んだ。
「僕はどうしても彼に言っておきたかったんだ。玲にはもう僕がいるから、僕がついてるから、玲を--玲を」
「--」
「あなたから解放してやってくれと--もう二度と玲を引きずり込むなと--引きずり込んだら許さない、絶対に僕が--許さないと」
「--徹」
 胸が震えた。
 徹は少し声のトーンをおとした。
「・・・僕の考え過ぎなら、それでいいんだ、玲、--僕が、自分の気の済むようにしてみたかっただけだから」
 徹はちょっと僕を見て、照れ笑いを浮かべた。





「--徹」
 僕は思わず、うつむいた。
「もしそうなら、--本当にそうなら、--もうその答えは出ている」
「--え?」
 顔に血がのぼるのが自分でもわかった。
「父さんは君に答えを出してる」
 徹は眉を寄せて僕を見た。
「いったんは僕を水の底に引きずり込んだ父さんが、--どうして途中で手を離したんだ?」
「--」
「--君が来たからだ・・・君が僕を追いかけてきたから、彼はあきらめて、僕を君の手に渡した--」
 花嫁のような白いコートを着せて。
「--玲」
 いや--違う、と頭の中で声がした。
 違う--
 ・・・そもそも、どうして--
「--徹、どうして君は間にあったんだ?どうして、あんな--地図にも載っていない湖を見つけられたんだ?」
 徹はぎゅっと眉をしかめて考え込んだ。
「・・・確か、君を捜している途中で、水の音が聞こえた--かすかに」
「--水の音?」
「・・・うん」
「あそこで?」
「うん」
「・・・徹、あの湖には飛び跳ねるような魚なんか1匹も棲んでいない。それにあの夜、僕がいた間には音がするようなことは一度もなかった」
 ひやりとした風が頬にあたる。
「--玲」
 徹の声はかすれていた。
「・・・オカルトは信じないんじゃなかったのか」
 短い沈黙があった。
「--父さんは」
 僕は目を閉じて、一語ずつ声を絞り出した。
「初めから、--僕を君のところへ送るつもりだったんだ。・・・あのままでは僕が隆史と別れられなかったから、--わざとあの山に呼び寄せて、わざとあの湖に飛び込ませて、わざと君にその場所を知らせて・・・君が本当に僕を助けるために水に飛び込んだのを確認して、僕を--」
 そんなことがあるのだろうか。僕は言っているそばから、自分が何と馬鹿げたことを言っているのだろうと思わずにいられない。
 でも--
 そうでなければ、なぜ僕はあの夜に、--気がついたらあんな山中にいたのだろうか。なぜ徹はあの湖を見つけ出すことができたのか。一度行ったことのある隆史ではなく、なぜ、徹が。
 ・・・父さん。
 --父は知っていたのだ、僕の気持ちを。
 夜ごとに徹のもとに帰りたかった、僕の本心を。
 --なぜ、わかったのだろう?・・・
 僕は気がついた。
 答えはひとつしかない。
 僕が、たとえ肉体のない魂となっても、いつまでも徹のそばで、徹の顔を見ていたいと望んだのと同じように--
 父も今、僕のそばで、僕の顔を見続けているのだ。
 たとえ肉体のない魂となっても。





