第5話 卒業 ■ 内藤更紗
卒業タイトル


 おれがユウにふられたのは、ぽかぽかと暖かい3月の昼下がりだった。
 トイレから戻ると、ユウはおれんちのリビングのカーペットにぺたんと座ったまま、
 ぼんやりと庭の桜を眺めていた。
 おれが生まれた年に親父が植えたソメイヨシノだ。
 丈ばかりひょろりと伸びた枝の先に膨らんだつぼみは、まだ固い。


「…それで、宮崎へはいつ行くの」
 おれはつい、詰問口調になる。
 ユウから遠い九州の大学を受験すると聞いたときは半ば冗談だと思っていたが、
 2日前に彼の合格が決定し、おれが東京の大学を失敗したときから
 おれたちの別離が急に現実的なものになってきていた。
 ユウは薄い唇を噛んで、黙っている。


「…まあ、いいや。おれまだ滑りどめの発表が1コ残ってるけど、
 それ無視していっしょに宮崎行っちまおうかなあ〜
 そこで勉強して、来年おまえと同じとこ受けてさ」
 おれはやつの反応を見る。白い横顔が上気した。
「…ごめん」
「いいよ、それくらい。だって毎日楽しいじゃん」ふたりきりで暮らせるし、悪くない。
「そうじゃなくて」ユウの声が固くなる。
「何?」
「だから、ごめん。…おれ、ひとりでやり直したいんだ」
 おれのまわりの空気が、瞬間冷凍みたいにピッと音をたてて固まった。


「タツヤのどこがイヤだとか、そういうんじゃないんだ。
 そうじゃなくて、おれが…
 おれ、4月からは、これまでの自分を卒業して、
 家にも誰にも頼らずに、知らない土地で真っ白になって、
 自分が何ができるかイチから試してみたいんだ。
 今じゃなきゃできない。
 ひとりになりたいんだ、おれ。…勝手かもしんないけど」


 不意打ちだった。鮮やかな日本刀で身体をまっぷたつに切られたような気がした。
 あまりにも鮮やかすぎて、切られたのにも気がつかないくらいに。
 おれはたっぷり時間をかけて凍りついた脳味噌をやっとヒート・アップし、
 必死でエンジンをかけた。
「…ユウ」冗談だろ?
「ユウ」なんで急にそんなことを言うんだ?
「ユウ」今までおれたちはうまくやってきたじゃないか?
「ユウ」なんで黙ってる?
 舌がもつれて空回りする。おれはやつの肩に手をかけた。
 岩のように固まって、小刻みに震えている。
 こいつは本気だ…と思った途端、頭の後ろをすうっと氷のかたまりが通過した。


「ユウ、好きなんだよ、好きなんだよ好きなんだよユウ、
 おれ、好きなんだよ好きなんだよ、好きなんだよ好きなんだよ好きなんだよぉぉぉぉーーーー」
 おれはごつい図体で小柄なユウを横抱きに抱きしめて細い肩をがくがく揺さぶり、
 いつのまにかおいおい泣きすがっていた。
「ユウぅぅ……」


 それから何を話したか、よく覚えていない。
 ユウは親のこととか、自分の問題点だとかをぼそぼそしゃべったように思う。
 でもおれにわかったのは、もうユウの頭の中は新しい生活のことでいっぱいで、
 そこにはおれの姿はこれっぽっちも入っていないということだけだった。
 ユウの中で、おれとのことは、とっくに終わっていたのかもしれない。
 おれだけが、季節が過ぎたことに気づいていなかったのだ。


 よく晴れた3月の、おだやかな昼下がり。
 おれの恋は、桜の咲く前に、見事に散った。


 その翌週、高校の卒業式があった。
「え、おまえ出席すんの、マジぃ?」ひやかしの声を受けながらおれは講堂に向かった。
 学校主催の式典の出席率は7割ぐらいか。
 おれは日の丸も君が代もどうでもよかったけど、
 もしかすると親父が見に来てるかもと思うと、すっぽかすのは後ろめたかった。
 君が代の時は着席して耳だけで聴く。
 千代も八千代も幸せであってほしいと思えるほどの愛情を、
 おれはこの18年間、誰かに持ったことがあっただろうかとぼんやり思った。


