■番外編 light side バード 内藤更紗
bird

prologue -プロローグ


 シャワーの水音が、やんだ。
 水栓に手をかけたまま玄関の方に振り返って、玲は耳をすませた。
「藤坂さん、お留守ですかぁ、藤坂さぁん」
 夏の終わりの蝉の混声合唱に混じって、ドンドンと乱暴にドアをたたく音が聞こえる。
 ちらっと階上に目をやってから、彼は手早くバスルームを出て濡れた髪と身体を拭いた。
 軽い音がして玄関の扉が開く。
 現れた郵便局員は大きな包みを抱えたまま、真っ白なバスローブ姿の若い男を見て、一瞬固まった。
「あの…、小包っすけど。…ハンコを」
「あ、ご苦労さまです」
 玲が微笑んで包みを受け取る。新米の局員は少し赤くなった。
 小包は釧路からだった。差出し人の名は「松本登」。
 …やっぱり。
 妹の葉子から、彼と正式に離婚したと聞かされたのはつい先週、お盆で神戸に帰省した時だ。彼ら夫婦が別れてしまえば、高校時代からの親友だった自分と松本の関係ももうこれきりになる。ずっと預かりっぱなしだった荷物を玲に返さなければと、松本は思ったのだろう。ボールペンで遠い宮崎の住所を書きながら、彼は何を考えていただろうか。
 松本の、巨体に似合わない丸まっこい文字が目の前に律儀に並んでいる。
 玲は数秒間目を閉じ、思い直して包みを脇に抱えると、そっと階段を昇った。



 天窓から漏れるやわらかな光。蝉時雨の中を、徹が眠っていた。
 申し訳程度にタオルケットを腰にひっかけ、日に焼けた四肢をのびのびと伸ばしている。行為の後のここちよい充足に浸ったまま、ぐっすりと寝入ってしまったのだった。
 そよ風が額の髪を揺らせている。
 寝返りをうったひょうしに、タオルケットの隙間からぽろりとペニスの先が顔を出した。玲は思わず微笑みを浮かべ、腰をかがめてキスをする。手にした包みを壁に立てかけて、屋根裏部屋を後にした。





 その日、空には雲が低くたれこめ、横殴りの雨が彼の部屋の窓ガラスをピシパシとノックした。
(潤一、潤一)
 バードが彼の耳もとでせきたてる。
(台風だ、潤一。絶好の台風!)
 彼はベッドから飛び起きた。


 出発は雨の日と、そう決めていた。
 雨の日に旅立ち、薄曇りの空の下でさまよって、ピカピカの晴天に帰る、そうこなくっちゃ旅をしたかいがないというものだ。そして彼は絶対に帰るつもりだった。
 だから、行くのなら、今日なんだ。
 彼は180センチの脚立のてっぺんに腰掛けて、ぐるりと部屋を見おろした。
 ガレージを改造した約8畳分のスペース。床はコンクリで天井はベニヤ板という、犬小屋に毛の生えたような彼の城だ。
 愛称「ガラパゴス」。
 ここには絶滅寸前のガラクタどもがひしめいている。
 アングルを組んで自作したロフトベッドの下に山積みになった化石レコード、ベータマックス、オープンリールのレコーダー、ネオンだけ生きてるジュークボックス、アンティークを通り越したタイプライター。
 シアーズカタログの表紙を飾ったばかでかいソファ、寝返りを打つと必ず裏返しになって落ちるハンモック、机の脚と化している平凡社の大百科事典、ハードディスクだけ使えるマッキントッシュSE―30、壁一面の工具のディスプレイ。
 彼のいる脚立の前には等身大の鏡がある。嵐の夜この脚立に登り、窓からの光に照らされる自分の姿を見ながらスピーカのボリュームを最大にし、スター・キングを丸かじりする…人はなんだと言うだろうが、それが彼の至福の時だ。人が何かに変われるのはそんな時だと彼は思う。
 そしてこの島には、女王がいる。
 ドアの前に衝立がわりに置かれた高さ2メートルの「マダム・ジョコンダ」。中性的なまなざしでこの部屋すべてを包んでいる。たちのぼる紫煙のよく似合う、不可思議な微笑。
 雨が強くなった。
 彼はひとわたり部屋の中を見渡すと、脚立を降りた。
 もうパッキングは済んでいる。
 彼はジョコンダに留守を頼むと、扉に鍵をかけて部屋を出た。



「潤一!」
 ガレージから単車を出していると、母親が転がるように駆けてきた。
「何を―何をするの?た、台風がきてるのに、まさか今日出かけるっていうんじゃないでしょ?」
 血相が変わっている。まずいな…潤一は胸の中で舌打ちした。
「これぐらいの雨なんか平気だよ。それに旅行のことは言っただろ」
 夕べ、延々3時間もかけて話し合ったのに。
「ダメよっ!こんなに早く!」
 母は彼の腕を握った。
「バイクなんて危ないって言ったじゃないの!」
 頼むよ、おい。
「それも話し合い済みだろ!」
 彼は母の手を振り払った。
「お父さーん!ちょっと来て下さい、お父さん!潤一が!」
 母が家の中に向かって叫ぶ。げっ、まずい、親父まで出てきたら。
 彼は門を強硬突破しようとエンジンを吹かせた。途端に―
「嫌ああああああーーーーー!」
 母が泣き叫びながら凄い力で彼の胴体にむしゃぶりついた。
「離せよ!危ないだろ」
「嫌あ!」
「離せったら!」
「嫌ああああーーーーー!」
 どこにこんな力があったのか、筋ばった母親の腕は鎖のように息子に絡みついて、びくともしない。
「何を騒いでるんだ!」
 とうとう父親が傘をさして玄関から出てきた。潤一はため息をつく。
「お母さんをなんとかしてよ、お父さん。旅行の件は夕べ話し合って、いいってことになったはずじゃないか」
 父親は女房を見おろした。 濡れねずみになってもまだ息子の背中にしがみつき、髪を振り乱していやいやをしている。雨で濡れて透明になったブラウスの背中にブラジャーの線がくっきりと浮き出していた。
「…潤一」
「何」
「どうしても今日行かなくちゃいけないのか」
「そうだよ」
 もう決めたんだ。
「おまえは旅行がしたい、て言ってたな」
 嫌な予感が胸を走った。
「…そうだけど」
「じゃ、バイクは置いて行け」
「ええ?」
 冗談じゃない。
「何を言って…」
「何もバイクじゃなくても旅行はできる。鉄道だって、ヒッチハイクだって何だってあるだろう」
「でも」
「今この状態でおまえが無理に出かけてみろ、母さんはおまえが事故にあうんじゃないかって、毎日心配で夜も眠れないぞ。おまえは親をそんな目にあわせたいのか?」
 母親がわざとらしく、しがみついた腕にぎゅっと力を込める。
「旅行に行くのなら、バイクは家に置いて行け。バイクで行くのなら旅行を許すわけにはいかない」
「そんな!夕べはいいって…」
「ただし」
 父親は表情のない目で女房を見た。
「おまえが母さんをちゃんと説得してから出るっていうんなら話は別だ」
「……」
「どうだ、何もこんな台風の日に急いで出発することもないだろう。もう一度母さんとよく話し合ったらどうだ」
 話し合う?彼は絶望的な気分になった。
 それじゃ夕べの3時間はいったい何だったんだ?
 彼が黙り込んだのをみて、父は観念したと思ったらしかった。
「さあ、ふたりとも家の中に入りなさい、朝飯がまだだろう」
 自信たっぷりに先に立って、さっさと玉砂利を歩き始める。
 彼は動かなかった。
「お父さん、俺やっぱり、今から出発するよ」
 父が驚いて振り返る。
「バイクを置いていけばいいんだろ、それなら」
 母親が彼にしがみついたまま、呆けたように息子を見上げる。
 今日、出発するって決めたんだ。後戻りはしたくない。


(ごめんな、おまえを置いて行くけど、きっと戻ってくるからな)
 そうしたら、また一緒に走ろうな。
 彼はゼファーカイの馴染んだシートをポンと叩いて車庫に戻し、テントとシュラフを肩にかついで、家の門を出た。
 峰岸潤一、18歳。彫りの深い顔立ちに短髪、原色のバンダナがよく似合う。あちこちをカットしたブルージーンズの裂け目からは、固く引き締まった脚の筋肉が見えかくれしている。
 大粒の雨の中を、彼は天を仰いだ。
 その夏はじめての台風が金沢の街を駆け抜けようとしていた。





「ゆうべはすごい雨だったよね、徹くん」
 耳もとで甘くささやく声がする。
 六甲山系の緑に抱かれた古い校舎の屋上で、藤坂徹は陸上の部活をさぼって彼女と久しぶりのデートを楽しんでいた。
 長かった梅雨がやっと終わり、だめ押しのようにやってきた台風も過ぎて、今日は目の覚めるようないい天気だった。夏休みまであと1カ月。そして休みに入ればすぐ、男女陸上部の合同合宿があるのだ。
「なんかね、1年女子交替で炊事当番するんだって。あたし大丈夫かなあ。ねえ、徹くんは何が好き?」
「何って、僕何でも食べるよ。家でも残したことないしさ」
「ふーん」
「何、不満?」
「だって聞いといたら、それだけでもお母さんに猛特訓してもらおうかと思ってたんだもん」
 くりくりとしたリスのような瞳が徹に笑いかける。小麦色の肌に栗色がかったサラサラの髪。広い額がまだあどけなさを残している。彼女の名は藍原未緒。徹と同じ高校1年で、部活も同じ陸上部である。
 女子のほうに可愛い子がいるぞ、という噂は入部してすぐ男子の間で広まった。ポニーテールを振りながら走る姿がいいんだよな。
 へえ、と徹は聞いていたが、女子と男子とでは普段の練習場所も離れている。わざわざ見に行くほどの興味もなかった彼は、その話をそれきり忘れていた。
 はじめてその子に会ったのはゴールデンウィークが開けた日だ。
 放課後、珍しく早めに部室に行こうとした時、体育館の裏で女子部員たち5、6人がひとりを取り囲んでいる姿が目に入った。
(休み中に、髪切ってこいって言ったじゃないよ、何のつもり?)
(だってあれは、あんたたちが勝手に…)
(ひとりだけいい気になってちゃらちゃらしてんじゃないよ)
 どうしよう、男子部員が口をはさむのはまずいかな、と思った時、取り囲んでいるひとりの手もとがキラッと光るのが見えた。ハサミだ。
 徹は大声を出した。
(おい、イマイさんってそこにいる?顧問がさっき呼んでたぞ)


 それがきっかけになって、徹と未緒は廊下や階段で顔を合わせると時々言葉をかわすようになった。徹には、未緒がまだ髪を切らずに頑張ってたのが気になってもいたのだ。未緒はいつも「大丈夫、大丈夫」と笑っていた。
 そして5月20日、徹の誕生日。
 朝練のために早めに家を出ようとした彼は、門の前で未緒に呼びとめられた。
「おはよ、徹くん、誕生日、おめでとう」
 小さな包みを差し出したその頭を見て、徹は驚いた。
 自慢の髪があごのラインでぷっつりと切られていたのだ。
「あの髪はね、前の彼がとっても気に入ってて、別れた後も、切っちゃったら思い出までなくすような気がして、どうしても切れなかったの。でも…」
 今は徹くんが好きだから、と未緒は恥ずかしそうに笑った。その笑顔がまぶしくて、徹は胸をぎゅっとつかまれたような気がした。
 ふたりがつきあい始めたのはそれからだった。朝は未緒が自転車で徹の家まで誘いに来て、帰りは部活の時間を合わせて一緒に帰った。
 ふたりでいる時、大抵は徹の方がしゃべっていた。未緒は聞き上手で、いつも徹の話を楽しそうに聞いていた。夜には電話もかけあった。
「徹、藍原さんから電話」
 兄に呼ばれると、徹はいそいそと自室に向かって、くつろいでまた長々と電話をした。話は永遠に続きそうだった。
 学校では屋上が穴場だった。階段室の扉を出た裏側の、一箇所だけ張り出しているスペース。そこは建物の死角になっていてどこからも見られる心配がなかったので、ふたりはよく待ち合わせをした。
 狭い場所で肩を寄せあっていると、サラサラの髪からシャンプーの香りがする。思わず息をつめて黙り込むと、未緒もその沈黙に気づいて、ぎこちなく睫毛を伏せた。
 はじめてのキスまで、時間はかからなかった。
 徹も、未緒も、キスは経験していた。だから比較的冷静にいける…はずだった。
 それなのに、唇を合わせた瞬間、徹は何が何だかわからなくなった。世界中にこれほど尊くて柔らかいものはないような気がした。徹は無我夢中で未緒をぎゅっと抱きしめた。この腕の中の、小さくてふわふわした、マシュマロのように甘く切ない生きもの。
「…徹くん、痛い」
 遠慮がちに未緒にそう言われるまで、彼は全身の力で彼女を抱いていた。
 帰り道、徹はまだ夢の中にいるようで、地に足がつかなかった。



「ね、明日の日曜さ、うちに来ない?」
「え?」
 雨上がりの校舎の屋上で、徹は突然未緒に切り出す。
 何となく徹の唇に見とれていた未緒は、心中を見透かされたようで赤くなった。
「期末試験のヤマ当てしようよ。ほら、数学とか日本史とか、先生同じだろ?」
「うん」
「それにスペシャルで僕が料理の腕をふるってあげる」
「徹くんが?」
 未緒が大きな目を見開いて徹を見る。
「僕うまいんだぜ。まあそのへんのプロには負けないね。何でもオーダーしていいよ、未緒」
「うわあ」
 未緒は楽しそうな笑い声をあげた。





 その頃―
 峰岸潤一は金沢から京都に向かう列車の車中に身を預けていた。
 愛用のバイクをあきらめ、最初はヒッチハイクをしようと車を探したのだが、認識が甘かった。台風のまっただなか、しかもずぶぬれの彼を車にあげてやろうという親切なドライバーはいなかったのだ。
 結局ターミナルで3時間近くも待った後、とうとうあきらめて彼は駅に向かった。列車の旅は久しぶりだ。大勢の人間と一緒にいっせいに四角い箱に乗り込むと、自分が箱詰めにされてベルトコンベアーに乗せられる羊羹になったような変な気分だった。
 寝てても着くんだもんな…
 実際に、白昼から手持ちぶさたで寝ている客は多い。前の席の夫婦連れも、ひとつ隣の初老の男もみなこっくりと船を漕いでいる。斜め前のOL風の女だけがさっきからちらちらと彼を見ているが、特に彼の興味もひかない。車内の客と中吊り広告をひととおり見てしまうともう何もすることがなくなり、彼は窓の景色に目をやった。
 まだ風は強いが、雨はやみかけている。パシ、パシと窓ガラスを叩いて流れ落ちる雨粒が、やはり彼にはノックの音に聞こえる。


 バード、やっと出発できたよ。
 これから京都、静岡、鹿児島、鳥取の順にまわるつもりだ。つまり俺の高校時代の仲間がこの春あちこちの大学に散っていった先を、次々に襲おうっていうわけ。これなら宿泊費がいらないだろ?日本一周とまではいかないけど、まあ半周くらいにはなるしね。景色を見たいだけ見ておけよ、それとあいつらの顔もね。


