on the road 内藤更紗
on the road 海辺
Act.4 -春の雪



 岡山に戻ってからの数日間は忙しかった。
 おれは片端から美術・デザイン系専門学校の資料を取り寄せて内容を検討した。
 学費、所在地、カリキュラムの内容、就職状況。物価と生活費についても考えなければならない。最終的に大阪にある1校、神戸にある1校が射程距離内に入った。山陽線に揺られて2校ともを見学し、学内の雰囲気を確認してから大阪の方に決めた。
 学費の計算は特に重要だった。2年制で1年の後期と2年の分は入学してからアルバイトで稼げそうだったが、1年前期分の授業料と入学金、願書受付費、教材費は入学前、早いものでは11月下旬にも払わなければならない。入学前に必要な金はおれの今の生活費の約5カ月分の金額だった。
 さしあたって来月に迫った大学祭の公演準備や頼まれていた同人誌のイラストの仕事ははずせない。3月までの授業のなかにも出席したいものがあったし、後期試験も受けるつもりでいた。おれは夕方からの空いた時間でできる長期のバイト先を探し、下宿近くのレストラン「フォーゲル」でウエイターの募集を見つけて働き始めた。
 おれは、誰にも相談しなかった。先輩にも両親にも、親しい友人にさえ相談しなかった。嫌も応もない、おれのなかにはもう既に1本のレールが敷かれていて、それは暁生に続いているのだ。海の堤防を暁生を乗せて自転車で走ったときの、あの黄金色の夕陽に続いているのだった。その映像はあまりにも鮮明で、いつもおれを魅了した。
 そうだ、おれは絵を描きたかったのだ、本当は美術で身を立てたかったのだった。しかし大学受験の際、両親に暗黙の内に否定されて、おれ自身が負けて志望を変えてしまったのだ。おれは意気地がなくて、自分に対して不誠実だった。おれが岡山に来て何をしても十全に生きていないような気がしてならなかったのはおそらくそのせいだ。
 おれは、もう一度生き直したい。もう一度、自分から目をそらさずに生きてみたい。努力して、おれ自身が納得できる一人前の男になって、もう一度暁生の前に立ちたい。もう一度あいつの顔を見たい。もう一度あいつにプロポーズしたい。それよりほかに、今のおれの生き甲斐はなかった。
 ウエイターの仕事は、おれに合っていた。ピーク時には9のテーブルと5席のカウンターを2人でまわらなければならなかったが、忙しいのは苦にならない。おれはすぐに常連の顔と癖を覚え、言われる前にサービスをするようになった。



 バイトを始めて5日めの夕方。
 看板のライトをつけに急ぎ足で店の外へ出たおれの前に、ぬっと現れた影があった。
「よう」
 くわえ煙草の髭面が笑っている。
「柴田さん」
 久しぶりだった。もう随分会ってないような気がする。
「似合うじゃないか、その格好」
 蝶ネクタイをさして言っているらしい。おれはちょっと赤くなった。
「おまえが戻ってるらしいって聞いてさ」
「―」
 彼は地面に目を落とし、足もとの吸いがらを踏みながらつぶやいた。
「・・・で?・・・ちゃんと会えたのか?あっちには」
「うん、バッチリ。3日間カンヅメでずっと話してた」
「そうか」
 少し、沈黙が落ちる。
「・・・柴田さん、今夜、行ってもいいかな」
「おう、ターキーがあるぜ」
「豪勢だな」
 じゃ、と笑っておれは店に戻る。これから忙しくなる時間帯だった。ちらほらと客たちが姿を見せ始める。
 出窓ごしに柴田さんの大きな影がしばらくそこにたたずんでいるのが見えた。






 3杯めのロックが空になった頃、おれの話はようやく終わった。
 柴田さんは黙って煙草をふかしている。
「・・・へへ」
 とりあえず、おれは笑った。
「バカなことやってるって、思ってんだろ、いいよ、そう思ったって。・・・おれだって、これが自分じゃなかったら思いっきり笑っちゃうと思うしさ」
「―」
「大学やめてデザイン学校に行くことと暁生が振り向いてくれることの間にはなんの関係もないことぐらい、おれだって十分わかってるさ、でも」
「圭」
 柴田さんの太い声がおれをさえぎった。
「服を脱げ」
 おれはグラスを持ったまま、彼を見た。
「・・・冗談だろ、おれは今日、そんなつもりで―」
「今、体重何キロある」
「え?」
「言ってみろ」
「・・・知らないよ、そんなの。計ってないもの」
「じゃ、今日朝から食べたものを言ってみろ、全部」
 顔がすうっと赤くなるのがわかった。
「・・・バイト先で食事が出るから、ちゃんと―」
「朝と昼は?」
「朝は前から珈琲だけだったから」
「昼は?」
「・・・いろいろだよ、外食したりパン買ったり、メシたくことだって―」
「今日の昼は?」
 おれは黙った。ここ3週間ほど昼は食べていない。あれこれと考えると、一円でも多く節約して貯金をしなければという気持ちになっていた。夕食がいちおうとれるのだから餓死はしないはずだ。空腹さえ我慢すればいい話だった。
 目を伏せたおれの前で柴田さんが炬燵から立ち上がる気配がする。冷蔵庫のドアが乱暴に閉まり、おれの目の前にソーセージと台湾バナナの束がドンと置かれた。
「喰え」
 頭に血が昇った。
「腹は減ってないよ」
「何言ってるんだ、そんなガリガリの身体して。おまえ鏡持ってないのか」
 言われなくてもわかっていた。ここ数日、ジーパンがやたらとゆるくなっていることぐらい、それぐらい―
「余計なお世話だ」
「何だと」
 髭面が目をむいた。
「ほっといてくれよ、関係ないだろ、あんたには」
 めぐんでもらういわれはない。
 同情はなおさらご免だった。
「おれの問題だろ、おれと暁生の―」
 次の瞬間、おれはもの凄い力で畳の上に張り飛ばされた。背中にガツンと固いものがあたる。壁際に積んであった雑誌の束が頭の上からがらがらと崩れ落ちてきた。腕で顔をガードし、やっとのことで雑誌の山から身体を起こす。目の前には怒りで目の縁を真っ赤にした彼が仁王立ちになって震えていた。
 おれはにらみ続ける彼から目をそらして、ゆっくりと立ち上がる。
 左の頬がまだじりじりと痺れていた。痛いというより、感覚がない。
 何か言おうとした彼の脇をすり抜けて扉を開け、玄関に向かった。
 スニーカーをつっかける。
「・・・圭」
 背中に低い声がした。おれは唇を噛みしめる。
「圭!」
 肩がぐいとつかまれる。おれは前を向いたまま、しゃにむにその手を振り払って外に出た。
 振り返らなかった。



 柴田さん、頼むから、もうおれのことは心配しないでくれ。
 おれは、もう誰にも、心配されたくないんだ。






 次の週から、大学祭に向けて演劇部の合宿が始まった。
 合宿といっても場所はキャンパスのなかの研修施設だ。20室ほどの和室はどれも、普段は眠っているようなクラブやサークルの学生でごったがえしている。冬眠明けの熊たちが徘徊しているような光景だった。まあ演劇部だって似たようなものだったけれど。
 この期に及んで基礎体力をつけるためと、おれたちは朝眠い目をこすってランニングをし、柔軟をし、発声練習をし、本読み、立ち稽古へと進んだ。おれはその間も夕方にはレストランのバイトに通い、夜はまず例外なく合宿所で酒盛りになった。へべれけに酔って騒ぎながら、これが大学生活最後の舞台だとおれは自分に言い聞かせた。
 11月20日、岡大・大学祭で演劇集団「奴下流海(ぬかるみ)」の「異説・伽藍童子」が上演される。上演時間、2時間6分。後片づけも含めて、その日の夕方にはすべてが終わった。夏の終わりの残り花火のように、打ち上げには関係者全員がはしゃぎまわった。
 続く21日はデザイン学校の入学願書の締め切り前日だった。おれは銀行で手続き費用を振り込み、その領収書を書類に添付して願書を速達で送った。
 風の強い日だった。
 10枚以上の紙幣を領収書に変えて銀行の重いドアを開けたとたん、冷たい風のかたまりがおれを吹き上げるように押し寄せてきた。おれは一瞬目をつぶり、ゆっくり息を整えてから、前方をにらみつけるようにして歩き始めた。
 背後の灯が遠ざかっていく。
 もう戻れないぞ、という声が背中に聞こえた。



