第10話 ターン・オーバー ■ 内藤更紗
ターン・オーバータイトル


「ん…んんっ……ん…んふ………」
 キッチンカウンター越しに、くぐもった甘い声が聞こえてくる。
「ちぇっ」
 軽く舌打ちしながら、マサルは勢いよくフライパンに卵を割り入れた。
 失敗。黄身がつぶれて涙のように白身の丘に広がっていく。
 あーあ。ため息をついたところで、シンジが顔を覗かせた。
「よっ」
 マサルがちらっと上目使いでシンジを見る。
「また、始まってるの」
「起き抜けの、てやつだな。元気なもんだ」
 ふわ〜あ、とシンジがあくびをしながら寝癖の髪をかきあげた。


 常連メンバーから「たまには泊まりで”真夜中のパーティー”したい」との要望を受けて、この週末に初めて借りた海辺のリゾートマンション。
 大量の酒や食料を持ち込んで、男ばかり9人のイルカがまるで動物園(水族館?)の運動会みたいにのりまくった。
 パーティーの中心は何といっても、先月デビューしたばかりの高校生のジロだ。
 すらりと伸びた長い手足に八重歯の可愛い彼には、年下好みのオネエのキヨさんがしっかり張りついている。今日初めて参加した長身のエグチさんも、隙あらばとジロのまわりをうろうろしていた。これで盛り上がらないわけがない。
 結局何ラウンドやったのか、最後のイルカが討ち死に同然に眠りについたのが今朝の7時。それから1時間後、マサルが起き出して皆の朝食をつくっていたところに、もうジロのすすり泣くような鳴き声が聞こえてきたのだった。


「ん…あぁん……あぁん……ん………」
 白いロールスクリーンの衝立に、もぞもぞとふたつの影絵が重なりあって動いている。おそらくキヨさんとジロだろう。あの年で、あの、まだ固いあの身体でそんなに感じているわけはないのだろうが、男に全身をまさぐられて犯されているというだけで感動し、うっとりと酔ってしまえるほどにジロはまだ若い。
 おれもそうだった、とマサルは思う。


「シンジ、目玉焼きはどっちがいい?」
「ど、どっちって?」
 衝立の向こうに気をとられていたシンジはあせる。 
 じろっとマサルがにらんだ。
「サニーサイド・アップか、ターン・オーバーか…」
「何?それ」
「裏返して両面焼いた方がいいかどうかってこと」
「普通でいいよ、片面で。…両面好きなやつなんているの?」
 見たことないぞ、と言いかけたとき、背後にぬっと立った人影があった。


「生卵ある?」
 初参加のエグチさんだ。長身でよく鍛えられた筋肉、全裸の肉体を惜しげもなくさらしている。黒々と密生した股間の体毛と性器。切れ長の目が野生の獣を思わせるほど鋭い。
「飲むの?頑張るなぁー」シンジがひやかす。
「いや、使うのさ」
 さらっと言ってカウンター越しにひょいと長い腕を伸ばし、マサルの目の前の卵を2個つかむと、あっけにとられているふたりを尻目にエグチさんはさっさと衝立の陰に向かった。
 とめる間もなかった。


「な、何よ、アンタ」「何すんのよっ!」「ジロちゃんっ!」
 ロールスクリーンの人影が急に激しく揉みあったかと思うと、
「あっ、いやあっ!」
 引き裂くようなジロの悲鳴があがる。
「いい、おれが行く」
 動きかけたマサルをとめて、シンジが走った。


 バーン。
 派手な音をたてて、衝立が床に倒れる。
 小柄なキヨさんがエグチさんにむしゃぶりつき、振り子みたいに振り落とされて床に転がる。エグチさんがソファベッドの隅にうずくまっているジロに手を伸ばそうとし、背後からシンジに押さえられる。エグチさんとシンジが激しく揉みあっている。そのすきに、キヨさんがジロを抱きかかえて大急ぎで寝室に逃げ込んだ…
 それらはみな、ほんの数秒のことだったかもしれない。マサルの目の前で起こった、長い長い数秒だった。

 はあ……、マサルは深いため息をつく。
 とりあえず、肝心のジロがいなくなったので争いは落ち着いたようだった。
 この場はシンジにまかせよう。ジロの様子を見に行かなければ。
 マサルは手早くテーブルに皆の朝食の皿を並べて、寝室に急いだ。


「うん、大丈夫、思ったよりケガなかったし、ジロちゃん突然でびっくりしちゃって、ショックの方が大きかったみたいなのよ。もう大分落ち着いてるし、しばらく寝かせといてやって」
 キヨさんは寝室のドアの前で、腰をさすりながらマサルに請け合った。
「よかった…。キヨさんの方は?」
「アタシはホレ、全身これ肉布団みたいなもんだから」
 アッハッハッハ、と笑っていると、
「朝っぱらから賑やかだなあ」とのんびりした声が近づいてきた。
「あ、ガンさん、おはようございます」
「何よ、遅いわよアンタ」