 潤一はこれから訪ねる予定の顔たちを窓ガラスの向こうに思い浮かべる。しまりのないやつ、気どったやつ。人間よりも野菜に近いようなやつ。みんな酒盛りが好きで集まった仲間だった。高校時代、よるとさわると宴に走り、酒とエロゲーと紫煙に埋もれながら歯の裏をヤニで真っ黒にして、ぜいぜい息を吐きながらよたよたと校内マラソンの最下位集団を形成した連中だ。しかしその中心がガラパゴスだったのだから、彼には何も言えない。
 ガラパゴスでは、みんな酔っぱらって、よく告白大会になった。あの女この女と盛り上がったはずみで、俺は実はゲイなんだと彼がバラして自分で青くなったこともある。それでも、なんとなくうやむやにしながらも彼らは潤一を受け入れてくれた。高校の3年間、結局つきあえるような恋人は誰もできなかったけれど、まあまあ楽しく過ごせたのは彼らのおかげだと潤一は思う。
 窓の外は、いつのまにかとっぷりと日が暮れていた。
 夜の闇に、家々の灯が流れては去っていく。
「次は終点の京都です、京都」
 アナウンスが聞こえた。
 潤一は荷物を背に、勢いよく席を立った。





 くちなしの香りが居間にまで忍び寄ってくる。夜も11時をまわって風はようやく昼間の熱気から冷め、涼しげに皮膚を撫でながら甘い香りを運んだ。
 藤坂玲は居間の籐椅子に腰掛けて、パール・バックを読んでいた。
 色白で鼻筋のとおった横顔に、高校2年とは思えない大人びた風情が見える。仕事の忙しい両親に都心のマンション住まいをすすめ、この家で兄妹3人だけの暮らしを始めてからまる1年が過ぎていた。親がわりで弟妹の世話をしながら美大の受験準備をする高校生活も、自分なりのペースで楽しめるようになってきている。特に土曜の夜は翌朝の3人分の弁当の準備をしなくてもいいので、彼にとっては久しぶりにゆったりとした自分の時間が持てるのだった。
 夜風が冷たくなってきた。窓を閉めようと腰を浮かせた時、弟の徹が部屋に入ってくるのが見えた。
 よく日に焼けた健康そうな身体。近頃急に背が伸びた弟を、まぶしい思いで玲は見つめる。
 徹はあきらかに玲を意識しながら、何喰わぬ顔でソファに座って雑誌をパラパラとめくり始めた。玲もそしらぬ顔で窓を閉め、籐椅子に戻る。分厚い本を開きかけたところで、徹がたまりかねて声をかけた。
「あ、あのさ…葉子、もう寝たの?」
 とりあえず、妹の話題をふったようだ。
「ああ、明日朝早くから友だちと待ち合わせてるんだって。オハダに悪いからもう寝るって言ってたよ」
「そう、…じゃ、あの、玲は」
「何?」
「明日、どこかに出かける予定とか、ない?」
 玲は変な顔をした。
「特にないけど」
「ふうん」
 徹は、ちょっと黙った。明日は未緒を家に呼んでいるから、できれば家は無人の方がと思ったけど、まさか玲に出ていってくれとは言えない。
 まあ、未緒とふたりで自分の部屋にずっと閉じこもってしまえばいいか、と徹は思い直した。
「何かあるの?徹」
「いや。…そうだ、玲、ビーフストロガノフの作り方って、知ってる?」
「…知ってるけど」
 料理は玲の趣味だったし、「プロ顔負けの腕前」なのは実は玲のほうだった。
「今から教えてくれない?」
 玲はますます変な顔をした。
「いや、明日友だちが来るから、僕が作ろうかなあ、なんて」
「明日なら僕も家にいるから作ってあげるよ」
「いや、…」
 徹は口ごもった。それで玲には、わかってしまった。
「…藍原さん?」
 さりげない声だった。
「うん」
 みるみる徹の顔が赤くなるのを見て、玲はやれやれとため息をついた。
「何だ、最初からそう言えばいいのに。…じゃ、僕は明日はずっと離れのアトリエにいるから、母屋は好きに使えよ。…それから、ビーフストロガノフの作り方ね、レシピを書いて後で渡すから」
 そう言って玲は、サイドテーブルにあったテレビのリモコンに手を伸ばした。
「玲」
 徹が呼び止める。
「何?」
「……」
「まだ何かあるのか?」
「あの…」
 徹は迷っていた。でも、今気がついたのだからしょうがない。兄貴に借りるなんて、そりゃカッコ悪いけど、でも、他ならない玲だから…
「もし、持ってたらでいいんだけど」
「何を?」
「だから、その、…いざって時のために…」
 玲はいきなり、テレビのスイッチをつけた。
 激しいリズムで歌手が踊りながら歌っている。聞こえなかったのかと思って、徹は声を張り上げた。
「だから、コン―」
「わかった」
 玲はテレビの方をじっと向いていた。
「後でレシピと一緒に持っていくよ」
 そして彼の嫌いな歌手の大音量のワン・フレーズが終わってから、やっと徹の方をちらっと見て、軽く笑った。
「それで、使い方は説明しておかなくていいのか?」



 その日の深夜。
 徹たちの家から1キロほど離れた山裾の住宅街の一角に、遅くまでぽつんと灯のともっている家があった。
 大きな身体を折り曲げて熱心にスライドビューアをのぞき込んでいるのは、高校2年の松本登である。春に出品した写真部展用のフィルムの整理をしているのだった。
 ルーペを持つごつい手が、不意にとまる。生徒たちの登下校風景を流し撮りした中に、見慣れた白い顔が笑っていた。松本は食い入るようにその顔に見入る。
 コン、コン。
 突然背後の窓ガラスがノックされて、彼は振り向いた。
 音をたててカーテンを開ける。闇の中にほの白い顔が浮かび上がった。
「松さん」
「玲!」
 思わず顔に血がのぼるのが自分でもわかる。落ち着け、松本は自分を叱りつけた。
「どうした?」
「うん、…今、忙しい?」
「いや」
「ちょっと出られる?」遠慮がちな声。
 1分後に、松本は家を抜け出して深夜の路上に立っていた。



「鍵、どう?」
「ああ、バッチリだ」
 合鍵はいい出来だった。松本はあたりを見まわし、音をたてないように注意しながらスチールのドアをゆっくりと開けた。その後に玲が続く。
 人気のない夜の体育館。窓からの月光に照らされたプールの黒い水面がナイフのような光沢を帯びてふたりの足もとに横たわっている。
 玲が無言で服を脱ぎ始めた。Tシャツを脱ぎ、ジーパンを脱ぎ、ブリーフも脱いで松本の前で全裸になると、軽く手足を振っただけで、待ちかねたようにコースに飛び込む。派手な水しぶきがあがった。
 荒い泳ぎだ。フォームもペースもまるで無視して、水につかみかかるように無茶苦茶にとばしている。
 どうしたんだろう、松本はいぶかしんだ。
 彼らの通っているこの高校の塀の生け垣に、偶然抜け穴を発見したのは松本だった。彼はその穴を木の枝で隠して外から見えないように細工し、ついでに体育館の室内プールのドアの合鍵をつくった。深夜、見回りの絶えたこのプールに、これまでも数回、玲を誘って泳ぎに来ている。
 だが、今日のような彼を見るのははじめてだった。


 忘れたい、玲の中で声がする。
 徹のことを、忘れたい。
 徹の笑顔も、仕草も、声も、身体も、
 そのひとつひとつを思うだけで、全身が焦がれるように熱かった。
 ひとつ年下の、血の繋がらない弟に、
 なぜこんなにも惹かれるのか、どう考えてもわからない。
 わかるのはただ、自分がもう引き返せないところまできていること、
 そして、この恋は一生報われることがないのだという現実だった。


 わかっていたんだ、それははじめから。
 忘れられないと知った日から、なにもかもわかっていたはずだった。
 いくら自分が毎日徹のそばにいて、彼のために心をくだき、
 心を込めて世話をしても、いつか彼は離れていってしまうのだ。
 どこかの女の子に恋をして、交際して、結婚して、
 いつかもう見えないほど遠い場所に行ってしまうのだ。
 僕の気持ちなど気づかないまま。
 僕は知っている、それが彼の幸福だと。
 それを見守り、手助けすることが兄としての自分の役割だと。
 僕はそう言い聞かせて生きてきた。


 でも、
 その日がこんなに早く来るなんて、思ってもみなかった。
 徹があの唇で女の子とキスをし、あの腕の中に女の子を抱いて眠る日。
 僕の巣から飛び立っていってしまう日。
 それが、突然、明日だなんて。


 じゃあ、今日だけは許されるのだろうか、君の名前を呼ぶことが。
 この水の中でなら、僕は呼んでも許されるのだろうか。
 徹。
 徹。
 徹。
 玲は繰り返す。真っ黒い水。光の射さないプールの底にもぐって。
 徹。
 徹。
 徹…



 松本はタオルと飲みものを手に、玲が泳ぎ疲れるのをじっと待った。
 夜がしらじらと明けようとしていた。





「徹くん、すごい、美味しーい!」
 未緒がくりくりとした瞳をまんまるにして叫ぶ。
 徹のビーフストロガノフは大成功だった。スープとサラダ、サフランライスまで玲がていねいなレシピを書いて渡していたおかげで、未緒は何度も「美味しい」を連発し、徹は得意満面だった。
 いい雰囲気のまま、徹は未緒を自分の部屋に案内した。ベッドに並んで座り、お茶を飲み、未緒の好きなグループの新曲を聴いて、ごく自然に肩を抱いた。そっと唇を重ねる。
「ん…」
 女の子は、どこからこんな蜜のような声が出せるんだろう。徹はうっとりとして未緒の肩を抱いたまま、もう片方の手で彼女のさらさらとした髪を撫でた。未緒がためらいがちに徹に体重をあずける。ワンピースの薄い布ごしに、やわらかな胸のふくらみが徹の胸板に触れた。
(未緒)
 喉がからからに乾く。熱い溶岩が頭から脊髄を流れ落ちて、腰にどんどんたまっていく。おい、待てよという理性の声が頭の中で小さくかすんだ。
 徹はもどかしく未緒を抱きしめ、背にまわした手でワンピースのファスナーをおろした。素肌を指が這い、ブラジャーのフックの上でとまる。あっ、という声が小さく聞こえた時、指はフックをはずしていた。
 小麦色の背中に、ブラジャーの跡がくっきりと白い。未緒は身体をまるめて徹の首にかじりついた。その腕を片方ずつはがして、ワンピースを脱がせる。ストラップを腕から抜くと、果実のような乳房がこぼれた。
 未緒は真っ赤な顔をして、裸の胸を両腕で抱きかかえる。徹はやさしくキスをしながら、未緒をゆっくりとベッドに押し倒した。
「徹くん」
 未緒が目を見開いて徹を見る。おびえたまんまるい瞳が目の前にある。
 欲しい。
 我慢できない。
 煮えたぎった奔流が身体中に渦巻いて、出口を求めて猛り狂っている。このやわらかな肉の中に、僕の欲望を突き入れたい。僕がどれほど君を好きかを、この身のすべてでわからせたい。
 徹の手が未緒のスカートをひきおろそうとする。
「待って!」
 未緒が叫ぶ。
「待って、イヤだ」
 未緒の手が徹を阻止する。泣きそうに顔をゆがめて抵抗する。
「お願い…イヤ」
「どうして?」
「……」
「僕が嫌い?」
「……」
「好きだって言ったじゃないか」
「好きだけど、でも」
「でも、何?」
「でも…こんな、急に…」
「僕が嫌い?」
「嫌いじゃない、でも」
「信じられない?」
「でも」
「僕とこんなこと、したくない?」
「……」
「もう、好きじゃないの?」
 未緒の顔がぐしゃぐしゃにゆがんだ。
「ひどい、…ひどい、そんなこと言うなんて。知ってるくせに。…あたしがどんなに徹くんを好きかって、知ってるくせに」
 涙がぼろぼろと丸い頬をつたった。
「だって、怖いよ…あたしだって、はじめてなのに…怖いよ」
「未緒」
 徹は未緒のあごを持ち上げて、優しいキスをした。
 涙いっぱいの瞳に徹が映っている。
「僕が好き?」
 未緒がこっくりとうなずく。
「大丈夫だよ」
 徹はにっこり笑ってみせた。
「徹クンにまかせて」
 未緒は僕をじっと見上げ、ようやく泣き笑いのような顔になった。
「…徹くん、大好き」


 しかし、徹は内心冷や汗をかいていた。
 彼もはじめてだったのである。



 その日、徹が未緒を家まで送って自宅に戻った時は、もう夜の10時を過ぎていた。妹は帰っていてもう自室に引っ込み、居間には玲が座って、珍しくひとりでワインを飲んでいた。
「お・か・え・り」
 ソファに座り首だけねじって徹を見る。酔うほど飲んでいるのも珍しかった。
「お疲れさま。…で、役に立った?」
 ああ、コンドームのことを言っているのかと気づくまでに2、3秒かかった。
「うん」
 徹は玲の向かいのソファに腰をおろす。
「また、買って返すよ」
 一瞬、玲の顔に影がさした。
「いいよ、…それより」
 かたわらのグラスにワインを満たして、徹の前に置く。
「記念に一杯どう?」
「記念?」
「そう、オメデトウ、藤坂徹クン。今日君はめでたく第二のバースディを…」
「やめろよ」
 徹は乱暴に玲を遮った。
「照れなくてもいいじゃないか」
「やめろよ、そんなんじゃないんだ」
 胸が苦いものでいっぱいになる。玲は急に酔いが醒めたように、徹の顔をまじまじと見つめた。徹は下を向く。
「…使ったよ、そりゃ、貸してくれたコンドームは使ったけどさ、…かんじんの方は、うまくいかなかった」
 語尾は消え入りそうな声になる。
「未緒が、とにかく緊張しててさ。身体が石みたいに固いんだ。大丈夫だよって言ってもまだがたがた震えてて、せっかく胸にキスしても全然感じないんだ。乳首に触ったら痛いからイヤって言うし」
「……」
「何度も大丈夫だよって言って落ち着かせて、ゼンギっていうか、あそこもちゃんと時間かけて触って、コンドームも夕べ練習したとおりカンペキにつけて、さあ、いよいよだって思ったら、入らなくて」
「え?」
「いや、僕のはOKなんだ、そうじゃなくて、かんじんの場所が、なんだかぐにゃぐにゃしててややこしくて、どこがどこだかわからなくて」
「……」
「それで、悪いけど見てもいい?って未緒に訊いて、布団をまくってじっくり調べたんだけど、まだ確信が持てなかったから、本人に訊いたんだ。どこ?って。…そうしたら、わからないっていうんだ、よく知らない、見たことないからって」
「……」
「それで僕はとにかくやってみるしかないと思って、頑張ったんだけど…何度やってもうまく入らなくて、押し戻されるばっかりで。結局1時間以上も頑張ったけれど、だめだった。僕はへとへとに疲れて、未緒の方も仰向けに寝たままで、決まり悪くて…」
 徹はソファの背もたれにどさっと倒れ込んだ。
「最悪」
 玲はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「徹、君、藍原さんのこと、本当に好きなのか?」
「え、どうして?あたりまえだろ?」
 徹は失敬な、という顔をした。
「なんだか今の君の話聞いてると、やりたいばっかりに思えるけど」
「どうしてだよ。男が女とやりたいのはあたりまえじゃないか」
 玲はちょっと、黙った。
「そうじゃなくて。あの子は君のことを本当に好きなんだよ。だから一大決心をして、君に身体を全部預けたわけだろう?…君は、もう少し、君を好きな人間の気持ちを考えてやってもいいんじゃないか?」
「考えてるよ。だから僕は僕の愛情を示そうとして、ちゃんとセックスしようとしたんじゃないか。好きだから、セックスしたかったんじゃないか。無理矢理になんて、誰もやってないよ」
 玲は黙っていた。
「…ねえ、そんなことより、どうしてだと思う?やっぱり未緒がバージンだからだめなのかな、それとも僕が根本的にヘタなのか」
「知らないよ」
 玲はぴしゃりと言った。
「僕に訊くなんて筋違いだ」



