光の庭 内藤更紗

窓辺

第1章 徹



 楽屋にはまだ熱気が充満していた。
 僕が手早くメイクを落とそうと鏡に向かったとき、背後から声がかかった。
「と-お-る-くん!」
 振り向いたとたんに真正面でカメラのシャッターが押される。
「葉子、よせよこんなとこ」
「いいじゃない、舞台では撮影禁止だったし。似合うわよ、それ」
 葉子は僕のフリルだらけの衣装を指さした。ヒュアキントスの衣装だ。言っておくが、僕は最後まで抵抗したんだ。
 アポロンとヒュアキントス。ギリシア神話をモチーフにした劇を大学祭で上演すると聞いたとき、僕は最初「少女趣味な」と鼻で笑ったものだ。それが人ごとでなくなったのは演劇部の部長とやらが葉子の親友で、「男の役者がいないのよ、お兄さんにぜひ」と頼み込まれたからだ。「お兄さんなら、玲に言えよ」と一度はかわしたが、結局向こう一カ月の炊事当番とひきかえに引き受けさせられた。いつもこうだ。
 その玲は今、葉子の後ろでにやにや笑っている。
 白い肌。涼しげな目元。美少年役にうってつけなのは彼の方だろう。服の趣味もいいし、なんたって絵描きの卵だから--
「藤坂さん!」
 ドアの方から声が降ってきた。鏡に黒ずくめの姿が映る。演出をやっていた葉子の親友だ。
「お疲れさま。よかったですよ、とっても!」
 小さな身体いっぱいに情熱をみなぎらせて、両手でぎゅっと僕の手を握る。稽古中からいつもパワフルで、部員をがんがんひっぱっていた。丸顔で、笑うと目に愛嬌があって、みんなに「姉御」と呼ばれている。
「葉子も、見にきてくれたの」
「うん、面白かった。徹が笑えたけど」
「なんだよ!」
 ひとしきり僕が笑い者になったあと、姉御--美紀さんは玲をまじまじと見た。葉子が口を添える。
「ああ、こちら玲--藤坂玲、あたしの上の兄」
「--初めまして」
 玲が会釈した。美紀さんはちょっとどもった。
「あの、あたし--田代美紀です。葉子とは友だちで--」
「よく聞いています。今日の演出もされてたんですって?」
 美紀さんは耳たぶまで赤くなった。
 ああ、これだから--玲を見る女どもの視線ときたら。玲はそれが苦手であまり人前に出ないのだ。自分が餌になったように感じるのかもしれない。それで僕も葉子も、普段は友人に玲をあまり紹介しない。美紀さんの反応は久しぶりで、僕は少しだけ自慢たらしい気分になった。
「ほらね--僕なんかよりずっといい男でしょ?」
「え?そうね--いえ、そんな--」
 すっかり舞い上がっている親友をサカナに、葉子がまた何か言おうとしたときだった。
 ドアが開いて、背の高い金髪の男が入ってきた。
 その場が一瞬で静まった。
 腰までの長い金髪はもちろん染めている。黒のタートルネックのセーターにストライプの上着。片耳にピアスが三箇、銀のブレスレット--あごがとがって、彫りが深い。目立つ顔だ。
 僕はこの男の噂を聞いたことがあった。葉子から。
 彼はまっすぐに美紀さんの方に歩いてきた。
「美紀--終わった?」
「うん」
 美紀さんはさっきとうってかわって穏やかな微笑を見せた。彼は僕たちを見渡して愛想良く言った。
「稲葉和彦です--よろしく」
 美紀さんは葉子、僕、玲を順に紹介した。玲が美大生だと知ると、彼はちょっと話があると言って玲を学生会館のロビーに誘った。
 僕が着替えて葉子と一緒にロビーのテーブルについたとき、玲は一人でソファに腰掛けて目を閉じていた。
「兄さん--大丈夫?」
 葉子が聞く。玲は睫毛をあげて僕たちを認めると、言った。
「徹、今夜は打ち上げだ。家にロブスターの用意がしてある」





 その夜は三人で遅くまで飲んだ。話題はもちろん今日の芝居のことだ。最初は単純なギリシア悲劇かと思っていたら実は全く別のストーリーになっていて、アポロンとヒュアキントスの恋物語はアメリカと日本の外交関係になぞらえられていた。青い目のアポロンの富と権力に恋した黒髪のヒュアキントスは彼を追って身を投げ出し、ふたりはひとときの蜜月に浸るのだが、やがてヒュアキントスが昔捨てた恋人が追ってきて争いになる。アポロンは勇ましく戦って勝利を収めるが、気がつくとヒュアキントスが流れ弾に当たって死んでいる。少しだけ嘆いたあと、アポロンは男らしく涙を拭き「花はどこにでも咲くさ」と言って次のヒュアキントスを探しに行くのだ。--真面目なのか冗談なのか、とにかく変な話だった。葉子は僕のラブシーンの時に視線が宙をさまよっていたとか、愛を告げるしぐさがおかしいとか、好き勝手なことを言い散らかして、気がすむとさっさと部屋にひきあげていった。いつものことだ。
 僕たちの両親は神戸で小さな商事会社を経営している。海外から家具や雑貨などを輸入して国内に卸す商売だ。月の大半は海外に行っているし、日本にいるときでも時差の関係で仕事が深夜に及ぶことも珍しくないため、都心のマンションを借りて暮らしている。郊外のこの家に帰ってくるのはひと月に一度というところだろうか。--もっとも、僕が中学生の頃までは、ここで家族一緒に暮らしていた。今より両親の仕事が忙しくなかったし、何より母親が玲の身体を心配していたからだ。
 今でも僕はときどき思う。玲が虚弱体質でなかったら、僕はこの家に来られただろうか--と。
 彼が生まれたとき、医師は十才まで持つかどうか、と母に告げたそうだ。母は方々の病院を訪ね歩き、文字どおり死にものぐるいで彼を育てた。そのかいあってか、彼は医師の言った寿命を乗り切り、線は細いがまずまず健康体と言われるまでに成長した。
「母さんのおかげだよ」
 玲は時折僕に言うが、父や葉子はもう少し複雑だったのだと思う。なんせ母は四六時中玲にぴったり張りついていたのだ。
 だから、僕が五才で両親を--本当の両親をなくしてこの家に「もらわれて」きた時、三つだった葉子はすぐなついたし、父親にはやれ釣りだ、登山だ、デイキャンプだと連れまわされた。僕は嬉しくて有頂天だったが、あとになって思えば、ただ遊びあいてが欲しいだけで子どもを引き取るはずがない。
 --後継者が欲しかったんだ。
 十才まで生きられないと言われた長男のかわりに。
 でも玲は--生きている。
 僕は自分の置かれた立場について考えようとしたが、どうしても結論は出なかった。そんなとき、十五になった玲が、両親に仕事用のマンションを借りることを提案したのだ。「僕の身体のことなら大丈夫だから」と母を説得して。彼は自宅の離れをアトリエに改造して絵を習いながら僕たちの世話をし、高校卒業後は迷わず美大の油絵科に進んだ。「絵で身を立てたい」と有無を言わせぬ強さで。--たったひとつしか違わないのに、彼の方が状況をずっとよく理解していたわけだ。
 口惜しいが、玲にはかなわない。
 それはいつも感じることだった。母親に世話を焼かれて育ったにしては、過保護の甘ったれになることもなく、むしろ受けてきた愛情をそのまま返すような細やかさで僕や葉子の面倒を見てきた。兄妹だけで暮らしはじめて六年になる。今年の春私大の英文科に進んだ葉子が「家事を交替制にしよう」と言い出すまで、玲が万事をしきっていたのだ。
 --目の前に真紅のロブスターの食べ殻が散らばっている。
 僕は玲が今夜言い出さなかった話題をしてみる気になった。
「今日--学生会館でさ」
 彼が眉を上げて僕を見た。
「何話したの?あいつ」





 玲はちょっと黙った。
「たいした話じゃないよ--肖像画を描く約束をした。来週から家に来る」 
「ショウゾウガ?」
 ちょっと待てよ。
「何だってそんなことになったんだ?--よせよ、僕は葉子から聞いたことがあるんだけど、あの、稲葉和彦ってやつは--」
 葉子の大学の工学部の学生だけど、授業に出ているところは誰も見たことがない。名うての遊び人なんだそうだ。それも男、女見境いなしの。一説には学部の助教授連中もたらしこんでるらしい。空き教室でいかがわしいことをしてたとか、ヤクをやってるところを見たとかの噂が絶えない。要するにまともな人間なら相手にするようなやつじゃないってことを僕は玲に一気にしゃべった。
 玲の顔は冷えていた。
「それは噂だろう?--今は田代さんとつきあってる」
 僕は「姉御」の丸い顔を思い出した。
「--だって、おかしいよ。会ったばかりのやつに自分の絵なんか頼むか?ふつう。誰が考えたって、目的は--」
 君じゃないか、ということばを僕は飲み込んだ。
 玲はいつも標的にされてきた。「病弱な美少年」というフレーズはよほど女心をかきたてるらしい。彼がそしらぬ顔だったのもよけい拍車をかけた。ラブレター、プレゼント、バレンタイン・デー・・・・。僕と葉子は、玲めあてにしつこくアプローチをかけてくる女どもに囲まれて、しんからうんざりしたものだ。
 女ばかりではなかった。玲は美大に入ってから民間のスポーツ・クラブで水泳を始めたのだが、半年でやめてしまった。なんでもインストラクターのひとりにちょっかいを出されたらしい、と僕はあとで葉子から聞いた。「ひっぱたいたみたいよ、みんなの前で」それは多分相手にとっては逆効果だったんじゃないかな--とは僕の感想だけど。
 だから玲はこれまで女の子とまともにつきあったことがない。愛だの恋だのという生臭い気配を感じたとたんにすうっと醒めてしまうのだろう。元来が社交的な方でもないし、気安く他人を近づけたりもしない。そのくらいプライドが高くて潔癖な彼が、初めて会った男を自分のアトリエに入れること自体、到底信じられなかった。
 それも、あんな--いかがわしい男を。
「何を心配してるのかわからないけど」
 玲は言葉を選びながら言った。
「僕は描きたい、と思ったんだ--彼を。それだけで十分だろ?」
 僕は稲葉和彦のとがったあごを思い浮かべた。長い金髪、浅黒い肌、薄い一重の瞳--獲物をねらう獣のような瞳。
「玲--だけどあいつは」
「徹」
 玲はやわらかく遮った。そして僕を正面から見て、ちょっと笑った。
「ご心配ありがとう--でも、この話はこれで終わり」
 そして彼は宴の後かたづけにかかった。



