光の庭 内藤更紗

グラス

第2章 玲



 離陸のサインが消え、座席のベルトを緩めると機内はいっせいに寛いだ雰囲気になった。窓の外には紺碧の海が光を浴びてきらめいている。
「兄さん」
 葉子が僕の残った方の手におしぼりを手渡した。
「ありがとう--一時間ぐらいだね」
「宮崎だもの、すぐよ」
 彼女はにっこりと微笑を返した。
 すぐ後ろの座席で父母の低い話し声がする。仕事の話だろう。--それともこの秋に予定している葉子の結婚式の話題かもしれない。
 葉子はもう二十一だ--この頃めっきりと大人びて美しくなった。
 早いものだ--
 徹が姿を消してから一年七カ月が過ぎようとしていた。
 僕は白く光る波頭を見ながら、徹と初めて会った頃のことを考えていた。





 僕はいつ頃から彼を愛し始めたのだろう。よく覚えていない。
 小さい頃、僕はいつも陽あたりのいい離れの別室に寝かされていた。傍らには母が付き添って僕の体調を見守っている。大きく取られた病室の窓から父と徹がキャッチボールをしたり、徹と葉子が泥んこになって遊んでいる姿が見えた。まぶしい光景だった。
 徹はよく窓の外から頭をにょっきり出して僕に手招きすると、大事そうに掌の中からいろんなものを出して僕にくれた。大抵はかぶとや蝉の抜け殻だったが、一度小さな蛇をつかまえてきて母に叫び声をあげさせ、次にはどこで拾ってきたのか使用済みの避妊具を見せて母をあわてさせた。僕は彼を見るのが愉快でたまらなかった。
 彼はいつも真っ黒に日焼けして、日なたの匂いがした。太陽と風の匂いだ。彼の運動会が近づくと心がはやった。誰よりも速く、誰よりも果敢に先頭をきってゴールに駆ける彼の姿--あれが徹だ、僕の弟だと胸が熱くなった。
 いつ頃からだろう--陸上部の練習を終えて家の玄関に倒れ込む彼をささえる時、荒い息づかいや汗の匂いを意識するようになったのは--いつ頃からだろう--あたりまえのようにふざけっこをして遊んだ風呂に一緒に入らなくなったのは--変わってしまったのは僕の方だった。
 長い間、僕は自分の気持ちをはかりかねていた。そして、気づいた時にはもう手遅れだった--僕は徹に惹かれていく自分を抑えることができない。急斜面を滑り落ちていくように僕は彼にのめりこんだ--自分の弟に。
 この恋は間違っている、彼は同性で、しかも血こそ繋がってはいないが僕の弟なのだ--僕は同級生の女の子たちを思い浮かべた。手紙をくれた子もいた。真剣に交際を求められた子もいた。--どの子も、嫌いではなかった。--でも、どの子も、徹ではなかった。どの子も、徹を見る時の、あの憧れにも似た胸の高まりを感じさせてはくれなかった。
 目を閉じると、いつも彼の姿が浮かんだ。トラックを駆ける彼、テープを切る彼--そして青く澄んだ天空に見事な放物線を描いて跳ぶ彼--目の前でふざけ、はしゃぎ、笑う彼--その瞬間だけ、僕は幸福感でいっぱいになった。胸にあたたかいものが満ちていた。
 僕たちは仲のいい兄弟だった。いい兄だったと思う。僕の方が一学年上だったし成績も良かったので、家では僕が家庭教師役だった--長い夜、ふたりで勉強机を囲みながら、僕はふと、このまま告白してしまえたら--と思ったことが何度もある。 
 告白などできないことはわかっていた。それは彼の信頼を裏切ることだ。尊敬する兄が自分に別の感情を持っていると知ったら--彼は何と思うだろう。驚き、あわて、混乱するに違いない。「同性愛者」と軽蔑するかもしれない。彼に嫌悪されるのなら--死んだ方がましだった。
 それに、それは彼がやっと得たふたつめの家庭--父母と兄、妹に囲まれたふたつめの家族を失うことにもなりかねなかった。兄の僕を失うことはもちろん、僕の気持ちが家族に知れたら--僕を盲愛している母や妹が彼を憎むこともあり得る、それは何の罪もない彼には酷すぎる話だった。
 僕は自分の感情を隠して、一生彼のいい兄でいようと決心した。灯火も羅針盤もない真っ暗な沖に向かって出航する船のように。
 生涯報われず、成就しない恋でも--しょうがない、それが彼なら--徹なら。僕はもうすでにここまでどっぷりと深みにはまってしまったのだから。僕は自分の心の底を覗き込んで苦笑いした。そして覚悟を決めた。
 僕は忙しい両親と別居して兄妹三人の生活を始めた。兄貴役は楽しかった--僕は日曜大工は徹より上手かったし、料理は葉子より得意だった。ふたりの勉強と生活両方の面倒を見ながら、僕はアトリエで絵の勉強をした。時には葉子の友達で賑わい、時には徹のガールフレンドが遊びに来た。ふたりとも、それなりに何度か--セックスも含めて--恋愛をしていたと思う。相談に乗ったこともあった。--徹の場合は--それは、少しは--辛かったけれど。
 いずれはふたりとも決定的な恋愛をして僕から離れていく。そう思えば、この三人だけのままごとのような小宇宙を僕は僕なりに大切にしたかったのだ--あの日までは。
 そう--あの日、大学祭でヒュアキントスの劇を観るまでは。





 舞台の上手から現れた徹のヒュアキントスを、僕は客席から新鮮な気持ちで眺めていた。衣装やメイクはともかくとして--彼は別人のようだった。
 台詞がいつのまにか歌になり、仕草がいつのまにかダンスになって舞台中を跳ねまわる。彼は役になりきっていきいきとそれを演じていた。目線は観客席のはるか彼方を見据えている。
 --僕は突然、違和感に襲われた。あそこにいるのは本当に徹なのか?
 --少なくとも僕の知っている徹ではなかった。あの表情、あの動き、普段の徹ではない。--あたりまえだ、芝居をしているのだから。役になりきっているのだから。あれもまた、彼の持つ顔なのだから。--彼の持つ顔?
 --僕はこれまで、彼に自由であってほしいと思ってきた。何かに遠慮したり、臆したりすることなく自由に考え、歩ける人間になって欲しいと願ってきた。--そして今、彼はいきいきと自由に彼自身を表現している。
 そこには僕の影はまったくなかった。僕と向かい合うとき見せてきた彼の表情は片鱗ほども見あたらない。--あれは僕用の顔だったのか。僕は彼の束縛のひとつだったのだろうか。
 --僕は不意に空虚な気持ちになった。僕はこれまで、彼のいい兄貴でいよう、お手本であろうと努めてきた。いつも彼の一歩先にいて、彼が見上げたときに背筋を伸ばして歩いていること、それが僕のささやかな矜持だった。--しかし、そもそも彼に僕が必要だろうか。過去に必要であったとしても--これからもそうだろうか。
 あの透明な蝉の殻のように、自分はいずれ徹に脱ぎ捨てられていく殻のひとつなのかもしれない。
 それは予感だった。徹を失ってしまうかもしれないという、恐ろしい予感だった。僕はそれに耐えられるだろうか?僕は自分に問いかけた--わからない。--僕には徹が全宇宙だった。それは僕に死ねと言うことではないか。
 でも--
 僕は前から決めていた。この恋を彼にプラスになるように役立てようと--僕は発起者だから、そのために苦しもうがどうしようが自業自得だ、でもせめて彼には--彼にとってはプラスにしたいと。
 だから僕が彼にとって不必要で、僕のこの想いがマイナスになるのなら、僕は彼から離れよう。
 その時が来たらいさぎよく--笑顔で、さりげなく離れよう。
 いい兄貴のままで--
 --僕は苦笑した。かっこつけてる、と思った。--でも、しょうがない。
 僕にはそれしかできない。そう思うことで、僕は狂いそうな自分を必死で抑えた。--抑えようとした。
 それなのに感情が--勝手に感情が--湧き上がってきて、とまらない。
 --僕は混乱した。
 その混乱の隙間にするりと入り込んだのが、稲葉和彦だった。





