第14話 アクアリウム ■ 内藤更紗
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「…でね、お受験対策用の絵本、なんてのがちゃんとあるわけ。 それを上の子に見せてさ、 『キリンさんとゾウさん、さ〜て、首が長いのはどっちかな〜?』って訊くと、 でっかい声で『ゾウさんっ!』って叫ぶんだよ。 『どうして?』『だってゾウさんはお鼻が長いもんっ!』… まいったよ、全然話聞いてないんだもん」 座敷からどっと笑い声がはじける。おれは空いた徳利を手にキッチンに顔を出した。 がっしりした雅裕の背中の横で、彼のお母さんがこちらを向く。 「あら、悟くんちょうどよかった。熱燗とね、茶碗蒸しも、今できたとこ」 「へえ、おばさんの茶碗蒸しって久しぶりだなあ、今年は正月からついてるよ」 「ふふ、うまいこと言って」 笑いながらおばさんはレンジに向かう。 そちらを見ながら茶碗蒸しを取ろうとしたおれの手が、雅裕の指に軽く触れた。 とっさに、おれたちは互いの手を引っ込めた。 高校時代の腐れ縁グループ恒例の新年会。 30の坂を3つ過ぎて、6人のうち4人までがもう所帯持ちだ。 話題も仕事の話から子供関係に移りがちで、独り身のおれは忘れられた置物のような気分になる。 年を追うごとに、来年からはもう来るのをよそうという思いが胸をよぎる。 いや、理由はそれだけじゃなかったけれど。 銀色に光る細かな泡の帯。 揺れる水草の間を、魚たちがなめらかに泳いでいる。 「…ねえ、悟くん」 廊下でいくつもの水槽に見とれていると、おばさんにつかまった。 「うちの子、この間もいい縁談があったのに、また断っちゃったのよ」 身体のまわりの温度がすうっと下がる。 「今どき長男のひとりっ子のところにきてくれるお嬢さんなんて滅多にないし、 ご本人も申し分なくて願ってもないお話だったのに、会うのも嫌だって言い張って・・・ もう本当に頑固なんだから。一体誰に似たんだか」 大きなため息がもれる。 「悟くん、なにか聞いてない?あの子から。 誰かほかに好きな人でもいるのかしら。知らない?」 おれは言葉につまった。 高校時代、数え切れないほど遊びに来たこの家。 おれと雅裕はいつも一緒で、よく泊まり込んでは騒ぎながら宿題をした。 料理自慢のおばさんと、水草と淡水魚が趣味のおじさんと。 いつもおれ専用のハブラシと茶碗があたりまえのように置いてある あたたかな春の陽射しのような家だった。 大学に入って離ればなれになってから、 おれはやっと自分の本当の気持ちに気がつき、 渾身の力を振り絞って雅裕にラブ・レターを書いた。 それからいろんなことが暴風雨のようにおれたちをなぎ倒し、 ふたりは別々の浜に打ちあげられたクズ死体のようになって それぞれの陸のうえでようやく歩き出した。 自分は感情のない魚なのだと思うことでおれはやっと生きのびた。 死にものぐるいで仕事をした。 雅裕から新年会の招待を受けたのは29になってからだ。 松飾りも清々しい玄関の扉を開けると 何も知らないおばさんが笑っていた。 「悟くん、まあすっかり男前になって!」 **** 「…おばさん、雅裕はまだ33でしょ、どうってことないよ。 おれの職場にも40過ぎて独身の人たくさんいるし、それに第一おれだってまだひとりだよ」 おれはできるだけ軽く言う。 「でも悟くんのところは都会だもの、女の人と知り合うチャンスだってたくさんあるでしょ? うちの子は男ばっかりの職場だし、本人がああ不愛想じゃ、いつまでたっても…」 「おばさん」 「親の勝手だって言われるかもしれないけど、親なんて自分たちが年とってくるとね、 子供の行く末ばっかりが心配になってくるものなのよ」 黙っているおれに気づいて、おばさんはあわてて言い足した。 