第11話 オレンジ・ポルカ ■ 内藤更紗
耳の穴に熱い獣の息が降りかかる。 ハァ、ハァと間断なく吹いてくる湿った熱帯のモンスーン。 打ち寄せる波のようにおれの粘膜が突き上げられ、後ろにひきずられる。 おれはシーツを噛む。 よだれが染みになって広がっていく。 …もうすぐ、もうすぐだ。 もうすぐ、あのきれぎれの水平線の彼方から、甘いスコールがやってくる…… 「シンジ」 ガンさんの低い声で、おれはわれに返った。 汗だらけの浅黒い顔の中で、意外にきれいな瞳がおれをじっと見つめている。 ぬるっという排泄感があって、彼がおれの背中から身を離した。 「どうしたんだ、おまえ今日全然のってないな」 「…ごめん」 「謝んなよ。やっぱ久しぶりのネコちゃんはダメか」 「そうでもないけど…」 ガンさんがカチッとライターを鳴らす。 「マサルは今回も休み?どうしたんだ?あいつ」 「さあ、風邪ひいたとか言ってたけど」 「風邪?」 「………」 マサルはもう来ないかもしれない、とおれはぼんやり思った。 2カ月前、おれが企画した海辺の”真夜中の”ドルフィン・パーティー。 そこにはマサルの知り合いの男がやってきていた。 彼らは翌朝別々に帰ったけれど、その日、いつもはパーティーの後におれのマンションを訪れていたマサルは、ついに来なかった。 おれは一日中待っていたのだが…。 おそらく、いや、間違いなく、あのふたりはあれから落ち合ったのだ。そして今頃はベッドの中にいるに違いない。 おれはその男の身体を思い出していた。野生の獣のように鍛え抜かれたたくましい筋肉、黒々と密生した股間の体毛…隆々としたペニス。 それが今、おれのよく知っているマサルの、あのぴっちりと締まった桃のような尻を割り、ねっとりした粘膜を味わいながら動いている。 マサルはどんな顔をしているだろう。瞳をうるませているだろうか。 もちろん、おれには何を言えるわけでもなかった。おれとマサルは、単にドルフィン・パーティーのホストとメンバーという、ただそれだけの関係でしかない。パーティーが終わってからひそかにふたりだけで会っていたのも、特に理由があってのことではなかった。だから、一方がその気をなくしたら、もうそれまで、ということなのだ。 しょうがない。おれはあいつの恋人じゃないんだから。次に会ったら、あいつに彼氏のことをひやかしてやろう…それがオトナの男ってもんだ。 おれはそう自分に言い聞かせた。 しかし、その「次」に会えるはずのパーティーに、マサルは「仕事が忙しいから」と欠席した。 おれは目の前でドアをパタンと閉じられたような気がした。 何だよ、あいつも彼氏ができたら、それっきりかよ… これまでも、パーティーには恋人探しの目的で参加する者が珍しくなかった。彼らは気に入った男とカップルになると、さっさとパーティーをやめていくのが常だった。それは悪いことじゃなかったし、彼らハンターたちの情熱がパーティーを盛り上げていたのも事実だ。 でも、マサルはそうじゃないと、おれは心のどこかで信じていたのだった。ずっとおれと一緒にいて、おれのそばで運営の相談に乗ってくれるものだと。 おれに何も告げないまま、こんな風に突然関係を切ってしまうはずはないと。 結局、あいつもただの男だったんだ。 おれはマサルに裏切られたように感じて、わざと自分から連絡を取らなかった。 マサルが今日のパーティーの直前に、おれのケータイに「風邪をひいて行けない」というメールを送ってきたとき、レスもしなかったのはそういうわけだ。 レスしかけたらついイヤミを言ってしまいそうになる、そんな自分を見るのが嫌だった。 ・・・・・・・・・・・・ 「風邪って、大丈夫かな。あいつ確かひとり暮しだろう」 ガンさんがふぅっと煙を吐く。 「どうして知ってるの?」 「おれが家具の手配してやったことがあるんだ」 ガンさんはちょっと有名な建築家ファミリーのナンバー2だ。その伝手でマサルにメーカーを紹介したことがあるらしい。 「確か住所もここから近かったぞ」 「ふーん」 「ふーんて、それだけ?