流氷 内藤更紗
寒波
流 氷

prologue -プロローグ


 足もとで、ぱりんと音がした。
 少年は軽登山靴の踵に目をおとし、水たまりに張った薄氷を割ったことに気づいた。半透明の破片が冬の陽を浴びて光っている。
(やっぱり迷ったみたいだな)
 いつも家の窓から見ている六甲なんて、と侮ったのが間違いだった。ハイキング道は整備されているのだが、分岐が多いうえに道標が少なく、行き慣れない者にとっては裏庭をぐるぐる廻っているような始末になった。
 薄曇りの陽はすでに翳りはじめている。
 せめて磁石だけでも持ってくるんだった、と思いかけた時だ。
 前方を覆った樹木の間を、視界が急にひらけた。吸い込まれるように足が向かう。
 --湖だ。
 深い青緑の湖面には灰褐色の朽ちた葉がたゆたい、水の奥はさらに暗く沈んで眠るように黙している。
 太古の昔からそこにたたずんでいたような、静かな湖だった。
 風が、ふと、さざ波をたてる。
 少年の視界のなかに、白いものが動いた。
 --鳥?
 彼はそろそろと右側の岸辺にまわり、樫の樹の近くに進んだ。
 足がとまる。
 人影が、驚いたように振り向いた。
 --それは白いコートに身を包んだ、ひとりの青年だった。
 年の頃は24、5か。淡い色の瞳、細い鼻梁、引き締まった唇--端正な顔立ちの若い男。
「あの・・・」
 少年は口ごもった。
 青年は驚きから覚めると、ちょっと笑った。光がこぼれるような微笑。
「--ハイキング?」
 やわらかい声だった。
「ええ--あの・・・迷っちゃって」
「--どこへ行くの?」
 少年は目的地の名をあげた。大きな公園になっている。
「そこならまだ随分先だな」
 青年はていねいに道を教えた。
「急いだ方がいいよ。日が暮れないうちに」
 少年は礼を言って、その場を離れた。
 --少し歩いてから、何かひっかかるものを感じた。
 --何だろう?
 一旦立ちどまった彼は、思い直して道を急いだ。



 少年がやっと目的地に着いた時、最終バスはもう出たあとだった。
 日没後の山道を歩くのは危険だ。山を迂回した車道を歩いて帰るよりほかに方法がない。15、6キロはあるだろうか。
 しょうがない。彼は溜息をついて、歩きはじめた。
 暗い道を20分ほど歩いた時、後方から軽いクラクションが聞こえた。パジェロが彼を少し行き過ぎて停まる。後部座席の男が彼に笑いかけた。
 あの青年だった。
「どうしたの、ハイキングの続き?」
 少年がわけを話すと、近くの駅まで送ろう、と彼は申し出た。
「・・・すみません」
 いいよ、別に--と微笑が返ってきた。
 車中は賑やかだった。前の座席の2人の仲間と一緒に、この青年も笑い転げていた。少年は、また少し違和感を感じた。
 彼らは私鉄の駅前で車を停めた。
 少年が礼を言って駅に歩きかけると、青年が車から降りて近づいてきた。
「この駅はホームがわかりにくいから」
 親切な人だな、と思いながら説明を受け、少年はまた礼を言おうとして、目の前の相手の顔を見た。
 --何か、口ごもっている。
 青年がやっと口を開きかけた時、背後から声がかかった。
「玲!」
 青年は振り返って仲間に応え、少年に向き直った。
「--じゃ、気をつけて」
 車は2、3度合図をして去っていった。



 少年は車両に乗り込んでから、やっと気がついた。
 湖で感じたひっかかりは・・・
 あの青年の頬の上にいくつもの帯が光っていたのだった。



 あの人はあそこで泣いていたのだ。




第1部 寒波


 玲と徹がともに暮らしはじめてから初めての冬がきた。
 木枯らしの吹く夜、ふたりでひとつのベッドに入って気づいたのは、玲の手足が氷のように冷たいことだった。
 玲は逆に、徹の身体の熱さに驚いた。
 徹は毎夜、玲の裸身を腕のなかにすっぽりと包んで、毛布がわりに玲をあたためた。ふたりの背丈は同じぐらいなので玲は少し身体をずらし、徹の肩に頭をもたせかける。腕を徹の背にまわし、足を絡ませて身体を合わせた。あたたかい息がかかる。
 大抵はどちらからともなく手が伸びてセックスに移り、終わるとまた抱き合って眠りにつく。柔らかな羽根布団のなかで、互いの体臭が混ざり合ってゆくのが夢のように心地よかった。
 晩秋に結婚式を挙げてから2カ月。
 法的には効力のない、社会的認知のみの結婚ではあったが、堂々と先手を打ってカミング・アウトしたおかげで、ふたりが表だって仕事先で批判や中傷を浴びることはなかった。何せ列席した日本人招待客のほとんどは、結婚式の立会人として署名したのだ。それは横並び意識の強い彼らの性格を知ったうえでの、玲の戦略だった。
 ふたりは希望して同じ部署に配属され、さらに宮崎から木村俊男を呼び寄せて周囲を固めた。玲をガードするうえで、俊男は徹の強力な助っ人になった。
 当面で一番の問題点は、マスコミ対策だった。
 俊男の発案で、式までは徹底した箝口令を敷いていた。しかし式後に出席者の口から噂が広がるのは防げない。地元テレビと業界紙がさっそく取材にやってきた。週刊誌がそれに続く。
 いくら男同士の結婚式が珍しいからといって、興味本位で騒がれてはかなわない。彼らはできるだけ取材拒否を通し、どうしてもという場合のみ、徹がひとりで応対した。
 --玲を護ろう。
 それは徹と俊男の合言葉だった。
 朝は徹が車を運転して玲とともに出社し、昼は3人で食事をし、夜は徹か俊男の車で玲を送る。休日もほとんど3人一緒だった。
 そして徹は毎夜玲を腕に抱いて眠る。
 玲の髪を撫で、玲の寝息を聞きながら、そのしなやかな裸身を両腕でしっかりと抱きしめる。
 その時だけ、徹は昼間の緊張を忘れることができた。
 --玲、僕のパートナー。
 安らかに眠る白い耳に自分とペアのマリッジ・ピアスを見て、徹は幸福感で一杯だった。
 だが--
 しんしんと更けてゆく夜のなかで水がひそやかに氷に姿を変えるように、その腕のなかで玲が変わっていったのを徹は気づかなかった。





