第12話 マリン・ブルー ■ 内藤更紗
マリン・ブルータイトル


 風のない夜。
 銀色の電線に細い三日月の端がぶらんとひっかかっている。
 坂道に建つマンションの3階の窓には、ひとつだけ青いカーテンがかかっていた。
 海のはじまりのような黎明の青。
 中ではふたりの男が向かい合っている。


「おれ、シンジが好きなんだ」
 ぽつんと放たれた言葉が、さっきから透明なクラゲみたいに部屋の中を漂っている。
 それはふたりの頭の中をすうっと横切り、身体にまとわりつき、つかまえようとするとするりと脇をすり抜ける。
 重苦しい水圧に耐えかねたように、とうとうマサルが口火を切った。


「…どうして黙ってるんだ?シンジ。何とか言ってよ」
 言うそばから、言葉がバラバラと砕けて海底に沈んでいきそうだ。


「そんなに驚くことかなあ。…だってシンジなんか慣れてるだろ、マジで告られることなんて」
「…慣れてないよ。そんなにモテないし、おれ」
「そんなことないだろ。だってパーティーに来るやつの半分はシンジめあてじゃん」
「……」
「おれも最初会ったときは、うそだろ、やばいかもって思ったくらいだもん」
「何が?」
「だってシンジくらいのルックスだったら、別にパーティー開かなくてもHの相手なんか絶対不自由しそうにないじゃん。そんなやつとできるなんて話うますぎるんじゃないかって思ってさ、なんかいろいろ考えちゃった」
「いろいろって?」
「夢中でセックスしてるとこを隠しカメラで撮られるんじゃないかとか、ネットで商売用に公開されたらとか、それネタにあとでゆすられたらどうしようとか」
「……」
「怒るなよ」
「怒らないよ。そういう危険のあるパーティーだって、絶対ないとは言いきれないし」
「でも何度もシンジとメールやりとりしたり、パーティーを見学したりしてるうちに、本当に”みんなで楽しく安全にセックスしよう”って目的だけでシンジがパーティー主催してるのがよくわかって、安心したんだ。だから他のやつだって、シンジだったらってことで来てるんだと思う。ルックスも中身も全部含めて、おまえだったら信用できるって」
「……」
「シンジはよくメンバーのことでいろいろ悩んだりしてるけど、だからおれ基本的に絶対大丈夫だと思うんだよね。…って、何か話ずれてるな」
 シンジは苦笑した。
「おまえ、またおれの”相談役”になってるよ」
「ホントだ。相談持ちかけてるのはおれの方なのにな。…どうしよう…困っちったな」
 ベッドに半身起き上がったまま、マサルは正直に頭をかいた。
 シンジが微笑む。


「おまえ、おれを買いかぶってるよ。おれ確かにネットやパーティーではタチキャラで男っぽくきめてるからカッコ良く見えるかもしんないけど、素顔はただのH好きじゃん。サカりたいから男集めてる、それだけだよ」
「でもさ、シンジのHは、違うよ」
「違うって?」
「何て言ったらいいのかな、…おれと初めてしたときのこと、覚えてる?」


 もちろん、シンジは覚えていた。
 去年の秋、風の強い夜。
 ドルフィン・パーティーはまだ始動して半年で、参加者も総勢6人。初参加はマサルひとりだった。
 彼がこの種のパーティーは初めてと聞いて、ホストのシンジがほぼかかりっきりで相手をしたのだ。
 マサルは初めての授業参観を迎えた時の子供のように、緊張で石のように身体が固まっていた。
 シンジはそんなマサルを香りのいいゼリー風呂に入れ、いろいろ話しかけながらあちこちを丁寧にマッサージして身体をほぐした。
 バスタブの中でキスをし、愛撫をして、何ならベッドに行かずにここでフィニッシュにしてもいいよとささやいたが、マサルがうつむいたのを見て、本当にいいのかと念を押してからベッドに導いた。
 横たわったマサルは細かく震えていた。
 シンジはマサルを注意深く抱きしめて、羽根のように軽いタッチで全身を撫でた。
 なめらかな背中のドルフィン・カーブ。褐色のきめこまかな肌が内側から濡れたように光っている。
 シンジは舌と指先で、ピンク色の中心を開いた。
 歯のない魚の口のように、もぐもぐと指が強く吸われていく。奥はなまあたたかく、ほんの少し…粘っていた。
「…んっ…」
 尻がピクンと魚のように跳ねる。初めてではないのだ、男が。
 おれの味はどうだ?マサル。


