■番外編 dark side パイプハウス 内藤更紗

パイプハウス




Act.6 -ネバダ

 そのアジトに初めて足を踏み入れたとき、俺と和彦は思わず顔を見合わせた。
「おい、俺たちってさ・・・」
「なんでボロ小屋にばかり縁があるんだろうな」
 1階がつぶれて10年はたったと思われる喫茶店「ネバダ」、その猫の額のような屋根裏部屋が俺たちにあてがわれたアジトだった。
 もっとも、住むのは俺ひとりだ。和彦は任務の都合上、小綺麗なマンションを借りている。任務というのは言うまでもなく「タラシ」だった。
 俺たちはともに故郷を離れて、阪神間の大学に進んだ。和彦はK大、俺はK理科大だ。駅で3つしか離れていない。俺たちは佐々木さんの指示で、ペアを組んで動くことになった。
 つまり組織のシンパとなるべく人物の条件を佐々木さんから指示を受け、俺がデータベースのなかからピックアップして了承されたら、実行部隊として和彦が動くのだ。
 この方法はうまくいった。なにより和彦が意外な才能を見せた。
 ターゲットを「タラシこむ」行為を目立たせないためには、普段から遊びまくっている方がかえって怪しまれずに済む。彼は髪を長く伸ばし、金髪に染め、デザイナーズ・スーツに身を固めて、耳にはピアスをつけた。その徹底振りは俺が驚くほどだ。
 俺たちは工学部のスケベ教授、薬学部のお堅い美人助手、と順調にターゲットを落としていった。「こっちから意図的に引き入れたということを絶対悟られないようにして、あくまで、相手の方から、自主的に協力させるようにする」やつのテクニックは完璧だった。--よほどうまく仕込まれたと見える。
 大学の3年間はそうやって過ぎていった。
 4年めの春も、学生間に顔の広い演劇部の部長を落とし、秋には神戸にある商事会社の社長の息子にねらいを定めた。
「この会社は条件通り家具なんかの大物を扱ってるし、中南米にもルートを持ってる。申し分ないな」
 俺はネバダの屋根裏部屋で、データを見せながら相棒に説明した。
「佐々木さん、どうせおコナの袋でも忍ばせようってんだろ」
 やつは、ちょっと妙な笑い方をした。
「・・・コナじゃないよ、たぶん」
「何?知ってるのか--何か」
 和彦は撃つまねをした。
「--本当?」
「うん。見たんだ、俺。佐々木さんさ、--本物持ってるぜ」
「へえ・・・」
「38口径のリボルバー」
 こいつ--まだ、佐々木さんとつきあってるのか。「特訓」の時にでも甘えて見せてもらったんだろう。
 和彦はもしかして--本当に男が好きなのか?
 --そんなはずはない。俺はすぐにその考えを打ち消した。
 そんなことはあってはならない。もし、そうなら、
 そうなら・・・
 俺は自分が何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
 --でもその疑問は、まもなく疑う余地もないものになった。
 和彦がターゲットの男に心を奪われてしまったからである。



「--なんで藤坂玲を落とさないんだ」
 俺は何度訊いたことだろう。
「もうすぐだよ」
 やつは何度同じことを言ったことだろう。
 そのたびに俺の声は険しくなり、和彦の声は暗く沈んでいった。
 和彦が藤坂玲のアトリエに通い始めて3週間--
 俺はやっと、やつの心境が普段と違っていることを認めざるを得なかった。
「おい、・・・惚れたのか、マジで」
「--」
「--なら、むしろ好都合じゃないか。さっさと落としちまえよ」
「--」
「おまえの恋人にしちまえばいいじゃないか」
「--」
 やつは唇の端をかすかにあげた。
「--笑ってる場合か?佐々木さん、カンカンだぞ。遊びでやってるんじゃないんだから」
「--」
 やつは目を伏せた。暗い翳りが覆っている。
 不意に、悪寒がした。