 --終わりなんかじゃない、それが始まりだった。





 翌週から稲葉和彦は玲のアトリエにやってきた。
 アトリエのある離れは門を通って直接入れるようになっている。東と南に大きく窓が取ってあるが、白いカーテンが何重にもかかっていて、微妙な採光の調整ができるようになっていた。窓の外には花壇と芝生。これも玲が丹精したものだ。入口は白い木製の扉で、母屋の居間の窓から見える。
 稲葉はほぼ一日おきにその扉をノックし、昼さがりの三時間ほどを過ごしていくようになった。無論アトリエにはモデル以外入れない。カーテンが閉まっているので中の様子はうかがえなかった。話し声も聞こえない。
 僕は授業の合間を見ては、いらいらして母屋の窓から離れを見ていることが多くなった。ちょうど三回生で、主な単位をほとんど取ってあったため、時間的な余裕があったせいもある。一年目で忙しい葉子がたまに昼間家にいると僕がいつも居間のソファに陣取っているのでひやかされたりもした。
「まるで刑事の張り込みね」
 その葉子も、玲の身体は心配しているようだった。
 稲葉が来るようになってから、玲が目に見えてやつれてきたのだ。稲葉の来た日の夕食のときなど、見るからにぐったり疲れていて口もきけないほどだった。あまり根をつめないでとか、もっと間隔をあけてもらったらとか、葉子はさんざん玲に頼んだが、玲は「大丈夫だから」と聞き入れようとしなかった。葉子はしまいには涙声になって僕に泣きついてきた。玲らしくもない--ある夜、僕は彼をつかまえて問い詰めた。
「わかってると思うけど、僕も葉子も、君の絵のことをどうこう言うつもりはないんだ。身体のことを心配してる--そんなに急いで仕上げなくちゃいけないのか?いつまでの約束なんだ?」
 玲は読みかけの本を閉じて、簡単に言った。
「期限は特にないよ」
「期限がない?」
「--言っとくけど、一日おきに来てくれと頼んだのは僕の方なんだ--僕はそれでも足りないと思っている」
 僕の驚いた顔を見て、彼は少し声のトーンを柔らげた。
「心配かけて悪いけど--もう少し好きなようにさせてくれないか。そのうち慣れると思うから・・・・」
「慣れるって--何に?」
 彼は答えなかった。しかたなく僕は別の質問をした。
「いいものが描けそうなの?」
「うん--肖像画はね、闘いだと思ってる」
 僕は彼が以前に僕の友人を描いたことを思い出した。彼がはじめて大きな公募展で認められた作品だ--そのモデルはもう死んでしまっていた。
「生きている人間同士のね、闘いだと思っている。僕はそれに慣れたいと思っているし、慣れるまで完成できないんだ」
 では稲葉和彦はその対戦相手に選ばれたのか。
 そりゃ彼は今まで玲の近くにはいなかった種類の人間だ。別世界の人種だ。珍しいのはわかるけど--僕は彼の愛想笑いを思い出して胸が悪くなった。
 玲がそう思っていても、向こうも同じだとは限らないじゃないか。
 絵なんかそっちのけで、玲自身が目あてだったら--。
「でも--玲、あいつが迫ってきたらどうするんだ」
 しまった、と思ったときは遅かった。
「ほっといてくれないか!僕の勝手だろう。君に言われるすじあいはない」
 逆鱗に触れてしまった。--炎のようなプライド。
 僕には言うべき言葉がなかった。ぴしゃりと鼻先でドアを閉められた気分だ。気まずい雰囲気が漂った。
 玲が僕の腕をつかんだ。
「--ごめん、つい・・・・葉子にも言っといてくれ、できるだけ無理をしないようにするから。気をつけるからって」
「うん。僕からも頼みがあるんだけど」
「--何?」
 僕は玲の警戒が悲しかった。
「せめて週末にはアトリエから出て外の空気を吸ってくれ」
 そう言うのがやっとだった。





 玲は僕の頼みを聞き入れた。その週の土曜には久しぶりに外出したのだ--でも、どこへ行ったのかはわからない。稲葉が彼を迎えに来た。
 僕は僕なりに前夜遅くまでプランを練っていたのだ。朝言い出してびっくりさせるつもりだった。それなのに朝食のテーブルについたとたん、玄関のインターホンが鳴った。
 ドアを開けると稲葉がめかしこんで立っている。
「玲は?」と当然のように、僕を見おろして聞いた。
 玲はすぐに出ていった。スケッチブックひとつ持たずに--
 表からエンジンのかかる音が聞こえる。門に出てみると銀色のルノーが走り去っていくのが見えた。
「子羊が狼にさらわれちゃったよ」
 僕は食卓の前で身を固くしている葉子に声をかけた。
「--あいつ、美紀さんとつきあってるんじゃなかったの」
「美紀は、ずっと授業に来てないの」
 重苦しい沈黙が落ちた。僕は冷めたトーストに噛みついた。
「どこへ行ったのかしら--車は苦手なはずなのに・・・・」
 心配することもできない。彼は「ほっといてくれ」と言ったのだ。
「徹・・・・どうしよう」
 葉子は何も手をつけていなかった。
「どうしよう--兄さんが--もし--」
「たまたまさ、行きたいところがあったんじゃないの、いいじゃないたまには」
 僕は急いで言った。
「あの人と--もし--」
「もし--なんだよ、その次は」
 葉子は真っ赤になった。僕はここぞとばかり大笑いした。
「やーらしーなあーおまえ!少女漫画の読みすぎじゃないの?考えすぎだよ--玲にかぎってそんなこと、あるわけないって」
 葉子は照れくさそうに泣き笑いしてから、口をとがらせた。
「言ってみただけよ」
 はいはいと彼女の顔を立てて、僕は葉子を授業に送り出した。一年生は土曜も講義があるのだ。
 ひとりになって、僕は居間からアトリエを眺めた。
「そんなこと、あるわけない」って--よく言うよ。
 ちっとも信じてないくせに。
 --玲はあの日から僕に何も言わなくなった。葉子の前では以前と同じように振るまってはいるが、ふたりきりになったとたんにぴったりと口を閉ざしてしまう。僕にはそれがこたえていた。
「ほっといてくれ」彼の声が頭のなかにがんがん響いた。
 ちくしょう。



 ルノーは次の週にもやってきて玲を連れ去った。あいにくの雨で、僕は鬱々とレポートの資料をめくっていた。今年でないと取れない単位がいくつかあった。取るべきものはきちんと取って、来年春には両親の会社の入社試験をかたちばかり受ける。その後のレールはもう敷かれていた。
 選択の余地はなかった--僕はそのためにこの家に来たのだから。父は僕をかわいがってくれたし、母も(玲は別格としても)僕と葉子を分け隔てせずに育ててくれた。葉子は生意気だが僕を頼りにしているし、玲は--自分の将来を僕に譲ってくれた。僕はとりたてて自分を義理堅いほうだとは思ってないけれど、これだけの愛情に感謝するだけの素直さは持っているつもりだ。
 それなのに--玲と気まずくなって以来、僕は何をするのも嫌になった。一日中陽の射さない部屋に押しこめられているような気分だった。分厚い資料を開いていても、活字が頭のなかを素通りしていく。
 昼飯でもつくるか、と椅子から立ち上がりかけた時だ。
 表で車の停まる音がした。
 胸騒ぎがして急いで玄関から外に出ると、稲葉のルノーが車体を傾けて停まっていた。--何だってこんなに早く戻ってきたんだ。
 ワイパーごしに助手席の玲の白い顔が見えた。ぐったりしている。
 僕はあわてて走り寄った。さしかけた傘を払うようにして、稲葉が玲の肩をかついで車から出す。僕を認めると、短く「アトリエへ・・・・」と言った。「俺のポケットに鍵があるから--」





 扉を開け、あかりをつけると、アトリエの中は前と一変していた。大小のカンバスがあちこちに置かれ、白い布がかかっている。床にはスケッチが散らばって足の踏み場もない。窓のそばに籐椅子だのテーブルだのがかためて置かれ、珈琲と油絵具の混ざった匂いが漂っていた。
 稲葉は玲をかついだまま要領よくカンバスの間をかいくぐると、一番奥のソファに玲を横たえた。玲は半分意識がない。顔が蒼白だった。稲葉は玲の濡れた髪を拭き、セーターを脱がせ、シャツの前ボタンをはずして胸をはだけた。袖のボタンをはずし、ベルトをゆるめ、ソックスを脱がせる。慣れた動作だった。手を取って脈を測り、引出しから体温計を出して脇の下に入れる。--それから初めて大きく息をついた。
「--玲は--車が苦手なんだ」
 僕は咎めるように言った。
「--言えばいいのに--平気だって言うから・・・・」
「あんたが無理をさせるんだ」
 稲葉は振り向いた。かちりと視線が絡まった--が、そらしたのは彼の方だった。
「悪かったよ。丈夫じゃないことは知ってた」
 そして玲の脇から体温計を抜き取ると、ちらっと見て、スイッチを切った。
「よく--ある場所を知ってたね、それ」
「・・・・前にもあったんだ」
 彼は言いにくそうに目をそらしたままで、言った。
「この部屋のなかで--二回ほど」
「なんだって?」
 僕は思わず掴みかかった。
「貧血で--でも大丈夫だと言ってたし」
「大丈夫なわけないだろう!見ててわかるだろ!」
 だから言わないことじゃない。こんなやつに玲を任せるなんて--
「おい、わかったよ、わかったから--そう、熱くなるなよ」
 彼は僕の手を振りほどくと、息を整えた。
「やれやれ--まいったな・・・・」
 手近な椅子を引き寄せて、どっかり座る。僕は少しばつが悪くなって、何の気なしにあたりを見まわした。
 --ぎょっとした。
 散乱したおびただしいスケッチは、そのほとんどが稲葉の裸身--それも全裸のデッサンだ。正面、横から、背中から--目の前の椅子に座り、ソファに寝ころび・・・・。いったい何枚あるのか。どれだけの時間が費やされたのか。
 そこには玲が、稲葉を、稲葉だけを見つめた時間が凝縮されていた。
 稲葉は僕の視線に気づいて立ち上がり、カンバスのひとつに手をかけた。
「見る?」
 布がすべり落ちた。



 僕は息を飲んだ。
 それは金と漆黒とのせめぎあいだった。稲葉であって稲葉でないような、不思議な男--暗い洞窟にひざまずいた若い男。中世の僧服を思わせる黒い衣をまとい、切れ長の瞳は見る者のはるか背後を見つめている。頭巾からこぼれ落ちた豊かな金髪が陽の光を受けてきらきらと輝き、闇を圧していた。静謐で美しい世界だった。
 玲には稲葉がこんなふうに見えるのか。僕は打ちのめされた。
 稲葉は僕の驚きを見てとると、ほかのカンバスの覆いも取った。
 一枚ずつ描きかたが違った。しかし、みんなが稲葉だった。稲葉の中の何かを取り出して増幅させ、背景を与え、トーンを整えたものに違いなかった。素人目にもその美しさはわかった。
 何も言うことはなかった。ここは僕のいる場所じゃない。
 --僕は何者でもなかった。
 やっとの思いで扉にたどりついた僕の背に稲葉の低い声がかぶさった。
「もうわかってると思うけどさ、俺は--玲を」
 僕は身体を固くした。
「玲を--愛している」
 それはくさびのように僕の背に突きささった。
 僕は最後の気力を振り絞ってドアを閉めた。



