流氷 内藤更紗
氷原

第2部 氷原



「玲、ほら--いい眺めだよ」
 徹が振り返る。玲は微笑んでサン・ルームに出た。
 重なったふたつの山の間に市街が広がり、そのはるか向こうに海が銀色に光っているのが見える。
 このところ少し元気のない玲の気を引き立てようと、徹は連休を利用してこの山荘にやってきたのだった。
 山荘とはいっても簡素なものだ。寝室とシャワー、ミニ・キッチンのついたリビングがひとつずつ。しかしテラスに続いたガラス張りのサン・ルームからの眺めは素晴らしく、このフローリングに酒と布団を持ち込んで寝転ぶのは最高の贅沢だった。
「--おいでよ」
 テラスの向こうは急な斜面で、樹木が生い茂っている。近在の者さえめったに足を運ばない難所とあって、まず覗かれる心配はない。
 徹は玲の服を脱がせ、素裸にしてから自分の服を脱ぐ。
 マットの上に布団を敷いてごろんと横になり、海を眺めながらワインの栓を抜いた。
 玲の白い喉ぼとけが動く。頬がゆっくりと紅に染まっていく。
 徹は静かに顔を寄せて玲に接吻し、その肩をそっと抱いた。
 --玲。
 最近また痩せたと思うのは、僕の気のせいだろうか・・・



 玲はどこから見ても本当に繊細で美しい顔をしている。それで、僕たちが並ぶと、人はよく玲をベッドで「抱かれる方」だと勘違いしてしまうのだが、彼はどちらかというと抱く方が好きなタイプだ。僕だってそれが決して嫌じゃない。それなのに、僕たちの間で圧倒的に僕が玲を抱くことが多いのは、--玲には言っていないが--僕が、彼の体力の消耗を考えて、わざとそうしているからだった。
 僕は精力が強すぎるのかもしれないけれど、毎晩セックスをしないではいられない。--そして大抵の場合、1回では済まない。何回も玲を抱き、--時には抱かれ、眠り、目覚める頃にまた求めてしまう。
 ただでさえ丈夫ではない玲のことだ。彼と僕とでは、心肺機能に2倍以上の差がある。玲がすぐ息を切らしたり、気を失う寸前までいってしまうのはそのせいだ。それなのに、玲は絶対に僕を拒まない。
 慣れない仕事に就いて3カ月--内部紛争のごたごたを承知で両親の会社に入り、おまけに弟との同性愛関係を公表した彼にとって、周囲のプレッシャーはすさまじいものがあるだろう。しかも完璧主義で愚痴をこぼさないタイプとくれば--いくら僕が昼間彼をガードしていても、仕事を終えて自宅に帰れば、それだけでもうくたくたのはずなのだ。
 --それなのに、玲は絶対に僕を拒まない。
 負けず嫌いで、絶対に、もう嫌だとは言わない。僕が求めるたびに--もうとても無理だろうと思う時でさえ、体力の限界まで僕に挑んでくる。
 --それが、身体に響かないはずがないのだ。
 医師だって彼を「ガラス細工ですね」と言ったではないか--
 僕は時々、玲が怖くなる。普段は神経質なほど健康管理に気を配り、慎重に生活スタイルを守っている彼が、セックスの時だけなぜこれほどまで激しく、放縦に、自分の限度を忘れて狂わなければならないのか。
 まるで生き急いでいるかのように・・・
 生き急ぐ--
 --玲の寿命は、どのくらいなのだろう。
 僕は面と向かって訊いたことはない。生まれてすぐ、10才まで生きられないと言われた彼が数え切れないほどの治療に耐えて勝ち取った今の肉体。--今でも薬は毎日飲んでいるし、確かに普通の人間よりも、かなり弱いと思う。どこがどれくらいいけないのか、僕ははっきりとは知らない。それはもう、根本的なところで--建物でいえば土台そのものが駄目なんだ、と玲が僕に話したことがある。
 その時の玲の悲しそうな微笑みを思い出すたびに、僕はたまらない気持ちになる。
 玲を深く知れば知るほど、彼の心のなかに冷たく凍った氷のかたまりに触れてしまう。それは青く透明な水の底にいつも静かに眠っていて、溶けることがない。僕はその氷のことを考えると、いつも悲しい気分になる。
 --玲。
 僕は君を失いたくない。
 僕はいつも君を見るたびに、もうどうしようもないほど君が欲しくなってセックスをせずにはいられない。でもそのたびに、これが、君の身体を壊している、君の寿命を縮めていると思うと--
 そして君自身がそれほどまでセックスを求めていると思うと・・・



「--徹・・・」
 冬の陽射しを浴びて玲のうぶ毛が金色に光っている。
 白い裸身がぴったりと徹に吸いつく。褐色の腕が白い背中でクロスする。そのまま、身体が折れるほど強く抱きしめる。
 弓なりにしなった玲の背中から片方の手を後頭部に移し、頭を支えて唇を吸う。舌にたっぷりと唾を含ませ、やわらかい唇を割って中に入れる。唇の裏側と歯茎をじらすように舐めてから、玲の舌を味わう。
 あたたかく湿っている玲の舌。その裏側のざらざらした窪みを舐めるのが徹は好きだ。濡れた窪みが甘い蜜のように彼を誘う。玲はいつもくすぐったがり、身体が少し痙攣する。--徹がかっと熱くなる。
 徹は玲をうつ伏せにして上に乗り、ピアスをつけた耳を噛む。耳の後ろのやわらかい皮膚--うなじまでの生え際を唇がたどる。薄い筋肉がついた白い背中。背骨に沿って頭がゆっくりと下降する。
 両手で玲の腰を支え、膝をつかせて尻をぐいと持ち上げる。白いふたつの山の谷間にかたく閉ざされた桜色の扉--熱い息を吹きかけてから、舌にできるだけ多くの唾を溜めて、そっと舐める。
 玲の身体がぴくっと震える。
 なめらかな尻の肉を左右に拡げて、中指がゆっくりと差し込まれる。ぴったりと吸いつく粘膜を押すようにかきわけ、奧へ、奧へと潜入する。
「・・・うう」
 玲が枕に顔をうずめる。首すじが真っ赤だ。息が荒い。徹はさらに指を増やす。指先であたたかい肉壁をえぐり、勢いをつけて幾度もこする。
「--あ・・・」
 膨れ上がった玲のペニスが、指に応えて激しく悶える。肉桂色の割れめからねっとりとした蜜がにじむ。徹は空いた手でペニスを握り、力をこめてしごきはじめた。玲の腹がひくひく震え、やがて大きく波うってくる。
「--徹」
 玲の手が徹をとめる。顔をねじって、徹を見る。
 少し微笑んで身体の向きを変え、仰向けになって両手を伸ばす。
 玲の手が徹を握る。
 指でそっと揉みしだきながら、中身の固さを確かめる。赤黒いペニスの先がたちまちぬめりを帯びて輝いてくる。徹が苦しそうに眉を寄せる。
「--徹」
 玲は身体をまるめて徹の下に潜り込み、そのペニスを--
 くわえた。
 ひといきに喉の奧まで入れて熱い息をかけ、すぼめた唇をくまなく這わせ、ソフトクリームを舐めるように舌の先でころがした。割れめが甘い。
「--ああ・・・」
 身体中を快感がのたうった。--今にも爆発しそうだ。ペニスが猛り狂っている。徹は乱暴に玲の肩を持って、身体から引き離した。そのまま布団に転がして、四つん這いにさせる。腰を両手で持ち上げ、尻にもういちど指を入れた。扉を少し開けてから、ペニスの先をあてがった。
 --沼地に沈み込むようにずぶずぶとなかに入る。
 湿ったなまあたたかい沼の土が、奧に行くほど燃えるように熱い。やわらかな粘膜が砲身を締めつける。すぐ達しそうになるのをかろうじてこらえ、徹はゆっくり潜っていった。
「・・・う・・」
 玲が低くうめく。
 --根もとまで入った。
 汗の浮き出た細い背中。はあはあと喘ぐ苦しい呼吸。目の前の、まっぷたつに裂かれた白い尻--
 --玲。
 徹は少し腰を引くと、一気に--貫通した。玲が叫び声をあげる。ずりあがる玲の腰を引き戻して、いっそう深く、奧まで貫く。いったん抜いては、また掘り下げる。力を込めて、たて続けに掘る、えぐる、掘る--玲の沼土が熱くなる。溶鉱炉のように燃えあがる。火だるまの炉の芯に杭が打たれる。手が枕を握りしめて打ち込まれる激振に耐える。
 徹は玲の腰を持ち、繋がったままぐっと身体を反らせた。
「--あ、ああああ・・・・」
 玲の堤防が決壊する。熱い奔流が彼を襲う。灼熱の炉心がどろどろに溶ける。玲は腰を激しく振って、徹のペニスを味わいはじめた。
 くちゃ、くちゃと肉がこすれる音、しゅる、しゅるとシーツがすれる音、荒い息、喘ぎ声そして・・・
「--ああ--ああああ------・・・・・」
 身体の奥底に徹の熱い液体が浴びせかけられた瞬間、真っ白な精液がシーツにほとばしった。目が眩む。快感が全身を駆けめぐる。身体の震えがとまらない。歯ががちがちと鳴った。
 徹がぴくっと腰を動かす。
「--あああっ・・・・・」
 またペニスがいきり立ち、少しの精液が飛んだ。身体が燃える。
 徹がまた、身じろいだ。
「--ああっ・・・・」
 快感の波が襲いかかる。目に涙がにじんだ。
 徹が腰を捻った。
「--ああ・・・徹・・・・」
 全身が総毛立つ・・・
 痺れるような快楽の頂点が繰り返し繰り返し玲を訪れ、ゆっくりと放物線を描いて落ちていく。下半身が熱い泥のなかに沈み込んだように、感覚がなかった。
 徹はそっと身体を外すと、枕に埋めた玲の顔を覗き込んだ。
「--玲」
 泣き疲れた子どものような顔をしている--
 いとおしさで胸が一杯になって、徹は玲の唇に接吻した。



