水魚 内藤更紗
恋人たち
水 魚


 八月、神戸。
 ゆるやかな坂道の続く早朝の住宅街を、一台の自転車がなめらかに登っていく。
 ―今朝はちょっと早すぎたかな。
 長い煉瓦塀の先にいつもの通用口を見て、小林和馬はふと、不安になった。
 塀が一箇所だけ、人ひとりが通れるほどの幅で途切れている。両側を生け垣で囲まれた通路はすぐ左に折れ、正面に凝った細工の鉄の門扉が閉まっていた。
 門の手前に白いポストが設置されている。中央にはアクアマリンのイメージ・カラーで「クイック・クリーニング ラスカル」の文字が刻まれていた。手早く合鍵を取り出して、ポストを開ける。専用の布袋のなかに衣類がきちんと納められているのを見て、思わず彼の顔がほころんだ。
 大学生活最後の夏。来年には郷里で就職が決まっている。母や姉は海外旅行をすすめたが、和馬はこの街に愛着があった。クリーニングの集配アルバイトを始めたのもそのせいだ。
 朝8時までに、決められた家庭をまわる。専用ポストのなかをチェックして工場に届け、夕方にはまた配達に向かう。契約先の家人と顔を合わせることはほとんどなかった。その方が気楽だと、むしろ客の評判がいいのだ。
 それでも、どういう人が住んでいるのかは、案外クリーニングに出されたものでわかったりする。はじめて女物の汚れた下着を発見したときはぎょっとしたが、まあ下着でもそれは商売だからと納得した。しかし重ねて脱いだままのシャツの塊やら丸まったストッキングやらを一点ずつチェックさせられて、思わずキレそうになったことも二度三度ではない。
 この、煉瓦塀の家はその点、申し分なかった。服はいつも軽く畳まれ、シミ抜きの部分には赤い糸で目印がしてある。簡単なメモが添えられていることもあった。「ワインをこぼしました」「両裾のシミ、昨日の雨の泥ハネのようです」―
 いつも紳士物の上物のスーツやワイシャツ、ソックスしか出ていないところをみると、男のひとり暮らしなのだろうと、和馬は思った。
 うっかりワインをこぼしたり、雨のなかを小走りに歩いている、ひとりの男。
 表札は「藤坂」だった。
 藤坂、藤坂・・・と和馬は繰り返した。どこかで聞いたことのある名前だ。
 どこだっただろう?
 和馬は首を傾げながら、次の集荷先に向かってペダルをこぎはじめた。





 疑問が解けたのは、翌週の日曜日の朝だった。
 煉瓦塀の家の集荷を終え、その坂の奥にある家をまわってUターンした時だ。前方の塀の通用口からひょっこりとトレーニング・ウェアの人影が現れた。和馬の方に向かって坂を走ってくる。胸が高鳴った。思わず乗りかけた自転車を手で押すふりをして、和馬はゆっくりと近づいてくるその人を見つめた。
 歳は、自分より少し上だろうか。身長は178ぐらい。引き締まった褐色の肌に白いウェアのよく似合う、精悍な顔立ち。きりりとした濃い眉と涼しい目もとがとても、・・・魅力的だ。
 男は和馬の顔をちらりと見、その自転車に描かれている「ラスカル」のロゴを見て軽くうなずくと、あっという間に和馬とすれ違った。
 足音が遠ざかっていく。
 和馬は思わず目を閉じた。心臓が早鐘のように鳴っている。残響が身体中を駆けめぐっていた。
(あれが、・・・あの人が、藤坂さんか)
 あの、煉瓦塀の家の・・・と思った瞬間、不意に、記憶の底で何かが弾けた。
(藤坂・・・藤坂徹!)
 視界が開けた。



 雲ひとつない紺碧の空。照りつける太陽。むせかえる人いきれ。陸上競技場。
 それは和馬がまだ中学生で、家族が西宮に住んでいた頃。
 高校の陸上部のマネージャーをしていた姉に頼まれて、大きな競技大会があるたびに彼は手伝いに駆り出された。その時、同じ県内の他校の選手のなかに、ひときわ彼の目をひいた選手がいたのだ。
 長い脚。褐色の風のように疾走するその姿。解き放たれたバネのような跳躍―
 すごい。
 和馬は我を忘れてその選手を見つめ、姉の用事を忘れて後でこっぴどく叱られるはめになった。
 それが「藤坂徹」だったのだ。



(そうか。ここが、あの人の家なのか)
 8年、・・・いや、9年も前のあの日の興奮が、焦がれるような想いが、昨日のことのように和馬の胸によみがえった。
(なぜ今まで気がつかなかったんだろう。なぜ今まで忘れていられたんだろう)
 息が苦しい。いつのまにか全身が細かく震えているのに気がついて、彼はうろたえた。
 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら、坂道をゆっくりと下っていく。
 暑い一日が始まろうとしていた。





 ―だから嫌だったんだ、日曜日のデパートなんて。
 藤坂徹は、さっきから休憩スペースの椅子の上でひとり悪態をついていた。
 今日は休日だったので久しぶりに恋人の玲とふたりでゆっくり朝寝を楽しんでから遅いランニングに出かけ、朝兼昼のブランチをとっていたところに、葉子から突然電話がかかってきたのだ。何でも、婚家先の親戚の引越祝いを一緒に選んで欲しい、ということで。
 こういう時の玲は妹に弱い。いくつかあった予定を全部先延ばしにして妹優先にするのはわかっていたので、徹は何も言わなかった。しかし―
 そろいもそろって買い物が長いのだ、この兄妹は。
 あれがいい、これはどうだと一館全部まわりそうな勢いにとうとう徹が根をあげて、「僕はここで待ってるから」と宣言してから、もう1時間。
 周囲には同じ境遇の男たちが所在なげに煙草をふかし、間を縫ってこどもがやかましく走りまわる。
(やれやれ)
 徹は大きく伸びをして、退屈しのぎにフロアをまわりはじめた。



「ほら、このリングなんか君にぴったりだよ」
「えー、そうかしらぁ」
 隣のショウ・ケースからカップルの甘ったるい声が飛び込んできた。
 女の方がリングをつけた手をかざしているのが見える。
「君、指がきれいだからよく似合うよ」
(・・・ふん。玲の手の方がずっときれいだ)
 徹はちらっと横を見る。
(顔だって・・・玲の方が百万倍もきれいだ)
 視線を感じたのか、女が徹の方を振り向く。徹はあわてて目の前のショウ・ケースを見るふりをした。
 不意に、彼の目が大きく見開かれる。
 華やかなショウ・ケースのなかから目に突然飛び込んできたものがあった。
 ゆるやかなカーブを描いた銀色の輪のなかに、小さなダイヤとサファイヤがちりばめられた細いブレスレット。それは海の底に落ちた月の光のように思えた。
(玲の白い手首につけたら、どんなに似合うだろう)
 時計以外はブレスも、リングさえつけたことのない、玲の腕。
 その腕につけてみたい、僕の手で・・・。
 徹は顔を上げて、店員を呼んだ。





「え?・・・何、これ」
 包装紙を開けた玲は、とまどった声を出した。
「何って、・・・君にだよ。きれいだろ?」
 徹は、さすがに照れくさかった。僕につけさせてくれなんて、やっぱり言えそうもない。
「・・・つけて見せてくれよ」
 下を向いたまま、そう言った。
 返事がない。
 ナイト・テーブルの上にことんと、ケースを置く音がした。
「徹、あの・・・」
 硬い声。
「ありがとう。・・・気持ちだけ、もらっていいかな」
 愕然として徹が顔を上げる。
「どうして?気に入らない?デザインが」
「・・・そうじゃない」
「じゃ、持ってる服と合わないとか?それなら―」
「徹」
 玲が床に目を落とす。睫毛が何度もしばたいた。
「・・・何て言ったらわかってもらえるかな。僕は・・・女じゃないんだ」
「―」
「だから普段から、装飾品はつけない。君との、マリッジ・ピアス以外は」
「でも、そんなの古いよ。今は男だって、ブレスぐらい普通だろ?僕だってブレスもリングも、チェーンも持ってる。それも嫌だったのか?」
「君がつけてるのを見るのは好きだよ。ただ僕は、自分では嫌なだけなんだ」
「どうして?」
「だから・・・嫌なんだ」
「どうして嫌なんだ、わからない」
「徹」
 なぜ玲にはわからないのだろう。僕がどんな気持ちでこれを買ったのか。
 僕がどんなにわくわくしながら、玲の喜ぶ顔を待っていたか。
 なぜ玲は、喜んでくれないんだ。なぜ―
 徹は激しそうになる自分を、かろうじて抑えた。
「・・・徹」
 玲が徹の正面に座った。
「ごめん。僕がわがままだってことは、よくわかってる。でも―」
「もういいよ」
 湧きあがるものをごくりと飲み込んで、徹は言った。
「嫌なことをむりやりさせようとして、悪かった。・・・もうしない。そのブレスは、葉子にでもやるよ。・・・気に入ると思う?あいつ」
 玲は微笑した。