 それからしばらく徹は憂鬱な日々を過ごした。
 日を追うにつれて、やっぱり敗因は、自分がヘタだったからじゃないかという気がしてきたのだ。ショックだった。もう一生、自分は童貞のままなのかもしれない。あれだけ頑張ってもだめだったのだから。
 げっそり落ち込んでいる徹を見て、玲もまた複雑だった。
 一時は突き放してしまったものの、このままでは徹が前に進めないのは目に見えている。泥の中でもがいているような徹を見るのが玲は辛かった。
「徹」
 数日後、玲は何気ない調子で徹に尋ねた。
「あれからどうだ?」
 徹が力なくかぶりを振ると、玲はためらいがちに言った。
「考えたんだけど、…角度じゃないか?」
「何?角度って」
「だから、…ジョイントの角度さ」



「玲!玲!」
 その夜遅く、居間の電話を取った玲の耳に、興奮した徹の声が飛び込んできた。
「玲!やったよ!遂に成功!」
「…成功?」
「未緒のことだよ、うまくいった!今、彼女の家から出てきたとこ」
 玲の目の前が、一瞬真っ白になった。
「玲の言ったとおりだった、びっくりするほどうまくいって、ふたりともポカンとしちゃってさ、えへへへ」
「…そう」
「ありがと、玲。君のおかげだよ!」
 君のおかげ。
 苦いものが喉をゆっくりと通りすぎる。
「でもさぁ、へへへ…。女の子って、こうだったのかあって、急に目の前がパーッと明るくなった気分。今までどう想像してもわからなかった部分が突然ぜーんぶクリアになってさ。達成感というか何というか、昨日までの自分がすごくガキに見えたりしてさー。玲、聞いてる?」
「うん」
 玲は微笑んだ。
「玲もさ、早く経験してみろよ。君は僕よりずっともてるんだから。いいよ、女の子って、最高だよ」
「そうだね」
 玲は目を閉じた。
「今からそっち帰って、また詳しーく教えてあげるからさ」
「覚悟して待ってるよ」
 陽気な笑い声がして、電話は切れた。
 玲はしばらくその場に立ちつくしていた。


 おめでとう、と言うべきだな、徹。
 おめでとう、玲はつぶやいた。


 徹は、行ってしまった。彼の世界へ。
 もうどんなに僕が呼んでも届かないのだ。
 玲は冷たいプールの底に置き忘れられた自分の死体を見たように思った。





「おう、ホントに潤一だよ、よく来たなあこんな遠くまで」
 京都、静岡と仲間の住処を渡り歩いて、今度は鹿児島だった。
 友人の中沢は鹿児島駅で潤一を迎えるなり、荷物を引き取ってさっさと歩き始める。
「話はあとだ、まずビール飲も、ビール」
 駅前のホテルの最上階のビアガーデンに潤一は連れ込まれた。
「ぷはぁーっ」
 口のまわりを泡だらけにしながらの再会である。
「それで、金沢はどう?おまえちょっと痩せた?あいつら元気だった?」
「そんなにいっぺんに答えられないよ」
 卒業して3カ月会わなかっただけなのに、10年も離れていたような気がする。環境が変わると、人間ってこうなるのか。
「何?何笑ってるんだ」
「いや別に」
 答えたとたん、ポケットで携帯が鳴った。
「…うん、…うん、大丈夫だよ、今鹿児島の中沢んとこだから。じゃ」
 少しきまり悪そうに携帯をしまう。
「親がうるさくてさ、1日1回はかけてくるんだ」
 中沢が眼鏡の奧で笑う。
「おまえんとこ、ひとり息子だからな」
「まあそれもあるんだけど…俺、先月まで病院に入院しててさ」
 中沢のジョッキを持つ手がとまった。
「肺炎だったんだ。それで退院したてだから今回の旅行も親が必要以上に心配してさ、説得するのに3時間かかったんだぜ、3時間。んで条件が、毎日家に連絡して無事を知らせること。それに、バイクも親父に止められてさ」
「それで大丈夫なのか?その、身体の方は」
 彼の声が真剣だった。
「ピンピンしてるよ。まあ薬はもらってるから飲んでるけど」
 潤一は青いプラスチックケースを出して見せた。中沢がちらっとそれを見る。
「…BIRD?」
 ケースの蓋の隅に、小さく書かれていた文字を彼はめざとく見つけた。
「ああ、まあ、俺のハンドルネームみたいなもの」
「へえ」
 中沢が何か言いかけた時、後ろのテーブルの客が彼の肩を遠慮がちにつついた。振り向いた彼に、短冊のぶらさがった笹の枝と真新しい短冊が渡される。
「何?それ」
 潤一が尋ねた。
「ああ、願い事を書くんじゃないのか?ほら、今日は七夕だから」
「あ、そうか」七夕か。
 中沢はすらすらと短冊に何かを書いて枝に結んだ。潤一もそれにならう。
「何書いた?」
「見るなよー」
 手を伸ばして笹の枝をもぎとろうとする中沢を振り切って、反対側のテーブルにそれをまわす。居合わせた客達も次々に短冊を結び始めた。女性グループの嬌声がひときわ高くなる。
「おまえさ、これから、どうするの」
 中沢がぽつんとつぶやいた。潤一がぎょっとした顔をする。
「あ、いや、俺んち泊まるのは全然かまわないんだけど、その後さ」
「ああ、鳥取の田所んちに行こうかと思ってる」
「田所か」
「あいつも見回ってやらないと餓死してそうで心配だしさ」
「言えてる、それ」
 ふたりは友人田所の昏倒している姿を同時に想像して、吹き出した。
 その時、何十というビアガーデンの提灯が、いっせいに消えた。
 7月7日、午後7時7分。
 鹿児島の夜空にミルキーウェイが輝いた。





 徹が最初にその噂を聞いたのは、夏休みが始まる2週間前だった。
 未緒が玲とふたりきりで、放課後の美術室にいたというのだ。
 徹は笑って、気にしなかった。玲はどこにいても目立つハンサムで秀才で、彼らの学校では有名人だったから、しょっちゅう話に尾ひれがつくのだ。ちょっと誰かと目が合ったというだけで騒がれるのにはもう慣れていた。
 ただ、その頃、徹は未緒と以前ほどひんぱんに会っていなかったのも事実だった。
 期末テストが終わり、生徒たちの関心は夏休み一色にかたまっていた。とりわけ未緒のクラスは担任が中心になってキャンプの計画が決まり、クラス委員の未緒はその準備に駆けまわっていて、徹と会える時間は少なくなっていた。たまに会える時間を有効に使おうと、徹はデートの場所を外ではなく彼の家にしようと提案し、そして、会えばやはりセックスをしようとした。セックスは、徹にとって、新しい扉を開けるようなものだったのだ。新鮮な感動と好奇心で、彼はその部屋をもっともっと探検したかった。
 未緒は面と向かってはそれに反対しなかったが、さりげなくデートの予定を延ばすようになった。徹はあまり深く考えなかった。つきあい始めた頃でもあるまいし、何よりも自分たちはお互いの身体を交わしあった仲なのだからと、安心していたのだ。
 しかし、休みを1週間後に控えた日、陸上部の部室で、徹は仲間のひとりからまた耳打ちをされた。
「俺、きのう駅前のマクドナルド行ったらさ、向かいの画材店でおまえの兄貴と藍原がいるのを見ちゃったんだよ。それがなんだか変なムードでさあ、おまえの兄貴が黙って棚を見ている横に、藍原がじっと寄り添ってあの人を見つめてるんだ。おい、徹、絶対あれは怪しいって。おまえ、はっきり確かめた方がいいぞ」
 徹はその夜、玲に訊いてみた。
「画材店?ああ、いたよ」
 玲はこともなげに答えた。
「店で偶然藍原さんに会ったんだ。彼女、選択科目が美術なんだってね。夏休みの課題に油絵をやるから、筆の選び方を教えてほしいって頼まれて、一緒に見てたんだ」
 それが何?と目で訊いてくる。
 徹は黙って席を立とうとした。
「徹」
 玲が呼びとめる。
「そういえば最近、藍原さんはあまり家にこないようだけど、外で会ってるのか?」
「……」
「映画にくらい誘わないと、逃げられるぞ」
「うるさいな」
 徹はそう言い捨てて、自室に向かった。



 困ったな。玲は胸の中でつぶやいた。
 未緒と偶然画材店で会ったのは本当だ。しかしその後、未緒は是非聞いてもらいたい話があるからと、玲を喫茶店に誘ったのだった。
(徹くんがわからなくなったんです)
 徹に会うのが怖いのだと言う。どうしていいかわからないと。
 玲は驚いて、脈絡なく広がる未緒の言葉を根気よく聞き出した。
(徹くん、以前はあんなにやさしくてあたしの話もきいてくれたのに、最近ではなんだかぶっきらぼうで冷たくて、デートの時も自分のしたいことばかりなんです…)
 したいこと、というのはつまりセックスのことらしかった。
(でもあたしも断れないからついずるずるとそうなってしまって、後でものすごく後悔するんです。こんなつきあいでいいのかなって。やっぱり、一度そうなっちゃうと、もう戻れないんでしょうか。男の子って、ソレばっかりになっちゃうんでしょうか)
 徹は今は、好きな女の子とやっとそうなれて、舞い上がってるんだと思うよ、と玲は答えた。嬉しくてたまらないんだよ、彼は。
(そうでしょうか?誰でもいいんじゃなくて…)
(徹がそんなに軽い男だと思う?)
 未緒はかぶりを振った。玲は微笑する。
(だろう?…まあ多少調子のいいところはあるけど、好きな子に対しては誠実な人間だと思うよ、僕は)
 未緒はじっと玲の顔を見ている。
(藍原さん)
(はい)
(彼のこと、長い目で見てやってくれない?そりゃ君から見たらいろいろあるかもしれないけど、彼はいいやつだよ)
(ええ、それは…わかってます)
(だから、藍原さんも自信もっていいと僕は思うけど)
 未緒の頬が紅潮した。
 結局2時間あまりも話し込んで、未緒は何とか落ち着いたようだった。
(すみません。なんだか自分ひとりでしゃべっちゃって恥ずかしいです)
 喫茶店の前で、未緒は頭をさげた。
(あたし、誰にも相談できる人がいなくて)
(僕で良ければ、いつでも)
 玲は微笑んだ。未緒もにこっと照れくさそうに笑って、まだ暑さの残る鋪道を自転車に乗って遠ざかっていった。
 それが昨日の話である。



「映画にくらい誘わないと、逃げられるぞ」
 玲に言われて、徹は自室から未緒に電話をかけた。 
 未緒は出なかった。明らかに避けている様子だ。
 徹は胸に暗雲がたれこめているような、嫌な気分だった。
 改めて思い返してみると、もう随分、ちゃんとした話をしていない。そういえば最後にデートしたのは、僕の部屋で、ベッドの中で…。帰り際にも、話らしい話をしなかった。つきあい始めた頃に、毎晩あれほど長電話をしていたことが夢のようだ。家まで送っていった時、未緒はどんな顔をしていただろう?
 思い出せない。徹はあせった。
 学校で未緒をつかまえようとしたが、そんな時に限っていつも行き違いになる。夏休み前の短縮授業で学校全体が短距離ランナーのように全速で走っていた。
 そのまま、夏休みに突入した。
 あいかわらず、未緒との連絡はつかない。ただひとつの救いは、休みが始まってすぐに、陸上部の合同合宿があることだった。
 鳥取市内で1週間。昼間はスケジュールがびっしりだが、夜には自由時間がある。きっと話し合えるチャンスがあるはずだと徹は思った。
 7月下旬、N高校男女陸上部員を乗せた2台のバスは神戸から鳥取に向かって出発した。





 飲み過ぎるんじゃなかった。
 潤一は生まれてから何十回も繰り返した後悔を、また繰り返していた。
 JR鳥取駅の正面に、彼はへたりこんでいる。
 酒好きの友人たちに毎晩のように歓待されたおかげで、鹿児島の中沢の住処を出た頃はまだまっすぐ歩けた身体が、鳥取の田所の宿を辞した時には頭の先から爪先まで、文字どおり酒浸りになっていた。首を振ると耳からぴゅっと出そうなくらいだ。
 さすがに、宿酔がひどい。身体中がぷんぷん匂う。
 これから、どうしよう。
 潤一は駅前広場のベンチに座って考え込んだ。
 旅を始めてからもう1カ月になる。会いたかった人間にも会えた。もう心残りはない。だが、何かをし残したような気がしてならないのも事実だった。
 それは何なのだろう。
 よく晴れた日だった。見上げると天空を鳥の影が横切っていく。
 潤一はその影に吸い寄せられるように、ふらふらと腰をあげた。





 鳥取市内、H温泉。
 合宿2日目の夕食後に、徹は未緒を呼び出すことに成功した。
 約束の時間―
 未緒はためらいがちに、喫茶店の扉から顔を覗かせた。
 そのままゆっくりと徹の方に歩いてくる。正面から彼女を見つめるのは何日ぶりだろう。Tシャツにワークパンツという見慣れた格好なのに、急に綺麗になったように見えた。
 席について、にっこりと笑う。
「久しぶりね、徹くん」
 徹は気圧された。こんな声をしていただろうか?
「…どうしたの?そんなに見て」
 未緒ははにかんだ。その表情。
 徹は混乱した。
 目の前にいるこの女性が、本当に、僕の知っている、あの未緒なのだろうか。校舎の屋上ではしゃぎながらキスをし、震えながら僕に抱かれたあの可愛い女の子なのだろうか。
 季節が真夏へと傾斜する、たった2週間の間に…
 さなぎが蝶になるように、未緒は、ひとりの女になっていた。


 話すことは、もう何もなくなってしまったのだと、徹は悟った。
 未緒と会えたら、あれも訊こう、これも話そうと思っていたすべてのことは、もう遅かったのだ。
「徹くん」
 未緒が憂いを含んだ目で徹を見る。
「あの、私たちのことね…」
「何?」
 徹は笑顔をつくる。
「あの、…悪いと思うんだけど…」
「好きなやつができた?」
 未緒が一瞬、ぴくっと震える。
「…うん…」
 蚊の鳴くような声だった。徹は彼女が可哀想になった。
 僕にそんなに気を使わなくてもいいのに。君を放っておいたのは僕の方なんだから。僕が安心しきってたのがいけなかったんだから…
 徹はかつての恋人を、つぶさに眺めた。
 君をこんなに綺麗にしたのは、新しい恋人なんだろう。
 僕ではなかった。


「じゃ、…ね」
「うん、記録会、頑張ろうな」
 未緒は手を振った。髪がサラサラと揺れる。そういえば、あの誕生日の日にあごのラインでぷっつりと切られていた髪は、今、肩の少し上まで伸びていた。その数センチが、彼と彼女との時間のすべてだった。



 その日、徹はひとりでゲームセンターをうろついて、門限ギリギリに宿舎にたどり着いた。消灯時間になっても目が冴えて眠れない。こっそりと部屋を出て、廊下の隅で家に電話をかけた。
 玲の声が聞きたかった。
「なんだ、もう振られたのか?」と、笑いとばしてほしかった。
「だから僕が言っただろ?」と、説教をされてみたかった。
 何でもいい、玲の声が聞きたかった。
 軽い呼び出し音。
 電話がすぐに向こうにつながった…と思うと、突然、甲高い声が徹の耳を直撃した。
「もう、いい加減にしてよ!何回も、何回も!兄さんが迷惑してるってこと、あなたわかんないの?最低!」
 妹の葉子だった。



