第16話 ドッグ・デイズ ■ 内藤更紗
ドッグ・デイズタイトル


 ついてきている。
 おれは朝の通勤客でごった返すターミナルの通路を通り抜けながら、
 横目で斜め後ろをちらりと見る。
 銀のナイロンパーカが見え隠れする。


 暑い。
 まだ朝の7時を過ぎたばかりだというのに
 腐った黄身の色をした太陽が街全体をじりじりとロースターのようにあぶっている。
 身体中から湯気をたてて職場へ急ぐサラリーマンたち。
 人いきれの不快さから逃れようと
 おれはターミナルビルの奥のひんやりした階段を降りて
 人影のないトイレの入口のドアを押した。
 それが、10分前のことだ。


 別に思惑があったわけじゃない。
 この先の街の一角にあるゲイタウンにはおれもよく遊びにくるし、
 夜中にこのトイレでちょっとお楽しみをさせてもらったこともある。
 でもこんなクソ暑い、死んだほうが絶対ラクそうな真夏の朝に
 まさか先客がいるとは思わなかったのだ。


 ひっそりと静まりかえったそのトイレの、
 そいつは一番奥で用を足していた。
 ドアの音と同時にこっちを振り返る。
 目が合った。


 まだ若い。22、3といったところか。
 小鹿の柔らかな背毛のような栗色の瞳。
 スポーツでもやっていそうな、スリムで引き締まった身体つき。
 思わず喉の奥でごくりと唾を飲み込む音がする。
 ここがそういうトイレだと知っているのだろうか?


 おれはやつとじっと視線を合わせたまま、
 ゆっくりと真横に並び、ぴっちりしたレザーパンツのジッパーをおろす。
 わざと大きく出し、片方の脚をずらして、
 おれのものがよく見えるようにする。
 やつは無表情で視線をもどした。
 …ハズレか。
 おれはゆっくり放尿し、ジッパーをあげると
 手を洗って大股でトイレを後にする。
 地下の噴水広場に出、地下鉄方面への通路に折れる手前で
 おれはふと、立ち止まった。
 背後に小さく、人影が見える。

 
 まさか。おれは頭に浮かんだ考えを取り消す。
 エスカレーターを昇るとJRの改札方面だ。
 やつはJRに乗るつもりなのだろう。
 そうに違いない。


 しかしエスカレーターを昇り、
 JRとは反対側の私鉄の大通路を歩き始めたおれは、
 5m後ろにやつのパーカを認めてどきりとする。
 ほとんどの通勤客とは逆方向なのだ。
 こっちへ行っても開店前のデパートしかない。
 おれは人波をぬって通路の左端に寄り、
 車のショールームと書店の間の階段を地下に降りた。
 横文字の名のついた地下街を、Uターンする。
 10mほど歩いて、ちらっと後ろを見る。
 銀のパーカが見えた。


 おれはにやりと唇の端で笑う。
 久しぶりのハンティングだ。全身が身震いする。
 しかし、どうかな。ついてこれるかな。
 あんなに若くて、可愛い顔して、ついてきたって知らないぞ。


 おれは歩く速度をあげた。皮ジャケットの裾がひるがえる。
 カッ、カッと石の床を蹴るブーツの音。
 やめるなら今のうちだぞ。


 おれの姿を見失うまいと、必死にやつが追ってくる。
 背中にぴりぴりと視線を感じる。
 追ってこい、可愛い小鹿。
 どんなふうに食べられたい?
 どんな格好で、どんな声で、おれに食べて欲しいんだ?


 小走りの細い影を目の端に捕らえながら、
 おれはゆうゆうと地下街から私鉄ターミナルの地下に入り、
 角を曲がって短いエスカレーターに乗った。
 しばらく歩いてから、またちらっと振り返る。
 やつの姿が、なかった。


 とっさに立ち止まって、エスカレーターの昇り口を見つめる。
 見失ったのか?
 見失ってしまったのか?
 頭の中でその言葉がぐるぐる渦を巻いている。
 苦い汁が喉の奧からにじみだしてくる。