 部屋にまた静寂が戻った。
 稲葉はあかりを消すと、窓ぎわのソファのそばに行った。
 玲の白い身体が横たわっている。
「気がついた?」
 玲がわずかにほほえんだ。
「--聞こえちゃった?」
 答えはなかった。
 稲葉はかがんで玲の顔を覗き込もうとした。
「--和彦」
 動きがとまった。
「--ありがとう・・・・帰って--くれて・・・・」
 それだけを言って、またとろとろと眠りに落ちる。
 稲葉の瞳が驚愕で見開かれた。
 彼はしばらく雨の音を聞いていたが、やがて立ち上がって玲に毛布を掛け、アトリエを後にした。いつもの場所で車を停めると、雨の中を滅茶苦茶に歩き始める。
 あてなどない。どこまでも歩いていたかった。
 雨はますます強くなった。





 秋の深まる頃、山裾の公園では銀杏並木が見事な金色の葉を散らす。
 僕はそこを散歩するふたりの姿を見かけるようになった。
 玲と稲葉。
 あの雨の日以来、さすがに車で連れだすようなことはなくなったが、今度は毎日のように稲葉がやってくる。まるで恋人気どりだった。
 会う場所もアトリエだけではない。
 公園にも、図書館にも、美術館にも公然と連れだって歩くふたりは周囲の目をひいた。その多くが好奇のまなざしだった。
 無責任な噂が僕と葉子を鞭打った。
「見たわよ、玲さまってそんな趣味だったの」
「歩きながらキスしてたって、それだけじゃなくてさ・・・・」
「あの稲葉がひっかけたんだって、あいつテクニシャンって話だぜ」
「どっちが上になるのかしらね、ふふふ・・・・」
「エイズとかって大丈夫?」--
 僕でさえこれだけ参ってるんだから、葉子は気が狂いそうだったに違いない。玲は今まで、僕たちの自慢の兄だった。頭が良くて、優しくて、ハンサムで・・・・誰からも好かれ、誰からも信頼されるカンペキな兄貴だったんだ。
 何だってこんなことになっちまったんだろう--。
 僕たちはまるで示しあわせたように、その話を一切口にしなくなった。
 朝、顔を見ると威勢よく冗談を言い合い、食卓で軽口をたたいて笑いながら、その話題のまわりだけを注意深く避けて通る。
 口を開けばそのとたんに、ざっくり開いた傷口から真っ赤な血が溢れ出てとまらなくなるのがわかっていたから。
 でも--それだけではなかった。
 外部の中傷だけなら、無視していればそれで済んだ。
 僕たちを本当に打ちのめしたのは、玲がもう、僕たちと一緒にどこへも行かなくなったことだ。
 毎年この季節になると三人で行ったあちこちの映画祭やキャンプ、仲間を呼んでのバーベキュー--玲はもうそれに見向きもしなくなった。季節が巡ると同じように、毎年繰り返されると信じて疑わなかった僕たちの時間を、彼はあっさりと破り捨てていった。まるでいらないページを破くみたいに。
 僕と葉子だけが置き去りにされて途方に暮れている--
 いつしか会話もとぎれがちになっていた。



 だからある朝、コンビニでその瓶を見つけたときも、はじめはちょっとした気分転換だった。
 金色のヘアダイ。--メッシュ用の小さいのじゃなくて、大きいボトル。
 買ってしまってから、稲葉のサラサラの金髪を思い出した。
 僕が彼になれるわけじゃない。たとえ彼になったところで、人生が変わるとは思えなかった。--要するに、遊びにすぎない。
 僕は説明書を読み、シャワーで髪を濡らしにかかった。
 あ、瓶を洗面台に置いてきた--と思ったときだった。
 浴室のドアが乱暴に開いた。
「何をやってるんだ!」
 玲だ。
「何って--」
 手に瓶を持っている。
「かせよ、使うんだから」
「やめろ、こんなの」
 居丈高な兄の顔だ。頭に血がのぼった。
「関係ないだろ!かせよ、僕のだ!」
「やめろって言ってるんだ!」
 掴みあいになった。
 あっと思った瞬間、瓶は玲の手を離れてタイルに落ち、粉々に砕けた。金色の粉を、シャワーがゆるく流していく。
「--徹」
 僕は唇を噛んだ。
「怪我はなかったか」
「--関係ないだろう」何の権利があって--
「徹--そこは危ない。シャワーをとめてこっちへ出てこいよ」
「関係ないって言ってるだろ!」僕は叫んだ。
 何の権利があってそんなことが言えるんだ。
「君だって金髪が好きなんだろ」
 差し出した玲の手がとまった。図星だ。
「君だって勝手なことをしてるじゃないか」
 玲が僕を凝視する。
「--恥知らず!」
 一瞬、すさまじい殺気が襲った。殴られる、と思わず身を引いた--が、それだけだった。
 おそるおそる目を開ける。彼は顔をそむけて震えていた。
「--タオル、ここに置くから」
 声がかすれていた。
 そしてそのまま洗面室を出ていった。



 僕は浴室の破片を拾い集めながら、考えた。
 --あのプライドの高い玲が怒らなかった。
 彼がただの一度も否定しなかったことが僕を深く傷つけていた。
 胸がきりきりと痛い。針を刺したように痛い。
 膨れあがった思いが今にも破裂しそうだ。
 僕は目を閉じた。
 闇の中を金色の薬瓶がスローモーションで砕けていった。





 僕はフルスピードで自転車をとばした。
 玲はアトリエに閉じこもって出てこない。
 まっぴらだ、こんなの--
 僕はやみくもにペダルをこいだ。
 景色がものすごい速さで遠ざかっていく。
 --意識の奧で、僕はふと、この近くに住む玲の古い友人を思い出した。



「おう、徹じゃないか。久しぶりだな、入れよ」
 --「松さん」こと松本登は玲と同じ美大の立体造形科に通っていた。がっしりした外見に似合わない繊細なところのある男で、僕は好きだ。ワンルームのひとり暮らしだから訪ねるのも気兼ねがなかった。
「玲も元気か?ここんとこ会ってないけど」
 彼が珈琲を運びながら聞いた。--何て言ったものだろう。
 僕が間をおいているのを見て、彼はさりげなく言った。
「大学であまり会わないから、またアトリエにでも閉じこもってるんだろ」
「うん、肖像画を描いてるみたい」
「--ふうん」
「金髪男のね」
 松さんはちょっと驚いたようだった。そういえば、玲が前に賞をとった肖像画は松さんが預かっていたんだ、と僕は思いだした。彼は「僕んとこなんかで大丈夫かなあ、責任持てんぞ」とか言いながら、案外嬉しそうにしていたものだ。
「松さん、頼みがあるんだけど--玲のあの肖像画、見せてくれる?」
 彼は快く引き受けると、クローゼットの奧から、油紙で厳重に包んだ絵を出してきた。
「飾ればいいのに」と言うと、
「泥棒でも入ってみろ、玲に顔向けができない」と言う。
 ていねいに包装をはずすと、画面一面に咲きみだれた花が目にとびこんだ。逆光のなかで笑っているひとりの青年の横顔--峰岸潤一。高い鼻梁、ひきしまった唇、そして夢見るようなうっとりとしたまなざし--それらが混然一体となって甘く切ない、青年期だけが持つ独特の香気を発し、見る者を夢幻の世界に誘った。それは彼の夭折後描き始められた、彼のためのレクイエムだった。
 徹--潤一が話しかける。徹--楽しかったな。
 --穏やかな死に顔だった。
 僕が見ている間、松さんは席をはずしてキッチンで煙草を吸っていた。僕は見終わってそのかたわらに立った。松さんがぼそっと言う。
「いい絵だよな--あれ。僕もモデルにはちょっとしか会ったことなかったけど、人間性がストレートに伝わってくると言うか」
「--うん」
「よほどモデルを理解しないとああは描けない。玲は入れ込むタイプだよな」
 僕は緊張した。やっぱり稲葉のことは松さんの耳にも届いていたんだ。僕は思いきって聞いた。
「入れ込む--って、惚れちゃうこともあるってこと」
「さあ--な。--でも」
 松さんは紫煙を長く吐き出した。
「そうであってもなかっても--なにか切実な理由があるんじゃないかなあ。玲は生真面目すぎるくらい生真面目なやつだし」
「--僕や葉子をほったらかしても?」
 松さんは吹き出した。笑いすぎて太い腕でテーブルをどんどんたたくので、卓上の塩や胡椒がぽんぽんとびはねる。
「徹、おまえ今いくつさー・・・・葉ちゃんもさ・・・・」
「何だよ」
 松さんは笑うのをやめて、真面目な顔で言った。
「いつまでもくっついてばかりいないで、いいかげんに玲をお兄さん役から解放してやれよ--これまでずっと、いい兄貴やってたんだろ?あいつだってさ--二十一才の、ひとりの男だろ、それなりの考えも生き方もあるだろう、そう思わないか?」
 それはそうだった。
 言われてしまうと反論できない。松さんは玲を--信頼してるのだ。
「そうであってもなかっても」だ。
 僕たちは--いや、僕は、玲がいつまでも僕と葉子のいい兄貴でいることを当然だと思っていたから、変わってしまった彼を「裏切った」と感じてショックを受け、玲を許そうとしなかった。彼の気持ちも考えずにひどいことを言ってしまった。僕は--
 黙りこくった僕を見て、松さんはちょっとあわてた。
「まあ、玲もお高いとこあるからな--なんたって芸術家だから」
「松さんだって」
「彫刻なんてものはさ、そんなこと言ってられないの、肉体労働だよほら」
 彼は力こぶを自慢した。





 「昼めし食べてったら」と言う彼をていねいに断って、僕は愛車にまたがった。現金なものだ--早く玲に会いたかった。会って、いろんなことを話したい。 
 川の堤を走りながら、僕は考えていた。
 玲を「二十一才の、ひとりの男」と言った松さんの言葉。
 生々しいこころと身体を持ったひとりの男--。
 そんなふうに考えたことはなかった。
 --突然、目の前にこれまで知らなかった玲の別の顔を突きつけられたように感じて、僕は思わず急停車した。彼の顔がよく思い出せなかった。
 僕は自転車を押してゆっくりと堤防を歩いた。
 風がわたっていく。
 秋の長い陽が沈みかけた頃、僕はやっと家に着いた。
 玲に会わなくちゃ、と思った。会って、その顔を確かめて、これまでどおり、こころの中の定位置にきちんと置かなくちゃ。