 和彦は僕の想いを知っていた。なぜだかは、わからない。
 --あのカンバスの向こうから、彼は初めから僕を射落とそうとしているのを隠さなかった。簡単なクロッキーを提案した僕の前で、彼はためらいもなく全裸になった。--それは誇示するだけの価値のある美しい裸体だったが、何かの目的のために鍛え抜かれた身体だと僕は直感した。--ただの学生じゃない、ただの恋愛ゲームじゃない--でも真相はわからなかった。
 和彦の方でも僕を警戒していた。初対面で肖像画の依頼を引き受けること自体、十分疑惑の材料になる。彼は僕が、彼の正体を見抜いているのではないかと恐れていた。油断ならない男だと見ていたようだ。
 狭いアトリエの中は息づまる神経戦の場になった。ふたりともほとんど口をきかなかった。ヌードデッサンの間中、彼は僕を眺めた。ねっとりと絡みつくような視線で僕の衣服の下の身体を舐めまわすのだ。裸に剥かれているのは僕の方だった。僕はそ知らぬふりをして、それに耐えた。--リングに上がった以上、降りるわけにはいかない。
 またたく間にデッサンはうず高い山になった。
 僕が彼に黒い布を被せて僧形の人物を描き始めたとき、彼は長い間それを眺めていた。いつできるのかとも聞かず、黙ってポーズをとりなおした。--その頃からだろうか、彼から挑発的な態度が消えたのは。そして僕を見る彼の目に愛撫するような切ない光を感じるようになったのは。
 彼のまなざしが変わった--それは辛いことだった。ゲームがゲームでなくなった以上、彼の好意は負担だった。僅かな休憩の時間にお茶を飲んだり音楽を聴いたりしながら、僕は平静を装って和彦と会話をするのが辛かった。
 そしてそれ以上に--僕は徹の視線にも気づいていた。--彼がいつも母屋の窓からアトリエを見ているのを知っていた。多分それは、兄が変な男にひっかからないように心配する弟の視線だと思った。--思おうとした。
 でもそれがもし、万が一僕自身の気持ちと同じものだとしたら?
 胸が震えた。
 --そんなはずはない。それは僕の勝手な--願望だ。この想いが届いたらという虫のいい思い込みだ。僕は自分を制した。
 それなのに、もしかしたら--という声が、払っても払っても甘い媚薬のように心の奥に染み込んでくる。僕は自分を恥じた。情けなかった。
 和彦はそんな僕を見ていた。彼は何も言わず僕を郊外へのドライブに誘った。秋晴れの一日--僕たちは岬へ出て海を眺めた。
 翌週の雨の日もドライブの約束だった。僕は朝から体調が悪かったが、平気なふりをして彼の車に乗った。--途中で、これは駄目だと思った時、僕はもう倒れていた。--和彦はあわてた。あんなに真剣な彼を見たことがなかった。
 --あの日、和彦は僕をどうにでもできたはずだった。道路沿いにはそんなホテルがいくらでもあったし、半分意識のない僕は抵抗もできなかったに違いない。--それなのに彼は絶好のチャンスを逃して、僕をアトリエに連れ帰った。僕を寝かせ、毛布を掛けて出ていった。
 翌日から彼は僕に寄り添うように行動するようになった。--なぜなのかわからなかった。和彦はひと言も説明しない。彼は世評とうらはらに、ふたりだけの時は寡黙な男だった。僕も聞くのをやめた。彼を信用しようと思ったのだ。
 でも僕たちは世間から見ればただのゲイのカップルにしか見えないようだった。そのことで、葉子や--徹が無責任な噂に巻き込まれているのを見るのが辛かった。特に徹が--僕をそんな目で見ているのかと思うと--耐えられなかった。
 確かに僕は、徹を好きなのだから、ゲイなのかもしれない。でもそれは--徹だけだ。徹が男だからそうなってしまっただけだった。それなのに、その当人から僕が他の男と恋愛してるなんて思われなければならないのか。そんなに僕は--徹から信頼されていないのか--
 徹のヘアダイの瓶を割ってしまった時、彼は僕に言った。
「--君だって好き勝手なことしてるじゃないか。----恥知らず!」
 恥知らず。
 それが徹の回答だ。僕の気持ちへの--
 恥知らず。--僕は言い返さなかった。言い返せなかった。
 言えば自分が惨めになるだけだ。
 彼の嫌悪の視線が胸に突き刺さった。
 --徹には、もう、僕は--必要ないんだ。
 彼はもう--二度と僕を求めてはくれないのだ--
 悲しみが津波のように僕を襲った。--僕はもう、自分の身体なんかいらないと思った。心さえ誰かにくれてやりたかった。
 --そうすれば本当にただの抜け殻だけになって、何も感じなくてすむ--
 だから僕は和彦を拒めなかった。





 その日の午後、和彦は僕の異変にすぐに気づいた。ガッシュ用の筆洗を二度目にひっかけてこぼした時、彼はモデル用の黒い布をまとったままの姿で僕の方に来た。
「--ごめん、ちょっと片づけるから--」
 テーブルを拭き始めた僕の手首を、彼がぐいと掴んだ。そのまますごい力で引き寄せる--あっと言うまもなく僕は半回転して、彼の胸にぶつかった。和彦は両腕を僕の背中に回して固く抱き締める--耳もとに熱い息がかかった。
「玲--」
「放してくれ--放せ!和彦--」
 僕はもがいた。もがけばもがくほど彼の腕ははがねのように強く締まる。黒い布が滑り落ちた。僕は裸の筋肉にぴったりと抱き締められていた。--僕は身体をねじって逃れようとした。
「玲--あいつが何だ--そんなにいいのか、弟が--」
 何だって?
「--何のことだ、何を言って--」
「しらばっくれるのはよせ。おまえの気持ちなんかとっくの昔に知ってる」
「----」
「俺の気持ちだって知ってるはずだ、違うか?」
 彼は僕の耳に口を近づけて--もう一度言った。
「違うか?--玲」
 そう言って僕の顔を覗き込んだ。僕は--うつむいた。和彦は僕を抱き寄せると、僕の顔を見ないようにして、もう一度耳もとでささやいた。
「玲--おまえを抱きたい。--嫌か」
 身体がかっと熱くなった。思わず腕を振りほどこうとして、僕はまた彼の腕の中に捕えられた--抱き締められる。
「嫌か--嫌と言わないんなら、抱くぞ--好きなんだ、玲」
 好きなんだ--
 その言葉は乾ききった心の中に沁みわたった。好きなんだ--
 泣きたくなるほど甘い台詞だった。
 --僕が抵抗をやめたのを知って、和彦は僕のあごに手をあてて顔を持ち上げ、顔を真正面から覗き込んだ。切れ長の目の奧に強い光が宿っている--灯台の灯に似た白い光だ。僕はその光をじっと見つめた。
 和彦は僕の腰をかかえるとそのまま奧のソファまで歩いて、僕をそこに横たえた。それからゆっくりと服を脱がせた。
 彼の手がジャケットを取り、シャツを剥ぐと上半身は裸になった。それからジーパンと下着を一緒に手に掛けて一気に下ろす。ソックスも脱ぐと、僕は素裸になって彼の目の前に横たえられていた--羞恥で顔が赤らんだ。
 和彦は少しの間、僕の裸身を見ていた--それから静かにソファの上に乗り、僕と身体を重ねた。
 僕の脚の上に彼の脚が、僕の膝の上に彼の膝がぴったりと重ねられ、次には腰、腹、胸の順で身体が重なった。順番に重石をされていくみたいだ。厚くひきしまった筋肉が僕の全身にのしかかる。ずっしりとした重みが僕を包んだ。
 彼は僕に被さったまま、両手で僕の顔をはさんで顔を近づけた。長い金髪がこぼれ落ちる。そのまま静かに顔を寄せてくるのを感じ、僕は瞼を閉じた。
 五秒--十秒もたっただろうか、僕は目を開けた。彼はそのままの位置で僕を見おろしている。僕は照れくさくなって、彼にちょっと笑いかけた。
 その途端、彼の表情が激変した。
 大きく見開かれた瞳の奧から様々な感情が怒涛のように噴き上げてくる。一切を押し流す奔流のように--臨界点を越えてしまった欲情だ。--頬にかかった両手がぶるぶると震えている。喉仏がごくりと鳴る。下腹部に熱いものがあたった。
 僕は息を飲んで彼を見つめた。
 --どれぐらいの時間がたっただろう。僕には永遠のように思われた。
 --彼は突然ぷいと顔を背けると、ソファを降りた。そして奧から何か取ってくると、僕の手を取ってソファの前に立たせた。それから布の端を持ち、いきなり僕をシーツでぐるぐる巻きにした--肩から下が身動きもできず、蓑虫のような状態だ。僕は両肩を抱かれ、もう一度ソファに沈められた。 
 和彦は僕の上に被さって、シーツごと僕の身体を抱き締めた。布で隔てられた身体の細部まで確かめようとするようなものすごい力だった。そしてそのまま少しずつ腰を動かし始めた。布ごしの僕の上で--彼はシーツに彼の--ペニスを擦りつけて達しようとしているのだ。
 彼の動きが速くなった。ソファがギシギシと唸る。僕を抱き締めた腕の熱さ、玉になって流れ落ちる汗、かすれた息づかい--息づかいはだんだん荒く激しくなり、やがて低い呻き声と同時に、あたたかいものがシーツの胸にふりかかるのを僕は感じた。
 和彦は僕と目を合わさないよう傍らに顔を埋めていた。ぜいぜいと肩で息をしている。僕は天井を向いていた。
 彼が息を整えてから僕の方を横目で見たとき、僕も気配で振り返った。目と目が合った。彼はちょっと身体をずらした。
「--重かっただろ--」
「--気持ちのいい重さだった」
 和彦は僕をじっと見つめた。
 見つめながら腕を伸ばして僕の額にかかった髪をかきあげた。--そのまま指を髪の間に入れて手ぐしのようにゆっくりと梳いていく。額から後ろへ、耳の上から横へ--
 後頭部まで来たとき、彼は言った。
「頼んでた絵のことだけど--あさって必要になった」
「----」
「できるか?」
「わかった」
 それから彼は、二日後に落ち合う時間と場所を言った。支払いもすると。
「--それから」
 彼はちょっと言葉を切った。
「もうここには来ない」
「--それは--君の意志?」
 彼の手がとまった。
「--俺の意志だ--玲」
「わかった」
 それから和彦は起きあがって服をつけ、窓を少し開けて空気を入れてから煙草を吸いに玄関に出ていった。「何かあったら呼べよ」と言って--



 和彦。
 とうとう僕にキスひとつしないまま彼は逝ってしまった。
 それは彼が決めたことだった。
 彼はそうやって、僕を護ったのだ。
 --彼が指名手配され、逮捕されてからも、僕はずっと彼のことを考えていた。後悔が毎夜僕を襲った。
 --セックスを、すればよかった。--少なくとも一度は承諾しておきながらあんなかたちで終わらせるなんて、男としての彼を馬鹿にした行為だ。和彦はあんなに僕を求めていたのに--
 --だがもし、していたら--と僕は思った。--していたら、僕はもう一生徹の前には出られなかったろう。肌に他の男の記憶を残したまま、何喰わぬ顔をして彼を愛することは僕にはできなかった。
 和彦はそんな僕を知っていたのかどうか--わからない。
 彼には彼自身の理由があったのかもしれない。
 僕に触れられなかった理由が--
 --これで良かったのだ、と僕は思おうとした。--これで良かったのだと。 --少なくとも僕はまだ徹を、愛していける。彼のそばにいられるのだ。身勝手な望みだが、僕の望みはただそれだけだった。
 --だから、あの日キッチンで、
「--初めて、だったんだってね?」と徹に言われたとき--僕は凍りついた。
 徹が--知っている、あの日のことを--
 そして本当に--僕と和彦が--寝た、と思っている--