 おれがしばらくその場に立ちつくし、
 あきらめてきびすを返そうとしたその時、
 銀のパーカが、エスカレーターを上がってくるのが見えた。


 やつがちらっとおれを見たような気がした瞬間、
 おれの脳味噌が沸騰した。


 こいつ、おれを追い込んでいるつもりか。


 おれは唇を噛んで、再び歩き出した。
 なにくわぬ顔をして、やつがぴったりついてくる。
 巨大な都市の地下迷路。
 全長何千メートルにも及ぶ網の目のようなモグラの巣穴の一角で
 追いつ追われつ、追われつ追いつの
 ひそかなハンティングが進行する。


 おれは目的地を決めていた。
 私鉄の地下街の、細く入り組んだ通路から人影のないビルの地下に入る。
 取り壊しの決まった古いショッピングビルだが、
 立ち退きの話し合いのつかない店舗が上階でまだ営業しているので、
 全体の空調も、エスカレーターもまだ動いているのだった。
 おれはそのひとつに乗って、上に向かう。
 5m後に、やつも続いた。


 BGMもとまった薄暗いビルの胎内で、
 おれとやつだけが生きてエスカレーターに乗って運ばれているように思える。
 世界の終わりに、地底から召還される生き残りみたいに。


 4階フロアでおれは昇るのをやめ、ついてくるやつを確認した。
 そのまま、真っ暗なビルの奥に向かって歩きはじめる。
 間隔をあけもせずつめもせず、等間隔でぴったりと軽い足音がついてくる。
 おれは振り返らない。
 もはや、やつがおれの獲物なのか、
 おれがやつの獲物なのか、どっちでもいいような気がしていた。


 フロアの一番奥のドアの前で、ようやくおれは足を止めた。
 振り向いてやつを待つ。
 やつがじっとおれを見つめたまま、1m前まで近づいてきた。
 栗色の透明な瞳。緊張のためか唇の端をきつく引き結んでいる。
 おれはやつから視線を離さずに、無言で部屋のドアを開けた。
「あ!」
 射し込んだ外光がやつの端正な顔に横縞を描く。
 そこは外壁に面した腰高の小窓にブラインドのかかった、広い男子用トイレだった。


「どうする」
 おれははじめて口をきいた。
「やめるんなら今のうちだ」
 やつは部屋から視線を戻し、おれを上から下までじろじろ見た。
 気に入らない。
「別にどっちでもいいんだぜおれは。ややこしいことは御免だからな」
 やつは怒ったようにおれを見た。言っとくが、おれはこんな顔をされる覚えはない。
 おれが何か言いかけたとき、やつは吸い込まれるように部屋に入ると、
 いきなり正面のブラインドを引き上げ、ガラス窓を全開した。


 窓の外は、抜けるような8月の青空。
 すぐ下にはJRのプラットホームの焦茶の屋根が熱線を浴びてウナギの背のように光っている。
 ホームにあふれかえる通勤客たちの頭、頭、頭。
 誰かがふっと顔を上げたら窓からウインクを交わせそうなほど近くだった。
 次々にアナウンスが鳴り、次々に列車が発着する。
 「**線にお乗り換えのお客様は…」


「…おい、何見てるんだ」
 おれはパーカの肩を捉えてこちらを向かせると、やつの背後で窓とブラインドをぴしゃっと閉めた。
 至近距離で向き合うと、おれより握り拳ひとつ分、やつの方が小柄だ。
 おれはやつの顔を覗き込みながら、両方の手をゆっくりとやつの腰骨にまわした。
 ぴくっとやつが反応する。
 両の手がおれを押し返そうとするより早く、おれはやつの胴体を抱きすくめた。
 腕の中でやつがもがく。弾力のある身体。若い筋肉。だが鍛え込んだおれの力にはかなわない。
 暴れるやつを鉄鎖のように抱き締めたまま、力を加えたり緩めたりして獲物の抵抗を楽しみながら、
 おれはやつの細い身体をトイレの窓に押しつけ、その上に体重をぐっとかけた。
 シャラシャラ。押しつぶされたブラインドが情けない音をたてる。
 おれはやつのパーカを剥ぎ取り、Tシャツの背中に手を差し込んだ。
 指の腹に吸いついてくる、しっとりと汗ばんだ男の皮膚。
 背骨のくぼみから脇、脇から腹、胸、硬く小さな乳首へと、太い指が夢中で薄い布の中を這いまわった。
 やつは目を閉じ、顔をそむけている。抵抗はいつのまにか形だけになっていた。
 おれはジーンズの上から小さな尻をつかむ。その手を徐々に前にずらし、太ももから股間に触れようとしたとき、
 不意にやつがおれの手首を握って、動きを阻止した。
 おれはぎろっとやつを睨む。やつは……