 その夜、玲の寝息を聞きながら、徹は考えていた。
 自分の思いを押しつけてはいけない、玲の気持ちがいちばん大切なんだ。
 僕は玲が笑っていればいいのだから。
 僕はそれだけでいいのだから。
 何度もそう繰り返しているうちに、いつのまにか彼は深い眠りに落ちていった。



 翌朝、ランニングに出ようとした徹は、通用口の門の前にたたずんでいる学生風の男に気づいた。男の前でクリーニング・ポストの扉が開いている。
 ああ、集荷か、今朝は早いんだなと思いながら近づくと、足音でその男が振り返った。陽に灼けた童顔。くりくりした瞳のなかに、驚きと安堵の色がある。
「あ、よかった。どうしようかと思いました」
 徹はギイと音を立てて門扉を開けた。
「どうしたの?」
「今、出された服のなかにあったんです、これが」
 徹の手のひらに軽いものが乗せられた。
 それは青い石のついたベビー・リングだった。





「・・・あの」
 和馬の声で、徹は我に返った。
 あわてて声の主の方を見る。クリーニング店の若いアルバイトがけげんな顔をして彼を見つめていた。
「心当たり、ありませんか?このスーツとハンカチの間にあったんですけど」
 玲の服だった。
「いや、・・・わかったよ、ありがとう。うっかりなくしたら大変だった」
 和馬は笑った。ふっくらとした頬に小さなえくぼができる。
「いえ、よくあるんですよ、イヤリングとか、口紅とか。いちおうあとでお電話するのがスジなんですけど、・・・ほら、電話って、大抵奥さんが出るでしょ」
 相手の想像していることがわかって、徹は微笑した。
「これは妹のだよ」
 昨日一日、玲は葉子と一緒だったから、どこかでまぎれ込んでしまったのだろう。
 葉子にしちゃ幼稚な趣味だけどな、と思いながら、徹はリングをポケットに入れた。
「それにしても今日は早いね、いつもはもっと遅い時間じゃなかったっけ」
「ええ、あの・・・」
 ひょっとしたら逢えるかも、と思って来てしまったのだった。それが話までできるなんて、超ラッキーだ。
「朝早くに目が覚めちゃったんで、暑くならないうちに集めちゃおうと思って」
「ああ、ここんとこ朝のうちから真昼みたいに暑くなるからなあ。配達も大変だね」
「いえ、朝夕2回だけで、日中はパスしてるし。それにこのあたりは坂も多いし、自転車でまわるとけっこういいトレーニングになるんです」
「ふうん」
 なかなか感じのいいやつだな、と徹は改めて目の前の若い男をしげしげと見た。
 和馬がうろたえる。
「・・・あの、すみません、ランニングに出られるところだったんですね。時間をとらせちゃって」
 馬鹿!自分から話を打ち切るようなことを言って。僕は何て馬鹿なんだ。
 後悔したけど、もう遅い。和馬は自分を呪いながら、伝票を切ってクリーニング・ポストの扉に入れた。パサッという音で、急に思いついたことがあった。
「・・・あの」
「何?」
 徹は微笑んだ。
「このあたりだと、どの辺が走りやすいですか」
「そうだなあ。僕はいつもこの前の道から登山道に入って、ここの裏山を走ってるけど。アップダウンもけっこうあるし、なにより地道は快適だしね。まあ、服は多少汚れるけど」
 黙ってうなずいている和馬を見て、徹は言葉を足した。
「それさえ気にしなきゃ、なかなかおすすめのクロカン・コースだと思うよ」
「今度早起きしたら、行ってみます」
 荷を積み終えて、和馬はペダルに足をかけた。
「じゃ、・・・えーと、毎度アリガトウゴザイマシタ」
「君の名前は?」
 走りかけた身体がガクンと前につんのめった。和馬が振り返る。
「名前は?」
 涼しい瞳が笑っていた。
「・・・小林、和馬です」
「じゃ、また。小林君」
 その笑顔が和馬の胸に焼きついて、いつまでも残った。





「え?知らない?・・・またまた、とぼけるんじゃないよ、葉子」
 徹は居間のソファでくつろぎながら、昼間会社でつかまえそこねた妹に電話をしていた。
「おまえのやきもちはわかるけどさ、日曜一日玲を独占しといて、まだ僕に嫌味がし足りないの?玲の服にリングをこっそり入れとくなんて、やりかたが大体暗いんだよ」
 扉が開いて、湯あがりの玲が入ってきた。隅のバー・カウンターでオン・ザ・ロックの用意を始める。
「それに、入れるんならもっとマシなものを入れろよ。あれ、よく見たらただのガラスじゃないか。その辺の道ばたででも買ったのか?」
 氷の音がやんだ。
「・・・いいよ。そうやってしらばっくれるなら。とにかく明日会社に持って行くから。・・・じゃ。ダンナサンによろしく」
 ―やれやれ。電話を切って、ソファで身体をのけぞらせる。
 玲がグラスを運んできた。
「・・・何の話?ガラスがどうとか」
「ああ、大したことじゃないんだ。葉子がね、ちょっといたずらしてさ。君の服にちっちゃなリングなんか入れちゃって」
 玲が眉を寄せる。
「リングっていっても、おもちゃみたいなやつなんだよ。それをわざわざ―」
「・・・青いガラスのついたベビー・リング?」
 徹はちょっとつまって、玲の顔を見た。
「・・・ああ、君も知ってたのか。葉子の―」
「葉子のじゃない」
「え?」
「僕の持ち物だ。夕べから見あたらなかったので、ずっと探していた。・・・君が持ってるんなら、返してくれ」
 硬い声だった。
「玲」
 徹は玲を見る。玲はずっと目を伏せていた。
「君がそんなものを持っていたなんて、知らなかった」
「―」
「いつ、買ったんだ?」
 装飾品はつけない、と言っていた君が。
「・・・買ったんじゃない」
「じゃ、どうしたんだ」
「・・・もらった」
「もらった?」
 僕からのブレスレットを、あれほどいらないと言っていた君が。
「誰にもらったんだ?」
 玲は黙っている。徹はテーブルの上の玲の手をがっしりと押さえた。
「・・・誰に、もらったんだ?玲」
 顔を近づける。
「玲」
 玲がきっと徹をにらむ。
「隠していたわけじゃない。ただ、僕は―」
「誰にもらったんだ!」
 玲が睫毛を伏せる。唇が細かく震える。
 それから聞き取れないような小さな声で、つぶやいた。
「・・・隆史」