 大学祭が終わってから、おれは昼のバイト先も探し始めた。
 入学金の工面はもちろんだったが、大阪に移った当初の生活費も考えなければならないことに気がついたからだ。
 おれはアルバイトで自活するつもりでいたが、引越してからできるだけ早く仕事を見つけるとしても、給料が出るのは1カ月後。それまでの家賃と生活費、それに住むところを決める時にもその月分の家賃、10カ月分の権利金、1カ月分の、不動産業者に支払う手数料がいる。おれは電卓片手に計算を始めた。
 あと4カ月―貯められない金額ではない。ポイントは、おれの身体がオーバーヒートしない程度の、できるだけ長期に続けられるバイト先を探すことだった。たとえどんなに時給がよくても、つぶれて途中で挫折してしまっては何にもならない。自分の身体が丈夫でないことはよくわかっていた。
 アルバイトの情報誌よりも、大学の学生課の掲示板の方がそれに近いんじゃないか、と教えてくれたのは、友人の福山だった。漫研で同人誌を出している男で、おれとは多学部にまたがった心理学の講義中、ノートに落書きを描いているのを見られたのが縁で知り合った。おれが大阪へ行くと告げたとき、おれも実は卒業したら東京へアニメの勉強に行きたくてさ、と目を輝かせた、気のいいやつだ。
 なるほど、学生課に行ってみると、思ったような条件の求人がけっこうあった。
「あれ、でも、この掲示板に書いてある“学生は登録番号を明記して・・・”ていうのは何かな」
「ああ、それ。バイト希望の学生は毎年4月に登録するんだ。それで1年にひとり10件まで仲介してくれるわけ」
 知らなかった。
「4月か。・・・なら、おれはダメだな」
「何で?」
「登録してないもん」
「おれの、使やいいじゃん」
 おれは思わず、彼のニキビ面を見る。人なつっこい目がくりっと笑った。
「大丈夫、絶対ばれないって。それとも、嫌?おまえ、福山司郎って呼ばれんの」
「嫌じゃないけど」
 おれが何かしたら、おまえの責任になるんだぞ。
「じゃ、決まり。何かさ、分身の術でおれがふたりになったみたいで面白いな」
 ドッペルゲンガーね、今度のストーリーに使えるかも、そう言って福山はきゅっと眉をしかめ、漫画家の顔になった。






 翌週からおれは、福山司郎になりすまして設計事務所で働き始めた。
 彼のドッペルゲンガーだという意識はおれにいい意味での緊張感をもたらした。何せ、遅刻してもさぼっても、彼の失点になるのだ。おれは自分の時より以上に働いたと思う。まあ、能力の点でどうだったかはわからないけれど。
 おれの一日は朝9時から夕方4時半まで設計事務所でバイトをし、5時ギリギリに「フォーゲル」に駆け込んで夜9時半までウエイターになる、という時間割だった。簡単な食事にしろ、夕食が出るのはありがたい。何せ、栄養源はこれだけなのだ。おれはあいかわらず昼食を抜いていた。設計事務所では昼食時になるとまずOLたちが弁当をひろげ、それから男性社員が連れだって食事に出かける。おれはさりげなく抜け出して、近くの公園で時間をつぶした。雨の日にはベンチも濡れているので、歌を歌いながら近辺を散歩した。
 日曜はどちらのバイトも休みなので、おれは下宿で自炊した。新たに食材は買えないので、今あるものでやりくりする。これはけっこう楽しい作業だ。おかゆ、塩飯、バターライス。米がつきると小麦粉の出番だ。水で溶いてフライパンで焼く。塩加減の重要さを知ったのもこの頃だった。
 おれはまた、少し痩せたようだった。さすがにいつも空腹だったが、体調はそれほど悪くない。非常事態もある程度続けば、身体はそれなりに慣れるもののようだ。おれは体調を維持することに気をつけた。風邪をひいても、薬代はないのだ。
 おれは大学をやめることをごく親しい人間のほかには言わなかったが、演劇部の合宿中に一度、デザイン学校の募集要項の封筒を部屋のなかに置き忘れたことがあった。そこにはおれの名前を記入した書類も入っていたので、部の連中には知れてしまった。大学祭の期間中に、その噂はおれの研究室の方にも広まったようだった。
「よう、水島」
 研究室の3回生、森口さんの丸い顔が「フォーゲル」のドアからのぞいたのは、そんな時だ。ちょうど客のひいた時間で、おれはテーブルクロスを直していた。
「ここでバイトしてんだって?」
 ええ、いらっしゃいませ―すましてそう言いかけたおれの顔が、一瞬固まる。
 森口さんのずんぐりした身体の後ろから現れた、背の高い、はにかんだような笑顔。
「長谷さん」
「久しぶりだな、水島」
 少し伸びたあごひげが、懐かしい。
「さあ、今日はお客さんだぞ、圭ちゃん。どんどん喰って売り上げに協力するからな」
 つったったままのおれと長谷さんを尻目に、森口さんはさっさと店の奥まで進んで、いちばん大きなテーブルにどっかりと腰をおろした。






 その夜おれは久しぶりに長谷さんの下宿に行って、森口さんも一緒に3人で酒を飲んだ。おれは暁生とのことは伏せて、ただデザインの勉強をしたいから大学をやめるのだと説明した。森口さんは新しい学校のことをいろいろ訊きたがり、おれはグラフィックデザイン科のカリキュラムについて詳しくしゃべった。
「アドバタイジングとエディトリアル?それは何だ?」
「アドバタイジングっていうのは広告のことで、ポスターや新聞、雑誌に載っているような広告をつくるんです。エディトリアルは編集のことで、書籍やパンフレットの誌面をデザインしたり、それから・・・絵本や、トランプなんかのカードも入るかな」
「ふうん」
「授業としてはそのほかにパッケージとタイポグラフィ・・・文字をつくるやつです、それから基礎デッサンとか、イラストレーションとか」
「ふうん、ポスター、パンフレット、・・・パッケージや、文字なんかもつくるわけ。水島にぴったりだよな、才能あるもん、圭ちゃん」
「いや、それはやってみないと才能なんてあるかどうかわかんないですけど」
「大丈夫だ、おれが保証する、太鼓判押すから、ぜえったい大丈夫」
 そう言いながら、森口さんはだんだんゆでダコに変身する。やばいぞ。
「水島」
 汗ばんだ手でおれの両手をぐいと握る。思わずおれは身体をひく。
「頑張れよ、おまえ見てて、いつも思ってたんだ、こいつはここにいてもいいのか、もっと違う世界があるんじゃないかって」
「―」
「おまえはいつも楽しそうにみんなと遊んでるように見えたけど、おれにはときどき、おまえが知らない場所に迷い込んできたきれいな鳥みたいに見えて、おまえがどうしていいかわからなくて、とまどって、立ちすくんでいるように思えてならなかった」
「森口さん」
「おまえの居場所はここじゃない、おまえはもっと別の世界で、おまえにあった別の世界で思う存分生きてくべきなんだって、おれはいつもそう思ってたけど、でも具体的にどうすればいいのかわからなかった。どこがお前の世界なのか、おれにはわからない。だからどう言ってやればいいのかも、わからなかった」
「―」
「でもおまえは、自分でそれを見つけて、自分で頑張って、自分でそこへ行くんだ、そうなんだ、だから―」
「森口さん、あの」
「だから、大丈夫だ、おまえならきっと大丈夫だ、圭・・・」
「おい、森口」
 とっさに長谷さんが手を伸ばすより早く、森口さんの上体が前のめりになっておれの膝の上に崩れ落ちてきた。手はおれの両手を握ったまま、突っ伏して動かない。
「森口、いいかげんにしろよ」
 長谷さんが森口さんの肩をつかんで引き離そうとした時、不意に地の底から湧き上がってくるような轟音がおれの腹に響いた。
 おれたちは顔を見合わせる。森口さんは完全に眠っていた。