 おれを見ていた。栗色の瞳の底に炎がちらちら燃えている。
 人形のようにクールな顔の中で、その部分だけが生き物のようになまめいていた。
 おれの頭が真っ白になった。


 おれはしゃにむにやつの手をはがして、やつのぴったりしたジーンズの股間を撫でた。膨らみがくっきりと浮き出している。その輪郭を上からなぞり、根元から上に擦りあげた。
「…あ…」
 やつが苦しそうな喘ぎを漏らす。膨らみはますますにょっきりと頭をもたげる。
 おれは片脚をやつの股に深く差し込み、腰を密着させて擦り合わせた。
 すでに猛々しく息を吐いているおれのものとやつのものが、布ごしに擦れ合う。根元と根元、先と先、タマとタマとがしごき合う。
「うう…」
「どうだ?」
「……」
 やつの手がもどかしげにジッパーに伸びる。おれは前を開いてやった。
 ボクサーブリーフのやわらかい布に大きな染みが広がっている。透けた極薄の生地を通して、濡れたピンクの亀頭の形がはっきり見えた。
 割れ目をすうっと指でなぞる。染みが一度に広がった。
 おれはブリーフのウエストゴムを少し持ち上げてから、ジーンズと同時にゆっくりと足元に剥いでいく。
 足首まで下ろし、ひざまずいて濡れそぼったピンク色のペニスを口にくわえた。
「うっ」
 カリのくびれに少し包皮が余っている。指で皮を下に伸ばして、くびれをねっとりと舌先で攻める。
「うう」
 じゅくじゅくに濡れた亀頭を吸い上げる。喉の奥に深々とくわえ、熱い舌の付け根で挟んでしごいた。
「う、…あ、…あああっ」
 不意に声がうわずったかと思うと、ペニスが一気に口から引き抜かれる。
 次の瞬間、真っ白な精液がおれの顔面に飛び散った。


「……」
 目の前に、まだ糸をひいてピクピク動いているピンクのペニスがある。
 やつは片手でサオを握ったまま、呆然と突っ立っていた。
 とまどいが水紋のように顔に広がっている。
 おれは髭のまわりについた青くさい精液を手の甲で拭き、にやっと笑った。
 立ちあがってゆっくりとレザーパンツのジッパーをおろす。
 毛むくじゃらの陰毛の中から赤黒くそそりたったペニスを取り出すと、
 おれはやつをひざまずかせてその唇にぐいとあてがった。


 太く浮き出た血管に、チロチロとなまあたたかい舌の先が触れる。
 やつはしばらくおれの太さと固さを味わったかと思うと、
 不意に両腕でおれの腰を抱きかかえ、
 この首のどこに入るのかと思うほど細い喉をいっぱいに広げて、
 おれのばかでかいペニスを根元まで一気にくわえた。


 こりこりして暖かいやつの喉の奥。
 やわらかな頬の肉。濡れた舌がをサオを執拗に舐めまわす。
 くちゅくちゅ、くちゅくちゅ、吸われているおれの音。
 湿った熱帯の風がじりじりと背筋を這い上がってくる。
 おれはきつく眼を閉じる。
 ざわざわと身体中の血が集まって渦を巻く。
 くちゅくちゅ、くちゅくちゅ。
 くちゅくちゅ、くちゅくちゅ。
「ん…ん…」
 やつの息がやけに熱い。
 見ると、おれをしゃぶりながら夢中になって自分のものをしごいているのだった。
 くちゅくちゅ、くちゅくちゅ。
 ピンクのペニスが天を向き、先の口から透明なよだれがしたたり落ちる。
 くちゅくちゅ、くちゅくちゅ。
「んん…んん…」
 瞳がうるんでいる。
 くちゅくちゅ、くちゅくちゅ。
「ああ…ああ…ああ」
 うっとりとしたまなざしが宙を何度も往復する。
 ふと、気配を感じて顔をあげ、
 おれと目と目が合った瞬間、


