珊瑚礁 内藤更紗
珊瑚礁
珊瑚礁


 喉に、ひんやりとした液体が降りてくる。
 とろみのある甘い刺激に思わずむせかえりそうになって、僕は目を覚ました。
「起きた?」
 枕もとで、玲が笑っている。
 何か言おうとした途端、口の中のかたまりからじゅっと果汁が噴き出した。
 --桃だ。
 冷たく冷やした白桃が二、三片、舌の上で甘い汁を垂らしている。
「君は最近、キスだけじゃ起きないからな」
 涼しい声で笑いながら、玲が椅子から立ち上がる。
 飛び起きた僕は、まだ口が一杯で言葉が出ない。やっともぐもぐと果実を噛み砕いた頃、彼はキッチンに立っていってしまった後だった。
 --ちぇっ。
 僕は音を立ててベッドに倒れる。
 開け放たれた窓からみずみずしい外気が入り込んで、僕の鼻をくすぐった。
 時計を見ると、もう6時だ。僕は急いで洗面を済ませ、ウエアに着替えてランニングに出る。家の裏手に広がる山は六甲山脈の裾野の一部で、僕の格好のトレーニング・コースだった。
 夏山の朝は早い。白く澄んだ大気の中を、早朝登山の老人たちがさざめきながら降りてくる。時には犬も一緒だった。誰とはなしに目礼をかわし、僕はいつものコースをめざす。ポピュラーな登山道の脇道から急な山道に入り、人気のない狭い道を走る。風が心地よく頬を撫でた。
 ふと、道の前方にちらちらと白いものが動くのが目に入った。
 --何だろう。
 近寄ってみると、それは煙草の吸殻だった。踏まれてひしゃげたフィルターの端だけが、風にひらひらなびいている。
 --煙草。
 目の前に、昨夜の玲の裸身が浮かんだ。
 あの、水蜜桃のような肌に点々とつけられた赤褐色の火傷の痕。
 僕はぎゅっと目を閉じて、きびすを返した。今来た道を降りていく。
 部屋に戻ってシャワーを浴びる。鏡の中から生臭い男の顔が僕を見ている。
 ミニFMから軽快なラップが流れ出した。





「あれ?徹、もう終わったのか、今日はずいぶん早いんだな」
 ワイシャツを腕まくりし、長いエプロンを着けた玲がまな板に向かったままちらりと振り返った。
「・・・そんな格好で、風邪ひくぞ」
 またトントンとパイナップルを刻み始めた彼の背後にまわり、その腰をそっと抱く。
「徹!」
 玲が振り向く。
「危ないだろう、包丁を使ってる時に--」
 かまわず僕は抱きしめる。裸の腕で、力いっぱい。
「玲」
 ぱりっと糊のきいたワイシャツの感触。清潔なアイロンの香り。
 僕はバスタオルを巻いた腰をぐっと彼に押しつける。
 ことりと、包丁を置く音がした。
「・・・徹」
 後ろから彼の首すじにキスをする。玲はうなじまで真っ赤になった。
「・・・やめろよ、支度ができない」
 返事のかわりに、僕はエプロンの中に右手を入れた。とっさに玲が、上から押さえる。
「やめろったら!」
「どうして」
「だから・・・」
「もう、こんなじゃないか」
 一瞬、彼の手がゆるんだ。僕は素早くベルトをはずす。ファスナーを下ろし、ワイシャツの裾をかいくぐって下着の中まで手を差し入れた。すでに熱く昂ぶったものが僕の手に直接触れる。指がぬるっと濡れた。
「徹--」
 玲の動転した声が僕に拍車をかけた。
 僕はゆっくりと手を動かし始めた。
 固い肉の芯を包む薄く柔らかい皮膚が、その先にいくほどにねばねばとした熱い滴りをあふれさせる。僕はそれをてのひらで受け、塗り広げながら根元を握り、徐々に力を込めてしごいた。手の中のものが更に熱く剛直していく。
「・・・徹」
 かたちばかりに僕を押さえている玲の手が震えている。
 僕はポールを立てたように突っ張っているバスタオルを、ぐいぐいと彼の腰にこすりつけた。目の奥で火花のような快感が散る。左手で玲を後ろから抱きしめ、うなじから耳に唇を這わせる。右手のストロークは更に大きく、速くなる。玲の唇から声が漏れる。膝ががくがく震えている。
 --立っていられないのだろう。
「玲、・・・もたれろ、僕に」
 そう耳もとでささやいた瞬間、視界からすとんと彼の姿が消えた。