「なあ・・・玲」
 ワックスでてかてかに光った校舎の廊下を歩きながら、徹はまだ抵抗を試みていた。
「やっぱり行くのか--僕、苦手なんだけどな--あのモップ」
 先を歩いていた玲が吹き出す。
「徹、先生の前で、モップなんて言うんじゃないぞ」
「だってさ--」
「しょうがないだろう、渡辺先生の頼みじゃ」
「そりゃ、君は優等生だったからいいかもしれないけど」
「何言ってるんだ」
 玲は苦笑した--
 ふたりの卒業した高校の教諭から講演の依頼が舞い込んだのは1週間前だった。春の新入生歓迎オリエンテーションに「差別と人権について考える社会研究会」主催で、同性愛者としての生活を語ってほしいと頼んできたのだ。もちろん、結婚式のことを耳にしてのことだった。
 ふたりは困惑した。大勢の前で講演をする気にはなれなかったが、むげに断るわけにもいかない。モップこと渡辺教諭は玲の担任でもあったし、徹も職員会議でちょくちょく助けてもらったことが、ないではなかった。
 事情を話すと渡辺は、それならせめて、今いる部員たちに話をしてもらえないか、と譲歩した。それまでは、断れない。
 玲と徹は7年ぶりに母校の廊下を歩いて、部室へと向かっていた。
「社会研究会」のプレートがある。
 玲が引き戸を開けると、中の視線がいっせいにこちらを向いた。
「おお、藤坂。久しぶりだな」
 窓際に座った白髪頭がしゃがれ声をあげる。
「玲、・・・モップが白モップになってるぞ」
 徹がささやいた。



 生徒たちの質問は、思ったよりおとなしかった。
「生活上の不便は」とか「正式に結婚できないことについてどう思うか」とか、いかにも生真面目なサークルといった感じで、きわどい質問を覚悟していたふたりが拍子抜けするくらいだった。
 予定していた時間が過ぎてお開きになったあとは、残った部員たちと缶コーヒーを飲みながらの茶話会になった。
 2年生男子が2人、女子が1人、1年生は3人とも女子だ。
「・・・しかし、おまえたちがこうなるとはなあ」
 モップが感慨深そうに言う。
「いつからなんだ、え?・・・まさか、在学中からか?」
 玲は赤くなった。
「やだなあ、先生--僕、在学中は女の子のことで頭いっぱいでしたよ」
 徹が助け船を出す。
「おお、そうだったな、徹。おまえはよく浮き名を流してたもんな」
「--先生、僕たちはまだ1年もたってないんですよ、つきあいだしてから」
 玲が笑いながら話す。
「それで、もう結婚したのか?えらくせっかちじゃないか」
「結婚というより、カミング・アウトの手段だったんです」
「ほう」
「やっぱり堂々としたいでしょ?悪いことしてるわけじゃないんだから」
「なるほど」
「--あのう」
 2年の女子が発言した。
「今、おふたりを見ていて、なんていうか--すごく自然な感じなんですけれど、それは、結婚されて落ち着かれたからですか、それとも、結婚される前から--小さい時から一緒に育ってこられたからでしょうか」
 ふたりは顔を見合わせた。
「さあ・・・昔からこうだったから--」
「お互いにとって、一番自然な形を、と思っていたら、こうなっていた--感じかな、徹」
 玲が徹に笑いかける。徹がにっこり微笑を返した。
 --その場の時間が、一瞬とまる。
「・・・おいおい、おまえたちあんまり見せつけるなよ」
 笑い声が弾けた。
 玲も一緒になって笑いながら、ふとそのなかに鋭い視線が混じるのを感じた。
 --誰だろう?
 そう思って目の前の生徒たちを見た時、気配はすでに消えていた。





 翌日の昼近く、玲に見慣れない来客があった。
「高校生?」
「はい。なんでも渡辺先生からの預かりものがあるからと--」
 代わりに受け取っておきましょうか、という受付係を断って、玲は1階のロビーに降りた。
 ガラス張りの広いフロアに明るい陽光が満ちている。
 大理石の中央にひとりの少年が立って、まっすぐにこちらを見ていた。
 すらりとした敏捷そうな身体。額の広い、ややエラの張った顔。大きめの口。--その何よりも、くるくると動く大きな瞳が個性的だった。
「--君は」
 茶話会の時にいた2年生だ、と玲は思い出した。
「原沢隆史です」
 少年は白い歯を見せて笑った。



 応接ソファで向かい合うと、隆史は封筒を差し出した。
「昨日のお話を録音したテープと、それをまとめたレポートです。渡辺先生には目を通してもらったんですが、藤坂さんたちにも見てもらえたらと思って」
「預かるよ。--よくできたね、こんなに早く」
 きれいにワープロで打たれた原稿をぱらぱらとめくって、玲は感心した。
「今日は、授業は?」
「ああ、自主休講です」
 けろりと言う。
「いい天気なんで、校舎の屋上で昼寝してました」
「屋上って、美術室の上の、張り出してるとこ?」
「知ってるんですか」
「知ってるも何も--」
 玲は愉快そうに笑った。
「カップルでしけこまれると、響くんだよあそこ」
「--ええ?」
「窓から煙草の灰は降ってくるし」
「へえ」
「--そういえば徹もガールフレンドと行ってたこと、あったなあ」
 下に僕がいるとも知らないでね、と玲は笑った。
 --ふと、隆史を見る。
「どうしたの?」
「--藤坂さんも、屋上に行ってたことあるんですか--ガールフレンドと」
「いや。・・・僕は彼みたいにもてなかったしね」
 嘘だろう、と隆史は思った。
 この人がもてなかったはずがない。昨日だって--
 昨日だって、本当はみんな、もっとつっこんだ質問をいろいろ用意していたのだ。それがこの人を見たとたん、太陽を浴びたモグラみたいにいっぺんに縮こまってしまった。とにかく綺麗すぎるんだ。目の前に出るとあがってしまって、セックスの話なんかとてもできやしない。
 本当は訊いてみたい。本当は・・・
 隆史は息苦しくなって、目を上げた。
 玲の静かな微笑がある。
「原沢君」
「--はい」
「もうお昼だろう。--よかったら一緒に食べないか?ご馳走するよ」
 隆史は自分の心を見すかされたように、赤面した。