 銀色に光る波の上に長い陽がためらうように降りていく。
 ぐったりとした玲の肩を持って、徹は彼をそっと仰向けに横たえた。
 火照った顔や胸の上に白い精液が光っている。徹はていねいにそれを舐め、唇で順番に拭き取っていった。
 やわらかく縮んだペニスにも、割れめ沿いに少し精液が溜まっている。慎重に舌で舐め取り、ぱっくりとくわえて、すこし吸った。濡れた茂みが頬にあたる。--玲がほんの少し、身じろいだ。
 徹は玲の膝を立てて、ペニスの裏から睾丸を舐める。皺を伸ばし、皮を引っ張って唇を這わせる。玲の匂いがした。
 --ちらっと玲を見る。・・・眠っているようだ。
 起こさないように静かにうつ伏せにし、脚を開かせる。なめらかな尻を左右に分けて顔を近づけた。
 徹の顔が、とまった。
 白い山の谷間に、ざくろのような暗赤色の洞穴がまだぽっかりと口をあけている。暗い壁の内部はぬらぬらと光り、呼吸のたびに浅く動いた。
 この洞穴の奧の信じられないような熱さを徹は知っている。
 絡みつくように攻めてくる粘膜のやわらかさ、腰をくねらせた時の、えもいわれぬ快感、そして、玲の、あの時の声・・・
(--ああ--ああああ------・・・・・)
 頭がくらくらした。奔流が渦を巻いて下腹部に殺到し、ペニスの先端までなだれ込んでせきとめられる。出口のない欲情が狂って破裂しそうだ。
 --玲・・・
 やりたい--犯したい--犯して、突いて--ぐちゃぐちゃに突きまくって--
 脳の栓がぶっとびそうだ--
 徹はごくっと唾を飲み込んで--震える手で玲の腰を持ち上げようと、身体をかがめた。
 --いけない。
 その声が、すんでのところで頭を叩いた。
 --これ以上は--玲の身体が--僕のせいで--玲の--命が・・・
 おまえはそれに耐えられるか?
 ・・・答えは、わかっていた。



 徹はシャワー・ルームに駆け込んだ。熱い湯をずっと流して頭から浴び、壁にもたれてペニスをつかむ。きき腕で根もとを握ってしごきはじめ、目を閉じて彼を思い浮かべた。
 ざくろのような玲の洞穴・・・なまあたたかい肉の扉に僕のペニスが突き入れられる・・・くちゃ、くちゃ・・・くちゃ、くちゃ・・・勃起したピンク色のペニス。手のなかにあふれる粘っこい液体・・・玲の声・・・玲がよがる・・・腰をくねらせて悶える・・・声がかすれる・・・裏がえって・・・徹--とおる--とお--る----ああ・・・・・
 ああ・・・・玲・・・!
 シャワー・ルームの壁に白い液体が音をたてて飛散する。
 徹は大きな溜息をつくと、ずるずるとタイルの床に腰をおろした。
 頭も、身体も、一度にからっぽになったような気がする・・・
 彼はぼんやりと壁をつたう白い雫を眺めていた。
 その時だった。
 シャワーの激しい水音にかき消されて、かすかに--
 何かがぶつかる物音が聞こえた。
 玲の叫び声--





 徹は濡れたままの姿でシャワー・ルームから飛び出した。
 正面のガラスからの陽射しを逆光にして、布団の上に紺のスタ・ジャンの背中が玲にのしかかっていた。何事かわめきながら激しく揺れている。チェックのシャツの裾がはためき、裸の尻が見えた。その下には玲の--身体がある。
 男は全身をぶつけるようにして玲の上で腰を動かしている。玲が叫ぶ。羽交い締めにされた白い身体。逃げようと暴れるたびに引き戻される。伸ばした手がわしづかみにされ、さらに容赦なく体重がかかる。悲鳴--
「何だ、おまえはー!」
 徹はスタ・ジャンの胴体に突進して一気に後ろに引き剥がした。もんどりうって床に倒れる。がん、と後頭部に痛みが走った。男は素早く徹から逃れると、散らばったジーパンを拾い集める。
「--隆史!」
 玲が叫んだ。--男の手が、とまる。
 隆史は顔を上げて、玲を見た。
 頬がこけ、土気色の顔には目の玉だけがギロギロと光っている。
 追いつめられた獣の--末路のような凄惨な姿だった。
「--たか・・・」
 玲が言葉を失って立ちすくんだ時--
 徹の拳が隆史のあごに炸裂した。
 隆史は吹っ飛んだ。がらがらとダイニングの椅子が倒れる。
 徹は倒れた隆史の襟首をつかみ、弾みをつけて壁にぶつけた。
 どしん、という鈍い音と家全体の衝撃。隆史はずるずると壁を崩れ落ちた。徹が馬乗りになる。真上から顔面をめちゃめちゃに殴りはじめた。皮膚が紫色に膨れあがった。鼻血が飛ぶ。
「--徹!やめろ!」
 玲が背後で叫んだ。
 --その声で隆史が薄目を開ける。--わずかに笑った。
 徹の全身の血が逆流した。
 --この・・・泥棒猫!--玲を--
 玲を、無理矢理・・・!
 徹は両手で隆史の襟首をつかんで引き寄せ、壁に思いきり叩きつけた。
「徹!」
 なおも手を緩めず何度もがんがん打ちつける。衝撃が腕に思いきり響く。痛い。--痛い。どれだけ痛めつけてもまだ怒りがおさまらない。--口惜しい--口惜しい--僕の玲を--僕の--
「徹!殺すつもりか!」
 横合いから玲が手首をつかむ。冷たい手--
 徹はのろのろと玲を振り返った。
 --充血した目。乱れた髪。--怒ったように噛みしめた唇が震えている。
「もう・・・いいだろう・・・死んでしまう」
 徹はようやく隆史から手を離した。
 隆史は床を這いずって徹から身を遠ざけ、--静かに立ち上がった。
「隆史、--座ってろ、まだ--」
 玲の声を背に、ジーパンにぎこちなく脚を入れる。
 無言のままうなだれて部屋を横切り、入ってきたと同じテラスの扉から出ていった。
「隆史!」
 一度も玲を見ずに。



 --フローリングが水びたしだ。
 この布団もシーツも今日はもう使えないな--
 玲は徹をもう一度シャワー・ルームに追いやり、布団を丸めた。
 --一瞬、手が、とまる。
 布団とマットレスの間に--
 拾い上げた玲の顔がみるみるうちに青ざめる。
 隆史の忘れ物だ。隆史は--



「おおい、--玲、シャワー空いたよ」
 徹の涼しい声がした。





 玲が寝室の扉を開けた時、徹は白木のベッドに毛布だけを敷いて横になっていた。湯あがりの匂いがする。
「・・・掛ける毛布も出そうか。それじゃ眠れないだろう」
「--玲」
 徹が振り向く。
「こっちへ--こいよ」
 玲はベッドに腰をかけた。
「--怪我は・・・なかった?」
 目が微笑んで返事をする。徹は顔を伏せた。
「--テラスのドアが--開いてたのに気がつかなかった」
「僕が油断したんだ」
「--」
「いい気持ちで眠ってて--それに」
 玲は少し、赤くなった。
「--最初、君だと思って・・・」
「僕はそんなことしない!」
 徹は思わず半身を起こした。
「僕は、--意識のない君を、そんな--」
 --我慢したんだ。我慢したんだ--それなのに、あいつは--
 あいつは--覗いてたんだ、山の斜面から山荘を。
 ガラス張りのサンルームで、玲と僕との一部始終を--
 それで獣のように欲情して玲に襲いかかった。僕の--
 僕の玲に!
 徹は手を伸ばして玲を引き寄せ、力を込めて抱きしめた。
 しゃにむに肩に顔を埋める。--石鹸の香りがした。
 髪を撫でるやさしい感触が、静かな夜の夢のようだ。
「--徹」
 耳もとで鳴る玲の声・・・
「徹--そのままで聞いてくれ」
「--」
「明日、出勤してから、当分の間--プライベートな時間は自由にさせてほしい」
「--え?」
 徹は顔を上げた。
「--何か--用事か?・・・車は?」
「いらない」
「いらないって--家に帰る時困るだろう?」
「--」
 玲は少し--詰まった。
「--家には、・・・帰らない」
「・・・ええ?」
 徹は玲の顔をまじまじと見つめた。
「--ホテルかなんか--それとも、葉子のところか?」
 玲はかぶりを振った。
「--玲」
 わけがわからない。
「どういうことなんだ?--玲」
 玲は唇を噛んで、--黙っている。
「--玲!」
 徹は玲の腕をつかんで揺さぶった。
「--徹」
 玲が口を開く。
「・・・行きたいんだ」
「--」
「そばに--行ってやりたい」
「--」
「隆史を支えてやりたいんだ--どうしても」
 徹は耳を--疑った。--これは何だ?
 --悪い冗談か?・・・夢の続きか?
「--徹」
 玲はまっすぐな視線を徹に向けた。
「・・・僕は本気なんだ」