「ごめんね、お正月からこんなグチ聞かせて。 おばさん、悟くんだとつい身内みたいな気がしちゃって… 客間でうちの子と同い年の方たちが楽しそうにお子さんたちの話をしてるのを聞くと、 つい、うちの子はなぁ…なんてひがんじゃって、淋しくなって…バカねえ」 苦笑しながら、おれの腕に小さな手をかける。 「悟くん、またうちにも前みたいに泊まりにいらっしゃいよ。ね?」 「どうもご馳走になりまして」「お気をつけてね」 「またな、雅裕」「ああ、来年でいいからな」「もう、この子ったら」 ひととき玄関で賑やかな挨拶が行きかったかと思うと、4台の車が次々と去っていった。 見送った雅裕がはじめておれの方を振り返る。 「電車だろ、悟。駅まで車で送るよ」 車中で、おれたちはほとんど口をきかなかった。 雅裕は前方を見つめたまま黙ってハンドルを握っている。 やがて繁華街の先に駅舎の灯火が見えてきた。慣れた手つきでロータリーの隅に車を停める。 「雅裕、来年のことだけど…おれ新年会欠席しようと思うから、今言っとくよ」 「どうして?」 思いがけず、強い言葉が返ってきた。 「どうしてって…もうそろそろおれもトシだしさ、朝早く起きて延々と電車を乗り継ぐのが身にこたえる」 「前の日からうちに泊まればいいじゃないか」 「……」 「ほかの奴から聞いたよ、おまえ、夕べはそこの駅前のホテルに泊まったんだって?」 おれは黙った。 「ホテルに泊まるくらいなら、うちに泊まればいい。父さんも母さんも喜ぶよ」 「…遠慮しとくよ」 「どうして?」 雅裕がどういうつもりでおれを家に誘うのか、おれにはわからない。 だが、おれは雅裕への気持ちを自覚してから、あの家に泊まったことはなかった。 あの優しい人たちが眠っている家の2階で、彼らの息子に手を出したくなかったのだ。 さりとて手を出さずに我慢できる自信もなかった。 結局おれは彼に手を伸ばしてしまうだろう、そうなれば…また修羅場になるのはわかりきっていた。 この春の陽射しのような思い出のつまった家で。 あのおばさんの、あのおじさんの、おれの親より親だった人たちの前で、彼らの息子と。 それだけは避けたかった。こんなおれでも。だから… 「…おまえんちへも、もう行かない」 「どうして」 「どうしてって…それはおれの方が聞きたいよ。雅裕、どうして見合いをしないんだ」 不意打ちをくらって、彼の顔がみるみる白くなる。 おれはぽつりと言った。 「…おばさんから訊かれたんだ。おまえがどうしても見合いをしないから、 ほかに誰か好きな人がいるのかどうか知らないかって、……おれに」 「何て、答えたんだ、悟」 雅裕の声がかすれている。 「何も答えられるわけないだろ。おれだって知らないもの」 沈黙が落ちた。 プォンと音をたてて列車が通り過ぎる。 轟音が真っ暗な車内を震わせた。 雅裕は黙っていた。 おれも何も言わなかった。 おれたちはまるで隣り合った水槽に分けられた観賞魚のようだ。 どんなに見つめあってもそこには分厚いガラスの壁がある。 水温が、また2度ほど下がった。 おれはシートベルトをはずしてドアロックを開ける。 「悟」 背中から雅裕の声がおれを追いかける。 「来年も、来いよ。待ってるから」 「……」 「待ってるから」 おれは振り返らずに、ただ僅かにうなずいた。 喉がつかえて声が出ない。 後手にドアを閉め、そのまま駅に向かっておれは歩き始めた。 一歩ずつ、噛みしめるように、階段を登る。 現実へと向かう階段を、一歩ずつ登る。 眼の中に細かな銀色の泡が、現れては消えた。 少したって、背後にゆっくりと車の発進する音が聞こえた。 |
第14話 アクアリウム 了
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