「悪かったな、こいつおたくのバイト先に行く前にもちょっと飲んでたらしくて」
 ふたりがかりで森口さんを布団にひきずって寝かせたあと、長谷さんはおれに謝った。
「おたくが研究室に来なくなってから、こいつ気をもんでてさ。演劇部は合宿中だからって言っても変だ、変だってきかないんだ。そのうち、おたくが大学やめて大阪に行くって噂聞いて、バイト先まで聞き込んできたのになかなか行けないでいたらしくて、どうしてもっておれが駆り出されてさ」
「・・・それなら、下宿に来てくれればよかったのに。おれ、ここんとこ夜ならいつでも帰ってますから」
「おたくは玄関近くの部屋に大家さんががんばってるだろ?こいつにしちゃ、行きにくかったんだろ」
「―」
「でも、良かったよ。ウエイターしてるって聞いたから、こいつよけいな心配しててさ。変な店だったら何としてでも連れて帰るんだっていきまいてて、店の前で武者震いなんかしてたんだぜ」
 変な店って・・・。おれはつい、赤くなった。
 長谷さんが苦笑しておれを見る。
「でも店もちゃんとしてたし、おたくもしっかりした考えを持ってここから離れるんだってわかって、ほっとして、気を張ってた分、今までの酔いが急に出たんだろう」
 見ろよ、平和な顔して寝てるよな・・・と、長谷さんはあごをひょいとあげた。
 いつのまにか暴風雨のようないびきはやみ、森口さんは布団をこんもりとふくらませてすやすやと眠っている。
 おれは何となく、下を向いた。
「・・・水島」
「―」
「気にするなよ、あいつはおたくが可愛いんだ、その、変な意味じゃなくて」
「―」
「ファンなんだよ、おたくが自分の才能を伸ばすために気楽な大学生活を捨てて、ほかの学校に入り直すって聞いて、なおさらえらいって感心して―」
「違います」
 おれは思わず、彼をさえぎった。
「そんな、・・・そんな立派なものじゃないです、おれは」
 暁生に失恋したから、出ていくのだ。
 失恋して、もうどうしようもなくなって、何かに必死にすがりつこうとして、あるかどうかもわからない暁生との「未来」を夢見て、ただそれだけのために大学をやめるのだ。おれは何にもえらくない。おれは、誰かにほめられる資格も、心配してもらう資格もない。
「水島」
 長谷さんの視線が痛いほど頬を刺す。
「・・・おたく、デザインの勉強がしたくて大阪へ行くというのは、違うのか?」
 おれは唇を噛みしめる。
 気まずい沈黙が流れた。
 長谷さんが言いにくそうに声を絞り出す。
「・・・水島、おれは大学祭の前、夜中にこの坂の下で水島を見かけたことがある」
 え?
「何だか様子が変だったので声はかけなかったけど。・・・もしかして」
 おれは長谷さんを凝視する。
「・・・柴田さんのことで、何か困ってるんじゃないのか?・・・その、しつこくされたり、つきまとわれたり・・・それで、大学をやめて、ここを離れることに―」
「違います!」
 それがあまりに大きな声だったので、森口さんが唸って寝返りをうった。
「あの人は、そんな、・・・長谷さんの考えているような人じゃないです」
 語尾が震えた。
「そうか、すまん。・・・失礼なことを言った」
 長谷さんは即座に謝り、ちらっと布団の方を見た。
「そろそろ帰るか?水島、途中まで送るよ」






 満天の星だった。空気がこわいほど澄んでいる。
 おれと長谷さんは近道をするために大学構内に入った。冷たい鋪道におれたちの足音だけがぴたぴたとついてくる。
「長谷さん、サハラ行きの方はどうなんですか」
 おれは努めて明るい声を出した。
「前に長谷さんのところで飲んだ時、研究室の横綱―じゃなかった、石川さんが噂してたのを聞きましたけど 」
「ああ、あの時だったら、・・・親の反対で難航してるって言ってたか?」
 長谷さんは気さくに笑って、おれの方を見た。
「ええ」
「あれから大分進展してね、・・・いちおう、行けることにはなった」
「本当ですか?」
 おれは立ちどまった。
「うん、・・・何て言うか、強力な援護射撃があってね、幼なじみの人なんだけど」
 幼なじみの、両親公認の―いわば婚約者。
「おれと両親の間に入って、両方を説得してね。おれの計画書と、彼らの意向とをつきあわせてね、双方ギリギリの妥協点まで持っていって。おれの方としても当初の計画からは随分後退したけど、何とか親に納得してもらえるかたちで夢が実現するんだから、まあよしとすべし、だよな」
 長谷さんは照れくさそうに言った。
「おめでとうございます」
 おれは笑って、お祝いを言った。
「でも、先の話だよ。いろいろ準備もあるから、いちばん早くて、さ来年だ」
「それでも、おめでとう、ですよ。何だ、それならさっそく前祝いをしなくっちゃ」
 婚約者か。さすがだな。
 おれは長谷さんに憧れてるばかりで、結局何もこの人の役に立てなかった。
 ―不意に、寂しさが胸を突いてあがってくる。
 ぶるっと鳥肌が立った。
「・・・水島」
 長谷さんがおれをしばらく追い越したのに気づいて、戻ってきた。
 少しためらってから、低い声で尋ねる。
「・・・今度のこと、ご両親は当然、知っておられるんだろう?」
 おれは顔をあげて、にっこり笑った。
「長谷さんのようにはいかないです。おれは、たぶん、勘当でしょ」
「水島」
 彼の声音が厳しくなった。
「人はひとりで大きくなったわけじゃないんだぞ、・・・わかるな?」
「わかります」
 おれは静かに答えた。
 長谷さんがおれをまじまじと見る。おれは照れ笑いを返した。
 夜風がすうっとおれたちの間を通り過ぎた。






 おれの噂が広まるにつれ、バイト先のレストランや下宿にはいろんな顔が訪れるようになった。研究室の先輩後輩、演劇部員、シネ研、ブラバン、UFO研究会の面々、以前つきあったことのある仏文の女の子、教育の女の子、生協の男も顔を見せた。とまどいと羨望の入り交じった視線がおれに注がれる。皆がおれに好意的なのが、おれには何とも面はゆかった。
 森口さんはあの日以来、3日にあげず「フォーゲル」に現れるようになった。おれと長話をするわけでもなく、いつもにこにことおとなしくカウンターで飲んでいる。そんな彼を見ながら、おれは無意識にその隣に長谷さんの姿を探すこともあった。
 彼はそう何度も来られないだろう。それはおれにもわかっていた。ここはそんなに高級な店ではないけれど、サハラ行きのために水を飲んでまで資金を貯めている長谷さんには、外食をする余裕なんてないはずだ。そう考えればあの日、たった一度だけにしろ、彼がここに来てくれたことがおれにはとても嬉しかった。
 日一日と年が残り少なくなっていく。日々は駆け足で過ぎていった。
 12月20日、設計事務所の昼休み時間を利用して、デザイン学校の入学金と1年前期の授業料を払い込む。これで、4月からあの学校に通えるのだ。銀行の領収書をきちんと折って財布にしまい、おれは小春日和の公園を歩いた。
 ぽかぽかと、いい陽気だった。
 ふと気づいて、芝生にごろりと寝ころんでみる。うーんと足をつっぱって伸びをする。睫毛の間に陽射しがこぼれ、おれは不意に睡魔に襲われる。
 ・・・この間、こうやって眠ったのはいつのことだったろう。
 芝生に寝ころんで、うつらうつらと日を過ごしたのは、いつのことだったろう。
 思い出せなかった。
 もうずいぶん長い間、眠っていなかったような気がした。



