第23話 ヒーロー ■ 内藤更紗


 昼下がりのベッドでマスターベーションの余韻に浸っていたら、
 どこかでちいさな音がした。
 僕は目を開けて耳をすませる。物音は窓の外からだったのか、
 それから何も聞こえなくなった。
 静寂のなかで、僕は念じる。もう一度。
 もう一度あの耳慣れた音は聞こえないか。

 いつもマスターベーションが終わった頃に
 ロフトベッドの階段を一段ずつゆっくりと昇ってきて
 ニャアとじれたように低く啼いた小次郎。

 僕はやれやれとパジャマの下をはきベッドから降りてフードの缶を開ける。
 ポリポリと小気味いい音をたてて食っている猫の身体をまたいで後ろに立ってやると、
 縞柄のしっぽが忙しく左右に振られて僕の足首に当たる。
 相棒がちゃんとそばで見ているかどうか、しっぽで確認しているのだ。

 食べおえると何事もなかったかのようにプイと行ってしまう。
 僕が後をかたづけ、キッチンで煙草を吸っている向こうで
 小次郎は悠然とみづくろいをしている。きのうも、今日も、
 明日も、あさっても。
 そうやって僕たちは、いつも一緒に暮らしてきた。
 手のひらに乗るくらいだったちいさな小次郎が、
 年老いて死ぬまで、20年間。

    ※ ※ ※ ※

 新幹線に乗るのは久しぶりだった。
 渉ちゃんは変わっていないだろうか、と考えて
 自分のその考えが自分で可笑しくなった。20年ぶりに会って、
 変わってなければその方がおかしいんじゃないだろうか。
 電話はできない。住所しか知らない。
 その住所も、たまたま法律上の書類に載っていたのを
 自分でも理由がわからないままコピーしておいたのが残っていたのだ。
 今日行くとハガキに書いて、僕の携帯ナンバーを付記しておいた。
 空振りならあきらめるだけのことだ。

 在来線に乗り換えるところで、携帯が鳴った。
「おれ。渉」
 とっさに、返事につまった。渉ちゃんの電話の声を聞くのは
 これがはじめてなのだ。渉ちゃん、渉ちゃんはこんな声をしているのか。
「2時にN駅の改札付近に居て。できる?」
「あ、…う、うん、わかった」
 それだけ答えると、電話は切れた。

 改札でもう一度指示をされて、僕たちは駅のカフェで顔を合わせた。
 20年ぶりだというのに、渉ちゃんは驚くほど変わってない。いや、
 他の人から見れば15歳の少年が35歳になったのだから年相応に変わっているはずなのだが、
 僕の目に映る彼はキラキラしたあの頃のままだ。
 自由で、不遜で、いつも僕の目の前を歩いていた彼。

「渡したいものって何?」
 20年ぶりに会った弟に、渉ちゃんはいきなり訊いた。
「おれ忙しいんだけど。住所わかってんなら宅配で送ってよ」
「うん、突然ごめん。たまたまこっちくる用事があったもんだから、
 そういえば渉ちゃんここに住んでたなって思い出してさ。すぐ済むから」
 僕は笑顔で、きれいにラッピングされた包みを差し出した。

「何これ」
 彼は虚をつかれたようだった。
「何って、誕生祝い。渉ちゃん誕生日明日だっただろ?1日早いけど」
「そんなもの…」
 僕は手早くテープルの上でリボンをほどいた。
「折りたたみの傘なんだ。軽くて人気のやつ。ほら、持ち手のとこがきれいだろ?」
 シルバーの木地に光沢のある波模様が浮き上がっている。
 渉ちゃんはつられたようにそれを手に取った。握ったはずみで柄に巻きつけられたストラップがちゃらっと揺れる。
 彼がそれをじろっと見た。
「変なストラップだな。先がロケット…?」
「ああ、それはね、…渉ちゃんに持っていてほしいと思って」
 彼の目つきが鋭くなる。僕は意を決して言った。

「それ、小次郎」
「何だそれ?」
「渉ちゃん覚えてない?渉ちゃんが中3のとき拾ってきて飼ってた猫。あれから渉ちゃんすぐにいなくなっちゃって」
 小次郎は置き去りにされたのだ。
「覚えてねえよそんな大昔の話。第一そんな猫とっくに」
「生きてたよ20歳まで!もうすぐ21歳だったんだよ!もうすぐ…………だったのに…」
 叫んだとたん、喉の奥に熱い塊がせりあがった。必死で歯を食いしばったのに、涙があふれた。

「小次郎は、待ってたんだよ、ずっと渉ちゃんが帰ってくるのを待ってたんだよ、ずっと…」
 ちいさな猫は、3日間何も食べなかった。ずっと主人の匂いのついた布団の中でうずくまっていた。
 親は、放っておけと言った。兄弟は、面倒だから捨ててしまえと言った。みんなバカヤローだ。

「今さらそんなこと言われても…。おまえ、なんかやばくない?このロケットの中って、もしかして」
 兄は気味悪そうに、傘を持った手から上体をそらせた。
「小次郎の」
「げっ」
 傘を投げ出して座席の端まで瞬間移動する。
「…違うよ」僕は苦笑した。
「骨とかそんなんじゃなくって、乾いた爪が入っているだけ。お守りになるよ」
「ならねーよそんなもん!気味悪いだけだろが」
「よく言うよ、渉ちゃんが名付け親のくせに」
「は?」
「小次郎っていう名前がいい、絶対いい、もうそれに決めたってあんなに可愛がってたくせに」
 ちいさな小次郎は渉ちゃんに片手で抱かれたまま強引に頬ずりされて、必死で暴れていた。
 あの手の匂いを、猫は忘れられなかっただけだ。