 今、世界中が一瞬のうちに消えてなくなったとしても、僕はこれほど驚かなかっただろう--徹はどこか遠い頭の隅で、そんな自分の声を聞いた。





「・・・玲」
 体勢を立て直そう--徹はそう判断して、ベッドから降りた。
 ベッドサイドの白木の椅子に腰をおろす。
「--落ち着いて話さないか--椅子に座れよ」
「僕はここでいい」
 玲は静かに言った。
「そう・・・じゃ」
 徹は息を整えた--落ち着け・・・
「--隆史のことだけど」
 口にしたくもない名前だ。
「--どうして、君の支えがいるんだ?」
「--」
「彼が--父親とうまくいかなくて家出して・・・バイトで自活しながら調理師か何かをめざしていることは、君から聞いてる。--大変だろうけど、それは彼自身が決めた生き方だし、--そりゃ、社会に出れば辛いことだってあるだろうけど、自分で乗り越えていくことを覚えていかなくちゃどうしようもないんじゃないか?」僕だって--と、徹は思った。
 僕だって宮崎で青果市場の荷を運んで暮らしていた時、たったひとりのアパートに帰ってひとりで寝て--自分が誰かさえわからない不安のなかで、必死で生きていた。--嫌なことだって、そりゃたくさんあったんだ。玲にはそんな経験がない。玲はお坊っちゃん育ちで--だから安易に--
「君が安易に同情したって、あいつのためにならないだろう」
「同情じゃない」
「じゃ、何」
「--」
「君は生活の苦労をしたことがないから、あいつを見て、なんてけなげなんだと思ってしまったんだろうけど、それは優越感の--」
「優越感なんかじゃない。--彼は僕なんかより、ずっと--」
「--」
「ずっと勇気がある」
 徹は笑った。
「--冗談だろ!自活するのが勇気か?玲!それこそ、君の--」
「違う--父親のことだ」
「--父親?」
 徹は玲を見た。玲が目を伏せる。
「・・・僕はずっと考えていた」
「--」
「徹--君は、あの、去年の春の--」
「--」
「朝陽のあたるホテルのこと--覚えてるか」
「--そりゃ--」
 ふたりが結ばれた夜だ。
「--君は僕にぶつかってきてくれた。僕は君を受け入れた。--でも」
「--」
「もし、あの時僕たちの父さんがまだ生きていたら--僕は」
「--」
「僕は君を受け入れただろうか--」
「--玲」
「もし受け入れたとしても、そのあと父さんに--言えただろうか」
「--」
「あなたの息子がゲイで--弟を愛していますなんて--弟と寝ましたなんて言えただろうか--あの人に」
「・・・玲」
 玲は顔を上げて、徹を見た。
「徹、君はどうだ。--君なら、言えたか?父さんに--」
 徹は、詰まった。・・・もし父が生きていたらなんて、これまで考えたことはない。しかし--
 遠い宮崎の地で記憶が戻り、自分が兄の玲を愛していたのだと知った時--もう、あの神戸の家には戻れない、瞬時に彼はそう思った。
 父の--母の--妹の目の前で、玲と顔を合わせることはできなかった。たとえ血の繋がらない兄と弟であっても、なぜなら--
 男同士だったからだ。
「--徹」
 玲は黙りこくった徹から目をそらした。
「僕たちは幸い--といってはひんしゅくだけど--自分たちの親にカミング・アウトしなくて済んだ。でもね・・・隆史は」
「--」
「隆史は父親に打ちあけたんだ。--それで」
「--」
「おまえなんか俺の息子じゃない--金輪際、帰ってくるなって--」
「--」
「金輪際、帰ってくるなって--そう言われたんだ」
「・・・玲」
「--あいつはまだ17だ。・・・僕が17の時、もし何かの時に父さんにゲイだって知られてたら--」
「--」
「僕は・・とても生きてなんかいられなかった。父さんに、おまえなんか俺の息子じゃないって--言われたら--そんなことを言われたら・・・」
 玲は目を閉じた。
「何の--ために--生きて・・・」
 徹の椅子がガタンと音をたてた。
 思わず玲に近づこうとした彼を、玲が目を見開いて、制する。
 うるんだ大きな瞳。
「・・・同情じゃないんだ--徹」
「--」
「--隆史を支えることは・・・僕自身を支えることなんだ」
「--」
「彼はゲイとしてずっと苦しんできた--今だって苦しんでる。僕にはそれがわかってやれる--僕にしかわからない」
 徹は震えた。この一体感は何なんだ--と思った。なぜこんなにも簡単に共鳴してしまえるんだ?・・・彼らが生まれながらのゲイだからか?
 --途中からゲイに転向した自分には、結局、わからないのだろうか?
 --でも、自分にもたったひとつ、わかっていることがある。
 僕はこの世のなかの誰よりも玲を愛している。
 隆史だろうと誰だろうと、絶対に渡すわけにはいかないのだ。
「--玲、・・・君が彼にかける思いはよくわかったよ--それなら」
「--」
「僕だって隆史のことを応援する。君と僕はふたりで、これまで以上に彼を支えてやろうよ。--僕がこれまで彼のことをあんまり親身にならなかったせいで、君にひとりで心配させるはめになったんだ。--ごめん」
 玲は黙っていた。
「だから・・・泊まり込んで支えてやるのが必要なら、僕だって行くよ。--仲間はずれにしないでくれ--これでも君のパートナーだろ?一応」
 徹は笑顔をつくった。
 玲は笑わない。--顔がゆがんだ。
「・・・やめてくれ」
「--え?」
「やめてくれって--言ってるんだ」
「--」
「そんなふうに僕を--束縛するのは」
「--玲」
 徹の顔色が変わった。
「そんなふうにいつも僕を守って--かばって--甘やかすのは・・・僕を女か赤ん坊みたいに扱うのは」
「--」
「・・・君はいつも、僕に気を使ってる。昼も、夜も・・・ベッドのなかでもだ--僕の顔色ばかり見てるじゃないか」
「--玲、それは--」
 玲が徹をにらんだ。
「それは君の身体が--心配だからだ」
「徹・・・君は昔の母さんたちと同じだ。・・・僕が弱いから、心配だからって、ひとりでは何もさせてくれない。いつもべたべたと過保護にして、愛情という鎖でがんじがらめにする--少しでも嫌だという素振りを見せると、こんなに愛されてて何が不満だ、わがままだと言われる。--身体が弱く生まれついた者は、自立する権利もないというのか?」
「--玲!」
 徹の全身がすうっと冷えた。
「--そんなふうに思っていたのか?・・・今まで・・・僕が、君を--」
「--君だけだったんだ、徹--家族のなかで僕に変な気を使わず、病人だからって特別扱いもせず--平気で僕と対等に接してくれたのは--僕にはそれが嬉しかった。ものすごく嬉しかった--だから、君を好きになったのに」
「--」
「今の君は--母さんと同じだ」
「・・・そんな--言い方はないだろう、これまで僕が--」
「--」
「僕がどんなに君を・・・」
 言葉が出ない。
 喉もとに熱いかたまりがこみ上げてきた。
「--そういうわけだから」
 玲が目をそらす。
「隆史のことは僕ひとりでやる」
「--」
「だから--」
「--ちょっと待てよ」
 まだ、泣くわけにはいかない。
「あいつは君に惚れてるんだ」
 玲が黙った。
「支えになってやるって言って一緒にいてやるっていうことは」
「--」
「--そういうことなんだよ--わかってるのか」
「--わかってるよ」
「わかってない!」
 徹は叫んだ。
「--あいつが今日みたいなことしたいっていったら、させてやるのか!」
「--」
「--玲、あいつは--」
「徹」
 玲は早口で徹を遮った。
「僕はセックスするつもりだ」
 徹の目が呆然と見開かれた。
「・・・何を言ってるんだ?--君は結婚してるんだよ?」
「わかってるよ」
 徹は混乱した。
「・・・じゃ、何か?・・・君は--つまり--浮気をしたいっていうわけか?若いやつと--」
「違う」
「--そうだろう?」
「--徹」
 玲は目をあげた。
「浮気じゃない」
「--」
「僕は初めから言ってる--本気だって」
「--玲」
「僕は隆史を愛している」



 今度こそ--徹の目の前で世界が一瞬のうちに消えてなくなった。 



「・・・じゃ、--徹」
 玲は硬い表情で言った。
「--毛布を持ってくるから・・・」
 返事のない徹を残して部屋を出る。
 サン・ルームの窓の空に冴え冴えとした月がかかっている。
 月光が音もなくつたう頬の涙を照らした。





 用心して開けた扉の向こうに、信じられない顔が笑っている。
 隆史は一瞬、絶句した。
「--入れてもらってもいいかな」
 玲はたっぷり二呼吸は待って、そう切り出した。
 隆史は我に返ると黙って部屋のなかに戻る。玲はあとに続いた。
 --部屋は荒れていた。
 敷きっぱなしの乱れた布団のまわりにカップ麺やジュースの空き缶が転がり、流しは洗い物で満杯だ。
 ずるずると布団を隅に寄せ、炬燵をそのあとに引きずって隆史は玲の場所をつくった。
「寝ていていいよ--まだ身体が痛むだろう。--怪我はどうなんだ?」
「・・・何ともないです」
 それは嘘だった。昨夜徹に殴られた顔は鈍い紫色に腫れあがり、身体中が打撲の痛みでギシギシ唸っていた。口も開けにくい。
「--薬を持って来た、それから食料と」
 玲が炬燵の上に紙袋を置く。
 隆史は暗い眼で玲を見た。
「・・・やっぱり--帰って下さい」
「--」
「あなたの来るところじゃない」
「--隆史」
「・・・僕がどうなってるか見にきたんですか--もう見たでしょう」
 屈辱で顔が赤く染まった。
「--その怪我の手当だけでも--」
「あいつのところへ帰れよ--もう」
「--」
「もうじゃましないよ--だから」
 そう言うしかない。僕は負け犬だ--わかっていた。
「・・・帰れない」
「--」
「家を出てきたんだ」
 玲は微笑した。
「行くところがない」
「--玲さん」
「ここに置いてくれないか」
「--だって--」
「仕事はここから通う」
 隆史はうろたえた。
「・・・あいつは?」
「派手に喧嘩した」
「--喧嘩?--あいつと?」
 玲はうなずいた。
「ここへ来たいと言ったら喧嘩になった」
「--ここへ?」
「--君と暮らしたいと言った」
「--」
 何だって?
 隆史はまじまじと玲を見つめた。
「--置いてくれないか?隆史」
 玲は笑いかけた。
「・・・押し掛けなんとかってやつだ」



 --信じられない。
 この人はどういうつもりなんだろう。
 まさか昨日のことを根に持って仕返しをする--というわけでもなさそうだし・・・ここで暮らす?--僕と?--この人が?
 呆然としている隆史の前で、玲は上着を脱いでさっさと部屋を片づけはじめた。無駄のない動作だ。
 --きっとあいつが僕に怪我させたことに責任を感じてるんだ。
(--徹!やめろ!)
 激痛のなかであの声を聞いた時の幸福感が--こみ上げてくる。
(隆史)
 心配そうに震える声--やわらかいトーン。
 --まあ、いいか--今だけでも。
 きっとこれは夢なのだ。つかの間の夢に違いない・・・



 布団がひと組みしかなかった。
「僕はかまわないけど--君の身体に響くかな」
「別に--僕は・・・」
 玲は笑ってあかりを消し、--布団に潜り込んだ。
 闇のなかに互いの息づかいだけが間近にある。
 玲の体臭がふわりと隆史の鼻に届いた。身体の痛みなど感じている場合ではない。--心臓が割れ鐘のように鳴っている。
 --玲さん・・・
 昨日のサン・ルームでの玲の感触がよみがえる。細い身体、白い尻、やわらかく湿った玲の--
 全身がかっと熱くなった。
「--隆史」
 玲の低い声。
「・・・初夜は、なしか?」



 その夜、玲は隆史を抱いた。
 隆史は驚いたことに--前日の行為を除いては--これまでほとんど経験がなかった。
「隆史--この前僕を畳の上に押し倒してから、一体どうするつもりだったの」
「・・・何とかなると思ってました」
 玲は吹き出した。
「--君なら--そうだね、何とか・・・しそうな気がする」
 あのキスだってなかなかだったし、と玲は続けた。
「--うまいんですか」
「--何が?」
「--あの人・・・」
 徹のことを言っていた。
「うまいんですよね・・・見てたもの--玲さん、あんなに・・・」
「--隆史」
 隆史は玲の胸にむしゃぶりついた。
「--もっと早く会いたかった。もっと早く・・・」
 腕のなかでしなやかな獣が悶えた。
「隆史」
 玲は隆史の涙に濡れた顔を上に向け、顔を近づける。
 彼は激しくかぶりを振って玲の胸に顔を埋めた。
「--どうしたの」
「・・・僕こんな--膨れた--幽霊みたいな顔してて--」
 初夜なのに--
「暗いから見えないよ--それでも嫌なら--ずっと目を閉じてるから」
「--」
「--隆史」
「--」
「--キスさせてくれないか?」
 おそるおそる上を向いた隆史の唇が玲にふさがれる。あたたかい唇がしっかりと吸いついて--舌が入ってきた。
 --玲さん・・・
 熱くやわらかい玲の息吹が隆史の全身を溶かしていく。
 気を失いそうな幸福感が身体の--下半身の痛みをも忘れさせた。
 僕たちはひとつだ。--やっとひとつになれたんだ。
 玲さん--玲さん・・・玲さん・・・
 もうその名前しか僕にはない。
 夢なら覚めないで・・・





