埋火 内藤更紗
埋火
埋 火

30


 俺は驚きで口がきけなかった。--徹は俺をかついでいるのか?
「徹--あのさ」
 やっと、声を出す。
「人が悪いな、いくら俺がさっきちょっと強引だったからってさ--」
「嘘じゃないよ」
「--じゃ、聞くけどさ、--どこにそんなやつがいるんだよ?いつだっておまえや俺が見張ってるようなものじゃないか、いつそんな器用なことができるんだ?・・・ひょっとして、それって俺?--おまえ?・・・結局、それは僕でしたあ、てのはナシだぜ」
 徹は黙っている。
「・・・それとも、何か?--あいつは結構ファザ・コンみたいだから、亡くなった親父さんか?それなら--」
「僕の前の男だよ」
「--え」
 徹は俺の視線を無視して、バーボンをもう1杯頼んだ。--ちらっと俺を見る。
「俊男、--玲の身体、見ただろ」
「--」
「左の胸の傷痕」
 俺は玲の裸を思い浮かべた。白くなめらかな左胸から肩にかけて、醜いひきつれとなって走る1本の傷痕。
 あれは、確か--
「いや--気が--つかなかったけど」
 徹は笑った。
「いいよ、気を使ってくれなくても・・・あれが、僕がナイフで玲を刺した痕」
 俺は息苦しくなって、唾を飲み込んだ。
「僕はそいつに嫉妬したんだ」
「徹、--でも、それは--随分昔の話じゃないのか?おまえが宮崎に行く前だろう?なんで今さら、そんな話が出て来るんだ?そいつと今になって再会でもしたっていうのか?」
「もう死んでるんだ」
 徹は苦く笑った。
「僕が玲を刺した日には、もうこの世にいなかった」
 俺は絶句した。
「そいつが生きてる間は、--そいつの一方的な片思いだったらしい。死んだ後になって、--実は玲をかばって死んだんだということがわかった。僕はたまらなかった。一生、彼にかなわないと思った。それで半狂乱になって--」
「徹」
「玲を刺した・・・僕が21、玲が22の時だ」
 胸に重たいものが詰まっていた。
「俊男、あの夜--雨が降ってただろう?」
 徹がわざと明るめの声を出した。
「玲はね、--雨の日になるとそいつを思い出すんだ」
 俺は驚いて、徹の顔を見た。
「本当だ、本人がそう言ったんだから--玲はその思い出を、とても大切にしてるんだ。--僕にも誰にも、立ち入らせない。--そうやって、あいつが死んだ後から、少しずつ、少しずつ、思い出を舐めるようにして・・・あいつを愛してるんだ」
「徹、でも、それは--」
「--」
「それはあくまで思い出だろ?--誰だって、そんな思い出くらい、あるじゃないか。初恋の相手とか、学生の時つきあった、過去の--」
「過去じゃない」
「--」
「あの夜、おまえとのことがあってから、玲は--寝言を言ってたって言ったね、幸せそうに--何度も、何度も--?」
「--ああ、お袋さんの--」
「母さんじゃないよ」
 徹は苦笑した。
「--カズヒコ、って言ったんだ」
「--え」
「・・・和彦、和彦、って・・・言ったんだよ、玲は」
 --頭が、一瞬、真っ白になった。
 真っ白な壁に、塗り込められていくような気がした。
 玲が--あの玲が、--俺に抱かれた後で、あんなに俺に応えた後で、他の男の夢を見て、その男の名を呼んでいたというのか?幸せそうに--何度も、何度も。
 和彦、和彦、和彦・・・と。