 ・・・目の前でしゃがみ込んでいる。
 背中全体で息をしているのを見て、僕はその肩に手をかけようとした。
 不意に、玲が膝をついたままくるっとこちらを向いた。両腕がさっと伸びる。
 バスタオルが床に落ちた。
 息を飲んだ僕の腰に白い指が絡みつく。
 僕を見上げた玲の瞳の中で、朝陽がきらりと光った。





 --何ていう格好だ。
 僕は素裸で棒立ちになったまま玲に腰を抱えられ、彼の口に飲み込まれている。熱い息がそっとかかり、濡れた唇が羽根のように軽く僕を撫でる。先端の蜜が音を立てて吸われ、舌がねっとりと割れ目を舐めていく。気が遠くなりそうだった。あたたかい口腔にすっぽりと包まれた瞬間、僕は思わずいきそうになり、彼の髪をつかんで僕から引き剥がした。腰が砕けそうだ。
 玲は僕をじっと見上げた。きっちりとネクタイを締めた彼のふたつの頬が上気している。そして静かに立ち上がると、僕の背中に手をまわしてそばにあるダイニング・テーブルに僕をいざなった。
 色とりどりのジャムの瓶やサラダ・ボウルが青いテーブル・クロスの海で泳いでいる。波を割って進むように、僕は仰向けに身を横たえた。両脚がぶらぶらとテーブルの外に揺れている。太股の間から玲の顔が覗き、僕は再び彼の唇と--手に僕自身を捕えられた。
 痺れるような快感が背骨を突き抜ける。熱く湿った玲の舌がちろちろと蛇のように僕にまとわる。生きもののような長い指が僕の裏筋を這いまわる。きゅっと握られたふたつのナッツ。濡れた口腔の中で僕の先端がしごかれる。テーブルがカタカタと震える。揺れて頬にあたるアスパラガスの葉。鮮烈なグレープ・フルーツの香り。鈴のように耳もとで鳴るグラス。天井の模様がかすんでいく。僕は食べられる。玲に食べられていく。僕は両脚の親指を突っ張る。内股がぶるぶる震える。喉に桃の香りが広がる。--もう、だめだ。脳髄に甘い液体が噴き上がったと思った瞬間、僕は声をあげて玲の口の中に真っ白な僕の精を放った。
 玲はごくごくと喉を鳴らして僕のミルクを飲み、更に唇で何度かしごく。快感の残滓に、また喘ぎ声が絞り出された。彼は最後の1滴まで飲み干すと、舌で丹念にそのあとを舐める。脳みそに指を入れてくすぐられるような快感。僕は思わず彼の名を呼ぶ。遠くから熱くやわらかな波がやってくる。僕は目を閉じて、じんわりとした波に全身をゆだねた。
「・・・徹」
 真上で玲の声がする。
 目を開けると、淡い色の瞳が僕を見ていた。
「降参か?」
 笑っている--彼の顔をぼんやりと眺めているうちに、ふと、その唇のまわりが白く光っているのに僕は気づいた。
 僕の--ミルクで--濡れているのだ。
 目の前の、この形のいい桜色の唇が僕のものをくわえて--舌を動かしている姿が目に浮かんだ。頭がかっと熱くなる。歯ががちがちと鳴り始めた。
「徹?」
 僕は無言で起きあがった。テーブルから降りて床に足をつけ、玲の腕をぎゅっとつかむ。
「・・・脱げよ」
「--え」
「いいから、全部、脱げ」
 玲が目を見張る。
「怒ったのか。だって、最初は君の方から--」
「そうじゃない」
 僕はぷいと横を向いた。心臓が早鐘のように鳴っている。
 玲は少しの間僕を見ていたが、やがて静かに僕の腕を取って彼から離した。
 そしてエプロンの紐に手をかけた。





「おい、徹。・・・今朝、ふたりとも遅かったんだって。何かあったのか?」
 案の定、僕は会社の廊下で早速俊男につかまった。
「別に・・・単に僕が寝坊したから打ち合わせ先に直行しただけで」
「それならいいけど。玲の体調は?」
 俊男はさぐるような目で僕を見る。
「・・・いいよ」
「あんまり無理させんなよ」
 うるさいな。
「させてないよ」
 僕はさっさと非常階段を降り始めた。トレーニングのために、普段からできるだけ階段を利用するようにしているのだ。
「徹」
 驚いたことに俊男はついてきた。
「何だよ。まだ何か話があるのか?」
 返事がない。
 煙草をくわえたまま、耳を掻いている。考えている時の俊男のクセだ。