「おい、徹」
 デスクに向かう廊下で肩をポンと叩かれ、徹は振り返った。
 木村俊男のつるっとした顔がにやりと笑う。
「--ちょっと、いい?」
 ロビーに誘った。--その方が都合がいい。
 昼下がりの人気のないロビーで、俊男は切り出した。
「おまえさ、玲さんと--何かあった?」
 徹は苦笑した。やっぱりね。
 俊男は徹の宮崎時代の同僚だ。調子はいいが頼りになる男で、徹が会社に呼び寄せてそれとなく玲の身辺警護を頼んでいた。彼自身冗談か本気かわからないが「藤坂玲ファンクラブ」の事務局長を自認している、玲のサポーターでもある。
 玲は隆史と暮らしはじめてからも、以前と同じように出勤していた。会社ではごく普通に徹や俊男と接し、昼食もほとんど3人一緒だ。傍目には何も変わらなかった。--しかし、何かおかしい。俊男は異変を感じた。
「--何だってえ?」
 事情を聞いて彼は飛び上がった。
「それでおまえ--どうしてるわけ?」
「--どうしてるもこうしてるも」
 徹は上目づかいで笑った。
「--しょうがないだろう。そこまで言われちゃ・・・言い出したら聞かないのは昔からそうだし」
「そうだしって・・・落ち着いてる場合じゃないだろう」
 俊男の方が興奮している。
「居場所とかわかってるのか」
「・・・訊いて言うものならとっくの昔に訊いてるよ」
「--身のまわりのものは?」
「着替えなんかは会社でちょくちょく渡してる--目立たないようにして」
 俊男は溜息をついてソファに倒れ込んだ。
「相手のやつは--何?17だって?」
「--ああ」
「親と喧嘩して家出中・・・学校は--休みか?退学か?」
「知らない」
「何とかいう餃子チェーン店でバイト」
「天龍・・・正社員になるとかどうとか言ってたと思う」
「--最悪だな」
「何が?」
「いや・・・」
 俊男は黙って煙草をふかした。--考えている時の癖だ。
「なあ、--俊男」
「--」
「もしおまえがさ・・・相手のやつを家に帰すとか、アパートから玲を無理に連れ帰るとか考えてるんだったら--やめてくれ」
 俊男は眉を上げて徹を見た。
「それじゃ玲の気持ちが納得しないだろう。--玲があそこまで踏み切ったのはよくよくのことだと僕は思うんだ。だから、今は--」
「--」
「今はそっとしておいてやってほしい」
「徹」
「少なくとも会社で彼の様子はわかるんだ。--辛そうじゃないか、疲れていないか、ちゃんと食べてるか・・・」
「おい」
 うつむいた徹の拳が震えている。
「徹--おまえ大丈夫か」
「大丈夫だよ」
 徹は顔を上げて、笑った。
「僕が参ってるようじゃ、玲はいつまでたっても家に帰れない」
 遅い午後の陽が顔の上で揺れた。



 いい天気だ--
 隆史は台所でラーメン用のスープをとりながら口笛を吹いた。
 --夢じゃなかった。
 あの朝、目が覚めたら隆史は玲の腕のなかでまるまっていた。裸の胸。華奢な肩。肌をすり寄せると玲の匂いがした。
「こら、--くすぐったいよ、隆史」
 甘い声が降る。隆史は調子に乗って鼻の頭をぐいぐいこすりつけた。
「こら、・・・もう、猫みたいだな君は」
「ニャー」
「隆史ネコ」
「ニャーン」
「起きろよ、遅刻するぞ」
「キスしてニャーン」
 玲は吹き出した--
 ふたりは休日に近くの商店街で生活に必要なものを買いそろえた。茶碗、箸、ざる、ハンガー、タオル、シーツ、洗面器・・・。
「コップ洗い用のスポンジは?」
「いらないでしょ、玲さん方式でいきましょう」
「大丈夫かな。グラスあと2つしかないんだよ」
「大丈夫です。割ったら、また襲ってあげますって」
「--えらそうに・・・何も知らなかったくせに」
「僕のテクニックに参ったくせに」
「そこまで言う!」--
 平日の夜は隆史の高校の教科書を開いて勉強した。サークルのレポートを見た時に玲が感じたとおり、隆史は語学が得意で理数系に弱かった。
「ほら、問1もう一度やってごらん」
「答え、あってたじゃないですか」
「式がいるんだ、式が」
「めんどくせーえ」
「隆史!」
「キスしてくれたらやってもいいな」
「あっそう、--じゃしなくていいよ」
「玲さあーん」
 じゃれあいながら、玲はふと徹が高校生だった頃を思い出す。兄の玲はいつも彼の家庭教師役だった。毎夜こうしてひとつの机に向かいながら、どれほど思いを打ち明けてしまいたいと願ったことだろう。
 あの頃の徹はいつも女の子たちと恋をしていた。玲は何度も相談を受けたものだ。辛かった。自分がゲイであることが、徹を愛しても報われないことがたとえようもなく辛かった。告白すらできず、ただじっと彼の横顔を見ているしかなかった、あの頃の自分・・・
「玲さん」
 隆史が呼ぶ。くりくりと動く猫のような瞳。なめらかな額。
「問1できましたよ」--
 ラーメンのスープができあがった。湯気のたつ澄んだ黄金色の液体。
「ただいま」
 玲が買い物袋を下げて扉を開ける。
「おかえりなさい。シナチクのいいの、ありました?」
 隆史が振り返る--そして思う。
 ああそうだ、僕がずっとずっと言いたかったのはこの言葉だったんだ。
 いつか僕のつくる家族に、本当に好きな人に・・・
「おかえりなさい」





 アパートの窓にぽっと灯がともった。
 --玲と隆史の部屋だ。
 徹は外灯の下に立っていた。 
 --俊男に、アパートを知らないと言ったのは嘘だ。本当は玲がここへ来た翌日に、後をつけて居場所を突きとめていたのだった。
 それ以来、時々足が向いてしまう。
 どうしようというあてはない。
 自分がひどく滑稽に見えているのも分かっていた。
 --だが、帰れないのだ。
 玲とふたりで暮らしていた家に、自分ひとりで鍵を開けて、自分の足音を自分で聞いて、ベッドでひとりで眠る生活--それは色を失った世界のようにくすんで見えた。薄っぺらくて、現実感がない。
 ここへ来れば少なくとも、あの黄色い灯の下に玲がいるのだ。
 玲がいる。玲が笑っている。あのやわらかい声で・・・
 隆史も笑う。玲と興じる。そして玲と--
 部屋の灯が、急にぐらぐらと揺れて遠ざかっていく。
 自分は何をしているんだろう。なぜあの部屋に自分がいないのだろう。
 なぜこんなにもあの部屋が遠いのだろう・・・
「よお!」
 突然肩をつかまれて、徹は飛び上がった。
「ご苦労さん」
 俊男が笑っている。徹は赤くなった。
「実は俺もご苦労さんなんだ。--おまえ知らなかっただろ、俺皆勤賞なんだぜ」
「そう--なのか」
「これでもファンクラブの事務局長だしな、玲さんの」
「--そうだったな」
「・・・しかしな」
 俊男は急に声をひそめた。
「--おまえ、最近メンバー募集したか?ここんとこ見慣れないお仲間が増えてるぞ」
 徹はあたりをみまわした。
 どこかから犬の遠吠えが聞こえた。



 翌日の夕方、徹は葉子からの社内電話を受けた。
「--俊男さんから聞いたわ、兄さんのこと」
 ちょっと出られないかという妹の声に、徹は会社から少し離れた喫茶店を指定した。



 アール・グレイの香りが店内に漂っている。
 徹が扉を開けた時、葉子は出窓に肘をついて絵葉書を見ていた。
 やわらかい髪が肩まで伸びて、白い瓜実顔を包んでいる。
 玲に似ている。--やはり兄妹だな、と徹は思った。
「--お待たせ」
 葉子が少し顔を上げる。
「何、その絵葉書」
 彼女は微笑んで、徹にそれを渡した。
 --きりりと澄んだ空。遠景から近景へ、コバルト・ブルーの海面を埋めつくすおびただしい量の氷の群れ。
 ・・・流氷。
 徹は裏を返した。
(元気ですか、葉ちゃん)
(今年はあたたかいようですね。釧路では9年振りに流氷が流れてきました。去年はふたりで網走まで行って、オホーツク海の流氷を見ましたね。君が船の上であんまり歓声をあげるものだから、僕は恥ずかしくて他人のふりをしていた。今思うとちょっともったいなかった気がしています)
「--」
 徹は黙って葉子に葉書を返した。
「今は他人のふり、じゃなくて本当に他人になっちゃったものね」
 葉子は苦笑した。
「--葉子」
「何?」
「・・どのくらいだっけ--松本と結婚してたの」
「9カ月ちょっと」
 彼女は葉書を大切そうにしまい込んだ。
「--どうして?」
「いや、あの時はさ、こんなに早く別れるなんてって--思ってたけど」
 徹は言いよどんだ。
「・・・それ、兄さんのこと?」
 葉子が水を向けた。
「--別れるつもりなの」
「まさか」
 徹は運ばれてきた紅茶にレモンを入れた。
「僕の方はそんな気はないよ、でも--」
「--相手の子、17才の高校生ですって?--どんな子なの」
「どんなって--」
 徹は苦笑した。
「普通の子だよ」
「普通の子に、兄さんが--そこまで?」
 徹は紅茶をひと口すすった。
「そりゃ--僕のせいもあるのかもしれないけど」
「・・・何かあったの?喧嘩とか--」
「僕が彼に気を使いすぎて、べたべたと過保護にしてたまらないってさ」
「--え」
「母さんたちと同じだって言われたよ」
「--それ、兄さんが?」
「はっきりね」
 葉子は絶句した。
「--僕は思うんだけど」
 徹は低い声で言った。
「玲は、あれで案外世話好きだろ--見かけからは想像できないけど」
「--ええ」
「僕たちの世話なんかパーフェクトだったものな。--でもおまえは結婚して飛んでいっちまうし、僕ときたら--もう弟じゃなくなってしまった。--だから、玲は--世話する相手が欲しかったんじゃないかなあ」
「--でも、だからって・・・弟みたいに可愛がるのと、好きになるのとでは違うでしょう?それとも兄さんは、弟みたいに思える人はみんな好きになっちゃうの?・・・徹の時みたいに」
「さあ--それはわからないけど」
 徹は葉子を見た。
「玲はね・・・僕が弟は弟でも、血の繋がらない、よそからきた人間だったから--選んでくれたんだと思うよ」
「--え」
「玲は家族に大事にされて育って・・・その愛情をちょっと重たく感じてたらしいんだ。それでよそから来て、勝手気ままに病室を覗いたりする僕が新鮮に見えたんだろう。つまり彼にとって僕は、家族とは違った存在だったんだ、だから良かった--それが」
「--」
「僕と結婚して--僕が家族になっちまった」
「--徹」
「家族になって、家族として玲の身体を心配したり、彼の世話を焼くようになっちまった・・・そうしたら玲は息苦しくなって」
「--」
「--それで出ていってしまったんじゃないかなあ」
「・・・徹」
「--こんなことなら」
「--」
「こんなことなら、結婚なんて、するんじゃなかった」
 徹は深い溜息をついた。