 その後も、和彦は佐々木さんの指示した期限を3回も延期した。
 ついに上層部は最終期限を通告してきた。
 もう、後がない。本当に--これで最後なのだ。
「和彦」
 前の日に俺は念を押した。
「本当に大丈夫なのか--本当に、大丈夫なんだろうな」
「芳己」
 やつは笑顔を見せた。
「ふたりきりでドライブなんだ--俺の腕前は知ってるだろ?」
 明日にはカタがついてるよ、安心しろ--そう言って、やつは階段を降りていった。
 明るい声だ。穏やかな--やさしい声だった。
 そのやさしさが、俺をたまらなく不安にさせた。
 音もなく雨が降り始めていた。



 その日は雨だった。最終期限の日。
 俺はネバダの屋根裏部屋で、降りしきる雨の音を聞いていた。
 和彦は朝からドライブに行くと言っていた。
 今頃は・・・
 藤坂玲を抱いているのだろうか。
 --そうでなければならないのだ。そうでなければ--
 やつは破滅する。
 俺はデータベースを開いた。藤坂玲の項目。
 彼の高校の卒業アルバムから拾った写真が画面に映る。
 彫刻のような整った顔立ち。
 何不自由なく育った金持ちのボンボン。
 --同い年なのに、よくここまで違うものだ、と苦笑いをする--
 雨は午後から本降りになり、日没を過ぎるとますます激しくなった。
 連絡は、まだない。
 どうしたんだろう--てこずっているのか。
 病弱だと聞いていた--抵抗されているのか。
 それとも--それとも・・・
 --何だったんだろう、昨日の和彦のやさしさは--
 まるで運命を悟ったかのようなあの穏やかさは--
 ・・・運命?
 --やめろ、和彦・・・何が、おまえの運命だ。
 あいつはただの金持ちのボンボンだぞ。
 俺たちの目的のための、ただのターゲットだぞ。
 わかってるのか。--目を覚ませ。覚ましてくれ。
 利用して、抱いて、忘れるんだ。
 和彦。
 連絡をくれ。--どうしたんだ。
 もうすぐ今日が終わる。
 最終期限が切れる。
 和彦。
 どこにいる、和彦。
 俺に連絡をくれ。ここに連絡をくれ。
 ここに--
 ここに、帰って来るんだ。
 --帰って来てくれ--頼む・・・
 和彦!



 連絡は、ついに入らなかった。次の日も--その次の日も。
 そして、それならターゲットを直接押さえよう、という佐々木さんたちの行動を見越したかのように、和彦は藤坂玲にぴったりと寄り添って行動するようになった。
 彼のボクサーとしての腕前を良く知っているみんなは地団駄を踏んだ。
 裏切りは、決定的になった。
「--もう、かばいきれねえよ」
 佐々木さんは暗い声で言った。
「幹部連中がやつを呼び出してる。たぶん吊るし上げ--っていうより、リンチだな」
「リンチ?」
「--しょうがねえよ。・・・まあ、命までは取らないだろうけどさ--利用価値があるあいだは」
 俺は震えた。
「--何とかならないんですか--何とか」
「・・・っていったってさ--」
「俺が--俺が前に・・・爆弾でミスったときだって・・・許してもらえたじゃないですか」
 佐々木さんは、ちょっと--黙った。
「あの時と今度とでは違うよ。--それに和彦のはミスじゃねえだろ、あいつは知ってて、逆らったんだから」
「--でも--」
 俺は彼に詰め寄った。
「佐々木さん、その、幹部の人に会わせて下さい。俺--俺から頼んでみます。お願いです」
「芳己」
 彼は眉を寄せた。
「--おまえは動くな。おまえが動いたら、それこそ和彦は気が気じゃなくなる。大丈夫だ。--あいつは自分で自分の始末がつけられるやつだから」
「--佐々木さん」
「わかったな。--やつのことは教えてやるから、おまえは、待ってろ。--いいな」
 俺は、待った。崩れそうな屋根裏部屋で、膝を抱えて連絡を待った。
 2日後に、知らせが届いた。
「--極秘だぞ。--やつは今度のちっと大きな作戦の、実行者役になった」
「実行者--役って」
「身代わり」
 俺はぎょっとした。
「それ--身代わりとして捕まることもあるってことですか」
「はっきりいうと犠牲フライってやつだね、ほかの人間を逃がすためだ」
「--そんな--」
 刑務所送りじゃないか。
「しょうがねえだろう。--やつのほうだって交換条件を出したそうだ」
「ええ?」
「ふざけた野郎だ・・・俺たちを脅かしやがった」
「脅かした?」
「俺たちの組織のデータを公安に売るってさ」
「データを--いつ・・・」
「調べてみたら、確かにコンピュータに侵入された形跡があった」
「--」
「そいつをばらまかれたくなかったら」
「--」
「藤坂玲に、今後いっさい手を出すな、とさ」