 異人館から少し離れた坂道にある中華料理店。
「無理矢理誘っちゃったけど--ここのブラック・ビーンズ料理が僕は好きでね」
 量が多くてなかなかひとりでは食べきれなくてさ、と玲はささやいた。
「うまいですよ、これ。僕ひとりで一皿だっていける」
「そう?--じゃ、別の皿を、あと2つ取ってもいいかな」
「--マジ?」
「カニ爪の揚げ物、それから牛肉の・・・」
「--藤坂さん」
「玲でいいよ。・・・いけるだろう、少しぐらいなら僕も協力するしさ」
 隆史は腹をくくった。
「僕なら大丈夫ですよ。なんせ鉄壁の胃袋だもん」
「決まりだ」
 玲は楽しそうに指を鳴らして給仕を呼んだ。



 --デザートからお茶までたっぷり飲んで、ふたりは店を後にした。
 満腹で足が重い。
 隆史は腹を押さえながら歩き、玲はその姿が可笑しいと言って笑った。
 石畳の坂道に街路樹が長い影を落としている。
 道の両側には何軒もの古道具屋や骨董品店が軒を連ねていた。
 ふたりは目につくものを片端からひやかして歩いた。
 唐代の青磁、アール・ヌーボーの洋燈、薩摩切子・・・
 一軒の店で玲がビクトリア朝の茶器セットを眺めて出てくると、隆史が店の前で彼を手招きした。
「--何?」
「今日の・・・お礼」
 隆史は玲の掌に、ちいさなものを握らせた。
 --青い石のついたベビー・リング・・・ペンダントにできそうな。
「ただのガラス玉です--サファイヤかなんかだったらいいんだけど--誕生石も・・・わかんなかったんで」
 耳まで赤くなっている。
「原沢君、--悪いけど、僕は装飾品は身につけないんだ」
 隆史の視線が、思わず玲の耳もとに走った。
 右耳に光るプラチナのピアス。
「このピアスは--徹とペアなんだ。結婚指輪のかわりで--お互いのイニシャルが彫ってある」
 何を必死で言い訳しているんだろう--と玲はうろたえる。
「じゃあ、--持っててください。僕が持っててもしょうがないから」
 隆史が玲を見あげる。--強い視線。
 --昨日、茶話会で感じた、あの視線・・・
 --落ち着くんだ。
「・・・ありがとう、大事にするよ」
 玲は微笑んで、掌の上のちいさなリングに目を落とした。
「--綺麗なブルーだね」
 湖の底のような色でしょう?--と隆史は胸のなかでつぶやいた。
「玲さん」
「--」
「まだ、--思い出しませんか」
「何を?」
「僕のこと」
「--」
「先月、六甲で・・・」
 玲が目を見開く。
「--あの時の・・・!」
 隆史は満面に笑みをたたえる。
「そう、あの時会ったハイカーです・・・玲さん」
 大きな瞳が光った。
「僕は忘れたこと、なかったです--1日も」





