第1話 図書館 ■ 内藤更紗
図書館タイトル


 僕は最近、冷蔵庫を磨くのが好きだ。
 磨くといっても、側面はどうでもいい。扉の内部も知っちゃいない。
 ただあのつるつるした広い平面をクレンザーでこするのが気持ちいいのだ。
「それは親父の背中願望てやつさ」とロクさんは言う。
「おまえ、風呂で親父さんの背中流したことないんだろ」
 そりゃないけどさ、いっぺんも。


 僕とロクさんは親子ほど歳が違う。
 ロクさんは僕の同居人だ。
 いや、同棲してる―と言った方がいいのだろうか。
 つきあいはじめた頃の頻度こそなくなったけれど、
 一応今でもセックスしてるし。
 お互いに気心が知れて同居が快適になってみると
 毎晩手をつないで眠るだけでも安心してしまう。
 そんな関係だ。


 僕がWeb上で小説を書きだしてしばらくたった頃
 ロクさんが一冊の古い日記帳を僕の前に置いた。
 以前から、そろそろ大台を迎える彼の記念に何か書いてあげると約束していたのだ。
「この日記を読んで文章にしてくれ」と言う。
 読んでみて、僕は驚いた。
 それはロクさんが若い頃つきあっていた「K」という男の日記だったのだ。
 そこには彼が大学に入ってロクさんと知り合い、2年後に、他の男と暮らすために
 その土地を離れるまでの心境が細かく綴られていた。
 膨大な文章のほとんどが、新しい彼氏への熱烈なラブコールだ。
 Kは別れ際に、ロクさんにその日記を預けたのだという。


「ねえ、このKって、どんなやつだったの」
「どんなって・・・そうだな、細くて顔はちょっと可愛い系で、
 いろんな男や女のところに出没してて・・・、
 気まぐれな猫みたい、って言えばいいかな。
 もっともその日記読むと、その彼氏には随分一途だったみたいだけど」
「ロクさんともつきあってたんじゃなかったの」
「一応はな、・・・だけど要するにおれは振られたわけだろ?
 あいつは結局その彼氏のとこ行っちまったんだから」


 僕は日記を読み込んでいくうちに、奇妙な感覚にとらわれた。
 新しい彼氏への言葉があまりにも熱烈すぎて非現実的なのだ。
 これではまるで恋そのものに焦がれた空想じゃないか。
 相手の実体がちっとも浮かんでこない。
 ひょっとして・・・
 Kには新しい彼氏なんか、本当はいなかったんじゃないだろうか。
 じゃなぜ、いるふりをしてこんな日記をロクさんに残して去っていったんだ?


 僕は考えているうちに、ロクさんも同じ疑問を持ったに違いないと思いはじめた。
 ずっとずっと長い間、その思いは心の中にわだかまっていたのだろう。
 その解答を僕に求めたくて、わざと日記を読ませたのだ。
 だけどロクさん、と僕は胸の中でつぶやいた。
 それは20年ばかり遅かったよ。


 僕の勘に狂いがなければ、Kはロクさんのことを本気で好きだったのだ。
 あの日記の熱い言葉はみんな、ロクさんにあてたものだった。
 でもロクさんは妙に恋愛に醒めたところがあって
 遊び人のKはついに本心を打ち明けることができずに
 絶望して最後の賭けに出たのに違いない。
 架空の恋人をでっちあげて大学をやめ、ロクさんのもとを去っていった。
 追いかけてほしかったのだ、彼は。
 それほど淋しかったのだ。


 でも、鈍いロクさんはそれに気づかなかった。
 それなのにいまだにKのことを忘れられないでいる。
 この小説がWeb上で公開されたら、万に一つはKが読んで連絡をしてくるかもしれない。
 彼がそれをひそかに心待ちにしているのが僕にはわかる。
 そんなロクさんに、僕はどうやって本当のことが言えるだろう。
 Kが愛していたのは実は貴方だったのだと。
 Kは20年前、貴方が追ってくるのをただひたすら待っていたのだと。


「ロクさん、悪いけどさ、これこのままじゃちょっと小説にならないから、
 フィクション入れてふくらませてもいい?」
「ああ、いいよ」
「僕の昔の体験なんかも、入るかもしれないけど」
「かまわんよ」
「ロクさん以外の人とのHシーンも入れてもいい?」
「まかせるよ。・・・ただ」
「ただ、何?」
「おれは最後に死んだことにしてくれ」
「・・・わかった。それから、これだけは訊いときたいんだけど」
「何だ?」
「Kという主人公、最後はどうしたい?・・・依頼者の要望に応えるよ」
 ロクさんははじめて黙った。
 20年間分考えているような、長い沈黙だった。
 僕は忍耐強く待つ。
 ロクさんは僕の方を見て、低い声で言った。
「・・・おまえにまかせるよ」