 12月初め。
 和彦が身代わりを引き受けた「ちっと大きな作戦」が実行された。
 佐世保港に入港した米軍の航空母艦コンクエストの歓迎パーティで爆弾が炸裂し、米海軍高官2名を含む5名が死亡、38名が負傷したのだ。
 政府の対応によっては外交問題に発展しかねない、大事件だった。
 巷は騒然となった。
 全国指名手配を受けた和彦はいったんネバダに潜伏した。
「どうせなら、ここで逮捕を待つからさ--芳己、悪いけど、いつ踏み込まれてもいいようにほかに移ってくれよ」
 俺は別のアジトに移動した。
 すっかり片づけられた屋根裏部屋は閑散として、もとの廃屋に戻った。
 生活用具もないので、いきおいキャンプ用品になる。
「和彦、これって--」
「--へえ、パイプハウスみたいだな」
 髪を切り、ジーンズ姿になった和彦は目を細めた。
 風の音がする。
 やつがふと、耳をすませる。
 --そして、黙る。
 誰かを待つように。
 俺は気がつかない振りをして、アラジンの石油ストーブに点火した。
「よくあったな、今時アラジンなんて」
「ラーメン用の鍋と菊正宗も持ってきたよ」
「・・・へえ」
 いよいよパイプハウスだなあ、とやつが笑う。
 --その時。
 階段の下で、ぱた、と音がした。
 和彦が踊り場に走る。
「--芳己」
 厳しい声。
「逃げろ。--すぐサツが来る!」
「--え?」
「すぐだ!」
 俺は階段を駆け降りた。--一番下で、振り返る。
 和彦が踊り場で俺を見おろしていた。
「--和彦」
「--」
「おまえがムショに入ったって、俺が必ず奪還してやるからな!」
「ああ!--芳己」
「--」
「--じゃ、おまえのコードネームは--」
 のるねえ。
「ヨシミだから、ミヨシってのはどうだ?」
「OK、三好、な。--三好からの連絡を、待ってろ!」
「頼んだぞ--芳己」
「--」
「気をつけてな」
 俺はうなずいて、外へ飛び出した。
 10メートルほど歩いたとき、走ってくる警官とすれ違った。
 俺はすばやく路地の角に身を隠してネバダの方を見た。
 けたたましいサイレンの音。
 砂糖に群がるアリのように犬どもが寄り集まってくる。
 俺は屋根裏部屋の木の床を思い浮かべた
 床に転がったラーメンの鍋と菊正宗。
 もう二度と還らない俺たちのパイプハウスを。