 僕は自分を守ることに必死で、徹の苦悩に気づいていなかった。
 あの事件のあと、僕は葉子からあるものを手渡された。徹の部屋を片づけていて屑箱から見つけた、と。
 それはビリビリに破かれた和彦のデッサンだった。--何枚かが染みで滲んでいる。いつアトリエから持ち出したのか--いつ、僕と和彦の関係を吹き込まれたのか。--嘘の関係を。
 和彦は徹に嘘を言った。僕と寝たと、嘘を言った。
 --言わずにおれなかったのだ、恋敵に--僕のこころの全てを占めている徹に。
 --言わずにおれなかったのだ。
 そこまでさせてしまったのは僕の責任だった。
 --僕は護らなければならなかったのだ--徹を。
 和彦が命がけで僕を護ったように--護らなければならなかった。
 それなのに僕は彼を追いつめただけだった。
 脳裏にあのときの徹が浮かぶ。
「やめてくれ!」と叫んだゆがんだ顔--
 嫌悪と恐怖に見開かれた瞳--
 --あそこまで彼を追いつめたのは僕だ。
 --知っていたくせに。彼がアトリエをずっと見ていたこと、彼が和彦に嫉妬していたこと・・・・本当は知っていたくせに。
 --僕が言えばよかったのだ、好きなのは君だよと。--和彦とは何でもない、僕がずっとずっと愛しているのは君だけだと。
 --言えなかった、僕には--口が裂けても言えなかった--僕は「尊敬されるいい兄貴」の仮面を脱いで素顔を晒すことがどうしてもできなかった。
 まして彼に欲望を抱いているなんて--
 だがそうした僕の自己保身が、徹を追いつめてナイフを握らせたのだ。





 あの日床に倒れた僕は、葉子の悲鳴で我に返った。彼女が色を失って立ちつくしている。徹の姿は見えなかった。
 真っ先に僕がしたことは、徹がここにいたことは言うなと葉子に口止めし、ナイフから指紋を拭わせて右手に握り直すことだった。それから安心して--意識が闇の中にすとんと落ちていった。
 気がつくと病院のベッドの上だった。左肩から先が痺れて感覚がない。傷口は左胸から肩に達し、そう深くはないが神経がいくつか切れていたので手術に六時間を要したと医師から説明を受けた。
 警官も事情聴取にやってきた。僕は稲葉和彦の死刑執行のニュースを聞いて錯乱して自分を刺したと言った。嘘っぽかったが僕たちの交友は先に知られていることでもあるし、僕が美大生というのもそれらしくて良かったかもしれない。ナイフの角度が何とかという論議もあったようだが、いちおう自殺未遂ということで事態は収まった。
 収まらなかったのは--徹の方だった。彼はあの場を離れたきり、家に帰ってこない。連絡もなかった。警察に知られるとまずいので捜索願も出せない。葉子は極秘であちこちの彼の友人をあたったが、誰も首を振った。--今はショックを受けているのだろう、落ちついたら連絡をしてくるに違いないと僕は思った。僕の容態が気にならないはずがない。むしろ僕は父母や--葉子が心配だった。
 僕は家族には、徹と将来のことで口論になって、僕の方が彼を挑発してしまったと説明した。徹には非はないのだと。--でも葉子は、直前に自分が徹に投げつけた言葉が原因なのではないかと悩んでいたようだった。彼女は病室で僕の世話をしながら、言い出す機会を待っていた。
「--兄さん--やっぱりあたしが原因かなあ」
 葉子は僕のパジャマを畳みながら言った。
「あなたなんてこの家に来なければ良かった、なんて--ひどいこと言っちゃった--だから徹は兄さんにこんなことして、家にも戻って来れなくなったのよね」
 僕は笑った。
「それはただの兄妹げんかだよ、葉子--徹はそんなこと気にしてないよ」
「じゃ、なぜ?」
 葉子は僕を見た。
「--僕が彼を傷つけたから--きちんと説明しなかったから--」
「あのデッサンのことね--あれ、兄さんが描いたあのひとの、でしょ?」
 葉子は和彦のことを「あのひと」と言った。
「あのひと、兄さんをかばってくれたのよね--カゲキハから--なのに」
 葉子は和彦の仲間の話を隣室でみんな聞いていたらしい。
「あたし--あたしが通報したのよ、警察に」
 僕はぎょっとして葉子を見た。
「あたしがアジトを教えたの--」
「何を言ってるんだ?おまえがアジトをどうして知ってるんだ」
「--アトリエの玄関にマッチが落ちてたの--徹とあのひとが何か言い合いをしていた後で」
「--葉子」
 僕は混乱した。
「もう一度言ってくれ--それは、いつの話?」
「徹が三、四日帰ってこなかった前の日よ。あたし居間の窓から見たの。徹はあのひとに掴みかかっていって--そのまま走って家を出ていったわ。その日の夜、花壇でマッチを見つけたの。ネバダっていう喫茶店のマッチ」
 --あの日だ--和彦がアトリエで僕を抱き締めた日。彼は「煙草を吸ってくる」と言って玄関に出ていった--あのとき徹は僕のことを和彦から聞かされたのか。それで--帰るに帰れなかったのだ。帰ってきたときにはひたいに怪我までしていた--
 哀切な想いが胸を突いた。
「だからあたしがあのひとを--殺したようなものなの」
「--葉子」
 僕は落ちついて言った。
「そのマッチはおそらくわざと落としていったんだと思うよ」
 彼女は顔をあげた。
「--何のために?」
「捕まるために」
 僕ははっきりと言った。
「言ってただろ?彼の仲間が--和彦は自殺したんだって。彼は佐世保の事件の身代わりになって自分から官憲に捕まろうとした--そうでなければ不用意にマッチなんか落とすはずがないし、落としたとしてもそんな危険なアジトにいつまでも潜伏しているはずがない」
 和彦は誰にマッチを拾わせるつもりだったのだろう。徹か葉子か、それとも僕か--彼はその人間に自分の命を賭けたのだろうか。
 人の死にかかわるのは何と重いことだろう。葉子はいままで自分を責めていたのだ。
「葉子--よく聞いてくれ。稲葉さんのこと、今回の徹のことはみんな僕に責任があるんだ--僕が退院して、徹が家に戻ってきたら」
 僕はできるだけ明るく言った。
「--みんな元どおりにするから」
「本当?」
「約束するよ」
 葉子は初めて笑った。
「よかった--母さんより兄さんの方が、よっぽど料理が上手いんだもの」
「リクエスト、考えておいていいよ--おまえは低カロリーのやつね」
 葉子はぷん、とふくれて病室を出た。
 --長い廊下を歩きながらふと悲しくなった。
 兄さんは、ときどきやさしい嘘をつく--





 年が暮れようとしていた。徹が姿を消してからひと月になる。
 --何の連絡もない。
 僕はさすがに焦り始めた。
 当初は事件のショックでどこか知り合いの家にでも寄宿しているのだろう、落ちついたら戻ってくる--くらいに考えていた。
 しかし、ろくに金も持たず着のみ着のままで家出するにしては期間が長すぎる。家に一度も連絡してこないのも変だった。
 事故にあったか、あるいは極赤星に--誘拐されたか。
 誘拐なら両親に連絡があるはずだった。それがないのは--
 意識のない状態なのか、それとも--どこかで死んで--いるのか--
 僕を殺したと思い込んで--自殺してしまったとしたら。
 徹が--死んでしまったとしたら--
 ・・・・恐ろしい仮定だった。
 胸の真ん中に巨大な鉄の釘がねじ込まれるようだ。 
 --そんなはずはない。徹が死ぬなんて、そんなはずは--
 ではなぜ連絡がないのか。
 --もうひとつだけ可能性があった。--自分の意志で、連絡をしてこない場合。葉子に「あなたなんてこの家に来なければ良かった」と言われてこの家を、藤坂の家を去った場合--それは彼が僕たち家族を--僕を見限ったということだ。
 --そうかもしれない。彼はずっと自分が兄の代理として父母の会社を継がなければならないと思い込んでいた。僕に遠慮しているところがあった。もっとほかにやりたいことがあったのかもしれない。
 それなのに僕だけ勝手なことをして、和彦と遊んで--と彼は恨んだかもしれない。涙の痕の滲んだデッサンを、散り散りに破いた彼の--こころ。
 もうまっぴらだ、やってられないや--と家を捨てたのかもしれない--
 僕は頭を抱えた。
 --これまで、徹と離れなければならない時が来るかもしれないと思っていた。いさぎよく別れる覚悟もしていた--でもそれはみんな、僕の方から納得して離れる場合だった。--こんなに急に、前触れも言葉もなく、彼の方から僕を捨てていくことがあるなんて、思ってもみなかった。
 --あの姿はもう見られないのだろうか。あの声はもう聞けないのだろうか。徹はもう二度と僕に笑いかけてくれないのだろうか--
 僕は声を殺して泣いた。
 --死ぬほど後悔しても、もう遅かった。



 年が明けて包帯が取れ、左腕のリハビリテーションが始まった。痺れた腕や指を少しずつ動かしていくのだ。
 ところが--僕の腕はびくともしなかった。つねっても痛さを感じないし、動かそうとしても指一本動かない。手術は成功していたはずだし、検査結果も良好だ--でも動かなかった。--心因性のものとしか考えられない、と医師は言った。僕は定期的な検査を約束して退院した。
 半年がたち、一年が過ぎても徹は帰らなかった。
 僕の退院後しばらく家にいた母も、以前のように仕事に戻った。僕がそう勧めたのだ--片腕の生活にも慣れなければならない。
 僕は葉子と二人暮らしになった。彼女は以前と変わりなく僕に接した。
 僕たちは玄関の灯を絶やさず、毎日三度ずつ郵便受けを見に行き、ちょっとした風の音にも耳をそばだてて一日を過ごした。
 徹のことは口に出さない--静かな生活だった。
 三月のある日、僕は珍しい友人の訪問を受けた。