 暁生。
 声に出して、呼んでみた。
 暁生・・・
 おれは、やっと、ここまできたよ。






 シャリ、シャリ。
 凍りかけた地面を踏む足音がした。
 おれはかかえていた膝から顔を起こして、前を見る。
 たよりなくまたたく外灯の下に、暗く濃い人影が近づいてくる。
 おれはジーパンの泥をはたいて、立ち上がった。
 足が痺れて、関節がぎこちない音をたてる。
 ため息が、周囲に白く広がった。
 人影が急に、立ちどまる。
「・・・圭」
 銭湯帰りの柴田さんが、急ぎ足でおれに駆け寄った。



「うう、寒いね、今年はいつもよりうんと寒い」
 おれは柴田さんの部屋に入るなり、炬燵のなかにダッシュした。
「手と足の感覚がないや」
 身体がシャーベットになったみたいだ。震えて丸まっているおれを見て、柴田さんは黙ってボアつきのコートを投げてよこした。
「しばらく着てろ、いま珈琲いれてやるから」
「あ、それならさ、皿とフォークもある?」
 おれは炬燵布団とコートに埋もれ、亀のように頭だけ出して注文する。
「ケーキ買ってきたんだ」
「ケーキ?」
 流しに立った柴田さんが振り返った。
「うん。・・・あの、好きかどうかわかんないけど、甘いもの、全然苦手なわけじゃないだろ?・・・だから、いちばんスタンダードなやつ、いちごショートだけど」
「―」
 髭面が眉を寄せてじっとおれを見る。おれはどぎまぎしてうつむいた。
「あの、嫌いなら―」
「嫌いじゃないよ」
 低い声と一緒に、湯気の立った珈琲のカップが運ばれてきた。おれはケーキの箱を出す。四角いケーキの箱のなかから、三角形のいちごショートが2個、顔を出した。太い指が目の前で器用にケーキを皿に移し、フォークを添えておれの前にきちんと置く。真っ白な生クリームの上に乗った、真っ赤ないちご。
 思わず、喉がごくりと鳴った。
「何してるんだ?喰えよ」
 おれはおもむろに手を伸ばす。フォークの横腹がスポンジに埋まるやわらかな感触。口のなかいっぱいにふわっと甘いクリームが溶ける。何カ月ぶりだろう、ケーキなんて。
「甘いなあ」
 おれは笑いながら柴田さんの顔を見あげる。
「甘くて、美味いよ」
 おれは馬鹿みたいに繰り返す。
 柴田さんの垂れ目が曇った。
「これも喰え、圭」
 彼が手をつけてない自分の皿をこちらに押した。
「食べてくれよ、それは柴田さんのだ」
 おれは押し返す。
「あんたと食べようと思って買ってきたんだから」
「―」
「嫌いじゃないんだろ?」
 おれは彼に笑ってみせる。
「・・・じゃ、もらうぞ」
 柴田さんのケーキは3口で消えた。
「うん、・・・美味い」
 彼は相好を崩しておれの顔を見、髭についた生クリームを拭いた。
「しかしどういう風の吹きまわしだ?今日はまだ22日だぞ、クリスマスにはちょっと早い」
 おれは黙っている。
「何か、いいことでもあったのか?・・・ああ、例の彼氏か?」
「違うよ」
 おれは苦笑した。
「・・・あっちからは、あれっきりか?おまえが書き置きを残してそいつの下宿から出て行ってから、そいつは何も言ってこないのか?」
「それは・・・」
 おれは言おうかどうか少し迷ってから、結局口に出した。
「実は、今月の初めに、あいつから連絡があったんだ。こっち方面に来る用事があるから、会えないかって」
 髭面が真顔になった。
「それで?」
「断ったよ」
「―」
「・・・だって、会えるわけ、ないだろう。おれは今、いつかあいつに会おう、きっとあいつに会えるようになるまで、どんなことがあっても頑張ろうって、それだけを励みにして生きてるんだ。やすやすと今会ってしまって、どうなるんだ。まだ大阪へも行ってない、スタートラインにも立ってないこんな状態で、あいつの顔見たってどうしようもない。おれたちの状況が変わってない以上、会っても何の意味もないじゃないか」
「―」
「そうしたら、―おれが断ったら、あいつ、それきり何も言ってこなくてさ、そうしたら・・・」
 おれは唇を噛んだ。
「1週間ほどしてから、共通の友達からおれに電話があってさ。・・・あいつがそいつのところへ行って、飲んで、どうしようもないほど荒れて大変だったって。・・・理由はわからないけど、何かあったのかって。・・・その友達は、おれと暁生のこと、少しは知ってるから」
「―」
「・・・でも、暁生はおれには何も言ってこないんだ、おれの前でそんな本音を吐いてぶつかってきたことなんて、ただの一度だってないんだ、あいつは」
「圭」
「・・・それっきりだ。状況は、何も変わらず」
 おれは苦笑して、炬燵に入った背を丸めた。
 柴田さんは黙って流しに汚れた食器を運んでいく。おれは彼に背をむけたまま、ぽつりと言った。
「柴田さん、おれ、今日、・・・泊まっていってもいいかな」
 食器の音がやんだ。






「泊まっていっても、それはいいけどな」
 のしのしと大きな身体がおれの脇を通り過ぎて、炬燵の向かいに腰を下ろした。
「泊まるだけだぞ」
 おれは顔を上げる。柴田さんは煙草に火をつけ、煙を吐いた。
「おれはほかの男のこと想って泣いてるやつなんかをどうこうしようって気にはなれんからな」
 顔がかっと熱くなる。
「それにおまえ、そいつのことはいいのか。おまえ、こっちへ帰ってきてから誰ともつきあってないんだろ、生協のやつなんかとも。おれの耳は地獄耳だから、そのぐらいのことは入ってくるんだ。おれはおまえが、その、福岡の彼氏に操をたててるんだとばかり、思ってたがな」
「操?・・・何それ」
 おれは笑った。
「おまえってやつはときどき、信じられんほど古風なとこ、あるからな」
「それは、・・・買いかぶりだよ」
 おれは弱々しく言う。
「まあいいさ、そんなことはどうでも」
 柴田さんは立って、炬燵の脇にさっさと布団を敷き始めた。こんなボロ下宿には不似合いなほどしっかりした綿布団だ。器用にシーツを掛ける手つきを、おれはぼんやりと眺めていた。
「・・・やっぱり、汚いかな、おれ」
「何が?」
 手をとめずに彼が訊く。
「親父が言っていた、こいつは、女みたいで、出来損ないで汚いって」
 柴田さんが振り返る。
「おれの親父は麻雀が好きで、家でも3人の兄貴たちに教えこんで、炬燵でよく麻雀をしていたんだ。おれはチビだったから入れてもらえなくて、大抵違う部屋でひとりで遊んでた。いつだったか、とても寒い日で、おれは炬燵に入れてもらいたくてその部屋のドアを開けたら」
「―」
「兄貴のひとりがおれに気づいて、あっちいけって、手でシッシッってやった。おれがぐずぐずしてたら別の兄貴が、こいつほんとに女みたいで気持ち悪いって言って、おれが助けを求めて親父の方を見たら、親父は、まあ4人もいればひとりぐらい出来損ないがでるわな、触ると汚いのがうつったりしてなあって―」
「圭」
「そう言って、上機嫌で笑った、おれのことを。兄貴たちも面白そうに笑った。・・・たぶん、おれがまだ小さくて、わけなんかわからないだろうと思ってたんだと思う。今だって、そんなこと、とっくに忘れているだろう。冗談のつもりで、軽く言っただけなのかもしれない、おれはそんなふうに思おうとしてきた、でも」
「―」
「大きくなって、そのことをよく、考えた。親父がおれのことを汚い、って言ったのは当たってると思った。おれが誰とでも寝れるっていうのは、つまり、そういうことなんだ。男が好きなのに、女とだってやれる。暁生が好きなのに、平気でほかのやつの部屋に行く。おれは淫乱で、節操がない。おれは―」
「やめろ、圭」
 柴田さんが低い声でおれをさえぎった。
 重苦しい沈黙が部屋を包む。
 おれは荒い息をやっと鎮め、静かに言った。
「・・・ごめん、柴田さん」
「―」
「・・・おれは今、あんたに同情をひいてる。同情は嫌だなんて言ってるくせに、かんじんなところで同情をひいてる。まるで乞食だ、いや、それ以下だ。情けない。せっかく―」
 そこで気がついたように、言葉が途切れた。
「・・・せっかく、何だ」
「―」
「途中でやめるなよ、せっかく、何だ?」
「いや、・・・大したことじゃなくて」
「大したことじゃなくても、言えよ」
 おれはうつむいて、ごくちいさな声を出す。
「・・・せっかく、20才になったのにって」
「―」
「・・・今日はおれの誕生日なんだ。だから」
「―」
「・・・一度くらい、ケーキをって、・・・」
「圭」
 不意に耳のすぐそばで低い声を聞いて、おれは驚いて振り向いた。
 途端に、ぐいと肩を抱き寄せられた。煙草の匂いのする胸板。大きな手のひらがおれの前髪を押しあげて上を向かせ、熱い唇が重なってくる。
「いいよ、柴田さん」
 おれは彼を押し戻す。
「無理すんなよ、嫌なんだろ、おれなんか、だから」
 垂れ気味の二重の瞳がおれをじっと見る。
 瞳の奥にちらちらと灯が揺れる。
「だから」
 燃えるような火だ。
「だから―」
 ぶるぶると震えている。
「―」
 突然、熱いかたまりが喉の奥で弾けた。
 おれは彼にむしゃぶりついた。彼の大きな身体がおれに被さって布団に転がる。毛むくじゃらの太い腕で乱暴にジーパンを脱がされていくのを感じながら、おれはかすれた声で何度も、何度も繰り返した。
「柴田さん、消して、・・・柴田さん」
「頼む、消して、・・・電気、消して」
 痩せてしまったおれの姿を、この人には見せたくなかった。