 和彦は死んだ。
 翌年夏に死刑判決が確定し、わずか3カ月後に刑が執行された。
 死にものぐるいの奪還作戦は、間に合わなかった。



Act.7 -ターゲット

「藤坂玲さん」
 俺は目の前の、派手なモーニングの男に声をかけた。
「あんた、中国語うまいな--何のことかと思ったよ」
 蛍光灯の下で、白い顔がなお蒼白に映る。
 俺は椅子をすすめた。--何たって、お客さんだ。
 玲は素直に腰を掛けた。
「何で式を強行したんだ?招待客の危険を考えなかったのか」
 あんたたち金持ちは自分の面子しか考えないからな。
 玲は俺を見た。
「--君が3年前、言ったんだよ、僕に」
 --何だって?
「和彦は君の、たったひとりの幼なじみだったと」
「--」
「--今後いっさい、僕に手を出すなと彼は言った」
「--」
「君が彼の幼なじみなら、彼の言葉を裏切るはずがない」
「--おい」
「・・・そう思った」
 玲は目を落とした。
 --なるほど。・・・言うじゃねえか。
「--それで、ここへも安心して来たってわけか?」
「--いや」
「--」
「僕の方から君に訊きたいことがあった」
「訊きたいこと?」
「--そう」
「何だ」
 玲は俺を正面から見た。
「君たちの組織は、なぜあれから僕を狙わない?」
「--何だって?」
「組織を脅していた和彦がいなくなった今、幼なじみの君はともかく、君たちの組織が僕に手を出さないのは不自然だ--それはひょっとして--」
「何だ」
「--君のせいか?」
「--」
「君が、僕を、ずっと--」
「玲さん」
 俺は遮った。
「あんたはよけいなことを考えなくてもいい」
「--」
「あいつをあんたのところに送り込んだのは俺だ。--それで、あいつは死んじまった。俺の責任だ。俺は俺自身の責任をとる--それだけのことだ」
 沈黙が流れた。
「--三好さん」
「何だ」
「ひとつ、気になっていることがある」
「--言ってみろ」
「--君たちが小学生の頃に見た、幻の島のことだけど--」
 島のこと?
「島の影は、たしかひとつだったって、言ってたね」
 俺はあの島を思い浮かべた。黒い、細長い影がひとつ--
「--そうだ」
「・・・空母にしては、変じゃないか」
「--何だと?」
「僕も空母はいちど見ただけで、そう詳しい訳でもないが--単独で動くことはまずないと思う。普通は7〜8隻の軍艦を従えて、船団として行動するはずだ。それが全く見えなかったというのは・・・おかしい。--そのことは和彦も、たぶん気づいてたと思う」
「まさか」
「--」
「それなら、なぜあんなことを言ったんだ」
「空母だと・・・自分でも、そう思いたかったんだろう」
「ふざけるな」
 俺は冷笑した。
「あんたにはわからないだろうが--あの島は俺たちにとって特別なものだったんだ。俺とあいつがふたりで見た、神聖な思い出なんだ。--夢だったんだ。その夢のことで、あいつがなぜ、俺に嘘をつく必要があるんだ」
「--」
「いいかげんなことを言うな」
「そう言わなければ・・・」
「何だと」
「--そう言わなければ、君と一緒に--仕事ができなかった」
「--」
「彼は、たとえ嘘をついても、何してでも」
「・・・バッ・・・」