「おい、葉子か?」
 徹の声で、受話器の向こうがぴたっと静まった。
「葉子だろ?」
「…徹だったの…」
「何だ?今のは。玲に何かあったのか?迷惑って、何のことだ?」
「……」
「葉子っ!」
「…うるさいなあ、怒鳴らなくても聞こえるわよ」
「じゃ、説明しろよ。誰かから電話がかかってきてるのか?」
 こんな時間に。
「…うん、…ここんとこ毎日ね。それも、兄さんはいないって言うと、またすぐおいおい泣きながらかけてきたりして、もう、たまんないのよ。兄さんだって、ホント参ってるんだから、いい加減にしてほしいわ。あのね、徹」
「……」
「兄さんは徹には言うなって言ってたけど、あたし、もう我慢できない。しつこいにも限度ってものがあるわよ。徹からも言ってやってよ。徹の友だちでしょ?藍原さんって」
 藍原さん?
「聞いてるの?徹」
 藍原さんって。藍原さんって。藍原さんって…。
 葉子の声が、真っ白な頭の中で反響した。
「ねえ、徹ったら、…あっ!」
 馬鹿!と叫ぶ声が遠くに聞こえた。すぐ、明瞭な声にかわる。
「徹」
 玲。
「徹、…僕だ」
「聞いてるよ」
「……」
 玲が言葉を探しているのがわかる。
「玲」
「……」
「さっき葉子が言ってたこと、本当?」
「……」
「未緒が君に電話をしてきてたって、…毎日、何回も」
「……」
「いつから?」
「徹」
「未緒とつきあってたのは、いつから?あの…画材屋で一緒にいた時に、もう…」
「違う」
「……」
「違う、徹」
「いいよ、もう。…今日、別れたんだ、僕たち」
「……」
「未緒、好きな人ができたって。…ものすごく綺麗になっててさ」
 艶やかな瞳、しっとりとした肌。僕は女の子があんなに綺麗になるもんだって、知らなかった。
「君だったんだ」
「違う」
「違わないよ。…いいよ。僕は。ほかの変なやつより、君なら。やせ我慢じゃないよ、本当だ」
「違うよ、誤解しないでくれ。君に誤解されたくない」
「……」
「僕と藍原さんは、つきあってなんかいない。僕は君の彼女なんか取らない。僕はそんな人間じゃない」
「……」
「徹」
「…未緒は君に、好きだって言ったの」
「……」
「言ったの?玲」
「…言ったよ。電話でだけど」
 喉に苦いものをぐいと突っ込まれたような衝撃があった。今の今まで、それだけは信じたくないと思っていたのだった。
 徹は必死で言葉を絞り出す。
「それで、君は?君の方は…」
「徹」
 玲が遮った。
「僕の気持ちはさっき言った。僕は君の彼女なんか取らない」
「…でも、今はもう彼女じゃないよ。だったら考えてやってもいいんじゃないか?未緒が君のことをそんなに好きなら」
 あんなに変わってしまうくらい好きなんだったら。
「何言ってるんだ、正気か?徹」
「正気だよ。だって君は、今つきあってる子、いないだろう?だったら…」
 徹は未緒が泣いているというのが可哀想だったのだ。彼女の願いをかなえてやりたかった。それくらい未緒が好きだった。
「頼むよ、未緒はいい子だ、世界一いい子なんだ、僕が保証する、玲」
 電話の向こうが石のように沈黙した。
 徹は受話器を握り直す。
「玲」
「……」
「玲、聞こえてる?」
「聞こえてるよ」
 徹は不安になった。
「玲、…君、誰か好きな子がいるの?」
 返事がない。
「玲」
 言葉がブラックホールに吸い込まれていくようだ。
 徹の胸に真っ黒な雲が湧いてくる。
 玲は誰かを好きなのだろうか。
 僕に黙って、僕に隠して、誰かに恋をしているのだろうか。
 僕に何も言ってはくれない。
 僕は何でも話してきたのに。
「…言えないんだね」
「……」
「僕には言わないんだ、君は、何も」
 不意に、悲しみが冷たい風のように徹の背筋を吹き抜ける。
 僕は玲を信じていたのだ。
 未緒と別れたことだって、玲に何もかも聞いてもらいたくてこうやって電話をかけたのだ。玲ならわかってくれると思っていたから。
 でも玲は、未緒とのことを、僕にずっと隠し続けていた。
 僕に隠して、葉子にも口止めをして、知らん顔をして僕と毎日顔を合わせていた。玲は学校では冷たくて近寄りがたいってみんなに思われていたけど、僕には、僕だけには違うんだって思っていた。それなのに、いつもの顔で、ポーカーフェイスで、ずっと僕をだましていた。
 僕は、玲を、信じていたのに。
 玲とだけは、信じあえていると思ってきたのに。


 気がついたら、徹は立ったまま泣いていた。
 受話器を握りしめた手にぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
 この真夜中の、薄暗い宿舎の廊下の隅で、彼はたったひとりだった。
 未緒からも、玲からも、自分は不必要な人間なのだ。
 そう宣告されたような気がした。


 徹は電話を切った。直前に玲が何か叫んでいるのが聞こえた。
 その声は遠いこだまのように彼の鼓膜の奥でいつまでも鳴っていた。


 ・・・・・・・・・・・



 翌朝。
 玲は一睡もできずに朝を待って鳥取に電話をかけたが、徹の声を聞くことはついにできなかった。
 徹の姿はその夜かぎりで宿舎から消えていたのだ。
 合宿所は大騒ぎだった。徹の友人、知人、近くのホテルや旅館など、考えられるところは片っ端から調べられたが、彼は見つからなかった。
 玲は頭をかかえた。
 どうしたらいい、徹。
 僕は、どうしたらいい。
 言葉はぱらぱらと砕けて空しく消えていくだけだった。




10


 鳥取砂丘―
 目にしみるような青い海原が、風紋の丘の向こうに広がっている。
 砂浜から遠く砂丘の頂を隔てた松林に、カラフルなドーム型のテントがいくつか点在していた。その海よりの一番端が、潤一のテントだ。
 溝を掘ったりロープを張ったりと、もっと大変なのかと思っていたら、彼のテントはあっけないほど簡単に建ってしまった。あまった時間に珈琲をいれ、ライ麦パンにオイル・サーディンを乗せて遅い昼食にする。ウォークマンを聴きながら夏の陽が徐々に傾いていくのを眺めていると、宿酔の濁った頭を、潮風がすうっと冷ましていくような気がした。
 来て良かった。
 誰にともなく、つい言葉が漏れる。
 来て良かったよ、バード。
 腕時計に目をやると、ちょうど6時だった。彼は携帯に手を伸ばす。
 1度鳴らすか鳴らさないかで、すぐに相手が出た。
「潤一?」
「うん。まだ、鳥取。変わりないから」
「じゃ、田所さんのお宅なのね?あんまりお酒飲んじゃだめよ、早く寝るのよ」
「うん、わかってる」
「暑くてもクーラーで冷やしすぎちゃだめよ」
「わかってるって。じゃ、また明日電話するから」
 家への定期連絡だった。心配性の母親。まあ、しょうがないかな、と彼はひとりごちる。
(嫌ああーーー!)
 出発の時に泣き叫んで腰にすがりついてきた母の声が、まだ耳の奥に残っていた。胸が痛い。
 潤一はゆっくりと頭を振りながら、砂丘を歩き始めた。
 砂に足を取られながら急な傾斜を登り終え、頂に立った瞬間、彼は声をあげそうになった。
 黄金の落日に染まった海が、眼下に横たわっている。ゆったりとおおらかで、包み込まれるような母性的な海だ。ジョコンダのまなざしを、ふと思い浮かべる。夢見るような不可思議な微笑…
 彼は吸い込まれるように海岸に降りていくと、服のままじゃぶじゃぶと海中に身を沈めた。
 …ああ、海は久しぶりだ。
 今年、泳げるとは思わなかった。
 冷たい水が毛穴のひとつひとつにじんわりと入ってくる。目を閉じて頭をつけると、砂浜の喧噪が別世界のように遠ざかった。
 彼は泳ぎ始めた。
 鼻につんとくる潮の香り。腕が水をかき、脚が水を叩く。向かってくる波が彼の身体をぶんぶんと上下に揺らす。進もうとして押し戻され、隙をみて全速で前に向かって進む。
 …おいで。
 ひんやりと心地よい遠くの水が俺を呼んでいる。
 …おいで、潤一。
 そうだ、波なんかに負けない。波なんかに俺を自由にさせてたまるか。
 …おいで。おいで、潤一。
 あの水の呼ぶところまで、あの海の青の生まれるところまで…
 逃げながら俺を引き寄せ、拒みながら俺を誘う甘い声。
 バード、そこにいたのか。
 そこにいたのはおまえなのか?
 俺の目の前ににっこりと微笑む顔。
 意識が遠ざかる。


(嫌ああああああーーーーー!)
 脳味噌を切り裂くような叫び声で、彼は覚醒した。
 ここはどこだ?…俺は何をやってるんだ?
 頭がまっしろになった、その時―
 巨大な波が、あっと言う間に彼を真正面から飲み込んだ。
 潤一は水の拳にたたきつけられるように、海中に沈んだ。




11


 僕は、待っている。暗くて寒い、廊下の隅だ。
 どこの廊下かは、わからない。もうずっと昔から、こうして待っているような気がする。
 すぐ前に、四角いドアがある。不意に、ドアの上のランプが消える。
 父が、母が、妹がいっせいに立ち上がる。
 ドアが開いて、手術着を来た医者がうつむいている。
 うわわわああああああ、僕が叫ぶ。
 何も聞かないうちから、なぜか自分にはわかっているのだ。
 聞きたくない、何も聞きたくない。
 なぜだ、なぜ玲が死ぬんだ。
 なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。
 声だけがわんわんとがらんどうの頭蓋骨の中を反響する。


 気がつくと、僕は病院の裏庭に出ている。庭はなだらかな山に続き、緑が生い茂っている、陽は明るく、あちこちで鳥のさえずりが聞こえる。
 目の前の渓流に、何かが流れてくる。
 花だ。たくさんの白や青紫の小さな花がきらきらと光る水面に見え隠れしながら、速い流れに身をまかせて視界を通り過ぎる。その後から…
 大きな木の箱が流れてくる。彫刻を施された蓋つきの箱。
 僕は水に入って手を伸ばす。でも川底が深くて届かない。手の50センチ先を歌うようになめらかに箱が泳いでいく。
「玲!」
 僕は追いかける。腰まで水中に浸かり、必死で箱を追いかける。
 箱はどんどん遠ざかる。澄んだ流れの中を、下流めざして。
 玲、行くな、行くな、玲。
 僕は叫ぶ。でも届かない。
 足が重くてもう走れない。
 もう走れない、玲、もう走れないよ…


「玲!」
 徹は自分の叫び声で飛び起きた。
 全身に汗をかいている。
 ああ、夢か…と思ってはみても、まだ胸の動悸がおさまらない。
 海岸で寝込んでしまったのがいけなかったのかもしれない。
 顔を洗おうと波打ち際に入った徹の足が、そこで止まった。
 波間に見え隠れしている人間の頭。白いシャツ。
 夢の中で流されていく玲の棺…
 次の瞬間、彼は沖に向かって全速力で駆け出していた。




12


「おい、しっかりしろ!」
 耳もとで誰かが叫んでいる。
「しっかりしろ、わかるか?」
 五体が水びたしになった雑巾のように重たい。頭が痺れ、腹が破裂しそうだ。一歩一歩、砂にめり込むように足を踏み出しながら、見知らぬ男の肩につかまって、潤一はからくも歩いていた。
「もうすぐだからな」
 目立たない浜辺の建物の陰に寝かされて、濁った海水を大量に吐く。まだ頭の芯がじくじくと痛んだ。
 男は潤一をそこに待たせ、水筒を手に戻ってくる。うがいをするために抱き起こされてはじめて、潤一は自分を助けた相手を真正面から見た。
 力強い腕の感触からてっきり大人の男だと思っていたが、顔つきはまだ少年っぽい。よく日に焼けた褐色の肌に、きりりとした精悍な太い眉。
「大丈夫か?」
 ぐっと覗き込んだ瞳が黒曜石のように澄んでいる。思わず息をのんだ潤一を見て、相手は脅かしてしまったと思ったらしい。照れたように笑って、水筒の蓋を彼に渡した。
「これでうがいして」
 言われたままにガラガラと何度も喉を鳴らしながら、潤一は彼の姿を盗み見る。濡れたTシャツを脱いでタオルで髪と身体を拭いている彼。薄く筋肉のついたしなやかな身体。小さく締まった尻。
「どう?」
 そう訊かれてはじめて、胸のむかつきがおさまっているのに気づいた。
 相手がにこっと笑う。
「これ、タオル。服、ずぶ濡れだね、ジャージでよかったらあるけど」
「あ、いや、着替えならテントにあるから」
 相手は屈託なく笑った。
「じゃ」とその場を立ち去りかける。
「あ、タオル」
 潤一はあわててその後ろ姿にタオルを投げた。彼がポンと片手で受ける。
「サンキュ」
 そう言って、夕闇に染まった海岸を遠ざかっていく。
 潤一が礼を言うのを忘れていたことに気づいたのは、しばらくたってからだった。



 カッコ悪かったよなあ、どう考えても。
 あくる日の早朝、テントの中で目覚めたまま、大の字になって潤一は考え込んでいた。
 助けられたというのもカッコ悪いが、溺れかけたというのも、もっとショックだ。あの時、自分はいったい何を考えていたんだろう。思いだそうとしてもよく思い出せなかった。
 そのせいか、昨夜はなかなか寝つけなかった。頭が重い。考えてみればまだ宿酔も完全に抜けきっていないのだった。脳味噌のかわりに泥が詰まっているようでじくじくと不快だ。
 痛む頭を押さえながら、それでも朝食用の湯を沸かさなくちゃとテントの外へ這いずり出る。砂丘に風が出てきたのか、バーナーの着火も悪い。何度もカチカチと点火した後、やっと火がつくありさまだった。
 とりあえず、珈琲用の鍋をかける。
 ぷつぷつ、ぷつぷつ。
 湯の表面に泡ができていくのを見るとはなしに見ていた時―
 不意に、頭の上でザザッと音がした。
 顔をあげて松の枝を見た瞬間、突風が足もとに吹き上がった。
「あっ!」
 バサッという音とともに目の前のテントが吹き飛ばされ、松の木の間を紙風船のように転がっていく。大変だ。松林の向こうは砂丘で、その先は道路だった。そこまで飛んでしまったら―
 潤一は必死でテントを追いかけた。足が砂にめり込んで走りにくい。朝の透明な光の中を、緑とベージュのツートンカラーの紙風船が鬼ごっこのようにふわふわと逃げた。
 何度か転びそうになりながら潤一がやっと追いついた時、紙風船は道路の一歩手前の砂の上に妙な角度で止まっていた。しっかりと手でつかんでから、思わずぜいぜいと息をつく。
「大丈夫?」
 ツートンカラーの布の背後から、聞き覚えのある声がした。
「あ!」
「あれっ?」
 ふたりは同時に叫んだ。