10

 窓の外で、風がうなっている。
 暗闇の布団のなかで、おれは柴田さんに後ろからゆったりと抱かれていた。
 身体の奥がまだじりじりと痺れていて、少し痛い。
 太い指がそっとおれの胸を撫でる。
 肉が落ちた皮膚の上に、あばらが無惨なほどくっきりと浮き出しているおれの胸。
「・・・圭」
 低い声がうなじをくすぐる。
「熱いな、おまえ」
「・・・そう?」
「はじめは尻も腹も冷やっこいのに、こんなに熱くなるんだな」
 おれは寝床のなかで、思わず赤面する。
「・・・おまえ故郷は、和歌山だったっけ」
「うん」
「雪は降らないのか」
「山の方では降るけど、おれは海の近くだったから」
「おれの家は冬3カ月は、雪のなかだ」
「・・・ふうん」
「はじめて岡山に来たときは、冬に雪が積もらないなんて嘘みたいで、どうしても信じられなかった」
 苦笑いをすると、髭が震えてくすぐったい。
「おまえ、湯たんぽって、知ってるか」
「知ってるよ、こどもの頃にばあちゃんちに泊まりにいくと、よく布団のなかに入れてもらった」
「おれの家でも、おれが小学校の低学年くらいの頃まで使ってた。幼稚園ぐらいまでは、親と一緒に川の字で寝るだろ?その時は親の足もとにあるからあまり覚えてないんだけど、ひとりで寝かされるようになってからは、おれ用のやつを寝る前に、お袋が布団に入れておいてくれてな」
「―」
「おれは湯たんぽを胸に抱いて寝るのが好きだった。あれは足をあたためるものだから、胸に抱くと熱くなりすぎるからって、見つかるとお袋に叱られるんだ。でもな、抱きしめるとこれがあったかくて、いい気持ちなんだよな。どんなに外が寒くても、そこのまわりだけふわっとあったかくてな」
 おれの胸を撫でていた指がゆっくりと骨の起伏をなぞった。
「・・・圭」
 少し湿った、太い声。 
「・・・おまえのこのあばら骨のとこ、湯たんぽの感じとそっくりだな」
「そりゃ、どうも」
 おれは笑った。
「でも川の字っていうのは、いいな。おれはこどもの時から親と一緒に寝たことがない」
 指がとまった。
 彼の腕がおれの胸全体をゆっくりと抱きしめた。
「おまえの親は、もったいないことしたな」
「―」
「こんなに優秀な湯たんぽなのにな」
「―」
「圭」
「―」
「・・・寝たのか?」
 くぐもった声が耳のすぐ後ろで聞こえた。おれは目を閉じて、唇を噛む。
 故郷の空が目に浮かんだ。どこよりも深い闇の空。
「・・・おやすみ」
 耳もとでささやかれる低い声。
 おやすみ、柴田さん。
 おれは身体中の力を抜いて、やわらかい毛布のような大きな身体にすっぽりと身をゆだねる。
 あたたかな毛むくじゃらの胸の鼓動が聞こえた。
 カタカタカタ、と窓ガラスが鳴る。
 また、風がうなった。





11

 その年の暮れと正月、おれは帰郷せずに岡山でアルバイトをして過ごした。正月はバイト先も休みだったが、家に帰る気にはなれない。しかし同じ下宿の学生たちがみな帰ってしまうなかで、詮索好きな大家とふたりだけで何日も過ごすのは何とも気が重かった。柴田さんも「仕事」で岡山を離れていたので、おれは結局、福山司郎の家に転がり込んだ。
 福山は実家は大分で、母と妹がそこに住んでいた。転勤になった父と、大学生の息子が岡山でふたりぐらしをしていたのだ。正月には父親も大分に帰ったので、おれは福山とふたりきりになった。彼は今どきエプロンではなくかっぽう着の似合うヘンな男で、いつもにこにこと鼻歌を唄いながら、雑煮でも煮物でも器用につくる。おれのお袋よりよっぽどお袋らしかった。おれたちはモチを焼いたりミカンを喰ったりしながら、炬燵に向かい合ってイラストの同人誌の仕事に精を出した。彼はおれがゲイだと知っていたが、それでも態度を変えなかったおれの数少ない友人のひとりだ。
 三が日が過ぎ、同人誌の原稿は完成した。4日になると彼の父親も帰ってきた。おれは泊めてもらったお礼に得意料理―といっても春巻きと麻婆豆腐だが―をつくって親父さんにふるまい、福山の家を辞した。
 これからだった。おれは下宿に戻って、両親に長い手紙を書いた。



 両親からの返答は、とにかく後期試験が終わった後で帰ってこい、そこでゆっくり話し合おうというものだった。それはおれにも好都合だ。試験を受けて最後まで終了しておきたい講義がいくつかあった。単位取得という枠がはずれると、自分が本当に学びたい講義とそうでない講義がはっきりと色分けされる。その結果、学びたい講義には、大学をやめると決める以前よりずっと身が入るようになったのは皮肉だった。設計事務所のバイトも、大学から紹介してもらっただけあって試験優先にしてもらえる。おれは試験準備を楽しんだ。
 2月15日から8日間、後期試験が実施された。最終日の最後の答案用紙を出し終えると、おれはその足で故郷に向かった。