「徹--ね、しっかりしてよ」
 葉子は徹の手を握った。
「それはあなたの想像でしょう?兄さんがそこまであなたに言ったわけじゃないでしょう?そんなに簡単に決めてしまわないで。人が心の奥で何を考えているのかなんて、誰にもわからないわ。--夫婦だってそうよ。だから--ね、徹・・・兄さんを追いつめないで」
「追いつめる?」
 徹は葉子を見つめた。
「--そうよ。虫のいいことを言ってるかもしれないけど--」
「--」
「兄さんのしていることは、--本人が一番よくわかっていると思うわ」
「--」
「ねえ、徹・・・兄さんはわたしを追いつめなかった」
「--え?」
 葉子は静かに言った。
「わたしの気持ちを知っていて--でも、追いつめなかった」
「--葉子」
「ブラザー・コンプレックスなんて嘘よ。--そんなもの、とっくに卒業してたわ。・・・とっくの昔から、わたしにとって、兄さんは兄さんじゃなくて--世界中でたったひとりの人だったわ。だからどうしても、徹を呼ぶ時みたいに、玲--なんて、呼べなかった。兄さんって呼ぶことで自分の心に必死で封印をしていた」
 葉子は微笑んだ。
「あなたが家を出て行方がわからなくなってから--わたしはあの家で、兄さんとふたりで暮らしてたわ--一日に何度も郵便受けを見ながらね。兄さんは少しずつ口をきかなくなった。あなたを待って、待って--かさかさに乾いて、ドライフラワーになっていくみたいだったわ。少しずつ、少しずつ心が死んでいくのよ。わたしはそれを見ながら、--このまま兄さんと一緒に枯れていってもいいと思っていた。それでもわたしは幸せだったの」
「--」
「でも、兄さんは--そんなわたしの気持ちを知っていて、それを苦しく思って・・・松さんとの結婚をすすめたわ。わたしは松さんが昔兄さんを好きだったことを知っていた。だって、それが--わたしと彼がつきあいはじめたきっかけだったんだもの。わたしは、兄さんへの気持ちを整理できている彼を尊敬してたの。見習っていけると思った。だから結婚したわ」
 でも--
「でも松さんは・・・とうとう自分の気持ちに勝てなかった」
 松本は玲を暴力で犯した。
「わたしは兄さんのために泣いたけど--松さんを憎む気にもなれないの。だってわたしだって、追いつめられたらどうなっていたかわからない」
「--」
「ねえ、徹--兄さんがわたしを少しでも追いつめていたら--わたしは今、こうして生きていられなかったと思う。--だから、徹、お願い--追いつめないで」
 葉子は玲に似たまっすぐな視線を徹に向けた。
「兄さんを--追いつめないで」
 徹は笑顔をつくった。
「大丈夫だよ、葉子--僕はハンターじゃないもの」



 徹と葉子が会社に帰った時、ロビーに細い人影があった。
 徹がはっと身を固くする。エレベーターの扉が開き、玲が歩いてきた。
 玲とその人影は封筒らしいものを受け渡しし、軽く会釈して別れた。
「--誰?」
 葉子が尋ねる。
「--もしかして、あれが--?」
 徹が目で答える。
「・・・そう」
 ふたりは目立たないように階段を昇った。
 踊り場で葉子がぽつりと言った。
「ねえ、徹--あなた負けるかもしれないわね」
 徹が振り返る。
 葉子はちょっと笑った。
「兄さんを見るあの子の目、昔のあなたにそっくりだもの」





「玲さあん、こっちこっち」
 きらきらと瞳を輝かせて振り返り、ジーンズの脚が足踏みをする。
 煉瓦倉庫のなかにできた波止場のインド料理店。
「ここって、いつも並んでるんですよお」
「先行って入ってろよ、僕はゆっくり歩いていくから」
「もおーお」
 隆史は5メートル前を走って、怒鳴る。
「メニュー全部食べちゃうよ!」



「玲さん、ダメえ、僕--もう入りませんって」
 隆史は5枚めのナンを相手に苦戦していた。
 玲はすましてスープを口に運ぶ。
「鉄壁の胃袋が聞いて呆れる」
「1枚がこんなにでかいって言わなかったじゃないですかあ」
「僕だって知らなかったもの」
 確かにここのナンは超特大サイズだな、と玲は密かにつぶやく。
 隆史の前には色とりどりのカレーの小皿がひしめいている。テーブルクロスの布が見えないほどだ。
「少しずつ取って味わえばいいんだ。舌の訓練のために来てるんだから」
「そうしてますって。--種類が多すぎるんだ大体」
「文句を言うな、まだタンドリーチキンも来るんだから」
「嘘お」
「料理人は食べられる時に食べておく習慣をつけなきゃ。--仕事中は空腹なわけだろう」
「したってこんな満腹じゃ、味なんてわかりませんよ」
「今食べてる分の香辛料、ちゃんと言うんだよ。--さっきひとつ間違えた」
「鬼い」
 とかなんとか言って、隆史は結局全部食べるのだ--鼻に汗の粒を浮かべながら。
 ガキどもにカレーをガーンとついでハフハフ喰わせたい--隆史はそんなことを言っていたが、案外僕もそうかもしれない--玲は苦笑した。



 潮風が肌に心地よい。
 玲と隆史は食後の運動をかねて海岸沿いの公園まで歩いた。
 残照が波をオレンジ色に染め上げている。 
 カップルが海沿いに、見事に1メートル間隔で並んでいた。
 白いコートの玲の隣に、スタ・ジャンの背中が近づく。
 隆史が玲の手を握った。
「玲さん、僕たちって--ね」
「--」
「・・・何に見えるかなあ」
 玲が微笑する。
「親子には見えないだろうね」
「--じゃ、兄弟?」
「似てないね」
「友だち」
「年が離れすぎてる」
「--」
 玲が振り向く。
「隆史、--場所が空いたよ、1組分」
「--」
「・・・おいで」
 風が少し冷たい。玲は隆史と並んで座ると、長いコートを脱いでふたりの肩に掛けた。寄り添ってあたため合う。
 隆史がコートの襟を持ち上げ、自分と玲の頭をすっぽりと覆った。
「玲さん、--ほら、こうすると」
「何」
「キスもできる」
「--それは怪しすぎるよ、どう見ても」
「でも、--せっかくだからさ」
「ええ?」
「一回だけ」



「・・・わかった。さっきの香辛料」
「--」
「ナツメグだ、ね--玲さん」



 夕暮れの淡い光がゆっくりと薄闇のなかに溶けていく。
 岸壁に寄せる波がちらちらと光った。
「--玲さん」
 隆史が玲の肩に頭をあずける。
 そっと隆史を抱いた玲の瞳に、沖をゆくフェリーの灯が映った。
 --宮崎行きのフェリー。
 徹とふたりで過ごした幸福な日々の記憶が玲の胸にあふれる。
 --徹・・・
 玲はかたく目を閉じた。
 灯はまたたきながら、静かに遠ざかっていった。





 黄の点滅信号が次々と通り過ぎる。
 徹は俊男と別れ、ぐったりとして車を走らせていた。
 俊男は玲との今後について、かなりシビアな話をしていったのだ。
 徹は結局、首を横に振った。
 しかし、このまま玲と別居していていいとは、もちろん思っていない。
 自分の気持ちだって、もう限界だと思う。
 でも、玲は言ったのだ--はっきりと。
(浮気じゃない)
(僕は初めから言ってる--本気だって)
(僕は隆史を愛している)
(僕は隆史を愛している)
 そう言いきったのだ--
 そんな相手に対してどう言えばいいのだ?
(愛しているから戻ってきてくれ)?
(そんなやつとは別れろよ)?
(君は結婚してるんだろう、僕のパートナーなんだろう)?
 そんな台詞で、あの玲が納得するとはとても思えない。
 束縛されるのは嫌だ、彼はそう言ったではないか--
 徹は思う。
 結婚に対する意識が玲と僕とでは最初から違っていたのではないか?
 僕は玲と結婚できて、嬉しかった。
 天にも昇る気持ちだった。
 玲には崇拝者が星のようにいて、僕にはもったいない男だったから。
 選ばれたのだと感激して、張り切った。
 でも、玲にとっては--なんてことはなかったのだ、きっと。
 仕事がスムーズにいくようにとの、単なるカミング・アウトにしかすぎなかったのだ。
 だからいつまでも恋人気分で--僕が世話を焼くと嫌がったのだ。
 --玲。
 --玲。
 僕にはわからない。君がどうして遠ざかってしまったのか--
 何が悪かったのか、どうすれば君を取り戻せるのか--
 結婚したからいけなかったのか?
 神戸に来たからいけなかったのか?
 このまま君は、--永遠に僕から遠ざかってしまうのか?



 --耳の奧で電話が鳴っている。
 徹はスーツのままでベッドから起きあがった。ああ、まだ--夜だ。
 ひとりで寝るといつまでも時計の針が進まない。
 のろのろと手を伸ばす。
「--はい・・・藤坂です」
「--徹か?」
 太い声。--突然、徹の頭が完全に覚醒した。
「・・・何の用だ」
「--」
「--電話をしてもらうような用はないはずだけど--松本さん」
「--怒ってるんだな」
 当然だろう。
 松本が玲に襲いかかった一件以来、徹が彼と話すのは初めてだった。
「--徹、玲のことは--」
「あんたに彼の名前を言ってほしくないね--切るよ」
「--俺は謝らないぞ、徹」
「何だと?」
「--俺は謝らない。--確かに、玲には悪いことをしたと思っている。どんなに償っても償いきれるもんじゃないと思ってる。だから、俺はもうあいつには会わない。--一生、あいつには会わない--そう決心してる」
「--」
「だがな--徹、おまえは俺から言わせれば、横から玲をかっさらっていったやつだ。俺の玲を、おまえがさらったんだ」
「--そんなくだらないことを言いにわざわざ電話してきたのか」
「--違うよ・・・葉ちゃんから聞いた、玲のこと」
 葉子のやつ--
「あんたに関係ないよ・・・それとも、いい気味だって思ってるのか」
「--」
「いい気味だって思ってるんだろ--笑えよ」
「違う」
「笑えよ」
「--徹」
「笑えったら・・・」
 不意に、声が詰まった。徹は嗚咽をこらえた。
「--徹」
 低い声。
「--徹、いいか--よく聞け」
「--」
「・・・よく聞け・・・あいつ--おまえを呼んでたんだぞ」
「--え?--」
「俺に--やられながら」
「--」
「泣き叫んで--何度も何度も・・・泣きながらおまえの名を呼んでいた」
「--」
「・・・知ってたか?--知らなかっただろう」
「--」
「--そんなことは--たとえ口が裂けたって言わんだろう--あいつは」
「--松さん・・・」
「徹--いいか、玲の手を離すな--わかるな?」
「--」
「何があっても、絶対に、玲の手を離すな」
「--松さ--」
「俺の言いたいのはそれだけだ」
 電話は切れた。