31


 徹は俺の表情を見て、すまなさそうな顔になった。
「・・・だから、この話はしたくなかったんだけどな」
「--いいよ--俺から言い出したんだから」
 俺は何とか冷静に言葉を返した。
「・・・玲は、そいつとは何もなかった。危ない場面はあったらしいけど、結局そいつは玲に手を出さずに死んだ。--だけどむしろそのことで、玲の方が苦しんでた。玲は--莫大な負債を背負わされた気分だったと思う。返したくても、相手はもう死んでしまって、いないんだ」
「--」
「僕は、--だからあの日、玲はおまえのことを承諾したと思うんだ」
 --え?
「雨の日に、迫られて・・・玲は、おまえの中にそいつの面影を見たんだと思う。そいつに--抱かれたつもりになったんだ」
 --何だって--
「--だから僕は--留守中に浮気をした玲を殴ろうとして--殴れなかった。玲がおまえをどうしたいのか--彼自身に決めさせようと思った。もし一度抱かれたことで、気が済んで--負債を返したつもりになっているんなら、2度目、3度目はないだろうと思った。そうしたら--」
「--」
「--玲はこれからも、月に一度、おまえとつきあいたいと言った」
「--徹」
 彼はカウンターに目を落とした。
「--きっと、ずっと、ずっと--好きだったんだ、ずっと、死んだやつに抱かれたいと思ってたんだ」
 そんな--
「--僕は、それで玲の--あいつへの気持ちが少しでも癒されるんならと思って、承知した。それが玲にとって必要なら、もう僕の出る幕じゃない。僕がどんなに頑張っても、僕は彼に何にもしてやれない。--僕は黙って見ていることしかできない」
「--」
「--でも俊男、--これだけは知っておいてほしいんだ。僕は、いくら玲にとってそれが必要だからって--相手がおまえじゃなかったら、絶対に--絶対に、承知なんかしなかった。玲を、1秒だって、一瞬だって、ほかの男になんて--絶対に、我慢なんかできなかった。おまえだったから、僕は--玲を任せてもいいと思ったんだ」
「--」
「ごめんな、俊男。・・・おまえにとっちゃ、嫌な話だったろう。--でも、玲を--責めないでやってほしいんだ。玲は可哀想だ。背負ってる荷物が大きすぎるんだ。それなのに誰にも頼れないで、ひとりで苦しんでいるんだ--だから」
「--」
「--玲を、頼むよ」
「・・・ひとつだけ、訊いていいか」
「--」
「俺は、その--和彦ってやつに、そんなに似てるのか」
 徹は少し反り返って、俺の全身を眺めた。
「顔は似てないけど、雰囲気が少し、な・・・」
 それで十分だった。




32


 俺は、和彦とかいうやつの、身代わりなのか?
 あの雨の夜、玲が「君の好きにすればいい」と言ってくれたのは--俺にではなく、死んだ男にだったのか?
 ひと月に一度、恋人としてつきあってくれたのは--死んだ男とのデートだったのか?
 あの笑顔も、あの声も、あの身体も、あの仕草も--みんな俺にではなく、死んだ男に向けられたものだったのか?
 --俺には信じられなかった。
 何よりあの時の--玲と初めて身体をかわした時の、あの充足、あの一体感、あの--世界と俺とを繋いでくれた、確かな絆だと感じたものが、すべて俺の都合のいい思い込みであったなんて、とても思えたものではなかった。玲が裸の俺自身を見ていてくれると思ったからこそ、俺はあんなにも安らかに、心も身体もみんな預けてしまうことができたのだ。俺のすべてを託して、岸に引き上げられることができたのだ。それが、みんな、嘘だったというのか?
 そんなはずはない--そんなはずは、なかった。
 だが、--それなら玲はなぜ俺を受け入れたのだろう。
 あのプライドの高い彼が、好きでも何でもないやつに無理矢理組み伏せられて、なぜ最後まで嫌だと言わなかったのか。
 そりゃ、--嫌と言っても抱く、体力では俺の勝ちだ、と確かに俺はそう言った。--だが、そもそもそんな脅しに屈するほど気の弱いタイプじゃないし、拒否は時間の無駄だと割り切るようなドライな男でもない。彼が最後まで突っぱねていたら、ひょっとして俺がしぶしぶあきらめるような展開だって、全くないわけじゃなかったのだ。
 そして、もっとわからないのが、1/30のデートだ。
 俺は今まで、俺のセックスを玲が気に入ってくれたんだと鼻高々だったけれど--玲は徹ともあいかわらず毎晩してるというし、まさか倦怠期の夫婦の回春剤、てわけでもないだろう。単にセックスが好きで、俺と浮気を楽しんでいるつもりなのだろうか。
 --いや、と俺は打ち消した。
 玲は軽く浮気のできるタイプじゃない。--隆史の時だって、結局本気になってしまった。隆史にも徹にも本気だったから、ややこしくなってしまったのだ。それに浮気をするなら何も、徹に宣言しなくたってよさそうなものだ。それだけでスリルの大半はそがれてしまう。
 俺は頭を抱えた。
 わからないということは、やっぱり--徹の指摘が正しいのだろうか。
 玲は俺の中に、昔の男の面影を重ねてつきあっているのか。
 死んだ男の--
 俺はよくは知らない、会ったこともない。まだ徹が玲とつきあう前、玲を見て、--多分愛して、玲をかばって死んだというやつ。
 雨の日には思い出すというやつ。徹にさえも立ち入らせないという--
(--きっと、ずっと、ずっと--好きだったんだ、ずっと、死んだやつに抱かれたいと思ってたんだ)
 あんなに冷たいポーカー・フェイスをして、あんなに徹のそばで笑っていて、その蔭で玲は別の男のことを考えていたというのか。二度と会えないやつのことを。そして俺に抱かれるたびに、--あんなに声をあげて鳴くたびに、別の男に抱かれる夢を見ていたというのか。徹、それを俺に我慢しろと・・・
 嫌だ。俺は身代わりじゃない。俺は俺だ。ほかの男なんかじゃない。
 玲を愛しているのは俺だ。玲を抱いているのも、この俺だ。俺は幽霊でも、ゾンビでもない。生身の人間だ。
 玲の目が俺を通り過ぎてその背後を見、玲の身体が俺ではなくその幻に応えているなんて--それでは俺は、俺の存在は--
 --だが、本当に?
 本当に俺は身代わりなのか?
 俺は会社で、その行き帰りで、玲のポーカー・フェイスを見つめていた。
 訊いてしまえばはっきりするのだ、頭の裏でそんな声がした。確かにこれまでの俺なら、即座に玲をとっつかまえて、ことの真偽を問いただしただろう。しかし--
 もし「そうだよ」と言われたら。
 こともなげに言われてしまったら--
 俺はそれでジ・エンドなのだ。
 俺に気づかれたとわかったら、玲はデートをやめるだろう。そんなになってまだ続けるほど、彼は神経が太くない。--そうなれば。
 俺は二度と--もう二度と、玲の素顔を見られなくなるのだった。あの無防備な少年のような笑顔。安らかな寝顔。俺に抱かれて、俺に応えて喘ぐ顔--
 全身が震えた。
 そりゃ俺だってこれまでの人生で、失恋がなかったというわけじゃない。葉子さんにも振られたし、ほかの女に逃げられたこともある。でもそんな時俺はいつも、「ほかにも女はたくさんいる」と自分で自分に言い聞かせてきた。
 だが、玲はひとりだ。--玲はひとりしかいない。世界中探したって、こんなやつはいない。一度逃したら、もう二度と巡り会うことなんてできない。その玲と別れたら--俺は一体、どういうことになるのか?
 俺は頭を振った、悪寒がした。身体中の細胞が、嫌だ嫌だと泣き叫んでいた。俺は別れない。別れられない。どんな拷問だってそれよりはましだ。
 毎日玲を見るたびに、訊きたい、訊いてしまいたいという俺と、訊いてはいけない、訊いたら終わりだという俺が、俺の中でせめぎ合う。一秒ごとに振り子が端まで振れるのだ。俺は頭が割れそうだった。
 だから定期デートを2日後に控えたある日、たまたま玲を自宅まで送りながら俺はついに--我慢ができなくなったのだ。