 --少し風が出てきた。今夜は冷えるかもしれない。
 徹は駐車場にジャガーを停めて、もう一度玲に訊いた。
「本当にここでいいのか?」
「そうだよ」
 玲は楽しそうに答える。
 ふたりの目の前にあるのは餃子の全国チェーン店「天龍」だ。
「君が、今夜行きたい店ってのは--」
 だから早く入ろうよ、と玲は徹を促した。
「いらっしゃい!」
 威勢のいい声が開き戸を開けたふたりを迎える。
 カウンターに15、6人も座ればたちまち一杯になってしまう狭い店だった。ざっと半数の椅子が空いている。玲はさっさと奥に向かった。
 コートのまま、丸椅子に座る。
「ビールと餃子を--2人前もらおうかな」
 注文を聞いた若い店員が、身を乗り出してふたりに笑いかけた。
「来てくれたんですね、藤坂さん」
 徹は驚いて、その顔を見た。
「徹、--ほら渡辺先生のサークルの2年生、レポートをまとめてくれた」
 ここでバイトしてるんです、と隆史は言ってビールを置いた。
「--ああ、あのレポート、よくまとまってたよ。--こんな立派なこと言ってたかなあ、なんてとこもあったけど」
「実は、意訳もちょっぴり」
「--頼もしいね」
 徹は笑ってコップを空け、かたわらの玲を見た。
 静かに笑っている。アルコールが入って頬がばら色に上気していた。
 --綺麗だ・・・。思わず、息をつめた。
「餃子、お待ちどう!」
 横合いから声が降る。我に返って皿を受け取った徹は、声の主がカウンターごしに、玲を食い入るように見ているのに気づいた。
 射るような、大きな瞳。
 まばたきもせずまっすぐに玲を見つめる、はがねのような視線--
「おーい、こっちもビール!」
 背後から呼ばれて、ようやく隆史は玲から目を離した。
 そのまま、向こうの客にかかりきりになる。
「・・・玲」
 徹が玲にささやく。
「ここ来たのは、初めて?」
「そうだよ--なぜ?」
「--別に」
 玲は餃子をつつく。
「徹、--原沢君は将来自活するための資金をバイトで貯めてるんだって」
「・・・へえ」
「この店でもっと長時間働きたいんだけど、ここは--ほら、立地があまり良くないだろう?店自体の売り上げがかんばしくないから、あまりバイトを使うわけにいかないらしい」
「--もっと稼げるバイトを探せば?」
「僕もそう言ったんだけどね・・・将来食べ物屋をやりたいから、--ここなら客あしらいとかいろいろ、実地で勉強できるからって言うんだ」
「--」
「--それで、調理師免許のこととか、いろいろ相談に乗ってて」
「--」
「ついでに、少しでも、売り上げに貢献しようかなと--思ってさ」
 玲は上目使いに徹を見て、ちょっと笑った。
 徹は大げさに溜息をつく。
「親切な先輩だよね、君は」
「--だって、徹」
 玲が口をとがらせる。
「君は高校の時、部活をやってたからいいけど--僕は何もしてなかった。--後輩なんて持ったこと、一度だってなかったんだよ?」
「僕や葉子の面倒を見てくれてたおかげでね」
「別にそんな意味で言ったんじゃ--」
「ビールもう1本いかがですか、お客さん!」
 いつのまにか目の前で、隆史がにやにや笑っている。
「・・・夫婦喧嘩はやめてくださいよ」
 こっそりとささやく。
「原沢君」
 玲は耳まで真っ赤になった。
 隆史はそんな玲の顔を見て、--目をそらして新しい瓶の栓を抜いた。
「藤坂さん、これ--オゴリ」
 徹にウインクしてみせる。
 店がたてこんできた。
 店長は調理場にかかりきり、カウンターは2人のバイトだけでさばいている。銭湯帰りの客が増えるに従って、ラーメンの湯気と石鹸とニンニクの匂いとが渾然一体となって狭い店内に充満した。
 湯気のなかを隆史ともうひとりのバイトがくるくると働いている。
 その合間を縫って、常連客たちが隆史に話しかける。
 どっと笑い声があがる。
「--なかなか、人気があるじゃないか」
「そうだね」
 玲の声に嬉しさがにじむのを感じて、徹は口をつぐんだ。
 ビールを喉に流し込んで、席を立つ。
「--帰ろうか、混んできたし」
「--ああ」
 玲は隆史に目礼して、店を出た。



 駐車場には風が唸っていた。
 玲はコートの前を合わせながら、ジャガーのドアを開けた。
「レジでガムをもらってきたよ」
 助手席に乗り込んで徹に笑いかける。返事が--ない。
 覗き込もうと身を乗り出した玲の肩が、突然--
 抱きすくめられた。
 反射的に逃れようとした身体が、さらに捕らえられて両腕で羽交い締めにされる。背中がシートに押しつけられ、徹の体重が上からかぶさってきた。熱い唇が重ねられる。
「--とお・・・」
 やっと唇をもぎ離したとたん、またいっそう強く唇を吸われる。強引に舌が入って濡れた内部に吸いつくように舐める。玲の頭を支える手が髪をぐしゃぐしゃにかき乱す。もう一本の手がコートのなかに入る・・・
「--やめろ、こんなところで--」
「--玲」
 視線が絡む。
「--好きなんだ」
 熱い息がかかる。--玲は睫毛を伏せた。
「頼む・・・嫌だ、ここでは--」
 徹はじっと玲を見つめる。うつむいた顔。--細い首。
 わずかに震えている桜色の唇・・・
 徹の身体のなかから、静かに潮が引いていった。
「--ごめん」
 軽く唇に接吻すると、徹は玲から身体を離した。エンジンをかけ、車を発進させる。
 やがてふたりを乗せた車は、テールランプの波に合流していった。



 --玲さん・・・
 駐車場に出る「天龍」の通用口に隆史は立ちつくしていた。
 足もとには土産用に包んだ餃子の箱が散乱している。
 喉に焼けた石をぐいと詰め込まれたように、声が出なかった。
 ごうごうと音をたてて風が空を舞う。





 隆史は重い身体をひきずりながら、帰途についた。
 先ほど見た情景が頭に焼きついて離れない。
 容赦なく吹きつける風が全身の体温を奪っていくように思えた。
 --寒い。
 何て寒い夜なんだ・・・
 彼は先月六甲であった出来事を、あの後も幾度となく思い返していた。特に、別れ際にあの青年が言いかけたことが気になった。そして何度も繰り返し考えるうちに、彼はひとつの結論にたどり着いていた。
 あの人は僕に--
(湖で見たことは、黙っておいて)
 おそらく、そう言いたかったのに違いない。
 それはあの車の同乗者たちにも秘密だったのだ。
 同乗者--そのひとりは、今思えば、徹さんだった。
 玲さんは、徹さんにも秘密で--泣いていたのだ。
 --そう思うと、隆史はたまらなかった。
 なぜなんだ。--あんな綺麗な人が。
 僕よりずっと大人で、あんなに綺麗で、金持ちで、社会的地位もあって、--ゲイだけど結婚するくらい信頼しあったパートナーもいて--
 そんな人がなぜあんな所で、たったひとりで、声を殺して泣いていなくちゃならないんだ--
 そう思うたびに、隆史の胸はかきむしられるように痛んだ。
 思い出が記憶の底からゆっくりと浮かび上がる。