冷たいんだなぁ、おれたちのホストは」 「どうしておれがマサルの心配をしてやらなくちゃならないわけ?」 思わず大きな声が出た。驚いたガンさんの視線を感じて、おれは口ごもる。 「…だってあいつ、今日のドタキャンだって、メール1行よこしただけだぜ。風邪なんて嘘に決まってるじゃないか」 「ふーん…」 「何だよ」 「まあ、ホストはおまえなんだし、おれは口はさむつもりもないけどさ」 ガンさんは立ちあがって、バスタオルを手に取った。 「あいついつだったか、気管支弱いって言ってたなぁ。風邪ひいて声も出ずにくたばってたりしてな」 ・・・・・・・・・・・・ ちくしょう。 改札の前でパーティーを解散してから、おれはまだぐずぐずと迷っていた。 風邪なんて嘘に決まってる。あいつは今ごろ、あの彼氏とよろしくやってるんだ。 …そう思うそばから、もし、本当にくたばってたらどうしよう、と弱気なおれが顔を出す。 迷う時間があったら電話をすればいいんだ。でも、何を話せばいいんだろう? 結局その場で10分以上もうろうろして、ようやくかけた電話は、向こうのスイッチが切られていた。 おれは矢も楯もなく電車に飛び乗って、マサルの家近くの駅で降りた。 改札から吐き出されるくたびれた勤め人の群れに混じって、また電話をする。 「…はい」 でた。マサルだ。ちくしょう、声が出てるじゃないか。 「はい…誰?」 おれだって、番号でわかってるだろうに。 「そばに誰かいるのか?」 電話の向こうで息をのむ気配がした。 「…言えよ、誰かいるのか?それなら切るから」気をきかせてやってるんだ。 「……」 「何とか言えよ!」 おれはイライラして足元を蹴った。 「…シンジ…何?」 いぶかしげな声。 「いや、今…パーティーが終わったとこで」 「うん」 「今日のホテルはなんかいまいちでさぁ」 「うん」 おれはバカか。こんな話をしたいんじゃない。 黙りこくったおれの真似をするように、マサルも黙った。 「…マサル」 「うん」 「何か言えよ」 「…今、喉が痛くて」 「マジで風邪なの?おまえ」 「ん……」 死にかけたアヒルみたいな声が返ってきた。 「家、教えろ!マサル。すぐ行くから」 「…いいよ、そんな」 「今、駅まで来てるんだ。いいから道順言え!」 おれはケータイに怒鳴った。 ・・・・・・・・・・・・ 駅から歩いて15分弱。マサルの住むマンションは坂の途中にぽつんとたよりなげに建っていた。 ドアを開けたマサルの目も鼻も、熱のせいかはれぼったい。 おれは黙って、手にした包みを差し出した。 途中のコンビ二で買ったオレンジが3個。 「……」 マサルは無言だ。 「いやあの、ビタミンCとかとれた方がいいと思ってさ。嫌いなら…」 「嫌いじゃないよ」 「…入ってもいい?」 「ヤダって言っても入るんだろ?シンジは」 マサルの苦笑した顔は久しぶりだった。 ドアの中は、広めのワンルームだった。ブルーと黒を基調にしたシンプルなインテリア。隅にセミダブルのベッドが据えてある。 おれはベッド前のソファに腰を降ろしながら、つい、どこかに彼氏の痕跡がないかとチェックをいれる。 まるで女房の浮気現場を押さえに来た亭主みたいに。 …あれ? その想像は、おれを面食らわせた。 「どうしたの」 「べ、別に…きれいにかたづいてると思ってさ」 「ああ、さっき電話があってから掃除したから…」 「え、寝てなくちゃだめだろ、風邪ひいてるんだから」 「だって」 「そんなことしてるから熱出るんだよ!」 しまった。なんでこんなにイラついてるんだ、今日は。 マサルは叱られた小学生みたいに口をすぼめて、黙り込んだ。 「あ、オレンジ、切ろうか」おれは機嫌を取る。 「いいよ、おれやるから」 マサルはいったん座ったベッドからまた立ち上がろうとする。 「いいから寝てろよ」「いいって!」 取り合ったはずみでオレンジが袋からこぼれ落ち、ソファの脇をコロコロ転がる。 かがんでそれを取ろうとしたマサルが、思いきり咳き込んだ。 「ゴホッ!ゴホゴホゴホ」 「ほら、だから寝てろって」 おれは苦しそうなマサルを無理やり布団の中に押し込んだ。 「……」 マサルが涙目になってこちらを見ている。