33


 きっかけが何だったのか、はっきりとは思い出せない。
 昼間の仕事のトラブルが夜までもつれ込み、解決をみたのが結局夜の9時過ぎだった。徹は別件で出かけていたので、俺が玲のドライバーになった。
 玲は疲れていただろうに、俺の前ではしゃんとしていた。大体デートの日以外は、たとえ俺とふたりきりになった時でも絶対にプライベートな話をしないのだ。甘えたふりなど、微塵も見せない。冷たい他人の顔だった。
 俺たちはしばらく仕事の話の続きをし、それが不意に--沈黙に変わった。
 玲はじっと前を見ている。白く整った横顔にかすかに疲労が滲んでいた。信号で停まった拍子に軽くため息を漏らす。喉ぼとけが動くのを見て、俺は不意に胸苦しくなった。ポケットに手を入れる。
「--あ」
 玲が振り向く。
「--悪い、ちょっと煙草を買いたいんだけど--いいかな」
 次の角を曲がってしまうとお屋敷街で、もう自販機がない。俺はまっすぐ坂を登って車を停め、キャメルを仕入れてドアを開けた。
 玲は眠っていた。
 --余程疲れているんだろう。俺は静かにドアを閉め、少し先まで車を走らせて、公園脇の道路に停めた。外灯の灯もここまでは届かない。
 窓を開けて煙草の煙を吐いていると、背後で軽く唸る声がする。俺は顔を近づけた。少し寄せた眉の下に長い睫毛が震えている。
 --玲、とそっとつぶやいた。
 わかるか、玲、俺だ--俊男だ、俺は幻なんかじゃないぞ。
 俺はゆっくりと彼の上に覆いかぶさって、唇を重ねた。
 急に、腕の中で身体が弾けた。玲が俺を押しのけようとする。俺は腕をゆるめない。彼がもがく。俺が抱きしめる。もつれ合ったままシートを倒し、俺は全体重をかけて彼をがっしりと押さえ込んだ。唇を唇で塞ぎながら、利き腕を下に伸ばす。素早く彼のベルトをはずし、ファスナーを下げて手をもぐり込ませる。--小さなビキニの中に指を入れる。やわらかく湿った肉が震えていた。
「--俊男」
 玲がやっと唇から逃れて声を出す。俺は指を使い始めた。
「--やめろ、俊男--」
 手の中のものが熱く火照り出す。
「--やめろ、こんなところで--」
 玲が身体をよじる。俺は脚を絡めてそれを封じる。手の中のしこりがだんだん固くなる。ぴくぴくと嬉しそうに動き出す。
「俊男!」
 玲が真っ赤な顔で叫んだ。
「・・・俺の家に行こう」
 彼が一瞬、身を固くする。
「--行こう、玲」
 俺は繰り返す。
「何を--今日はまだその日じゃ--」
「行こう」
「--嫌だ」
「玲」
「ルール違反だ、それは--」
「恋愛にルールなんかあるか!」
 俺は怒鳴った。--玲が息をつめる。
 俺は勢い良く手を動かし始めた。
「--やめろ--俊男」
「行くか」
「--俊男!」
「行くならやめる」
 玲が唇を噛む。--答えない。ぷいと横を向く。その顔がますます赤く染まっていく。手の中のものははちきれそうだ。きつく目を閉じる。唇をぎゅっと噛みしめる。あごが細かく震えている。
「--玲」
「--」
「・・・来てくれ」
「--」
「来てくれ--頼む」
 彼が振り向く。俺は手をとめた。
 瞳の中に、泣き出しそうにゆがんだ俺の顔が映っていた。