「久しぶりだなあ、玲」
 松さんはまたひとまわり大きくなったように見えた。居間にいろというのに、お茶を入れにキッチンに立った僕のあとをついてくる。片手で器用に珈琲を入れる僕を感心して見ていたが、そのうち勝手にダイニングの椅子に座り込んだ。
「--松さん」
 僕は珈琲のトレイを手に、呆れて言った。
「応接間か、せめて居間で話した方がいいと思うんだけど--葉子に叱られないか?」
 松さんは飛び上がった。
「玲--お、おまえ--そうか、葉ちゃんから聞いてたんだな」
「何も聞いてないよ、残念だけど--それより、居間に行かないか?珈琲が冷める」
 僕たちはやっと居間のテーブルを挟んで向かい合った。--松さんは柄にもなくもじもじしている。
「--それで?」
「・・・・そっくりだな、その性格の悪さは--」
「--だから?」
「・・・・葉ちゃんも葉ちゃんだよな、話をしといてくれりゃ--」
「--松さん!」
 彼は口を閉じた。しょうがない--僕から話を切り出した。
「葉子とつきあってるのは知ってたから、覚悟はしてたよ--いつなんだ?」
「--え」
「結婚するんじゃないの?」
 僕は聞き返した。
「--してもいいのか?」
「--松さんさ--今日は一体何しにきたの」
「いや--許しをもらえるまで粘るつもりで、着替えを持ってきたんだ」
 僕は吹き出した。
「葉子がいいなら僕は反対しないよ--でも両親がどう言うかはわからないけど」
「葉ちゃんは、おまえのことだけ気にしてるんだ--おまえがひとりになってしまうって--玲、俺さ--釧路の学校に採用になったんだ」
 釧路--そういえば松さんは北海道の出身だと聞いたことがあった。
「葉ちゃんは来年卒業だけど、その前に--冬が来る前に式だけでもあげて、春からの赴任についてきてほしいって--彼女に言った」
「返事は?」
「・・・・そんなにすぐには結婚できないと言われた。--今は兄さんとふたりで、徹を待っていたい--と」
「----」
「いつまでって聞いたら、いつまででも--って」
 僕は溜息をついた。
「--わかったよ。僕が葉子を説得する」
「玲」
「あの子はやさしいところがあるから、片腕の兄貴を見捨てるように感じてしまうんだろう--それじゃ本人が一生幸せになれない」
「片腕の兄貴じゃないよ--玲は王子さまなんだ、葉ちゃんにとって」
 僕は苦笑した。
「王子さまは松さんだろ--ちょっとウエイトオーバーだけど」



 その夜、僕は葉子に話をした。彼女は黙って話を聞き、終わると小さくうなずいた。
「--きっと兄さんはそう言うと思ってた」
 そう言って淋しそうに笑い、おやすみなさいを言った。




10


 その情報があったのは七月の初めだった。
 徹らしい人物を宮崎で見た、というのだ。
 連絡をくれたのは徹の友人のひとりで、夏休みを利用して南九州をツーリング中、僕の家に電話をしてきた。受けたのは葉子だった。
「本人かどうか確実ではないんだけど、青果市場で働いていて--そっくりなんだけど--って」
 少しひっかかるものがあったが、とにかく現地へ行ってみようということになり、僕はエア・チケットの手配をした。意外だったのは忙しい両親も同行すると言い出したことだ。ふたりとも口には出さないが、後継者の失踪は彼らの会社にとっても大きな問題だったのだろう。--できれば葉子も社員のうちの誰かと結婚させたいと思っていたようで、結婚の承諾を得るまでには相当苦労した、と僕は後で松さんから聞いた。
「徹と葉ちゃんの結婚--って線もあったらしいね」
 それは初耳だった。僕は気づかなかったが、葉子はそんな大人たちの思惑を小さい頃から何となく感じていたらしい--かえって反発したのだそうだ。
 --そうだったのなら徹だって何も感じなかったはずはない。
 --徹。
 君は本当に宮崎にいるのか。
 --なぜ連絡をしてこなかった。
 --君は僕の家で、幸福ではなかったのか。幸福だと思っていたのは僕だけだったのか。君を見て幸せだったのは、おめでたい僕だけだったのか--
 --徹。
 --僕は君のことを何ひとつわかってはいなかった。君に恋をして、苦しんでいるふりをして、実は恋そのものに酔っていたんだ。君のいちばん近くにいて、毎日君の顔を見て、君の声を聞いて、君を理解していると自負していた--でも、何も知らなかった。愛しているといいながら、僕の方に向けた、僕に都合のいい面しか見ていなかった。--そして、だから、傷つけた。君を--
 眼下に九州の陸地が見えてきた。 
 大地が真夏の太陽を浴びて輝いている。
 --徹に会ったら、と僕は思った。
 徹に会ったら--素直になろう。--そして、謝ろう。正直に自分の気持ちを打ち明けよう、すべてはそれからだ。
 機は旋回を始めた。




11


 チェック・インもそこそこに、僕たちは市の中心部にある青果市場に向かった。午後をかなりまわっていたので場内は閑散としている。やっと事務所らしき建物を見つけ、何度か大きな声で呼んで、出てきた初老の男に徹の写真を見せた。
「ふうん・・・・何ですか、あんたたち--」
 男は胡散臭そうに睨んだ。父が、息子を捜しているんだがと言うと、ちろと上目遣いで見て写真を返した。
「・・・・まあ若いのはいないことはないけど、こんな顔のはねえ」
 当たりだ。僕は父の背中に声をかけた。
「やっぱり交番へ行ってみましょうよ、お父さん」
 男は急にあわてると、父の手から写真をひったくった。顔を近づけたり遠ざけたりしてひとしきり眺めまわすと、奧に大声で何か叫び、顔を出した若い男に近寄って何か指示を出した。それから僕たちの方に向き直った。
「今、ちょっと手の空いたのを呼びにやってるんで--」お探しの人かどうかわからないがね、と男は念を押した。
「名前は--藤坂徹っていうんですが」
 母が急いで言った。
「フジサカ--ねえ。そんな名前じゃなかったと思うが・・・・」まあ見りゃわかるでしょう、と言って男は事務椅子に座った。
 入り口で足音がした。笑い声が近づく--この声。
 心臓が早鐘のように鳴った。
 この声は--。
 扉がバンと勢いよく開く。
 目の前に、真っ黒に日焼けしたひとりの青年が立っていた。
 --徹。
 夢にまで見た、徹だ。
 --僕は、声が、出なかった。父が、母が、葉子が口々に叫んでいっせいに彼に駆け寄った。徹は目を丸くして彼らを見まわし、少し離れた僕を見た。
 目が合った。
 --その瞳の中にはとまどいの色しかなかった。一体、これは何だ?というような、おろおろした色--
 葉子が目ざとくそれに気づいた。
「徹、--ね、あたしが誰だかわかる?」
 彼はのろのろと葉子の顔を見て、答えた。
「知りません。--誰ですか?」
 その場が静まった。
「徹、こんな時に冗談はよしましょ、ね--」
 母の笑いがひきつっている。
「冗談じゃなくて--すみません、僕本当にわからないんです」
 父の顔が落胆でゆがんだ。
「人違いか--君の名前は?」
「名前は--宮本卓也--って呼ばれてます」
「呼ばれてます?」
「ええ--僕」
 彼はちょっと言いよどんだ。
「以前の記憶がないんです」




12


 僕たちが最初事務所であった男は斉藤といい、ここの責任者だった。--彼が言うには、宮本卓也は一昨年の暮れからこの青果市場で見かけるようになった。一見して土地の者ではないので貧乏旅行をしている学生かと思い、あまり気にとめなかったが、新年の初市で事務所のコンピュータが故障してパニックに陥り、たまたまふらっと訪れた卓也が見事に直した。ほっとして話をしてみると、行くところがないと言う。ここで働いてみないかともちかけてみた。「ここの人間も年寄りが多くて、コンピュータなんか普段の操作がやっとこさで、故障しちまうとお手上げでな」ただ、雇うには保証人も必要なんだが、と言うと、実は記憶がないと言う。「でんぐりかえったよ!」とりあえず警察に問い合わせてみたが、該当する捜索願も出ていないらしい。これまでどうしてたんだ、と聞くと、気がついたらここにいたんで、金もないし、夜は繁華街のホームレスに混じって寝ていた、と答えた。「俺は迷ったよ。警察に行けばそれなりの施設や病院なんかがあるのかもしれんが--」それで記憶が戻るとは限らない。本人は健康で働きたいと言っているのだし、何より「明るくて性格のいいやつでさ。うちのばあさんが気に入っちまって」キムタクに似てるってんで「タクヤ」って勝手に呼び始めて--。俺が保証人になってここで働き出しても、力仕事も嫌がらないし、コンピュータは任せておけるし、この前留学生がタイから研修に来た時には英語のやりとりもいけてたし--「まあ、助かってたな」まさか、神戸の商事会社の社長の御曹司とはね--と彼はごま塩頭を掻きながらつぶやいた。
「まだ決まったわけじゃありませんよ、そうでしょう?」
 僕が言うと、皆が僕の顔を見た。卓也は席をはずしている。
「--そうだな」
 斉藤さんは灰皿に灰を落とした。
「卓也君とじかに話させてもらえませんか?」
「それはあんたたちの自由だよ、わしはあいつの--親じゃないから」
 彼はもう一度卓也を呼んで、自分はのっそりと仕事に出かけていった。




13


 顔、身体、声、筆跡--人はどうやって人を見分けるのだろう。
 卓也は本当に徹によく似ていた。一卵性双生児だってこうはいかない。
 真っ黒に日焼けして短く切った髪は清潔で、シンプルな白のTシャツとジーパンがよく似合っていた。声も似ている。
 だが--母や葉子がいくら話しかけても彼は困った顔をするばかりだった。何も覚えていないのだ--最後には黙り込んでしまった。
 僕たちはなすすべなくホテルに戻った。
 夕食の席で、父が切り出した。
「玲、徹の血液型や歯型の資料はあるか?--筆跡のわかるものは?」
「血液型はRHプラスのA型、までしかわかりません。歯医者は行ったことがない。--筆跡は--彼の部屋を探せばノートぐらいは見つかるでしょうが--」
「何だ」
「たとえ本人とわかっても、記憶が戻らなければしょうがない」
「それだがね」
 父は声を低めた。
「わたしの知り合いに精神科のクリニックをやってるのがいる。卓也を預けてみようと思うんだが--」 
「クリニック?いろんな心理療法をやる、あれ?」
 母が聞き返した。
「--僕は反対です、お父さん」
 父が僕を見た。
「機械や薬物を使ったり、人為的な手段でもし記憶が戻っても--そんなふうに強制的に記憶を戻したということが、彼の傷にならないでしょうか」
「--わたしもそう思います」
 母が言った。
「今日のようにわたしたちが徹に話しかけていけば、きっと自然に思い出すと思います。思い出さないわけないでしょ?--わたしたち、家族ですよ。あの子が五つの時から一緒に暮らしてきたんですよ」
「だが--そう時間をかけてもいられないじゃないか」
 父は苛立った。
「もし徹じゃなかったら?もしいつまでも記憶を取り戻さなかったら?」
「--それならよけい、クリニックなんて卓也君に迷惑でしょう」
 父は黙った。それから僕に聞いた。
「--実際のところ、どう思う?玲--あれは徹だと思うかね?」
 僕は首を振った。
「--わかりません、今は何とも--」
「そうか・・・・おまえがそう言うなら、もう少し様子をみるか」
 そして彼は携帯電話をかけるためにロビーへ出ていった。