「--玲」
 徹は山肌の道路脇に車を停めて僕の方を見た。
「--大丈夫?」
 ティッシュの箱を寄こす。僕は派手な音をたてて鼻をかんだ。
 丸めたティッシュを黙って受け取り、徹がダストボックスに入れる。
 僕と目が合うと、にこっと笑った。--顔が赤くなる。
「・・・君はこの前、言ったよね、自分には心に何か根本的な欠陥があるから、父さんに嫌われていたんだって」
「--」
「--だから父さんは、君の手も握ってくれたことがなかったんだって」
「--徹--」
「・・・前言撤回する?」
 僕は彼を見た。黒い瞳が正面から僕を見ている。--僕は目を伏せた。
「--そんなに急には--心の整理がつかないよ」
「でも、これでわかっただろ?」
「--何が?」
「君が自分で思っているような欠陥なんて、はじめっからなかったんだ。だから自分で自分をそんなに責めることなんてないんだ」
「・・・信じられないよ」
「どうして」
「--だって--」
 26年間、そう思い続けてきたのだ。僕は父さんに嫌われていると。
 そんな自分をどうしても許すことができなかったのだ。自分が悪いのだ、自分に欠陥があるからだと自分を責め続けてきたのだ。毎日、毎日、身体を一寸刻みに切り刻んで捨ててしまいたいほど、自分を憎んできたのだ・・・
「--玲」
 徹は手を伸ばし、指で僕の涙をぬぐった。
「君が父さんのことでそんなに傷ついてたってことは、--裏返せば、それだけ彼を愛してたってことだろ?」
「--」
「君のその気持ちを、あの人が気づかなかったはずがないじゃないか。彼はきっと--君をどう扱えばいいのかわからなかったんだ。君たちはお互いに、ほんの少し自分の気持ちを外に出すのが不器用だっただけなんだよ」
「--」
「・・・ほんとに似たもの同士だな、君たち親子は」
 徹は微笑んだ。 
「僕はさ、--実は正直言うと、今回のことを、どこからどこまでが彼がしてくれたことなのか、今でも半信半疑なんだ。--でも、確かに君の言うように--少なくともあの夜、父さんはあの湖にいたと思う。そして、君を僕の手に預けてくれた」あの黎明の湖の底で。
「--玲」
 徹の手が肩にかかった。
「・・・僕は預かった、と思っても、いいか?--あの人の分まで、君のことを」
 僕は徹を見た。徹が僕を父から「預かる」ということは、徹にとって彼が、もう自分の「父」ではなく「あの人」になってしまうということだった。徹はそういう形で、父を僕に返そうとしているのだ。
 僕はゆっくりとかぶりを振った。
「--僕は君だけで十分だよ。今のままで、十分すぎるくらいだ」
「あの人」は、君にとっても父さんだろう?--徹。
 徹は僕をじっと見つめた。唇が細かく震えだす。
 肩にかけた手に力が込められ、ゆっくりと僕の身体が引き寄せられる。
 やわらかい唇が重なった。