 不意に、徹のまわりの風景がぐにゃりとまがったような気がした。
 その中心の位置に玲がいて、機械仕掛けのように口を動かしている。
「つきあい出してからもらったわけじゃない。・・・僕たちが母校の社会研究会に呼ばれて、同性愛者の結婚生活について話をしに行ったことがあっただろう?その次の日に隆史が会社までレポートを届けに来てくれたので、食事をご馳走したんだよ。その帰りに・・・食事のお礼だと言って、くれたんだ」
 あの冬の日の、街路樹が長い影を落としていた石畳の道。
 はしゃぎながら覗いて歩いた骨董品屋。薩摩切子に琉球硝子。
「装飾品は身につけないと断ったら、持っていてくれと言われたんだ。僕には断る理由がなかった」
 きらきらとした大きな瞳で玲を見つめていた隆史。
「でも、身につけたことは一度もない。いつも引き出しにしまっていた。夕べ、ブレスレットのことがあったので急に思い出して見ていて―」
 徹が部屋に入ってきたのであわてて引き出しに入れたつもりだったが、後で見ると入っていなかった。それであちこちを探していたのだ。
「君に誤解されたくなかったんだ」
 ―誤解?
「でも、・・・それは僕のものだ、返してほしい」
 徹はじろりと玲を見た。
「・・・返してどうするんだ」
 玲が黙る。
「また引き出しにしまうのか。それで、また時々は思い出すのか、あいつを」
「徹」
「君は僕に黙っていた間中、僕を裏切り続けていたんだ」
「違う!そんなふうに思われるのが嫌だから、僕は―」
「じゃどんなふうに思えばいいんだ!」
 徹が怒鳴った。
 あの木枯らしの日の、玲と隆史が暮らしているアパートの窓をじっと見上げていた自分。捨てられたボロ布のようにみじめだと感じながら耐えていた日々。
 ―だめだ、抑えろ、ともうひとりの自分が言う。
 恨みごとは言いたくない。
 これは、解決ずみの問題なんだ。
 玲は、あいつと別れたのだから。玲は、僕のもとへ帰ってきてくれたのだから。僕の腕のなかで死んでもいいと、あの時確かに、そう言ってくれたのだから。
 それなのになぜ今になって、こんなにも胸が切り裂かれるのだろう。
 こんな、・・・こんなちっぽけな、ガラス玉ひとつのことで。
 徹は両手で顔を覆った。
 ―わかってほしかった。
 僕がずっと耐え続けていたことを。
 口に出して君を責めれば、君を追いつめることになる。だから何も言わなかった。何も言えなかった。
 でも、わかっていてほしかった。僕の気持ちを。
 君だけにはわかっていてほしかった。
 それは、甘えなのだろうか。



 徹は立ち上がって、玲の前にベビー・リングを置いた。
 青い小さな粒が雫のように光った。





「藤坂さん」
 ランニングのピッチをあげかけていた背中に、聞き覚えのある声がかかった。
 振り向いた徹の目に、きゅっと笑った和馬のえくぼが映る。
 今度早起きしたら、なんて言っておいて、次の日にもう来ているのだった。
「へへ・・・それにしても、けっこう人がいるもんですね」
 毎日来ている早朝登山のグループが、わいわい群れながら降りてくる。
「この先の分岐で細い山道に入ると僕のいつものコースなんだけど」
 どうする?と眼で訊くと、当然のようにぐいと眉をそびやかせる。
 ―途中で根をあげても知らないぞ。
 徹はすましていつものペースで山道に入った。
 朝6時。空は明るく、大気はまだ冷たい。生い茂ったクマザサの葉には透明な露が光っている。両側は広葉樹の林。道幅は狭いが踏み固められていて、よく整備されたトレイルだった。
 しかし、この分じゃ楽勝だな、と和馬が思うまもなく、それがとんでもなく甘い認識だったことを彼は思い知らされた。みるみるうちに、徹の白いTシャツの背中が遠ざかっていくのだ。
 嘘だろう、山道だぜ―
 いくら走りやすいとはいっても平地とはわけが違う。勾配は目に見えて急になってくるし、道は徐々に不規則な段差が増えてきて、そのたびに跳ね上がるようにして足を運ばないとたちまち転げ落ちそうだった。
 足もとを見ながら、それでも徹を見失うまいと必死についていくうちに、足首が痛くなってきた。ぐいと力をかけるたびにびりっと電流が走る。時計を見ると、まだ15分しかたっていない。
 くそ。
 やむをえず少しだけペース・ダウンする。大きくカーブした道を曲がって上を見た途端、その先で徹が待っているのを見てどきりとした。
「どうだ?調子は」
 和馬が追いつくのを待ってから声をかける。
「平気です、と言いたいところだけど・・・ちょっと足首が痛いです」
 素直に言った。徹が顔をくしゃっとして笑う。
「今のは上級者コースだからなあ。ペースも上級者なみのペースだったし。それにしては、息はあんまりあがってないみたいだけど」
「心肺機能だけは自信があるんです」
「へえ」
 徹は、また笑った。この人はなんて魅力的に笑うんだろうと、和馬はそのたびにどきどきする。
「ちょっと、こっちへ来ないか」
 どきどきが、目配せした。
「実はこのコースにしたのには、わけがあってさ。確かにきついコースなんだけど、オマケがついてるんだ」
 そう言って、徹はクマザサをかき分けて横道に入った。和馬が続く。20メートルも歩いただろうか。不意に、前方が明るくなった。
「うわっ!」
 林が切れて足もとに岩が露出している。崖に突き出した巨大な岩。
 眼下には神戸の街並みが広がっていた。





 雲間から朝の光が射して、街は銀白色に輝いている。静寂のなかでときおり小鳥の声が響いた。
 思わず和馬の喉から声にならない声が漏れる。
「ちょっとしたもんだろ?」
 徹は満足そうに言って、岩の上にあぐらをかいた。
 ―蜃気楼みたいだ。
「何?」と訊き返した徹を、笑顔でかわす。
「何でもないです。・・・夜なんかもきれいでしょうね。神戸の夜景って、僕好きだなあ」
「君は、こっちの人じゃないの?」
 和馬が徹の隣に腰かけながら答える。
「もともとは富山なんです。中坊んときに親父の仕事の関係で3年ほど西宮に住んでたんだけど、その時に、・・・引越をしたその日に親父がいいもの見せてやるって、家族で六甲山をドライブして、初めて神戸の夜景を見たんですよ」
「どうだった?・・・感激した?」
 徹が笑いながら訊いた。
「うん、・・・感激というより、正直に言うと、ちょっと悔しかった」
「悔しい?」
「後ろで姉貴や母親なんかがきゃあきゃあ騒ぐでしょ、ステキ、キレイ、宝石みたいって。なんか、それ聞いてると無性に悔しくって。・・・ふん、なんだいこんなもの、ホタルイカの方が何倍もきれいだって」
 それは簡単に感激してなるものかという子供っぽい意地と、離れてきた故郷への愛着だった。
「何?・・・ホタルイカって、あの、酢味噌で食べる、ちっこいイカ?」
 確か玲の好物だったっけ、と思いながら徹が尋ねる。
「食べても美味いんですけど」
 和馬が楽しそうに続ける。
「海のなかで光るんですよ、身体中から青白い光を出して。僕の育った土地では、春先から初夏にかけての夜、数万、数十万ていうホタルイカの群れが産卵のために浅瀬にやってくるんです。彼らが真っ暗な海のなかを泳ぎまわると、あたりの海面全体がぼうっと光って、息を飲むぐらいきれいなんですよ」
「へえ」
 徹は頬を紅潮させながら、熱っぽく話す和馬をほほえましいと思った。
「・・・本当ですよ」
 信用されてないと思ったらしく、和馬は口をとがらせる。
「そのへんの宝石なんかより、よっぽどきれいだと僕は思うな。だって宝石は光を反射するだけでしょ。自分から発光するわけじゃないでしょ?」
「そうだね」
 徹は穏やかに言った。胸に、青白い光を放ちながら巨大な光の帯となって泳ぎまわる小さな生物のイメージが浮かんでいる。
「・・・君の故郷って、富山って言ったっけ、そこへ行けば見られるの?」
「え?」
 徹に尋ねられて和馬は我に返った。思わず気負いこんでしまった自分に気がついて赤面する。
「だから、その、ホタルイカ」
「あ、・・・ええと、滑川から観光船が、あ、いえ」
 声が裏返る。和馬は勇気を振り絞った。
「来られるんでしたら僕が案内します。ちょうど春にはあっちで就職してるし」
「じゃ、頼むよ」
 徹は屈託なく笑った。
 どきどきが最高潮に達した。