14


 翌日、まだ夜が明ける前に僕は青果市場に出かけた。周辺はトラックでごったがえしている。すごい活気だ。僕は苦労して前日の事務所を見つけ、卓也の姿を追った。
 卓也は庇のついた帽子を被り手袋をはめて、広い市場の中を文字どおり飛び回っている。ひっきりなしに声がかかる。男たちの大声に負けず卓也の声もほとんど叫び声で、大笑いがそれに続いた。--また次の場所へ移動する。
 僕は圧倒されてそれを見ていた。軽快な足さばき、明るい声。
 --久しぶりに、本当に久しぶりに僕は愉快な気分になった。
 卓也はいつまでも見飽きなかった。
 午前九時台になってやっと最後のトラックが出ると、市場は静けさを取り戻した。あちこちでかさこそと片づけが行われているほかは、猫も眠りに入っている。僕がそろそろ腰を上げると、突然真横からリンゴが降ってきた。--あわてて片手で受けとめる。
 卓也が陰から現れた。
「それ、うまいですよ」
 そう言って隣に座り、自分も一個かぷりとやった。
「--手、どうしたんですか?」
 何気なく僕の左手を見た。--真夏だというのに長袖のシャツの先からは手袋がのぞいている。--動かせないので筋肉がそぎ落ちて、骨皮だけになっているのを隠しているのだった。
「事故でね--いちおうついてはいるんだけど、動かせないんだ」
 僕は注意深く彼の表情を観察した。
 変化はなかった。
「--でも、リンゴは食える」
 彼は笑った。花が開くような笑いだ。
「ネーブルは?好きですか」
 彼はポケットから小粒のネーブルを二個取り出すと、僕の前に立ってお手玉を始めた。玉を操りながら歌い始める--うまいものだった。いつのまにかネーブルは三個に増えた。フンフンと腰でリズムを取りながら、彼は僕の右手めがけて玉を投げた。
 --僕はとっさに受けとめて、投げ返した。それが合図になってお手玉は僕の右手を交えた三角お手玉になった。僕も歌ってリズムを合わせた。三番の歌詞が終わると彼は「ジャーン」と言ってお手玉を終えた。
 僕の手の中にネーブルが一個残された。
 彼はそれを覗き込んで口笛を吹いた。
「葉つきのに当たりましたね、ラッキーですよ、それ」
 君がそうしてくれたんだろ、と言いかけて、僕は別のことを聞いた。
「さっきの、ジャーンって、何」
「ああ、あれは--シンバル」
 今どき?--僕は吹き出した。このジャーンで葉つきのネーブルを調整したんだな。
 頬に彼の視線を感じて僕はやっと笑うのをやめた。彼を振り返る--卓也は目をそらした。
「どうしたの?」
「いえ--笑ってるの初めて見たから」
「--」
「昨日、あなたの家族、みんなシンケンマルだったでしょ?何か--怖くって」まあ、そりゃ当たり前だけど--と彼は頭を掻いた。
「ピンとこない?--自分の家族だって」
「・・・・すみません」
「謝ることないよ--今の仕事、楽しい?」
「--ええ。僕この市場をね、もっともっと変えたいと考えてるんです」
 僕はそれからたっぷり三十分以上、卓也の熱っぽい青果市場改革論を聴かされることになった。




15


 ホテルでは葉子が、僕が抜け駆けをしたとぷんぷん怒っていた。午後の攻撃は彼らに任せておくことにして、僕は卓也を夕食に誘うことにした。一緒に酒を飲んでみたら、あるいは--と思ったのだ。
 仕事を終えた卓也は昼寝から跳び起きて喜んだ。
「僕、何でもいけます。藤坂さんは?」
「好きなのはワインだけど--ちょうど今泊まっているホテルでロシア料理のバイキングをやってる。どう?」
「いいなあ。僕ロシア料理ってボルシチとピロシキぐらいしか知りません--あ、それとウオッカと」
「卓也君、食べものの名前はよく覚えてるんだね」
 卓也は頭を掻いた--が、すぐ真顔になった。
「でも、着ていく服が--これじゃ」
 彼は汗の染み込んだジーパンを見おろした。
 僕は用意してきた紙袋を差し出した。シャツとスラックスが入っている。徹と同じサイズを買ってきたのだ。
 卓也が隅で身支度をして振り返る。嬉しそうに僕の前に立った。--自分でも気づかないうちに、僕は思わず手を伸ばして彼の前髪を降ろしていた。
 --息がとまった。
 目の前に徹がいる。--彼が立っている。幽霊じゃない、徹が立っている・・・・
 卓也の顔の色が変わった。
「藤坂さん--」
 あなたは--とつぶやきかけて、横を向く。
「たく--」
 皆まで聞き終わらないうちに、彼は駆け出した。
 角まで来て僕を振り返り、息を整えてにっこり笑った。
「そこの信号まで競走!」
 そして僕の視界からみるみるうちに遠ざかった--
 徹なのか、あれは徹なのか--
 僕の胸につむじ風が舞っていた。



 バイキングは正解だった。
 卓也は見ていて気持ちのいい食べっぷりで僕を楽しませた。
 食後はラウンジでワインを飲んだ。飲み方も徹と変わらない。 
 --いや、僕の方が何でも似ていると思いたがっているだけなのかもしれない。
 店内は暗く、静かにモダンジャズが流れている。カップルが一組、抱き合ってゆっくりと踊っていた。
「今日、昼間--お母さんと妹さんが来ました」
 卓也が切り出した。
「--僕、悪いことを言っちゃったんです--斉藤のおやじさんが僕に--いえ、冗談のつもりで言っただけで--」
「何て言ったの?」
「--あなたたちを初めて見たとき、みんな人形みたいにきれいなんで--お孫さんの持っているリカちゃん人形の家族みたいだって」
 僕は苦笑した。
「それで僕に、おまえ本当にあの人たちと血がつながってるんか--って」
 ぎくりとした。
「軽い気持ちで--僕、そのまま、あの奥さんにしゃべったんです。そしたらふたりとも、真っ青になって・・・・徹さんが養子だってこと教えてくれて」
「--」
「--それからふたりとも一生懸命フォローしてくれるんです、みんなが徹さんをどんなに好きだったか、どんなに仲のいい家族だったかって」
 卓也は困ったように笑った。
「--かえって悪いことしちゃったみたいで--でも」
「--」
「いい人たちだな--って思いました。--こんなにいい人たちなのに、なぜ--徹さんは家出なんかしたんだろう」
 僕は答えられなかった。
 卓也は僕が黙りこんだのを見て、あわてて話題を変えた。初めて斉藤さんの家に行っておばあちゃんと話していたら心臓発作を起こしかけて驚いたこと、介抱しているうちに気に入られてしまい、大のキムタクファンのおばあちゃんから「タクヤ、タクヤ」と呼ばれるようになったこと、おばあちゃんが大家をしているアパートに格安で住まわせてもらってること・・・・
「おばあちゃんって言うと怒るんです、--だから、里美さん」
 卓也は屈託なく笑った。--白い歯だ。
 彼は僕を見ると、黙った。
「--すみません。僕ひとりしゃべってますね」
「いいよ。--君の声を聞いているのは楽しい」
「・・・・似ているから?」
 僕は卓也の顔を見た。卓也はすぐ目をそらした。
「--すみません。--僕いつもはこんなに酔わないんだけど--」
 喉が急に乾いた。
 僕は残ったワインを飲み干して、彼に言った。
「帰ろうか--明日も早いんだろう?」



 ホテルの玄関で、車で送るという僕の申し出を彼は断った。
「道はわかってるし--ジョギングして帰ります」
「ジョギング?」
「ええ。秋のハーフマラソンに出ようと思って--トレーニングしないとね。--明日、時間ありますか?藤坂さん」
「--もちろん。君の方は、いいのか?」
「海水浴に行きませんか、--僕、穴場を知ってるんです」
 僕は目で承諾した。
「一時に、ここに迎えに来ます」
「待ってるよ」
 卓也は嬉しそうに笑った。
「じゃ、おやすみなさい--」
「おやすみ」
 卓也は僕の前を立ち去りかけて振り返り、叫んだ。
「今日は多分寝られないと思います!」
 輝くように笑って駆けていった。




16


 翌日は雲ひとつない快晴だった。
 僕と母、葉子は卓也と一緒に南国の海を楽しんだ。--女たちは、僕と卓也がふたりで泳ぐことを許してくれなかったのだ。理由はもちろん僕の身体のことだ。
 僕は水泳が得意だった。母が僕の虚弱を治そうと、小学生の頃から療養目的のスイミングスクールに通わせてくれたおかげで、いちおう何でも泳げた。--しかしさすがに、片手になってから泳ぐのは初めてだ。プールと違って波もあるので、バランスをとるのがむずかしい。骨と皮だけの片腕がぶらぶら揺れているというのも、我ながら気味悪い眺めだった。
 卓也は最初僕の左胸から肩にかけて、ひきつれのようになっている傷痕と、その下にぶらさがっている細い左腕を見て目を丸くしたが、何も言わなかった。パラソルの下で日光浴に余念のない女たちを見ながら僕たちは沖へ出、こっそりと岩場の陰の隠れ家のような小さな砂浜にあがった。
 卓也は顔だけではなく、身体もよく日に焼けている。均整のとれた四肢がまぶしいほどだった。彼はぶるぶると犬のように頭を振って水を払うと、すわりのいい場所に僕を導いた。
「--すみません。腕のこと--海水浴なんかに誘ったりして」
「謝ることないよ。僕も泳ぐのは久しぶりだ--気持ちいいよ」
 それは本当だった。
「あちらにも海はありますか?」
 彼は聞いた。
「--一緒に神戸に来ないかって、言われました--お父さんに」
 僕は彼を振り返った。--目を伏せている。彼はひとつひとつ区切るように言った。
「もとの家で暮らせば、そのうち思い出すよ、って--でも」
「--」
「もし僕が別人だったら--本物の徹さんは今でもどこかで、家族を待ってるかもしれない--ひとりで」
「--」
「記憶がないっていうのは、ものすごく不安なものです。--たとえ自分の身体にちょっとしたあざがあったりしても--いつついたものなのか、わからない。何かの病気にかかったことがあったとしても--何もわからない。--自分で自分がわからない。一度も会ったことのない他人のような気がして--とても頼りない」
「--卓也君」
「徹さんもそうかもしれない」
 僕は足下の砂に視線を落として、ほほえんだ。
「やさしいね」
「--やさしくなんか、ない!」
 卓也は立ち上がった。
「--僕だって、はっきりさせたいんだ、僕が誰なのか--本当にあなたの弟なのか!」
 そう言い捨てて沖に向かって泳ぎ出した。波頭の中を、みるみるうちに頭が小さな点になっていく。
 卓也。--卓也。
 君は海の中に飲み込まれていきそうだ--