 やつは耳たぶまで真っ赤になった。
 おれはやつの唇からペニスを引き抜き、やつの肩を持って窓際に立たせた。
 

「窓枠をつかめ」
 言われるままに、やつは左右の窓枠で身体を支える。
 身につけているものはTシャツだけ、
 短い布の裾からむき出しの丸い尻がのぞいている。
 日焼けした肌にくっきりついたボクサーブリーフの白い型。
 おれは顔にかかったやつの精液を指に取り、おれの唾液と混ぜ合わせる。
 やつの尻を左右に広げ、指で下から穴を押さえる。
 尻が逃げる。
 おれはやつを羽交い締めにし、ゴムを被せたペニスを尻の丸みに擦りつける。
「どうだ?」
「……」
「やったこと、あるんだろ?」
 やつは無言で唇を噛んだ。おれは作業を再開する。
 開いた尻の間に1本、2本と指を入れて道を広げた。
「…つっ」
「もっと力、抜け」
「……」
 見ると涙目になっている。
 おれは背後からやつを抱いたまま腕を伸ばしてやつの前を握った。
 小さく萎んだやつのペニスをやさしく揉んで、しごいてやる。
「…ん…」
 やつの息が荒くなる。
「…ああ…」
 窓枠を持つ手が震えている。ピンクのペニスが完全に勃ち上がっていた。
 おれはさらに攻め続ける。片手でペニスをしごきながら、もう片方で羽のようなタッチでタマや裏筋や内股を撫でる。
 こりこりした乳首にそっと触るとやつが小さく声をあげた。
「ここ、感じるか」
「……」
 おれはさらに乳首をいじる。
 やつの尻がひくひく震える。尻の穴が喘ぐようにきゅっとすぼみ、ふっと緩む。
 わずかに緩んだ瞬間をねらって、おれはペニスの先端で正確にその位置を突いた。
「あっ」
 ずぶ、という感触があって、わずか何ミリかが肉に食い込んだのがわかった。
 逃げる腰をぐっと強く引き寄せて、おれは立て続けに、小刻みに穴の奥をノックする。
 濡れて密着し、閉じてしまった本のページをこじ開けるように。
 その間も、前の愛撫は緩めない。敏感な部分にじんわり、ねっとりと指を這わせ、舌で舐めて攻めたてる。
「ああ」
 おれを入れろ。おまえの中に。おまえの肉の中におれを迎え入れろ。
「あ…だめ、開く…開いちゃうよ……」
 やつの語尾がかすれた。
 太いペニスがやつの白い尻を割ってずぶっと埋まった。


「うっ…、うっ…」
 シャラ、シャラ、シャラ。
 ブラインドがリズミカルに鳴いている。
 薄い金属の板に顔を擦りつけ、やつは背後からおれの突き上げに耐えていた。
 首筋に玉の汗が浮いている。
 おれも汗だらけだったが、ペニスは悶絶寸前だった。
 きつい。 
 ゴムを通しても伝わってくる熱い内臓の壁。
 弾力のある筋肉がレザーの拘束衣のようにぐいぐいペニスを締めつけてくる。
 ニ、三度動かすだけでもう果ててしまいそうな快感の絶壁だった。
「…ああ…」
 やつの声が溶けている。
 瞳がとろんとして焦点が定まらない。
 腰を持ち上げたり、脚を大きく開かせたりしておれはバリエーションを試みるが、
 そのたびに新たな快感のうずきに襲われて喉の奥から獣のように叫び上げそうになるのだった。


 もう、始めてからどれだけの時間がたっただろう。
 ひんやりとしたターミナル近くの、誰もいないビルのトイレで、こうやって。
 ブラインドから洩れる光はもう夏の陽が高く昇ったことを教えている。
 でもおれは、ずっと前からこうしていたような気がする。
 こうして、汗だらけでこの若い獣の尻を突き上げていたような気がする。