「--君のそばにいたかった」
「馬鹿野郎!」
 俺はキレた。
「何を言ってるんだ?・・・いいか、やつはあんたに惚れて--惚れすぎて手を出せなくて、あげくの果てに死んじまったんだぞ!」
「--」
「俺は--俺はな、玲・・・あんたを憎かったけど、同情もしてたんだ。・・・あんたは男が駄目なんだと思ってた。いくら和彦が惚れたって、せまったって--それならしょうがない。あいつには可哀想だけど、拒み通したってんで--むしろやるもんだって感心してたぐらいだ」
「--」
「それを--何だ?--結婚式、だと?--男と結婚式をあげるだと?・・・それも、弟とだと?・・・ふざけるなっ!」
「--」
「玲、あんたは、ゲイだったのか。--和彦がせまったときから、・・・命がけで惚れてたときから--弟とできてたのか!」
「--何だって?」
 玲の顔に血が昇った。
「玲、--それはないんじゃないのか?--こいつは誰ともつきあってる様子がないって、安心させといて・・・ひとつ屋根の下で、弟と・・・」
「徹とはそんなんじゃない!」
「ほう、どんなんなんだ--結婚式までしといてさ」
「--」
 玲が唇を噛む。
「和彦は犬死にだな」
「三好・・・僕は」
 低い声。
「僕は、和彦にOKしたことがある」
「--何?」
「抱いてもいいと言った」
「--おい」
「--土壇場でやめたのは・・・和彦の方だ」
「・・・嘘だ!」
「嘘じゃない」
 そんな馬鹿な。
 --俺は呆然として、目の前の男を見つめた。
「--どうして・・・」
 短い沈黙。
 玲の静かな声が響く。
「彼に訊いてみろよ」
「--何?」
「君たちは幼なじみだったんだろ。10年--15年くらいも、思い出があるんだろ。その思い出のなかの彼に訊いてみればいいじゃないか」
「--」
「僕なんて」
 玲はふっと笑った。
「彼とつきあったのは、たった2カ月だよ」
「その2カ月で、あいつはあんたに狂っちまった」
 玲は目を閉じた。
「--玲」
「--」
「・・・なんで命日に結婚式なんかしたんだ」
「--」
「今日はあいつの命日だ」
 玲は黙っている。
「--玲」
 彼は顔を上げた。
「君と同じ理由だよ」
 何だと?
「ふざけ・・・!」
「忘れたくなかったからだ」
「--」
 玲は俺を見た。
 --まっすぐな視線。
 一点の曇りもない、透明な視線だった。
 どこまでも伸びていく、揺るぎない直線--
 それは遠い何かを思い出させた。
 --ああ、和彦。
 それでおまえは恋に落ちたのか。
 俺は目の前に重ねられた男の手を見た。
 指輪ひとつない、滑らかな曲線の長い指。
 白い手だった。
「--玲」
 俺は立ち上がった。
「帰んな--もうあんたに用はないよ」
 俺はリネン室の扉を開けた。
「ああ・・・そういえば--ひとつ、訊きたいんだが」
 玲が振り返る。
「あんたが描いたあいつの肖像画は、今、どこにある?」
「--和彦が持っていたはずだ。佐世保の事件の少し前に、渡した」
 それが何か?--と目で尋ねる。
「いや、--それだけだ」
 俺は笑った。
「--玲」
「--」
「お別れだ。運が良ければ、もう会わない」
「--気をつけて」
 彼は微笑んで、俺の視界から消えた。