 僕は階段の途中で足をとめて振り返った。
「玲のことか?」
 それ以外にはないだろう。俊男はもともとは僕の同僚で、僕が今の会社に呼び寄せたのだが、今は僕よりもずっと玲の方に傾倒していて--というより端的に言って惚れていて、恋人期間が終了した後もまだ彼のナイトをかってでているのだ。
 玲の方だってどうかすると、外では僕より俊男の方に甘えているような気がする時がある。いつだったか--クリスマス間近の繁華街で、僕がデパートの包みを肩に彼らの待つ車に帰ってみると、待ち疲れた玲が助手席で俊男の肩に頭をあずけて眠っていたことがあった。あのチェーン・スモーカーの俊男が一服もせずに我慢して、玲が寝やすいように身体の角度を固定して、まるでこの世にたったひとつのたからものを守るように、そっと玲の肩を抱いて目を閉じていたものだ。
 雪のちらつく歳末の街で、僕は思わずこの幸福な情景を自分が壊していいものだろうかと、真剣に考えてしまったものだった。
「・・・徹」
 俊男が遠慮がちに言う。
「玲と--うまくやってるのか」
「毎日やってるよ」
 俊男は赤くなった。
「そうじゃなくて」
「何だよ」
「・・・最近、あいつの様子、変じゃないか?・・・なんとなく」
 ぎくりとした。
「変って?」
「・・・いや、おまえが気づいてないんならそれでいいんだけど」
 僕は俊男に向き直った。
「何のことだ?はっきり言えよ」
「いや・・・体調が悪いのかと思ってさ」
「ふうん」
 僕は少し、間を置いた。
「・・・ああ、そういえばちょっと夏バテ気味かな」
 俊男の切れ長の眼が射るように僕を見た。僕はくっきりと彼を見返す。
 視線がぶつかった。
 俊男はさりげなく向こうを向いて煙を吐くと、ひとりごとのように言った。
「まあ、・・・気をつけてやれよ、俺の口出しすることじゃないけどさ」
 とんとんと4、5段階段を降りて踊り場に出る。それから急に思い出したように振り返った。
「あ、・・・そうだ、これ」
 ポケットの中のものを僕に放り投げる。
「この前出張先で買ったんだ。言っとくけど、ノベルティじゃないからな。ものは保証付きだ。形がな、ちょっといいんだ。それとノンゼリーだから、フェラにも使える。やるよ、じゃな」
 そう言ってフロアに通じる鉄扉を開け、ドアの向こうに姿を消す。
 僕はカラフルなコンドームのパッケージをしばらくじっと見つめていた。





「何、これ。・・・ああ」
 封を切る前に、玲には中身がわかったようだった。
 深夜のベッド・ルーム。
 真夏の太陽を浴びて火照った大地がようやく冷めて、なまぬるい夜風がカーテンを揺らせている。
 僕は仰向けに寝ころんで、けだるい余韻に浸っていた。
 ふうっと息をつきながら、枕に顔を埋める気配がする。
 玲はコンドームの箱を横に置いたまま、ベッドに身を沈めていた。
 白くなめらかな背から尻にかけて、細かい玉の汗が浮いている。
「玲」
 彼は顔だけ振り向いた。
「シャワーを浴びた方がいいんじゃないか」
 瞳がやわらかく微笑んだ。
「・・・このままでいたい、もう少し」
 そしてまた目を閉じて、羽根枕に身体をあずける。
 背がやすらかに上下していた。
 上掛けをかけようとした僕の動きが、ふと、とまる。
 身じろいだ拍子に彼のまるい尻からつうっと白く、僕のミルクがつたい落ちていくのが見えた。僕の--何回分かの、ミルク。
 --急に、昼間の疑問がまた湧いてくる。
「玲」
 僕は呼びかけた。
「ちょっと・・・話があるんだけど」



「・・・その派手なコンドームね、昼間、俊男にもらったんだ」
 彼は横たわったまま、振り向いた。
 いぶかしげに僕を見る。
「僕たちが使ってると思ったから、くれたんだと思う」
 --つい、口調が固くなる。
 玲は黙っていた。
 僕たちはこれまで、一度もコンドームを使ったことがなかった。どちらからも言い出さないので、ついそのままにしていたのだ。僕は深く考えたことがなかったけれど、用心深い玲の性格から見るとそれはおかしな話だった。