 --お母さん。
 隆史の母親は彼が小学校6年の時に他界した。
 半年もたたないうちに父は再婚し、その相手の女がどうやら母の存命中からのつきあいであったらしいことを、彼は親戚の大人たちから知らされる前に嗅ぎとっていた。
 ぼんやりとした記憶がある。
 寒い日。火の気のない、凍えるような風呂場でひとりで泣いていた母の背中。声も出さず、ただ肩だけが小刻みに震えていた。
 それだけだった。
 母が何を泣いていたのかはわからない。
 しかし、隆史は父を憎んだ。
 たとえどんな理由があっても、自分の選んだ女に、ひとりで声を殺して泣かせるようなことをするのは男のクズだ。どんなに金があって、どんなに仕事ができたって、そんなこと関係ない。
 僕は親父のような男にはならない。僕は親父とその奥さんの世話にはならない。僕は一刻も早く親父から独立して、自分で自分の家庭を築くんだ、と決めていた。
 それが--
 どうやら自分が世間で言うところの「ゲイ」であるらしい、と気づいて隆史は愕然とした。しかも初恋の相手は全くその気のない同級生だ。活発で色の白い少年だった。彼は本心を隠して相手と4年間「親友」づきあいをし、今年の正月ついに耐えきれず告白して、玉砕した。
 六甲ハイクはつまり、彼のハートブレイク・トレイルだったのだ。
 そして隆史は、玲と出会った。迷うはずのない簡単な登山道で。
 隆史にはそれが、運命のように思えた。
 あの時僕は樹木を分け入って、あの人の待つ古い夢のような湖畔へと引き寄せられていったのだ。玲さん・・・



 瞼を閉じると玲のさまざまな表情が波のように寄せてくる。
 山のなかの湖でひっそりと泣いていた玲。
 隆史たちの質問に自信たっぷりに答える玲。
 隆史の食べっぷりを楽しそうに見て、いたずらっぽく笑う玲。
 子どものように眼を輝かせてウインドウ・ショッピングする玲。
 少しの冗談で耳まで赤くなってうつむく玲。
 そして徹の腕に抱かれて--キスを--
 キスを受ける--玲・・・
 そのどれもがまぶしすぎる残像となって隆史を襲った。
 胸が張り裂けそうだった。



 --玲さん・・・ 
 隆史は17だ。17才の高校生でしかない自分が、彼には口惜しかった。口では反発していながら、父に養ってもらっている自分が、情けなかった。ゲイでありながらひた隠しにしてサークルで意見をぶっている自分が、嫌だった。--自分には何ひとつ、胸を張れるところがない。
 --しかし、これが僕なんだ。これが今の僕だ。
 僕はここから始めるしかない--一歩ずつ。
 僕にできる、ありったけのことを。
 --玲さん・・・
 暗い街灯の下に、自宅の門が見えてきた。
 彼は大きく息を吸い込んで、その表札をにらみつけた。



 二月中旬、玲はモップから電話を受けた。
「おい、この前おまえにレポートを届けた原沢ってやつ、知らないか」
「--彼がどうかしたんですか?」
「家を出たきり、ここ一週間ほど行方不明だ。学校にもバイト先にも顔を見せてない。見かけたら教えてくれ」





 この季節には珍しく、小雨の降り続いた一日だった。
 玲が自宅に着いた時、もう時計は夜の11時をまわっていた。
 ジャガーのドアを開けようとした玲を、ふと、徹がとめる。
「--ちょっと待って」
 徹はエンジンをかけたまますばやく運転席から降りると、用心深く庭の植え込みの方に向かった。濡れた芝が音をたてる。
 2、3分して戻ってくる。
「玲、--ちょっと」
 手招きした。
「大きな猫がいる」
 玲が急いで庭に走る。
 餃子の箱を抱いた隆史が、くちなしの植え込みにもたれてすやすやと眠っていた。



「--何月だと思ってるんだ、まったく」
 とりあえず風呂に入れられてあたたまり、徹のパジャマとガウンを着せられた隆史は玲の説教を聞くはめになった。
「原沢君、聞いてるのか」
「--まあまあ」
 徹が割って入る。
「せっかくお土産を持ってきてもらったんだから、いただこうよ、玲」
「ああ・・・じゃ、ビールも飲もうか」
 3人はソファに思い思いの姿勢でもたれ、ビールと餃子で乾杯した。
「原沢君、餃子を持ってきてくれたところをみると、今日はバイトに行ったのか?」
「行きましたよ」
 けろりとしている。
「--ふうん・・・渡辺先生が心配してたよ」
 隆史はそれには答えなかった。
「店を変えたんです。天龍は天龍だけどほかの店」
「どこ?」
「へへ・・・」
 言わないつもりか。
「--夜なんか、どうしてるんだ」
「アパート借りたんです」
「ええ?」
 隆史はにこっと笑った。
「貯金が役に立っちゃった」
「未成年だろう--よく借りられたね」
「大学生って言や、大丈夫ですよ。学校名までは訊かれないし」
 訊かれても適当に言っておけばいいしね、と隆史は白い歯を見せた。
「--学校は?」
「行きたいんですけどね。--親父の手の者がまわってるでしょ」
「手の者?」
「--県の教育委員会なんですよ、うちの親父」
「--」
「ちょっとやりあったからって、すぐ学校の教師に圧力かけて」
「けんかしたの、親父さんと」
「けんかじゃないです」
「--」
「僕、独立したいんです、親父から」
「--今いくつ?」
「17。--昔なら、とっくに元服済んでますよ」
「しかし、高校を卒業してからならまだしも・・・在学中に独立するっていうのは君自身にとってもデメリットが大きいんじゃないのか?バイトはしなければならない、学校には行けない--」
「大丈夫ですよ、藤坂さん」
 隆史はクッションをぽんぽんたたいた。
「高卒の資格くらい、後から取れますって。バイトだって、全然苦にならない。楽しいですよ、毎日。--家にいるより、ずっと」
「家庭が--不満なのか?」
 玲は注意深く言った。
「家庭ってのは、玲さん--自分でつくっていくものでしょ。僕はそう思う。--だから、今の僕は、夢100パーセント、って感じかな」
「・・・」
 玲は嘆息した。
「心配いりませんって」
 隆史はくるりとまわってソファの上で伸びをした。