34


 ギイ。マンションのドアが重い金属音をたてる。
 俺はゆっくりと鉄の扉を開けると、無言で玲を招き入れた。
 シャム猫が玄関まで迎えに出ている。俺は軽く頭を撫でると、キッチンで猫の餌を替えた。玲は黙っている。
 もちろん今日はデートの日じゃない。恋人の顔はしなくてもいい。ではポーカー・フェイスをすべきかどうか、彼自身も迷っているのかもしれない。
 俺は玲に近づいて、軽く抱きしめながら接吻する。彼はためらいがちに俺に応えた。俺は舌を入れながら、目を開けて玲の顔を見る。--目が、合った。
 勝気そうなまなざしの奧に、かすかに不安が揺れている。固い岩のようなガードの間から、やわらかい生の感情が染み出すのが見えた。
 思わず--抱きしめた腕に力が入る。俺は唇を強く吸う。俺の舌が中で動くたびに白い顔にぱあっと朱が散る。腕の中の身体が震えている。熱い--男の身体。
「--玲」
 俺は耳もとでささやく。
「・・・力を抜け」
 玲が俺を見る。
「--もっと、俺にもたれていいから」
「--」
 一瞬、彼の全身が石のように固くなった。玲はバネ仕掛けのように俺の身体を押しのけ、飛び退いた。--全身に拒絶を表して、俺を見る。
「--玲」
 --どうして。
「・・・玲」
 どうして拒むんだ。
 俺は玲に近寄った。彼が後ずさる。1歩近づいた。1歩後ろへさがる。
 --玲。
 見開かれた大きな瞳が俺をじっと見つめている。
 --俺がおまえの--和彦じゃ、ないからか?
 俺は身代わりの--
 身代わりの、俺でしかないのだ。
 突然、言いようのない口悔しさが濁流のように胸に渦巻いた。
 好きだ、玲。
 好きなんだ--それでも、
 俺は俺でしかないのか。
 おまえにとって一片の値打ちもない--
 どんなに、どんなに願ってもそれは無理なのか。
 どんなに俺がのたうちまわろうと、
 どんなに声を涸らして泣き叫ぼうと、
 おまえは俺を見てくれないのか。
 なぜ?
 --俺が和彦じゃないから。
 俺が和彦の身代わりに過ぎないから--
 俺のまわりからすべての景色が飛んで消えた。
 俺は玲に襲いかかった。