「玲、あのさ・・・俊男との時は」
「俊男は」
 玲は早口で遮った。
「そういう主義だったから・・・フェラの時も、リミングの時も」
「リミング?」
 彼は、ちょっと間を置いた。
「アヌスへのディープ・キス」
 僕は少し赤くなった。
「・・・そんな時まで、ゴムを使うわけ?」
「粘膜同士の接触だからね。ナイフでこう--ゴムを切り開いてさ」
 玲は手真似をしてみせた。
「徹底してたよ」
 あいつらしいな、と僕は思った。
「・・・じゃ、隆史にはどうだったんだ?」
「--え」
「君が隆史と暮らしてた時は」
 玲が絶句する。
「勘違いしないでくれ。別に嫉妬して言ってるわけじゃない」
「・・・彼には一から着け方を教えたよ。僕の知っていることは、みんな教えた」
「じゃ、いつも・・・使ってたのか」
「徹、君が使いたいっていうんなら、そうしてもいい」
 玲は先まわりして僕を制した。
 --気に入らなかった。
「僕の訊きたいのはそういうことじゃなくて」
「--」
「こんな時勢だから、いくら呑気な僕だって、無防備なまますることが危険だってことぐらい、わかってる。・・・そうじゃなくて、なぜ君が--こと衛生面に関しては神経質なくらい気を配るたちの君が、なぜ、わかってて、これまで僕にそれを言い出さなかったんだ?」
 俊男との時も、隆史との時も、ちゃんと考えていたくせに。
 気を使ってたのか、と僕は思った。僕が--いつも、なかば強引に彼を誘うことが多いからか。でも、そんな大事なことを言い出せないなんてどうかしている。玲とは恋人として暮らし始めて2年と少ししかたっていないけれど、僕は誰よりも濃い関係をつくってきたという自信があった。玲は俊男や隆史とつきあったこともあったけれど結局は僕のところに帰ってきたし、僕は玲以外の相手は全く考えられない。僕たちは心の深いところまでわかり合えていると思っていた。
 それとも、玲はそうじゃなかったのか。そんな風に思っていたのは僕の方だけだったのか。
 僕は悔しかった。その悔しさの中に俊男や隆史への嫉妬が混じっていることを自覚して、僕はいっそうやりきれない気分になった。
「・・・徹」
 黙りこくった僕を見て、玲は声をやわらげた。
「これまで言わなかったのは、君に気がねしていたからじゃない」
「--」
「・・・僕の方が、それを使いたくなかったんだ」





 玲は腕を伸ばすと、枕もとのテーブル・ランプを消した。
 窓からのぼんやりとした光で部屋は薄闇に包まれている。
 白いタオルケットが玲の身体の曲線にそってなだらかなカーブを描いていた。
「徹、僕はさ・・・君も知ってると思うけど、ミルクを飲むのが好きだろう?」
 僕は玲の方を振り向いた。
 彼の横顔は動かない。
「あれって・・・好きで飲んでたのか?なりゆきじゃなくて」
 玲が声を立てずに笑った。
「好きじゃなかったら飲めないよ」
「だけど・・・美味いわけ?あんなもの」
 僕だって好奇心で少しだけ、玲のを飲んでみたことがある。
「・・・さあ」
「さあって・・・何か、変な味だろ?お世辞にも美味いなんて--」
「味なんて、毎回違うよ」
 僕はぎくっとして彼を見た。玲が髪をかきあげる。まぶしそうな眼をして上を見ていた。
「少し酸っぱかったり、苦かったり、いがらっぽかったり・・・どろっと濃かったり、薄かったり。・・・元気なのか、疲れているのか、風邪気味なのか、その時の君の体調によって違ってて、ああ、君は今日こうなんだなってわかるのが、僕はとても嬉しいんだ」
 玲は淡々と言った。
 --どう返事をしていいのかわからない。自分の知らない身体の奥を舐めまわされているような気恥ずかしさがあった。
「でも、・・・身体には悪いんじゃないのか?」
「うん、そうだね。初めの頃は、よく腹を壊していた」最近はもう平気だけどね、とつけ加える。
 僕は、ちょっとためらった。
「だけど・・・直接飲み込んでしまうのは、君だって危険だろう?エイズや肝炎や・・・よくは知らないけど、いろんな感染の危険があるんじゃないのか?」
