埋火 内藤更紗
埋火
埋 火


 その夜、確かに俺は少し飲み過ぎていたのかもしれない。
 タクシーを降りて門を入り、玄関のインターホンを押そうとして、俺はふと、見慣れた銀瓦の屋敷のどの窓からも灯が漏れていないのに気がついた。
 --まだ、ふたりとも帰ってないのか。
 3次会で彼らと別れてからまた2軒のバーをはしごして、泊まる予定の彼らの家に来てみたのだが、どうやら俺の方が早く着きすぎてしまったようだ。
 こんな時のためにと、普段から合鍵も預かっている。しかし誰もいない真っ暗な他人の家に、ひとりで入っていくのも気詰まりだった。
 --そのうち、賑やかに帰ってくるだろう。
 俺は扉の前の石段に腰を下ろす。幸いここ数日の雨は嘘のようにやんで、雲の間から青白い細い月が出ていた。
 夜風が心地よく酔いを覚ましていく。
 どこからか甘い香りがした。目をやると門前のくちなしの植込みに白い花が浮かんでいる。きめ細かな陶器のような肌を思わせる楚々とした花びらだった。
 --俺は不意に、今夜の花嫁の姿を思い出した。
 忘れたくて飲んでいたのだ。--ただ、忘れたくて、忘れたくて。
 その白い顔が、もうひとつの顔に重なっていく。
 俺はぶるぶると、犬のように頭を振った。
 飲み過ぎているからだ--
 俺は勢いよく立ち上がると、何度も失敗してようやく玄関の鍵を開けた。
 主のいない家の中はしんと静まりかえっている。
 俺の足音だけが暗闇を刻むのみの音のようだった。



 居間まで来ると、俺は灯をつけるのも面倒になり、そのまま部屋の一番奥の3人掛けのソファにへたり込んだ。
 --一体俺は何をやっているんだ、こんな--神戸までわざわざやって来て。
 宮崎でそれなりに楽しくやっていたんだ。仕事だって適当にやれたし、女だって不自由してなかった。それが・・・
 なんだ、今のざまは--
 よそう、と俺はまた頭を振った。今さらそんなことを愚痴ったってしょうがない。こうなってしまったものは、こうなってしまったものだ。
 それにしても、遅いな--あのふたり。一体何をやってるんだ、いい気なもんだ--泥の詰まったような頭でまた愚痴りかけた時、門の外で車の停まる音がした。
 人の話し声がする。
 --やれやれ、やっとご帰還か。
 話し声が玄関のすぐ外まで近づいてきたのを感じて、俺はふと、彼らをおどかしてやろうという気になった。
 俺は足音を忍ばせてソファを降り、その高い背もたれと壁の間のごく狭い隙間に身体をすべり込ませた。じっと息をひそめる。
 --玄関を開ける音がした。何かぼそぼそと話している。なかなかこの部屋までやって来ない--まだか。何をやってるんだ--
 息を殺して獲物を待つ時間が果てしなく長いものに感じられた。冷たい床にじっと身体を横たえているうちに、今夜の酔いも手伝って、俺の瞼がだんだんと重たくなってきた。
 ドアが開くカチャリという響きが、耳が覚えている最後の音だ。
 俺は深い闇の底に身体ごと、すとんと落ちていった。