10


 --玲と話そう。
 少なくとも今の自分の気持ちを彼にぶつけてみよう。
 自分がどれほど彼を愛していて、彼を必要としているのか言わなければ、すれ違ったままどんどん距離が開いていってしまう。
 怖かったのだ、僕は--と徹は思った。
 怖かったのだ、最後通牒を突きつけられるのが。
 待っていればそのうち帰って来てくれるかもしれないなんて、甘い期待を抱きながら、--ものわかりのいいパートナーを演じながら、本当は、正面対決して、これで最後、と言われるのが怖かったのだ--
 徹は昼食の帰りにさりげなく玲を誘うことにした。
「--今日?」
 玲は目を見開いた。
「うん。--夜、時間、ある?」
「・・・何?」
「何って、デートだよ、久しぶりに--といっても、俊男と3人だけどさ」
「--」
「北野のクラブに、君の好きなジャズ・シンガーがまた来てるって」
 徹は名前をあげた。玲とふたりでよく行った場所だ。
「--いいよ。何時?」
 玲は笑った。--輝くような笑顔だ。
 徹は思わず玲に見とれ、--自分がどれほどこの笑顔に飢えていたかを痛いほど思い知らされた。
 --やっぱり別れられない。どんなことがあっても・・・



 黒人女性ヴォーカルの低い歌声がテーブルの間を流れていく。豊かな胸から紡ぎ出される羽のように繊細なヴィブラート。
 照明を落とした半地下の空間にはステージを囲んで12のテーブルとバーカウンター、隅にちいさなダンススペースがあるだけの昔風のクラブだった。
「--変わってないね、ここは」
 玲がからん、とグラスを鳴らす。
「高校の時から来てたよね」
 葉子にないしょで、と徹が笑う。
「--いいご趣味ですね、坊ちゃんたち」
 俊男がノンアルコールビールをぐいっと飲む。
 ワン・ステージが終了した。
 バック・バンドの演奏に切り替わる--いにしえのけだるいナンバー。
「--玲、何か食べる?--今日はピッチが早すぎないか?」
 チーズかローストビーフでも--と言いかけた徹の顔を、上目使いで玲が笑う。
 --お節介。
 徹はかっと赤くなり、席を立って腕を伸ばした。
「--踊ろう」
「--え」
 差し出された手と徹の顔を交互に見て、玲がとまどう。
「--踊れないよ、僕は」
「ステップなんて踏まなくていい。僕だって似たようなもんだ--玲」
 徹が、立ったまま待っている。
 玲は椅子を引いた。



 向かい合って玲の腰に手をまわし、手を握ると徹は少し照れた。
「--徹」
 玲が微笑む。
「誘っておいて照れないでくれ--僕の方がもっと恥ずかしくなる」
 曲がスロー・バラードに変わる。
「--僕がリードしようか?」
「・・・いいよ」
 徹は静かにリズムに乗った。玲がそれに身体を合わせる。
 ふたりはゆっくりと動きはじめた。
 居合わせた客たちが最初は目を見張り、次に控えめな視線を投げる。
 ネクタイにスーツ姿の男がふたりで踊っているのだった。
 耳に光るペアのピアスを見て、ああ--と納得がちの顔になる。
 徹は好奇のまなざしを感じ、背中がむずむずした。
 玲はすましている。
「--君はいざとなると度胸があるよね、玲--結婚式の時だって」
「そうでもないさ」
「--そう?」
「緊張してるよ」
「--」
「・・・今だって」
 白い顔が薄く朱に染まっていた。
「--玲」
「--」
 徹は玲の手を強く握る。玲がぴくっと震えて--下を向いた。
 思わず握っていた手を背中にまわし、両腕で玲を抱く形になる。
「--徹」
 玲が目を見開いて徹を見る。薄い唇が間近にあった。
 徹は静かに唇を重ねた。
 腕のなかで玲が身をよじる。徹はいつの間にか彼を抱きしめていた。
 あたりが一瞬静まり、--やがて何事もなかったように場の空気が戻る。
 やわらかい唇。玲の匂い。
 最初固く拒んでいた身体が、ゆっくりとほどけていく。
 抱きしめた腕にしなやかな弾力があった。
 そっと唇を離す。
 玲は耳まで赤くなって--うつむいた。
「・・・玲」
「--」
 徹は玲を固く抱いて、耳もとでささやいた。
「玲--もっと--話したい・・・いろんなこと」
「--」
「これからのこと--」
「--」
「玲--ここを出たら・・・部屋を取ってあるんだ」
 その言葉で、玲は急に顔を上げた。
 ゆっくりと、かぶりを振る。
「--玲」
「・・・ごめん、徹」
「--」
「家で待ってるから」
 玲は微笑んだ。
「離してくれ--帰るよ」
「玲」
 玲は徹から身を翻すと、俊男がひとりで待っているテーブルに戻った。
「俊男、--僕はもう帰るけど」
「玲さん」
「君たちはもう少しいるといい。--もうワン・ステージあるだろう」
 俊男が椅子から立ち上がった。
「--送るよ」
「いいよ、電車で帰れる」
 玲はさっさと出口に向かった。
 徹が席に追いついた。
「俊男、僕はいいから、玲を送ってやってくれ」
 俊男が徹を見る。
 苦渋に満ちた顔がじっと彼を見返していた。
「--頼む」




11


「・・・少し早まったんじゃないか、徹」
 俊男が助手席の徹に声をかける。
「--昨日のこと?」
「気持ちはわかるけどさ、人前でおいおいって感じだったぞ--女じゃないんだから、あの人だって--恥ずかしいだろう」
 俊男は煙草に火をつけた。--溜息と一緒に煙を吐く。
「・・・帰りの車のなかで、何か言ってた?玲」
「--いや、・・・何もしゃべらなかった--ずっと黙ってた」
「--」
「着いたぞ」
 彼は煙草を灰皿にぎゅっと押しつけた。


「天龍」は賑わっていた。
 カウンターの後ろで立ったまま順番を待っている客たちのシルエットが、すりガラスを通して外からでも見えた。
 初めて玲と行った店とは大した違いだな--と思いながら扉を開ける。
「いらっしゃい!」
 声をかけた店員の顔が一瞬、こわばる--
 徹は隆史に目礼した。
「・・・おふたりですか?ちょっと待っててもらうことに--」
 その時、奧の調理場から人影が現れた。
「--あ!」
 徹と俊男が同時に叫ぶ。
 「天龍」のネームの入った白い上っ張りに身を包んだ玲だった。
 ふたりは棒立ちになった。
 玲の方でも驚いたらしい、しばらく絶句していたが--一番最初ににっこり笑ったのも、彼だった。
「--ご覧のとおり混んでますので、すみません」
 空いたカウンターの上を片づけ、手早く次の注文を取りながら言う。
 3人連れの客が帰り、4人グループが席を立って、ようやく徹と俊男は席にありついた。
「--ビールを」
 間髪入れずに玲が瓶とコップを差し出す。手慣れた動作だった。
 玲の隣では隆史が食器を洗いながら、ちらちらと徹たちの方を見る。
 ふたりはビールをつぎあいながら、目で相談した。
 --まいったな、まさか玲がここにいるなんて・・・
 隆史を呼び出そうと思ってやってきたのだった。
 --しょうがない、今日のところは--
「徹」
 突然頭の上から玲の声が降ってきて、徹はあわてた。
「・・・何か用だった?」
 低い声で言う。
「いや、別に・・・君は何でここにいるの?」
「バイトが急に休んで、手が足りないというから、--助っ人だよ」
「--ああ、そう・・・」
 それにしては慣れてるな--しょっちゅう来てるのかな、と徹は思った。
「こっち、ビール、追加して!」
 客が呼ぶ。
「はあい」
 玲が行く。
 隆史が奧から餃子を運ぶ。玲が汚れた皿を回収する。レジにまわる。
「ありがとうございました!」
 ふたりで叫ぶ。
「ダスター!」
 玲が呼ぶ。
「ほい」
 隆史が台拭きを投げる。
 --相手の名前も、もう必要ないのだ・・・
 徹のコップを持つ手がぶるぶる震えた。
「--おい、徹--」
 見かねて俊男が何か言いかけた時--
「--徹」
 玲がカウンターを拭きながら、さりげなく徹の横に来て小声で言った。
「--悪いけど帰ってくれ」
 徹が振り向く。
 玲は目を伏せた。
「--彼が・・・気にするから」
「--玲さん!」
 思わず俊男が叫ぶ。玲は固い表情でカウンターの扉をくぐって中に入った。隆史に何か話しかけている。笑い声があがった。
 徹はいたたまれずに席を立とうと、椅子をずらせた。
 その瞬間--
 カウンターの向こうで、ピカっと何かが光った。
 --え?
 向こうにいた客のひとりが手早く勘定を置いて、店を出ようとする。
「待て!」
 俊男がその男に向かって突進した。
 男はあっという間に扉を開けて外へ逃げる。俊男が後を追った。
 叫び声。車が急発進する音。続いてもう1台--
 残された者たちは皆、あっけにとられていた。