 玲は、少し黙った。 
「・・・徹、僕はね」
「--」
「あの、2年前の朝陽のあたるホテルで、君が僕の部屋に来てくれなかったら、今頃は・・・おそらく死んでいたと思う」
「--え?」
 何を言い出すのか、僕は唖然として彼の口もとを見ていた。
「たとえ死ななかったとしても、死んでいるのと同じような生活しか送れなかっただろうと思う。君には言わなかったけれど、あの頃の僕は・・・君を失って、まるで景色が一斉に夕方から夜に切り替わったみたいに毎日が闇の中に沈んでいて、深い海の底で暮らしているみたいに水圧で身体が重くて、息が苦しくて、昨日も、今日も、自分がまだ生きているのが不思議でたまらなかった」
「--」
「僕は小さい頃から、まさか自分が成人できるとは思っていなかったから、大人になってからの人生設計なんてものがなくてさ」
「--」
「10才から先の人生は、いつ幕が下りるかもしれない、下りてもおかしくない、おまけの人生だと思うようにしてきた。だから、・・・万一君がどこかで感染したとしても、僕は・・・君と同じ運命でいたい。君がいなくなるのなら、僕だって生きていてもしょうがない。僕はそれで本望なんだ」
「玲、ちょっと待てよ」
「僕の方なら、大丈夫だ。・・・僕は絶対、感染しない。絶対、僕からは君にうつさない。君と暮らすようになってから、君以外の人間とのセックスの時はいつも予防をしてきたし、それでも危なそうな時にはそのつど検査を受けてきた」
「待てったら」
「いつもの病院の定期検査の時にも、その関連のチェックを受けている。2年前のあの日から、ずっとそれだけはきちんと続けて--」
「玲!」
 とうとう我慢しきれずに、僕は怒鳴った。
「僕が言いたいのはね、なんで君がそうやって、なんでもひとりで決めちまうのかってことだよ!・・・それに、何だ?本望だ?ふざけんなよ!・・・なんで君は自分の命をそんなに軽々しく扱えるんだ?なんでそんなに簡単に、死んでもいいなんてことが言えるんだ?生きるとか、死ぬってことは、そんなに簡単に--さらっと言ってしまえることじゃないだろう」
 僕と暮らし、ともに働き、家に帰ってくつろいだり、家事をやったり、ベッドで求め合ったりしている間に玲はそんなことを考えていたのか。毎日、毎日、僕のために料理をつくったり、僕の他愛ない冗談で笑ったり、僕と風呂場でふざけあったりしていながら・・・
「君は自分のことだからそんなに簡単に言ってしまえるのかもしれないけど、まわりの人間はどうなるんだ、僕の気持ちはどうなるんだ?・・・それに、もし僕が君に感染させるようなことにでもなったら、僕が平気でいられると思ってるのか?言っとくけど、君は僕よりもずっと抵抗力がないんだぞ!」
 玲は黙っていた。顔がこわばっている。
「聞いてるのか!」
 僕はタオルケットを剥いで彼に覆いかぶさり、肘で身体をささえた。すぐ下に玲の顔がある。彼はまっすぐに僕を見た。
「・・・聞いてるよ。そう言うと思ったから、言わなかったんだ」
「何だと?」
「君に予防の話をしたら、君は絶対、これからはコンドームを使おうと言い出すと思って」
「あたりまえだろ」
「でも・・・それじゃ、こどもができないだろう?」
 一瞬、僕はつまった。
「・・・あのね、玲」
 --こんなときに。
「もっとましな冗談を言えよ、疲れるだろう」
 ものすごく腹が立った。
「・・・冗談じゃないよ、徹」
 玲は静かな声で言った。
「笑ってもいい、僕は君のこどもが産みたいんだ」





 僕は瞬間、天と地がぐるっと逆転したような気がした。
 身体中の皮膚がそそけだって奇妙に冷え、頭の芯だけが燃えるようにうずいている。
 目の前の玲が信じられない。玲は頭がおかしくなったのか?
「・・・徹」
 玲が僕を見上げて、かすかに苦笑した。
「そんなに驚かないでくれ、・・・困ったな」
 声は正気だ。僕は大きく息をついた。・・・まだ心臓が鳴っている。
「徹、君は・・・自分でこどもを産みたいと思ったことはない?」
 自然な調子で玲は訊いた。
 --産む?