「・・・とは思わなかったな」
 夢の中で低い話し声がする。俺のよく知っている--あたたかい声だ。
「--葉子のことか?」
 少し高い、よく通る声・・・
 俺は突然、きっぱりと目が覚めた。
 いつのまにか部屋には煌々と灯がついている。俺の隠れたソファの背ごしに、聞き慣れた徹と玲さんの会話が聞こえた。
 --どうしよう。
 俺はなんとなく出ていくタイミングを計りかねてぐずぐずしていた。--でも、いつまでもこんなところにいるわけにもいかない。・・・ええい、1、2の3で出ちまおうか、適当に言い訳をして。
 --それしかないだろうな。俺はごくりと唾を飲み込んだ。
 1、2の--
「俊男はね」
 全身がとまった。
「宮崎からこっちへ来たのも、--葉子がいたからなんだ。あいつはあっちこっちの女ひっかけて遊んでいるようだけど、本命は葉子だったと思うよ」
 徹がしみじみと言った。
「だから住むところだって--ひとりじゃちょっと広すぎるくらいの高台のマンションなんか借りてさ--そこ、テラスから海が見えるんだ」
「へえ」
「親指の爪くらいだったけどさ」
 --悪かったな、親指の爪で。
「それだってこの家や、葉子が住んでたマンションからは全然見えないだろう?あいつ、葉子が喜ぶと思ってさ--」
「--」
「葉子の方だってまんざらじゃなかったように見えたけどね・・・まさか本当に片桐の治夫さんと結婚してしまうとは思わなかった」
 俺だって思わなかったさ。
「--」 
「--でも、まあ・・・いまさら言ったってね」
 そうだよ、徹--いまさら言ったって、だよな。
「--」
「--玲」
「うん?」
「・・・元気出せよ」
「--出してるよ」
「--花嫁の父役で、疲れた?」
「いや--前の時も僕がやったし」
「あ、そうなのか」
「--もうやりたくないけどね、3度目は」
 やわらかい声だった。
 なごやかな沈黙が落ちた。俺はなんとなく--この空気を壊すのをためらった。
 ソファの背が、かすかにキイと鳴る。
「--とお・・・」
 玲さんのとまどった声が、部屋の色をゆっくりと変容させた。





「徹・・・皺になるから、服が--」
「着てろよ、--似合うよ、それ」
「--」
「・・・黒がそんなに似合うとは思わなかった」
「--でも--」
「・・・玲」
 ソファ全体がみしっと音をたてる。人の重みを受けとめた音。
 --おい、まさか--
 背もたれの向こうから、熱い息づかいが聞こえた。
「・・・あ・・・」
 シュルシュルという衣ずれの音。
 俺の全身に脂汗がにじんだ。--やめろ、こんなところで、馬鹿!
「玲--」
 肌が音をたてて強く吸われる。--何度も、何度も。
「・・・ああ・・・」
 俺は玲さんの白い透きとおるような肌を思い浮かべた。徹の少し厚みのある唇がその肌を濡らしながらゆっくりと這っていく姿を--
「--徹--」
 うわずった声。
「--待ってくれ、シャワーが、まだ--」
「--このままでいい」
「--でも」
「この匂いが好きなんだ」
「--」
「・・・玲」
 --ぱさっと床に衣の落ちる音。
 体重を飲み込んだソファがまた重たげな音をたてる。
「--とお・・・」
 声が甘く、くぐもっていく。
 語尾が部屋の中にやわらかく溶けた。
「・・・知ってた?」
 低いささやき声。
「--ん・・」
「--ここの色さ・・・変わってきてるの」
「--」
「ピンク色だったのが、少し濃くなってる・・・」
「--そう?」
「色づいた果物みたいだ」
「じゃ--食べ頃かな」
「・・・食べるぞ」
「--」
 空気の震えるようなため息が漏れた。





 目の前でソファの底板がしなっている。
 波打つようにリズミカルに動き、時折きいきいと喘ぎ声を洩らす。
 耳もとでささやかれているような激しい息づかい。
 この部屋のすべてのものがふたりの吐息で満たされていく。
「--ああ・・・」
 きれぎれにかすれる声。
 荒い呼吸。
 ごくりと鳴る喉ぼとけ。
「・・玲・・・・玲・・・」
 呼び続ける苦しそうな呻き声。
 肌と肌がきしみ、肉と肉がこすれ合う野卑な音が鳴る。
「あ、ああっ・・・・ああっ、ああ・・・・・・」
 音がいっそう激しくなる。
 ソファが船のように揺れはじめる。
「ああっ、・・・徹・・・徹・・・・・」
 声に涙が混じる。
 船が激しい波の攻撃を受けて縦横に大きく揺れる。
「あああっ」
 空気を裂くような悲鳴--
 ずるずると悲鳴のもとがソファをずりあがっていく。
「ああ・・・ああ・・・・」
 ソファの端までずりあがる。
 声が、裏返った----と思った瞬間、
 俺の顔に勢いよく、冷たいものがぶつかった。
 心臓が、とまった。
 目の前10センチのところでぶらぶらと揺れているのは--
 玲さんの白い手だ。
 細く長い指の動きが一瞬とまり、・・・ほんの少しとまどってから、その指はそろそろと俺の顔の方に伸びてきた。
 俺の喉がごくりと鳴った。冷や汗が流れる。全身が硬直した。まるで白い魔に魅入られたかのように、俺はぴくりとも動けない。
 指は俺の額に触れ、ゆっくりと--俺の鼻、俺の唇をたどり・・・
 突然、驚いたように飛び退いて、視界から消えた。
 --ばれた。
 身体中の血が音もなくすうっとひいた。