「とにかく、おれはそんなもんいらないから、持って帰れよ。話それだけ?」
「うん」
 なんだという風に、渉ちゃんは大きく息をついた。僕はふと、渉ちゃんは何を心配していたのだろうと思った。
 そうか、彼は僕が両親から何かを託されてきたんじゃないかと警戒していたのだ。
 帰郷しろとか結婚しろとかまともに働けとかなんとかかんとか。

 大丈夫だ渉ちゃん。僕はあんたの敵にはならない。味方にはなれなくても(それはあんたのプライドが許さないだろう)たとえ死んでも、あんたの敵にはならない。だから安心してていいよ。
 あんたに置き去りにされた小次郎は、4日めには自分からすすんで飯を食べた。それは主人を忘れたからじゃない。もう一度主人に会いたかったからだ。死にかけていた自分を拾ってくれた人に、もう一度会いたかったからだ。
 僕は持ってきた傘を鞄に入れた。

「じゃ、僕帰るね。帰りの切符とってあるから」
「おう」
 渉ちゃんは軽々と席を立って、レジに急いだ。
 痩せた後ろ姿を見ながら、今度会う時はいつだろうと思う。20年先か、それとも、もう会えないかもしれない。
 自由で、不遜で、ひとりぼっちの彼の背中。
 大人たちがつかまえられなかったもの。

    ※ ※ ※ ※

 帰りの新幹線を降り、在来線のひとつめの乗り換え駅に着いた時には、
 もう夜の11時をまわっていた。携帯が鳴る。自称ご友人のダイからだ。
「章、おれ。お出迎えしてやってるぞ」
「すごいな…」
「ずいぶんお疲れみたいな声だな」
 ダイの声を聞いたら、急に空腹がやってきてめまいがした。

「おい、大丈夫か」
 改札で僕の顔色を見たダイはやばいと思ったらしい。
「言え。何が食いたい」
 何が。何って…そうだな。
「オムライス」
「オムライスぅ?!」

 もつれあうようにして、僕たちは駅の裏側に出た。
 ネオン賑やかな表通りの向こうにコリアン・タウンが広がっている。
 通りにも焼肉やチヂミの看板が多い。わかっている。こんな時間に、この場所で、オムライスなんてあるわけない。
 おまけに僕は方向オンチだ(関係ないか)
 ダイはどんどん先に立って、いくつもの小路に入っていく。僕は意識が朦朧としてくる。
「…あの、もういいよ、何でも」
 そう言いかけたとき、ダイの足がとまった。
「あったぞ、オムライス」
 老舗の洋食店のショーケースの明るい光の下に、オムライスが鎮座していた。

 世の中に忘れられない味、というものが存在するとすれば、
 僕にとってそのときのオムライスがそうだと思う。
 僕はそのときやみくもにオムライスが食べたかったので、
 見つかっただけで十分ラッキーだと思っていたのだけど、
 出てきたのは、目の覚めるような、きちんとした味の、本物のオムライスだったのだ。

 夢中でがっついている僕を、ダイがじっと見ている。
 僕は恥ずかしくなって、しどろもどろになった。
「何かさ…、食べものって、食べもの以上の何かだよね」意味不明。
 ダイが目を細めた。
「おまえには食神がついてるのさ」


 店の扉を開けると、ダイの肩にパラパラと雨粒が降りかかってきた。
「降ってきたな。駅まで走るか」
「ちょっと待って」
 僕は鞄から折りたたみ傘を取り出した。渉ちゃんに持って帰れと言われた傘だ。
「用意がいいな」
「へへ…持ち手のとこ見てよ、ちょっときれいだろ。実は手作り」
「器用だなおまえ。それ、光ってるの貝?」
「まあね」

 僕たちは雨の街に出た。濡れた舗装の上に七色のネオンの光が流れている。
 傘を握りしめた手の中で、なめらかに連なる波模様の感触を確かめた。
 この模様は、小次郎の、生前に抜け落ちた爪を加工したものだ。
 光に透ける薄い三日月形の猫の爪のさやを、灯りの下でひとつずつ、昨夜の僕が貼りつけた。

 ずうずうしく突然押し掛けても、たぶん何も受け取ってもらえないだろうと僕は思った。
 だから、その場で渉ちゃんの手に触れるものを作ったのだ。
 たとえ一瞬でも、彼はこれを握ってくれた。小次郎の指先の爪を、しっかりと。

 小次郎。わかったか?渉ちゃんの手のひらの匂い。
 おまえが片手よりちいさかった頃に、誰よりも誰よりも好きだった人の匂い。
 誰よりも誰よりも好きで、でも、届かなかった人の匂い。

 極彩色のネオンが目の中で滲んだ。
 ダイがこっちを見る。
「おまえ、傘さしてるのに濡れてない?」
「へへ」
 
 雨が激しくなった。
 僕たちはガード下に飛び込もうと、飛沫をあげながら舗道の水たまりを走る。
 ゴール地点で僕の携帯が低くアラームを鳴らした。午前0時。
 僕は目を閉じて、ちいさくつぶやいた。


 渉ちゃん、誕生日、おめでとう。


第23話 ヒーロー 了

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