「いや・・・僕は自分のこどもが欲しいと思ったことは何度かあるけど・・・それに、君のこどもの顔だって、見てみたいと思ったことはないでもないけど、でも、自分で産むなんて--考えたこともないし・・・なんだかピンとこないな」
 玲は穏やかに笑った。
「君はオスだからな」
「何、それ」
「何って、そういうことだよ。・・・でも僕は、好きな人のこどもが欲しい」
 --好きな人。
 頭の芯が、またかっと熱くなった。思わず、まじまじと彼を見おろす。
 玲は僕の視線に気づくと、顔を赤らめて目をそらした。
「君が・・・」
 かすかな声だった。僕は顔を近づける。頬と頬が触れ合うほどになって、ようやく言葉が聞き取れた。
「・・・君が僕の中に入ってくるとき、僕はいつもそんな気分になるんだ。乾いてかちかちになっている僕の身体が君の手であたたかくほぐされていって、荒れた土地が耕されるように、何度も力強く鍬が入ってわたりがついて、・・・やわらかい黒土の奥深くに君のミルクが--種がいっぱいつまったミルクが勢いよく注がれる」
「--」
「君のミルクは、君が僕の中に残していった君の身体の一部だ。君の身体の一部が僕の身体の一部と溶け合って、細胞が変化して、増殖して、・・・僕の内部で発芽する。その瞬間、・・・身体が燃えるように熱くなるんだ。身体の芯から脳味噌まで、溶けるんじゃないかと思うほど熱くなる」
 玲は目を閉じた。
「・・・それが、幸福なのに--気の遠くなるほど幸福なのに、僕はもっともっと、君のこどもが欲しくなる。欲しくて欲しくててたまらなくなる。・・・君のこども。・・・君によく似た、やんちゃでわがままで、手が放せない僕のこども。君のように笑って、君のように走る僕のこども。・・・僕たちの身体の一部分が溶け合ってできたこども・・・」
「・・・玲」
 短い沈黙があった。
 玲は夢から覚めたように瞳を開けて僕を見た。
「徹、・・・僕だって、自分がどんな馬鹿なこと言ってるか、よくわかってる。だから君には絶対言わないつもりだった。何とか自分だけで処理しようと、そう思っていた。・・・それなのに、毎日毎日、そんな気持ちが大きくなる。君に抱かれるたびに、僕はたまらない気持ちになる。君を見ているだけで、身体が震え出しそうになるんだ・・・昼も、夜も」
「それで最近、僕によそよそしかったのか」
「え?」
 僕は微笑した。
「俊男が心配していたよ。君の様子が変だから、僕たちがうまくやってるのかってさ。それで景気づけに変わったコンドームなんかくれたんだろう。・・・苦労性だよな、あいつも」
 玲は睫毛を伏せた。
「徹、・・・僕は今までに、女になりたいなんて思ったことは一度もなかった。僕は男の自分が好きだったし、それ以外の自分なんて考えられなかった。今だってそうだ。女になりたいとは思わない。・・・でも、僕は女が羨ましい。好きな人の子供が産める女が、憎らしいほど羨ましい。僕だって--僕だって君のこどもが欲しい。なんで--なんで、だめなんだ、・・・世間じゃ、形式的な夫婦はたくさんいる。その気もないのにできたこどもだって大勢いる。愛情もないのにただ男と女であるというだけでこどもをつくって放り出す親だって、数え切れないくらいる。それなのに、それなのになんで、僕たちは、なんで・・・」
「玲」
「・・・ごめん、僕はどうかしている。・・・君に言ってもどうしようもないことぐらい、わかってるんだ。・・・馬鹿な話だ。男にこどもが産めたら世の中の法則がみんな狂ってしまうよね。・・・わかってて、僕は夢が見たかった。コンドームさえ着けなければ、このままずっと君に抱かれて、君のこどもが産めるかもしれないなんて、馬鹿げた夢を見ていたかった、僕は」
「玲」
「・・・もうやめる。君にも俊男にも、もう迷惑はかけない。きちんと予防の手段をとって、君のミルクも、もう飲まない。・・・そうするから、徹」
「・・・気に入らないな」
「え?」
 玲は目を見開いて僕を見た。
「なんで君は、そういつもいつも・・・自分ひとりで決めちまうんだ」