「--徹--やめろ!」
 玲さんが叫ぶ。
「やめろ・・・やめ--」
 だが悲鳴はとぎれていく。
 その瀕死の鳴き声が徹の欲望をいっそうかきたてているようだった。
 ソファが揺れる。
「徹--ちがうんだ」俊男が--
 玲さんの叫びが聞こえるようだ。
(俊男がそこにいるんだ--)
 だが、徹にはわからない。
 徹は飢えた獣のように玲さんをいたぶり続けている。
 振動がさらに激しさを増した。
(ああ・・・)
 玲さんは意を決したのか--ひとこともしゃべらなくなった。
「--玲・・・」
 ソファが前後左右に揺れる。
「どうしたんだ--よくないのか」
(俊男がいるんだ)
 ソファがきしむ。
「もっと声出せよ--」
(俊男に聞こえるんだ)
 肉のこすれる激しい音。
「出させてやるぞ」
(----)
「あっ、あああああーーーーーーー」
 耳をつんざくような悲鳴。
「玲、玲・・・玲・・・」
 野獣のような雄叫び。
「やめ・・・とお・・・や・・・・」
(俊男がいる、俊男が--)
「--玲・・・」
 荒い息。--むせかえる雄の汗の匂い。
(--俊男が聞いてる--)
「玲--」
(聞いて・・・)
「・・・玲--」
「あああっ、あ-----・・・・・・・・・・」
 断末魔の絶叫。
「あっ、ああっ、・・ああっ、ああっ、・・・ああっ、ああっ、ああっ・・・」
 鳴き声が奔流のようにほとばしる。
「・・・ああっ、ああっ、ああっ・・・」
 とまらない--
「--玲--」
「ああっ、ああっ、あああっ・・・」
「--玲、玲、玲・・・・」
「ああっ、ああっ、・・ああっ、ああっ、・・・ああっ、ああっーー・・・」
 降る雨のように声に涙がにじんでは溶ける。
 --玲さん--
 俺はソファの陰の狭い隙間で頭をかかえた。
 鳴き声が耳の奧から脳に直接、突き刺さってくる。
 --何という声だろう--
 身を切り裂くような切ない--甘い--野の鳥の声。
 --玲さん・・・
 俺は眼を閉じた--耳を覆った。
 虫けらのように身体を丸めて声から逃れようとした。
「ああっ、ああっ、・・ああっ、ああっ、・・・あああっ・・・」
 歓びの声--
 昇りつめるふたつの声。
「玲、--玲っ、玲っ・・・う・・・・・・」
「あっ・・・あ・・・・・」
 ソファが一段と激しくしなった。
 そして数秒後--ずし、という重みが全体にかかった。
 俺は丸めていた身体を伸ばす。
 ぜいぜいと響く荒い息。
 解き放たれた呼吸が部屋の中にゆっくりと満ちていった。
 ふわり、とくちなしの香りがした。



「・・・玲」
 低い声。
「・・・寒くないか?」
 ささやいている。
「少しね・・・汗をかいたから」
「--」
「君もすごい汗だよ」
「--シャワー、浴びようか」
「シャワーより--風呂の方がいいな・・・疲れも取れるし」
「--そう」
 みしり、とソファの重心が移動する。
「先に湯をはってくるよ」
「うん・・・僕も後から行くから」
 軽く肌を--おそらく唇を--吸う音がする。
 俺の目の前で2本の脚がソファから降り、部屋を横切ってドアの外に消えた。
 カチャリと扉の閉まった瞬間、もう2本の脚が素早く床に降り立つ。
 部屋の灯が一斉に消えた。
「--俊男」
 聞き慣れた声が暗闇に響いた。