 --でも、僕は遅かった。遅すぎた。
 自転車をガレージに入れてふと離れのほうを見ると、アトリエの窓に何か動くものがあった。僅かに開いた窓から風が入り、重なった薄いカーテンが揺れているのだ。あかりが消えているのに不用心だな--と近づきかけたとき、一陣強い風が吹き、カーテンがいっせいにあおられて、その奧の白いものが目に入った。その瞬間、電流にうたれたように全身が硬直した。
 近づくな、近づくなと頭の中を非常灯がぐるぐるまわった。
 でも足は震えながら引き寄せられていく。とまらなかった。
 窓まで三メートルほどに近づいたとき、白いものの正体がわかった。
 --玲だ。いつかの雨の日のようにソファに横たわり、身体に白い布のようなものがかけられている。眠っているように動かなかった。
 僕はアトリエの玄関に向かった。
 そこには稲葉がいた。立ったままうつむいて煙草を吸っている。
 一瞬、玲がまた貧血を起こしたのか--と思い、彼に近づいた。
 彼が足音に気づいて僕を見た。
 切れ長の眼の奧にさざなみのように感情が溢れて、すうっと消えた。
「玲は--?」
「眠ってる」
 彼は扉の奧を目で示した。
「--また、貧血?」
 僕は無造作に聞いた。彼はまじまじと僕を見つめた。瞳に光が戻ってきた。それは徐々に強くなり、灼けつくように僕に絡みついた。
「--だったんだな・・・・」
 ほとんど聞き取れないほどの低い声だった。僕はいぶかしげに彼を見た。
 彼の瞳が残忍に光った。
「玲は--初めてだったんだな」
 稲葉ははっきりと唇を動かした。
 頭が真っ白になった。
 --何だって?--今、何て--
「言っとくが、無理強いしたわけじゃないぜ」
 --「初めて」って--玲は--
 突然、頭の中が明晰になった。全身が怒りで燃えた。
 僕は稲葉に殴りかかった。
 殺してやる。
 殺してやる--玲を--
「待てよ--おい」
 稲葉は僕の腕を受けとめ、締めあげてささやいた。
「玲が起きる」
「何を言ってるんだ!」僕はもがいた。
「あんたが知ったってわかったら--」
 知ったってわかったら。
 --玲は--どうするだろう。あの、プライドのかたまりのような男は。
 僕は手を離した。そして声を低くして言った。
「おまえを許したわけじゃない--殺してやる!」
 稲葉も僕を見おろした。
「--どうぞ、ご自由に」
 その声には優越と憐憫がにじみでていた。
 玲は俺のものだ。殺したければどうぞご自由に!
 僕はその場から逃げ出した。




10


 どこをどう歩いたのか覚えていない。これが何軒目の店なのか数えるのも、とうにやめてしまった。胸の中で金色の瓶が破裂して、無数の破片が臓器に突き刺さっていた。内臓を突き破り、皮膚から切っ先を出している。裂け目からどくどくと暗褐色の血が流れた。息をするたびに全身がひきちぎられそうに痛い。助けてくれ、僕は叫んだ。助けてくれ、玲--
 暗闇の中を雪が降っている。無数の雪がひらひらと--雪じゃない、紙だ。玲のデッサンだった。繊細なタッチで描かれた稲葉の裸身。無数の裸身があとからあとから降ってきて、床に積もってゆく--ひとりの稲葉が紙から身を起こす。むっくりと立ち上がって歩き出す--遠くでカンバスに向かっている玲の方へ。ひきしまった浅黒い肉体。小さな尻。金髪が揺れる。稲葉が玲をつかまえる。ふたつの影が重なって床に倒れた--逃げろ、玲。逃げるんだ。僕は大声で叫んだ。足が動かない。
 壊れたラジオから出るようなざーざーという音が耳の奧で執拗に鳴っている。目の前にソファがあった。玲が横たわっている。稲葉の手がシャツの胸をはだける。白い--胸。なだらかな隆起。呼吸のたびに浅くうきあがる肋骨。ちらりと見えるピンク色の乳首--淡く、柔らかく、桃のようになめらかな乳首がわずかに動く、上、下、上、下--なぜそんなことを思い出すんだ。--あの日--玲は青白い顔をしていた。額に細かい汗の玉が浮いていた。唇が時折苦しそうに開く。薄くかたちのいい唇の間から前歯が覗いた。白いつややかな前歯の奧から--声が漏れる。湿やかな声--「和彦・・・・」
 どうやって抱いたのか、どうやって抱かれたのか、どうやって誘い、どうやって応じたのか--
「言っとくが、無理強いしたわけじゃないぜ」
 密室のアトリエ--昼さがり。重なったふたつの身体--玲の裸の肩を抱く稲葉。玲のやわらかな唇を吸う稲葉。玲の乳首に触れる稲葉。玲の身体を開かせて、腰を深く沈めている稲葉、抱き締めながら腰を動かし--「あいつ、テクニシャンって話だぜ」--のけぞる玲の身体の奧まで何度も、何度も侵入して--
 僕は絶叫した。
 振り払っても、振り払っても玲の白い顔が目の前に浮かんだ。どれだけ強い酒を飲んでも消えなかった。目を閉じて、喘いでいる--覆いかぶさった浅黒い肌の下で--ばら色に上気したほお、細かな汗、乱れた髪--稲葉の腰の動きに合わせて、きつく噛んだ唇の間から耐えきれず洩らす喘ぎ声--
 やめろ、玲。気が狂いそうだ。君はずっと玲だったじゃないか。僕たちの大好きな兄貴だったじゃないか--優しくて、かっこよくて、僕の自慢の玲だったじゃないか--玲が薄く目を開ける。目を開けて、僕を見る。
 瞳に宿った不可思議な光。
 --それは僕が十六年間一度も見たことのない玲の顔だった。
 松さんの声が耳に残っている。 
「あいつだってさ--ひとりの男だろ」・・・・



 気がついたとき、あたりは闇だった。
 闇のなかに規則正しい寝息が聞こえた。--僕は起きあがった。
 しばらくじっとして目を慣らす。周囲の輪郭がぼんやり見えてきた。
 誰かの部屋だった。僕の知らない部屋だ。
 額がずきずき痛んだ。
 不意に、カチッという音と同時に周囲が明るくなった。
 フロアスタンドが光の輪をつくっていた。床に敷かれた布団から手が伸びている。こちらを見た丸い顔に見覚えがあった。
「--美紀さん!」
「起きたの、藤坂さん・・・・夕べは荒れてたね」
 夕べ?
「覚えてない?--あたしが見たときには、電信柱におデコをがんがんぶつけてて--びっくりしたわよ、ひきはがすのに苦労したよ」
 僕は額に手をやった。大きな脱脂綿がテープでとめられている。
「美紀さんが--連れてきてくれたの」
 頭がまだもうろうとしていた。
「うん、ほっとけなかったし--だって泣いてるんだもん、大声で」
「--」
「--やめろ、やめろって、ぼろぼろ泣きながら頭ぶつけてるんだもん--」
 そのとたん、昨夜の残像がフラッシュバックした。
 闇の中で絡み合うふたつの身体。むさぼりあう唇、白い胸を這う稲葉の指--僕は耳をふさいで激しく頭を振った。頭が割れそうだった。
「大丈夫、そんなに頭を振ったら--」
 美紀さんが僕を下から覗き込む。心配そうな一重の目--その目に稲葉の切れ長の目が重なった。そうだ、美紀さんは稲葉の--彼女だった。玲を犯した稲葉の--
 突然、玲の顔が鮮やかに現れた。輝くような微笑だ。それが一転、苦痛にゆがんだ。苦しそうに眉をしかめ、唇を噛みしめている。がくがくと揺れ、髪が乱れて額にかかる。そして耐えきれず--声をあげる。快楽の--
 僕は獣のように吠えた。やめろ、やめろ、やめろ--そして頭を抱えながらベッドの上を転げまわった。何でもする、何でもするから--
 僕は叫びながら美紀さんをベッドにひき倒し、衣服を剥いだ。彼女の顔の上に涙がぼたぼたと落ちた。美紀さんはしばらく僕の顔をじっと見ていたが、両手でしっかりと僕の首を抱いた。--そして僕を受け入れた。




11


 僕は三日間友人の家を転々とした。玲の顔を見る勇気がなかったのだ。
 四日めに家に電話をした。葉子が出たのでほっとした。
「徹?どこ行ってたの、心配してたのよ」
「うん、ちょっと、あちこち--」
「今日は戻ってきてよ、炊事当番でしょ?--それに」
 葉子は声を落とした。
「兄さんが--」
 どきんとした。玲が?
「アトリエを片づけてるのよ」
 なんだ。
「散らかってたからな、ずいぶん」
「そうじゃないの!--終わったみたいなの、頼まれてた絵が」
「本当?」
「うん。--もう来ないみたい--それに」
「何」
「話があるみたいなこと言ってたから、とにかく夕飯には帰ってきてよ」
 僕は半信半疑で家に帰った。玄関を開ける前に、ちらっと離れを見た。暗い窓にカーテンがきっちりとかかっている。
 居間に入ったとたんに、いきなり玲と目が合った。
 玲は--ほほえんだ。あたたかい目だ。僕は胸がいっぱいになった。
 少し髪を切ったらしい。前より清冽な印象だった。エプロンをつけて、ビーフシチューを運んでいる。すらりとした立ち姿。無駄のない動作--
 もう何年も見慣れたはずの彼に、僕は改めて見惚れた。
 食卓でサラダを取り分けながら、玲は口火を切った。
「君たちにもいろいろ迷惑をかけたけど、稲葉さんの肖像画が完成したので--またもとの生活にもどるけど--よろしく」 
「本当?兄さん」
 葉子が目を輝かせた。
「ああ--それから」
 玲は誰を見るともなく言った。
「彼はもう来ないから--」
「--どうして?」
 僕は意地悪く聞いた。
「どうしてって--絵も渡したし、支払いも済んでる。来る理由がないだろう?」
 玲はさらっと言った。--演技派め。
「君になくても、あっちにあるんじゃないの」
 玲はちょっと顔をこわばらせた。葉子がやめろ、と目で合図する。
「--徹--葉子も、噂やなんかで嫌な思いをさせたことは、本当に済まないと思ってるけど--」
「噂のことなんかどうだっていい!」
 僕はどなった。
「そんなこと言ってるんじゃない--僕や葉子に--」
 僕や葉子にこそ本当のことを言って欲しかった。--たとえそれが僕たちにとって辛い事実でも、僕たちは玲の本心が聞きたかったんだ。彼の口から。
「もうやめて、徹」
 葉子が割って入った。
「--あたしはいいから。あたしは兄さんがいいなら、もうそれでいいから」
「--葉子」
 玲が葉子を見る。
「--だからあんまりあたしたちのこと、気を使わないで、ね?」
「--葉子、できすぎだよそれ」
「あたし人間できてるもん」
 葉子はにっと笑った。



 夕食後、玲が僕の額の傷の手当をしてくれた。傷口は固まりかけていた。
「--この間は悪かった」
 ヘヤダイの一件のことを言っているらしい。僕は黙って首を振った。
 額に触れる玲の指がひんやりとして心地よかった。