「いいか…?」
 シンジはくらくらするほど欲情している自分を抑えようと、わざと押し殺した声で訊いた。
 目の前の赤く染まった耳が、こくんと前に小さく揺れる。
 落ち着いてコンドームを着け、マサルにも着けてやる。ローションを塗り、いきり立っているものをマサルの尻に押し付けて、彼の尻が持ちあがるのを待った。
 無理に入れるのは嫌だ。肉の抵抗を楽しむやり方もあるのだろうが、シンジはほんの少しでも相手に無理をさせるのが嫌だった。
 多分それは、おれが最初はネコだったからだとシンジは思う。
 ネコの頃に望んでいたすべてのことを、今度はおれがしてやりたいのだ。


 シンジがゆっくりと入ってくる。
 慎重に、確かめるように、熱いかたまりが自分の中に入ってくる。
 あたためられた自分の洞に、ぴっちりと寄り添うように入ってくる。
 巨大な船のように。


「…あぅ」
 錨をおろしたマサルの港で、シンジがゆっくりと動き始める。
 肉を道連れにして、波をふりきるように、オールがマサルをかきまわす。
「…あ……あぁ……」
 内側を漕がれていく気持ち良さ。マサルの尻があがっていく。


 もっと深く。
 もっと奥まで。
 おれの知らない底の底まで。
 熱いモリでおれを突いて。尖ったフォークでぐちゃぐちゃにして。


 マサルの尻がシンジに吸いつく。ピンクの口がシンジを食べる。
「う」
 シンジがこらえる。そして、攻める。深い、深いストローク。
「……あぁ……」
 マサルの目がうるんでいく。


 白いシーツの海の底。
 泥に埋まって、このまま溶けてしまいたい……


 ・・・・・・・・・・・・・・


「おれ、カルチャーショックだった。あの時」
「え、何?大げさな…」
「だってさ、おれ、トコロテンも初めてだったし、あんな風に感じたのも、初めてでさ…」
 トコロテンとはペニスに触れずにアナルセックスの快感だけでイってしまうことだ。気が狂いそうなほど気持ちいい。
 それを思い出してか、マサルは熱のせいだけではなく顔を赤らめていた。
「おれ、その時まで25年間、マジで何やってきたんだろうって思った」
「だって、おまえ」
 それまで経験あったんだろ、という言葉をシンジは飲み込んだ。
 マサルがチラッとシンジを見る。


「おれ、それまでエグチさんと付き合っててさ」
 エグチさん、という名を聞いてシンジは緊張した。ついさっきまで、マサルが今でも付き合っていると思いこんでいた相手だ。
「3年…一緒に暮らしてた」
 3年も?
「付き合ってた期間を含めると、もっとになるけど」
 シンジが黙り込む。
「おれずっと思ってたんだけど、ネコとタチって、同じゲイでも人種全然違うんじゃないかって」
「……」
「Hしてても、タチはどこまでいっても気持ちいいだけじゃん?でもネコはさ、その時も、後でも痛かったりするし…。それはどうしたって身体の構造がそうなんだからしかたないんだけど、なんかソンって感じがずっとしてたんだよね」
「……」
「ソンだからよけいに大事にされたいとか思うし、されて当然というか、自分の身体をものすごく価値のある、守るべきものだって思ってしまったりするしさ。Hするのはその大事な身体にダメージ受けることだけど、ホントに好きな相手だったらそれでもいい、相手が喜ぶなら我慢できる。犠牲を払える。でも、ほかのやつには絶対触らせない。たったひとりの人だけ。それが愛情の証だし、ネコとしてのプライドだって、おれはずっと思い込んでいたんだ。だからあの人が浮気してたってわかったとき…」
 マサルはぎゅっと目を閉じた。
「…あの人が浮気してたってわかったとき、おれは自分の全人格が踏みにじられたような気がして、許せなかった。好きだからさせてやってるのに、痛くても辛くても我慢して笑ってるのに、なぜおれの辛さや気持ちをわかってくれないのかって」
 マサルはうつむいて、爪を噛んだ。
「エグチさんは言った。”させてやってる?我慢してる?それは一体どういうことだ。おれはおまえにお願いしてさせてもらってるつもりもないし、我慢してくれなんて言ったことも一度もない。大体そんなに辛かったんなら、どうしてその時その場でハッキリおれに言わないんだ。今ごろになってホントは辛かったのにとか我慢してやってたんだとかくどくど恩着せがましく言わなきゃならないんだ。被害者面もいい加減にしろ”」
 マサルはちょっと、言葉を切った。
「…おれは、言えなかった。おれはエグチさんが初めてで、エグチさんしか知らなかった。セックスも、そんなもんなんだ、みんな多少痛くても我慢してるものなんだって、思ってた。それに…彼の前では、いつもにこにこ笑っていたかった。Hもできないつまんないやつだって、彼に嫌われたくなかった」
「マサル」
「好きだから、嫌われたくなかった。でも、あの人は言った。”おれはおまえに、ほかのやつと遊ぶなって言った覚えはない。だからおれに干渉する方がおかしい”…おれは、食い下がった。それだけはどうしても納得できなかった。だって、それじゃ、どうして一緒に暮らしてるんだ、そんなのってない…」
 声が震えた。
「エグチさんはたまりかねたように言った。”なんでおればっかり悪者にするんだ。自分はいつも正しいとでも思ってるのか。おまえ、いつだって感じてないくせに感じてる演技してるだろう。それがどれだけおれをたまらない気分にさせてるか、おまえ一度だって考えたことがあるか。おまえの方こそ無神経じゃないか。だから外に遊びに行きたくなるんだ”……」
 マサルの声は、そこで途切れた。