 でも僕はもう、結論を出していた。




17


「神戸に帰りましょう」
 翌日の朝食のテーブルで、僕は家族に提案した。
「--残念だけど、卓也君は徹ではない、僕は別の人間だと思います--母さんたちはどう思いました?」
「そうね--性格は随分違うなと思ったことはあるけど--」
 母が言いよどんだ。
「でも」
 葉子が言った。
「他人のそら似にしては似すぎてるわ。声だって・・・・」
「--骨格が似てれば、声だって似てくる」
 あなたがそう思う理由は?と母が目で尋ねた。
「家族とこれだけ話をしてみても、少しも記憶が蘇らないし、決定的なのは、僕の--この傷痕を見ても」
 父が眉をしかめた。
「平気な顔をしている--本人なら考えられない--そう思いませんか?」
 父はしばらくの間、黙って考えていた。
「おまえがそこまで言うなら--そうなんだろう。つい最近まで、一番身近に暮らしていたのはおまえなんだしな」
 父母は肩を落としていた。
 僕たちはフロントにチケットの手配を頼んだ。七月のシーズン中の土曜だったので当日座席が取れず、翌日朝一番の便になった。
 僕は卓也の仕事場に出向いた。--ちょうど斉藤さんが席にいたのでこれまでの礼を言い、僕たちが帰ることを彼に伝えてくれるように頼んだ。
「お騒がせしてしまって--お世話になりました」
「・・・・そいじゃ、何?--あんたたちの探してる家族とは、別人だったってことかい?」
「はい」
「--そうか・・・・それはまた・・・・残念だね」
「はい--では」
 僕はもう一度礼をして、事務所を出た。
 目の端に、バッタのように電話に飛びついておばあちゃん--里美さんに連絡する彼の姿が映った。



 卓也は空港まで見送りに来た。僕たちは穏やかに別れた。葉子は機内でどうぞ、と見事なダーク・チェリーを受け取っていた。
「徹さん、早く見つかればいいですね」
「ありがとう--また遊びに来るよ、君の食べっぷりを見に」
 僕は卓也に耳打ちした。
「家出した弟より君の方がよほどできがよかった、残念だ」
 卓也はくすくす笑った。



 空港が豆粒のように小さくなっていく。機は大きく旋回して太平洋の海原に出た。
 今日も快晴だ--この土地は本当に太陽に恵まれている。
 傍らで葉子が小さく欠伸を洩らした。
「あーあ、でも世の中には本当によく似た人がいるものねえ」
 後席の母が応じた。
「今でも信じられないわね」
「念のために卓也君には興信所に定期観察を依頼しておいたがね」
「--父さん」
 僕は両親の方に向き直った。
「その必要はないと思います」
 父はいぶかしそうに僕を見る。
「--だますようなまねをして申し訳ありません」
 母の顔が不安で曇った。
「あれは徹です」
 葉子が小さく叫んだ。
「正真正銘の--徹です」




18


「--玲」
 父は我に返って訊いた。
「それはどういうことかね?--徹ではないと言い張ったのはおまえだよ」
「僕は十六年間毎日一緒に暮らしてきました。あれは徹です。間違いなく」
「--じゃなぜ、帰ろうと言い出したんだ!」
 父の顔に青筋が立っている。
「僕たちがこれ以上あそこにいれば--彼はきっと思い出すと思ったからです」
「--思い出さない方がいいっていうの?」
 母の声が震えている。僕は言葉を選びながら言った。
「彼は今--幸福に暮らしています。毎日が充実して、いきいきしている。--帰って、何がありますか。--今までどおりの学生生活。親の会社に入って、親の仕事を継ぐ--好きも嫌いもなく、あらかじめ決められたレールの上を--停まらないよう、脱線しないように走るしかない」
「強制したことはなかったわ--あの子だって嫌がってなかった」
 僕は母を見た。
「さあ--それはどうでしょう。--彼の立場だったら、嫌だと言えますか--恩のある両親に--親のない彼をひきとって、愛情をかけて育ててくれた両親の期待を裏切ることができると思いますか?彼の性格で」
「--」
「多分、自分でも自分を抑えていたでしょう。--その重圧に耐えきれなくて記憶をなくしてしまった--忘れたい、忘れたいという気持ちが勝ってしまったのです。彼が記憶を取り戻して戻ってきても、その状況が変わっていなければ同じことの繰り返しです--父さん、母さん」
 僕はゆっくり言った。
「徹を解放してやってもらえませんか」
 父の目が光った。
「おそらくもう記憶は--戻らないでしょう。もし万が一-戻ったとしても、あなたがたの後継者にするのはあきらめてもらえませんか。あなたがたの徹は--もういないのだと、思ってはもらえませんか--お願いです
v


 僕は深々と頭を下げた。
 両親は黙っている。僕は言葉を継いだ。
「--もうひとつお願いがあります--今は七月で中途半端な時期ですが、できれば早いうちに、僕を父さんたちの会社に入れていただけないでしょうか」
「玲!」
 父母が同時に叫んだ。
「何を言ってるんだ!」
「あなたには無理だわ。身体が・・・・」
「--母さん」
 僕はほほえんだ。
「大丈夫です。体調をコントロールすることには慣れてる--だから今でも、普通に生活をしていられるんです。--それとも」
 僕は父を見た。
「--片腕では無理ですか?父さん」




19


 そのあとも何度か話し合いが持たれたが、結局両親が折れたかたちになった。僕は忙しくなった。二十四才の遅れたスタートだ。
 当面は研修の形で仕事を教わり、三時に退社してからは語学と法律の個人指導を受けた。覚えなければならないことが山ほどある。
 八月、盆休みの休暇を利用して僕はアトリエを閉鎖した。もう絵は描かない。二度と描かないだろう。絵筆とカンバスも全部捨てた。
 卓也--徹からは暑中見舞いが届いた。フェニックスをバックにトレーニング姿で笑っている。敬老の日のマラソン大会に向けて調整中です、と書き添えられていた--なつかしい右肩上がりの筆跡。
 その陽光を浴びた笑顔は僕の心を幸福感で満たした。
 --徹。
 あの海岸で卓也の身体を見た瞬間、僕は確信した。
 徹だ--と。間違えようがない。彼の身体の線なら全部知っている。
 十六年間毎日見続けたのだ。目を閉じてもそらで描けた。
 --だから僕は決心した。君のこの輝くような笑顔を護ろうと。
 太陽と風のような笑顔。
 --それは僕たちがまだ子どもの頃、僕にかぶとや蝉の抜け殻をくれたときの君の笑顔だった。
 いつ頃から君はその笑顔を見せなくなったのだろう。
 養子である自分の立場、将来の桎梏、そして、僕--兄の邪心。--それらが寄ってたかって、君から笑顔を奪っていった。
 本来の君は、こんなにも明るく笑える男だったのだ。
 今の君はとても自然だ。あの土地に根を下ろし、あの土地の人たちに愛されている。あの澄んだ空の下で、ネーブルのようにみずみずしく生きている。
 --もしかしたらそこは、君が生まれた土地に似ていたのかもしれない。
 君は、僕の家に来る前のもとの世界に、自分から戻っていったのかもしれない。
 --そこが本来の君の生きる場所だった。
 君は殻を抜け出して、もとの世界へ飛び立っていったのだ。



 僕の愛した徹。
 僕の弟だった徹。
 --彼は死んでしまったのだ、と僕は思おうとした。
 彼がナイフで切り裂いたのは過去の自分自身だった。
 --僕が徹を殺したのだ。



 失ったものはもう戻らない。
 けれど、せめて卓也のこの晴れやかな笑顔を、もう二度と壊すまい--僕は誓った。
 今度は僕が卓也を護る番だ。




20


 九月の初め、僕は卓也に会いに行った。夏の間にもう一度泳ぎに行こうと言っていた約束が果たせなかったので、何とかやりくりして週末の時間を空けたのだ。
 卓也は到着予定の四時間も前から空港で待っていた。一段と日焼けして、もう前か後ろかも分からないくらいだ。彼は僕のスーツ姿に驚いていた。
「髪型--変えたんですね」
「ああ・・・・勤めからまっすぐ来たものだから」
 彼はまぶしそうに目を細めた。
 夕食には少し早かったので、僕たちはホテルのラウンジで珈琲を飲んだ。僕は里美おばあちゃんのことを聞いた。
「元気ですよ--もううるさくって、あたしにもパソコン教えろって」
「家でもみんな元気だ。葉子は来月式を挙げるので忙しそうだけど」
 今からエステをやって間に合うんだろうかね、僕たちは笑った。
 笑いながら、彼の表情に少し陰がさした。
「卓也君」
 問いかけた僕の視線をついとそらすようにして、彼は言った。
「--出ませんか?」
 僕たちは少し離れたところにある小さな公園まで歩いた。残暑のなまぬるい風が吹いている。所々でまだ蝉が鳴いていた。
 彼は先に立って僕のためにベンチを探した。
「いいよ、歩きながらでも、僕は--日頃運動不足だし」
 気を使われるのが、少しだけ気づまりだった。
 卓也は立ち止まり、うつむいて--言葉を探している。
「あの・・・・前に聞いたことありましたね」
 何を?と僕は目で尋ねた。
「--徹さんはどうして家出したのかって。・・・・家族とうまくいってなかったんですか?」
「--いや、うまくいってた。--少なくとも僕たちは、彼を好きだった」
 それは嘘ではない。
「--あなたは?」
 卓也は振り返った。
「--あなたはどうだったんですか?」
 僕は絶句した。卓也のまっすぐな瞳が僕を見ている。
「なぜ、--そんなことを聞くんだ」
 逆に訊いた。
 卓也はうつむいた。--答えない。真っ黒な顔に赤みがさした。
「・・・・だったんです」
 聞き取れないほど小さな声だった。僕は聞き返した。
 彼は一語一語噛みしめるように言った。
「好きだったんです--だから」
 そして一気に続けた。
「だから、あなたを刺したんだ」
 心臓がとまった。
「--卓也君」
「--思い出しました、何もかも!」
 彼は目を見開いて、くっきりと僕を見た。
 --それは僕がこの十八年間かたときも忘れたことのない、徹の目だった。