35


 俺は玲を服のまま、無理矢理ベッドに転がした。すぐに俺が被さって、上から身体を抱え込む。布が裂ける音がした。俺は両手で彼のそれぞれの手首を持ち、徐々にずらして頭の上にあげる、左手で両手首をまとめて固定すると、空いた手でベルトを抜いた。スラックスとビキニを同時に脱がせる。膝の上まで手で下ろしてから、足で押し出して足首まで剥いた。俺もトランクスを脱ぎ捨てる。ワイシャツの裾が邪魔で、結局上半身も全部脱いだ。俺は全裸に--ソックスだけを穿いている。玲はそれを黙って見ていた。ビキニが足首からそっとはずれた。
 俺は仰向けにした彼の脚を肩に高く抱え上げると、ゴムもゼリーも、--前戯さえなく、いきなり彼の中に入った。固く閉じた門が弾くように俺を阻む。俺は渾身の力を込めて、一気に貫いた。玲が叫び声をあげる。身体が上にずり上がる。その肩を持って力任せに引き戻した--刺すような痛みがペニスに走る。俺はゼリーだけ着け直して、また玲の中にぐっと入った。きつい。狭く険しい肉の亀裂を俺はえぐるように掘り進む。締めつける肉の壁。ねっとりとした熱い岩盤を俺の傘がこすっていく。俺の火芯は爆発しそうだ。喉から声がほとばしる。
 玲が右に左に身をしならせる。熱い息の下で身体が縞蛇のようにくねくねと跳ねる。きつくしかめた眉。苦しそうな喘ぎ。時折耐えきれず叫び声が漏れる。
 痛いか、玲。--痛いか、俺が。身代わりの俺でも、そんなに痛いか。
 どんなやつだった、そいつは。俺よりいい男か、俺よりでかいのか、俺より上手いのか--おまえは今でもそいつを見てるのか。
 俺が抱いてても。俺よりも--
 俺は絶叫した。
 どんなに惚れてても、俺は俺でしかないのだ。
 俺は何もできない。
 俺は、何にもなれない。
 俺はただ1/30の、あてがわれた代用馬でしかないのだ。



 --どれほど時間がたったのだろう。
 気がついた時、俺は玲の身体の上に覆いかぶさったまま--肩で息をしていた。腰は彼から離れていた。いったのだろうか--それすらも覚えていない。俺は彼の身体の中に出してしまったのだろうか。
「--俊男」
 耳の近くで声がした。--俺は顔をそちらに向ける。
 汗で髪を乱した玲がじっと俺を見ていた。
「・・・何かあったのか」
「--」
「何があったんだ」
 言えるわけはなかった。
「--言ってくれ、俊男」
 --何を?
「俊男!」
 何を言えと言うんだ?
 俺の心のどこを探したって、おまえの名前しか出てこない--
 それなのに、おまえの中にはこれっぽっちだって俺なんかいないんだ。
 --俺はセックスだけの男だものな。
 それしか取り柄のない、代用馬なんだ。
 代用馬のくせに勝手におまえに惚れて--
 徹の恋人だって--結婚式まで挙げたパートナーだって知ってて、無理矢理おまえを抱いて--それも徹に頼まれた留守中に、泥棒のようにおまえを抱いて。
 徹に頼まれたボディ・ガードの仕事中に、脅すようにおまえを襲って。
 --俺はそんなやつだ。そんなやつに何を言えと言うんだ?
「--俊男」
 そんな顔をするな、玲。俺にやさしくなんかするな。
 そんな綺麗な顔をして、心配そうに俺を見るな--
「俊男」
 熱いものが喉をせりあがる。俺はぐっと唇を噛んだ。
「--俊男」
 おまえの前でだけは、泣きたくない。
「・・・帰ってくれ」
「--え」
「帰ってくれ!--今、おまえの顔を見たくないんだ」
 行ってしまえ、行ってしまえ、玲。
 --これ以上、俺を苦しめるな。
 玲が息をつめる。俺は固い調子で繰り返した。
 彼はしばらく俺を見ていた--が、やがてあきらめて身支度を始める。
「じゃ--帰るから」
 鉄扉がガシャンと閉まった時も、俺はまだベッドの上に目を伏せていた。
 猫だけが客を見送った。



 俺はのろのろとベッドから降りようとして--ふと、気づいた。
 この高台のマンションから下の--車の拾える道路まで、15分は歩かなければならない。--深夜だ。玲には道がわかるだろうか。
 俺は車のキーをつかんだ。



 細っこい月の光が夜道を頼りなげに照らしている。
 マンションから少し坂を下った住宅街。ヘッド・ライトの輪の先にぽつんと白い姿を見つけて、俺は安堵のため息をついた。ゆっくりと人影の脇に車体を寄せる。影はまっすぐ前を見たまま、振り向きもせず歩き続ける。
「--玲」
 俺は呼びかける。玲はかたくなに歩調を変えない。
 --怒ってるのか。そりゃ--そうだろうな。
 しばらくのろのろと玲に合わせて徐行した後、とうとう俺は舌打ちをして車を停めた。
 車外に出て彼を追いかける。
「玲!」
 俺は背後から彼の肩をわしづかみにした。
 玲が驚いたように俺を見る。
 息が--とまった。
 振り向いた彼の白い頬にまた新しい涙がつうっと伝って落ちた。
「--玲・・・」