 俊男はその夜、店に戻ってこなかった。




12


 春先の寒い晩だった。
 玲はアパートで隆史の帰りを待ちながら、やはりマフラーを持たせてやるのだったと後悔していた。
 コツコツ、とノックの音がする。
 --早かったね、とドアを開けて言いかけ、玲は口をつぐんだ。
「--こんばんは」
 俊男の人なつこい顔が笑っている。
「・・・どうしたの--よくわかったね、ここ」
「--うん・・・」
 玲は俊男を炬燵に座らせて、茶をいれた。俊男は面白そうにあたりを見まわしている。玲のいれた茶をうまそうに音をたてて飲んだ。
「--俊男」
「・・・ん?」
 にこにこと玲を見る。玲は溜息をついて、苦笑した。
「--よさないか、時間の無駄だ。--僕に話があって来たんだろう?」
「--そうだよ」
 まだ口を割らない。
「--この間の--天龍の一件だね?」
 俊男の顔から笑いが消えた。
「あれは--」
「--」
「写真週刊誌か?」
 声は落ち着いていた。
「・・・玲さん」
 沈黙が落ちた。
 冷気が忍び寄ってくる。窓ガラスが風を受けてカタカタ震えた。
「--徹は、あなたには言うなと言ったんだが--」
「--」
「かなりやばい状況になってる」
 俊男は茶をすすった。
「あなたと徹は一部では有名人なんだ。--何せ、あれだけ派手な男同士の結婚式をあげちまった。しかも兄と弟として育った間柄で、そこそこ名の売れてる企業の次期社長候補ときてる--それだけだってネタとしちゃおいしかったんだが、・・・結婚式の時は、俺が記事を押さえた。民間人のプライバシー、ってのをタテにしてね」
「--」
「あの時、俺は思った。--この国じゃ、出る杭は打たれるって言うが、出すぎた杭は打たれないんだ。--出すぎた杭は、みんながまず遠巻きにして眺める。そうして眺めて、かっこいい、すごいと判断すれば英雄扱いにする。逆になーんだ、となれば徹底的に中傷して引きずり降ろす」
「--」
「あなたと徹は、実際、かっこよかった。ゲイだけど--いや、ゲイだから、かっこよかった。みんなあなたたちに、手を出せなかった。--たとえ心のなかでこの野郎、ゲイのくせに--なんて思ってるやつがいたとしても、口には出せなかったんだ。・・・今までは」
「--」
 玲は少し、微笑んだように見えた。
「--式を挙げて、もうすぐ4カ月だ。--逆に言えば、まだ4カ月しかたっていないとも言える。--それで--それなのに--もう別居しているのか、あんな派手な結婚式をして、だからゲイは--と世間では考える」
「--」
「--しかしね、それぐらいのことはよくあることだ。成田離婚してるカップルだって世のなかにはたくさんいる。別にゲイだからどうだなんて俺は言わせないし、それに、それだってプライバシーだから、おかしな報道されりゃ人権問題だって言って闘うつもりだったんだ--だけど」
「--」
「--問題は、--あなたの相手だ」
 俊男は目をそらした。
「まだ17の--未成年だ。・・・それも悪いことに、あなたと知り合ってから家出して、自分でアパートを借りている。大学生だと偽って・・・勿論両親も認めていない」
「--」
「--学校も休んでいる。--建前は休学扱いになっていたが--時期を調べれば、アパートを借りた時期と一致する。--それに一番悪いのが、天龍--」
「--天龍?」
「--あの店では、正社員を採用する時には保証人と--未成年者には保護者の同意書を提出させていた。俺は確認してきたんだが、隆史君は--」
「・・・自分で書いたのか」
「--まあ、俺がちらっと見た範囲ではね--渡辺先生とこにあったサークル日誌の筆跡と--とてもよく似ていた。--自分で書いたのなら印鑑だって三文判かもしれない。もしそうだとすれば--」
「--私文書偽造」
「・・・堅苦しく言えば、ね。・・・普通なら問題にならないだろうけど、違法行為には違いない。--知らなかった、と言えば通るかもしれない。隆史君が知らなかったのだと、解釈してもらえれば、ね」
「--」
「--玲さん」
 俊男はまばたきもせず玲を見つめた。
 茶は冷えきっている。
「・・・わかるよ」
「--」
「僕が--17才の高校生の若さに目が眩んで、手を出して--愛人にして親から家出させてアパートに囲って--学校にも行かせずに餃子のチェーン店で働かせてるって--しかも違法行為までそそのかしてるって--つまり、そういうことなんだろ」
「--」
「しかも弟とゲイの結婚式をあげてわずか4カ月で」
 玲は唇の端をあげて笑った。
「--とんでもないやつだな」
「--しかし週刊誌としては、ふるいつきたくなるようなネタだろう、あとは写真さえあれば--」
「それで天龍にやってきたというわけか」
 玲は台所に立って、茶をいれ替えた。その背中に俊男が言う。
「--玲さん」
「--」
「あの写真週刊誌は押さえた。--多少カネはかかったけどね」
 玲が振り向く。
「--でも、噂が広まるのは時間の問題だ」
「--」
「・・・玲さん」
 俊男は玲を見つめたまま、静かに言った。
「--俺はあなたたちを宮崎にいた時から知ってる。あなたがいい加減な人じゃないこともよく知ってる。--今回のことだって、あなたなりに--考えたうえでこういう暮らしをしているのだろうと思うし、その結果、まわりからどう言われようと覚悟のうえなんだろうと思う--でも」
「--」
「あなたはもう自分ひとりの身体じゃない--あなたは結婚式に会社の取引先全部を招待して次期社長としての自分を披露しているし、社内の派閥の領袖でもある。そして--徹のパートナーなんだ」
「--」
「あなたが新婚4カ月で徹と別居して17才の少年を愛人に囲っているということが広まったらただじゃすまない。ゲイどころのスキャンダルじゃない。全員にそっぽを向かれる、--全員にだ、玲さん--取引先の信用はなくなる、次期社長候補からは完全に降ろされる、あなたを奉じた派閥の人たちは途方に暮れる、--あなたはそれでもいいかもしれない、でも--」
「--」
「徹はどうなるんだ」
「--」
「あれだけ派手な結婚式をしてまわりみんなにカミング・アウトして、たった4カ月で捨てられた男だと言われるんだ--それで会社にとどまれるはずがない。社会的信用はゼロになる。--ゼロだ。あいつだって、もともと後継者として育てられてきた人間なのに--それなのに、あいつは」
「--」
「あいつは毎日何をしてると思う、--玲さん」
「--」
「--あの家であなたが栽培していた--いろんな長ったらしい名前のハーブの世話をしてるんだ」
「--」
「--枯らしちゃいけないと言って」
「--」
「--あなたが帰って来た時に枯れてちゃがっかりすると言って」
「--」
「--あなたはいいだろう、ここでままごとみたいな暮らしをして--たとえ失脚したって自分の選んだ道だろう--でも」
「--」
「徹は何もかも失うんだ--社会的信用も--あなたも」
「--」
「玲さん--あなたは」
「--」
「あなたは徹を殺すのか」



 --長い沈黙があった。
 ピン1本落ちても響くような沈黙。
 玲も俊男も、石像のように動かなかった。
 ガラス窓がかたかたと揺れる。
 湯がしゅんしゅんと沸きはじめた。
 突然、扉の外で何かが床に落ちる音がした。
 弾かれたように、玲が飛んでいってドアを開ける。
 --隆史が蒼白な顔で立っていた。
 その前を俊男がゆっくりと横切ろうとするのを--玲が手でとめた。
「・・・俊男」
 目が血走っている。
「わざと、隆史が帰ってくる時間に--」
 俊男が振り向いて玲を見た。
 視線がぶつかる。
 --かん高い音が廊下に響き渡った。
 俊男は頬を玲に向けたまま、無言で平手打ちに耐えた。
 そしてそのまま、暗い廊下を歩いていった。




13


「・・・玲さん」
 隆史はがたがたと震えていた。
「玲さん--今の話--」
 玲は床に落ちた本を拾うと、隆史の背中を抱いて部屋に入った。
「--君は気にしなくていいよ」
 そう隆史に微笑みかけた。
「でも--ここを借りてることや--私文書偽造って・・・」
 そんなところから聞いていたのか--と玲は胸のなかで舌打ちする。
「--そっちの件はもう解決してる--聞いただろ、何とかなったって」
「--でも」
「隆史」
「でも--僕は--僕は--ただ玲さんが--好きなだけなのに--」
 愛人とか--囲うとか--スキャンダルとか--失脚?・・・何が?
「--隆史」
 社会的信用?派閥?--ハーブの世話を--徹が--
 徹--
 隆史の脳裏に徹の精悍な顔が浮かんだ。
 小麦色の肌、漆黒の髪、凛々しい眉。玲の隣で悠然と笑っていた徹。
 一対の雛人形のように似合っていた徹と玲--
「・・・行かないで--玲さん」
 隆史は玲を見上げる。
「行かないで--お願い」
 涙があふれた。
「--隆史」
「--好きなんだ--玲さん」
「たか--」
「玲さんが好きなんだ--」
 隆史は玲にむしゃぶりついた。めちゃくちゃに身体を擦りつける。
「僕大きくなるから--徹さんより大きくなるから--きっと大きくなるから--だから--」
 声がくぐもる。玲の胸が熱い涙で濡れた。
「徹さんのところに行かないで--何でもするから--お願い--お願い、玲さん--」
 玲が隆史のあごを持ち上げる。涙と鼻水でぐしょぐしょの顔。
 捨てられた子猫のような瞳。
「--行かないで・・・」
 玲は隆史を抱きしめた。



 --ああ--玲さん・・・
 隆史は暗闇のなかで息も絶えだえになって、荒い呼吸をしていた。
 こんなに激しいセックスは初めてだった。
 玲は容赦なく隆史を責め、じらし、思う存分声をあげさせては決して赦そうとせず、さらに次の行為へと突き進む。
 隆史はうつ伏せにされ、仰向けに転がされ、まるでアクロバットのように宙づりになり、脚を高くあげて玲を迎え入れた。
 一体、何回いったのだろう--
 隆史の胸にも、腹にも、内股にも、尻にも、顔にも、口のなかにもふたりの精液が混じり合っていた。ねっとりとして少し苦い。
 思う存分抱いてくれた--それは隆史にも嬉しかった。でも--
 今日は少し変だった。
 いつもはもっと優しくて、ひとつずつ反応を確かめるようにして抱いてくれるのに、今日はあまりにも激しくて--隆史が叫んでもお構いなしだった。
 それに蒼白な顔をして無表情で、言葉もなく--
 まるで青い炎に灼かれているようなセックスで・・・
 ・・・冷たかった--玲さんの身体。
 いつもはあれほど熱くなるのに・・・
 突然、隆史はぶるっと震えた。
 --あれは--玲さんだったのだろうか。
 --あれは・・・
 隆史はぼんやりと横を見た。
 --玲さんが--いない--
 ・・・いつから?
 --いつからいなかったんだっけ?--
 隆史は急に、蒲団の上に起きあがった。
 --眠っていたのだ。--どれくらい?--どれくらいの時間?
 枕もとの時計を見た。午前2時。
 --僕が帰ってきたのが10時頃だから--
 2時間以上は寝ている--
 玲さんは?
 隆史はとっさに、玲のハンガーに目をやった。--コートが、ない。
 部屋の隅に置いてある玲のスーツ・ケースに駆け寄って、中を開けた。
 衣類、文具・・・ほとんどのものが置いてある。携帯電話も入っていた。--ほっとして、ふたを閉じようとした時--
 かつん、という音がした。
 不思議に思ってもう一度中を見る。毛糸のセーターの間から覗いたものを見て--
 隆史は自分の目を疑った。--どうして、これがここに・・・
 それは隆史の持ち物だった。てっきり落としてしまったと思っていた。どんなに探しても見つからなかったのだ。
 それを、どうして、玲さんが--



 その解答にたどり着いた時、隆史は両手で顔をおおった。
 --そうだったのか。
 だからあの人は--ここへやってきたのだ。
「押し掛けなんとかってやつだ」と笑いながら--
「・・・初夜は、なしか?」と言いながら--
 だから--
 涙がぼろぼろと頬をつたった。
 隆史は腕で涙を拭うとスーツ・ケースから携帯電話を取り出し、暗記している番号を押した。