 隆史を客用の寝室に案内してから、玲は徹の待つ寝室のドアを開けた。
 ベッドサイドに腰を下ろして、また溜息をつく。
「--何なんだろうね・・・あいつは」
 先に寝床に入っている徹が振り向く。
「まあ、気の済むようにやらせてみるしかないんじゃないの」
「楽観的だね、君は」
「君が心配したって、しょうがないだろう」
 玲が徹を見る。
「--違うか?」
「いや・・・そうだけど」
 玲が目を伏せる。ガウンと室内着を脱いで椅子に掛ける。そのまま、するすると布団のなかに滑り込んだ。
「--玲・・・」
 徹が腕を伸ばして室内灯を消す。
 暗闇のなかをふたつの身体が重なり、くぐもった喘ぎ声が聞こえた。
 なめらかな肌の奥には、まだ雨の匂いが残っていた。





「玲さん!こっちです」
 先をゆく隆史の声が明るい。阪神沿線の駅からさらに海に向かって20分、古ぼけた商店街の路地を入った角に、隆史のアパートはあった。
 木造2階建て。1階の玄関で靴を脱いで手に持ち、階段をギシギシ鳴らして上がる。ドアを開けると6畳ひと間にちいさな台所が見えた。
「--いいところだね、明るいし」
 湯飲みを持ちながら、玲が周囲を見まわす。
 炬燵と座布団、少々の食器のほかは見事なほど何もなかった。
「僕の城です。玲さんが、最初のお客さん」
 隆史が笑う。
 --一昨日玲の家に現れた隆史は、翌朝帰りぎわに、ちいさな紙片を玲の手に握らせた。アパートの地図だ。そこには角張った字で最寄りの駅名と、待ち合わせの日時が書き込まれていた。
 思わず玲は彼を見た。隆史の瞳がじっと見返す。
 --親や教師に、知らせたければ、どうぞ。
 瞳は、そう言っていた。
 待ち合わせの日は、よく晴れていた。玲は適当な口実を設けて家を出た。--徹に言ったところで「また心配性だね」と皮肉られるだけだ。
 それでなくとも徹は隆史に冷たい。同じ高校の後輩なのだから、もう少し親身になってやってもよさそうなものなのに--
「玲さん」
 気がつくと、隆史の大きな瞳が玲を覗き込んでいる。
 玲はまごついて、すこし赤くなった。
「昼飯、食べてってくださいね。いつも天龍の餃子ばっかりじゃ悪いや」
「--君がつくってくれるの?」
「もちろん」
「・・・へえ」
「--とはいってもね、ラーメンですけど」
 玲は吹き出した。
「--そこまで笑うかなあ・・・まあいいけど」
 隆史は手際よくどんぶりを卓上に置いた。笑いながらひと口味わった玲の顔が変わる。
「・・・おいしいね」
「でしょう?」
 隆史がにんまりと笑う。
「つくるの、けっこう好きなんですよ・・・玲さん、僕ね、--テレビでカレーのコマーシャル見るのが大好きで」
「カレー?」
「うん。--ほら、庭に長いテーブルかなんか置いて、小学生くらいのガキどもをわーっと集めて、でっかい鍋からカレーをわーっとついで、おまえら、食べろーって、ガンガン喰わせて、親はそれ見てるの」
「--」
「あの頃のガキどもなんて大体生意気で、ませこけてるでしょ?--でもそんなやつらがさ、うまいうまいって、もう夢中で、一心不乱で、がっついてるの。顔に飯つぶいっぱいつけてさ--」
 小学生の頃の隆史はいつも母とふたりだけの淋しい食事だった。
「--だから、僕--」
「--何?」
「--今はまだ調理場なんてやらせてもらえないけど、ゆくゆくは、自分の店で、自分のつくったものを客に出して、それを客が食べる瞬間をじーっと見るんですよ」
「--」
「食べた瞬間に、ほう、って、客の顔が変われば、僕の勝ち。表情が変わらなければ、僕の負け。--ね?・・・そうやって僕は、全勝をねらう。いつか僕のつくった料理で、客の顔全部、変えてやるんだ」
「--少なくとも今日、君は僕の顔を変えたよ」
 玲は笑った。
「--それで、飲食業をやりたいわけだ」
「そう・・・その前はね、--サッカーのコーチでした」
「--ほう」
「要するに、ガキが好きなんです。自分の子どもを1ダースくらいつくってサッカーチームを結成して、親父の僕が毎日しごくんです。オラオラオラって」
「--それで、練習の後は--」
「そりゃ、長いテーブル出して--」
「またカレーか」
 隆史は眉をそびやかした。