 歩き慣れた街の、歩き慣れた道路。久しぶりに見る故郷の街はちいさく灰色にすすけて見える。いつも、どこかで潮風の匂いがする。おれは電柱を数えながら歩いた。
 親父は、早めに仕事から帰ってきていた。お袋も、有給を取って家で待っていた。3人の兄はすでに社会人となって独立している。おれは挨拶もそこそこに、居間で両親と向かい合った。
 何を考えてるんだ、という叱責から、親父の言葉は始まった。
 おまえは自分ひとりで大きくなった気でいるのかもしれないが、そうだとすれば、そればとんでもない間違いだ。人間は生まれてからずっと、親や、学校や、社会のつながりのなかで生かされて、生きているんだ。そういうことを、おまえは本気で考えたことがあるのか?
 おまえの通っている大学は税金でまかなわれている学校だ。おまえはみんなの働いた税金で教育を受けている学生だという立場を考えたことがあるか。それを自分の都合だけで、途中で放り出すということが許されるとでも思っているのか?
 もしおまえが今の大学に行きたくなかったのなら、なぜ受験したんだ。なぜ、受験する時点で、もっとよく考えてみなかったんだ。おまえが受験しなければ、あの大学に行きたいほかの学生がもうひとり入学できたはずではないか。おまえはその学生に対して何と言って詫びるつもりだ、言ってみろ。
 言えないだろう。おまえはわかっていない。大学に入ってはみたものの、こんなはずではなかったという。嫌ならやめればいいじゃないかと簡単に考える、そんな自分の行動がどんなに無責任で甘えたものか、おまえにはわかっていない。世の中とはそんなに簡単にできているものじゃない。おまえには親や社会の期待に応えようとする責任感も、学生としての自覚も感じられない。だから、まだ半人前だと言うんだ。
 圭、あんたの言う、その、何とかって学校がだめだと言ってるわけじゃないのよ。―お袋がとりなすように言った。
 でも、何も今すぐでなくてもいいでしょ?ちゃんと大学を卒業して、それからデザインとか、美術とかの勉強をしたっていいじゃないの。お父さんはね、せっかくあなたが自分の希望する大学に入って勉強しているのに、それを途中でやめてしまうことに反対しているのよ。
 あと2年じゃないか。―親父は言った。おまえが、その場限りの思いつきじゃなくて本当にそっちの勉強がしたいと真剣に考えているのなら、それぐらいは待てるはずだろう。違うか。きちんと大学を卒業してから、それでもまだその学校へ行きたいと思うのだったら、おれは反対しない。



 おれは黙っていた。ひとことも反論しなかった。彼らの言っていることは正論だと思ったからだ。おれは椅子に座って終始うつむいたまま、あふれる涙を抑えることができなかった。
 両親はそれを見て、おれが反省していると思っていたらしい。でも、それは反省の涙ではなかった。おれは、絶望していた。親とおれとの関係に、おれは絶望していた。
 なぜなら、親父とお袋の正論には、たったひとつのことが抜けていたから。





12

 親父たちの意見は、正しかった。
 しかし、それはみな、一般論だった。ひとりの社会人が、ひとりの20才の学生にアドバイスをする一般論なのだ。そこには、ほかの誰でもない、その本人自身にとって、今、大学をやめてほかの学校に行くことがどういう意味を持ち、どういう結果をもたらすか、というものの見方が抜けていた。それはその人間個人の性格や能力を深く知らなければ、とても言えないことなのだ。だからこそ、その本人を長年、いちばん近くで見続けてきた家族でしかわからないこと、親でしか言えない言葉が、あるはずだった。
 両親の言葉には、それがなかった。
 無論、そのことは彼らだけの責任ではなかった。彼らがおれをわからないのは、おれが、自分を彼らにわからせようとしてこなかったからだ。おれは、これまでただの一度も、彼らと心が寄り添ったように感じたことがなかった。おれの方が避けていた、といえるのかもしれない。おれは、自分で自分が不可解だったから、そのままの自分を無防備に親にさらすことができなかったのだ。それは不可解でなくなってからだって、そうだった。―なぜなら、おれの人間としての核の部分には、男が好き―ということがあったのだから。
 おれは、自分がゲイだということを、どうしても親には言えなかった。
 それは今回だって同じだ。
 おれがなぜ今になって突然に大学をやめたいと思うようになったのか、なぜ「今すぐ」でなければならないのか、そのいちばんかんじんな理由を、おれは彼らに話せなかった。おれが手の内を隠しているのだから理解なんかしてもらえるはずがないのだ。
 だが、それなら、・・・もしおれが、何もかも話したら、理解されるのだろうか。
 おれが暁生という男を愛していて、将来彼と一緒に歩いていきたいから大学をやめるなどと口走ったら、どういうことになるのか。
 おれは心のなかで苦笑いをした。
 ありえない。この親父にも、このお袋にも、そんな事実は彼らの想像の範囲外だろう。今さらこの人たちにパニックを起こして何になる、それでどんな結果が得られるというのだ?
 おれは言えない。一生、言えないだろう。
 一生言えないまま、おれは彼らを裏切って、黙って大学をやめるだろう。
 親父は激怒するだろう、あれだけ言ったのに、あれだけ説得をつくしたのに、やっぱりあいつはひとりよがりで、親を親とも思っていない「出来損ない」だと。
 ・・・父さん。
 わかっている、おれは「色ボケ」だ。暁生のことしか目に入っていない。親のことも、世間のことも、何も考えていない。おれは恩知らずで、世間知らずな大馬鹿者だ。
 でも、暁生はおれの分身なんだ。
 あいつは、まぎれもないおれ自身の、もぎ離された、もうひとつの半身なんだ。
 おれはその半身に、出会ってしまったんだ。
 もう遅い。
 おれはもう一度人生をやり直すとしても、やっぱり同じようにすると思う。
 わかってくれとは言えない。おれが何も言わないのだから。
 たぶん一生、わかってはもらえない。
 それももう、しかたがない。おれはこんな人間だ、おれはこんな息子だ。
 父さん。



 流れ落ちる涙はおれの頬を濡らし、おれの膝を濡らし続けた。
 両親はそんなおれをしばらく黙って見ていたが、やがて寝室に引き上げた。



 翌朝、おれが目覚めた頃、親たちはもう仕事に出かけたあとだった。
 おれは手早く顔を洗って身支度をし、家のなかを見まわした。きちんと整えられた居間、トーストの匂いがまだ残っているキッチン。おれは自分の部屋に戻って、古い机の前に座ってみた。小学2年で引越して以来高校を出るまで11年間、おれが過ごした部屋だった。おれのベッドもおれの机も、おれの本棚もおれのスリッパも、誰もがおれをよく知っている。おれは彼らに微笑んで、ドアを閉めた。
 この家の敷居をまたぐことは、もうないだろう。
 玄関に出て、何とはなしに敷居を見た。
 どこの家にでもあるような敷居だった。またぐかまたがないかも意識しないとわからないような、薄っぺらな敷居。
 しかし、その薄っぺらな敷居の建売住宅を手に入れるためにおれの親たちがどれほど苦労していたか、おれは覚えていた。会社が退けた後でまだアルバイトをしていた親父、4人の子を抱えて共稼ぎでいつも疲れ切っていた皺だらけのお袋。この家は彼らの汗の結晶だ。誰はばかることのない、まっとうな労働の報酬だった。
 だからこそ、ここはもう、おれの来る場所ではなかった。



 おれは玄関の戸を閉める。門を出る手前で、もう一度だけ、振り返った。
 おれの家だった家、ありふれた濃灰色の瓦、切妻の一軒家を。
 それからきびすを返し、足早に歩いた。どこまでも、どこまでも歩いた。