 僕はその夜考えていた。
 --稲葉はなぜ急に来なくなったのか。玲に飽きて、別れたのか。--それとも玲を抱いて、気が済んだのか。
 --そんなはずはない。あのふたりがそんな簡単な関係でなかったことぐらい容易に想像がついた。
 --何かある。来られなくなった理由が--
 その夜半、皆が寝静まってから、僕はそっとアトリエに行ってみた。
 入口には固く鍵がかかっている。窓にまわってみたが、同じだった。引き返そうとしたとき、やってきた葉子とぶつかった。
 --僕たちは顔を見合わせて、どちらからともなく苦笑した。
 そのまま並んで母屋に向かって歩く。
「葉子さ--いつ松さんと会ったわけ?」
「どうしてよ」
「バレバレだよ、あんなくさい台詞」
 葉子はちょっと僕をにらんだ。それからさりげなく言った。
「あのね--あたしが小さいとき--」
 そこで少しだけ息を継ぐと、葉子は一気に言った。
「小さいとき、よく母さんに言われたのね、ようこ、ちゃんと手を洗って、泥を落としてからおにいちゃんのところに行くのよ、騒いだりしちゃだめよって--兄さん身体が弱かったから--だからあたし、いつも兄さんの前に出るとものすごく緊張したの。兄さんはとても優しくて、ベッドの横から絵本とか図鑑とか出してきていろんな話をしてくれた。物知りでね」
 僕は黙ってうなずいた。
「学校のほかの男の子たちとは全然違った--あたしの小学生のときの夢、覚えてる?」
「--何だったっけ--」
「看護婦さん。看護婦さんになって、ずっと兄さんの世話をしたかった--兄さんはあたしの、王子さまだったのよね--あたし、松さんのところで」
 葉子は照れくさそうに笑った。
「ものすごく泣いちゃった、三時間ぐらい」
「--」
「それでとりあえず、ブラザー・コンプレックスは卒業しようと思ったわけ。--以上、報告、おわり」
 胸が痛んだ。--僕は声を張り上げる。
「うむ、なかなか素直でよろしい」
「やーね、えらそうに・・・・」
 葉子は口をとがらせ、ふと思い出したように言った。
「徹、ちょっと聞くけど、ネバダっていう喫茶店、知ってる?」
「--いや、なぜ?」
「--ううん」
 知らなかったらいいの、と言って葉子は振り向いた。
「ね、徹、本当にもう来なければいいね!--あんな顔、だいっきらい、あたし」 



 稲葉は本当に来なくなった。しかしまもなく、僕たちはそのだいっきらいな顔を嫌でも見なければならないはめになった。テレビで、新聞で、駅のポスターで。
 彼は指名手配されたのだ。




12


 それは十二月の初め、忘年会や大掃除などの雑多な師走の行事に向かって人々の意識が走り始めた頃だった。
 長崎県佐世保港に米軍の巨大空母コンクエストがひっそりと入港した。従来通り革新団体の抗議やデモが行われたが、世論の反応は鈍かった。それが一躍トップニュースに躍り出たのは、米軍関係者を招いた歓迎パーティの席上で爆弾が破裂したためだ。
 死者五名、負傷者三十八名。しかもその死者のなかには米海軍の高官が二名入っていたから、ことは重大だった--下手をすれば、外交問題に発展しかねない。政府のパニックがまだ収まらないうちに、都内の各新聞社に犯行声明文が届いた。極赤星と名乗るグループからだった。
 事件から二日後、あらゆるマスコミが一斉に主犯格の男を報道した。
 稲葉和彦、二十一才、K大工学部四年生。逃亡中--



 あの稲葉が、過激派?
 何かの間違いじゃないのか--僕にはどうしても信じられなかった。
 ひとめで目立つ金髪、業界人もどきのキザな格好、バイセクシャル、ナンパ、ヤク、遊び人--
 どこをとっても政治テロをやりそうな人間とは結びつかない。
 --だが、それらがみんな偽装だとしたら?
 偽装だったとしたら--
 玲は知っていたんだろうか。僕は玲の自室をノックした。
「--どうぞ」
 玲は机に向かって書きものをしていた。くるりと椅子をまわして僕を見る。光のせいか、頬がこけたように見えた。
「玲--あの--」
 僕は玲のベッドに腰かけて、どう切り出そうかと迷った。
「何」
 彼は落ちついていた。
「--ニュース、見ただろ」
 彼の目が、ちょっと光った。
「知ってたのか、あいつが--」
「知らなかった」
 玲は即座に言った。
「じゃああの絵は--最初、期限がないって言ってたよね、どうして急に完成したの」
 あの、謹厳な若僧のような稲葉の肖像。あれはもうずっと前に完成していたのではないかと、僕は疑っていた。
「この前の--瓶を壊した日があっただろう、覚えてるか」
 忘れるはずがない。稲葉が玲を抱いた日だ。
「あの日に、急ぐことになったので二日後に欲しいと言われた--どっちみち、あとは仕上げだけだったし」
 玲は僕を見た。
「二日後に、完成した絵を渡して、代金を受け取った。--そして別れた、それだけ」
 僕は玲が、その穏やかな仮面の下で血を流して苦しんでいるのではないかと思った。初めての男のために流す涙--僕は残酷な気持ちになった。
「彼は君に、愛してるって言った?」
 玲の白い顔に血の気がさした。
「その質問は--答えなきゃいけないのか?」
「--別に・・・・」
 そんな権利は僕にはなかった。僕は彼の、何でもない。
「じゃ、そのほかに質問は?」
「--ないよ」
「それじゃ悪いけど出ていってくれないか」
 僕はあっさり追い出された。



 警察は稲葉の交友関係を洗いざらい調べあげていた。
 当然のように僕の家にもやってきて玲を聞きただし、アトリエを隅から隅までつついたが、中はきれいに整頓されていて何も残っていなかった。
 葉子は何度も美紀さんと連絡をとっていた。美紀さんのアパートの周囲にもべったりと私服が張り込んでいるらしい。
 稲葉の行方は杳として知れなかった。
 やがてあわただしく年の瀬が過ぎ、松の内になって両親が帰宅しても、新年の話題は弾まない。彼らを再び空港に送ってやれやれという気分だった。
 玲はいつもと変わらないように見えた--
 いや、見せていたと言うべきか。
 毎日決まった時間に起き、日々の予定を消化し、同じ時間に床につく--そのあまりの正確さがかえって不自然さを感じさせた。
 一滴のインクのしみが徐々に広がっていくように、何か目に見えないものが彼のこころの底を深く蝕んでいく--しかもそれをわかっていて、なすがままになっているように思えてならなかった。
 僕は彼にいちばんしたかった質問があったのだ、と気がついた。
 玲もまた稲葉を--愛していたのか、ということだ。
 今の玲を見れば答えは明瞭だった。その想いの深さも嫌と言うほどよくわかった。第一、彼が嫌なやつに身を任せるはずがなかった。
 わかっていたことだ--わかっていたことだった。
 突然、悲しみが突きあげた。
 玲はもう--僕の知っていた玲ではないのだ。
 玲は生身の男として、恋をしたのだ。
 僕の知らない間に、ほかの男に--
 それを認めることは辛かった。熱い鉄のかたまりをいくつも飲み込んだように胸が灼けた。その胸をかかえたまま僕は--真っ暗な深い淵を、どこまでもどこまでも--奈落の底までも落ちてゆき、そして--床にたたきつけられて身体中の骨がバラバラに砕けてゆくのを感じていた。その感覚は繰り返し、繰り返し執拗に僕を襲った。落下と激突の繰り返しだ。一瞬ごとに虐殺される。終わりがない--絶望には果てがなかった。
 僕はまた家を出て、友人の間を転々とした。大学では後期試験が始まっていたがとてもそれどころではない。僕は毎晩酒を飲み、麻雀をし、ゲームセンターに通い詰めて腕を磨いた。
 いずれ帰らなければならないのはわかっていた。僕は両親の会社を継がなければならない。もし見合いをしろといわれても--断れないのはわかっていた。それが、僕に道を譲ってくれた玲への、せめてものお返しなのだ。




13


 試験は葉子の大学でも始まっていた。葉子は大量のノートをかかえると美紀のアパートに向かった。
「ねえ、元気出そうよ、せめて必須科目だけでも取っとかないと」
「ふふ・・・・ねえ、葉子、あんなに毎日張り込んでくれるとさ」
 美紀は皮肉っぽく笑った。
「ほんとに彼が来てくれるかもって期待しちゃうよね」
「--美紀--」
「--今にして思うと、カモフラージュだったんだよね、いろんなことが」
「何のこと?」
 美紀は窓ぎわから炬燵に戻って、中に滑り込んだ。
「和彦、いろんなコにちょっかいかけたり、なにかとハデなことしてたけど、本気じゃなかったのよ--あたしだって」
 美紀はふっと息をついた。
「演劇やってるせいで多少は顔が広いでしょ?だから近づいて来たんだと思うな、いろんなひと紹介しろって言われたもん--葉子のお兄さんも」
「え?--お兄さんって玲のこと?--大学祭で初めて会ったんじゃなかったっけ」
「会ったのは初めてだけど--前から、機会があったら会わせて、とは言われてた。あたしだって知らなかったもの、あんなにハンサムだなんて」
 とんびにあぶらげ、になっちゃったね、と美紀は笑った。
「--まだ、好きなの?」
「--へへへ・・・・しょうがないって思ってるでしょう、葉子」
「思わないわよ」
「なれそめ、聞きたい?」
 もう、と葉子は机の上のノートを閉じた。今日は勉強はヤメだ。
「いきなり、しちゃったの」
「--何を?」
「何って--アレ」
 葉子は真っ赤になった。美紀はかまわず続けた。
「カレ工学部でしょ、電気とかにも強いもんだから、照明の配線やなんかを相談してたの、ふたりで、夜、部室で--そしたらいきなり押し倒されてね、力が強いでしょ、身動きできなくて--観念したの」
「それって--レイプじゃないの」
「それがね--あたしのほうは、いつ警備員が巡回してくるかってドキドキして、するならするで早く済まして欲しかったんだけど--」
「--」
「全部脱がすのよ、ゆーっくり、月明かりの下で・・・・--寒いって言うと、今度は馬乗りになって、舐めるの、身体中--足の裏まで」
「足の裏まで?」
「ふつう汚いと思うよね、事実お風呂入ってなかったし--恥ずかしかった。アソコも、ゆっくり--それが、ものすごくうまくて--それからセックスしたんだけど、すごくて--あたし、自分が獣か何かに変身したかと思った--ああ、こういう変身のテがあったかって」
「変身?」
「--うん。自分の知らない自分の顔が現れる--ものすごくスリリングなの。--芝居だってそうでしょ?--それで」
「それで?」
「--もっともっと変身したくなって、深みにハマった」
 ふたりで爆笑。
「--いいわねえ、美紀・・・・あたしなんてなーんにもないもん」
「あんなハンサムなお兄さんふたりもいて贅沢言ってる」
「だって兄妹じゃね」
「葉子と一緒の高校のコが言ってたよ、葉子はいつも家であんな兄さんたちばかり見てるから理想が高すぎるんだって。--理想を持つなとは言わない、基準を変えるの」
「基準?」
「そう。カオからカラダに!」
「やだ!」
 笑いながら、明日の試験はあきらめようかな、と葉子は思った。