13


「よく会うね」
 海岸で潤一を助けた相手は、白い歯をみせて笑った。
 潤一もきまり悪げな微笑を返す。よく見ると相手の左手は潤一のテントのフレームをがっしりとつかみ、足もとには巨大なスポーツバッグがテントの行く手を阻んでいるのだった。
「あ、ありがとう。君が止めてくれたんだ」
「いや、歩いてたらちょうど僕のほうに転がってきたから」
 まだ風は吹いている。砂が目に入るのか、彼はちょっと眉をしかめた。
「けっこう風、強いみたいだね、ここ」
「うん。こんなによく転がるとは思わなかった」
 潤一は苦笑してみせた。
 彼もつられて笑みを浮かべながら、ふと、潤一の背後に目をやる。
「あそこにあったの?」
 潤一も振り返った。サーモン・ピンクの朝陽をバックにして、松林に点々と半円形のシルエットが浮かんでいる。どうやら、飛ばされたのは潤一のテントだけらしかった。
 彼は少し黙り込んだ。
「…じゃ、ほんとに、どうもありがとう。昨日海でも、それから今も」
 潤一はもう一度彼に礼を言い、今度こそ逃がさないように両手をテントのフレームにくいこませて、松林に引き返そうとした。
「…あの」
「え?」
「同じとこにまたセッティングするの?」
 潤一は面食らった。
「うん。あそこしか、空いてないしさ」
 それに景色も良くて気に入ってるし。
 彼はにこっと笑った。
「じゃ、手伝うよ」
「え」
 潤一の返事を待たずに、彼はスポーツバッグをひょいと肩にかけ、もう片方の腕でテントを担ぎ上げると、どんどん先に歩き始める。
 潤一はあわててその後を追った。



 なるほど。
 もとの松林に着いて、潤一はようやく彼の行動が理解できた。
 この風の中でテントがずれないように押さえながら、同時に固定のペグをひとりで打ち込んでいくのはかなりむずかしい。
 それに地面はさらさらした砂地だったので、普通のペグが効かないのだ。潤一が最初に埋め込んだ分はすぐに抜けたらしく、あちこちに散乱していた。
 彼はビニール袋にあたりの砂をぎっしり詰め、それをそれぞれのペグのウエイトにして地中深くしっかりと埋め込んでいく。風向きを見て、テントの入り口の方角も変えた。
「なるほどね」
 自分ひとりでやっていたら、潤一のテントは何度でも砂丘の上をころころと転がっていただろう。
 設営が全部終わった頃には陽は完全に昇り、いつもの暑い夏の1日が始まろうとしていた。風もやわらいでいる。
 あちこちのテントから美味しそうな朝餉の香りが漂ってきた。
「はい」
 潤一はアルミのカップに珈琲をついで彼にすすめる。
「ほんとに助かったよ。実は俺、テント張るの生まれてはじめてでさ」
「僕も最近はあんまり張ったことなかったんだけど、小さい時に父さんによく連れてってもらったんで、それ思い出して見よう見まねで」
「へえ」
「それに、海岸でテント張ってて風で飛ばされたこともあったから」
「君も?」
「うん。はーって見てるうちに波にさらわれちゃって、バカモンて父さんにはり倒されて」
 笑いが弾けた。
 朝の光の中で見ると、笑顔がひとなつっこくて可愛い。
 何ていう名前だろう。訊いたら教えてくれるだろうか。
 潤一は柄にもなく逡巡する。
「君は、あの…この近くに住んでるの?」
「青空キャンパー」
「え?」
「…なんて。そこの海岸で野宿してるんだ」
「ひとりで?」
「ああ」
 珍しいな、と潤一が言いかけた時だった。
「あの」
 彼がにこっと笑う。
「え」
「どうもごちそうさま」
 彼はぺこっと頭をさげて、立ち上がった。
「珈琲、美味しかった」
 屈託なく笑ってテントから少し離れ、潤一に背を向けたかと思うと、太陽に向かってうーんと伸びをする。
 朝陽に純白のTシャツがまぶしい。伸びやかな肢体に、潤一はふと目眩を覚えた。



 その日は午後になってから、砂丘の空に厚い雲が現れた。
 潤一は遅い昼食の後でいつもの錠剤を飲み、テントの中でしばらく横になって休んでいた。宿酔はどうやら抜けたようだが、まだ身体にだるさが残っている。
 寝てしまおうかな…とろとろとまどろみかけた時だった。
「あの…」
 突然、入り口から男の顔がにゅっと覗いた。
「わっ!」
 心臓が止まりそうになって潤一は起きあがり、ずるずるとテントの中を後ずさった。
 朝、別れた彼だった。


「テントの調子、どう?風で揺れたりしない?」
 彼は悪びれない態度で、潤一に笑いかける。
「あ、うん、全然大丈夫だ」
「そうか、よかった。…あのさ、雨が降りそうなんで、もしタープが余ってたら貸してもらえないかと思って」
「タープ?」
「1枚ものの防水シートで…」
 ああ、確かテントと一緒に買ったやつだ。潤一はテントの中をごそごそひっかきまわして、バッグごと彼に渡した。
 外に出て見ていると、テントから少し離れた地面にポールを立て、ロープを張り、ペグを打って、ナイロンの布をピンと張り始める。要は即席の布の屋根をつくろうというのだった。
 彼は器用な手つきで次々とロープを張っていく。見る見るうちに六角形の見事な屋根ができあがった。と思ったら、間髪を入れずにパラパラと弾むような音がする。
 雨だ。
 ふたりは一緒にタープの中に飛び込んだ。あっという間に頭の上で、大粒の雨がシャワーのようにナイロンの布を叩く。
 彼が潤一の方を向いて、何か言った。
 潤一が「え?」と訊き返す。
 彼が手でメガホンをつくって、思いきり叫ぶ。
「そ・っ・ち・は・濡・れ・る・よ!」
 潤一は彼のすぐ横にぴったりと身を寄せた。
 目の前では真っ白な飛沫をあげてスコールが地面を叩いている。視界がけぶって、何も見えない。
「…すごいな」
 彼がちらっと潤一を見た。 
 鮮やかなグリーンの布を透かして、どちらの顔も緑色に染まっている。
 変な顔。
 ふたりはいっせいに吹き出した。


「僕、藤坂徹、高1」
 彼はそう名乗った。
「俺は峰岸潤一、K大1年」
 潤一も自己紹介した
「な、俺のテントに来ない?この雨だったら海岸もしばらくびしょびしょだろ、青空キャンプよりいいんじゃない?」
「そうだなあ」
 徹はちょっと考えるふりをした。
「来てやるかな。またテントが風で飛ばされたら大変だしな」
「何だよこいつ」
 潤一が徹に軽くつかみかかる。
「ごめん、ごめん、だって峰岸さん、何かほっとけないし」
「それが余計だっつーの!」
「だから、ごめんって」
 徹は笑いながら抵抗する。
「あのな、それから、峰岸さん、はいいから。潤一でいいよ。タメ口も特別に許す」
「そうこなくっちゃ」
「なーまーいーき!」
 潤一が睨むと、徹は思いきり声をあげて笑い始めた。




14


 紺碧の空の端に緑やピンクのハングライダーが軽やかに風に舞っている。テント前の、門柱にしたてられた曲がり松にはレインボー・フラッグがパタパタと音をたてていた。
「おーい、潤一ぃー」
 砂丘の向こうから徹が手を振る。
「遅いぞー、徹」
 潤一が怒鳴り返す。
「メシが冷めちまったぞー」
「えー、なーにー?」
 炎天下を真っ黒な身体が潤一に向かって駆けてくる。
 門の前で「ただいまぁ」とおどけて声を張り上げる。
「ったく、おまえに買い出しを頼むとどうしてそう遅くなるんだよ」
 潤一は年上の権威をかざしてぶつぶつと文句を言う。
「今日なーに、今日の昼飯。…あ、トマトの匂いだ。シチューつくったの?」
「遅いから喰っちまったよ」
「え、残念。じゃ、ビールも飲まないのかあー」
 徹は紙袋から潤一の好きな銘柄のビールを出してひらひらと見せびらかす。潤一はぐっと返事につまった。


 ふたりがここでキャンプを始めてから6日。
 夜はテントの中で並んで眠り、昼はタープの日除けの下を「リビング」にして過ごす日々が続いていた。
 徹は人なつっこい男だった。いかにも体育会系らしく、物おじはしないが年上にはきちんと気を使う。キャンプのことにも詳しいし、買い出しも率先して彼が行った。でも潤一が一番気に入ったのは、徹が相手に余計な詮索をいっさいしないことだった。そのかわり、徹自身のこともあまり話さない。話したくないのだろうと思って、潤一の方も何も訊かない。ふたりは何となくお互いにほっとしたものを感じながら、日々の食事と明日の天候と、ラジオから流れる音楽とスポーツニュースの話題だけで、毎日、毎日、他愛のない冗談を言って笑い転げた。



「なあ、潤一、潤一ってば」
「え、何」
 潤一は我に返る。
「またぼーっとして。話、聞いてた?」
「聞いてたよ」
 潤一は語尾に力を入れる。
「じゃ、アクアブルーとエメラルドグリーン、どっちにする?」
 …何の話だっけ。
 潤一が目を白黒させていると、徹がにこっと笑ってデパートの包みを開けた。
「買い出しのついでに寄ってきたんだ、一緒に泳ごうと思ってさ。あ、大丈夫、僕教えるの得意だから」
「泳げるよ俺だって」
 潤一は水着をひったくった。



「うわーおーーーっ」
 ふたりは海パン1枚の姿で目をまるくしている砂丘の観光客たちの間を走り抜け、砂の山の頂上から一気に海岸の波打ち際まで駆け下りて、そのまま海に飛び込んだ。
「ひゃー」
 水しぶきをかけあいながら抜き手を切って、競争で泳ぎ出す。徹は潤一が達者な泳ぎっぷりをみせるのに目をまるくした。
 へへ…どんなもんだ、俺だって泳ぎは得意なんだから。
 調子に乗ったのがいけなかった。ひとしきり遊んで浜にあがりかけた時、不意に、足もとの砂がゆがんだ。あっと思った時視界がぐらりと傾いて、潤一は浅瀬に両膝をついた。
「潤一?」
 目がかすむ。腹の中から不快感が喉にぐぐっとせりあがってきた。
「おい!」
 徹の腕を避けようとしたのが、一瞬遅かった。潤一は彼を抱きかかえようとした徹の膝に白い液体を吐いた。
 徹はそのままの姿勢でじっと潤一の肩を支え、ゆっくり彼を起こして砂浜まで歩くのを手伝う。
 潤一は徹の手で、また、砂浜に寝かされた。
 カッコ悪い、悪すぎる。潤一は自分が情けなくて徹の顔がまともに見られない。
「ごめん、潤一」
 しかし、謝ったのは、徹の方だった。
「ごめん、僕が…無理に誘ったから」
 何言ってるんだ、と言おうとして、潤一は徹の顔を見上げた。
 目に涙をためている。
 鉱石のようなふたつの瞳にみるみるうちに透明な玉がまた盛り上がった。
「徹…」
 潤一はどぎまぎして目をそらし、口の中でもごもごと言い訳をする。
 何を言っているのか自分でもわからない。胸の中に何か熱いものがどっと流れ込んできて喉に詰まった。じりじりと喉が焼けていく。
 熱い…なぜこんなに熱いんだろう。
 まるで太陽をまるごと飲み込んでしまったみたいだ。
 潤一は砂の上で苦しげに喘いた。



 その夜、潤一は少し熱を出した。
 念のために薬をチェックし、体温を測っては、こまめに着替えをする。
 飲み薬や体温計を常備している潤一を見て徹が不思議そうな顔をしたので、潤一はつい最近まで彼が入院していた話をした。友人の中沢にしたのと同じ説明だ。
 徹はうなずいた。
「それで、今、身体の調子は?」
「ご覧のとおり、微熱だけ」
 潤一は体温計をかざしてみせる。
 徹はほっとしたように、白い歯を見せて笑った。



 その日から徹は、さりげなく潤一の身体を気遣うようになった。それは風の入りにくいテントの奥の方に潤一の寝場所をキープしたり、買い出しの時にこまめに休憩をとったり、重い方の荷物を徹が率先して持ったりといったささいなことばかりだったが、その動作はいつもごく自然で、潤一を感心させた。
 そしてそのたびに、潤一は胸が高鳴るのを押さえることができなかった。
 徹は、俺に好意を持っているんじゃないか?
 だって、そうでなければなぜわざわざ、俺のテントでキャンプをしているんだろう。雨さえ降らなければ野宿だってできるのだし、そもそもひとり旅をしているのならその方がよっぽど気楽じゃないか。
 それに、あの、人なつこい笑顔。くるくるとよく動く可愛い瞳。嫌いなやつにあんな表情を見せるなんて考えられない…
 おい、潤一、落ち着け。
 それじゃ何?あいつはおまえと同じ、男が好きだっていうのか?
 その声が、俺の頭に冷たい水をぶっかける。
 …そんなはずはないよな。
 そんなはずはない。どこをどう見たってあいつはノンケだ。
 俺と一緒に遊んでたって、毎晩一緒のテントに寝てたって、それはただあいつが俺になついているというそれだけの話で、愛だの恋だのっていうんじゃない。
 あいつを気にしてるのは、あいつを好きなのは、俺の方だ。
 はじめて海岸で助けてもらった時から、あいつが忘れられなかったのは俺の方なんだ…
 まいった。
 こんなつもりで、旅を始めたんじゃなかった。
 こんなつもりで、金沢から京都へ、鹿児島へ、鳥取へと、無理矢理悪友どもをたたき起こすようにして酒を酌みかわしてきたんじゃなかった。俺は、ケリをつけるつもりだったのだ、俺のすべての友人関係に。彼らの陽気な顔を胸に刻みつけて、これからの生活をやっていこうと思っていたのだ。
 それなのに、今さら、恋だって?
 それも、ノンケの、年下の高校生に、恋だって。
 バードが面白そうに笑う。
 …いいじゃないか。俺は反論する。
 テントの中のすぐ隣には、徹が健康な寝息をたてている。
 何の夢を見ているのか、あどけない寝顔だ。
 安心しきった、やすらかな顔。
 世界中で、俺だけしか知らないこいつの顔。
 徹…
 俺の胸が締めつけられる。
 いいじゃないか、せめてここにいる間だけぐらい。
 いいじゃないか、こんなに好きなんだから。


 徹が「う…ん」とうなって寝返りをうつ。眉を大きくしかめている。潤一は思わずその顔を覗き込む。
 徹の顔が苦しそうにゆがむ。閉じた目から涙がひとすじ頬をつたう。
 ひとすじ、ふたすじ、透明な糸がゆっくりと伸びる。
「…嫌だ…待って…」
「徹、おい」
 喉から声を絞り出すようにして、彼は呻いた。
「…待って…」