 岡山に帰ったおれは、事務局に退学願を提出した。
 3月16日、曇天。





13

 ガスコンロにかかった土鍋のなかで昆布がゆらゆらと揺れている。
 おれは手早く豆腐を放り込むと、炬燵で待っている柴田さんに声をかけた。
「もう少しだからね」
 彼がグラスをちびちびと舐めながらおれをちらっと見る。
「・・・なんか、変な感じだな、そうやっておまえが台所に立ってると」
「そう?・・・いいじゃん、今日はおれの退学祝いってことで」
 おれは「アチチッ」と声をあげながら、湯豆腐の鍋を炬燵に運んだ。
 向かい合って、ポン酢に熱い豆腐を入れる。おれは水割りの、柴田さんはロックのグラスをカチンと鳴らした。
「なあ、柴田さん」
「ん?」
 湯気の向こうから髭面がおれを見る。
「昨日、退学願の承認印をもらいにいったドイツ語の島内教授だけどさ、・・・柴田さんに教えてもらったとおりゴーフルを持っていったら、驚いた顔をしてたけど」
「―」
「ひょっとして、知り合い?」
 垂れ目がにやっと笑った。
「灼いてるのか、おまえ」
「まさか」
 おれはもう絶対還暦近いはずの島内教授の、不思議に若々しい顔を思い出していた。ゴーフルの缶を受け取った時、いつも冷たいその眼鏡の奥に、一瞬だけ光が射し込むのを見たような気がしたのだ。
「・・・昔、寮の自治をめぐって大学側とやりあった時な、あいつがあっち側の代表だったんだ。当時はまだ助教授だったけどな」
「―」
「一度、学生や教授陣の見守るなかでおれたちと団交したことがあって、・・・はじめのうちはなかなか友好ムードで、茶菓子なんぞ喰ったりしてたんだが、だんだん雲行きが怪しくなって、とうとう最後は決裂しちまった。教授たちも収まらなかったが、もっと収まらなかったのは見ていた学生の方で、壇上を降りるあいつめがけて、投石したやつがいた」
「―」
「・・・間一髪だった。とっさにおれが、その場にあった菓子缶のふたをつかんであいつの顔の前に差し出して」
「―」
「ボコッと音がして、ゴーフルのふたがへこんだ。・・・そういうわけさ」
 垂れ目が人なつっこく笑った。
「じゃ、柴田さんは命の恩人じゃないか」
「そうでもないさ、そんなことはその当時、いくらでもあったからな。・・・おれは団交の最中にすました顔で菓子を平らげてるあいつを見て、大した度胸だと思ってたよ。あっちはおれのことをどう思っていたのか知らないけどな」
 おい、豆腐喰えよ、彼はおれの椀を見て目で促した。おれは豆腐と春菊を入れる。湯気とともに柚子の香りがたちのぼった。
「あちっ」
「猫舌か、おまえ」
「うるさい」
 彼は面白そうににやりと笑って、グラスの中身を飲み干した。
「・・・なあ、柴田さん」
「何だ、うちわならそこにあるぞ」
 おれは彼をにらみつける。
「違うよ、・・・ひとつ質問があるんだけど」
「何だ」
「甘納豆も、そこにいたの、その、団交に」
 バーボンを注ぎかけた手が、とまる。
「何だ、その、甘納豆ってのは」
「とぼけるなよ、あの、ヘルメットのやつだ、押入の奥にあった壊れたヘルメットの。柴田さんの仲間だったんだろ、19で―」
「それが、何だって?」
 太い声がおれをさえぎった。
「・・・そいつも、柴田さんを好きだったの」
 彼がおれをじろりと見た。思わぬ鋭い光に、おれはちょっとたじろぐ。
「・・・だって、バリケードとかにも一緒にたてこもったり、したんだろ?」
「―」
「柴田さん、そいつのこと好きだったんだろ?」
「圭」
 彼は3杯目のロックをひと口飲むと、おれを見た。
「おまえ、世のなかにおれたちみたいなの、そんなにたくさんいると思うか」
 おれは黙り込んだ。
 彼はやれやれというように、ため息をつく。
「あいつには、そんな気は全くなかったよ。要するにおれの片思いだったってわけだ。・・・まあもっとも、おれにしちゃそんなことはどうでもよかったがな」
 おれは顔を上げて、柴田さんの髭面を見た。
「考えてみろよ、圭。バリケードのなかでも外でも、時代が今、この瞬間に動いているんだぜ。ベトナムでは砲弾が飛び交って人が死に、米軍基地からは戦闘機が飛び立ち、日本政府は安保の地固めに汲々とし、全国の学生がそれに異議申し立てをしている。日本だけじゃない、アメリカでも、フランスでも、世界各地で学生たちが互いに呼応して立ち上がっている。おれたちがこの頭で考え、この手でバリをつくり、この足で駆けまわって仲間を集め、この身体を張って今闘っている、その結果がたちどころに波及して世論を揺るがし、政府の対応を変えていっているんだ。この手のなかに時代の心臓がどくどく動いているのがわかるんだ、おれたちが、おれが、時代を変えていくんだっていう興奮で、おれは眠る時間さえ惜しかった。あいつだって、そうだ」
「―」
「おれたちは毎日、頭のなかが真っ白になるほど議論した。どうすれば理想の社会が実現するのか、いやそもそも、理想の社会とは何か、その実現のためには何をしなければならないか、何を学び、何を捨てなければならないか。運動の方向性をどこに持っていくべきか。既成の運動や団体の分析、社会の現状、将来の予測、海外の情勢」
「―」
「毎日機関誌のためのガリを切り、誰彼となくオルグしてまわり、デモに参加してシュプレヒコールを叫び、バリくずしの連中とわたりあって、おれたちはいつも一緒だった。いつも同じものを見つめ、同じものに向かってひた走っていた。全身が燃えるようなあの興奮、あの高揚感に比べたら、セックスなんて平凡なもんだ」
「―」
「時代とファックしていたようなものだな、おれたちは。・・・わかるか?」
 おれはちょっと、笑った。
「・・・うん、少しはね。おれも舞台でたったひとりスポット浴びてる瞬間なんか、あんまり気持ちよくてイッちゃいそうでさ、もうセックスなんかいらないやって、感じる時がある」
「気持ちよくてイッちゃいそうか」
「・・・うん」
 おれは少し赤くなる。柴田さんは愉快そうに笑った。
「素直だな、おまえは。おれたちの頃は、そんなに素直な表現は使えなかった。・・・時代が変わったのかな」
 珍しくアルコールがまわったのか、少し遠い目になった。
「・・・柴田さん」
「何だ」
 おれはごくっと唾を飲む。
「・・・もう、あの時代は過ぎたよ」
「―」
「今は、もう、あの時代とは違うんだよ」
 彼が探るようにおれを見た。おれは残り少ないチューブから中身を絞り出すように、必死で言葉を捻り出す。
「そりゃ、おれは政治のことなんて何もわからないけど、もうあの頃とは世の中が変わってしまったことぐらいはわかる。世間の支持だってあの時代とは全然違うし、海外情勢だって。・・・おれは柴田さんたちが何をめざしているのか知らないけど、柴田さんたちの今やっていることは世の中を変える方法として本当に有効なのか、勝算はあるのか、世の中ってそんなに簡単に変わるものなのか」
「圭」
「・・・人ひとり、たかだか生きたって100年だろ?あんたは今、28か9だろ?あと60年や70年の間に、何がどう変わるっていうんだ。日本に革命でも起こせるのか?本当にそんなことができると信じてるわけ?」
 彼は黙っている。
「あんたはそんなこと、信じちゃいない」
 おれはきっぱりと言った。
「信じちゃいないくせに、甘納豆に・・・死んだ甘納豆に義理立てして、それで残りの人生を彼への追悼で締めくくろうとしている。いつまでも、こんな大学裏のしみったれた学生下宿に住みついて、いつまでもあの頃の非現実的な夢を追っている。おれは、嫌だ、そんなのは。おれは、あんたが、そんなのは、嫌なんだ」
「圭」
「甘納豆だって、きっとそんなのは喜ばない。甘納豆だって・・・」
 喉がつまって、おれはうつむいた。張り飛ばされるのは覚悟している。
 ひとつ、ふたつ、畳の目をおれは数えた。
「・・・圭」
 低く穏やかな声がおれの耳に届いた。
「おまえは勘違いしている」
 おれは目を上げた。落ち着いたまなざしがこちらを見ている。
「・・・まあ、しょうがないか。以前おまえに訊かれたとき、おれは死んでいったやつらのかわりにやってる、なんて言っちまったし。・・・だけどな、圭、おれが今みたいな生活をしてるのは何も彼らのためじゃなくて、おれ自身のためなんだ。甘納豆への追悼でも義理立てでもなくて、おれ自身がやりたくてやってるんだよ、また、そうでなきゃ、あいつに失礼ってもんだ」
 おれは疑わしそうに訊いた。
「自分の意志で・・・?」
「そうだ」
「何のために?」
「そうだな、何て言ったらわかるかな。・・・まあ、おれの夢、とでもしておくか」
「夢?」
「そう」
「・・・そんなもの、普通に考えたってかなうはずがないじゃないか、あんたは敗けるのがわかっていて、いや、敗けたいためにわざとそんな道を選んでるんじゃないのか」
 甘納豆のために、・・・おれははき捨てるように言った。
「圭、じゃ、おまえに訊くがな」
 柴田さんが目をくっきりと見開いて、おれを正面から見つめた。
「おれたちの見る夢ってのは、たかだかひとりの人間の一生で完結しなきゃならないほど、ちっぽけなものなのか?」
「―」
「え?・・・どうなんだ」
 おれは黙った。
 ・・・わからなかった。
 おれは今まで、夢とは、自分自身が実現可能なものをのみ言うのだと思っていたから。おれの人生より長い照準を持つ夢を追いかけることなど、考えたこともなかったから。
「圭」
 低い声が耳に響いた。
「おまえがこれから先どんな目標を持って、どうやって生きていくのかおれは知らない。でも、これだけは言える。おれたちは皆、何かに向かって歩いていく長い坂の途中にいるんだ。完全に水平な地面なんてどこにもない、おれたちは皆、さまざまな傾斜のついた坂の途中にいて、頂上をめざして歩いているんだ」
「―」
「 "on the road" だな」
「 "on the road" ?」
 髭面が、にやっと笑った。
「おまえ流に言えば、“巡業中”ってやつさ」