 長い廊下を歩いて、やっと「バンケット控室」の前まで来た。
 玲のノックより早く、中から扉が開け放たれる。
「玲!」
 式服のままの徹が玲の腕を掴む。
「どこへ行ってたんだ!心配して--」
 黒い髪。黒い瞳。--帰ってきたよ、僕の、徹。
 玲がゆっくりと徹の胸に倒れ込む。
 徹は2、3歩よろけたあと、がっしりと玲の全身を抱きとめた。



Act.8 -断崖

 この季節に霧は珍しい。潮風が湿り気を帯びて肌を撫でていく。
 7年振りの故郷だった。
 俺は目立たない服装をして、岬への道を急いでいた。
 ジャケットのポケットは、いまさっき入れたばかりのフロッピー・ディスクで膨らんでいる。2枚めのディスクだった。
 --あいつ、いいカンしてたな。
 俺は藤坂玲の白い顔を思い浮かべる。
 玲の言ったとおりだ。俺たちの組織では、彼をかばった稲葉和彦が逮捕されてすぐの時点で、藤坂玲を監禁、人質にしてしまえという意見が強硬だった。それが実行されなかったのは、和彦が公安に渡すと脅していた組織のデータのありかがわからなかったからだ。
 もちろん、俺が最初に疑われた。和彦から何か預かっていないか、頼まれていないか、かなり執拗に追求された。しかし、知らないものは知らない。髪の毛1本まで調べられたあげく、俺は灰色のまま放免された。
 まもなく1枚のフロッピーが発見された。やつが昔落とした大学教授の寝室からだ。最近「交際」が復活していたらしい。太ったソクラテスのような教授は、口から泡をとばして何も知らなかったと力説した。
 フロッピーはどうやら3枚組みのようだった。残り2枚はどこか。
 組織では探索チームを組んであちこちを探し回っていたようだ。俺は灰色だからその中には入っていない。成果はあがらなかった。
 そのうち、当初の目的だった貿易ルートに関しては、別のシンパが見つかった。藤坂玲は、和彦逮捕の時に友人として公安のリストに載っている。危険を冒してまで手を出すのはどうか、という慎重論が出てきた。
 しかし幹部の中には、和彦に脅迫されて「面子を汚された」と憤っている者もいる。藤坂玲は、怒りをぶつけるには格好の標的だった。
 そして、あの美貌、である。
 幹部たちは玲に直接会ったことがない。しかし、見てしまえば俄然、色めき立つのは目に見えている。結果、どういうことになるか--
 火を見るより明らかだった。
 だからこそ和彦は命を張って玲を護ったのだ。
 俺は組織の他の連中に知られないように、こっそりと残りのフロッピーを探した。発見して処分してしまえば、玲は安全だ。しかし考えられる所はすべて、例の探索チームが調べつくした後だった。
 それが、このあいだ、玲に会った時--
 俺はこの男の、凛と張りつめた視線に、思い当たるものがあった。
 --故郷だ。
 2枚のフロッピーは、俺と和彦の故郷にある。



 予想の半分は、当たった。
 和彦は菩提寺に肖像画を「寄進」していたのだ。
 田舎の寺のこととて、油絵を展示する場所もない。画は油紙に包まれたままの状態で倉に保管されていた。カンバスの裏板の一部が2重になっていて、フロッピーが1枚隠されていた。ラベルに殴り書きの馬の絵。
 --馬?
 考えている暇はない。俺はポケットにそれをつっこむと、次の目標に向かって走った。
 ここしかない。--確信が、あった。



 霧にけぶる岬に近づくと、俺は灯台からの距離を目測した。
 灯台の20メートル手前。上から約12歩の断崖絶壁のど真ん中。
 --俺と和彦の「秘密基地」だ。
 しかし、あれから12、3年はたっている。壁がもろくなって崩れているかもしれない。--やってみるしか、ない。
 俺はそろそろと岸壁を降りはじめた。
 霧で岩が濡れて滑りそうだ。俺は緊張した。
 3点確保、3点確保・・・ぶつぶつと唱えながら、慎重に歩を進める。
 8歩目まで来たところで、見覚えのある草が目に入った。
 この草の下だ!
 俺は横に進んだ。
 --あった!洞窟だ。
 信じられない・・・少し小さくなったような気がするが、岩壁の色、下岩の突起、みな記憶通りだ。そして--
 俺の息が荒くなった。
 一番奥にあるのは、まぎれもなく--
 あの「秘密の箱」だった。
 俺と、和彦しか知らない箱。
 台風の日に取り出したまま、和彦に預けていた箱。
 これをここに置くのは、やつしかいなかった。
 俺は急いで洞窟に入る。
 昔、ふたり入れたここが、今はひとりでもかなり辛い。
 無理矢理身体を折り曲げて入れ、俺は膝の上で箱を開けた。
 --からん。
 軽い音がした。
 --出てきたのは、フロッピーと、1枚の紙。
 フロッピーには肖像画の裏にあったのと同じように、馬の絵を描いたラベルが貼ってあった。紙を手に取る。
 そこには、こう書いてあった。

  「馬の取柄」

 --何だ?これは。--俺は唖然とした。
 でも、間違いなく筆跡は和彦のものだ。絵も--そうかもしれない。
 馬の取柄--?何だろう。足が早いことか?競馬の何かか?
 ・・・しばらく考えて、俺は思い当たった。
 これは暗号文だ。
 俺と和彦が小学生の頃、一時期ハマった、アナグラムだ。
 単語や文章をローマ字綴りにして、文字を並べ替える遊び--
 俺たちはしょうもないただの通信をわざと複雑な暗号にして、解いているうちに約束の時間を過ぎてしまったり、とんでもない誤解をして喧嘩したりしたものだった。
 --しょうがねえなあ。今更、何だよ・・・
 ええと、「うまのとりえ」ね。