 式典が終わってぞろぞろと渡り廊下を教室に向かう途中で、
 銀杏の樹のそばにぽつんと立ってこっちを見ている、家を出た親父の姿が見えた。


「ひゃっほー」「ひゅーひゅー」
 わけのわからない奇声をあげながら、
 黒い筒を持ったガクランがてんでに校門へ走っていく。
 おれは校舎の屋上で彼らの姿を眺めながら、
 ゆっくりとマイルドセブンの煙を吐きだした。


「タツヤ」
 背後に聞き慣れた声がする。
「ここにいたんだ。堂々と吸ってるね」
「もう生活指導のワンコに見つかっても『生徒』じゃないもんな」
 ユウがおれの隣に並んで手すりにひじをつく。春風がさらさらと髪をなびかせた。
「…明日、親と宮崎に行って住むところとか決めて来ることになってさ」
「うん」
「それでいったんこっち帰って、4月の2週めに引越」
「うん」
「…また、落ち着いたら連絡するね」
「うん」
 おれの指にはさんだ煙草の煙がたなびいてユウの手の甲にかかる。
 おれはその細い爪の形をしばらく見つめていた。
 この爪を口に含んで噛んだのが、もう何十年も昔のことに思える。
「ユウ」
 彼が振り向いた。視線がからむ。
「向こうでヘンなやつにつかまんなよ」
 ユウは童顔をほころばせて、くしゃっと笑った。


 ああ、やっぱりユウが好きだ。
 鳥みたいに自由に憧れてさっさとおれを置いていこうとしているユウがおれは好きだ。
 そのまなざしの高さがおれは好きだ。
 いつか、おれがユウにとって足かせではなく、鳥かごでもなく、
 大空になってこいつをゆうゆうと飛ばせてやれるようになったらと思う。


「あっ、いた!先輩!」「せんぱーい!」
 バスケ部の後輩たちが校庭からおれを見上げて口々に叫んだ。
「せんぱーい、カラオケもうはじまってますよぅー」
 ドカドカとにぎやかに屋上にまでのぼってきそうな勢いだ。
「じゃ、タツヤ」
 ユウは笑顔でさらっとおれから離れた。
「おう、またな」
 おれは煙草の灰を落とす。
 また、いつかな。


 その後、結局おれは滑りどめの大学も落ちた。
 両親が別れ、彼氏にはふられ、受験にも失敗するというとんでもない18の春だったが、
 風は甘く、花はあでやかで、季節は美しく輝いていた。
 おれは深夜、自室の窓からふと西の空をながめては、
 あの空のどこかにユウが飛んでいないかと目をこらしたものである。


    **  **  **


 そして、2年後の、ある晴れた日曜日。
 2浪して大阪郊外の私大にもぐりこんだおれは、
 学生向けの狭いマンションの窓枠に腰かけ、
 のんびりと外のレンゲ畑を眺めながら朝のコーヒーを飲んでいた。
 紅に映えるレンゲの海の向こうに、ぽつりと銀色の小さな点が現れる。
 点はみるみるうちに大きくなり、一台の自転車になっておれの窓の下で急停車した。
「タツヤ!」
 かたときも忘れたことのない顔が、おれを見上げて、くしゃっと笑った。


    **  **  **


「…思えばあの朝が、おれの人生の大いなる失敗の始まりだったよなあ」
「よく言うよ、おれが訪ねてやらなかったら、タツヤはずっと独り身だったくせに」
「おれがドアを開けなかったら、おまえは入ってこられなかったくせに」
「開けないつもりだったの?」
「……」


 再会から10年がたった。
 今、おれとユウは、働きながら一緒に暮らしている。
 あの夜、ユウはおれのマンションに泊まった。
 おれたちは、初めて結ばれた。もう、片時も離れられなかった。
 おれは自分の命より大切なものを知ってしまったような気がした。


 夜半、腕の中にユウの寝息を感じながら、ふと、親父を思った。
 卒業式の日、ぽつんと樹の下に立っていた、老いた影。
 あの人も、命より大切な人を見つけてしまったのだろうか。
 恨んでいた幼い自分の姿が、ふいにぼやける。


「…タツヤ」
 闇の中でユウが呼ぶ。
 おれはユウに手を伸ばす。
 ユウの背中は、汗に混じってかすかにレンゲの花の香りがした。



第5話 卒業 了

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