 --俺はその夜、とうとう玲を自宅に送らなかった。
 彼を乗せたハイラックス・サーフはUターンして俺のマンションに戻った。
 俺は決心したのだ。
 --もうどんなことがあっても、玲は手放さない。
 徹のもとへは帰さないと。




36


「--ああ、僕だ。--連絡が遅くなってごめん。--今、俊男のところにいる。今日はこっちに泊まるから。・・・え?--うん、体調はいいよ。明日はいつも通り出社する。・・・ああ、わかった。--じゃ」
 玲は徹への電話を終えるとユニット・バスに姿を見せ、ショッキング・ピンクのゼリーの海に腰までつかっている俺を見て、ちょっと笑った。
「--早く来いよ、ゼリーが寒天になっちまうぞ」
 皆まで俺が言い終わらないうちに、服を脱いで入ってくる。狭いバスタブに折り重なるようにして身体を密着させ、ぬるぬるしたあたたかいゼリー・バスの中でお互いの身体に触り合う。
 あたたまってからシャワーで流し、髪を乾かしてベッドに入る。玲は俺のパジャマを着て、ごく自然に俺の腕の中に入ってきた。
 --少し、身体が震えた。どうしたのだろう。--もう何回も抱いているのに。もう何度も馴染んでいたはずなのに。
 --俺は壊れものを扱うように、そっと彼を抱きしめる。彼が俺の肩に頭をあずける。ふわりと髪が匂い、やわらかな息が首すじにかかった。
 俺はじっと目を閉じて、彼の重みを全身で感じる。
 少し腕に力を込めて、彼の量感を肌で確かめる。
 --玲。
 ゆっくりと、潮が満ちるように俺の中にあたたかいものが満ちてくる。
 たっぷりとした湯にゆらゆらと身体を浮かせているような心地よさ。
 何もかもが--もう、どうでもいいと思えてくる。
 ・・・俺が誰でも、いいのではないか。
 俺が昔の男であろうと--なかろうと。
 俺が身代わりであろうと--なかろうと。
 今、この腕の中におまえがいれば、もうそれだけで十分なのではないか。
 俺がおまえを愛していれば、他に何がいるだろう。
 おまえだけが、いればいい。
 この世のすべてをなくしても、
 俺にはただ、おまえだけがいればいい。
「--俊男」
 玲がささやく。
「・・・何を考えてる?」
 俺は微笑む。
「--もう・・・しないのか?」
「してほしいのか?」
 玲が黙る。--沈黙の中にかすかに羞恥の色が見える。
 不意に喉の渇きを覚えて、俺は彼の首すじに接吻する。パジャマのボタンをはずし、襟を大きくはだけて首から鎖骨にも唇を這わせる。それから桜色の乳首をめざそうとして--
 白くなめらかな肌に、そこだけミミズのようにひきつれた傷痕に出会う。
 徹が--ナイフで玲を刺した傷痕。
(僕はそいつに嫉妬したんだ)
 俺が初めて玲に会った時、そのせいで彼の左腕はつけ根から動かなかった。
 可哀想に--可哀想に、玲--
「俊男」
 俺は我に返る。
「--どうしたんだ?--今日は--いつもと違うね」
「--玲」
 彼が透明な目で俺を見る。
「・・・愛してる」
 その瞳が大きく見開かれる。
「玲」
 不意に彼は顔をそむけ、2、3拍息を鎮めてからぎこちなく俺の腕から離れようとした。俺は背後から彼を抱きすくめる。こわばった身体。
「--玲」
 首すじに熱い息をかける。
「--玲、--ずっとここで暮らさないか」
 腕の中で、息を飲む気配がする。
「好きなんだ」
 好きなんだよ--おまえが。
「・・・俊男」
 低く、押し殺した声。
「--僕は--」
「いいんだ、--わかってる」
 俺は遮った。
「いいんだ、俺は・・・身代わりでも」
「--」
「おまえが俺のことを見ていなくても--おまえが和彦のことをまだ想っていても--いいんだ、俺は--」
「--」
「俺はそいつの影でいい」
「--」
「--俺がそいつの分まで、おまえのこと愛してやる、そいつの分までおまえを護ってやる--だから安心していい、--ひとりで悩まなくてもいいんだ、玲」
 俺は玲の薄い耳たぶに唇をつけた。
「--俊男」
 乾いた声が前から聞こえる。
「・・・どうして君が、和彦の名前を知っているんだ」
 --え。
 俺は、つまった。
「--徹か」
「--」
「彼から聞いたのか--彼が、そう言ったのか」
 鋭い声だった。--隠しようがない。
「--そうだ」
「--徹が--」
「玲」
 俺は抱きしめた腕にぎゅっと力を込める。
「--わかってやれ、徹はおまえの胸の傷のことで苦しんでいるんだ」
「--」
「その--和彦ってやつに嫉妬して、おまえを--刺してしまったって--だからおまえは徹に気を使って、和彦のことをひとりで抱えこんじまって--惚れてるくせに--今でもそいつを愛してるくせに、おまえは--」
「俊男」
「--大丈夫だ、玲--俺は大丈夫なんだ、--俺は身代わりだって何だってかまわない。おまえさえいてくれれば、俺はそれでいいんだ--俺は」
「--」
「好きなんだ、玲--好きなんだ、おまえの何もかもが、俺は好きなんだ、だから--」
 俺は玲を背中から抱きかかえたまま、両腕で揺さぶった。
「・・・徹が--」
「徹のことなら、大丈夫だ--あいつはおまえを俺に任せたんだ」
「--え?」
「おまえを頼むって--俺に言ったんだ、だから大丈夫だ--心配いらない」
「--」
「玲」
 俺は彼の肩を持ってこちらを向かせようとする。彼は身を固くして、じっとシーツにうずくまった。
「・・・玲」
「--俊男」
 短い沈黙の後、彼は振り向いた。
「・・・返事--すぐでなくちゃいけないか?」
「--いや・・・おまえのいい時でいいけど・・・」
 我ながら、歯切れが悪い。--玲の顔がほころんだ。 
「俊男の気持ちはよくわかったよ。・・・ありがとう」
 そう言って、玲はにっこり笑った。
 やさしい笑顔だった。