   U M A N O T O R I E

 母音と子音に分けると「U・A・O・O・I・E」と「M・N・T・R」これの組み合わせか。--時間がかかりそうだな。
 まてよ。
 俺は、ふと思った。
 和彦だって時間はなかったはずだ。そんなに原型を崩してないんじゃないか。それに、このフロッピーのラベルにも馬が書いてあるということは--
 フロッピーに関することか?それなら--
 俺はもう一度、母音と子音を見た。
「R」がある。「R」は・・・
「R・E・I」か。
 続くのは助詞だな。「と」か「の」か「も」か「を」・・・。
 俺は頭の中で忙しく文字を動かした。
 --解けた。
 ・・・俺は、顔を覆った。
 その暗号文は、こう書いてあった。


   R E I O T A N O M U


   「玲を、頼む」・・・



 --馬鹿野郎!
 馬鹿野郎、和彦。
 暗号なんかにしやがって。
 そんなに惚れてたんなら、言えばいいじゃないか。
 俺にひとこと、言っていけばいいじゃないか。
 紙にでも何でも、書き置きをしていけばいいじゃないか。
 俺の前では、ひとことだって--
「玲」のれの字も、言わなかったくせに!
 ・・・おまえは、知っていて--
 俺の気持ちを知っていて、言わなかったのか?
 俺に遠慮して、わざわざこんな暗号をつくったのか?
 こんなヘタクソな馬の絵なんか描いたのか?
 こんなの、とても馬に見えないぞ--
 馬鹿野郎!



 俺は箱を腰にくくりつけて、洞窟を出た。霧はまだ晴れない。
 注意深く岩を伝い、突起に足をしっかりと掛けて昇った。
 1歩、2歩、3歩・・・。
 ようやく指が崖上の地面の感触を掴んだとき、俺の額に冷たいものが押しつけられた。思わず、上を見る。
 俺は凍りついた。
 見慣れたサングラスに濃い髭面がにやにや笑っている。
「ごくろうさん、芳己。--早く上がっといで」
 俺の頬で拳銃がぴたぴたと音をたてた。



「ほう、--えらく凝った箱に入ってるじゃねえか」
 佐々木さんは面白そうにからくり箱を眺めた。
「開けな」
 まだ拳銃を離さない。
 俺はゆっくり開けはじめた。
 一方の面を少し押し、別の面をまたスライドさせる。
「ふうん・・・面倒くさいもんだな」
 13回、14回、15回--
 16回目で、俺はとまった。あっちこっちを押してみる。
「--どうした」
「わかりません」
「そんなわけねえだろ」
「いえ、本当に・・・」
 突然、ものすごい力で横面を張られた。--俺はぶっ飛んで、地面に転がった。
 佐々木さんが見おろしている。
「ぐじゃぐじゃ言うな、開けろと言ってるんだ」
「--」
「早くしろ」
 俺は起きあがり、震える手で箱を持った。
 --銃口が狙っている。
 俺は観念して、箱を開けた。
 24回。箱はするすると全開した。
「何だ、これは!」
 中は、空だった。