 僕は結局、Kの新しい彼氏を、実在の人間として書いた。
 それにはほとんど僕自身の経験が入っている。
 日記にはなかったKの中学、高校時代のエピソードも僕のものを中心にして書いた。
 だから彼が大学に入ってロクさんと出逢う場面は、
 まるで僕が彼に出逢ったように、書いていてドキドキした。
 僕は自分がKになったような気がした。
 Kになって、20年前の若かったロクさんに抱かれているような気がした。


 しかし、それはKなのだ。
 実際にそうやってロクさんに抱かれ、ロクさんを愛していたのは
 実在するKという人間で、僕ではない。
 どんなに僕がKに感情移入しようと、どんなに時代背景をつぶさに調べぬこうと
 僕が彼らのいる70年代の過去に戻れるわけではない。
 僕が20年前の彼らの肉体に出逢えるわけではないのだ。


 僕はインタビューと称してロクさんの昔話を聞き、
 むりやり取材旅行を主張してふたりで彼の学生時代の土地を訪ねる。
 まるでデートしてるみたいにさ。
 ロクさんがKと歩いたキャンパス、ふたりで過ごしたアパート。
 喫茶店、時計台、ポプラ並木。
 僕の心が乾いていく。


 3カ月後、僕はやっと完成した小説をロクさんに見せた。
 ロクさんは長い時間かけてていねいにそれを読み、僕に「ありがとう」と言った。
「主人公は生かしておいてくれたんだな」
 そして久しぶりに、僕の腰を抱き寄せようとする。
 僕はその手を振り払って、マンションのドアから飛び出した。


 星のない夜。吹きつける潮風。通路の手すりに僕はひじをつく。
 どこにいくあてもない。
 何をするあてだって、本当はないのだ。
 ただ毎日を働いて、暮らして、そして・・・・


 帰るところだってない。
 K、僕はおまえと同じだ。


「ナオ」ロクさんが背後で僕を呼ぶ。
「そんなとこにいると、風邪ひくぞ」
「海を見てるんだ」
「真っ暗だから見えんだろう」
「見えるよ。・・・感じる」
 ロクさんが僕の横に並ぶ。潮風がびゅうびゅうと頬から耳を吹き抜ける。
「・・・ナオ」
「ロクさんは、わかってない。僕がどんな気持ちであの小説を書いたか」
「わかってないのはおまえの方だ。おれがどんな気持ちで、あいつの日記をおまえに託したか」
 僕は振り向いてロクさんを見る。真っ暗で彼の表情はわからない。
 深く刻まれた皺だけが闇の中に浮かびあがる。


 久しぶりに腕枕をされる。
「ナオ、・・・最近、何か煮つまってないか、おまえ」
「そうかなあ」
「刺激が足りんのか?レンアイしてるか、ちゃんと」
「ドウデショウカ」
 僕はとぼける。
「・・・じゃ、おまえの理想の恋愛、てのを言ってみろよ、作家センセイ」
「ソウデスネ。・・・まず、出逢いは図書館、てとこデショーカ」
「それで?」
「航空工学、の棚なんかがいいデスネー。そこの前の机に座って力学の本なんか読んでたら、
 偶然前に座った人が同じタグイの本を読んでて」
「ふんふん」
「お互いにちらちら意識したりなんかして。・・・で、その日はそれで別れマス」
「別れるのか?」
「ハイ。・・・それで、1週間後くらいに通勤電車で乗り合わせルンデスネ。
 それで視線をバシバシ送り合って、また数日後に―」
「まだ先があるのか。恐ろしく手間がかかるんだな」
「それがいいんだよ」僕は口をとがらせる。
「そうやって少しずつ気持ちが盛りあがっていくのがいいんじゃないかあ〜」
「・・・そうか。おれたちはナンパで知り合ったんだもんな。
 お互いの名前を知ったのはHのあとだもんなあ」
「だから、そんなのはヤなんだよう〜」
「ヤだって言っても・・・」
「ロマンが欲しいんだよう、ナオサンハ〜」
「やれやれ」


 日曜日。僕は早朝からたたき起こされた。
「ほれ、はやくそこのメシ食って、出かける用意して。ぐずぐずしてると席がなくなるぞ」
 僕はわけがわからないまま家を出る。先を行くロクさんを、やっと地下鉄の入り口でつかまえた。
「ねえ、どこ行くの」
「図書館」
 ボソッと低い声が返ってくる。
「航空工学の棚、だったな。・・・いいか、おまえ、座る席間違えるんじゃないぞ。
 ちゃんとおれの向かいの席に座るんだぞ、わかったか?」
 ロクさんは真面目くさった顔で、僕にしつこく念を押した。



第1話 図書館 了

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