第4話 引越の日 ■ 内藤更紗
引越の日タイトル


      窓


   もう言ってくれるな
   予感はかすかな暗闇に満ちていた
   薄暗い朝になると
   何百遍も
   したというだけで満足してしまう悔悟を
   繰り返し それでも
   振り向かなかったわずかな安らぎを感じる


   もう言ってくれるな
   言葉は自らを突き通す両刃の剣
   雨あがりの庭でどろどろになった長靴はいて
   顔ふせ ただ逃げてしまおう


   考えつくしたいくつもの台詞が
   口に出せば鉛のように重たい
   たったひとことで
   退路がずたずたになる


   もう言ってくれるな みんなわかっているのなら
   もう言ってくれるな みんなわかっているのだから


   やり場のない想いにふたり向き合い
   ゆき場のないかなしみが宙に浮いて
   それでも明日も こうしていく


   よく晴れたちいさな午後
   おまえのかすかな息づかいが
   ひだまりの果てに消えていく
   霧のように



   ・・・・・・・・・



「これ、何?」とツカサが訊いた。
 俺たちの引越作業の最中だ。
 ツカサは俺の相棒だ。
 一緒に暮らして、もう5年半。


「ああ…」俺は黄ばんだ紙きれを手に、しばらく黙る。
  頭の中にチラチラと、硝子越しの光がまたたいている。
「俺が高校のときに書いたんだよ。日記の間から落ちたんだろう」
「ふーん…ノブさんてシジンじゃ〜ん」
 赤くなった俺に睨まれて、ツカサはひゅっと首をすくめた。

 
 あらかた荷物をくくり終わって俺はコーヒーをいれる。
 ツカサはダンボールに座って足をブラブラさせている。
「ノブさん、高校のとき彼氏いたんだ」
「昔の話だよ」
 俺は窓の外に目をやる。「全然忘れてた」
「ほんとぉ?」ツカサは疑わしそうだ。


「ホントだよ。それにそいつは、彼氏じゃない。
 よく俺の部屋に遊びに来てた後輩だったけど、
 好きだってとうとう言えなかった」
「何しに来てたの?ゲームとか?」
「いや、ゲームはしなかった。テレビも観なかったし」
「じゃ、何してたの?」
「何してたんだろうな。何となく、いっつも来てたけど」
 日あたりのいい部屋だった。あいつはいつも黙って、
 硝子窓の下のカーペットに足を投げ出して座っていた。
「…そいつも好きだったんじゃないの?ノブさんのこと」
 まさか、というように俺は苦笑してみせた。


 笑いながら、あいつの瞳を思い出していた。
 あいつは、よく俺を見ていた。俺の部屋でも、学校でも。
 気がつくと切れ長の瞳がもの言いたげに、じっと俺をみつめている。
 俺にはそれが、怖かった。


 ひとことでも言ってしまったら、もう押さえがきかない。 
 手をのばしてしまったら、俺はあいつをめちゃめちゃにする。
 俺はケダモノだ。 許されないと思った。
 それなのに、あいつは毎日俺の部屋にやってくる。
 断ればいいのに、俺には断れなかった。
 あいつの顔が、姿が見られなくなるなんて、
 そう思うだけで気が狂いそうだったからだ。


(センパイ)
 そうだ、あいつはこんな声をしていた。
 いつもカーペットの定位置で、ひだまりの中に座っていた。
 切れ長の瞳。くちびる。 
 甘美な拷問。
 俺はとうとう耐えきれずに、遠い大学を受験した。
 それきりだった。

 
 ……………


「ノブさん、ほらコーヒーおかわり」
 湯気のたつマグカップを差し出されて、俺はわれに帰った。
「トラックが来るまで、あと30分はあるよ。
 ふぁー、いい天気だから昼寝しちゃおうかなー」
 ツカサが猫のようにダンボール箱の上で伸びをする。
 そのまま身体をまるめて、眠り始めた。
 カップから手のひらにじんわりと熱が伝わってくる。
 陽ざしがあたたかい。
 どこか遠くのベランダから布団をパンパンと叩く音が聞こえる。


 こんなふうに。


 こんなふうに、ただ何もない時間を
 分かち合っているだけでよかったのだと、今なら思う。


 何をしなくてもいい。ただそばにいるだけで。
 俺たちはしあわせになれたのだ。


 男同士だから、子を生まないから、よけいに
 それを越える以上の何かをつくりあげなければ
 恋をする意味がないと思っていた。
 それができない自分を憎んだ。
 しあわせにする自信がなかったから手を出せなかった。
 馬鹿な俺。


「どしたん?」
 気がつくと、ツカサがまじまじと俺を見ている。
「いや、別に」
 俺は両手で空のカップを持てあそぶ。
「ほんの少し。……好きだって言っちまえばよかったかなって思ってさ。
 そうすりゃあんなにモンモンと悩まなくてもすんだなって」
「できっこないでしょ、ンなことノブさんに」
 ツカサがさらっと言ってのけた。
「どうして」
「やさしいから。だからシュラバになるのがヤだったんでしょ?」
 やさしい?
「それはやさしいって言わない、優柔不断って言うんだ」
「どっちでもいいじゃん。そいつもそういうノブさんが好きだったと思うよ」
「……」


「好きだったのかな…」あいつ、俺のことを。
「決まってんじゃん」ツカサが呆れたように叫んだ。
「そいつだって子どもじゃないんだから、ノブさんのそばにいるのが
 気持ちいいから、いっつも来てたんじゃないの。
 何にも言わないノブさんの隣で、
 何にも言わないでいる時間がそいつのしあわせだったんでしょ」
「なんでお前にそんなことわかるんだ」俺はムッとした。
「わかるよ。ドンカン。キョーリュー。誰に向かって言ってるのさ」
「……」
 言いまかされて、俺は黙った。


 しあわせだったのだろうか?あいつは、あれでも…


(センパイ)


 たとえ好きだと、言われなくても。
 たとえ好きだと、言えなくても。


 ただ見つめているだけで。


(センパイ)……………



「でもさ、おれはそいつと違って、欲しいものは欲しいって、
 ハッキリ言うタイプだからね。
 んで、いらなくなったらいらないって、ハッキリ言うしさ」
「……お前はそうだよな、ツカサ」
「だから、遠慮はナシね?」
 ツカサはニッと笑って、ダンボールから降りた。
「そろそろトラックが来る時間だよね。
 A引越センターって、イケてるの多いよねえ、ノブさん。ふっふ〜」
 …ほんっと、遠慮なしだな…
 俺は苦笑した。
 そして鼻歌まじりでベランダに向かうツカサの細い腰を見ながら、
 ふいに気づいた。


 どうして今まで、彼のことをすっかり忘れていられたのか。
 あの時は一生忘れられないと思っていたのに。
 忘れないことがあいつへのつぐないだと言い聞かせていたのに。


 高校を卒業して10年―
 大学時代にツカサと出会い、つきあいはじめ、
 一緒に暮らして、5年半。
 浮気性の相棒に振りまわされて
 泣いたり笑ったりケンカしたりしているうちに、
 いつのまにか俺の中で、固く凍りついた心が
 春の雪のように静かに溶けていたのだった。
 季節がゆるやかに過ぎていた。


「ノブさん、来たよ!トラック」
 ツカサが駆け込んでくる。俺のもとへ。
「ほら何ボンヤリしてるの、今エレベーターであがってくるよ」
「おう!」
 俺は威勢よく返事をかえす。手のひらの紙切れをポケットに突っ込む。
 新しい春。ツカサと一緒に。
 俺はつまずきながら、不器用に走り出した。



第4話 引越の日 了

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