15


 降るような星空だった。
 ビロードのような漆黒の空に無数の宝石が輝いている。昼間の太陽の熱を宿した砂はまだ身体の奥の方でほんのりと火照っていた。
 潤一と徹は砂丘の山の斜面に大の字に寝ころんで、空を見上げる。
 天と地と、この砂の上の世界にはふたりだけしかいなかった。
「…あのな、徹」
 潤一は切り出した。
「夕べ、何か怖い夢でも見た?」
 返事がない。
 ちらっと横を見ると、徹はじっと夜空を見たままだ。
「いや、言いたくないなら無理には訊かないけど、何かうなされてたみたいだったから…」
「潤一」
 徹が急に遮った。
「夢が本当になったことって、ある?これまでに」
 低い声だ。
「何?それ。予知夢か何かっていうこと?」
「いや、そうじゃなくて…」
 少し、言いよどむ。
「ある人が、…死んでしまう夢をみるんだ」
 徹は目を伏せた。
「それは病院の廊下で、僕が家族と一緒に長椅子に座っていると、手術中のランプが消えて、ドアから白い手術着を着たドクターが出てきて」
「……」
「その瞬間、何も言われる前から僕にはわかって…ああ、死んだんだ、死んだんだって声が頭の中にガンガン響いて、それで―」
 声が途切れた。
「それで、僕は病院の外に飛び出して、…そうしたら、目の前に川があって、上流からすごい勢いで水が流れていて、でも、その水はとても澄んだ、きれいな水で」
 星くずを集めた天の河のようにきらきら光る水で。
「…じっと見ているうちに、花が流れて来るんだ。小さな白い花と青紫の花がたくさん流れてきて、それから木の箱も流れて来るんだ。蓋がしてあって、つまり、それは、…棺桶で、それがどんどん流れを下ってくる。僕はそれを追いかけるんだ。彼が行ってしまわないように、必死で、必死で、川の中を、死にものぐるいで走るんだ。でも…」
 声が涙でくぐもった。
「でも、いつも、まにあわない、僕は、いつも、いつも、いつも」
 徹は両手で顔をおおった。涙が指の間からこぼれ落ちる。
 潤一が黙ってティッシュをわたすと、彼は音をたててはなをかんだ。
「…でも、さ、徹」
 潤一は落ち着いて言った。
「人が死ぬ夢っていうのは、その人が長生きする証拠だっていうよ」
「本当?」
 徹は真剣な目で潤一を見た。
「本当」
 潤一は断言した。
「俺もね、親父が死ぬ夢を見たことがある。正確に言うと、俺がこの手で親父を殺す夢をね」
 隣で息を飲むのがわかった。
「それで、一時は俺も随分悩んだけど、でもさ、それは俺が親父を殺したいって思っているということじゃないし、死んだ方がいいなんて思ってるということでもないんだよ」
「僕だってそうだ、僕だって玲が死んでもいいなんて考えたこと、一度もない。そんなこと、絶対にない」
 玲?
「だから、それは、逆夢なんだよ。本人に話してみろよ、きっと笑って冗談にしてくれるから」
「そんなこと言えないよ、だって、…冗談ですまないんだ、玲の場合は」
「どうして?」
 徹は潤一の顔を見た。泣きはらした赤い目に、悲しそうな色が浮かぶ。
「玲は、…身体が弱いんだ」
「玲って、誰?」
「僕の、ひとつ上の兄貴」
 なんだ、兄さんか。…現金だと思いながら、潤一はほっとする。
「生まれた時から身体が弱くて、…このままじゃ10才まで生きられないって言われてて、小さい時に何度も大手術をして、何とか今は普通に生活ができてるんだけど…でも、今でも毎日薬を飲んでいて、激しいスポーツとか、無理なことはできないし」
 ああ、それで。
 潤一は納得がいった。身近に病弱な人間がいる生活に慣れているから、徹はあんなに自分の身体をかばってくれるのがうまかったんだ。
 自分に特別好意を持ってくれているわけじゃなくて…
 喉を苦いものが落ちていく。
「それに僕は、玲には借りがあるんだ。僕は、小さい時に親が事故で死んで、玲の父さんが僕をひきとってくれたんだけど、それは玲が身体が弱いから、父さんたちの会社の後を継ぐ者がいるからってことだったんだ。
 だから玲の手術が成功して、ちゃんと普通の生活ができるようになった今は、玲が当然会社を継いで、僕は彼の補佐にまわるべきなのに、玲は自分の進路を変えて、僕の方を後継ぎにしようとしてくれてる。
 それなのにまわりでは、僕たちが血が繋がってないからって仲が悪いだろうとか、僕が玲を憎んでるだろうとか面白がって言うやつもいて」
 徹は悔しそうに唇を噛んだ。
「だけど僕は、玲が死ねばいいなんて思ったこと、本当に一度もないんだ。彼は兄貴としては本当にカンペキで―カンペキすぎてときどき鼻につくこともあるけど、僕は尊敬してるし、かなわないなって思ってる。たとえ今度みたいなことがあったとしても…」
 今度みたいなこと?
 徹の言葉は、そこで途切れた。
「何?徹。もしかしておまえ、兄貴と喧嘩して家出してきたの?」
 それで、ここで俺とキャンプしてるのか?
「違うよ」
 だろうな。
「家出じゃなくて、僕、陸上部の夏合宿から抜けてきたんだ」
 ええ?
 潤一は思わず砂の上に半身を起こして、徹を凝視した。
 吸い込まれそうな黒い瞳に夜空の星が映っている。
「玲が…」
 そのいくつかの光が、不意に滲んで、ぼやけた。
「玲が、わからなくなったんだ」
 徹はぽつりぽつりと、これまでのことを潤一に語り始めた。
 未緒のこと、玲のこと。鳥取の合宿に来て未緒と別れたその夜に、未緒が玲に恋していたことを知ったこと。
 電話口での玲の、あの凍りつくような沈黙のこと。



「…それで僕は、その夜のうちに荷物をバッグに詰めて宿舎を出たんだ。みんなに迷惑をかけることはわかってたけど、もう、何にもやる気がなくなっちゃって」
 徹は足もとの砂を手のひらですくい、さらさらと落とした。
「だけどね、徹、それは」
「うん、わかってる」
 徹は潤一を遮った。
「というか、この砂丘へ来て、潤一と一緒にキャンプをしながらいろいろ考えたんだけど」
「……」
「僕はこれまで、ひとつ違いの玲を、僕の分身みたいに思ってたんだと思う」
 そう一気に言って、徹はちょっと顔を赤らめた。
「…そりゃ、僕より玲の方が年上だし、頭もいいし、ずっとハンサムだし女の子にももてるし、それはわかってるけど、…そういう意味じゃなくて、僕たちはいつも一緒に育ってきて、何でも話し合ってきて、僕は何かあるとすぐ玲にいろんなこと相談するのがあたりまえになっていて、玲は僕自身よりも僕のことをよく知っていて…」
 徹は目を閉じて、なつかしそうな表情をした。
「だから、僕は玲を、勝手にもうひとりの自分みたいに思ってたんだと思う」
「……」
「だけど、いつまでもそんな風ではいられないんだよね、僕も、玲も。お互いに彼女ができたら、言えないことだって増えるだろうし…学校を卒業したら、仕事だって別々になるし、結婚して家庭を持ったら、もうカンペキにそれぞれ別の人生を送ることになるわけだし。…それは、もうどうしようもないことで」
「……」
「僕は、ただそれが淋しかっただけなんだって、気がついたんだ」
 徹はまたさらさらと足もとの砂を落とした。
「…ここへ来て、潤一に会って、僕は偶然潤一を助けたりテントを直したりして、一緒にキャンプしてて、何か、僕は、自分でも何かできるんだってことが無性に嬉しくて」
 徹は下を見たまま、微笑んだ。
「それで、思ったんだ。…潤一は、僕のことを何も訊かない。僕がどうしてひとりでここで野宿してるんだとか、これからどうするとか、僕の心の中のことも、根ほり葉ほり訊いたりしない。僕も潤一のことを何も知らない。でも、お互いに何も知らなくても、そんなこと全然問題じゃなかったよね」
「ああ」
「…それなのに、僕は玲のことを根ほり葉ほり知ろうとして、教えてくれない彼に腹をたてていた。玲の方だって、何か事情があったから言えなかったかもしれないのに」
 淡々とした口調だった。
「別に、何もわからなくても、教えてくれなくても、それで僕の知ってる玲が変わってしまうわけじゃない。僕が、玲を信じていればよかったんだ」
 玲を信じられなかったから、玲はあんな風に河を下って、僕の手の届かないところへ行ってしまったんじゃないだろうか。
 さらさら。徹の手からまた砂がこぼれて足もとに落ちる。
「…今朝、そこの公衆電話から家に連絡したんだ」
 潤一は徹の方を見た。
「夕べ、玲があんなことになる夢なんか見たから、朝起きて気になって気になってしょうがなくて、…彼に何かあったんじゃないだろうかって、いてもたってもいられなくなって電話したら、また妹が出て」
 徹は苦笑した。
「玲は何ともないっていうので、僕は本当にほっとしたんだけど…でも葉子には、合宿を飛び出していったいどこにいるのって、すごいけんまくで怒られた」
「ここの場所、言ったのか?」
「うん。でも、キャンプ場でちゃんとした人と一緒にいるから心配いらないって言ったから、大丈夫」
「ちゃんとしてるのか?俺は」
 潤一は笑った。
「まあ、たぶん」
 徹もあいまいに笑って、さりげなくつけ加えた。
「未緒の電話は、もうかかってこなくなったって、言ってた。…玲が彼女に直接会って、はっきり断ったって」
「そう」
「…うまくいかないよね。僕も、…未緒も」
 俺もね、徹。
 潤一は心の中でそっとつぶやく。
 少し、風が出てきた。
 徹が膝を抱えていた腕をはずして、ごろりと砂の上に仰向けになる。潤一もつられて空を見上げた。
「…すごい星だな」
「アルタイル、ベガ、…デネブ。ほら、わかる?潤一」
「わかるよ。デネブって白鳥座のケツだろ」
「そうそう」
 徹は笑いながら、じっと天を見つめている。
 音もない満天の星空の中を、一羽の鳥が大きな羽を広げていた。




16


 じりじりと真上から照りつける太陽。
 目を射るような白い砂丘の丘の上を、ふたつの黒い影が歩いている。
 汗をふきふき、よっこらしょといった風情で足を運んでいるのは大きな身体の松本だ。その先にたつ細身の男は白い帽子をかぶっている。
 少し先の松林に、カラフルなドーム型のテントの一群が見えた。
「玲、あれかな」
 松本が目を細めながら言う。
 顔を上げた玲の瞳に、ゆうゆうと青空にはためくレインボー・フラッグが映った。


 徹がキャンプ場にいると電話で妹に告げた朝、玲は即座に鳥取に立ち、県内のキャンプ場に張られたテントをひとつひとつまわり始めた。山間部をまわったところで日が暮れ、翌日、合流した松本とともに、今度は海岸のキャンプ場を順番に訪ねていたのだった。



 その時、潤一は文庫本片手にタープの陰で昼寝をしようと、テントの入口で珈琲を温め直していた。バーナーの湯気の向こうに、ゆらめきながら近づいてくる影が見える。彼は立ち上がって前方を注視した。
 灼熱の砂丘を、ふたりの男が歩いてくる。足はまっすぐにこの松林に向かっていた。
 なんとなく、予感がした。
 あれは徹を捜しに来たのだと。思えば、徹が彼と一緒にキャンプを始めてからもう2週間もたっている。勝手に合宿を抜け出してきたのでは、家族だって学校だって、心配していてあたりまえだろう。
 2週間か…。
 潤一はぐっと唇を噛みしめながら、やってくる男たちを観察した。
 ふたりのうち片方は、熊のような大男だ。巨体の上にちょこんと乗った顔はまだ高校生のようで、小さな目もとに愛嬌がある。暑がりらしく、しきりに汗を拭いている。手前の男は教師だろうか、帽子のつばで顔が見えない。
 不意に、足もとの珈琲がカップの底でしゅうしゅうと音を立てた。潤一はあわててしゃがみこんで火をとめる。焦げ臭い匂いがあたりに漂った。
「あの」
 背後で声がする。彼は息を整えて、ゆっくりと振り返った。
 レインボー・フラッグの下で、男が白い帽子を取る。息を弾ませ、頬をバラ色に上気させながら、ふたつの明るい瞳が彼を見てにっこりと笑った。
 ひとすじ、こめかみを涼しい風が吹き抜けたような気がした。
 潤一は動けなかった。
 世の中にこんなにきれいな顔をした男がいるものだろうか、信じられない。少なくとも俺のこれまでの人生では無縁だった。
「あの、お邪魔をしてすみませんが、このあたりで、高校生くらいの…」
「君が、徹の兄さん?」
 潤一は彼を遮った。そうだ、それ以外に考えられない。
 目の前の顔が、ぱっと輝いた。
「徹、ここにいるんですか?」
「今ちょっと買い出しに出てるから、そこ座って待ってたら?ちょうど珈琲いれようかって思ってたところだし。あ、そっちの彼も。同級生?」
 後から追いついてきた大男にも、潤一は声をかけた。
 松本は玲の様子から、このテントが当たりだと察したようだ。潤一にちょっと会釈して、小声で言った。
「玲、じゃ俺、宿の方に先に戻ってるから」
「そう?せっかくだからひと休みさせてもらったら?」
「いいよ。徹がここに帰ってきた時に大人数で出迎えちゃ、あいつだってびっくりするだろうし。なんせ俺は3人分のボリュームはあるからなあ」
 ふたつの小さな瞳がやさしく玲を見おろす。
 玲は軽く笑った。
「…悪いね、松さん」
「じゃな」
 汗を拭き拭きまた砂丘を帰っていく大きな背中を見送りながら、玲と潤一はタープの日陰に腰を下ろした。




17


「どうぞ」
 潤一は新たに沸かした珈琲を、玲に渡す。
「あ、すみません。僕は徹の兄で、藤坂玲といいます」
 玲は改まった口調になった。
「このたびは弟がお世話になって―」
「まあ、いいじゃん、堅苦しいあいさつは」
 潤一は玲を遮った。
「俺だって徹には世話になってるし、礼を言いたいのはこっちの方ですよ」
「……」
「俺は峰岸潤一、K大の1年です。えーと…」
 目の前の顔が、ふっと笑った。
「玲でいいです」
 そう言われても、呼び捨てというわけにはいかない。
「…玲くんは、ずっと徹を捜してたの?あいつ、電話ではキャンプ場にいるとしか言わなかったって言ってたけど」
「ええ、宿舎からそんなに遠くへは行ってないだろうと思ったので、昨日の昼過ぎにこっちに着いて、県内のキャンプ場をあちこちまわりました」
 そういえば鼻と頬が日に焼けて赤くなっている。 
「ここ、見晴らしがいいですね」
 玲はあたりを見渡して、穏やかに言った。
「うん、海岸でも泳げるし、ちょっと歩けば温泉もあるしね。湯に浸かりながら夕陽が海に沈んでいくのを見るのもなかなかだよ」
「でしょうね」
 まぶしそうに目を細める。潤一もつられて砂丘を見た。
 白昼の陽射しのなかで、観光客たちが砂山を一列にゆっくりと登って行くのが見えた。
 少し、沈黙があった。
「で、あいつからおおまかな話は聞いてんだけど、やっぱり合宿所では大騒ぎになってんの?」
「一時はそうだったんですけど、自分で荷物を持って出ていることがわかったので、あとは家の方で探すからということでこちらに任せてもらったんです。大会の予選も近いし、他の部員への影響もありますし。合宿の方は予定を終了しておととい解散しました。それで、ひょっとしたらその頃に帰ってくるかなと思ったんですが…」
「家には帰りづらかったみたいだね」
 玲の表情が引き締まった。
「いきさつを…徹、話したんですか」
「まあ、多少はね」
 潤一は落ち着いて、珈琲を飲んだ。
「…僕は、兄失格ですね」
 玲は乾いた声で言った。
「父母が仕事の関係で別の場所に寝起きしてるので、今、僕たちは兄妹3人だけで暮らしてるんです。一番年上の僕が保護者がわりで弟や妹をきちんと見てなくちゃいけなかった。それなのに」
「……」
「彼のガールフレンドへの対応を、僕がミスった。徹は、きっと僕に裏切られたと思ったんだと思います。だから…」
「玲くん」
 潤一は玲を遮った。
「あいつは、君に裏切られたなんて思ってないよ。そりゃ、彼女のことを聞いた時はショックだったかもしれないけど」
 玲は目を見開いて潤一を見た。
「…淋しかったんだ、って言ってたよ」
「え?」
「小さい時からずっと自分の分身のように思ってきた君が、いずれはお互いに社会に出て結婚して、別々の家庭を持って、別々の人生を送るようになるんだってことを思い知らされたみたいで、淋しかったんだって」
「……」
「あいつ、後悔してるよ。君が、たとえ何を言ってくれなかったとしても、自分が信じていればよかったんだって」
 玲は言葉を失ったまま、食い入るように潤一を見ている。小石を投じられた水面のように、その顔がゆっくりとゆがんだ。
 不意に、彼はうつむいて潤一から顔をそらした。肩が大きく波打っている。きつく結んだ唇が震えていた。
「玲くん」
 目を閉じてさらに下を向く。
「玲くん」
「何でもないです」
 玲は何かを無理矢理飲み下すように、ごくりと喉を鳴らした。
 なぜだろう、潤一にはそれが、毒を飲んでいるように見えた。致死量すれすれの劇薬を飲み下しているように思えてならなかった。
 不意に、潤一の胸にある考えが浮かんだ。
 …そうだ、そうとしか考えられない。それで彼の行動に納得がいく。
「玲くん、訊いてもいいかな」
 潤一は静かに言う。
「…君は、ひょっとして、徹が好きなの?弟として、じゃなく」
 玲は顔を上げた。
 不思議な色の瞳だった。淡くてきらきらと光っている。
 その目をまっすぐに相手に向けながら、玲ははっきりと言った。
「好きです。小さな時から、彼を弟だと思ったことは一度もありません」
「へえ…」
 潤一は内心の驚きを隠して、笑顔をつくった。
「俺も徹が好きだ」
 玲がぎょっとした顔で潤一を見る。
 バサッという音をたてて、タープに一陣の風が通り過ぎた。