 徹は少しずつ舌を入れて僕のあちこちを味わうと、何度も音をたてて唇を吸った。火のように熱くて地獄のように甘い、頭の芯が痺れるようなキスだ。彼は徐々に僕にのしかかり、両腕で僕の身体を抱きしめながら耳もとで息を切らせた。
「--玲」
 頬が燃えるように熱い。
「--どこへも行かないでくれ、--隆史のところへも--もう--どこへも--」
 僕は驚いて彼を見る。吸い込まれるような黒い瞳。目の縁が赤くにじんで震えている。僕はわずかに微笑んだ。泣き笑いのような奇妙な顔で--
 彼の表情が変わった。
 彼は僕にむしゃぶりつくと、髪を指でぐしゃぐしゃに乱しながら凄い勢いで顔中にかみつくようなキスを降らせた。額も、頬も、あごも、鼻も、首筋も。そして片手で僕の背中を支えると、シートを倒して僕の身体の上に覆いかぶさった。
「--玲」
 いいだろ、と目で訊いてきた。--答えるか答えないかの間に、シャツの裾が引き抜かれる。服の中に5本の指が潜り込んできた。まるで指先に眼があるように、彼の指が腹を撫で、胸の丘を這いまわって僕の乳首を探しあてる。二本の指先を使って丁寧に、やわらかく触りはじめる。乳首はすぐに固くしこって、ぐりぐりと揉まれるたびに頭の奧がうずく。僕は声をこらえる。徹が見ている。僕の表情を真横で見ながら、小刻みに指を動かしている。指の腹が徐々に汗ばむ。息が熱い。熱砂の上を吹く風のように息が熱い。
 僕は徹のTシャツをたくし上げ、厚い胸に唇をつける。褐色に引き締まった筋肉の中に、そこだけやわらかな桜色の乳首。舌を伸ばして突起を舐め、頭を脇腹に潜り込ませて脇の白い皮膚を舐める。--徹の味だ。汗と体臭が混じりあった、気の遠くなるような幸福な味だ。
「--玲・・・」
 徹の声がかすれる。
 我慢できなかった。
 僕が徹のジーンズの錨に手をかけるのと、徹が僕のファスナーに手を伸ばすのとがほとんど同時だった。いや、僕の方が、ほんの少し--早い。
 僕の指が徹のファスナーを下げたとたん、中からぱんぱんに張ったグレーのビキニの布が突き出した。中心が今にも突き破りそうに張り出し、先端に濃い染みが広がっている。布の上から手を触れて僕は驚いた。いつもより、ずっと大きくて--ものすごく硬い。まるで鋼鉄だ。
 徹は僕を見てちょっと顔を赤らめ、黙って僕の手の上に手を重ねて、布地をぎゅっと握らせた。--薄い布だ。中にたぎっているものの熱さがはっきりとわかる。形がくっきりと浮かび上がった。
 僕はゆっくりと手を動かす。根元から先端へ、傘の付け根あたりを指で何度も刺激する。手のなかのものがさらに硬く張りつめていく。徹が呻く。僕は薄い布地を剥いだ。
 見事に反り返った赤黒いペニス。日本刀のような完璧な曲線だ。ゴムまりのように弾力のある先端からは透明な液体が染み出して、刀身をぬらぬらと光らせている。僕はそれを口いっぱいに頬張った。粘っこくて少し酸っぱい、若い獣の蜜の味だ。僕は夢中でその蜜を舐め、音をたてて強く吸った。徹の内股がぴくぴく震える。僕は彼の腰を浮かせ、ビキニとジーンズを膝の上まで下ろした。舌でペニスを愛撫しながら、指は袋の縫い目をなぞる。盛り上がった丘をこすると徹が声をあげた。目の前で新しい蜜があふれ出る。
 これが欲しい、この熱く激しい肉を身体の奧深くまで受け入れたいと強烈に思っている自分に気がついて、僕はうろたえた。僕はこれまではどちらかというと上になる方が好きで--抱かれるのも嫌ではなかったけれど、それは徹の欲望が先にあって、それに応えたいと思っていたからだった。でも、今は--
 僕は唇を離して起きあがり、徹を見ながら黙ってジーンズと--下着を全部脱いだ。肌が外気に触れてひやっとする。徹は目を見張った。
「--玲」
 徹は僕をじっと見つめた。 
「見られるぞ」
「--いいよ」
「--」
「--式だってあげたんだ--さっき」
 自分で言ってしまってから、急に羞恥がせめ上がってくる。顔が真っ赤になるのが自分でもわかった。思わず目をそらした、次の瞬間--
 僕はものすごい力で徹に抱きしめられていた。