10


 ―どうしよう。
 ここ数日、和馬は胸のなかで同じ言葉ばかりを繰り返していた。
 どうしよう。
 気がつくと、いつも同じことばかり考えている。いや、考えていると言うより、同じ顔が繰り返し繰り返し眼前に迫ってきて、和馬を飲み込んでは背後に抜けていくのだった。そのたびに心の膜がばりばりと破られていく。
 自分より5才も年上の、大人の男。
 澄んだ瞳。厚い唇。とろけるような笑顔。喉ぼとけ。
 陽に灼けた肉体からこぼれ落ちる汗の雫。
 たくましい腕。腰。尻。引き締まったすね。
 ショート・パンツの裾からちらちらと覗く太腿筋。
 そして股間・・・。
 事ここに至っては、さすがに認めないわけにはいかなかった。
 自分は、藤坂徹に惹かれているのだ。いや、もっとはっきり言えば―
 恋をしているのだ。
 どうすればいいんだろう。和馬は考える。
 藤坂さんは男なのに。
 ―いや、別にいいじゃないか、男だって。僕が想っているだけなら。迷惑をかけないなら。
 こうやって毎朝一緒に走っているだけなら・・・。
 和馬は毎朝4時半に飛び起きて5時半前には登山道の入口に着き、徹と一緒に山道を走る。それが終わって別れてしまえば徹は帰宅して仕事に出かけ、もうクリーニング・ポストの前に姿を見せることはなかった。和馬はポストの扉を開けて徹の衣類を手に取り、夕方、仕上がったものを届ける。それが終わると、明日の朝、徹に逢えるまでのカウントダウンしか、もう彼にはすることがなかった。マッチの燃えかすのような自分。夜は果てしなく長かった。
 でも、それも―あと半年しかないのだ。
 和馬のクリーニング店のアルバイトは8月いっぱいで、9月に入れば郷里に帰って、来春のためにしておかなければならない準備がいくつかあった。それから卒業試験。その間、できるだけ早朝ランニングは続けるとしても、いずれ半年後にはこの土地を去らなければならない。
 逢えなくなるのだ、半年後には。
 そんなことが、この自分に耐えられるのだろうか。



「危ない!」
 声と同時に、和馬の右足がずるっと濡れた石の上をすべった。手が空を切る。バランスを失った身体が急坂を転がり落ちそうになった瞬間、肩がものすごい力で引き戻され、そのまま和馬は道の上に仰向けに転がされた。鈍い衝撃が走る。
「痛っ・・・」
 身体の下でうめき声が聞こえる。自分が徹を下敷きにしているのを知って、和馬はあわてて身体を起こした。
「藤坂さん」
 徹もすぐに起きあがった。まだあちこちにごつごつと石が出っぱった山道の途中で、徹の白いシャツもパンツも泥だらけだ。
「大丈夫か、和馬」
「ええ、僕は」
 あなたが助けてくれたから―そう言おうとしたが、声が出ない。
「重いなあ、君は」
 徹が笑う。和馬は黙っていた。さっきぐいとつかまれた徹のたくましい腕の感触が肩に残って身体が火照り、とても顔が上げられなかった。




11


「ずいぶん泥だらけだね。転んだの?」
 玲はランニング帰りの徹を見て、目を見はった。
「うん。昨日、夜中に雨が降ったらしくて道がズルズルでさ」
「怪我は?」
「ないよ。すぐシャワー浴びるから」
 シャワー・ルームに向かう徹の後ろ姿を見ながら、珍しいな、どの辺で転んだんだろうと玲は考えていた。
 徹は普段から朝のランニングの途中に起こった出来事を、よく玲に話しているのだった。おかげで玲はコース中のどこの場所から見た景色はどうか、どこの道ばたにどんな花が咲いているかをほぼ正確に想像することができる。それは身体が弱くて徹のトレーニングに同行することのできない玲への、せめてもの徹の思いやりであったし、自分の行動をいつも知っていてもらいたいという、甘えに近い感情でもあった。それには和馬のことも、もちろん含まれている。
 玲は徹から、玲のベビー・リングを見つけてくれたのがクリーニング店のアルバイトで、毎朝自分と一緒にランニングをしているんだと聞かされていた。来年の春にはその彼の案内で、一緒にホタルイカを見に行かないか、とも誘われている。和馬っていうんだ。大学生でさ、ちょっと可愛い顔してるかな?
(どう?玲、灼ける?)
 徹は朝食のテーブルで、楽しそうに玲に尋ねたことがある。
(灼けないよ)
 玲はすましてそう答えた。徹のような性格で、本当にあやしいならそんな言い方をするはずがない。
(ちぇっ)
 その時の徹の悔しそうな顔を思い出して、玲は思わず噴き出しそうになった。
 ―あれ?
 玲が突然、真顔になる。
 彼のいる2階の部屋の窓から、裏門の通用口が見えた。



 「クイック・クリーニング ラスカル」と描かれたポストの扉を開けた和馬は、布袋の中身のチェックにかかっていた。ええと、スーツが1、スラックスが1、ワイシャツが2、ソックス2、それから―
 袋の奥に別のビニール袋を見つけて、そのなかを開ける。
 思わず、短い叫び声が漏れた。
 手にしたのは乾きかけた泥のついたTシャツとパンツ―徹がついさっきまで着ていたトレーニング・ウェアだった。
 ―この服で僕の肩をつかんで、仰向けに倒れて、クッションになってくれて―
 その時に泥だらけになったのだ。
 あの時、ほんの一瞬だけ、男くさい汗の匂いが自分を包んだように思った。
 熱い息づかいがうなじにかかったような気が・・・
 ―よそう。和馬は首を振った。
 Tシャツを広げてチェックする。裏返して背中の部分を見た時、不意にその眉がくもった。
 泥のシミに混じった、赤茶色の斑点。
 ・・・血痕だ。藤坂さんは、あの時、僕をかばって、背中に―
 目の前に石の突き出した地面が浮かんだ。耳のそばで徹の笑い声がした。
(重いなあ、君は)
(大丈夫か、和馬)
(大丈夫か、和馬)
(大丈夫か)―
 突然、激情が稲妻のように和馬の全身を貫いた。和馬は手にしたTシャツを顔に押し当てて、喉に噴きあげてくる奔流に耐えた。いや、耐えようとした。
 駄目だった。
 次から次へと身体の奥底から熱い泉が湧きあがってくる。あふれだした想いはとまらなかった。それでも声だけは必死でこらえ、地面に両膝をついて、和馬は呻いた。
 ―藤坂さん。
 藤坂さん。藤坂さん。藤坂さん・・・
 徹の汗の匂いのする、徹の血の味のする、徹の泥の感触のするTシャツに顔を埋めて、和馬は呻いた。



 和馬の両肩が大きく波打っているのを、玲は窓からじっと見つめていた。




12


 送り火を焚いた跡がまだ庭の隅に残っている。盆を過ぎて1週間もたつと、さすがに朝夕の暑さは少し和らいだように見えた。
「徹」
 夕食後、玲が居間にいた徹を呼ぶ。
「ちょっと来てくれないか」
 何だろうと思ってついていくと、玲は軽い足どりで階段を昇りはじめた。
 2階にはふたりの寝室と廊下をはさんで、現在は使われていない両親の寝室と葉子の部屋がそのまま残っている。玲が時々空気を入れ替えているようだったが、徹は足を踏み入れたことがなかった。
 玲が両親の寝室の扉を開ける。少しかびくさい、湿った部屋の匂いが徹の鼻をついた。ごくっと唾を飲み込みながら、徹は一歩部屋に入った。
 ―変わってない。
 部屋の中央に大きなダブル・ベッド。傍らにはサイドデスク。窓際には母の使っていたドレッサー。その反対側には壁一面に作りつけのクローゼット。
 両親の生前の頃と何ひとつ、変わっていなかった。
 徹はぼんやりと、ベッド・カバーの上に腰をかける。その肩にふわっとかかるものを感じて、彼は驚いて顔を上げた。
「何?これ」
 濃いグレーのブレザーだ。
「これ、・・・僕の高校の時の制服じゃないか」
「そう」
 前に立った玲がにっこり笑う。
「この部屋のクローゼットのなかにしまってあったんだ。なつかしくてさ。・・・どう?まだ入る?」
「そりゃ、・・・無理じゃないかなあ」
 肩を入れてみる。入らないことはないが、上腕や胸のあたりがかなり窮屈だ。
「たくましくなったからな、君は」
「君だってサイズは僕とそう変わらないじゃないか」
 玲は微笑して、徹の横に座った。
「じっとして」
 そう言って徹の首に手をまわし、細い紺色のネクタイを結びはじめる。
「え、ネクタイまであったのか?」
「そうだよ。・・・はい、できあがり」
 玲は少し後ずさってじっと徹の制服姿を眺めた。見つめられて徹が照れる。
「何?トシ取ったって、言いたいわけ?だって、そりゃ10年もたてばいくらカッコいい徹クンだってさ―」
「変わってないよ、君は」
 玲が遮る。
「変わってない。・・・全然」
「さっきはたくましくなったって言ってくれたじゃないか」
 徹が笑いながら、言い返す。
「徹」
 玲がうつむいた。
「・・・その、君に頼みがあるんだ」
 彼にしては歯切れが悪い。
「何?」
「・・・君に持っていてほしいんだ、これを」
 そう言って、玲はポケットのなかのものを徹に手渡した。
 硬い、小さな感触―見なくても、それが何であるか徹にはわかった。