「俊男、--出てこい、そこにいるんだろう」
 抑えた声に冷たい怒りが混じっている。
 俺はそろそろとソファの背の裏から這い出した。
 玲さんの姿は暗くて見えない。
「--玲さん」
 俺は声の方向から見当をつけて、呼びかけた。
「--信じてくれ、--こんなつもりじゃなかったんだ」
 返事はない。
「おどかそうと思って隠れてたら--寝てしまったんだ」
 声が空しく反響した。
「本当だ、本当だよ、--だって、まさか、ここで--」
 部屋の空気がぴくっと震えた。--俺は口を押さえた。
「--それに、俺には何も見えなかった。--陰になっていたから、本当に何も見えなかったんだ、声だけ--」
 --失言だ。一瞬、頬に電流のような視線があたる。
 俺は黙った。--他に言うべきことはない。
 確かに結果的には出歯亀のようなまねをしてしまったけれど、それは俺の本意じゃない。タイミングが悪かっただけなんだ。
 --そりゃ、聞かれた方は、それだけじゃすまないだろうけど--
「・・・俊男」
 声が少し、やわらいでいた。
「--悪いけど、音がしないように玄関から出て、10分ほどしてからインターホンを鳴らしてくれないか」
「・・・今日はもう自分の家に帰るよ、玲さん」
 疲れていた。
「明日は一緒に出かける予定だっただろう?今夜君が来なければ徹が変に思う」
「朝一番で来るよ」
「--俊男」
 玲さんは黙った。うつむいているのが、なんとなく気配でわかった。
 ほんの少しでも徹に不審がられるのが嫌なのだ。
「--わかった」
 俺は折れた。
「--少し夜風にあたってから来るよ」
 彼が微笑む気配がした。
「--じゃ」
「・・・そのまま、まっすぐドアまで歩いて行ってくれ」
 俺は暗闇の中をそろそろと進んだ。ドアの位置はわかっている。
 ノブに手がかかった時、背後でバタンと大きな音がした。
 思わず俺は振り返った。
 強風で窓が開き、カーテンが風であおられている。雲の間からかぼそい月が顔を覗かせて部屋を青白い光で満たしていた。
 窓と反対側の壁に身をもたせかけるようにして、玲さんが立っている。
 全裸だった。
 白くなめらかな皮膚が贅肉のない引き締まった身体をぴっちりと包んでいる。しなやかな身体の上に載せられた端正な顔が驚いたように俺を見つめていた。
 動けなかった。
 俺は今、遠く--深い海の底にいるような気がした。そして水晶のような光に包まれた不思議な美しい生物に会っているような・・・
 それは時間にすればほんの5秒か--10秒ぐらいの間だったに違いない。
 不意に、まるでバネ仕掛けのように玲さんが俺から顔をそらして身体の向きを変えた。
 俺は目を見張った。
 背をむけた彼の白い首すじがうっすらと紅色に染まっていった。





 その日、俺が再び藤坂家のインターホンを押したのは、もう夜がしらじらと明け始めた頃だった。
 あれから俺は玲さんに言われたとおり、こっそりと屋敷を出た。そしてやみくもに走ってタクシーを拾い、行き慣れた街に行って手っ取り早い店に入り、たて続けに3発抜いた。女は誰でもよかった。
 俺の耳の奧に、玲さんのあの鳥のような鳴き声がこびりついていた。俺の目の裏に、玲さんのあの匂い立つように紅潮していく白いうなじが焼きついていた。
 --どの女の顔も、どの女の顔も、玲さんにしか見えなかった。鳥のように声をあげて鳴く玲さんの顔にしか見えなかった。
 俺は今夜きっと、どうしようもなく飲み過ぎているのだ--俺は自分にそう言い聞かせた。
 俺は酔いを覚まそうとして失敗し、酒の上に酒をかぶせようと決意して、また飲み始めた。飲まなければやっていられない。
 --そうだ、忘れたかったんだ、俺は--
 今夜の花嫁を忘れたくて飲み始めた酒だった。
 それなのにピッチをあげるたびに、忘れたいのが葉子さんなのか、それとも--兄の玲さんなのか--俺にはだんだんわからなくなってきた。
 くちなしの甘い香りが頭の奧で渦巻いている。
 インターホンを鳴らして徹に迎えられ、客用のベッドに倒れ込んで俺は死んだように眠った。