 シートに押し倒された僕の上に熱い身体が覆いかぶさり、熱い唇が顔中を襲う。猛り狂った徹のペニスが僕のそれに擦りつけられた。徹は僕の両膝を持つとぐっと僕の胸に押しつけ、むき出しになった僕の尻に昂ったペニスの先をあてる。--目があった。一瞬、緊張が走る。
 徹が入ってきた。僕の中に、僕の身体の中に熱く、激しい痛みを伴ってぐいぐいと徹が入ってきた。肉を裂き、粘膜を押し広げながら僕の奧へ、僕の内部へ、誰も知らなかった僕の最深部へ、彼は臆することなく僕の中へ入ってくる。僕はためらい、拒み、抵抗しながら結局はすべてを彼に開け渡してしまうのだ。僕自身でさえ知らない肉の深層まで。
 押し開かれていく僕の身体。あばかれていく僕の心。殺されていく僕の自尊心。彼がそれを望むのなら、僕は何度だってこの身を殺すだろう。
 僕の中で徹が動く。硬く熱い肉の刀で僕の内部を食い破る。何度も何度も襲いかかって肉の壁をえぐり取っていく。痛い--果てしなく続く痛みに頭が痺れて、僕はもう何が何だかわからなくなる。声が抑えられない。
「--玲」
 徹が動きをとめて顔を寄せる。とたんに身体の奧にぐっと入って、喉から声が絞り出される。
「--大丈夫か、--今日は僕、いつもと、--だから」
「すご・・・いよ」
 やっとの思いで、僕は笑う。
「痛く--ないの」
 僕はかぶりを振る。
 徹が僕をじっと見る。
「--玲」
 軽く僕に接吻する。姿勢を戻してゆっくりと攻めはじめた。
 刺すような痛みがまた戻ってくる。徹が僕を突き上げるたびに僕は痛みの波にさらわれ、嵐の海に投げ込まれる。波頭に放り投げられるかと思えば、海面にたたきつけられる。やっと砂浜に打ち上げられれば、次の波が襲いかかる。骨がバラバラに砕けそうだ。
 胸にぼたぼたと熱い雨が降りかかる。徹の額から飛び散る汗だ。サンルーフからこぼれる光。逆光の中に彼のシルエットが浮かび上がる。獅子のように振り乱した髪。肩から腕のたくましい筋肉。かすれた咆哮。
「--玲・・・玲・・・」
 痛みの波の底からかすかに、甘い痺れのようなものがやってくる。きれぎれに、だが確実に僕に向かって押し寄せる。波が僕に浴びせかかる。僕は必死で声をこらえる。--ああ、--ひとつ、--ああ・・・ふたつ、突き上げられるたびに波は巨大に膨れ上がる。僕の足が宙を舞う。足もとの砂が波にさらわれる、僕のいる地表がずるずるとさらわれていく、こらえきれない波が来る、熱い、大きな波が--
「ああっ、あ・・・あ・・・・・・」
 徹の動きが早くなる。全身の力を腰に集めて、力まかせに僕を貫く。波は激しい渦になって僕の身体をもみくちゃにする。身体の中にも渦が巻く。熱い渦が駆けめぐって下半身で煮えたぎる。
「徹・・・とお・・・もう・・・」
 声が出ない。
 徹の動きが一瞬、とまった。
 次の瞬間、身体の奧にとてつもなく熱い波がなだれ込んだ。
 僕のペニスから真っ白な潮が噴き出した。





 木立を縫う風の音が聞こえる。
 僕たちは抱き合っていた。
 お互いの鼓動が響き合うよう胸と胸を合わせ、目を閉じて相手の息を頬に感じていた。心地よい疲れが全身を満たしている。
「--玲」
 甘い声が耳をくすぐる。
 返事をしているはずの声が--出ない。
「玲、--眠ったのか?」
 徹の声が遠ざかる。