 徹の手のひらのなかで、小さな青い光が揺れる。それは驚くほど軽く、ころころと頼りなげに転がった。
「玲、・・・受け取れないよ、これは」
 徹は落ち着いた声で言った。
「これは君にとって、大切なものなんだろう?・・・あいつと君との思い出じゃないか。僕はさ、そんなものまで君から取り上げようとは思わないし」
 取り上げたところで、君の心まで取り上げられるわけじゃないしな、と徹は胸のなかで苦い笑いを浮かべた。
「僕に気を使ってくれなくてもいいよ」
 その方がかえってみじめだった。
「違うんだ、徹」
 玲は徹をじっと見つめた。
「そのリングは、・・・隆史とのことは、僕の見た夢だ。・・・幻だったんだ」




13


「僕はあれから考えたんだ。どうしてあの頃、僕は隆史にあれほど惹かれたんだろうって」
 玲は徹の横に座り、膝に目を落として静かに話した。
「・・・そりゃ確かに、僕が彼のアパートに行ったのは、隆史から君を護るためだった。一緒に暮らしはじめてから彼に本気になったのは、嘘じゃない。でも、そもそも、どうしてそんなに親しくなったのかって考えてみると・・・」
「―」
「そのリングをもらった日が、最初だった。あの日会社で、高校生の来客があるって受付から連絡を受けて僕が1階のロビーに降りていくと、大理石のフロアの中央に隆史が立っていた。ガラス張りの窓からいっせいに陽が差し込んで―」
 玲は目を細めた。その光景が昨日のことのように目に浮かぶ。
「・・・その制服だった」
「え?」
 徹は問い返した。玲が徹をそっと見る。
「だから、そのブレザーに、そのタイだったんだよ、隆史は」
「―」
「・・・それで僕は、彼からレポートを受け取って食事に誘った。異人館の近くの中華料理店だ。そこで思いきり彼に食べさせて、帰り道を、ふたりでウィンドウ・ショッピングをして歩いた。ちょうど小春日和のあたたかい日で、やわらかい陽射しの下で僕は魔法にかけられたように愉快だった。それで隆史が僕に、そのベビー・リングを差し出して―」
「ちょっと待てよ」
 徹が不機嫌な声で遮った。ふたりのデートの話なんか聞きたくない。
「だから、それとブレザーとどう関係があるんだ」
 玲は、黙った。
 うつむいて瞼を閉じる。それから意を決したように、口を開いた。
「・・・徹、君は覚えてるかな。高校の時、君のブレザーが時々紛失してたこと」
「え?」
 突然話題が切り替わって、徹がとまどった声を出す。
 玲は薄く笑った。
「・・・覚えてないか、そうだろうな。ごく短時間だったし。・・・じゃ、体操用のジャージは覚えてる?」
「ジャージって・・・いつもちゃんと君が洗濯して、僕のクローゼットに入れてくれてたじゃないか」
「うん、・・・そうだね」
「なくなってたの?僕は君に何もかもまかせきりにしてたから―」
 炊事も、掃除も、洗濯も、宿題の面倒まで、徹や葉子は兄の玲に頼っていたのだった。葉子はまだ時々は玲を手伝っていたが、徹の方は部活と女の子とのデートに忙しくて、とてもそんな暇はなかったのだ。
「何か困ったことになってたの?空き巣とか、何か?」
「いや、空き巣じゃないよ、犯人は僕だったから」
 え?
 徹は思わず、隣の玲をまじまじと見つめた。端正な横顔は動かない。
 玲は淡々と続けた。
「ブレザーを、3回・・・、体操服は、・・・もっとかな」
「どうして君が?」
「どうしてって・・・」
 横顔がはじめてゆがむ。
「わからないかな」
 玲はうつむいて、両手で顔を覆った。
「・・・だって、しょうがないじゃないか。君はあの頃、僕のことなんかまるで眼中になかったし、・・・僕は君の世話をするだけで満足しようと思っていたけど、実際に同じ家のなかで君が僕のすぐ手の届くところにいて、平気で僕に甘えたり笑いかけたりするたびに、僕はたまらない気持ちになって」
「―玲」
「ふたりで深夜まで試験勉強をしたり、君からガールフレンドとの・・・セックスの具体的な相談なんか持ちかけられるたびに、僕は何度も、何度も君に告白しようとして、そのたびに必死で思いとどまって、僕は、一生、君の兄でいるしかないと自分で自分に言い聞かせて、でも―」
「―」
「でも、それでも君を忘れられなくて、どうしても、どうしても思い切れなくて・・・」
「玲」
「君の匂いのするブレザーや、・・・君の汗のついた体操服を、夜こっそり持ち出して、抱きしめて・・・ベッドのなかまで持ち込んだこともある」
 玲は言葉を切った。
「・・・どういうことか、わかるだろ?」
 徹は黙っていた。その光景が胸に浮かんだ。プライドの高いこの男が、泥棒の真似までして弟の服を抱いている。熱いかたまりが喉につかえて、出そうにも声が出なかった。
「・・・かりにも弟にそんなことをするなんて僕は最低だ、最低の兄だと、ずっとずっと思っていた。でも本当に、恥ずかしい話だけど、その時の僕には、君のその紺色のタイをほどくのが夢だったんだ」
「―」
「・・・隆史は、あの日、そのタイをしていた。君が高校の時着ていたと同じ制服を着て、僕の前ではしゃいでいた。同じブレザーの袖から手を出して、僕にベビー・リングを握らせた。僕は、夢を見ているようだった。遠い昔に夢見ていたことが今、目の前に現れている。僕は失った季節を取り戻したような気がした。君に愛されたくて、愛されたくて素裸のまま膝をかかえて泣いていたあの頃の僕自身を、僕は救ってやりたかったんだ」
「―」 
「・・・馬鹿なことをした。あれは隆史で、君ではなかったのに。そんなことをしても、あの頃の君も、あの頃の僕も戻ってくるはずがなかったのに。戻ってこないからこそ、今の君も、今の僕もあるのに。・・・そのことを気づくのに、こんなに時間がかかってしまった」
 玲は顔を上げて、徹を見た。
 徹も玲を見つめていた。
 視線が絡まる。
「君が、いつも見ていてくれるのを知っていたのに。・・・あの、隆史とふたりで暮らしていたアパートの下に、君がいつも来ていてくれていたのも知っていたのに、僕は・・・」
「玲」
「―徹」
 玲はまっすぐな視線を徹に向けた。
「ごめん、・・・今まで、君をずいぶん苦しめた」
 徹は何も言わずに玲を引き寄せて、長い間、その身体を抱きしめた。



 玲にとって隆史との恋が本当に幻だったのか、そうでなかったのか。
 それは誰にもわからないのだと徹は思った。
 しかし幻だったのだと、そう徹に言い切った玲の気持ちが、彼には嬉しかった。
 その恋の形見を徹の手にゆだねようとする玲が、彼にはとてもいとしかった。



 やっと唇を離してから、徹は玲の手を取って自分の胸もとに導く。
 白い指が、長い間夢見ていた紺色のタイをゆっくりとほどいた。




14


 ・・・ああ。
 徹の、固く締まったラグビー・ボールのような尻を左右に押し開いて、長いピンク色のペニスが喰い入っていく。
 何度目かの喘ぎ声をシーツで押さえながら、徹は玲の愛撫を受け入れていた。
 白い肌が吸いつくように褐色の身体に絡みつく。それはうねり、よじれ、合わさり、離れていくふたつの大きな波のようだった。
「あ、あ、あ、ああ・・・」
 揺れる小舟のように小刻みに快感がやってくる。それが徐々に高まって、やがて暴風雨のまっただなかに投げ出されていくだろうということを、彼は知っている。受動態で迎える絶頂というものを、徹は玲によって初めて知った。それは抱きかかえられる安心感と同時に、犯されていく恐怖でもある。死と再生のシーソーゲームが昇りつめて意識は恍惚の境地をさまよいはじめる。
「・・・ああ」
 徹の顔を覆っていた手から力が抜ける。目は半開きになって玲を見る。・・・玲でなければ。玲でなければ、とてもこんな風に身体をすべて投げ出せない。いや、玲だからこそ、自分のすべてを知ってほしいと思う。抱くときも抱かれるときも、抱く前も抱いた後も。
「・・・徹」
 玲が耳もとでそっとささやく。そして徹の脚を上げ、角度を変えてまた攻めはじめる。深く大きなストローク。波が寄せ、返すたびに電流のように火柱が走る。
「ああ、・・・いい、いいよ、玲」
 意識が片端から壊れていく。はりつめていく忘我の一瞬、徹は猛々しく咆哮した。
 そして同時に崩おれた玲の波打つ背中を抱きしめながら、陰と陽が反転する。徹の褐色の裸体の下で、白い魚が泣き叫んだ。熱い波。まじりあう潮。ふたつの潮が渦となってすべての声を呑み込んでいく。喉に、顔に、手に、尻に、玲の肉の最深部を貫いて、徹は深々と精子を解き放った。