21


「記憶が戻ったのか。--それは--」
 おめでとう、良かったね--と言わねばならないところだろう。--だが僕の喉はひきつれて、声が出なかった。 
 僕はつっかえながら、言葉をひねり出した。
「--それで、神戸には、いつ・・・・」
「いいえ--僕は今日、あなたに会うためにだけ、来たんです。自分が何者かがわかって--真っ先にあなたに--」
 声に切なさが滲んだ。
「--会いたかった」
 僕は必死で言った。
「君は徹じゃない--卓也だ。--あのとき徹は死んでしまったんだ」
 卓也は言いつのる。
「--それであなたは平気なんですか?何とも思わないんですか?」
「平気--僕が?--あいつは僕が殺したも同然だ、何で--」
「こうして生き返ってる!生き返って、あなたの目の前にいるじゃないか!」
 彼は僕の両腕を掴んだ。
「僕は記憶を取り戻して、そして--あなたのことがわかったんだ。あなたが何者かって・・・・それでここへ来たんです。あなたに謝りたいことも--」
「もういい、謝ってもらわなくても」
「それだけじゃない、僕は自分がわからなかったんだ。自分をだまして、あなたを苦しめて、僕は--だから・・・・」
 --やめてくれ。
「卓也君--君は記憶の中の自分を見つけただけだ。今の君と彼とはまるっきり別の人間だ」
「僕は徹には見えないんですか?」
「見えない、あいつは--」
「藤坂さん!」
「あいつはそんな風に呼ばなかった」
 僕は必死だった。
「徹なら--徹なら、あなたは良かったんですか--でも、徹としての僕も、卓也としての僕も、同じなんだ。僕は--あなたの腕を駄目にしたのもみんな--」
 言葉が途切れた。彼は唇を噛んで、意を決したように顔を上げた。
「--愛してたんです」
「卓也--」
 声が震えた。
「・・・・そして、卓也もあなたを愛してるんです。だから一緒なんだ!」
 --燃えるような瞳。
「--あなたはここで・・・・神戸にいたときよりもずっとやさしくしてくれた。それまでの十何年よりもずっと--僕は昔も今も、あなたを愛してるんです--愛してるんです!」
「卓也君」
 僕は努めて冷静に言った。
「君は愛っていう言葉を、そんなに簡単に使えるのか」
「--あなたには使えるよ、思い出して--稲葉に嫉妬したり--」
 彼は僕の顔色に気づいた。
「--あなたは、知ってた--?」
 そう--知っていた。
「知ってて--」
「弟にどうしろというんだ!」
 僕は逆に訊いた。
「--弟?」
 彼の顔がすっと曇った。
「君はずっと一緒に暮らしてきた--弟だ」
 嘘だ、心の中で叫び声がした。嘘だ--嘘だ。
「血の繋がりがないとはいえ--兄弟で、しかも男同士だ、恋愛感情を持てと言う方が無理じゃないか?」
 嘘だ--
 なぜ拒む?今逃したら、永久に行ってしまうかもしれない幸福--
 徹。--顔を背けて、うつむいて、泣くまいと耐えている徹。
 噛みしめた唇。震える拳。
 --頼む、徹---そんな顔をしないでくれ。
 君の笑顔を、それだけを、僕はどんなに--
 徹は泣かなかった。
 彼は顔を上げて、きっぱりと言った。
「僕は--あきらめない」
 落ちついた声だ。
「僕は僕なりに、あなたを追った時の積み重ねがある。--過去の僕自身が。--おいそれとは捨てられない。そんないいかげんな気持ちじゃないんだ。--あなたが僕を愛していなくても、--僕はあなたを愛します。--これからも、ずっと」
 彼は僕から手を離した。
「僕は家には帰りません。みんなによろしく言っておいてください」
「--卓也」
「また会ってくれるでしょう?藤坂さん」
 彼は光がこぼれるように笑った。



 --完敗だ。
 徹が公園を去ってからも、僕はしばらく立ちつくしていた。
 --僕には彼を愛する資格なんかこれっぽっちも残っていなかった。
 僕は苦笑した。--性懲りもなくぶらさがっている左腕・・・・
 僕はホテルに戻った。
 フロントに僕あてのメッセージが届いている。松さんからだった。
 嫌な予感がした。
 --それは両親の乗った飛行機がフロリダ沖で墜落した知らせだった。




22


 両親の遺体は結局揚がらなかった。
 僕は葬儀と会社関係の後始末に忙殺された。一応息子とはいえ、入社してまだひと月あまりの僕に父母の後が務まるわけがない。設立当初からのメンバーである専務を社長に昇格し、僕は当分今のままの席で現場の経験を積むことになった。徹のことも議題に登ったが、彼はまだ他の土地で療養中ということにしておいた。僕は彼を皆に見せたくない。父母の死を告げたとき、彼は電話口で声を詰まらせたが、葬儀には出ないと僕に言った。
 母の荷物の残骸の中には葉子の結婚式のために注文したアートフラワーのブーケも混じっていた。切れ切れになった白い蘭の花びらを見て葉子は泣きじゃくった。普段離れて暮らしていても、振り向けば必ずそこにいて支えてくれる、父母は揺るぎない大地のような存在だったのだと僕は改めて思った。受けてきた愛情も信頼も、その何十分の一も返せない。
 今の葉子にとって松さんがいてくれたことが、どんなに救いになったかわからなかった。
 僕は松さんに、式は予定どおり十月十日に挙げてくれるよう頼んだ。そのまま釧路で生活を始めてくれるようにと--松さんはちょっと眉を上げて、僕を見た。
「こんなときなのに--って葉子は言うかもしれない。でも、早く気持ちを切り替えたほうがあの子も立ち直れると思うんだ」
「葉ちゃんは、今はおまえのそばを離れたくないと思うよ」
「--だって、松さん」
 僕は無理に笑顔をつくった。
「僕は兄貴だから、あの子が落ち込んでるときに肩を抱いて慰めてやることはできる。--でも、そこまでだろ?そこから先は松さんの出番だ。--今の葉子には自分をまるごと受け入れてくれる、でっかい愛情が必要なんだ」
 僕は「でっかい」を冗談ぽく強調した。--松さんは黙っている。
「--玲、徹が家を出て--おじさんたちが亡くなって--葉ちゃんまでいなくなったら、おまえは本当にひとりになっちまうんだぞ、そんなこと、葉ちゃんにできると思うか?--おまえをひとりにすることが」
「僕なら大丈夫だよ。--松さんになら、安心してあの子を任せられる」
 それは本心だった。
「玲--おまえさ・・・・」
 僕はもう一度言った。
「頼むよ」
 松さんは黙った。
「--まあ、僕がこう言っても葉子の方が納得しないかもしれないけどね」
「--そんなことないだろ」
 松さんがぼそっと言った。
「あの子はおまえの言うことなら聞くさ、何だって--そういう子だよ」
「--」
「--知ってんだろ、おまえ--」
 知っていた。
「--知ってて、--負担なのか」
 僕は答えられなかった。
 松さんは僕を見て、大きな溜息をついた。
「--まあ、しょうがないや・・・・俺、そんな葉ちゃんも好きだしさ--今の件 、彼女に言っとくよ」
「--ありがとう」
 僕は感謝した。それからさりげなくつけ加えた。
「徹のことだけど、--記憶が戻ったよ」
 松さんの顔がこわばった。
「家には、帰らないそうだ」
「--玲--」
 何?というように僕は松さんにほほえみかけた。--彼は何も言わない。
 季節はずれの風がカタカタと窓ガラスを鳴らした。




23


 葉子の結婚式は晴天だった。彼女は純白のドレスを着て、手には夕べ縫い直した、母の形見のブーケを持っていた。両親はどんなにこの娘の花嫁姿を見たかっただろう。彼らの代わりに葉子を新しい世界に送り出してやることが兄である僕のつとめだった。
 新婚夫婦は東南アジアで暖かいハネムーンを過ごした後、釧路の新生活へと旅立っていった。
 十月--来るべき冬に向かって、季節がきりきりと収束を始めた。
 僕は毎日規則正しく通勤し、家事をこなし、夕食後は読書をしたりビデオを観て過ごした。日々が静かに流れた。
 もう誰を待つ必要もない。もう誰かと生活を分かち合うこともなかった。僕はひとりなのだ。--それは覚悟していたことだった。
 その年の冬は長かった。
 僕はだんだんいろんなことに興味を失っていった。何かに激しく熱中したり、根気よくやってみたところで何になるだろう。いずれ物は滅び、肉体は朽ち果て、心は死んでしまうのだ。
 今の僕を支えているのは幸福だった頃の記憶だけだった。--父とした初めての将棋。氷枕を替える母のやさしい手。窓から首を出して笑う徹。走り回る葉子--ほんの十数年前の、現実にあった出来事だった。
 あの頃は思ってもみなかった--あたりまえのようにずっとこのまま回り続けると信じて疑わなかった自分のまわりの世界が、ある日ふっと遠のいていくことがあるなんて。ある朝目覚めるとたったひとりで寒さに震えている自分を発見する。--吐く息さえ飲み込まれてしまう凍てついた空気の中で。
 眠ってしまえば--と僕は思った。眠ってしまえばもう何も考えなくていいのだ。夢の中で愛しい人たちに会える。
 --徹。「愛しています」と徹がささやく。「ずっとずっと愛します」と晴れやかに笑う。まっすぐに僕を見る、透明なまなざし--
 心が死ねばいい。
 心が張り裂けて死んでしまえば、もう君を恋わなくてすむのだ。 