 ・・・・・・・・・・・・・・


「…とにかく、こんなことは困ります。そりゃうちのパーティーも、パーティーだからハメをはずすこともありますけど、それはあくまで相手も一緒に楽しめるというのが前提です。もう二度としないでください」
「………」
 エグチさんは黙って倒れた衝立を直している。先ほどの凶暴な目の光はもう消え失せていた。憑きものが落ちたようなその姿を見ていると、どうして彼が突発的に生卵などを持ち出したのか、シンジは不思議だった。
「迷惑かけたね。おれ、帰るわ」
「そうですか…。じゃ、せっかくマサルが用意したから朝めしだけでも食べてってください」


 ダイニングテーブルに9人分の珈琲とパン、目玉焼きと野菜サラダが並んでいる。
 着替えをすませたエグチさんは黙って一番隅の椅子にどかっと座ると、慣れた手つきで目玉焼きにナイフを入れた。
 シンジは、不意に、その場に釘付けになった。
 真っ白なテーブルクロスにずらりと並んだ9個の目玉焼き。
 その中で、その席だけが両面焼き…ターン・オーバーだったのだ。


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 エグチさんが帰っていってから、シンジは考え込んだ。
 今朝、このキッチンで、エプロン姿のマサルはおれに、こう訊いた。
(シンジ、目玉焼きはどっちがいい?)
(サニーサイド・アップか、ターン・オーバーか…)
 でもマサルは、訊かなくてもエグチさんの好みを知っていたのだ。
 朝食の好みを。

 そういえば、あのふたりは昨夜一度も、身体はおろか言葉もかわさなかったことに、シンジはようやく気がついた。
 あのふたりは、知り合いだったのだ。それも、ただの知り合いじゃなくて…

(マサル)
 シンジはぎゅっと目を閉じた。
 今、おれはあのときのエグチさんと同じように、凶暴な野獣の目をしているだろうか。


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 寝室前の廊下では、今朝の顛末をキヨさんから聞いて、ガンさんが珍しくカンカンに怒っていた。
「ヘンだと思ってたんだ、あいつ。初参加なのにやたらジロにベタベタしやがって。”パーティー荒らし”じゃないのか?」
「アタシもそう思ってたのよ。他のパーティーにも回状まわしといた方がいいわよね。アタシ、シンジに言ってくる」
「ちょっと待ってください」
 マサルがふたりをとめた。
「あの、…違うんです、エグチさんは”荒らし”じゃなくて」
「じゃ何よ、アンタも見たでしょ、ジロちゃんがひどいことされてるの」
「…すみません」
「何でアンタが謝るのよ」
「あれは…その、あの人の、…エグチさんの、おれへのあてつけなんです…」
 キヨさんとガンさんが、いっせいにマサルを見た。


「…元彼なんです。一緒に暮らしてて…」
「じゃヨリ戻しにきたってわけ?」
「違います!…そんな、人じゃ、…ない」
 そんな別れ方も、していなかった…。
 うつむいて顔をあげられないマサルを見て、ガンさんが言った。
「まあ、いいじゃん、とにかく朝めしにしようや」


 歩きかけたガンさんとキヨさんの背を、マサルの声が追いかけた。
「あの、お願いです、シンジには…」
「………」
「シンジには、黙っていてください」
 キヨさんが振り向いた。
「バカね」


 ・・・・・・・・・・・・・・


 マサルとキヨさん、ガンさんの3人が朝のテーブルについたとき、シンジとほかのメンバーはすでに食事を終え、珈琲を飲みながら、海はもう泳げるかどうかについて討議していた。
「あ、マサル遅かったな、先に食ったぞ、ごっそーさん」
 シンジが普段どおりの笑顔を投げる。
「エグチさんは?」
「先に帰ったよ、何か予定あるとか言って」
「そっか…」
 思わず身体中の緊張が解ける。
「ああ、あのさ、おまえに伝言頼まれてた」
「何?」
「目玉焼き、うまかったってさ、あれだろ?ほら、確か”ターン・オーバー”」


 ターン・オーバー…
 遠い記憶。
 ふたりで暮らしたままごとのような日々。
 あの人のために、おれは毎朝、卵を裏返した。
 何十回、何百回、おれは卵を裏返しただろう。
 男に抱かれ、ともに暮らしているというだけで酔ってしまえるほどにおれは若かった。
 あの人は、全然変わっていなかった。変わったのはおれの方だ。
 だから、あの人は暴れたのだ…


「ねえ、マサル、どう思う?」
「そうだね、ちょっと水冷たそうだけど、何とか泳げそうな気もするけど」
「よっしゃ、決まり!帰りに海岸に寄って、シーサイド・パーティーだ!」
 わっと太い歓声があがる。


 ドルフィン・パーティー。
 イルカたちの恋の季節は、これからだった。






第10話 ターン・オーバー 了

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