 流しで手早く器を洗いかけた隆史を、玲が手伝った。
「--いいですよ、お客さんなのに」
「ふたりの方が早い。--ついでにそのグラスも洗おう」
「--でも」
 コップ洗い用のスポンジがまだないから--という隆史に割り箸を持ってこさせ、それを柄のかわりにして、玲は器用にグラスを洗った。
「へえ・・・意外だな--玲さんが」
「僕も家事はやるからね」
「--ふうん」
「慣れたらこの方が洗いやすいくらいだ--やってごらん、そっちの」
 隆史はもうひとつのグラスにスポンジを入れ、割り箸を突っ込んでこねくりまわした--が、うまくいかない。
「ああ、違う、違う--上からつつくんじゃなくて--」
 玲の手がさっと伸びて、隆史の手首に触れた。
 --背骨に電流が、走った。
 思わず取り落としたグラスが流しの縁にぶつかり、タイルの床に落ちて粉々に砕ける。泡だらけの液が飛び散った。
「--あ・・・」
 からからと破片がまわる。
 隆史は呆然とたたずんだ。・・・まだ、指が震えている。
「--ほうきと紙袋、それとビニール袋、ある?」
 玲はすぐにかがんで、てきぱきと後かたづけにかかった。
「--悪かったね、僕が急に・・・」
 隆史の返事がない。
 目の前のジーンズの細い脚はつったったままだった。
「--」
 玲はその脚をつたって、視線を上げた。
 隆史が玲をにらみつけている。その頬から細い血の糸が垂れていた。
「原沢君、頬に--」
 思わず立ち上がろうと中腰になった玲の肩を--
 凄い力で隆史が掴んだ。
 そのまま覆いかぶさるように畳の上に倒れ込む。鈍い音がして玲の身体が畳に転がった。
「何を--」
 逃れようとする玲の肩を掴んで引き戻し、仰向けにさせて組み敷く。両手首を押さえて体重をかけ、性急に上から唇を--重ねた。
 ・・・やわらかい。
 --この人の唇は、こんなにやわらかかったのか・・・
 隆史は夢中で唇を吸った。
 頭の芯にちいさな空洞が生まれ、急速に膨れて身体中をからっぽにしていく。からっぽになった隆史の全身に、やわらかい玲の感触がたっぷりと満ちあふれるまで注がれていく。
 透明な冬の陽。古い畳の匂い。どこからか聞こえる物売りの声。身体の下のしなやかな肉体。熱い鼓動。震えている手首。玲さん・・・
「--原沢君」
 突然、唇をもぎ離した玲が言う。
「--やめてくれ。僕は女じゃない。背だって君より高い。いくら細く見えたって、無理矢理に--なんてできないよ」
「--」
「君はゲイの人間はみんなセックス好きで、男なら誰彼かまわず寝るんだろう、って思ってるのかもしれないが、それは--」
「そんなこと、思ってません」
「じゃ、・・・」
「玲さんが好きなんです」
「--」
「僕は--玲さんが好きなんです--それだけなんだ」
 玲はまじまじと目の前の少年を見上げた。
 --吸い込まれるような大きな瞳。的をまっすぐに射る熱い視線。
 おそれを知らない若い獣の姿が、そこにあった。





「原沢君・・・悪いけど」
 玲は言葉を選びながら言った。
「僕にはもうパートナーがいる」
「--それが何なんですか」
「何、って--」
 玲は苦笑した。
「徹さんとは、つきあってから、まだ1年もたってないんでしょう?」
「--」
「僕よりほんの少し前からっていうだけじゃないですか」
「--つきあったのはそうだけど、気持ちとしてはその前からずっと・・・あったんだ」
「・・・高校生の時も?」
「そうだよ」
「高校生の時、徹さんは女の子とつきあってたんでしょ?あなたが美術室にいるのも知らないで、屋上で・・・」
「原沢君」
「・・・ひどいや」
「やめないか」
「ひどい」
「--いいんだ、それは--原沢君」 
「--」
「僕は徹が好きなんだ、だから、・・・君の気持ちは嬉しいけど--」
「じゃ、待ちます」
「--え?」
 隆史は玲から身体を離して、かたわらに正座した。
 玲は半身を起こして隆史を見つめる。
「今すぐが駄目なら、--僕は待ちます」
「--原沢君」
「--僕は今はアルバイトだけど--来月からは、今の店の正社員になる。ちゃんと自分の稼いだ給料でここの家賃を払って、親に頼らないで自活する。自分で勉強して、高卒の資格も取る。夜間の調理師学校に入って、調理師の免許も取る。金を貯めて、いずれ--絶対に、自分の店を持つ。--約束します」
「--」
「--あんな、大理石のフロアのある立派なビルに勤めてるあなたから見たら、道ばたの石ころみたいな店かもしれないし、--あんなお屋敷に住んで、ジャガーに乗っているあなたから見たら、このアパートなんてゴミみたいに見えると思います--だけど」
「原沢君--」
「だけど、これが僕の全部なんだ。僕の全部を、あなたに見てほしい。僕を好きになってほしい。僕と一緒に暮らしてほしい。--今すぐが駄目なら、僕はいつまでだって待つ。あなたの気の済むまで、いつまでだって僕は待つ。10年だって、20年だって僕は待てる。僕の気持ちは変わらない。僕は好きなんだ、玲さんが。僕は--」
「--原沢君」
 玲は慎重に言った。
「君が家を出て、このアパートを借りたのは、--そのせいか?僕を--」
「・・・違います」
「--」
「親父から独立するのは、前から考えていたことで・・・玲さんのこととはまた別なんです。親父--親父には昔、女がいて--」
「--」
「僕の母はこっそり泣いてたりしたんです。--母が亡くなってすぐ、その女は後釜に座りました」
「原沢君、でも--」
「・・・わかってます。--夫婦の間のことだ。子どもの僕にはわからない事情だってあったのかもしれない。--そんなこと、僕だってわかる--でも」
「--」
「でもいくらそう思っても、現実に見た母の姿を--泣いている母の姿を忘れることはできないんです。僕が父を憎まなければ、誰が母の無念をわかってやれるのかと思うと・・・僕は何もなかったふりをして、父を許したふりをして--仮面をかぶってひとつ屋根の下で生活していくことが、どうしてもできなかった」
「--」
「あなたに会う前の僕はぼろぼろでした・・・でも、--玲さん」
「--」
「--あなたに会って、僕にもやっと、希望が持てた。自分のやりたいこと、やるべきことがはっきりと見えてきた。親父から独立して、一から自分の力で人生を生きていく決心がついた」
 隆史は笑った。
「--自信もある。あなたと暮らすことを思ったら、僕は何でもできる」
「--」
「何も怖くない」
「--」
「--あなたには、僕は若すぎて頼りなく見えるかもしれないけど--大丈夫です、僕は大急ぎで大人になる--なってみせる。--今は17と25だけど、10年たてば、27と35だ--20年たったら37と45だ。そうなったら、年の差なんてもう関係ない」
「・・・原沢君」
 玲は重いかたまりを飲みくだすように、言った。
「僕を待っても無駄だ--僕には、徹しか考えられない」
 隆史は玲に鋭い視線をあてた。
「僕たちは、お互いを--かけがえのないパートナーだと、思っている」
「--」
「だから--」
「--嘘だ」
「--え」
「かけがえのないパートナーなら、どうしてあなたはあそこで泣いていたんだ」
 玲の顔色が変わった。
「あなたは泣いていた」
「・・・原沢君」
「--徹さんに秘密で」
「--」
「--徹さんに隠れて泣いていた」
「--」
「・・・僕ならそんなことはしない」
「--」
「僕なら、絶対にあなたを悲しませるようなことはしない」
 隆史は玲の両手を握った。
「これは運命だ--玲さん」
「--」
「初めてあそこであなたと会った時--あなたはまるで、人間じゃないみたいに綺麗だった。--僕は夢を見ているのかと思った。--それが、帰りも偶然あなたに会って--現実の人間だってわかった。・・そして3度目の正直で、あなたは僕の学校に現れた。・・・僕は、奇跡だと思った。僕たちが出会ったのは、運命だったんだ」
「--原沢君」
「--」
 握られた手にぎゅっと力が入る。
 汗ばんだ指。
「・・・玲さん」
 かすれた声。
「--玲さん」
 玲・・・徹の涼しい声が玲の耳の奥で響いた。
 玲は瞼を閉じた。
「玲さん」
 そして穏やかに目を開けた。
 きらきらと輝く若い瞳が目の前にある。
 玲はその光を見つめながら、はっきりと言った。
「--僕には徹しか、いない」