 ガシャガシャガシャ。
 突然、やつがブラインドをあげた。
 眩しい光が一度に射し込んでくる。
「おい!」
「……」
「下から見えるぞ」
「わかんないよ、何してるか…」
 けだるそうにやつが言う。
 確かにこの窓は腰から上しかないから、上半身服を着ていれば何をしているかわからないだろう。
 おれはやつの肩ごしに窓の下を見る。
 

 プラットホームにまだひしめいている大勢の男女。
 ますます気違いじみてくるこの暑さの中で、
 汗まみれになって、やってくる列車に乗り込み、吐き出され、売店にたまり、階段に吸いこまれ…
 まるでひとときも休むことを許されない歯車のようだ。
 おれもそうだった、半年前までは。
 あの群れの中で、時間とノルマと評価に追われて這いずりまわっていたのだった。
 あの頃のおれが、あそこにいる。


 じゃ、今のおれは、どこにいるんだ。


「……」
 気がつくと、やつがけげんな瞳でおれを見ている。
 おれはあわててやつの背中に重なって、行為を再開した。
 熱くほてったやつの尻。
 ねばっこい肉壁にぐいぐいしごかれて、おれはあっけなく高みに昇る。
 ペニスが濡れている。
 粘膜がめくれあがりながらついてくる。
 抜けるような青空に、飛行機雲が昇っていく。
 空はなぜ青いのだろうと、こんなときに思い出す。
 どこまで行っても、どこまで行っても、空は、まだ、透明だ。
 青ははるか上にある。
 おれはどこにいるのかとまた思う。


「…ん…」
 やつが突然、Tシャツを頭から脱ぎ捨てる。全裸で尻を激しく振る。
 おれも着ているものをかなぐり捨てる。全裸でやつを抱き締めて、尻の奥までペニスをねじ込む。
「ああっ」
 こらえきれずにやつが叫ぶ。刺し貫かれた褐色の裸体が窓ガラスにへばりつく。かまわずおれは腰を入れる。
「あっ、うううっ」

 
 今JRのプラットホームから、たったひとりの人間でも上を見上げたら…


 おれたちが見えるか? 
 鳥のように、獣のようにまぐわっているおれたちが。
 クソみたいな陽に灼かれて、ゴミみたいに焦げて、どろどろに濡れて。
 青は、はるか上だ……


 忘れたい。何を。何で。だから。
 おれの欲しいものは、


「ああっ」
 叫び声が聞こえる。目の前の細い身体がバウンドする。
 二匹の繋がった獣の全身を金色の陽光が刺し貫いた。



  ***   ***



 それっきり、おれはやつと会わなかった。
 名前も連絡先もわからない。
 時々思い出してターミナルのトイレに行ってみたりしたが、
 期待はいつも失望に変わった。
 2ヶ月後におれは再就職し、
 忙しさにかまけてだんだんやつのことを思い出すことが少なくなっていった。
 あのショッピングビルに最後まで残っていた店舗が撤退して
 本格的に解体工事がはじまることを聞いたのはその年の暮れだ。


 その日、おれはJRのウナギみたいに長いプラットホームの一角で電車を待っていた。
 目の前を、ちらほらと白いものが舞い降りてくる。
 初雪か、どうりで冷えるはずだと、おれは上を見上げた。
 そのときだった。


 おれはあの窓のブラインドが開いているのを見たのだ。
 すでに閉鎖されているはずのあのビルの窓のブラインドが、たったひとつ。


 さまざまな思いが一挙に胸に押し寄せた。
 考えるより早く、おれは走っていた。
 そして廃ビルの入り口をあちこち探しまわってついに鍵が壊されているドアを見つけ、
 真っ暗な階段を昇って、あのブラインドのある男子トイレにたどりついたのだ。


 窓の外に今年はじめての雪が降っていた。
 ほの明るい光に照らされて、やつは身体をくの字に折ってトイレの床に倒れていた。
 吐瀉物にまみれ、いくつも散らばった睡眠薬の瓶と酒瓶に囲まれて。
 意識はなかった。
 おれは警察と救急を呼び、翌日、バタバタと騒々しい病院の一室で、やっと眼を開けたやつと再会した。
 スーツ姿のおれをやつはよく覚えていないようだった。
 やつのほうも見るかげもなくやつれていた。あの栗色の眼がなかったら、おれは別人だと思ったかもしれない。
 おれたちはぽつぽつと話をし、ようやくお互いの名を知った。
 それが、おれ、小宮祐一郎と北村悟の出会いだ。