 ゆらゆら。
 ゆらゆら。
 緑の芝生に陽炎が揺れている。
(玲、本当に大丈夫?)
 心配そうにしゃがんで僕の顔を覗き込んでいる--若い母さんの顔。
(お父さんはあなたに、今日は起きてきちんとした服を着ろっておっしゃってたけど、気分が悪くなったらすぐに言うのよ、まだ退院したばかりなんだから)
 僕はあたりを見まわした--見慣れた僕の家の居間だ。
(わかった?パジャマだって別にいいのよ)
(ボクこの服の方がいい。だいじょうぶ、今日は気分もいいし)
 母はため息をつく。
(おにいちゃあん!)
 よそいきのワンピースを着せられた葉子が部屋に駆け込んでくる。
(葉子、なあに、せっかくリボン結んだのにまたほどけて--)
(きたきた、きたよっ!父さん、今ガレージに車入れてる!)
 母が立ち上がるより早く、僕と葉子は玄関のドアをすり抜けて表に飛び出した。
 --かっと照りつける陽射し。あまりの眩しさに一瞬目を閉じ、そろそろと薄目を開けて前を見ると--
 ゆらゆらと揺れる景色の中から、ふたつの影がくっきりと色彩を帯びて僕の前に歩いてきた。がっしりした大きな影と、ちいさくて細い影。
 僕は芝生に進み出た。葉子がそろそろとついてくる。
 顔の見える位置まできて、父は僕たちに笑いかけた。
(ただいま)
 そしてひとりの子どもの手をひいて僕の前に立たせた。
 僕と同じぐらいの男の子。
 くりくりとよく動く目。真一文字に結んだ口。
 真っ黒に日焼けした、きかん気そうなやつ--
 子どもの僕にはそんな印象しかない。
 張りのある声で父が言う。
(紹介しよう、玲、--徹だ。今日からおまえの弟だ、おまえの方がひとつ上だから仲良くしてやれよ、頼んだぞ)
 そいつは元気良く僕に言った。
(頼んだぞ!)



 僕は自分の笑い声で目が覚めた。
「--玲」
 目の前に徹の顔がある。僕はまじまじと彼を見つめた。
「--何?・・・僕の顔に何かついてる?」
「--いや」
「--」
「何でもない」
 僕は目をそらした。
 --車の中だった。見慣れたパジェロの天井を見て、僕はようやく時間の感覚を取り戻した。起きあがろうとして、僕は呻いた。
「痛っ・・・」
「玲」
 徹が素早く僕の肩を支えて、慎重にシートに横たえる。
「だから言ったのに--大分出血してるんだ」
 --ああ。
「--あのね、玲」
「--」
「そりゃ僕だって、--無理に押し倒して悪かったけど・・・こんなに我慢させるつもりじゃなかった。君に我慢させるのは僕だって嫌なんだ。--なんで言ってくれなかったんだ、他にいくらだって--」
「我慢なんかしてないよ」
「嘘だ、あんなに--」
「自分に正直になっただけだ」
 徹はつまった。
 僕はゆっくりと上半身を起こした。身体がきれいに拭かれているのがわかる。僕が疲れて眠っているあいだに彼は僕の身体をきよめ、後始末を済ませて衣服をもとどおりにし、僕を寝かせてずっとかたわらに付き添っていたのだった。
 ジーンズのポケットから薄青色の野花がこぼれかかっている。
「・・・徹」
 僕は告白した。
「もうどこへも行かないよ。--あの湖へも、・・・もう行かない」
 父と僕とのサンクチュアリ。
「行く必要がなくなったんだ。僕があそこに行かなくても、父さんはいつも僕を見ていてくれるということがわかったから」
「--」
「たとえ目には見えなくても、僕のそばで、空気や、風や、水や--霧になって、いつも僕を包んでいてくれるということがわかったから」
 徹が微笑んだ。
「--それにね、・・・僕だけじゃない、徹」
 僕はきょとんとした彼に笑いかける。
「父さんは君のこともずっと見てる」
「--」
「君は父さんから僕を預かったって言ったけど、--僕だって彼から君を頼まれてるんだ」
「--え?」
「20年前に」
「--」
「--忘れた?--君が自分で念を押したんだよ。頼んだぞ、って」
「--玲」
「頼んだぞって、--君は僕に言ったんだ」



 目を閉じるとあの湖が胸に浮かぶ。
 さわさわと鳴る葉ずれの音。
 父の幻と過ごした夢のような時間。
 かつて僕が過ごした場所。
 風が木々をわたりながら空の果てに飲み込まれていく。



 きらきらと水面で踊る光のプリズム。
 夏はもうすぐそこに来ていた。





陽炎  了 

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