14


「はい、--藤坂です」
 こんな夜中に誰だろうと、徹は緊張して電話を取った。
「・・・玲さん、いますか」
 --何だって?
「おい、君は--隆史君か?」
「・・・玲さんを--お願いします」
「隆史君」
「--」
「玲は--来ていないよ」
「--え?・・・」
「おい、--何だ?玲が--帰っていないのか?」
「・・・そちらに--いないんですか?--本当に?」
 疑いの混じった声だった。
「嘘は言ってないよ。--本当に来てない。--来るって言ったのか?」
「--行ってないんですか?」
「--おい!」
 徹は受話器を持ち直した。
「どういうことなんだ?夜中の2時だぞ。--どこ行ったのかわからないのか?」
「・・・嘘だ・・・」
 声がよろよろと遠ざかる。
「隆史!」
 徹は怒鳴った。
「しっかりしろ、--玲の携帯にかけてみたか?」
「--部屋に置いてあるんです。--今、それで電話してるんです」
「--ほかになくなったものは?」
「・・・コート」
「それから?」
「多分--それだけ」
「いつからいないんだ?」
「多分--11時半くらい・・・から」
「多分?」
「・・・僕・・・寝てしまって・・・」
「--」
「様子が--何だか・・・おかしくて--」
「おかしい?--どういうふうに?」
「わかりません--うまく--うまく言えないけど--いつもと・・・」
「--どこか、心当たりは--ないんだな」
 徹は大急ぎで頭をめぐらせた。玲が夜中に行きそうなところ--全く何も思いつかない。散歩にしたってこの寒さだ--第一、何のために?
 何があったんだ?
「・・・徹さん!」
 電話の向こうの声音が急に変わった。
「ひとつだけ--心当たりがあります」



 連絡を受けて、俊男は飛んできた。
 徹と俊男は隆史のアパートに集合し、コンパスと懐中電灯、毛布などをパジェロに積み込んで出発した。午前3時を少しまわっていた。
 登山道入口までは30分もあれば着く。問題はその先だった。
 隆史の話では登山道入口からF山頂公園をめざすハイキング・コースの道をはずれたところに、その湖はあるという。しかし2万5000分の1の地図にもなぜか載っていないのだ。懐中電灯片手に、歩きながら探すしか方法がない。
 六甲--この、網の目のようなハイキング・コース。
 本当に玲はこんな寒い夜に、暗い山中に入っていったのだろうか--徹は思う。そしてなぜ、隆史はそんなことを知っているのか--
「・・・玲さんは」
 隆史が車中でぽつりと言った。
「そこにいたんです--僕と初めて会った時」
「--初めて?--君とはサークルで会ったんじゃなかったのか?」
「--僕はあなたたちとも会ってます。1月の中頃に、六甲で」
「--ええ?」
「ああ!」
 運転席の俊男が叫んだ。
「あの時の--玲さんが拾ったハイカーの子か!どうりで--どこかで見た顔だと思った」
「あの日の昼過ぎに玲さんと会ったんです」
「その--湖で?」
 徹はいぶかしげに訊いた。
「玲はそんなところで何をやってたんだ?」
「--」
「僕たちとも離れて」
「・・・てました」
「え?」
 徹と俊男は同時に聞き返した。
「--泣いてました」
 隆史はあの時の玲の顔を思い出していた。白い頬に光るいくつもの帯--
「泣いてたんです。--だから僕はあの人が忘れられなかった」
 徹たちは黙り込んだ。



「--徹」
 前方を見つめたままで、俊男がカチリとライターを鳴らす。
 煙が細い帯になって口もとから流れた。
「・・・俺な--今日--玲さんに言ったんだ」
「--何を」
 徹が横を向く。
「--写真週刊誌のことや・・・スキャンダルのこと--俺がな」
「--」
「そこの坊やにも--みんな、--言っちまった」
 俊男は後部座席の隆史を目で指した。
「--でも、そんなことぐらいでは、玲は--」
「言い方がな、--ちっとばかり--きつかった・・・今思うと」
「--」
「まさか--こうなるとは--思わなかった・・・まさか」
「--」
「あれほど冷静で頭の切れる人が--まさかこんなふうになるなんて--信じられない--信じられないけど、泣いてたってことは--そんな場所があったってことは--」
「--俊男」
「徹--俺」
「--」
「俺、--見つけるからな・・・どんなことがあっても--徹」
 そう言い捨てて、怒ったように煙草をふかす--
 俊男の横顔を見ながら、徹は思った。
 自分はこれまで一体、玲の何を見てきたのだろう。
 --僕たちは結婚してから、毎晩抱き合って眠った。僕は朝までずっと玲をこの腕のなかに抱きしめて、片ときだって離さなかった--肌を合わせていれば大丈夫だと思った。何でもわかりあえていると思っていた・・・。そういうものではなかったのだ--
 フロントガラスに、松本の顔が映ったような気がした。
(徹--いいか、玲の手を離すな)
 --言われていたのに。
(何があっても、絶対に、玲の手を離すな)
 --そう言われていたのに--
(徹、お願い--追いつめないで)
 --葉子のひたむきな視線。
(兄さんを--追いつめないで)
(兄さんがわたしを少しでも追いつめていたら--わたしは今、こうして生きていられなかった)
(少しでも追いつめていたら--生きていられなかった)
 追いつめていたら--?
(生きていられなかった)
 何だって--?
 まさか。
 --まさか。
 --まさか--そんな・・・
 でも僕は、知っていた--はずだ--
 あの兄妹は--いつもあんなに似ていたではないか--いつも--
 死--
 その文字が龍のように火を吐いてぐるぐると頭のなかを踊った。
 猛り狂った胸の中心で何かが音をたてて爆発した。




15


 午前3時半過ぎ、3人は登山道入口に着いた。車を停め、毛布と食料、医薬品を分担してそれぞれのリュックに詰める。
 春先とはいえ底冷えのする寒さだ。ジャケットのなかにフリースを着込み、帽子を目深にかぶって夜の山に入った。
 澄んだ空に満月が煌々と輝いている。月明かりの下に樹々がざわめき、横たわった怪物の寝息のように気味悪い唸り声をあげた。
 道は整備されているので転ぶ心配はない。懐中電灯を揺らしながら小走りに先を急ぐ。土を蹴る自分たちの足音がやけに大きく耳に響いた。
 1時間ほど歩いた頃、先頭の隆史が立ちどまった。
「--あの時は、このあたりから迷ったような--気がします」
 3人はトランシーバーを分けた。周波数を合わせ、分岐ごとに別行動で歩き始める。最初の分岐で隆史が分かれ、次で俊男が道を分かれた。
 徹は耳に神経を集中させた。玲は湖に行ったというが、この近くを彷徨っていることも十分考えられるのだ。
 聞けば、薄手のセーターにコートをはおったぐらいの格好だという。身のまわりのものも持っていった形跡がない。いくら行き慣れた場所だとはいえ、この季節の真夜中に山中に入るにしてはあまりにも軽率だった。
 玲らしくない--
 普段の彼ならば、絶対にそんなことはしない。
 玲は注意深くて完璧主義の人間だ。いつもラフでアバウトな行動をたしなめられているのはむしろ徹の方だった。
 その玲が、なりふりかまわずにこの山中にいるとすれば、もうそれだけで正気ではない。
(様子が--何だか・・・おかしくて--)
 冷や汗が流れた。
 叫びあげたい衝動をかろうじてこらえ、徹はまわりを見まわした。
 午前5時。
 風がやんだ。
 夜明け前の空は徐々に薄らいで、きりきりと張りつめた清浄な空気があたりを包んでいる。月は静かに照り映えていた。
 徹の耳に、ふと水の音が聞こえたような気がした。
 --こっちだ!
 徹は音の方角に向かって猛然と林のなかを駆け下りた。下草が茂り、木の根が縦横無尽に這っている。前方に黄色い灯が揺れるのが見えた。
「おおい、俊男か?隆史か?」
「徹か、どうした」
「この下だ、音がした」
 言い捨ててさらに薮のなかを突進し、露出した岩を滑り降りてどんどん山を下る。後ろから俊男が隆史に連絡しながら追ってきた。道に出た。今度は昇りだ。--一本道。
 玲--
 間に合ってくれ!
 間に合ってくれ、玲!
 徹は我を忘れて走った。
 目の前に次々と木の枝が現れてはなぎ倒されていく。
 ふいに、ぽっかりと視界が開けた。
 --徹は立ちつくした。



 黎明の空。
 やわらかな朝もやの光のなかに浮かびあがる古い湖。
 刻一刻と色を与えられてゆく水の底。
 岸辺に立つ太い樫の樹。その幹の蔭に--
 白い衣の人影が立っていた。
「れ--」
 徹が叫びかけた時--
 その影は吸い込まれるようにゆっくりと水面に落ちていった。
 わずかな水音を残して。



「玲!」




16


 徹は岸にリュックを投げ捨て、ジャケットを捨てて水に飛び込む。大きく息を吸い込んで、湖の底に向かって必死で潜りはじめた。
 冷たい水が五体を切り裂く。手足を動かすたびに鋭い針が毛穴を刺した。頭の後ろがじいんと痺れる。
 朝の光が水のなかに射し込んでくる。湖全体がほんのりと明るい。半透明のガラスのなかを泳いでいるようだ。無数のプランクトンがきらきらと輝いている。湖底はブルーグリーンの淡いもやの彼方に沈んでいた。
 もやのなかを落下してゆく白いカシミヤのコート。噴き上がるあぶくの渦を追って徹は夢中で手を伸ばした。
 ふわりと広がったコートの端に--
 手が届いた。
 抵抗はない。--気を失っているようだ。水の冷たさにショックを受けたのかも知れない。普段なら--泳ぎは得意なはずだった。しかしまだ3月の山中に、重いコートを着たままでの水泳は身体に負担が大きすぎる。
 まして水泳だと思っていなければなおのこと--
 徹は玲を背にしょって、やっとの思いで水面から顔を出した。
「おおい、こっちだ」
 俊男が手を振る横で、隆史が立ちすくんでいるのが見える。
 徹が岸まで泳ぎ着くと、あとのふたりが玲を引っ張りあげた。
 顔が蒼白を通り越して、はっきりと蒼い。耳や指の先は紫色に変わっていた。焚き火があかあかと燃えているかたわらで俊男と徹のかわるがわるの人工呼吸を受けて、玲は息を吹き返した。
 やっと自力で呼吸をはじめた--と思った途端、激しくせき込む。顔をうつむけて苦しそうに水を吐いた。徹が背中をさする。玲が振り向いた。
 --一瞬だった。
 玲の細い両腕があっと言う間に徹の背中に絡みつき--ずぶぬれの服ごと、玲は徹にぎゅっとしがみついた。顔を徹の胸に埋め、そのままじっと動かない。肩が小刻みに震えた。徹は玲の背に腕をまわし、抱きかかえるようにして姿勢を安定させる--
 それからゆっくりと、玲の濡れた髪を撫でた。



 透明な朝の陽が彫像のようなふたりを静かに照らしていた。






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