「へへッ、…バレちゃってた」
 マサルはぐいと涙をぬぐった。
「…演技してたのか?」
「…うん、だって……おれ、あんまり感じたこと、なくて。いや、少しは、コレかな?って思うときもあったけど」
 くしゃっと泣き笑いの顔になる。
「でも、演技して声出してあげると、あの人ものすごく嬉しそうなんだもん。おれはその上機嫌の笑顔を見るのがすごく好きで…それに」
「……」
「頭の片隅ではさ、…痛いから、少しでも早く終わって欲しかったという打算もあった」
「……」
「おれにとってはさ、おれとあの人がヤッテルって、そのことだけが大切なことだったんだけど、あの人にとってはそうじゃなかったんだよね。ちゃんと内容があって、きちんとした結果があって、というのが必要だったみたい。だから、おれが演技してるってことでものすごく傷ついてたんだ。でも、そう言うとおれが感じないことを責めてるみたいになると思って、可哀相で言えなかったんだと思う。…それがわかった時、おれはもう何か身体中の力がみんな抜けちゃってさ、……結局、別れた」
「え、別れたのか?」
「うん。…エグチさんは悪かった、やり直そうって言ってくれたんだけど、おれの方が…もうダメでさ…」
「……」
「おれさ、よく考えたんだけど、やっぱりネコだってことで、どっか被害者意識があったんだと思う。エグチさんとも対等じゃなかった。それはあの人の方がおれよりずっと年上で、おれにとって初めての人で、おれの…全部だった、せいもあるけど。おれはホントにガキで、あの人に甘えて、寄りかかってた。あの人がそんなおれを重たくなっても、無理、ないと思う…」
「……」
「おれ、何もかも忘れたくて、あの人のマンションを出たんだ。それが、1年ぐらい前の話」



「ネットでシンジのパーティーサイトを見つけたのは、それからひと月くらいたってからなんだ。
 乱交パーティーでいろんな男とセックスするなんてそれまでのおれには全然考えられなかったけど、一度自分をメチャメチャにしてみたらどうなるかなあって興味があった。
 それに…少しはエグチさんへのあてつけもあったかもしれない。
 おれを裏切って遊んでいた彼に、おれはもう以前のかわいい小猫ちゃんじゃないよっていう。
 …でもいざとなるとやっぱり怖くて、実際にパーティーに参加したのはそれから3ヶ月もたってからだったけど…。
 去年の秋、風の強い夜、会場になったホテルでおれは初めてシンジに抱かれた。
 シンジは…優しかった。
 信じられないほど優しくて、痛みも辛さも、全くなかった。夢のようだった。
 おれは生まれて初めて、セックスでわけがわからなくなったんだ。
 気がついたら…トコロテンで、イってしまってた。
 これがセックスだ、これがセックスなんだ、今までのおれは一体何をしていたんだろうって、思った。
 それが、…おれのカルチャーショック」
 マサルは、照れくさそうに笑った。


「今は…どうなんだ?その…痛みとか、あるの」
 シンジは気になっていた。パーティーでも、我慢させていることがあるのだろうか。
「いや、だって、シンジはネコには必ず先にバス使わせてくれるし、ラッシュもローションもたっぷりあるし」
 それはシンジの方針だった。
「それに、パーティーに出るようになってから、シンジ以外のやつの時でもけっこう感じるようになった」
「そうか」
「多分、エグチさんとは、…相性が悪かったんだと思うよ。見ただろ?あの人、デカいから」
「そうだったよな」
 ふたりは目を合わせて笑った。
「…エグチさんさ、まだマサルに未練があるんじゃないか?」
「さあ。この前のパーティーの後、何度かメール入ってたけど、無視してるから」
「ヨリ戻す気はないの?」
「……」
 マサルは、黙った。