「送れなくてごめんね」シフクのせいで、と美紀は謝った。
「ううん--じゃ、学校でね、おやすみ」
 葉子は少し歩いてから振り返り、手を振った。
 アパートの玄関に美紀の小さな身体がぽつんと立っている。



 --それが美紀を見た最後の姿になった。




14


 翌日、美紀は試験に来なかった。
 葉子が休憩時間に携帯電話で呼んだときも通じなかった。試験が終わった後、学科の掲示板で明日の科目の確認をしていると、黄色い緊急連絡票が貼ってあるのに気がついた。葉子の名前がある。
「--すみません!この連絡票ですけど」
 ご自宅に連絡してくださいとのことです、と事務員がそっけなく言った。
 電話すると、玲が出た。
「美紀さんが事故にあったと警察から電話があったんだ」
 事故?
 葉子が言われた病院に駆けつけたとき--白いベッドの上に、美紀の息はもう止まっていた。
 --何がなんだかわからない。葉子は呆然としていた。
 夕べは笑って手を振ったのに。
「また学校でね」って言ったのに。
「基準を変えるの」って説教してたのに--
 なぜ?なぜこんなことになるの--
 ベッドから小さい手が覗いていた。身体が小さい美紀は、手まで小さくてかわいらしかった。「やーなのよー、色っぽくなくてさ」とぐちっていた・・・・
 美紀、美紀、美紀、美紀--
 葉子はくずおれて号泣した。



 美紀の事故はありふれた交差点での、横断者と左折車の衝突だった。大したスピードも出ておらず、衝撃も軽かったのでドライバーがたかをくくったのが不運だった。美紀が道路に倒れて腰を打った瞬間、目を見張るほど多量の出血が路面にあふれた。救急車で病院に運び込まれたあと、担当は外科から産婦人科に移った--美紀は妊娠三ヶ月目に入っており、それも子宮外妊娠だった--輸血も間にあわなかった。所持品から連絡がついた家族もついに臨終に立ち会えないまま、彼女は息をひきとった。



 葬儀はひっそりとしたものだった。まだ十八--祭壇に掲げられた、あどけなさの残る笑顔が弔問客の涙を誘った。「交通事故で、打ちどころが悪くて--」両親はそう説明した。葉子も釘をさされていた。だから誰にも言わなかった。
 でも--
 あたしは知っている、と葉子は思った。
 あたしは知っている--美紀を殺した男を。
 見つけだしてやる。美紀の無念をぶつけてやる--
 葉子は手がかりをひとつだけ持っていた。
 --「ネバダ」という名前のマッチを。



15


 葉子はマッチを眺めている。
 --あれは確か、徹が家を空ける前の日だった。
 居間のソファでテレビを見ていた葉子は、何気なく窓から離れを見て、アトリエの入口で徹と稲葉が何か争っているのを目撃した。声までは聞き取れなかった--徹はそのまま外へ出ていき、稲葉もアトリエの中に戻った。
 その夜、戻らない徹を案じた葉子はアトリエに行き、扉から少し離れた花壇の陰に落ちていたマッチを発見したのだ。
 --ひと目見て、稲葉のものだと直感した。徹と争っていたときに落としたのだ--葉子はそれを誰にも言わなかった。秘密の匂いがした。
 --まず、素直にカバーに書かれている電話番号に電話をしてみた。
 予想通り、「--現在使われておりません」のメッセージが出る。
 電話をはずしたか、転居したか、閉店したか--
 市外局番はそう遠くない、隣の市のエリアだ。
 ケースの雰囲気からして、道路沿いというよりむしろ盛り場か商店街にある店のような気がした。
 --探してみよう。
 葉子は手早くコートを着こんだ。



 二つめの商店街のアーケードが切れ、人通りも途切れてきたな、と思ったときだった。葉子は歩いていてふと妙な感じがして振り返り、もと来た道を十歩ほど戻った--目の前に、看板の文字も褪せたぼろぼろの建物がある。もとは山小屋風の店だったのだろうか、割れた窓ガラスの下には鉢植え用の小さなベランダが埃まみれになっていた。木の看板には白ペンキの飾り文字の跡があり、かすかに「N--E--V--A--D」までが読みとれた。心臓が鳴った。--でも、この様子じゃ随分昔に閉店してるみたい--。
 よく見ると、朽ち果てた入り口の横にもうひとつ同じぐらいぼろぼろの扉があった。--少し考えてから、その扉をそっと押してみる。
 階段があった。--その奧から、葉子のよく知っている声が聞こえた。--くぐもった低い笑い声。
 あいつだ!血が逆流した。
 玲を訪ねて家に来たときに浮かべた満足そうな笑み。
 金髪をなびかせて美紀と連れだって歩いていたときの上機嫌な笑い声--
 その声が葉子の胸を突き刺した。
「みんなカモフラージュで、本気じゃなかったのよ」と言った美紀の淋しそうな横顔が浮かんだ。
 美紀は本当にあなたが好きだったのに。レイプまがいで恋人にされても、それでも本当に好きだったのに。
 なにが「極赤星」よ、--なにが革命よ!
 葉子は震える手で扉を閉めると、その足で交番に向かった。



16


 七時のニュースで「爆殺テロの容疑者逮捕」の速報が入ったとき、僕は玲とふたりで夕食の最中だった。箸がぴたっと止まり、目はテレビに釘づけになった。
 画面の中を、刑事に挟まれ、報道陣にもみくちゃにされながら歩く背の高い男の姿が映った--昂然と顔を上げて歩いている。まわりでフラッシュが何度もたかれる--真昼のような明るさだった。
 画面がアップになった。稲葉の顔が至近距離で映し出される。--もう髪は染めていない。短く切りそろえられて、やせた頬の線がくっきりと現れていた。切れ長の目は無表情で、どんな感情も沈めてしまったかのように見えた。
 僕は向かいの玲を見た。玲もまた、画面を食い入るように見つめている。ニュースが次の話題に移ってから、思い出したように食事の続きにかかった--牡蛎フライ、焼き茄子、かぼちゃの煮物・・・・どんどん皿が空になった。
「--玲」
 沈黙に耐えられず僕は声をかけた。
「--葉子、遅いね、あいつのとこ、まだ試験中なのに」
 反応がなかった。--随分待ってから、僕は訊いた。
「--玲?」
 彼は驚いたように顔を上げた。
「--何?--」
「--何でもない」
 苦いものが胸の中を落ちていった。



 テロ事件は予想外に早く終結した。政府の面子をかけた捜査もさることながら、容疑者稲葉和彦がすらすらと自供したことが大きかった。稲葉は取り調べの刑事に朗々と自らの革命論を説き、アメリカの支配下を脱して日本の「独立」を果たすにはまず日米の軍事協力体制をたたきつぶすことだと述べた。「平和ボケした国民の目をさまし、アメリカに意志表示することが必要だと思った」テロに使用した爆弾の材料は工学部の実験室から調達し、自分で製造した。「簡単ですよ」--現場に残った破片からは彼の指紋も検出された。つまりは単独犯だったのだ。--「極赤星」という名前は彼が中学時代につけた日記の名前だった。
 久しく大きなニュースのなかった世論は沸き立った。まず反応したのは暴走族だった。「かっこいい!」--彼らは「極赤星」と染め抜いた旗をかざして群をなし、市街を轟音をあげて爆走した。「極赤の星」という曲が誰かによって作られ、口コミでまたたく間に広まった。「極赤星」というインターネットのホームページが雨後の筍のように林立した。その特異な風貌とあいまって、稲葉和彦は一躍時代の寵児になった--まるで「英雄」扱いだった。
 加えて左翼系団体や知識人がこれをチャンスとばかり、日米間の安全保障や米軍基地の問題、「核」搭載疑惑中にある米空母寄港について声高に主張を始めた。マスコミがそれに乗る。
 稲葉和彦の裁判、判決が異例の速さで進められたのは、こうした社会的混乱を収拾しようと政府が苦慮した結果だった。何と言っても彼は在日アメリカ海軍の高官を二人も殺しているのだ。テロには厳罰を--怒り狂ったアメリカ世論を何とか静め、外交を継続させるためには、犯人を厳罰に処するしかない。



 その年の晩夏、まだ蝉の声が鳴りやまぬなかに稲葉和彦の判決が下りた。
 死刑。
 予想された結果だった。
 --その瞬間彼は高らかにあごを上げ、宙を見すえたという。
 謹厳な若い僧のように。




17


 雨あがりの庭からコンクリートの廊下に足を踏み入れたとき、玲は少し躊躇した。前を歩く係官がちらと振り返る。
 --面会は二回目だった。
 前回会ったときは、稲葉のあまりの変わりように玲のほうが絶句し、ふたりとも押し黙ったままで時間が過ぎてしまった。
 今日もそうかもしれない--でも。
 会うことが必要なのだ、と彼は思い直した。



「--やあ」どうも、と稲葉はぶっきらぼうに言った。
 ふたりの間を分厚いガラスが遮っている。
「調子はどう--」
「いいよ」 
 刈り上げた顔は無表情だった。
「--もう来るなよ」
「--」
「知ってるだろ、雑誌やなんかで--俺がゲイってのは、つまり嘘だったわけで」
 それで?--と玲は目で先を促した。
「遊び人っていうカンバンが必要だったんだ--あんたに迫ったのもね」
 稲葉は上目づかいで玲を見た。
「--気づかなかった--名演技だね」
 玲はほほえんだ。
 嘘つきめ。そんなきれいな顔をして--
「もう来るなよ」
「わかった--君は、落ちついてるね」
「死ぬことはちっとも怖くないんだ。俺が怖いのは」
 稲葉はちょっと言葉を切った。
「--怖いのは、自分が信じていた神を裏切ってしまうことさ」
 玲の静かな目がじっと見ている。
「罪は購わなければならない、どんなことをしても」
「--死刑になれば、購えるのか?」
「多分ね」
 --嘘つき。
 稲葉が、その軽薄な外見とはうらはらないくつもの顔を持っていることに玲は気づいていた。薄暗い学生会館のロビーで初めて向かい合って話したとき、その灰茶の瞳に宿る千変万化の輝きに魅せられたのだ。--たった一度だけ、その瞳の奧からなまの感情が奔流のようにほとばしるのを見たことがあった・・・・
 玲は目を閉じた。
「--玲」
 稲葉が初めて玲の名を呼んだ。
「時間だそうだ」
「--じゃ」
 玲は稲葉を見た。
「さよなら、死ぬまでは元気で」
「ああ、あんたも--死ぬまでは元気でな」
 面会は笑顔で終わった。