 ・・・静かだ。
 ぴったりと重なった玲の身体がまだ熱く火照っている。
 徹は満ち足りたまなざしでその汗に濡れた顔を見つめた。
「・・・何?」
 玲が微笑む。
「ん・・・」
 その上気したピンク色の頬に見とれる。
 不思議な気分だった。
 自分と玲と、肉体は確かに別々にあるのに、その境界線がにじんで、ぼやけている。液体がゆっくりと混じり合っていくように、身体もその接点から混じり合っていくことがあるのだろうか。
「・・・何だか、こうやってくっついていると、僕たちの間に皮膚があるのが信じられないな。内臓が繋がっているような気がする」
 君の心臓と、僕の心臓と。君の肺臓と、僕の肺臓と。いや、内臓だけじゃなくて筋肉も脂肪も、血液も細胞も、ひとつのものを分かち合って―
「・・・ああ、皮膚なんか、なかったらいいのにな」
 思わず声に出して嘆息してから、徹は照れ笑いした。
 玲がにっこり笑う。
「徹、・・・偶然だね。僕も今、胃袋がなかったらいいなあって考えてたところ」
「どうして?」
 徹の視線と真正面からぶつかって、玲は視線をそらした。
「・・・さっき、僕は君のを、・・・飲んだだろ?」
「うん」
 そういえば以前、玲に「味なんて毎回違うよ」と言ってのけられたことを徹は思いだした。
「で、どうだった?今日のお味は」
 笑いながら尋ねる。
「・・・美味しかったよ、すごく新鮮で」
 玲も苦笑している。少し顔が赤くなっていた。
「何億っていう、イキのいい君の精子がピチピチ跳ねながら僕の喉から食道を泳いでいくのがわかるぐらい。・・・でも、おそらく食道から胃袋に入ったとたんに、彼らは胃の酸でみんな死んでしまうだろう。・・・ねえ、徹」
「―」
「どう思う?僕にもし胃袋がなかったら、彼らはもっともっと先に進んで、小腸から大腸に向かって泳いでいける。そして、下からは、・・・下からも、君にもらった何億という精子が直腸から大腸へと、すごいスピードで遡上する。そうすれば、人間の消化器は1本の管だ。僕の身体を貫いて、君の精子が僕のなかで出逢い、合流し、管全体に無数の精子が泳ぎまわる。・・・どう、素敵だろう?」
「素敵だね」
 徹は微笑んだ。
「でも、胃袋があったとしても、僕のオタマジャクシは死なないかもしれないよ。しつこく生き残って君の身体のなかを泳ぎまわっているかも」
「タフだもんな、君は」
 玲がひやかす。
「タフだっただろ?さっきも」
 徹がにやっと笑う。
「そうだったかなあ」
「こら!」
 徹の腕を振り払って、玲がシーツの上を転げまわる。跳びかかった徹に押さえ込まれて、身を振りほどこうと激しくもがく。
「離せよ、徹」
 もがけばもがくほど、徹の両腕が固く締まる。
「離せったら・・・痛いだろう、そんなに」
「離さない」
「―」
「離さない、絶対。・・・もう、誰にも渡さない」
「・・・徹」
 玲が目を見はって徹を見上げる。
 乱れて額にかかった黒髪の下から、徹が照れたように笑った。
「わかった?」




15


「乾杯!」
 宵闇に、賑やかな声が響く。
 夏も終わりとはいえ、夜の7時はまだ明るい。和馬は手にした生ビールのジョッキを空けながら、まだ信じられない思いで目の前の楽しそうな顔ぶれを眺めていた。
 9月に入るとアルバイトも終わり、彼がいったん帰郷してしまうと聞いた徹から「うちでバーベキューをやるから来ないか」と誘われて、嬉しくてふたつ返事で来てしまったのだが―
 この屋敷の門のなかに入るのは、今日が初めてだった。予想以上の瀟洒な邸宅に、和馬の喉からため息が漏れる。煉瓦塀沿いの針葉樹に囲まれた英国風の庭園。芳香の漂うさまざまなハーブ。ゆるやかに曲がった小径からバラのアーチを抜けると緑の芝生が広がり、その一角にある作りつけのバーベキュー・テーブルで、今日の宴が始まっていた。
「さあ、和馬、遠慮せずにどんどん喰えよ」
 前に座った徹は、いつも見慣れたトレーニング・ウェアではなくジーパンだった。形良く締まった尻が強調されて、彼が席を立って動くたびに、和馬は目のやり場に困った。
 だが、もっと和馬を混乱させたのは、あとふたりの人間だった。
 ひとりは、彼と同じくらいの年齢の女性。ゆるくウェーブのかかった長い髪に、上品なワンピースを着こなしている。徹が彼女を「妹の葉子だ」と紹介した時、白い花のような美人だ・・・と感嘆し、緊張で顔が赤くなった。
 しかし、もうひとりの人間を見た時、彼は完全に息を飲まれてしまった。
 やわらかな髪。広い額の下にすっきりと伸びた細い鼻梁。理知的な容貌のなかに生き生きとした明るい色の瞳が輝いて優美な風情を醸している。これほど顔立ちのきれいな男を、和馬はこれまでに見たことがなかった。
 しかも彼が身につけている服を見て、和馬はますます混乱した。藤色のサマー・ニットと白いコットン・パンツには見覚えがあった。つい1週間前に、和馬がこの家でチェックしたクリーニングの衣類なのだ。
 和馬は反射的に徹を探したが、あいにくその姿は見えなかった。うろたえる彼を気にする風でもなく、慣れた様子で葉子がその人を和馬に紹介した。
「和馬さん、上の兄です」
「はじめまして、藤坂玲です」
 玲はにこやかに会釈した。和馬は、あ!と思わず声に出しそうになった。
 ―この家は藤坂さんのひとり暮らしじゃなくて、兄さんと一緒だったのか。
 和馬はそう思った。玲がさりげなくマリッジ・ピアスをはずしていたのを、彼は知らなかった。



 バーベキュー・パーティは賑やかにすすんだ。
 話の中心はもっぱら徹だ。和馬を飽きさせない配慮もあってか、トレーニングやマラソン競技の話題を中心に、くるくると瞳を輝かせて、徹はよくしゃべった。一方、バーベキューの進行役は玲だった。炭火の調整、材料の用意を手際よくすすめ、葉子が楽しそうに玲を手伝う。あちこちに手を動かしながら、どんどん話にも割って入った。婚家先のおかしな親戚の話、教習所の路上講習の話、最近姑につきあって始めたソシアル・ダンスの話。
「ねえ、兄さん、踊らない」
 葉子が玲の手を取って誘う。
「踊れないから、僕は」
 玲がやんわりと断る。
「教えてあげるわ。いいでしょう?私だって、めったにここには来れないのに」
 そう言って、根負けをした玲を引っ張って、芝生の中央に出る。
 夏の夜、外灯の光の輪の下で、一組の男女が抱き合ってゆっくりとステップを踏みはじめる姿が和馬の目に映った。
「やれやれ。・・・強引だなあ、あいつは」
 徹が苦笑しながら、和馬の方を振り返る。どきりとした。藤坂さんとふたりきりだ・・・和馬の全身が緊張した、その時だった。
 芝生の向こう側で、車の停まる音がした。
「おおい」
 勢いよく走ってくる人影がある。徹が立ち上がって、その声に応えた。
「遅いじゃないか、俊男。もうスミしか残ってないぞ」
「悪い悪い、花火買うのに手間取っちゃってさ」
 俊男と呼ばれた男は徹の前まで走ってくると、ちらっと和馬に目礼してから、徹の方に向き直った。
「それがさ、おまえが注文してたパソコンのモニタ、今日届いたって連絡があったもんだから、ついでだと思って今持って来たんだ」
「そうか、じゃ・・・」
 徹が言いよどんでいる。
「手伝いましょうか?」
 和馬が申し出た。ふたりがいっせいに振り返る。
「ああ、和馬、こっちは僕の同僚で木村俊男。・・・俊男、こちらは小林和馬君。僕の親しい友だちだ。な?」
 徹が和馬に笑いかけた。精悍な、人なつこい笑顔。
 和馬は魅入られたようにその瞳を見つめた。