 どうやってその場を離れたのか、覚えていない。
 すべての表情を失ってしまったかのような隆史を置いて、玲は家に帰った。
 良かったのか、あんなことを言って。--あんな言い方をして。
 わからない。--あの瞳の前で生半可に答えを濁すことは、とてもできなかった。
 --大丈夫だ、若いんだから。きっとすぐに立ち直るに違いない--
 インフルエンザみたいなものだ。すぐに忘れる・・・
 それが虫のいいただの願望であることなど、百も承知だ。
 しかし、今の自分には何もできない。自分の立場では・・・
 --「立場」。・・・そう考えている自分に気づいて、玲はぞっとした。



 玲の携帯電話が鳴ったのは、その夜だった。
 徹はシャワーを浴びている。
 玲は少し緊張して、自室に移った。
「--はい」
「玲さんですか?隆史でえす--今日は、どうもお・・・」
 --酔ってるのか?
「昼間のことですけどお--気にしてたらちょっと悪いなーっていうか--」
「--」
「あれって冗談っすからあ・・・もののはずみ、ってやつ?」
「--」
「玲さん、聞いてるう?」
「--ああ、・・・聞いてるよ」
「僕、前からちょっと興味あったりなんかして--そっちのほうに」
「--」
「だから本気にされたら、違うんでえす・・・わあった?」
「--わかったよ」
「・・・んと?」
「--ああ」
 電話の向こうでけたたましい笑い声がした。
「よかったあ--やっぱり玲さんだ、わかってくれると思ってたあ・・・今日はいいぞう、いいことばっかしあるしさー」
「・・・何かあったの?」
「へへえ」
 玲は微笑した。
「--何があったの?」
「実はねえ・・・ずっといられることになったんでえす」
「--どこに?」
「アパート」
「・・・ええ?」
「すっごいでしょー?」
「--どうして?」
「今日、家に、ちっと帰ったんでえす」
「--」
「そしたら、じゃーん、鉢合わせ、親父さまと!ほっほー」
「・・・話したのか?」
「話しましたあ」
 玲はほっとした。
「よかったね」
「よくないですう、--あのくそ親父」
「何で」
「もう帰ってくるなって、言いましたあ」
「--え」
「コンリンザイ帰ってくるなって--もうおまえなんか死んだと思うって」
「--」
「けがわらしいって--言いやがった・・・」
 声音が変わった。
「--原沢君」
「・・・ゲイの息子なんか俺の息子じゃないって--」
「--」
「--言うかよふつう--そこ--まで」
 声がぶるぶる震える。
「おまえなんか、あの女が--勝手に産んだ子に違いない、って・・・俺の子ならもっとまともなはずだって」
「--はらさわ--」
「ちっくしょおーーっ!まともってなんだあっ!おまえはまともなのかああああっ!」
「--隆史!」
「ああああああっーーーー・・・・・」
「--隆史!おい、隆史、聞こえるか?・・・今、どこだ?どこにいる?」
「--ああーーああああ・・・・」
 隆史が泣き崩れる。
 玲は無理矢理その居場所を聞き出すと、徹に書置きを残し、急いで家を出てタクシーを拾った。



 住宅街のなかの公園に、隆史はぽつんと立っていた。
 街灯の灯がゆらゆらと揺れている。
 タクシーから出て近づく玲を見ても、その表情は変わらなかった。
「--隆史」
「--」
 頬がげっそりこけている。玲の眉が曇った。
「--隆史」
「・・・何しにきたんだ」
「--え?」
 暗い目だった。
「・・・あんたに関係ないだろう」
「--」
「--僕がゲイだって」
 嗤う。
「ゲイじゃなくったって--何の関係もないくせに」
「・・・隆史」
 玲は落ち着いた声で言った。
「帰ろう」
「--帰る?」
「タクシーを待たせてる。・・・今日は僕のところに来るといい」
 一瞬、隆史の瞳がギラッと光った。
 パーンというかん高い音。
 --玲が頬を押さえて2、3歩よろける。
「バッカ野郎!--僕が・・・」
 玲が振り向いて隆史を凝視する。
「僕がそんなところへ行けると思うのか!あんたが徹と--」
 涙があふれる。
「徹と一緒にいる家なんかに・・・」
 ぼろぼろと頬を伝う。
「--隆史」
 隆史はくるりと後ろを向いた。--そのまますたすたと歩き出す。
「--隆史!」
 玲が走り寄る。隆史は駆け出した。
「隆史!・・・隆史!」
 闇のなかを、みるみるうちに白い背中が遠ざかっていく。
 まだ幼さを残した少年の細い背中。
 硬い足音が鋪道に響いては消えていく。
 玲は隆史を見失った。



 その夜から隆史の行方は知れなかった。






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