「どういうことだ、芳己!」
「・・・俺にもわかりません。--これしかなかったんです」
「--貸してみろ。底が二重になってるんじゃないか?」
 佐々木さんは手を伸ばした。
 --今だ!
 俺は全身をバネにして彼に頭突きを食らわした。不意を突かれて相手が倒れる。俺は箱を抱えて全速力で堤防へと走った。背中を叫び声が追う。
「芳己!撃つぞ!とまれ!」
 俺は姿勢を低くした。--とたんに、濡れた地面でずるっと滑る。俺は斜面を転がり落ちた。頭があちこちの石に当たる。気が遠くなった。
 斜面の上に、人影が追ってきた。
 --やられる。
 俺は起きあがる。頭が割れそうだ。箱を拾って逃げ--
「芳己」
 すぐ上で低い声がした。
「追いかけっこは終わりだ。--上がってこい」
 俺はのろのろと振り返る。
 鈍く光る銃口が、俺にぴったり狙いを定めていた。
「早くしろ」
 俺は斜面脇の階段を昇った。
 絶壁の上に出る。
 佐々木さんは俺の身体を探った。
 ジャケットのポケットから2枚のフロッピー・ディスクを取り出す。
 --ヘタクソな馬の絵。
 俺は唇を噛んだ。
 このうえは、隙を見て--
 こいつを突き落とすしかない。
 俺は人殺しだ。人殺しだ、でも--
 和彦--俺は、
 和彦--もう俺には、
 そんなふうにしてしか、おまえに償えない。
 おまえは俺に言った。
「玲を頼む」と俺に言った。
 だから・・・
 佐々木さんはフロッピーのシャッタをむしり取った。
 ケースを2枚に剥いで中の薄っぺらなディスクを取り出す。
 --何をやってるんだ?
 ケースを下敷にして、アーミーナイフで滅茶苦茶に切り刻みはじめた。
 銀色の中心部分だけが残される。
 そこを指で押さえてケースごと傾けると、ディスクは黒い破片となって断崖の岩の間に落ちていく。
 もう1枚も同様に分解され、光る破片は風に乗って散っていった。
 俺は呆然として立ちつくす。
「--佐々木さん」
 サングラスが俺を見る。
「今日のことは、--何も見なかった、いいな」
「--」
「ひでえ顔だな」
「--」
「手当しとけよ」
 彼はきびすを返した。立ち去ろうとする。
「佐々木さん」
「--」
「--なぜですか」
「・・・あいつには借りがあるんでな」
「--」
「無理矢理俺が--引きずり込んだようなもんだし」
「それ--俺の爆弾のミスの--」
「知らねえよ」
 彼は口の端で笑った。
「やつから口止めされてたんでね」
「--」
「おまえにだけは言うなって」
「--」
「おまえにだけは言うなって、さ」
「--どうして」
「知らねえったら」
「--」
「和彦に訊けよ。--おまえになら言うだろうよ、あいつは--それとも、逆かな、--どう思う」
 俺は、詰まった。
 彼は面白そうに俺を眺めると、ポケットから出したものを俺に投げた。
「コースターにでもしなよ」
「--」
「何か、犬みたいな絵が描いてあるけどさ」
「--はい」
「じゃ、な」
 ちょっと手を挙げると、彼は堤防に停めてある車の方に歩いていった。
 エンジンがかかる。車は遠ざかっていった。
 その車の背景に--


 俺は、見た。


 薄れゆく霧のなかにうっすらと伸びる、1本の水平線。
 水平線の彼方からゆっくりと浮かび上がる
 巨大な黒い影。


 --島だ。


 和彦とふたりで見たあの幻の島が、俺の前にその全身を現していた。
 黒く、細長いそれは
 まるで生きもののように息づいて、
 静かに俺を見おろしていた。


 息を弾ませて見つめ続けた 俺たちの夢。
 胸を高鳴らせてともに走った、たったひとりの----


 和彦。


 やがて徐々に霧が深くなり、
 白いベールのなかに巨大な島が音もなく姿を消していった後も、
 俺はいつまでもその場に立ちつくしていた。 







パイプハウス  了 

あとがき

 僕がパイプハウスを訪れたとき、すでにそこは廃屋だった。青春の残骸と言ってしまうにはあまりにも多くの人間の、皮膚の一部のような記憶が満ち溢れて僕の胸を衝いた。
 東の窓から空を見あげて僕はそっとつぶやく。
 この古いおまじないは、まだ、きくだろうか? 

            季節はずれの、風よ、吹け。

1998.2.16 内藤更紗


(掲載詩所出) 
     羊の群れを離れて 迅JIN 「季節はずれ 7号」より
     静かなる午後    在原岩美 「余白のために」より
     余白のために    在原岩美 「余白のために」より
以上






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