 潤一は珈琲をいれ直して、玲と自分とで分ける。
「あいつ、生意気だし、ときどきはガキじゃないかって思うほど子供っぽいとこもあるけど、ま、大体は、いい出来だよな」
 潤一はのんびりと笑う。
「本気ですか?」
 硬い声だ。
「本気だよ。そんなに睨むなって…何を心配してるのかはわかるけど」
 玲は目を伏せた。
「徹に手は出してないよ。あいつ、出そうとしても全然そんな雰囲気じゃないしさ。それに俺だってそんなことやってる場合じゃないし」
 玲はいぶかしそうな顔をした。
 潤一はちらっと玲を見る。ついさっきの、徹が好きだと宣言した時の玲の顔が胸に浮かぶ。思い詰めたようなまなざし。
 おそらく自分が男を、それも弟を好きなのだということを誰かに告白したのは生まれてはじめてだったのだろう。
 はじめて。
 …じゃ、俺も、はじめての話をしてみるか、と潤一は思った。
 これまで誰にもしたことのない話を。
「玲くん」
 潤一はさりげなく言った。
「俺はこの砂丘でキャンプしていて徹と会ったんだけど、その前は金沢の家を出て、あちこちひとりで旅をしてたんだ。なぜだと思う?」
「……」
「バードがいたからなんだ」
「バード?」
「うん」
 潤一は微笑んだ。
「徹は君のことを、自分の分身みたいに思ってたって言ったけど、俺にも自分の分身みたいなやつがいるんだ。いつも俺と一緒にいて、俺と一緒に生きている。でも、そうだな、何を考えてるのかわからないから、分身っていうよりも、友だちかな。…聞いてくれる?玲くん」
「ええ」
「バードは、俺の中にいる、俺のウイルスなんだ」




18


「はじめてバードのことを知ったのは、この春入院した時だった。
 それまでずっと体調が悪かったのは受験勉強のせいだと思って、そんなに気にもしていなかったのだ。それが、無事合格して大学に通い始めても、まだ微熱や息苦しさが続いていた。
 薬をもらいにいくぐらいの気持ちで病院に行ったらレントゲン検査の結果で肺炎だと言われ、そのまま入院させられた。あれこれ薬を飲まされて、病気の症状よりも副作用で気が滅入りそうになっていたある日…
 毎日のように病院に来ていた母親が、ぷっつり姿を見せなくなった。変だなと思ってたら3日後にやっと現れ、どうも様子がおかしい。何を言っても早口だし、態度が変に明るいのだ。
 何かあったんじゃないか?
 疑念がむくむくと湧いてくる。でも医者も母親もカンペキに隙がなくて俺を寄せつけない。それがかえって俺の不安を募らせた。
 結局、退院の前日になって俺はついにキれ、人気のない待合い室で母親を無理に問いつめた。自分の身体の奧深くに免疫機能を破壊するウイルスが存在し、すでに発症していることを、その時俺ははじめて知った。
 俺は、死ぬのか?助からないのか?
 気が遠くなった。言葉も単語も、視覚も聴覚も、あらゆる感覚のスイッチがOFFになって、まるで自分の身体がからっぽの箱のようだった。隣で母親が何かしきりにかきくどいていたが、俺にはその日の記憶が今でもすっぽりと抜け落ちている。
 山のような薬とともに退院した俺は、翌日から自宅療養になった。母親は大丈夫よ、今は強力な薬がたくさん開発されてるんだから、回復した人だってたくさんいるのよと繰り返し、親父は…俺の入院中にガラパゴスを強制捜索して、俺の宝物のゲイビデオや雑誌を見つけて激怒した。
(何をやってるんだ、おまえは!)
(一体どこで、誰にうつされたんだ、言え!)
 俺は無言で抵抗した。
 俺の体内のウイルスは、血液や精液を通して感染する。でも俺はそれまでに、セックスの経験が一度もなかったのだ。


 実は、俺にはひとつだけ、心当たりがあった。
 確か、小学5年生の冬だったと思う。俺は何かでむしゃくしゃして、学校の帰りにコンビニでシャーペンを万引きした。欲しくてやったというよりも、ただスリルを味わいたかったんだ。俺にも何かできるぞっていう。
 うまく店から出た時はやったと思ったが、そのうち無性に怖くなった。あの店には防犯ビデオがあったに違いない。学校や、親父に知られたらと思うとそれだけでチビリそうになった。それで、目立たないゴミ置き場に証拠を捨てに行こうと家を出たら、その途中で…
 突然行く手に何かが立ちふさがった。見上げると4、5人の大きな男たちが俺を取り囲んでいる。やばい、見つかった。俺は震え上がった。
(ごめんなさい、もうしません、ごめんなさい)
 俺は半泣きになってシャーペンを差し出した。
 頭の上で何かぼそぼそっと話し声がして、俺は「ちょっと来い」と首根っこをつかまれるようにして、ゴミ置き場の脇にある廃屋に連れ込まれた。


 俺は後になって、その時のことをときどき思い出す。
 自分が何をされているのか、俺は全く知らなかった。
 尻がものすごく痛くて熱かったので、棒でバシバシ殴られているのだと思っていた。
 自分が悪いんだ、だからお仕置きをされているのだと思っていた。
 ボクはロボットなんだ、アンドロイドなんだ、だから、
 お仕置きされても痛くないんだと自分で自分に言い聞かせて耐えた。
 でも、アンドロイドではない証拠に、男のひとりが帰り際に、
「おまえ、痔になってるぞー、ヒサヤ大黒堂だなあ」と面白そうに言ったんだ。
 俺はカッコ悪くて死にそうだった。
 突然痔になっちゃったと思ったのだ。
 だから、その日のことを誰にもいわずに、傷もひとりで治した。


 自分はもしかして、レイプされていたのではないかと思ったのは、高校生になってからだった。俺はできるだけ細部を思いだそうとした。
 そして、気づいたのだ。
 目と口をふさがれていた俺だが、耳は聞こえていた。あの男たちの中に、確かにひとり…
 父の部下がいた。
 俺の親父は当時まだ40代で、大学の助教授だった。その下には何人かの助手がいて、家にもときどき遊びにきていた。もう顔も忘れてしまったが、あの中に確かにひとり、聞き覚えのある声の男がいた。その声は、背後で何かを指示していた。指示?何を?…
 思い出した。カメラのシャッター音だ。彼は、撮影を指示していた。
 俺の背中に冷たいものが流れた。


 当時、父の勤める大学で派閥やポストをめぐる争いがあったのかどうか、俺は知らない。親父は家では何も話さない人間だった。それにそんな小説じみたことが実際に自分の身に起きるなんて、すぐには俺にも信じられない。
 しかし、あの日のことは俺の身体が覚えている。あの男たちの声もシャッター音も、俺の耳が覚えている。もしあの事件が、親父に関係しての嫌がらせか、恐喝だったとしたら…
 親父は、俺のあの写真を、見たのか? 犯されている俺の写真を。
 それは俺にとって、恐ろしすぎる疑問だった。
 俺は長い間、ひとりでその疑問を抱えて、苦しんだ。


 その疑問は、皮肉にも今回、解けた。
(一体どこで、誰にうつされたんだ、言え!)と誤鳴った親父は、俺がゲイだから感染したのだと思い込んだのだ。
 親父は、俺のあの事件を知らないんだ。
 俺の写真を、見なかったのだ!」


「俺がどんなに嬉しかったか、分かる?玲くん」
「ええ」
 玲は小さく微笑んだ。
 自分が感染したことよりも、発症したことよりも、自分の屈辱を父に知られずに済んだということの方が、その時の潤一には嬉しかった。
 あの助手は自分をレイプさせることで、父への恨みを晴らせたのかもしれない。写真を売って金に換えて気がすんだなら、自分は父を守った、というのは大げさだが、父に対してひとつ貸しができたような気がする。
(何をにやにや笑ってるんだ!)
 父親に怒鳴られながら、潤一は幸福だった。
 しかし、その事件が、潤一とバードとの出会いだったのだ。


「かすかに覚えている。
 何人めかの「お仕置き」の時、尻や太股の裏側にひやっと濡れた感触があったこと。真冬なのに、相手は大量の汗をかいていた。
 証拠はない。直感だった。俺のウイルスは、その時やってきたのだ。
 そして8年間、俺の中で眠っていたのだ。


 毎日、俺は鏡を見る。目の色は、皮膚の艶は大丈夫か。舌は濁ってないか、バードはどうしているか。
 俺の身体に入り込んだバードは、動いていたり休んだり、俺から栄養をとったりしながら生きている。俺が油断をすれば増殖し、薬が効いていれば小さくなる。今の所、彼が消えてなくなる薬はない。俺たちはずっと一緒に生きていくのだ。
 最初は変な気分だった。自分の身体の中に別の生物が生きていると思うと、なんだかカビが生えてるようで気味悪かった。
 でも、よく考えてみれば人間だって地球に寄生しているカビみたいなものなんだ。ウイルスと大して違いはないのかもしれない、そう思うと少し気分が楽になった。俺はウイルスをバードと名づけた。
 バードは俺の友だちだ。
 いつも俺の中にいて、俺と一緒に生きている。
 いい友だちか、悪友か、俺は区別しようとは思わない。
 俺の抱え込んだ、もうひとつの宇宙だ。



 旅行をしようと思いついたのは、突然だった。
 その頃、俺は少しまいっていた。
 毎日母親の監視のもとで、疲れないように、無理をしないようにとの規則正しい療養生活を送っていたが、そのこと自体がすでにひとつのストレスなのだ。それにどこかひとつ具合が悪くなっても、もう自分はどんどん悪くなる一方なのかと、悪い方悪い方に想像が膨らんでしまう。孤独がそれに輪をかけた。父の職業柄俺の身体のことは極秘だったから、俺は友人の誰にも自分のことを話せない。俺はいらいらしてつい母親にあたり、自己嫌悪に陥る繰り返しだった。
 何とかならないかと俺は考え、そして、ツーリングを思いついた。
 俺はバイクが好きだったけど、今まで大して遠出をしたことがない。学校だって幼稚園から大学まで金沢で、外に出る機会もなかった。もちろん死ぬつもりは全然ないけれど、それでも万が一のことを思ったら、せっかく日本に生まれて他の土地を知らないというのはあまりにも淋しい。
 それに、やっぱり友人の顔も、見ておきたかった。高校時代、さんざんバカをやって遊んだ仲間の顔。俺がまだ感染を知らなかった頃の時間を共有してきたやつらの顔。それを見たら、俺もまた陽気に頑張れるんじゃないだろうか。以前のように。
 思いついたら、いてもたってもいられなかった。俺は両親に、バイクで旅行にでるから、と話した。
 両親は猛反対した。せっかく今症状が治まっているのに、無理をして悪化すれば取り返しがつかないじゃないかというのだ。では、いつならいいんだ、と聞き返すと、彼らは絶句した。いつなら、という保証が今の俺にはない。ヘタをすれば一生行けなくなるかもしれないじゃないか。俺が、俺の生まれた国を見たいと思うのがそんなにだめなことなのか。
 その意味では、今が一番いい時期なのだ。今、自分の行きたいところへ行って、会いたい人間に会って、気持ちにさっぱりと区切りをつけて家に帰れば、また頑張ろうという気になれる。頑張って療養できる。そのために必要な旅なんだ。
 俺がそう言うと、親父は納得した。それでも、ひとり旅なんて危ないと言い張る母親を見て、親父は、最低1日1回は家に電話をいれることという条件をつけた。俺はそれを呑んだ。
 ところが出発の朝になって、母親が、やっぱり危ないからだめだ、と言い出したのだ。はっきりとは言わなかったけど、どうやら夢を見たらしい。ひとり息子がバイクで死ぬ夢を。彼女はバイクにしがみついた…」


「母親っていうのは、どうしてああ鋭いんだろうね、玲くん」
 潤一はしみじみと言った。
「俺はもちろん、無事で家に帰るつもりだったよ。でも、バイクを取り上げられて列車で家をどんどん離れていくとさ、もう何だかどうでもいいような気になった。ぼーっと窓から青空なんか見てると、これまであったことをみんな忘れて、あの空の中に飛び込んで消えてしまったらどんなに気持ちいいだろう、って。
 だからもしバイクを転がしてたら、山道のカーブを曲がる時なんか、ふっと魔がさしたかもしれない。このまま俺が曲がらなければ、あの空の中に…なんてね。本当にやったかどうかはわからないけどさ」
 彼は軽く笑った。
「実際には、俺の場合、危なかったのは海だった。
 この砂丘に来て砂丘の頂から日本海を見たとたん、なぜか無性に泳ぎたくなって、海に飛び込んで、…気がついたら溺れていた。その時俺を助けてくれたのが、徹なんだ」
「…そうですか」
「あいつ、いいやつだよな。俺とあいつはバカな話ばっかりして遊んでるだけだけど、あいつは、どっか、壊したくないようなところがあるよな」
 玲は微笑した。
「俺は今、自分とバードのことで手いっぱいで、どんなに好きでも誰かにアタックしようなんて気にはなれないんだけど、…もしそうじゃなかったらって考えることがある。それはホントに夢だけど」
「……」
「でも、徹がいることで、俺はずいぶん楽になった。俺は今まで、世界中にこれだけバードの仲間がいるんだから、誰かがその宿主になるのは確率の問題で、自分は確率のカードをひいてしまっただけだと自分に言い聞かせていた。でも、どうしてそれが俺なんだ、どうしてなんだって、心の底ではどうしても納得できなかったんだ。
 でも、考えてみれば医学なんて、昔何かのカードをひいた、名前も知らない誰かさんたちのおかげで臨床例が積み重ねられて、治療方法が確立されて、その恩恵を今の人間が受け取ってるわけだろう。もちろん俺だってそうだけど。それだったら、今俺がカードをひいてしまったおかげで助かる側の世界の人間がいて、その中に、徹もいる。
 徹が、その世界にいるんだというだけで、俺は、自分のカードが、納得できる。あいつがいるならまあしょうがないなって笑える。
 徹がいるから、俺は、救われているんだ」
 言葉が、そこでとぎれた。
「峰岸さん」
 潤一はうつむいた。タープの陰で、その顔が濃い緑色に染まっている。
 彼は両手で顔を覆った。
「玲、俺、どうして…」
 指の間から嗚咽が洩れた。
「どうして徹がこんなに好きなんだろう」