 目覚めると、もう太陽はとうに頭上を通り越していた。
 宿酔の頭をかかえて居間に行くと、もうふたりは思い思いの格好でソファや籐椅子にくつろいでいる。
「ああ、俊男--起きたのか」
 徹の声で玲さんが振り返った。
「おはよう」
 --どきりとした。
 屈託のない笑顔だった。
 夕べのことは、--あのソファの背ごしに聞いた鳥のような声は、あの月あかりに照らされた白い裸身は--夢だったのだろうか。
「--どうしたんだ?ぼんやりして・・・宿酔か?」
 玲さんは籐椅子から立ち上がって、俺に笑いかけた。
 一瞬、雲の間からきらきらと光がこぼれ落ちたような気がした。
 綺麗だ--俺は目を奪われた。この人はこんなに綺麗だったのか・・・
 喉がからからに乾いた。
「--やっぱり外出はキャンセルだな、玲」
 徹が俺の顔色を見て言った。
「そうだね、・・・俊男、何か食べる?」
「--え」
「宿酔にはピータンがいいそうだけど--僕、俊男で試してみたいな」
 玲さんはにっこり笑った。--いつもの笑顔で。





 翌日から、会社の中でも、廊下でも、送り迎えの車中でも--俺は気がつくと玲さんをじっと見つめている自分に気がついて、うろたえた。
 玲さんは--変わらない。完璧なほど、いつもと変わらなかった。
 デスクで書類に目を通す怜悧な面差し。
 にこやかに接客にあたる優雅な物腰。
 そして人の意を瞬時に汲み取る判断の早さ。
 議事を鮮やかにまとめる手際の良さ。
 --文句のつけようがなかった。
 やれ苦労知らずの御曹司だの、ゲイだの虚弱体質だのという陰口がいつの間にか鳴りをひそめてしまったのも、無理のない話だった。
「--あれでも玲にしてみれば、周囲から浮き上がらないように頭の回転を抑えてると思うけど」と徹はしんから愉快そうに言う。
 --そういう人なのだ。
 危なげなところなど微塵も感じさせない、クールでプライドが高くて--
 絶対に他人に内面を見せない人なのだ。
 俺の前で笑っていても、--徹と3人で笑い転げていても、玲さんは俺に対してはポーカー・フェイスを崩していなかったのだ。俺が気づかなかっただけで--
 俺は隆史の時のことを思い出した。
 隆史が徹をナイフで狙っているのを知って、ひとりで隆史のアパートに出かけていった玲さん。
 --あの時も、玲さんは俺を頼ってはくれなかった。
 俺に相談してくれれば、何かもっと別の方法があったかもしれないのに--俺は徹の友人で、玲さんのボディ・ガードでもあると自負していたのに。何も自分から人質になりにいくことはなかったのに。そうすれば、あんな--
 あんな冷たい湖にコートのまま飛び込むこともなかったかもしれないのに。
 あの夜の、ひえびえとするような隆史のアパートを俺は思い出していた。
 玲さんとの会話。帰り際に俺の頬を音をたてて打った彼の冷たい手。
 その日の夜明けに徹に背負われて山の湖から引き上げられた痛々しい姿--
 青白い死の影。
 俺は結局、死まで考えた玲さんの気持ちがわかっていなかった。
 玲さんは俺に何も言ってはくれなかった。
 心を打ち明けてはくれなかった。
 そして退院してから「悪かった」と俺に謝った。
 謝ったけれど--
 結局、--ことが終われば、これまでどおりのポーカー・フェイスだ。
 俺はこの人の何なのだろう。
 俺は結局、徹の友人に過ぎないのか。 
 俺はあの頃毎晩、玲さんと隆史のアパートを見に行っていた。
 徹よりも早かったのだ。
 徹よりも欠かさず、玲さんを見に行った。
 あの木造アパートの2階の端から3番目の部屋。
 黄色い電灯の下で玲さんと隆史が睦み合うのを凍えながら見上げていたのだ。
 それが自分の役割だと思ったから--
 泥のように苦い思いに耐えて外灯の下で震えていたのだ。