 モニタの箱はかなり大きかった。和馬が屋敷の玄関の鍵を開け、徹と俊男がふたりがかりでそれを抱えて部屋のなかに運び込んでいく。しばらくしてから、俊男がひとりで戻ってきた。
「あれ、藤坂さんは?」
「ああ、徹ならすぐ来るよ。ここで待っていよう」
 ふたりは玄関先の石段に腰を下ろした。外灯の下で、まだ玲が葉子とふたりで踊っているのが見える。かなり疲れてきたのか動きは少なく、まるで抱き合って静止しているようだった。
「なんだ、あれは」
 俊男が腹立たしそうな声を出した。
「よく徹が許したな。・・・あいつ、何も言ってなかった?」
「何もって、・・・何を?」
 和馬が訊き返す。
「だからさ、・・・いくら相手が葉子さんだからってさ、恋人の前で他の人間とあんなにべたべたするなんて―」
「―」
「徹も徹だ、どうして玲をもっとしっかりつかまえとかないんだ」
「・・・あの・・・」
 この人は何を言っているのだろう、と和馬は思った。
 意味がさっぱりわからない。
 和馬の反応が鈍いので、俊男はいらいらして振り向いた。暗くて、表情がよく見えなかった。
「あの、・・・どうして、徹さんが、玲さんを・・・つかまえとくって・・・」
「何言ってるんだよ、当然だろ?恋人なら」
 ―恋人?
「結婚式まであげたパートナーじゃないか」
 結婚。
 突然、その言葉が頭のなかで真っ白にスパークした。
 和馬の唇からすうっと血の気が引いた。




16


 その後、自分が何を言い、どうふるまったのか、和馬はほとんど覚えていない。
 気がつくとバーベキューはすっかり終わって、周囲は花火にうち興じていた。何本かの火を持たされて、それでも何とかそつなく返事をしている自分がいる。もうひとりの自分が肉体を離れて、醒めた目でその抜け殻のような姿を眺めていた。目は自然に、徹と玲の方にもいってしまう。
 結婚、・・・結婚式までしたパートナーって、本当なんだろうか。
 とりたててべたべたしているわけではない。ごく自然にしゃべって、笑って、仲のいい兄弟としか自分には見えない。いや、そう思いたがっているだけなのだろうか。でも、あの藤坂さんが、あんなに男らしい藤坂さんが、そんなことってあるのだろうか。あの人と・・・。
「和馬」
 背後から声をかけられて、和馬は飛び上がった。
「あ、あの・・・」
「今日は来てくれてありがとう」
 徹が笑っている。
 いつのまにかまわりの人影がなくなっているのに、和馬は気づいた。
「玲と俊男は葉子を送りに行ってるんだ」
 それで余った花火でもやらないかと思ってさ、どう?と和馬の目を覗き込む。
 和馬はぎこちなくうなずいた。



 風のない夜だった。
 徹と和馬は玄関の石段に並んで腰をかけ、残り花火に火をつけた。シュルル、と音がして勢いよく火花が散っていく。
 ずっとこんな場面を夢見ていた、と和馬は思った。
 藤坂さんとこんなに近くで、ふたりきりで話す場面を。
 ・・・それが失恋した直後だなんて、僕はなんて間が悪いんだろう。
 せめて今日が闇夜でよかった。こんな顔を、見られなくてよかった。
 この人に、こんな僕の顔を見られなくてよかった。
「・・・和馬は、来年の春は郷里で就職するんだって?」
 徹が穏やかに訊いた。
 和馬はつとめて冷静な声を出す。
「ええ。僕はここの土地が大好きで、だから大学も神戸にして、できたらこっちで就職したかったんだけど、・・・この春に親父が身体を悪くしてから、やっぱり富山に帰ろうかと。・・・いや、親父にはないしょなんですけどね。あっちも無理して強がってるから」
「・・・お母さんは?」
「ゴッド・マザーの目にも涙、てやつ」
「親孝行だな」
 徹は笑った。その声に淋しそうな蔭がある。
「僕たちの親はふたりとも雲の上だ。生きてる時は芝生の上で花火なんかしたらもう大目玉で、とても許してもらえなかった。それで今、僕たちはしたい放題で助かってるんだけどね」
 そう言って新しい花火に火をつける。
 ジジ、と先端の紙が燃える。
「あの、・・・藤坂さん」
 ためらいながら、やっぱりはっきり聞いて確かめたい気持ちが先に立った。
「・・・お兄さんのことですけど」
「ばれたか、やっぱり」
 振り向いた和馬の目に、苦笑した徹の横顔が花火に照らされて浮き上がった。
「・・・隠すつもりはなかったんだけど」
 夜目にも赤くなってうつむいている。
「・・・じゃ」
「うん」
 和馬の身体のなかを、何かが急速に落ちていく。
「玲は、・・・僕にとって、いちばん大切な人なんだ。・・・そりゃ同性だけど、僕はそんなことは気にならない。兄弟なのにって言う人もいるけど、・・・血は繋がってないけど、もし繋がっていたとしても、僕はやっぱり気にしないと思う。そんなことに気づく以前に、僕はもう彼に出逢ってしまっていたから」
 和馬は黙っていた。その沈黙を徹は別の意味にとったらしい。彼はあわててつけ足した。
「・・・あ、でも、和馬、僕は君にはそんな、・・・ヘンな気持ちは持ってないから。そんなつもりで君と一緒に走っていたわけじゃないから、安心してくれ。本当だ」
 そんなに念を押さなくても・・・、と、和馬は胸のなかで苦く笑う。
「何?・・・和馬、笑ってる?」
「いえ」
 和馬は微笑んだ。花火は終わっている。
 かがみこんで、芝生に落ちた燃えかすを一本ずつ拾い集めた。
「藤坂さん、・・・蜃気楼って、見たことある?」
「蜃気楼?」
 徹は訊き返した。
「以前、ホタルイカの話、しましたよね?僕の郷里で。その海でね、春、よく晴れたあたたかい日、そよ風が吹いてくるような日にね、水平線の上に幻の風景が見えるんですよ」
「―」
「地元の小学校じゃ、それ蜃気楼だって、花火があがるんです。それでみんなワーッて海岸に走るわけ。そうしたら海の上にいつもは見えないなにかの影が浮かんでいて。・・・初めて見た時、僕はああ、街だって思いました。幻の街だって。蜃気楼が光の屈折だなんていうのは実は嘘で、あそこにはタイム・トンネルの入り口があって、一年に何回か、ほんの少し向こう側の風景を見せてくれるんだって、思ってました。・・・それでね」
 和馬は少し言葉を切った。
「僕が藤坂さんと初めて一緒に走った日、朝早くあの山の崖からふたりで神戸の街並みを見たでしょう?それがあんまりきれいだったんで、僕には蜃気楼に見えたんです。これがあんなに憧れていた、向こう側の風景だって・・・」
「和馬」
「・・・蜃気楼でした」
 自分にとっては。現実の世界のなかで、ほんの少し垣間見た幻だった。
 その幻があまりにも心地よくて、つい長い夢を見てしまったのだった。
 いつかは醒める夢を。



「藤坂さん、約束ですよ。来年の春には絶対玲さんと一緒に遊びに来て下さい。父も母も、家族みんなで歓迎しますから」
 和馬はそう言って、きゅっと頬にえくぼをつくった。