 門を出るとあたりはもう薄暗かった。
 背後でガチャンと格子の閉まる音が玲の耳に響いた。冷たい風が頬をなでる。
 --もう秋なのだ、と彼は思った。
 去年の大学祭から、まだ一年もたっていなかった。




18


 稲葉の訃報が報じられたのは十一月末だった。
 翌日になってから彼の収監されている刑務所で刑の執行があったことが確認され、巷は大騒ぎになった。混乱を鎮めるため異例の記者会見が行われ、執行されたのは稲葉和彦であると法務大臣が無表情に述べた。
 僕はその記者会見をテレビで見ながら、目で玲の姿を探していた。
 アトリエは閉まったままだし、自室にもいなかった。
 出かけた様子もない。僕は庭に出てみた。
 アトリエの横を通ったとき、暗い窓の一部にぼおっと赤い光が見えた。
 急いで入口にまわる--鍵は開いていた。
 僕は扉をそっと押した。
 中にいる人影が気配で振り向くのが見えた。
 --玲。
 暗い部屋のなかにろうそくの灯が頼りなく揺れていた。彼の顔は濃い蔭になっている。
「ここにいたの」
 僕は彼の後ろのテーブルに目をやった。--三分の一がすでになくなっているワインのボトルと、グラスが--二つあった。
 玲と稲葉のグラス。
「何か用?」
 用はなかった。--いつだって用はないのだ。このアトリエに、そして玲自身にとって僕はいつだって部外者なのだ。
 閉じられた密室で費やされた彼らだけの濃密な時間--その同じ場所でいま、玲は稲葉を弔っている。グラスを傾けて--
「--徹」
 玲が立ち上がって僕の方に歩きかけた。そのときろうそくの光が一瞬、彼の頬を照らした。
 幾筋もの涙の跡--
 玲が稲葉のために、あの男のために流した涙の跡。
 心臓が飛び出しそうだった。
 僕は後ずさった。何も話したくない--話したら、何を言ってしまうかわからなかった。僕は身体中の言葉をごくりと飲み込んだ。歯がガチガチ鳴った。
 僕はアトリエの扉を乱暴に閉めると、そのまま家を出た。
 落ちつけ、落ちつくんだと自分に言い聞かせながら--




 その男に会ったのはたしか四件目の酒場だった。
 財布が底をついてきたのでなるべく安くて酔えそうな居酒屋に入ったら、備えつけのテレビが稲葉和彦のニュースをやっていたのだ。
 死刑廃止論も言われている昨今で、あえて刑の執行を急いだのは世論を封じ込めるための政府の暴挙であると評論家がぶっていた。
「でも五人殺してんだろ、死刑はイヤだって、そりゃないって--」
「いや、死んだのがアメリカ軍人だからこんなに早く執行されたんだろ」
「死刑になったって執行されないで生きてるやつがほとんどだし--」
「変にヒーローにまつりあげられちゃったのがカンに触ったんじゃないのか」
 酔客たちはてんで勝手に意見を吐いて盛り上がっていた。隣に座ったそいつは、やれやれと言いながらおしぼりで顔を拭き、僕の皿を見ておでんを注文した。
「きょうはどこ行っても同じ話題だな、やんなっちゃう」
 誰にともなくそうこぼした。
「もっとほかにマシなニュースないのかよ、なあ」
 僕はそいつを見た--やせて眼鏡をかけた、どこといって印象のない男だ。しかし皮肉っぽいしゃべり方に独特のくせがあって、面白かった。
 僕は燗酒をそいつにもついで、しばらくとりとめのない話をした。店が混んできて、件の一行がまたうるさくがなり出したのでそれを機に河岸を変え、僕の知っている学生向けの安い店で飲んだ。それから彼がうまい屋台のラーメン屋を知っているというのでそこへ行き、ゲーセンで遊び、酒が切れてきたのでまたふたりで飲んだ。
 三好と名乗ったが--なんとも酒の強いやつだった。緩急自在というのか、酒なら何でもいけた。「親父の遺伝でね」と面白くもなさそうに言うのだ--うらやましい話だった。僕たちは風のない日の帆船のように明け方まで街を漂い、僕の家に錨をおろした。




19


「徹が朝帰りで仲間を連れてきたって?」
 玲は面白そうに言った。
「じゃ思いっきりこってりした朝食でも作ってやるかな、葉子」
 玲は腕まくりして支度にかかった。



 客間のソファで熟睡していた僕たちは葉子に起こされた。
「ほら、起きて顔洗ってご飯食べなさいよ、授業あるんでしょ--そっちの人も」
 僕たちがぶつぶつ言いながらそれでも素直に洗面を終えてダイニングに来ると、テーブルの上には湯気のたった白飯と塩鮭、漬物が並んでいた。
 みそ汁の盆を持った玲が姿を見せる。
「二日酔いにチーズもなかなか合うと思うけど--試してみるか?」
 笑っていた--わざとらしく。
 僕は彼の顔が見られなくて目をそらし、何気なく三好を見た。
 三好の形相が変わっていた。
 食い入るように玲を見ている。玲も気づいて、さりげなく聞いた。
「僕の顔に--何かついてる?」
 三好は玲の顔から目を離さずに言った。低い声だった。
「--藤坂玲だね、あんた」
「そうだけど」
 玲はみそ汁の椀を慎重に置いた。豆腐が白く浮いている。
「以前、稲葉和彦と一緒によく歩いてたね」
「--だとしたら、何?」
 玲は僕の隣に座って三好と向かい合った。そして静かに言った。
「彼はおととい死んだ--もう終わったことだ」
「ほう、終わったこと--ね--ふうん」
 三好は顔の前で指を組んだ。上目づかいに玲を見る。
「自殺だったとしても?」
 場が凍りついた。僕は驚きのあまり声も出ない。
「--何を言ってるんだ、彼は死刑に--」
 玲が訊いた。
「--事件そのものが、彼がやったことじゃない--あいつは身代わりさ、死ぬ必要なんて、なかった」
「嘘だ!」夕べはそんなこと、ひとことも言わなかったじゃないか--
「藤坂--徹君」
 彼はフルネームで--知るはずのないフルネームで、僕に呼びかけた。
「俺は夕べ居酒屋で君を見たとき、あまりの偶然に驚いた」
 三好は眼鏡の奧で僕をねめつけるように見た。
「あんたが藤坂玲の弟だって知ってたから--これは天の導きだと思った」
「僕に何の用だ、はっきり言ってくれ」
 三好は玲を見て唇をゆがめた。
「大したことじゃないよ--和彦はね、あんたのために死んだんだってことを、ひとこと教えてあげたくてね」
 玲の顔が蒼白になった。
「おい、いいかげんなこと言うなよ!なんでそんなこと知ってるんだ」
 三好は僕の手を振り払いながら、玲を見たままで言った。
「なんでって--極赤星だから」
 彼は僕と玲を等分に見定めながら、繰り返した。
「--極赤星だからさ」




20


 三好が語ったところはこうだった。
「極赤星ってのは--ある革命グループの名称でね、公安にも知られてないが--和彦も俺も、それに属していた。俺たちの任務は組織の拡大で、僕が情報を収拾してターゲットとなる人物を確定し、彼が--その風貌を生かしてターゲットを射落とす役割だった。射落とす、といっても活動家にするわけじゃない。大学の備品を持ち出せる権限のある助教授とか、サークル活動に人脈の多い学生とかをネットワークに組み込んで、いざというときに備えるわけ」あんたの場合もね、と三好は玲に言った。
「どうして玲が?」
「--あんたたちの両親の仕事は何だっけ?」
 インテリアや雑貨の輸入販売--「ヨーロッパ、アメリカ--それから中南米にもルートを持っているね。手堅くて信用もある会社だ--ちょっとその荷物の中に忍ばせて欲しいモノがあってね」
 --密輸だ。
 僕は以前聞いた稲葉の噂を思い出した。--ヤクをやってるところを見たとかいう噂--。
 僕は三好に嗤ってやった。
「冗談じゃない、父さんや母さんがそんな話に乗るもんか」
「乗るよ--かわいい息子が誘拐されりゃ」
「何だって?」
「ホントに誘拐する訳じゃないよ」そいつは危険すぎるから。「息子に協力させるんだよ、彼らの言うとおりにしないと命が危ないって」
「言うわけないだろ、なんで--」だからさ、と三好は強調した。
「この作戦で重要だったのは、息子をがっちりとつかんじまうことだった」
 それには時間と金が必要だ、と稲葉は言った。相手の男は美大生だ--過去に肖像画で賞を取っている。肖像画を描いてくれ、と言えばアトリエでふたりきりになれる。「あとは俺の独壇場だ」と稲葉は笑った。
 それが--
 一週間たち、二週間たっても稲葉から返事が来ない。こちらから連絡をとっても、もう少し待ってくれと言うばかりだった。ではいつまでと聞くと、言葉を濁してしまう--「俺はあせった。幹部からは矢の催促で、とうとう期限を切られてしまった」それが去年の十一月半ばの土曜日だった。もう後がない。前日、「本当に大丈夫か」と念を押すと「ドライブにいくから楽勝さ」と言う--
「それ--雨の日じゃなかったか?」
 稲葉が玲を連れ帰った日だ。
「--雨だった。その日稲葉は、夜になっても連絡をしてこなかった」
 三好の顔に苦渋の色がにじんだ。
「それで組織としては--稲葉に頼らずに直接ターゲットを押さえよう、ということになった--ところが」次の日から、稲葉が玲のそばを離れない。公園にも、図書館にも、美術館にも、ぴったりとガードして歩くようになった。
「--でも君たちは何人もいるんだろう?彼ひとりに--」
 三好は低く笑った。
「あいつはね、あまり知られていないが--昔ボクシングでいい線までいったことがあって--本気になったら誰もかなわなかった」僕は玲が描いたデッサンを思い出した。鍛え抜かれた身体--
「幹部は激怒した。稲葉を呼んで査問--要するに吊しあげだ」でも彼に弁解の余地はなかった。命令を遂行していないのは彼の方なのだ。
「彼はそこで、十二月四日に予定されていたS作戦--佐世保のテロ--の犯人となるべく教育されることが決定した」ある条件のもとで。
「ある条件?」
「今後いっさい、藤坂玲に手出ししないという条件」
「--」
「それを破ったら何もかもバラす、と彼は逆に俺たちを脅した--だから」
 三好は玲を睨んだ。
「--だから俺はあんたに、手は出さない--が」
 声が一段低くなった。
「そのためにあいつは死んだ--奪還作戦も--間に合わなかった--」
 三好の目はぎらぎらと光っていた。
「和彦を返してくれ、藤坂玲さん」
 玲は無言だった。
「--返せ!」
 三好が叫んだ。
「嘘よ!」
 甲高い声が響いた。
 声と同時に、キッチンのドアから葉子が飛び込んできた。
 葉子が三好を睨みつける。
「そんな立派な人じゃないわ、あの人。死んで当然だったのよ!」
「葉子--」
 玲の制止を振り切って葉子は叫んだ。
「美紀を殺したのはあの人よ!革命だかなんだか知らないけど、何も知らない美紀をレイプして恋人にして--捨てたのよ、子どもがいたのに--」
 三好が立ち上がった。
「--子宮外妊娠で、美紀は死んだわ、誰も会えなかった、ひとりで死んだわ--あの子が何をしたの、あいつを好きになっただけなのよ、どうして死ななきゃならないの?あたしのほうこそ教えて欲しいわ!」
 三好は葉子の前に進み出た。
「--それは和彦じゃない」
 強くはっきりとした声だった。
「和彦は小さいときの高熱がもとで--誰も妊娠させる能力がなかった」
「嘘よ!」
「嘘じゃない。--俺が調べた。だからこの任務に最適だったんだ」
「--嘘よ--」
 葉子は混乱していた。美紀の相手が稲葉でなかったのなら--どういうことになるのだろう?葬儀の日に誓った燃えるような復讐の想い。何度も何度も探して歩いた「ネバダ」の看板。稲葉が逮捕されたと知ったとき、快裁を叫ぶと同時に起こった全身の震え--何ものかへの畏れ。そして死刑が執行されたときの逃れようのない罪悪感・・・・悪寒が走った。
 そんなはずはない、そんなはずはなかった。人違いだと言うなら、いったい誰が美紀をあんな目に会わせたというのだ。
 葉子は助けを呼ぶように必死であたりを見まわし--そして、両手で顔を覆っている僕を見つけた。
 頭の奧で割れ鐘ががんがん鳴っていた。それは二日酔いのせいだけではない。美紀が--子宮外妊娠、と聞いたとき、記憶のなかで何かが弾けた。あれは、誰だったのだろう--金色の瓶が壊れた日--僕は松さんに会いに行き、アトリエで稲葉に会った--「玲は、初めてだったんだな」と稲葉が僕にささやき、僕は--僕はショックを受けて酒を飲んで、浴びるほど飲んで--気がついたら、手当を受けて寝ていた。あたたかい手、あたたかい肌、白くて細やかで、どこまでも沈んでいきそうな--美紀さん。
 僕は荒れていた。僕は強引だった。僕は無理矢理彼女を押し開いて--やみくもにセックスした--スキンひとつつけずに、何回も何回も彼女を犯した。彼女はおざなりに腰を動かし、お義理に声をあげてくれたけど--
 指の間から大粒の涙がこぼれた。僕の唇から嗚咽が洩れた--美紀さん--
 僕は葉子の灼けるような視線を感じた。
「--徹」
 葉子の声は乾いていた。
「--徹--どうしたの」
「--知らなかったんだ--美紀さんが」妊娠していたなんて。
「僕は--知らなかったんだ」そのために死んだなんて--
 僕は顔を覆ったまま、がむしゃらに首を振った。
「葉子」
 玲が止めようとしたのと同時に葉子は叫んだ。
「あなたなの?徹--あなたなの?あなたが--美紀をあんな目に--」
 玲は立ちあがって葉子を押しとどめた。
「見損なったわ、徹--あなたがそんなことするなんて--」
 あのやさしい美紀をあんな姿にするなんて--
「--あなたなんて、あなたなんて、来なければ良かったのよ」
 葉子の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「この家に、来なければ良かったのよ!」
「葉子!」
 頬を打つ音が響いた。
 僕の背中が石のように硬直した--あたたかい血も肉も、永遠に固く凍りついたデクノボウになってしまったかのように--
 そうだ--僕は厄介者だ、僕はこの家で「いらない人間」なのだった。
 長男の玲が立派に成人した今となっては。スペアはいらない。そんなことは自明のことだ。だが、僕だって--
 僕だって、好きで来たわけではなかった。好きで厄介者になっているわけではなかった。僕だって--
 僕はいたたまれずに椅子を立ち、葉子の脇を通り抜けてキッチンに逃げ込んだ。バタンとドアを閉めて背中で押さえた。
 --ひとりになりたかった。