37


 異変は、明け方に起こった。
 かすかに聞こえてくる物音で、俺は突然目が覚めた。
 何か、変だ--空気がざわついている。
 胸騒ぎがした。
 急いで隣に目を走らせる。そこで寝ているはずの玲が--いない。
 痛いほどに動悸が高まった。
 俺はゆっくりと上半身を起こし、部屋の中を見渡す。
 --ぎくりとした。
 リエだ。いつもソファの隅で丸くなって寝ているリエが、闇の中で青い炎のような目を光らせて俺の方を見つめている。俺は唾を飲み込んだ。
 そろそろとベッドを降りてドアに向かう。
 がた、とまた音がした。LDKからだ。
 ノブに手をかけた時、押し殺したうめき声が耳に飛び込んできた。
「・・・ううっ・・・」
 --肉の焦げる匂い。
「玲!」
 俺は部屋に駆け込んだ。
 キッチンカウンターの前の床に、上半身裸の玲が膝をついている。左手を床について支え、右手で握ったものを胸にしっかりと押しつけながらぐいぐい皮膚にねじ込んでいる。俺は彼の前にまわった。
 --途端に、心臓がせり上がった。
 煙草だ--火のついた--キャメル--
 それを自分の胸に--
「うう・・・」
 苦痛にゆがんだ顔の上を脂汗がぼとぼととつたって落ちる。じゅっ、と鈍い音が続いて、また肉の焦げる匂いがした。
「な--何をやってるんだ!」
 俺は、玲の右腕をつかんでがむしゃらに胸から引き剥がそうとする。彼がその俺の腕を凄い力で引き戻した。揉み合いになる。赤い火が薄闇の中でペン・ライトのように激しく揺れた。
「離せ!こんなものが--」
 玲が叫ぶ。別人のように声が割れている。
「こんなものがあるから--」
 俺はとっさに彼の胸を見る。じりじりと不気味に焦げる火傷痕が--ひきつれたナイフの傷痕の上に重なっていた。
「こんなものがあるから徹は--徹はいつまでも僕を--」
 --思わず、俺の手がゆるむ。弾みで赤い火が玲の胸にぶつかる。彼が呻いた--が、火を身体から離そうとしない。じゅうっという音と煙が広がった。
「--玲!」
「邪魔するな!」
 あっと言う間に俺の腕を振りほどいて後ずさる。死人のように青い顔。目は泣き腫らしたように血走り、唇は絶望でゆがんでいる。じりじりと、また肉の焼ける厭な音。--煙草を持つ彼の手に青白い血管が浮き出した。
「--玲」
 俺は睨み合ったまま、間合いをつめる。
「玲・・・それを寄こすんだ」
 彼がかぶりを振る。
「玲」
「--」
「玲--徹は--」
「徹は信じないんだ!」
 彼が顔をゆがめて叫んだ。涙がぼろぼろと流れ落ちる。
「--どれだけ--どれだけ言っても--どれだけ説明しても--和彦のことを--」
 何だって?
「--僕に--どうしろというんだ--僕が--僕が、徹とつきあう前に和彦と知り合ったということがそんなに気に入らないのか--そんなに許せないのか--」
「--」
「そんなに・・・許せないのか--」
「--玲」
「そんなに--僕は」
「--」
「・・・あいつを苦しめるのか--僕は--」
「--」
「僕は・・・」
 いつの間にか彼は両手をだらりと下げ、目の前の床に向かってぶつぶつとつぶやいていた。そこに徹がいるのか、それとも別のものがいるのかはわからない。声は徐々に低くなり、ほとんど聞き取れないほど小さくなった。
 不意に、ぷっつりと言葉が途切れた。
 煙草が手から落ちる。
 玲は糸の切れたあやつり人形のようにその場にへたへたと座り込んだ。放心したような顔には何の表情もない。--そのまま、ぐら、と身体が傾いたのを見て、俺はあわてて駆け寄り、彼の身体を支えた。玲を見る。ガラスのような瞳には何も映っていなかった。
「玲!・・・玲!」
 俺は必死で彼を揺さぶる。彼の頭ががくがくと揺れる。長い睫毛がゆっくりと閉じられ、彼の身体からすべての力が抜けた。