14

「おおい、水島、運ぶものこれで最後なんだろうな。これ以上はアリ1匹だって入らねえぞ」
「ちょっと待って下さい、今、押入の天袋を見たらまた出てきて」
「何い?何が出てきたんだ」
「漫画、カムイ伝」
「何だ、それくらいなら―」
「21巻」



 4月10日、おれの引越し当日は、ぽかぽかとあたたかい春の陽気だった。
 朝から森口さんが研究室の1回生たちをひきつれて来てくれたおかげで、荷物の積み込みは思ったより早く片づいた。長谷さんや福山司郎も顔を出してくれている。
 派手な送別会は辞退したのだが、それでも西洋史研究室と演劇部では有志でこじんまりとした宴を催してくれた。餞別は目覚まし時計だった。設計事務所の人たちからはスケッチブックを、フォーゲルの店長からは電子レンジを、おれはもらった。おれがコンタクトレンズを落としたまま0.1以下の視力で生活しているのを知って、「これからデザインをやるんだったら目は商売道具だろ、もっと大事にしなくちゃだめだ」という叱責とともに、レンズ代を現金書留で送ってきた友人もいる。
 柴田さんとは、2日前の夜に会った。最後だからとぎこちなくなるおれの態度とはうらはらに、彼はいつもどおりの手順で、いつもどおりにおれを抱いた。彼は何も言わなかった。おれが置いてきた新しいアパートの住所も電話番号も、嘘だということを知っていたはずなのに、彼は何も言わなかった。いつもどおりに朝の珈琲を飲み、ただ挨拶をして、おれたちは別れた。
「おい、水島!何をぼおっとしてるんだ」
 森口さんの声で、おれは我に返る。
 頭に白いタオルを巻いた森口さんが、ゆでダコのように頭から湯気を出していた。
「カムイ伝、21巻だと?そりゃ、どうしたって無理だ。もうギリギリ―」
「水島、それ、おれに売ってくれないか」
 不意に、横合いから声がとぶ。
「前から読みたいと思ってたんだ」
「長谷さん」
 白い歯をほころばせながら、彼がおれたちの近くにやってきた。首に汚れたタオルを巻き、額に汗が光っている。
「21巻?それじゃ2割引でどうだ、おれも助かるし」
 長谷さんは暗算で金額を口にした。
「え、だめですよ、そんなの。かなり傷んでるし、第一、1巻抜けてるんです。だから全集の価値もないし―」
「いいよ、それで」
「だって」あなたは水を飲んでまで、資金を貯めてるんじゃないですか―そう言いかけて、おれは口をつぐんだ。
 長谷さんはおれの顔をちらっと見て、言った。
「よし、じゃあこうしよう。水島、おたく絵が得意だろ。おれの似顔絵を15分で描けるか?それ込みで、どうだ」
「おい、長谷」
 森口さんがあわてて口を挟む。
「いいだろう、森口。それぐらいの時間は」
「・・・森口さん、すみません、あと5分、もらっていいですか」
 彼は不承不承、うなずいた。
 おれは急いで荷物のなかからスケッチブックを引きずり出し、手近にあった2Bの鉛筆で長谷さんの顔を描き始めた。きりりとした眉、意志の強そうな唇、特徴のあるあごひげ。おれの手のなかで彼の顔が、くっきりとおれを見つめている。
 きっかり10分でスケッチを完成させて署名を入れ、おれはスケッチブックの次のページを開いた。
 サイドミラーをくいっと寄せて、おれは自画像を描き始める。慣れているので筆が早い。すべるように手を紙の上に走らせると、おれの顔ができあがった。
 おれは2枚のスケッチをピリピリとはがして長谷さんに手渡す。
 彼は感心したようにそれを交互に眺めた。
「お願いがあるんです」
 長谷さんがおれを見る。
「それ、サハラ砂漠のどこかに、埋めてきてもらえませんか?」
「そいつはいいや、長谷」
 森口さんが甲高い声をあげた。
「見つけたやつが驚くぜ、ミズシマって何者だって、有名になったりしてな」
「それはないでしょうけど」
 定着剤もかけていない、鉛筆だけのスケッチだ。砂漠の砂に洗われたら、おそらく1週間ももつかどうか。
 ―それでもいい。
「お願いします」
 長谷さんはおれをじっと見つめた。
「・・・おれが、もらってもいいのか?2枚とも」
「ええ」
 彼は精悍な顔を、くしゃっと崩した。
「サンキュ、水島」



 タウンエースの後部いっぱいに引越し荷物を満載して、おれたちは出発した。運転席には森口さん、助手席には1回生の中島とおれ。
 長谷さんと福山司郎は、下宿の前でおれを見送った。土埃が舞って、すぐふたりの姿が見えなくなる。薄茶色の煙幕の向こうを、おれは何度も振り返って目をこらした。



「あれ?」
 車が総合グラウンドの脇にさしかかった時、中島が素っ頓狂な声をあげた。
「・・・雪だ、雪ですよ!」
 ちらちらと白いものが天から舞い降りる。
「ああ、・・・そうか、おまえ、こっちははじめてだったな。高校はどこだ?」
 森口さんが笑いながら、スピードを上げる。
「諌早ですけど、・・・そんなことより、ねえ、雪ですよ?4月なのに!」
「今年は早いな、水島」
「そうですね」
 おれは微笑む。
 春風に吹かれる、白い風花。
 はらはら、はらはら、天を舞う。
 ポプラ並木から舞い落ちる、白く小さなポプラの綿毛。
 はらはら、はらはら、舞い踊る。
 はらはら、はらはら、粉雪のように。
 次から次へと舞い降りる。
 季節はずれの春の雪。
 季節はずれのため息のように。
 はらはら、はらはら、激しくなる。
 フロントガラス、一面に。
 はらはら、はらはら、はらはら、はらはら。
 はらはら、はらはら、はらはら、はらはら。



 森口さんがぽつりとつぶやく。
「名残り雪だな、圭ちゃん」



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 暁生との恋は、かなわなかった。
 ほかのどんな恋も、おれにはかなわなかった。



 そして7年後の春、おれは毎年賀状の交換をしていた森口さんから、一通の手紙を受け取る。
「拝啓 水島様 お元気ですか。
 余計なことかと随分考えましたが、やはりお知らせした方が良いと思ってペンを取りました。こちらの地方紙に載った記事を同封します。但しこれが貴方のお知り合いかどうか、確証は取れていません。同姓同名ということもあるからです、念のため」
 おれは震える指で、小さな新聞の紙片をつまみ上げた。


「6日午前8時頃、岡山市網浜の旭川下流で男性の死体が浮いているのを近くの人が見つけて警察に届けた。調べによるとこの男性は岡山市住吉町六丁目×ー××、柴田義人さん(36)とわかった。頭部と腹部に多数の外傷があり、警察では何らかの事件に巻き込まれた可能性があると見て捜査を進めている」



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 柴田さん、おれは今日、40になった。何か、とても奇妙な気分だ。
 そして相変わらず、迷いながら生きている。
 柴田さん。
( "on the road" だ、圭。 "on the road" ・・・おまえ流に言うとな?)
 髭面が、人なつっこく笑う。



 おれはハイライトに火をつける。
 白い煙が、ゆるやかに外の闇に溶けていった。





on the road 了

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