 葉子はダイニングテーブルに泣き伏していた。
 三好が帰り支度をしながら、玲に声をかけた。
「藤坂さん--俺があえて組織の内情を打ち明けたわけ--わかってもらえるでしょうね--和彦は俺の幼なじみだった--たったひとりの」
 玲は三好を振り返った。--視線が合った。
「--ええ--でも」
 玲はキッチンのノブに手をかけながら言った。
「今の僕には、こちらの方が大切です」
 そして扉をノックした。




21


 扉の向こうから玲の声が聞こえた。
「徹、僕だ--開けてくれ」
 僕は扉を離れて丸椅子に腰を掛けた。
「開いてるよ」
 玲が入ってきた。
「徹--葉子のことだけど--」
「すごいよな」
 僕は間髪いれずに言った。
「すごいよな--あいつ、稲葉のこと--ちっとも知らなかったよ--身体張って君を護ってたなんてね」 あの外見にだまされて、僕には稲葉が全然見えてなかったのだ。利用するために玲に近づき、誘惑を繰り返しているうちに、いつのまにか玲に--極上の美酒に酔いしれるように彼は玲に魅了されてしまったのだ。雨の日--あの雨の日、玲を「落とす」ためにドライブに出かけながら、結局意識のない玲をアトリエに連れ帰ってしまった--あの日だった、稲葉が僕に宣言したのは。「俺は玲を愛している」--それは冥界から湧き上がってきたような暗い声だった。
「徹」
 玲が背後から僕の肩に手をかけた。電流が走った。
 稲葉は玲を愛していた--彼が忠誠を誓った組織よりも、おそらく自分自身よりも--全身全霊をあげて、玲を護らずにいられなかった。
 あたりまえだ、と僕は思った。玲のそばにいて、彼の姿を見、彼のまなざしを感じ、彼のやわらかい声を聴き、彼の白い指に触れられて恋に狂わない者がいるだろうか--それは甘い地獄のようだった。稲葉は自らまっさかさまに落ちたのだ--何もかも捨ててもいい、と思うぐらいに--
「--徹」
 玲が肩に置いた指に力をこめた。肩がかっと熱くなり、心臓が燃えた。
 僕は彼の目を見ずに言った。
「--玲、君だって気づいてたんだろう、あいつが本気だってこと。だから--本気だと分かったから--」寝たんだろう、とは言えなかった。
 玲の手が止まった。指がかすかに震えている。
「僕は--そうじゃ・・・・」
「何だ、聞こえないよ」
「--僕は--そうじゃなかった」
 何だって?
「それ、どういうことだよ?」
 僕は椅子を蹴たてて彼に向き直った。うつむいた玲が睫毛を上げる--深い湖のような濡れた瞳。
「彼の気持ちは知っていた。でも僕の方は--」
「ふざけるな!」
 僕は思わず後ずさって、叫んだ。
 --今さら、そうじゃなかった--だって?--今さら?それじゃ、僕の、稲葉の気持ちはどうなるんだ、あれだけ悩ませておいて、あれだけ何もかも捨てさせておいて、今さらそうじゃなかったなんてさらりと言われたんじゃ--
「ああそうか、君は本気じゃないやつとも寝れるんだ、それも、男と!」
 玲の眉がぴくりと動いた。
「それは--和彦が、そう言ったのか?」
「--初めて、だったんだってね?」
 玲の全身が真っ赤になった。--ぞっとするくらい、色っぽかった--
 僕は逆上しそうなのをかろうじてこらえた。
 彼は唇を噛みしめながら答えた。
「徹、--君はそれを信じるのか」
 僕は逆上した。
 今さら、信じるも信じないもなかった。僕は知っている--「玲を愛している」と言ったときの稲葉の固い表情。玲をソファに寝かせたときの、壊れものを扱うような慎重な手つき。玲のシャツを脱がす手慣れた動作。玲を見つめる熱い視線--そしてあの日の、夕暮れの光のなかにしどけなく横たわる玲の白い身体・・・・稲葉の死を悼む幾筋もの涙--嘘じゃない、そのすべてが彼らの間の濃密な関係を示していた。信じたくなかったのは僕の方だ。耳を、目を塞ぎたかったのは僕の方だった。僕はどれだけ苦しんだか知れない。逃げても逃げても追いかけてくるふたりの影に、目を閉じても閉じても闇に浮かぶ絡み合う肢体に--僕はどれだけやめてくれと叫んだか知れない。気が狂いそうだった。僕をそんなにしたのは玲だ。寝ても、覚めても、何をしても玲が追いかけてくる。僕の知らない玲の顔が--玲。--優しい兄だった、頼れる友人だった玲自身が僕を裏切った。僕を裏切って、背を向けて、一足飛びに知らない世界に行ってしまった---「ほっといてくれ」と--どんなに泣いても、叫んでも--振り返ってくれなかった。稲葉とふたりで、笑っていた。金髪を揺らして--金髪--あの瓶は割れてしまった。僕が金髪になろうとした瓶--どうして玲は僕を止めたのか。これ以上、どうして僕にかまうのか--僕を突き放し、僕を嗤い、泥にまみれさせた後もどうして僕を支配するのか--わかっている、僕は君のスペアだ、君のスペアとしてもらわれてきた君の影だ--だからといって、だからといってなぜまな板の上で転げ回る僕をあちこち串刺しにして楽しむようなまねをするのか--
 玲の顔が目の前にあった。その瞳がまっすぐ僕の目を射ていた--こんなときでもその光は絶望的に美しかった。僕は恐怖で震えた。
 --僕を支配する目。--僕を見通し、僕を見定め、ぼくの全てを掌握する目。過去も、現在も、未来も--
「・・・・めてくれ--」
 声がかすれた。玲の唇が動くのが見えた。彼が近づいてきた。
「やめてくれ!」
 僕は叫んだ。玲の顔がゆがんだ。瞳に僕の姿が映る--その姿もゆがんでいた。僕は思わず後ずさった。その拍子に--腰に固いものが当たった。
 玲がまた近づいてきた--僕はまた後ずさった。背中がこつんと壁に当たった。--追いつめられた。まな板の上に--
 玲の顔が近づいてきた。右手が伸びて僕の肩に触れた。
 やめろ、玲!
 --頭の中が真っ白に弾けた。



 乾いた音をたてて床にナイフが転がった。
 顔になまあたたかいものがいっせいに降りかかる。
 玲がゆっくりと床に崩れ落ちた。
 白いタイルの上にみるみるうちに血だまりが広がっていく。
 どこかで悲鳴が聞こえた。



 --凍てついた意識のなかで僕は悟った。
 これまでの一切のことが驚くほど鮮明になって戻ってくる・・・・ 
 --愛していたのだ。
 僕は玲を。
 兄ではなく、友人としてでもなく、ただひとりの生身の男として。
 --狂おしいほど愛していたのだった。



 --それがわかったとき、僕は逃げた。
 走って--息を切らして--逃げた。階段を降り--列車に乗って逃げた。
 逃げて、逃げて、逃げた先に何があるのかわからない。
 僕は玲の返り血に染まったまま、暗闇の中を走り続けた。






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