「--」
「僕たちのことだろ」
「--」
「僕たちのこどものことだろう?」
 玲が息を飲んだ。
 僕は彼の明るい色の瞳を見ながら、はっきりと言った。
「・・・玲、僕は、こどもはできてると思うよ」





 僕は静かにベッドを降りて、窓を大きく開け放した。
 たっぷりとした濃密な闇。風は水を含んでのったりと部屋の中へ入り込み、かすかにぬるんだ海の匂いがした。
 僕は大きく深呼吸すると、玲の方を振り向いた。ヘッド・ボードにもたれた白い胸が薄闇の中で光っている。僕は彼のそばに戻ると、両手に力を入れすぎないように注意して、そっとその身体を抱きしめた。
「玲」
 耳もとでささやく。
「・・・僕がこんなに君を好きで、君がそんなにこどもを欲しがっていて、僕たちがこれだけ毎日やっていて、こどもができていないはずがないよ。・・・それに、僕には手応えがあるもの」
「手応え?」
「絶対、確かに命中したって」
 玲が笑った。
「あれでこどもができてなきゃ、嘘だ、玲・・・僕らのこどもは生まれてるんだ。それもひとり、ふたりっていう数じゃない。僕たちが抱き合った数だけ、こどもはこの世に生まれてるはずだ。ただ、ここにいないだけなんだと僕は思う」
「ここにいないだけ?・・・じゃ、どこにいるんだ?」
 玲が、まだ笑いながら尋ねた。
「遠いところ」
「--」
「でも、いつか行けるところ」
 玲の笑いがとまった。
 僕はにやっとした。
「でも、天国じゃない。・・・ちいさな島」
「・・・島?」
「そう、太平洋にぽっかり浮かんだちいさな島。そこにこどもたちだけで住んでいる。常夏の島だ。そこでたわわに実った果物をもいだり、魚を捕ったりして暮らしている」
 彼が穏やかに微笑んだ。
「ガリバー旅行記に、確かよく似た島があったね。・・・こどもじゃなくて小人の島だったけど。リリパット島って言ったっけ?・・・でも、君の島はよくほかの国に見つからないね?」
「潮の関係で、誰にも近づけない。それに衛星からも発見できない最新技術を持ってるんだ」
「何だ、それ」
「いいから聞けよ」
「--」
「だから、そこへたどりつくには、島のこどもたちから、海が凪ぐわずかの間に合図を送ってもらわなければならない。こどもたちは外部の人間には気を許さないが、父親の僕たちはわかる。だって、顔がそっくりなんだから。僕たちが行けば、彼らは飛びついて歓迎してくれるはずだ」
「--」
「・・・でも、大変だぞ。僕たちが一緒に暮らし始めて、2年と--4カ月、日にちにして--840日か、その間君がいなかったり、僕が下になったりした時を除いても・・・最低1000回は絶対固い。1000人はこどもが生まれてる計算になる。1000人のこどもの遊び相手をしなきゃなんないぞ、公平に」
「2才・・・だったら、まだよちよち歩いてる頃じゃないのか」
「こどもたちだけで暮らしているから、成長が早いんだ。1000人も人口がいたら、自治組織が必要になる。王様はいないから、共和制だな。代議員に選ばれるためには弁舌も必要だ。食料はどっさりあるから、頭も身体も、成長がすごく早い。みんなよくしゃべり、よく笑い、よく遊んで真っ黒に日焼けしている」
「--」
「椰子の木に登って競争したり、おばけマンゴーの実でフットボールをしたり、珊瑚礁の海で魚の群れと一緒に泳いだり、猿と野球をしたり」
「猿もいるのか」
「動物は何でもいる。・・・君は動物は嫌い?」
「いや」
「交通手段はダチョウにしようか」
 玲は吹き出した。
「どうして太平洋の島にダチョウがいるんだ?・・・いったいそこは、太平洋のどの辺なんだ。ポリネシア?メラネシア?ミクロネシア?それとも--」
「そうだな、東経179度9分あたり、日付変更線のちょい西、かな。緯度は、ええと・・・赤道直下は暑すぎてかわいそうだから--」
「待った、どうして日付変更線のちょい西、なんだ?」
「だって、朝日を見せたいだろう?」
「朝日?」
「僕らのこどもたちにさ、地球上で一番早く昇る朝日だ。世界中の誰よりも早く、僕らのこどもたちが太陽を見るんだ」