  ***   ***


 誰だって自分のカッコ悪いところを見られるのは嫌なもんだ。
 ジサツなんてその最たるものだろうし、
 そんなものにかかわった相手の顔なんか一刻も早く忘れたいに決まってる。
 事情も知らずに助けても本人にはまったく余計なお節介だろうとも思う。
 だからおれは、悟に深入りするつもりはなかった。
 ただ、悟の病室に誰も訪ねてくる身内がいなかったことと、
 胃洗浄のあとなかなか喉が食物を受けつけなくなったことで
 おれは、悟の退院後も、よさそうな食物を持って何となくあいつの家に通うようになった。
 まるでせっせとヒナに餌を運ぶ親鳥みたいに。


 下心がまったくなかったと言えば嘘になる。
 おれはその時35才で、そろそろあちこちのクルージングにも飽きて、
 決まった恋人を持って落ち着きたいと思いはじめていた頃だった。
 悟はおれには魅力的だったが、おれは自分をセーブしていた。
 心の隅にひっかかっていたのだ。
 あの日なぜ死のうとしたのかなんておれはあいつに尋ねたことはなかったが、
 もし、あいつが壊れた原因が、
 おれとのセックスにあったのだとしたらと。


 悟は何も言わなかったが、ある日突然、おれを襲った。
 まるで欲望の堰が切れたように、
 あいつはそれからいつも貪るようにおれに挑みかかり、
 何度も何度もおれの身体に抱きついて離れなかった。
 おれたちは会うたびに服を脱ぐのももどかしくセックスをし、
 シャワーをあびてはまたベッドに戻り、
 ほとんど寝ずに抱き合って、起きてはまたセックスをした。
 通勤電車の中でしたこともある。
 ハンカチをかぶせてこっそり擦りあったり、
 おれのロングコートに悟をすっぽり包み込んで、バックから入れるのだ。
 列車の振動が心地よくて、思わず途中下車して駅のトイレやホテルに駆け込んだこともある。
 おれたち以上におれたちの下半身同士は仲がいいんだよな、と悟は笑った。


 そんなに仲がいいくせに、おれたちはなかなか同棲に踏み切れなかった。
 一緒に暮らせば嫌な部分も見えてくるし、
 自分ひとりの時間がなくなるのも嫌だと悟は言う。
 まだパートナーを決めたくないのかもしれないと
 おれは無理強いしなかった。
 まだ若いのだし、遊びたいのは当然だ。
 たとえ一緒に暮らしても、おれは悟を縛るつもりはなかった。
 おれはせっせとやつに餌を運び、やつが満足するまでセックスし、
 1日1回はくだらないギャグをかましてやつを腹の底から笑わせた。
 悟の家に泊まる日が週に1度から2、3度になり、5日になり6日になっても
 おれは別に自分の部屋を借りていた。
 ある夜、寝入りしなに悟が言った。
「祐一郎、帰るなよ」
「え?」
「だから、もう、あっちへは帰るなって…」
 悟はそれだけ言って、おれの胸に顔を埋めた。
 おれが38才、悟が30才、おれたちが出会ってから3年の歳月がたっていた。


 次の休日、おれと悟は街に出かけた。
 よく晴れた秋晴れの日曜日、ターミナルは人でごったがえしている。
 JRのプラットホームからひときわ目立つ位置に巨大な観覧車が見えた。
 陽の光を集めたような真っ赤な観覧車。
 それは、古いショッピングビルの跡に建った真新しい複合ビルの中腹から、
 天に向かって巨大な円を描いていた。
 おれと悟は観覧車に乗った。
 空が高い。
 あの日と同じように、どこまで行っても、どこまで行っても、空はまだ透明だった。
 一筋の飛行機雲が昇っていく。
「祐一郎、ここだ、ここが一番高いよ!」
 天空で悟は伸び上がり、カメラを持ったおれにポーズをとってみせた。





第16話 ドッグ・デイズ 了

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