 俺は腹が煮えそうだった。
 自分がとてつもない逆恨みをしているのはわかっている。
 --でも、俺には自分が抑えられない。
 この耳のすぐそばで俺はあの声を聞いてしまった。この眼で俺はあの人の身体を見てしまった。--それなのに、その俺の方がこんなにも身悶えするほど苦しくて、なぜ玲さんがああも涼しい顔をしていられるのかがわからない。
 --俺などは、あの人にとって気にする価値もないただの兵隊なのか。
 それならば、徹に言ってやったらどうだ--俺は知っているぞと。
 俺は--玲さんの声を知っているぞ。俺は玲さんの裸も--見たんだぞ、と--
 俺は声をあげて嗤った。
 馬鹿馬鹿しい--まるで小学生だ。いや、小学生だってもっとましだ。
 情けない。--たかが、気にしてもらえないだけで--
 ほんの少しでも、気にしてもらえないだけで・・・
 最初からわかっていたことだった。
 最初に会った時から、玲さんは徹の恋人だった。
 万にひとつも、可能性のない相手だった。
 だから徹に頼まれて宮崎からこっちにやってきた時も、俺はふたりを支える黒子に徹しようと思っていたのだ。それが俺にはふさわしいと--
 でも、駄目だった。
 こんな気持ちで--もうこのふたりの前にいることはできなかった。
 いつも近くにいるのに、手を伸ばせばすぐそばにいるのに絶対に触れることができないのだ。毎日、毎日その笑顔が徹に振り向けられるのを見、その声が徹にささやかれるのを聞き、その心が永遠に自分のものにはならないと思い知らされながらあと何日、あと何年俺は玲さんのそばにいなければならないのだろう。 
 冷たいポーカー・フェイスを向けられながら--



 宮崎に帰ろう。
 俺の親や親戚や、幼なじみの悪友ども、俺のつきあった女たち、斉藤の親父さんや里美おばあちゃん--口うるさい、酔うとすぐ騒ぐしょうのない連中の顔が次々と胸に浮かんだ。涙が出るほどなつかしかった。
 --帰ろう。ここはもう俺のいる場所じゃない。
 俺は何ひとつ、ここで成し遂げることができなかった。
 --徹、ごめんな。
 せっかく呼んでくれたのにな。
 ちゃらんぽらんな俺を、おまえだけは信用してくれたのにな--



 俺は車のキーを握ると、身支度をして玄関に出た。
「ニャーオ」
 1匹のシャム猫がついてくる。
「ちょっと行ってくるからな、リエ--おとなしくしてるんだぞ」
 猫は小首をかしげた。
 俺は雨の中を、ふたりの家に向かって車をとばした。
 今日中に、徹に話をしておきたかったのだ。





「俊男か--ちょうど良かった!」
 インターホンの向こうから徹の弾んだ声が響いて、俺は面食らった。
「雨が降り込まないうちに、早く入れ」
 半開きの玄関の扉から、俺は身体を滑り込ませた。
「--何かあったのか?」
「それがさ」
 俺たちは居間に入った。
 奧のソファに横たわった玲さんが半身を起こす。
「僕、今から出かけなくちゃならなくなったんだ」
「今から?」
 もう11時をまわっている。
「さっき連絡があってさ--この雨で名神で玉突があって」
「--」
「うちの会社の荷が中に紛れ込んでいるらしいんだ」
「--」
「朝になって書類で確認するより、行った方が早いから--行ってくるよ」
「--徹」
 玲さんが呼びかける。
 徹は俺だけに聞こえるように声を低めた。
「--玲は昼間一度、貧血を起こしてるから--」
 ちら、と俺を見る。
 わかった、と俺は眼で答えた。
「--玲、ちょうど俊男が来たから」
「大丈夫だよ--僕も行く」
 玲さんが立ち上がりかける。
 徹が早足でソファの近くまで行き、彼の両肩を持って座らせる。
「大丈夫じゃない。普段だって君は車が苦手なんだ--それに現場で何時間待たされるかわからない。下手すると帰りは明日の朝か--昼になるかもしれない。--このうえ、君の健康の心配をしたくない」
「--」
 玲さんは唇を噛んだ。
「--電話を入れるから」
 徹はソファの上に身体を屈めて玲さんにそっとキスをした。
 手早くジャケットの袖を通しながら、俺に眼で合図する。
 ふたりで玄関まで来て、彼はもう一度念を押した。
「ここんとこ玲は忙しかったから--ストレスが溜まってるんだ。--だから、玲にはああ言ったけど夜の間は電話を入れないから--」
「--わかった」
「じゃな」
 徹は身を屈めて雨の中へ出ていった。
 玄関の扉が強風でガシャン、と閉まった。






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