仔犬みたいな目だった。 来てやればいいのに、とおれは思った。 あの男、彼氏だったら風邪のときくらい来てやればいいのに… でも、口に出すわけにいかない、そんなこと。 おれはうつむいて、両手でオレンジを意味もなく叩いた。 「シンジ、何で急に来る気になったの」 じっとおれを見ていたマサルが、突然言った。 「ああ、ガンさんにおどかされてさ。心配してたよあの人」 「……」 「今度会ったらお礼言っとけよ」 「…もう会わないと思う」 おれは驚いて、マサルを見た。 「もうパーティーには行かないから」 「どうして?」 ぎゅっと手の中でオレンジを握りしめる。 「どうしても」 「…なあ、マサル、そりゃパーティーやめるのはおまえの自由だけどさ、でも、いくらなんでも突然すぎない?どうしたんだろって心配してるぜ、みんな」 「……」 「彼氏できたらもう参加する必要ないってのはわかるけど、ひとことみんなに連絡くらい…」 「彼氏?」 マサルが鋭い声でさえぎった。 「彼氏って何」 「何って」こいつ、とぼけるつもりか?おれが知らないと思って。 「彼氏は彼氏だろ。どうせあいつが反対してるんだろ。マイハニー〜行かないでぇ〜とか何とか言ってさ」 「何のことだよ、わけわかんない」 頭にきた。 「いい加減にしらばっくれるのやめろよ。おれみんな知ってるんだから」 「だから何を」 「”ターン・オーバー”のあいつ」 図星だった。 マサルの目が一瞬まんまるになり、次に、赤インクをぽとっと落としたように顔全体がゆっくりと赤く染まった。 ああ、やっぱり。ちくしょう。 おれは沈み込んだ気分を一掃するように、明るく言った。 「まあそんなわけだから、ガンさんには電話だけでもしとけよ。それにこれから風邪のときには、ちゃんと彼氏にそばにいてもらえ」 マサルはベッドにあお向けになったまま、片手でひたいと目を覆っている。 「…彼氏じゃないよ」 聞き取れないほど小さな声だった。 「え?何?」 「彼氏じゃない」 「おまえ、怒るぞ最後には。海辺の泊まりのパーティーの翌日、あいつとデートだったんだろ、だから」 「デートなんかしてない!」 マサルがバネじかけみたいに布団をはねのけ、かすれ声で叫んだ。 「おれは、そんな、デートなんか、してない。あの人とは、あのパーティー以来、会ったこともない。何でそれがおれの彼氏になるんだ!」 「え、だって…おまえは」 「おれは元彼と簡単にヨリ戻すような、そんな軽い男じゃない」 「元彼?元彼なのか?あいつ」 「……」 マサルは唇を噛んで、黙った。泣きそうに顔がゆがんでいる。 思わずおれは近寄って、その肩に手をかけようとした。 「触るなっ!」 音をたてて手がはじかれる。 「バカ!シンジ!もう少しだったのに」 「え?」 「…もう少しだったのに……何でおれの家になんか来るんだ、メチャメチャじゃないか……」 今度は両手で顔をおおっている。こんなマサルを見るのははじめてだった。 「何がメチャメチャなんだよ」 「……」 「おれが何かしたのか?ひょっとして、おまえがパーティーに来なくなったのも、おれが何か」 おれは神経が太くできてるから、知らずにこいつに何かしたのだろうか。 「違うよ」 マサルは顔から手を離し、落ち着いた声で言った。 「おれの問題。おれが、あきらめようとしたのにできなくて、…どうしても、どうしてもできなくて、それなら忘れるしかないと思って、忘れようと思って、それなのに」 言葉が途切れた。 「それなのに…おまえ、来るんだもん。おまえの顔を見てしまったら、もう自分がメチャメチャ。さっきから自分が何してるんだか、何考えてるんだか、何していいんだか、全然わかんない。…おかしいだろ?シンジ」 「…それって」 おれはヒリついた喉から言葉をむりやりひっぺがした。 マサルはまだ赤い顔をしながら、ぽつりと言った。 「うん、おれ……シンジが好きなんだ」 晴天のヘキレキ。 おれの手から落ちたオレンジが、青いカーペットの上でくるくるとダンスを踊った。 |
第11話 オレンジ・ポルカ 了
●TOPに戻る ●第12話を読む