17


 夜半、かすかな物音で玲は目を覚ました。
 ほぼ反射的に、隣に腕を伸ばす。シーツのくぼみからぬくもりが消えているのを知ると、起きあがって素肌にガウンをまとった。
 非常灯だけの薄暗い階段を、階下へと降りていく。居間のソファの片隅に、パジャマ姿の徹がぼんやりと座っていた。
 玲を見て、軽く微笑む。
「・・・眠れない?」
「うん、・・・まあね。変に目が覚めちゃって」
 苦笑する。
「起こしてくれればいいのに」
「君は叫び疲れてダウンしちゃったみたいだったしさ」
 玲が軽く徹をにらみながら、バー・カウンターの方に向かう。
「何か飲む?」
「僕ならいい。・・・それより、こっちへ来いよ」
 玲が徹の向かいのソファに腰を下ろす。
「そこじゃない。こっち」
 横に座らせた玲の首に両手をまわして、徹は玲のガウンに顔を埋めた。
 玲がそっとその背中を抱く。胸に埋まっている漆黒の髪を、いとおしむように指で梳いた。
「・・・どうした?」
「・・・わからない。もう夏も終わりだなって思ったら、何だかいろんなものが胸のなかにざわざわして」
 徹は素直に言った。
「それが何だろうって考え出したら眠れなくなってさ」
 頭を撫でていた指が、少し止まった。
 ・・・和馬のことか?徹。
 玲の胸に、今朝方、郷里に帰るからと挨拶に来た和馬の顔が浮かぶ。
(藤坂さん、これ、ホタルイカの写真)
 そう言って徹に絵葉書を渡していた。
(へえ、本当にこんなに青く光るんだ、きれいだね)
 照れて嬉しそうに笑っていた和馬。
 その気持ちに気づかなかった徹―
 玲は固く瞼を閉じた。徹の身体を起こし、その顔を覗き込む。
「徹、これから散歩に行かないか?」



 雲が切れて、月が中天にかかっている。
 夜道にふたつの影がひょろ長く伸びていた。
「どこへ行くの?」
 そう尋ねる徹には答えずに、玲は軽やかな足どりで歩いていく。坂道を下り、住宅街を抜け、深夜の道路を横切って、まだ歩き続ける。
「玲」
「もうすぐだよ」
 歌うように答えて、また楽しげに歩き出す。公園の脇を流れる水の音。
 ―この道は。
 徹の記憶が戻りはじめる。玲がちらっと彼を見て微笑む。
 やがてふたりの歩く道の右側には高いフェンスが現れ、金網越しに私立高校のグラウンドが見えてきた。玲と徹の通った学校だ。
 ―懐かしいな。
 徹がトラックを眺めながら歩いているうちに、突然玲の白い背中が吸い込まれるように横道に消えた。あわてて徹がその後を追う。
 狭い路地だった。フェンスはすでに途切れ、植込みの内側に鉄条網がめぐらされている。玲はゆっくりとその植込みを見て歩き、ある地点で立ちどまった。
「ここだ」
 かたわらの徹を振り向く。それから目の前の茂みに手を突っ込んで、枝をぐっと持ち上げた。腕ごしに徹がなかを覗き込む。人ひとりがやっと入れる大きさに、鉄条網が破られていた。
「行こう」
 玲の言葉で、なかに入る。がさがさと植込みの葉を揺らしながらそこを抜けると、ふたりは体育館の裏庭に立っていた。
「徹、こっちだ」
 玲が小声でささやく。月の光を浴びたグラウンド。体育館を横目で見ながら足音を忍ばせて渡り廊下を歩く。つきあたりに昇降口があり、金属の扉が閉まっていた。玲がその前でとまる。徹が追いついて扉に手をかけた。塩素の匂いがつんと鼻をさす。
「・・・だめだ、鍵がかかってる」
 徹は玲を振り返った。
 玲はにっこりして、ポケットから合鍵を取り出した。




18


 窓からの月明かりが、鏡のようにプールの水面を照らしている。
 あっけにとられている徹の前で、玲はするすると着ていた服を全部脱いだ。
 軽く柔軟体操をし、スタート台に立ってコースに飛び込む。軽い水しぶきがあがると、暗い水中に白い身体がすっと一直線に伸びていた。
 一呼吸置いて、大きく水をかきはじめる。水面の上にそれぞれの腕が弧を描きながらゆっくりと遠ざかっていく姿を、徹は見送った。
 25メートル先でターンして、玲が背泳で戻ってくる。途中の水から顔を出して、徹に笑いかけた。
「来いよ、徹。気持ちいいよ」
 とまどっている彼を見て、プールサイドまで近寄ってくる。
「平気だ。ここは守衛室からいちばん遠くてまず見つからないし、濡れるのを気にしてるのだったら、ロッカーにクラブ用のタオルが山ほどある」
「―」
「来いよ、こっちへ」
 玲がプールから手を差し伸べる。徹は服を脱いで全裸になり、玲のいる水のなかに入った。
「わ・・・」
 皮膚にしみ通る水の冷たさ。玲が涼しい笑い声をあげる。
 徹はクロールで泳ぎはじめた。玲が真横でその速度に合わせて泳いでいるのが見える。影のように徹に並んで、玲がなめらかに水をかく。
 2往復してから少し休み、また2往復して、プールサイドに腰をおろした。
「はい」
 玲がタオルを持ってくる。ふたりは髪と身体を拭いた。
「・・・どう?」
「うん、・・・すっきりした。気持ちよかった」
「だろう?」
 玲が楽しそうに笑う。
「でもさ、・・・どうして合鍵なんか持ってるの?それに、あの抜け穴も」
「・・・ああ」
 玲が言いよどんで、少し顔をそらす。
「実はね、前に、ちょくちょく来てたんだ。高校の時、それに卒業してからも」
「え、・・・知らなかった」
 玲が苦笑する。
「君や葉子が寝静まったのを見届けてから、こっそり抜け出して来てたからね」
「ひとりで?」
 玲は黙った。その沈黙に、徹は少しぎこちないものを感じる。
「・・・いや、・・・いつも、松さんがつきあってくれてた」
 今度は徹が黙る番だった。
 松本登。親友だった玲に襲いかかって、力ずくで思い通りにした男―
「・・・今思えば、僕も高校の頃は家のことや自分の勉強や、・・・君のことなんかで毎日張りつめていたから、人には平気な振りをしていたけど、時にはストレスがたまるときもあったんじゃないかって、松さんはそれを気にしてくれたんだと思う。あの鉄条網を破ったのも彼だし、ここの合鍵を僕にくれたのも彼だ。そうやって、どんな真夜中でも僕が行くと彼はベッドから起きて、僕につきあってくれた。一晩中でも、・・・ここで、一緒に泳いだ」
「―」
「・・・徹、・・・一度言おうと思っていたんだけど」
 玲は前に目を落としたまま、低い声で言った。
「松さんを、許してやってくれないか。・・・君には、許せないだろうとは思うけど」
 徹は玲の方を見た。
「あの件については、僕の方にも落ち度があったと思う。・・・それで僕は彼を失ったわけだけど、松さんは僕だけじゃなく葉子にも離婚されてしまったし、君からも憎まれるはめになった。どう考えても、彼の失ったものの方が大きすぎる。フェアじゃない。・・・だから」
 玲はじっと徹を見つめた。
「頼む」
 徹は目をそらして首を振り、大きなため息をついた。
「玲、・・・じゃあ、君は知らないんだ。松さんが今でも葉子と手紙のやりとりをしていることや、僕とときどき電話でしゃべってること」
「―え?」
「・・・君が僕と別居して隆史のアパートで暮らしているときに、僕に電話をかけてきたのは松さんの方からなんだよ」
「君に?・・・何て言ったんだ?彼は」
「・・・手を離すなって」
「え」
「どんなことがあっても、君の手を離すな、ってさ。・・・そう言った」



 玲は不意に顔をそらした。唇を血の出るほど噛みしめている。
 立ち上がるとスタート台に昇り、弾みをつけて水に飛び込んだ。
 鈍い水音が響く。
 一度底近くまで深く潜り、しなやかに身をくねらせて脚のキックだけで水底を進んだ。徹がプールサイドで後を追う。
 玲が浮上した。
 月の光を浴びてその裸身は銀白色に輝いた。かきあげる腕から水しぶきがこぼれる。濡れた髪からいくつもの雫が頬をつたい落ちた。
 そのまま、何も言わず玲は全速力で泳ぎはじめた。



 あの身体のなかに、僕の精子があるのだ、と徹は思った。
 今夜、彼と抱き合った時の、僕の精子。
 喉から食道へと下に降り、直腸から逆に遡上して、何億という小さな生き物が、彼を貫く1本の管のなかで泳いでいる。
 それは玲の身体の放電管を光り輝かせるネオンサインだ。
 青白い光を放ちながら漆黒の海を泳ぐ膨大なホタルイカの群れ。
 月が隠れた。



 徹は目を見はって、前方を見た。
 暗いプールの水のなかで、玲が軽やかに泳いでいる。
 その水面が、青白く内側から光りはじめていた。





水魚  了

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