「--」
「見せたくないか?玲」
「--」
「見せたくないか?その子たちに」
「徹」
「・・・僕は、見たい、そこで、こどもたちと」
「--」
「そこで、こどもたちと、・・・君と一緒に」
「--」
「あと10年もたてばこどもたちは5000人を越す。20年たてば1万人だ。その頃には、僕たちの孫だって生まれてるかもしれない。人口が増えて、住宅が増える。祭ができて、歌や、踊りや、祈りの文化が栄える。僕たちが60才を越す頃にはいろんな産業が分化し、70を越す頃には--」
「僕は70になるのか?」
「・・・70になる。70になって、80になる。・・・80になっても、僕と一緒に暮らしている。島ではひ孫が生まれていて--」
「徹」
 玲が僕をじっと見つめる。瞳の中に僕が揺れる。
 僕は玲を見返した。
「・・・玲、僕は本気で言ってるんだ」
「--」
「・・・目に見えるものだけが真実じゃないだろう?」
 背にまわした腕に力を込める。
「・・・いつか、絶対に行こう、その島へ。僕によく似た、やんちゃでわがままで、手が放せないこどもたちがいて、君のように笑って、君のように泳ぎのうまいこどもたちがいて。君の言ってた、僕と、君の身体の一部分が溶け合ってできたこどもたちが--」
「徹」
 不意に玲が僕の胸を突き放し、うつむいて低い声で言った。
「僕でいいのか?・・・本当に、男の僕でいいのか?・・・君は、女性と結婚すればいつだってこどもも家庭も持てるんだ。僕は・・・君の人生を奪っているんじゃないのか?」
 手が震えている。
「玲」
 今さら、何だ。これだけ一緒に暮らしていて、今さら何を言い出すんだ--と言いかけた時、突然、頭の一部がすうっと冷えた。
 --だから、なのか?
 だから君は、ほかの男と浮気をするのか?
 浮気をして自分を責めるのではなく、自分を責めるために浮気をするのか?
 ・・・そうやって、僕から嫌われようと仕向けているのか?
 そうして逃げていくくせに、いつも最後には僕の腕の中に落ちてくるのか?
 いつも僕のところに戻ってきてしまうのか?
 くるくるとまわりながら冷たい水の中を落ちていく白いコート。なめらかな胸に残る焼けただれた煙草の火の痕。
 --沈黙があった。
 濃密な闇の中に今にも溶けそうなほど深い沈黙が僕の胸をゆっくりと浸していく。
「・・・玲」
 僕は呼びかける。
「そう思っているのなら責任を取ってくれ」
 彼の肩がぴくっと震える。
「・・・僕のこどもを産むんだ。島の人口増加に協力しろよ」
 玲は僕を見上げた。
「常夏の南の島で、何万人ものこどもや孫たちに囲まれて、世界一好きな人と一緒に、世界一早い朝日を見る。僕の選んだ人生だって、そう捨てたもんじゃないって思うけど。・・・そう思わないか?」
「--」
「玲」
 僕は呼びかける。
 彼はにっこりと微笑した。
 瞳に映った僕の姿がにじんでは溶けていく。
 僕は彼の頬にそっと唇をつける。少し塩からい海の味がした。
 玲の内側から流れ出た、玲の海。
 僕は目を閉じて、そっと彼を抱いた。



 目の前に、紺碧の空と珊瑚礁に包まれた小さな島が見えた。
 玲と僕のこどもたちの島。
 熱帯の果樹の下で真っ黒に日焼けしたこどもたちが裸足で駆けまわっている。
 国歌はレゲエだ。主食はバナナ、パンの実、ココナッツ。
 マンゴー、パパイヤ、ランブータン。
 星降る浜の夜光虫。
 椰子の葉陰で鳥が歌い、蝶が舞い、花が匂う。
 世界でいちばん早く太陽が昇る島。
 レーダーにもかからないその島へは小舟でしか行くことができない。
 僕は玲とふたりで砂浜で舟をつくろう。
 その舟で僕らのこどもたちに会いに行こう。
 何万人にも増えたこどもたちのひとりひとりと走りまわって遊ぼう。
 そしてその島を必要とする人たちのために、
 もっともっと多くの舟をつくろう。



 遥かなる海をわたる風。
 波をはぜる陽光。
 僕たちの珊瑚礁の島は、今も太陽を浴びている。





珊瑚礁  了 

TOPに戻る