 夏の陽がゆっくりと傾きつつあった。
 遠くで砂丘の観光客のざわめきが聴こえる。
 玲はしばらく潤一を見つめていたが、やがて珈琲のカップを置いて彼のそばに寄り添った。震えている肩に手をかける。
「峰岸さん」
「……」
 潤一は動かない。玲はもう一度呼びかけた。
「潤一」
 顔を覆っていた彼の手が離れた。潤一がゆっくりと玲の方を振り向く。
 濃い睫毛の間に、乾きかけた涙の粒が小さく残っている。
 玲は無言で顔を寄せると、目を閉じて潤一の唇にそっと彼の唇を重ねた。
 10秒、15秒…
 驚きのあまり硬直した潤一には、それが永遠のように長く感じられる。
 玲のやわらかな唇と舌が、潤一の脳味噌をかき混ぜて通り過ぎた。


「玲」
 潤一が顔を赤らめて抗議した。
「何のつもりだよ」
 照れくささのあまり、つい詰問口調になる。
「こんな、急にさ…俺、これでも大事なファースト・キスなんだよ」
 それを気軽に。
「僕も」
 玲は、真面目な声で言った。
「僕も、はじめてだ」
 潤一は驚いて玲を見た。
 顔を背けた白い横顔が、うっすらと紅色に染まっていた。



「本当に、徹に会っていかなくていいのか?」
 潤一は帰り支度をしている玲に声をかける。
 玲は帽子をかぶりながら言った。
「徹に伝えて下さい。君が無事なら、家ではもう言うことはない。学校や父さんたちにはうまく言っておくから、君の一番いいと思うようにしたらいい。家ではいつも待ってるからって」
「家では、というより、僕は、だろ?」
 玲は軽く潤一を睨んだ。
「徹に、僕の気持ちを言いますか?」
「君はどうなんだ。俺の気持ち、徹に言うか?」
 ふたりは顔を見合わせて、同時ににやっと笑った。
「…なあ、玲、今思ったんだけどさ」
 潤一は曲がり松のレインボー・フラッグまで玲を送りながら言う。
「俺はバードのことを、俺の中にある、俺の手には負えない宇宙みたいなものだと思ったけど、考えてみれば俺たちの徹への気持ちも、そんなものかもしれないなあ」
「いつも自分と一緒にいて、そのくせ手には負えなくて?」
 玲が笑った。
「どこで生まれたかわからなくて」
「どこへ行くかもわからない」
「勝手に膨張したり縮んだり」
「分裂したり爆発したり」
「赤くなったり青くなったり」
「何?それ」
「わかるでしょ」
「わかんねーよ!」
 潤一が玲をこづくと、玲は楽しそうに笑った。
 その仕草が徹に似ているな、と潤一は思った。




19


 夕方、テントに戻ってきた徹に、潤一は玲が訪ねてきた話をした。
 徹は最初は驚いた顔をしていたが、落ち着こうとしているようだった。
「親や学校にはうまく言っておくから、おまえの好きにしたらいいって言ってたぞ。家ではいつでも待ってるからって」
「玲の様子、どうだった?」
「様子って?」
「…だから…」
 まだあの夢を気にしてるのか。潤一はくすりと笑った。
「元気そうだったよ。あちこちおまえを探したらしくて、顔が日焼けしてたけどな」
 徹はうつむいた。
「なあ、徹」
 潤一は胸に痛いものを感じながら、言葉をつぐ。
「キャンプ、解散しないか」
 徹が潤一を凝視する。
「いや、おまえの兄貴が来たから言うんじゃないんだ、前から考えてたんだよ。俺、金沢の家を出てからもうひと月半になるしさ、そろそろ帰ってやらないと、親に顔忘れられちまう」
 ひと月半か…家を出た朝のことがもう何十年も昔のように思える。
「おまえがまだキャンプ続けたいんなら、ここにテント置いていってもいいけど?」
「いや、…僕も帰るよ、神戸に」
「そうか。じゃ、明日の朝、撤収だな」
「明日?そんなに早く?」
 徹は目をまるくして潤一ににじり寄った。


 そんな目で見るなよ、徹。俺は一生おまえと離れられなくなる。
 ずっとおまえとふたりだけで、こうしてテントで暮らしたくなる。
 それは、ホントに夢なのだ。
「今夜はお別れパーティーしようよ、徹。もっともおまえとは、いつだってパーティみたいだったけどな」
「…うん」


 その夜、徹と潤一のテントからは遅くまで笑い声が聞こえた。



 深夜。
 騒ぎ疲れて眠っている徹を横目に見て、潤一はそっとテントを出た。
 銀色の糸のような月が砂丘の上に浮かんでいる。
 静かだった。


 …もういいよな、潤一。
 どこからか、そんな声が聞こえた。
 そうだな、もういいよ。潤一は答えた。
 もういいよ、バード。


 おまえと俺とは、いつだって追いかけっこだ。
 つかまえてみろよ、俺を。


 潤一は砂丘の上を走り始めた。
 やわらかい砂に足をとられながら、蹴り出す足に力を込める。
 走っても、走っても白い砂の原はまだ目の前にあった。
 ゴールはどこだ?ゴールは…
 俺はどこまで走ればいいんだ?
(潤一!)
 不意に、誰かの声が聞こえたような気がして、潤一はつんのめった。
 音をたてて地面に倒れる。
「いてえ…」
 両手をついて起きあがった時、彼は自分の拳の中の異様な感触に気がついた。
 もう一度、地面の砂をすくいあげる。
 さらさら、さらさら…


 それは、砂では、なかった。
 骨灰だった。
 見渡すかぎりの白い灰の砂丘が、絹糸のような月の光に照りはえている。
 人肌のようになめらかにうねりながら視界の果てまで続く、死の丘。


 今、わかった。
 俺はこのために、ここに来たのだと。
 ここに自分を埋めるために、来たかったのだと。


 なあ、徹。
 もし、俺の涙でこの骨灰を固くかためて、俺の人形をつくったら。
 そこに命を吹き込んだら、俺はもう一度生まれ直せるだろうか。
 すごく精巧にだぞ、ペニスもちゃんと実物大でさ。
 そうしたら、俺は生まれ直せるかなあ。
 もう一度だけ…


「バーカ」
 潤一は声に出して言った。
 そしてさっさと立ち上がると、もと来た方角に歩き始めた。
 どこまでも、どこまでも、もがくように歩いた。
 一生分、歩いた気がした。



 テントの前で、徹が潤一を待っていた。
「どこ行ってたんだよ」
「オサンボ。月がきれいでさ」
「何も言わずに行ったら心配するじゃないか」
 徹が口をとがらせる。
「大丈夫だよ、俺は」おまえがいるから。
「それとも、何?そんなに心配してくれるなんて、ひょっとして、徹、俺に惚れた?」
「何言ってんだよ、もう」
 徹にテントに押し込まれながら、潤一はまだくすくす笑っていた。



 翌朝、ふたりは鳥取駅のホームで別れた。
 徹の乗る列車の方が発車が早かった。徹は潤一に住所と電話番号を渡し、また会おうねと何度も繰り返した。
 遠ざかっていく列車を見送って、潤一は携帯を手に取った。
「もしもし、母さん、俺」
「あら、潤一、中沢さんから電話があったわよ。あんたの友達、みんな夏休みで金沢に戻ってきてるんだって。あんた呼び寄せたの?」
 潤一は喉の奥で低く笑った。
「母さん、今日、帰るから」
 …朝陽が、まぶしい。
 雲ひとつない晴天だった。




20


 ひたひた、ひたひた。
 夜道に自分の足音だけが響いている。
 月はない。晩秋の肌を刺すように清涼な空気が頬を撫でる。
 どこの家からか甘い香りが漂ってくる…
 あの砂丘での夏から1年と2カ月たった、ある夜。
 潤一の目の前に、門灯に照らされた「藤坂」の表札が浮かんでいた。


「潤一!」
 アトリエの窓の外に見知った顔を認めて、玲は声をあげた。
「…やあ」
 久しぶりのせいか、潤一は照れくさそうだ。
「そんなところにいないで、入っておいでよ」
 指し示されたドアから入ると、デッサンの練習でもしていたのか、フローリングの室内にはカンバスやら花やら石膏像やらが所狭しと並んでいる。潤一は珍しそうにあたりを見回した。
「ちらかってるだろう、今椅子を出すから」
 玲は両手で丸テーブルを中央に移動しながら言った。
「…徹には、会ってきた?」
「ああ、なんか部屋で電話してたみたいだったから、声かけなかった。元気そうだったけどな、あいつ」
 玲はちょっと潤一を見る。
「それは、きっと新しい彼女だな」
「あいつ、また女とつきあってるのか」
「そりゃ…」
 玲は笑った。
「徹はもてるから、女の子の方でほっとかないよ」
 その口調に寂しさが混じっているのを感じて、潤一は黙った。
 玲がサイフォンをセットする。コポコポと湯の沸く音をふたりはしばらく聴いていた。
「変わりない?…って言っても、1年以上も会わなかったんだなあ。君はちょっと大人っぽくなったみたいだけど」
「そう?自分ではわからないな。確かに背だけは伸びたけど」
 玲が珈琲のカップを潤一に渡す。
「潤一の方は?」
 優しい目だった。
「俺も変わりないな」
 潤一も穏やかに言った。
 玲は潤一がカップを置くのを待って、切り出した。
「潤一、今、時間ある?」
「え?」
「よかったらモデルになってくれない?時間はそんなにとらせないから」
「俺を?」
 玲はにっこり微笑んだ。
「…あんまり時間はないんだけどな」
「じゃ、1時間だけ」
「しょうがないな」
 潤一は苦笑いした。
 玲は窓際に籐椅子を移動して、そこに潤一を座らせた。側面にまわって、スケッチを始める。
「おい、俺は、どうしたらいいんだ」
「楽にしててください。目を閉じててもいいよ、寝ちゃったら困るけど」
「やれやれ」
 優しいのか強引なのかよくわからないやつだなと思いながら、潤一は目を閉じた。シュッ、シュッと木炭のすべる音が耳に心地よい。自分の身体が小気味よく紙に写し取られていく音だ。
 珈琲に混じって、鼻腔に別の香りが忍び込んできた。
「これ、何の匂い?花の香りかな?」
 そういえば来る道でもこの匂いがしていた。
「ああ、隣の家の金木犀でしょう。枝がね、張り出してきてるから」
「あんまり好きじゃなさそうな口ぶりだね」
 玲は苦笑した。
「匂いが、ちょっときつくて」
「そう?俺は好きだけどな。主張がはっきりしてて気持ちいいじゃないか」
「潤一らしいね」
 玲は涼しい声で笑った。
 スケッチは1枚だけかと思っていたら、玲はポーズを変えてもう1枚描いた。3枚目は、上半身ヌードだった。オールヌードでも構わないぞと言う潤一に、玲は笑いながら辞退しますと断った。とっくに、約束の1時間は過ぎていた。
 潤一は玲の視線を裸の肩や腕にたっぷり感じながら言う。
「なあ、玲、…俺は思うんだけどさ」
 視線がふっと、顔に上がる。
「徹は、いつか君を好きになるよ」
 玲は微笑んだ。
「潤一、忘れた?徹がどうして去年合宿を抜け出したのか。彼は女の子に失恋したんだよ」
 そして今も、また別の女の子との交際に夢中なのだ。それはもう毎日、毎日、玲が一番身近に思い知らされていることだった。
 徹の人生に、兄の自分の出番は一生、ないのだと。
「それでもさ、…それでも、徹はいつか君を好きになるよ」
「……」
「俺にはわかる、大丈夫だ、玲」
 潤一はにっこり笑う。
「かなわない想いなんてないんだ、この世には。生き続けてさえいれば」
「じゃあ、失恋という言葉があるのはどうしてかな?」
 玲は笑いながら潤一を遮った。
「みんな想いがかなうまえに死ぬからだ。心と身体が生き急ぎすぎるからだよ。だから、玲」
「……」
「君は、死ぬなよ。な?」


 コツン、不意に硬い音がした。
 玲の手から落ちた木炭が、床をころころと転がって、とまった。
 空気が、質量を増しながらゆっくりと部屋の底に沈んでいく。
 玲はじっと潤一を見つめていた。
 静かな声だけが部屋に響く。
「…玲、気づいてたんだろ?俺がそこの窓の外にいた時から。俺がもうこの世の者じゃないってこと」
 だから俺の姿を描いてくれようとしたんだろ?
「……」
「不思議だな。徹には俺の姿が見えなかったのに、君には見えるんだ」
「…似てるからでしょう」
「似てるのか?俺たちは」
「まあ、たぶん」
 その口振りを以前どこかで聞いたなと思って、潤一の目がふっと微笑んだ。
 玲も穏やかに笑って、床から木炭を拾う。折れているのを見て、新しいものを手に取った。
「潤一、続きをしようか」
「ああ、…その前に、悪いけど喉がカラカラなんだ。珈琲もう一杯頼む」
「あ、そうだね。ごめん、うっかりしてて」
 玲はサイフォンに水と珈琲豆を入れ、アルコールランプに点火した。青く透き通った炎がゆらゆら揺れる。慎重にセットしなおして、潤一の方に向き直った時…
 潤一の姿は消えていた。
 窓を開ける音も、ドアを開く音も玲は聞かなかった。それなのに潤一は行ってしまった。
「潤一」
 玲は窓を開け放った。むせかえるような金木犀の香りが彼を包み込む。
「潤一!」
 玲の絶叫が夜の闇を貫き、やがて彼方へと吸い込まれていった。




epilogue -エピローグ-


「潤一!」
 誰かが叫んでいる。あれは玲か?…いや、違う、僕の声だ。僕が叫んでいる。僕は誰だ?


 突然、徹はベッドから起きあがった。
 ここはどこだろう。
 ぼんやりあたりを見回すと、斜め上に天窓がある。やわらかな午後の光。蝉の声。そうだ、ここは…
「目が覚めた?」
 不意にドアが開いて、玲が顔を覗かせた。
「何て顔をしてるんだ。夢でも見てたのか?」
 …夢だったんだろうか。これまでのことは。
「あの、玲、…変なこと聞くけど、君は、いや、僕は、今何歳?」
 玲は可笑しそうに笑った。
「やっぱり夢を見てたんだな。君は今、24歳だよ、名前は藤坂徹クン。僕は25歳、藤坂玲。君の兄で、今現在は恋人デス」
 恋人。そうだ、僕たちは…
「僕たちは今年の春からこの宮崎に家を借りて、ふたりだけで暮らしてる。他に何か質問ある?」
「いや、…そうだ、そうだったね」
 あれから9年もたっているのだ。あのまぶしい夏の、あの砂丘から。
 なぜ今頃、あんな夢を見たんだろう…
「どうした?そんなに嫌な夢だったのか?」
 玲は真面目な顔になって徹の横に腰をかけ、彼の顔を覗き込んだ。
「いや、なぜだかわからないんだけど、昔の…潤一の、夢を見て」
「潤一の?」
「うん」
 徹は下を向いた。いろいろな想いが胸の中に渦巻いている。
「…徹、それは、夢じゃないかもしれないよ」
「え?」
 玲は無言でベッドから立ち上がると、壁に立てかけられた平たい包みに手をかけた。今日の昼、松本から送られてきた小包だ。
 慣れた手つきで紐をはずす。何重にも厳重に包まれた中から現れたものを見て、徹は声をあげた。
「潤一!」
 一面の細かな金色の花に囲まれて、ひとりの青年が笑っている。原色のバンダナをして、いたずらっぽい笑顔で。
 黄金の光を浴びて、笑っている。
(徹、おまえとは、いつだってパーティみたいだったな)
 それは玲が描いた潤一の肖像画だった。


「玲」
 徹が不意に、言った。
「玲、この匂いは…」
 玲は徹の方を見て、うなずいた。
 あの日、晩秋の神戸の家のアトリエで、
 潤一の身体を包んでいた甘い香り。
 金木犀の残り香が、部屋の中にうっすらと漂っていた。





バード  了

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