「シンジ、キツいよそれ。…おれ、今はシンジが好きなんだよ」
「…あ」
 シンジはしまった、という顔をした。


 マサルがため息をつく。
「やれやれ。…さっき長〜い沈黙があったから予想はしてたけどさ。…おれ、全然可能性ないのかな」
 今度はシンジが押し黙る。
「マジで全然ダメ?」
 返事がない。
「…そっかぁ……まあ、わかってたんだけどね。シンジはモテるし顔広いし、でも決まった恋人はつくらない主義みたいだから」
「……」
「特に理由ある?ココがダメとかココ直したらいけるかも、とかさ」
 往生際が悪いなと思いながら、マサルは言わずにいられない。
「理由って、何の」
「だから、おれを振る理由さ」
「振ってなんかいないよ」
「え?」
「おまえを振れるやつなんていないよ」


 マサルがまじまじとシンジを見る。
「…それって、シンジ」
「ごめん」
 早口でシンジが言った。


「ごめん、マサル、おれ、おまえのことは好きだ。でも、ほら、おれってまだ遊びたいやつだから」
「……」
「決まった恋人とかさ、ガラじゃないし、それにあの」
「シンジ」
 マサルがさえぎった。
「おれのこと好き?」
「……」
 真剣まなざしに、シンジは観念した。
「…かなり好きだと思うよ。でも、さっき言ったように、おれ恋人はつくらないんだ」
「どうして?」
「……」
「ワケアリ?」
 シンジの目が翳った。
「ワケなんてさ、…ゲイショーバイ20年以上も張ってれば、ワケない方が珍しいんじゃない?」
 マサルはじっとシンジを見つめる。
「…話せるワケ?話せないワケ?」
「後の方」
「そうか」
 マサルは口をつぐんだ。


「あーあ」
 ベッドに上半身起き上がったまま、マサルは天井を見上げる。
「…なんだか妙な気分だな。走り出したとたんに穴にボコッて落ちて身動きとれなくなったみたいな気分」
「ごめんな」
「謝んなよ。おれ風邪の熱さがったら、きっとなんてバカなこと言ったんだろうって自己嫌悪で狂いそう」
「マサル」
「ん?」
「またパーティー、来いよ」
「…ん…」
 マサルは上目使いでシンジを見た。
「行ってもいいの?」
「おまえが来なきゃ全然面白くないよ。それに…パーティー終わってからも、またおれんちで会おう」
「いいの?おれホントに行くよ」
「いいよ。それから」
「何?」
「パーティーの日でなくても、来たい時にいつでもおれのマンションに来ればいい」
「……」
「おれも、ここ来ていい?」
「…ん……」
 マサルはうつむいた。


「…なあ、シンジ」
「ん?」
「今は話せなくても、10年たったら、話してくれる?おまえのワケ。おれ、それまで待ってるから」
「10年たったら、おまえ36だぜ」
「いいよ、おれ、気長いし。…おれの勝手で、待ってるから。あ、でも、そうか、10年たったら」
「何?」
「おまえ39だな」
「何だよ、ケンカ売ってんの」
 シンジがマサルを軽くこづこうとする。マサルが笑ってその手をかわした。
 素早くもう片方の手でマサルの手首をつかまえる。
 ぐいと引き寄せ、マサルを身体ごと抱き締めた。
 そのまま唇を押し付け、むさぼりあう。
 熱くやわらかい舌と舌。身体が火のように火照っている。
「シンジ…シンジ、おれ、もうだめ」
「どうした?」
「おれ…」
 目がうるんでいる。
 シンジは着ているものをかなぐり捨て、マサルに覆いかぶさった。


 耳の奥で風が鳴る。
 はじめてふたりが出遭った日の、あの秋の夜の風が鳴る。
 10年たっても、あの風は鳴るだろうか。
 青い海の底のような黎明の部屋。



 ・・・・・・・・・・・・・・


「おう、シンジ、どう調子は」
 ガンさんがバスタブの湯につかったシンジに声をかける。
「マサル、すっかり風邪も治ったみたいだな」
「うん」
「どうだった?マサルんちのベッド」
「え?」
「おれの紹介した家具メーカーのやつ。スプリングが違うんだよスプリングが。おれとこも同じの入れてるんだ。よかっただろ!腰疲れないしな」
「…よかったよ」
「このドスケベが」
 ガンさんが豪快に笑う。
「うっるさいわねえ、あんたのバカ声はあっちの部屋まで響くわよ。…あら、シンジ」
 キヨさんがひょこっと顔を出した。
「あんたマサルとやっと仲直りしたみたいだわね」
「何で知ってるんだよ?」
 シンジは驚いて聞き返す。
「何言ってんの、マサルがあんたを好きなのなんか、みんなとっくに気がついてたわよ」
「……」
「知らなかったのはあんただけ。やーね、ほんっとドンカンなんだから」
「……」


「シンジ!シンジさん!」
 メンバーの呼ぶ声がする。
「おう、今行くよ」
 ドルフィン・パーティーのホストは忙しい。
 見事な裸体にバスタオルを巻きつけて、シンジはイルカの海に向かっていった。





第12話 マリン・ブルー 了

TOPに戻る ●第13話を読む