 三月の初め、僕は弁護士に連絡を取り、卓也を呼び出した。




24


 ホテルのロビーは比較的空いていた。半年ぶりに見る卓也は少しやせて、背が伸びたようだった。
「卓也君、遠くまで呼び出して--すまなかった」
 僕はまず詫びた。
「いいえ--あの・・・・」
 卓也はいたずらっぽく笑った。
「あの--玲、だね?それから--君」
 どきりとした。
 この前、徹は君のように呼ばなかった、と言った僕への模範解答だ。
「そう--もうそこまで思い出したのか」
 認めないわけにいかなかった。
「それなら今日は君を、徹と呼ばせてもらうよ。その方が話がしやすい」 
「--話?」
 徹はけげんな顔をした。
「先日亡くなった両親の遺産の整理がやっとついてね」
 半年かかったのだった。
「不動産、預金、株券--といろいろあったんだけど、結局今ある家屋敷を処分して、全体の三分の一にあたる現金を君に--」
「ちょっと待ってくれ」
 徹が遮った。
「僕は家を出てて--それに養子だし--」
「権利はあるよ」
 僕は笑った。
「そんな--もらえないよ、とっても--だって育てておいてもらって、家を出たのに--何も返せなかったのに--」
「それは僕や葉子だって同じだよ。君と大して変わらない。--でも君が受け取らなかったら一体誰が受け取るんだ?--君は立派に家族の一員だった。父さんや母さんだって君のことを気にかけてた。--彼らだってそれを望んでると僕は思う」
「--玲」
 徹は口ごもった。
「--考えさせてくれ--あんまり急で・・・・」
「--時間がないんだ」
 僕は早口で言った。
「明日の朝早く神戸の家に弁護士を呼んでいる。今夜この空港ホテルに泊まって、明日一番で家に行き、手続きをしてほしい。それでここに君を呼んだんだ」
「どうしてそんなに急ぐんだ?--もう少し時間はあるんだろ?」
 徹は問い返した。
「--これは僕の義務でね」
 僕は彼の目を見ないようにして、言った。
「--早く済ませたい」
「--玲」
 徹は動揺した。
「--それから」
 僕はいっそう早口になった。
「明日はあわただしくて話をする暇もないだろうから--言うけど」
 声が少し震える。
「会うのは、これきりにしてほしい」
「--玲!」
 彼が目を見開いて僕に迫った。
「--それは--どういうことだ!--金をやるからどこかへ行っちまえっていうことか?」
「違う!遺産は遺産だ。僕のこととは関係ない!」
「--僕のこと・・・・?--どうして会っちゃいけないんだ?」
 僕は低い声で言った。
「--それは君自身が一番よく知っているだろう」
 徹は黙った。黙って--うつむいた。
 肩が震えている。
 ずるい言い方だ。--酷い言葉だった。
 僕は椅子を立ち、テーブルに彼の部屋のキイを置いた。
 こつん、と音がした。
「すまない--」
 僕はもう一度彼に詫びた。




25


 僕は部屋に入った。ぐったりと疲れていた。
 これでいい。--何もかも、明日になれば終わる。
 あの思い出の家を処分して、遺産を三人で分ける。徹と葉子には多額の現金が渡る。徹たちはそれをもとにして新しい人生を切り開いていけるだろう。僕の役目は終わった。--本当に終わったのだ。
 そして僕には--何も残されていない。
 僕は一人暮らしに手頃なマンションでも買って、両親の残した会社を継ぎ、ひとりで生きて年老いて行くだろう。徹の思い出と一緒に。
 --今までと同じだった。今まで耐えてこられたのだ。これからもできないはずはなかった。
 徹--ごめん、僕は謝った。
 僕はもう君に何もしてやれない。
 僕という男がいたことは忘れてもらっていい。そして君のいる、あの明るい世界でのびやかに生きていって欲しい。
 僕は静かに君の舞台から降りよう。
 --そして初めて、安らかに眠れる。
 葬送の歌を聴きながら、初めてぐっすりと眠れるのだ。



 真夜中に、僕はノックの音を聞いた。
 このルームナンバーを知る者はひとりしかいない。僕は緊張した。
「--玲、僕だ」
 徹の静かな声がした。
「ごめん、夜中だってことは知ってるけど--明日のことで、どうしても今夜中に話しておきたいことがあって」
 僕はガウンをはおって扉を開けた。
 --徹がうつむいて立っている。僕は無言で彼を招き入れた。
 彼の背後でカチャリと音がして錠が閉まった。
 その直後、彼はものすごい速さで僕にぶつかって羽交い締めにした。僕は二、三歩後ろによろけて彼を止めた。
「--徹、は--離せ・・・・」
 彼は無言で僕に回した腕に力を込めた。
「徹--」
「--撤回してくれ」
 彼は顔を伏せたまま、叫んだ。
「どうして、これが最後なんだ!」
「--」
「ひどい--あんまり一方的だ・・・・僕は何も、愛してくれなんて言ってやしない。会うだけでいいんだ。見るだけで--それさえ駄目なのか、玲!」
 僕は彼の腕を取って、ゆっくり彼をひき離した。
 視線が合った。
 ひたむきな黒い瞳がまっすぐに僕を見つめている。唇が細かく震えていた。
「--君が好きなんだ、どうにもならないほど好きなんだ。--それなのに会ってもくれないなんて、--それじゃ僕はどうしたらいいんだ?」
「--忘れろよ」
 僕も忘れる、君のことは。
「忘れろ--?忘れろだって--?忘れられるくらいなら、何も--」
「--忘れろ!」
 僕は叫んだ。ほかにどうしろと言うのだ。
 徹は黙った。--彼の顔が怒りで徐々に赤くなった。
「--ふざけるな・・・・僕を--何だと思ってるんだ、僕の気持ちを何だと思ってるんだ、--そんな他愛ないものだと思ってるのか!」
 彼は壁際に僕を追いつめて、切々と言った。
「なんで--本気で考えてみてくれないんだ--なんで、いつだって頭ごなしに、駄目だって--」
 金色の瓶が頭の隅に散った。
「僕なんか、君の相手にならない--っていうのか?--どうせ僕はもらわれっ子だよ、君となんかつりあいっこない--」
 僕は音を立てて徹の頬を張った。
「甘えてるのは君の方だ!」
 徹は唖然として頬を押さえている。
「--どこの誰が君を孤児扱いにした?僕たちがいつ君を仲間はずれにした?--僕たちは十六年一緒に育ってきた。父さんや母さんの愛情だって、何ひとる分け隔てしなかったはずだ。君がいなくなったとき、どんなにみんなが心配したか--勝手なことをしてたのは君の方だろう!」
「--」
「--徹--僕の左手と一緒に、みじめな君は消えたんじゃなかったのか?--君の嫌な過去が消えるのなら、腕一本なんて僕は惜しくないよ--本当だ」
「--玲・・・・」
 彼は目をそらした。
「--君はいい兄貴だな--弟思いの」
「--」
「--僕はいい兄貴を持って、感謝しなけりゃいけないんだろうな--でも」
 その顔が苦渋でゆがんだ。
「弟として愛されるくらいなら、まるっきり無視された方がまだましだ--僕は--」
 後は崩れて言葉にならなかった。
 僕は彼に背中を向ける。
 目を閉じて、嵐の通り過ぎるのを待っていたかった。
 やがて、静かな声が聞こえた。
「玲--君の希望どおり、明日からは--もう会わないよ」
 僕は振り向いた。
「--徹」
「そのかわり--」
 彼が僕の手を取った。うつむいて、僕の目を見ないようにして--言った。
「今日だけは--今夜だけは、僕を--愛してくれ・・・・」
 僕は息を飲んだ。
「頼む--頼む、玲!」
 僕は彼を振りほどこうとした--が、力が入らない。
「弟でも何でもいい、少しでも僕を心配してくれるなら--玲、この気持ちを--この気持ちを、どこへ持っていったらいいんだ!」
 徹が肩を揺さぶる。身体がが押しつけられる。熱い身体だ。
「頼む、玲--今夜だけでいい、嘘でもいい--愛しているふりをしてくれ--明日からは二度と現れない、約束する、だから、だから、玲--!」
 玲!--僕を呼ぶ声が耳もとでわんわんと反響した。玲!--遠くからのこだまのように幾重にも僕を包んだ、徹の、和彦の、葉子の、松さんの、潤一の--声。玲!--僕を探す声。僕を呼ぶ声。僕を--求める声。
 --玲・・・・
 花瓶の割れる音で、僕は我に帰った。
 目の前数センチのところに徹の顔があった。--透明な視線。
 もうここまで求めてしまった、後戻りのできない想い--
「--好きだ・・・・気が狂いそうなほど・・・・」
 --徹。
 僕は彼の手をもぎ離した。
「僕は、君の思っているような人間じゃない--」
 必死だった。
「いつだって、しりごみばかりする、自分の身を守ることしか考えない利己主義者で--逃げてばかりいる臆病者--嘘つき、偽善者、見栄っ張り--」
「--玲」
「兄の資格なんてない--」
「--でも、好きだ」
「他人を愛する資格もない--」
「--でも、好きだ!」
 僕は徹から身を避けた。徹が後ろから叫ぶ。
「玲、君がどんなでも、僕は好きだ、好きだ、好きだ、目の前の君が一番・・・・理屈なんていらないよ、好きならそれで何もかもいいじゃないか!--僕を見てくれ、玲!」
 彼の絶叫が心をえぐる。僕はもう致命傷を負ってしまった。
「--許してくれ」
 僕は--
「許してくれ。僕はもう--疲れたんだ」
 僕は残骸だった。 
 --とうとうここまで言ってしまった。
 返事はなかった。
 どのくらいの時間がたっただろう 僕がゆっくり目を開くと、彼はスタンドの光を背にして床にぺたんと座っていた。彫像のように動かずに--
 そして両方の目をぼんやり見開いたまま--声を出さずに泣いていた。  ぼろぼろと--ぼろぼろと--泣いていた。
 僕の身体の奥底で何かが弾けた。
 --徹。
 泣くな。--徹。
 笑ってくれ、いつものように、輝くように--
 君のそんな姿は見たくない。
 そんな姿を見たくなかったからこそ、僕は何年も--何年もの間ずっと苦しんできたのだ。
 何も知らない君の前で本心を隠し、手を伸ばせば届きそうな君をなくすまいと自分を殺し、僕は兄だ、友人なんだと自分に言い聞かせ、周囲も--自分自身をさえも欺きながら、果てしない闇のような欲望にたったひとりで耐えてきたのだ。
 もう限界だ。
 僕はゆっくりと彼に歩み寄り、正面から静かにその肩を抱いた。
 うつむいた彼の頬に涙が幾筋も光っている。僕は顔を傾けて右の頬の涙を唇で拭い、左の頬の涙を拭った。それから静かに唇に接吻した。



 生まれて初めて知る彼の唇だった。






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