第8話 那智黒石 ■ 内藤更紗
那智黒石タイトル


 いつもの朝の通勤ラッシュ 
 吊革につかまりながら 康夫は思わずためいきを洩らす
 頭には重苦しいもやがかかっている
(やっぱり 別れるしかないか…)
 シュンと暮らして随分になるけれど


 夕べのシュンの青ざめた顔
「康夫のことは好きなんだ、でも」
 ベッドに行くのが、と口ごもる
 出会った頃はあんなに夢中で
 まるで獣みたいに交わりあったのに
 あれは嘘か? 夢だったのだろうか
 それともあいつが醒めたのか


 いいよ、今さら言ってみたってしかたがない
 お互いにみじめな気分になるだけだ
 これでもおれは我慢してきたんだぜ
 ベッドで背中を向けられて
 それでもおまえが好きだったから
 拒まれても嫌われても
 情けなくても我慢してきた


「嫌ってなんかいない、そうじゃないよ」
 でもあれをするのが、とシュンは言う
 おれはあんまり好きじゃなくて
 それよりこうやって手をつないだり キスしたり
 そばで眠るだけの方が安心するんだ
 おれはそういうやつなんだと、必死の顔で言い募る
 でもな、シュン、と康夫は返す
 好きなやつと身体でじかに愛し合いたいと思うのは
 自然な感情じゃないんだろうか
 それともおれが間違っているのか?
 それにおれが我慢できなくなったら
 おれは浮気をするしかないのか?


 シュンは唇を噛んで押し黙った
 ポットだけがコポコポ音をたてている
 気まずくなってベッドに入った康夫の身体に
 シュンが手を伸ばしてきたのはその夜だった


 あたたかい指と濡れた口唇
 敏感な部分を知り尽くした舌の動きに康夫はすぐに声をあげた
 ごくりと音を立てて液体が飲み込まれたのを知ったとき
 康夫の胸は押しつぶされそうに痛んだ


 もういいよ、シュン
 もうそんなことをしなくても
 康夫は黙って シュンを全身で抱きしめた


 混み合った車両からホームに吐き出され 康夫は職場へと足を急がせる
 やっぱりシュンとは別れよう
 もう自分のために無理をさせるのは
 そんなあいつを見るのは嫌だ
 おれたちは愛情という鎖でお互いを縛りあって
 相手のために無理をして
 相手のために我慢している
 だから傷つけあうのだ 好きなのに いや好きだから
 相手を傷つけたことで 自分はもっと傷ついてしまう
 だから 解放しあった方がいいのだ
 そして お互いにもっと自分に合った相手を探した方が


 康夫は大きく深呼吸してオフィスのドアを開け
 自分のデスクの前に来て立ち止まった
 重ねられた書類の上に、碁石のように光沢のある黒い楕円の塊が乗っている
 那智黒石のペーパーウエイトだった


(シュン、これ何に使うんだよ、変なの)
(変はないだろ、せっかくはじめての社員旅行のお土産買ってきてやったのに
 重たかったんだからー)
 つるつるした滑らかな石は触るとひんやりと冷たくて
 シュンの尻に似ていると、その夜思ったものだった


 康夫は石を手に取った
 あの日と同じように、ひんやりと冷たい
 なめらかなカープが手のひらにすっぽりとおさまった
 シュンの笑顔が、シュンとの思い出が、突然耐えられない熱い渦になって
 康夫の胸に押し寄せた
 シュンの声が耳のすぐそばで聴こえるようだった


「康夫のことは好きなんだ」
「嫌ってなんかいない、そうじゃない、そうじゃないよ」


 おれもだ、シュン
 おれも好きだ
 おまえをなくすのは、おれ自身をなくすのと同じほど、
 おまえはおれ自身なんだ
 たとえ何があっても


 康夫は那智黒石をポケットに入れて、手のひらで握りしめた
 石は康夫の手の中でゆっくりと温かくなっていった



第8話 那智黒石 了

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