 白い胸にはどす黒く焼け焦げた火傷の痕が点々と続いていた。




38


 玲が意識を取り戻したのは、秋の遅い太陽がやっと登りはじめた頃だった。
 窓の下からは早朝ジョギングや犬の散歩に出る人たちのなごやかな朝の挨拶が聞こえてくる。
「--おはよう」
 俺はベッド・サイドの椅子から声をかけた。彼は俺の方を見上げると--不意に眉をしかめ、毛布をはねのけて自分の裸の胸を見た。顔色が変わる。
「--覚えてるか?」
 答えはない。--訊き返してこないのが答えだった。
「いちおう消毒だけしといた。--病院に運ぼうかと思ったけど、おまえが落ち着く方が先だと思って」
「--」
「・・・どうする?」
 さりげなく訊いた。
「--え」
「--病院へ行くか?」
「--いや」
 玲は少し微笑んだ。
「薬なら家にあるから大丈夫だ」
 思わず表情が硬くなる。--彼はそんな俺をちらっと見た。
「--でも今日は、ここからまっすぐ会社に行くよ」会社の医務室だってあるしね、と彼は続ける。
「・・・あっちには、まだ連絡してないから」
 徹のことだった。--初めてだった、彼のことを「あっち」と言ったのは。
 玲は黙っていた。



 マンションの駐車場で彼を車に乗せてから、俺は一度部屋に引き返した。
 --会社の医務室だって、変な噂が広まるのは困る。念のために消毒薬と包帯くらいは持っていった方がいい、と気づいたからだ。
 鉄扉を開けて目当てのものを手にし、急いで部屋を出ようとして、俺はちょっと、足を止めた。習慣的に猫の餌の器を見る。
 --減っていない。そういえば今朝はキャット・ミントの鉢に鼻を突っ込んでいるのを見かけたきり、俺たちが出ていく時も見送りに来なかった。もしかして--
 うっかりテラスに閉じこめてしまったんじゃないだろうか。
 俺は大股でLDKを横切って、テラスに通じるガラス戸を開けた。ミャーとか細い声が答える。テラスの一番端の白木の椅子にリエが丸まっていた。
 思わず、俺の頬がほころぶ。
「おい、そこは玲の専用席だろう」おまえもあいつが好きなのか?
 俺は身体を斜めにしてやっとテーブルの横をすり抜け、椅子の前でシャム猫を捕らえた。しなやかな身体を胸に抱き上げ、一緒に外を見る。
「ほら、いい眺めだろ。--見えるか?海が」
 白銀の朝の光が甍の波の上にこぼれ落ちる。さわやかな風が頬を撫でた。
 俺は首を大きくまわして--ふと、妙な気持ちになった。
 海が--ないのだ。
 確かに、テラスの一番端のこの場所からは、--ほんの少しだが--海が見えていたはずだ。親指の爪くらいの、輝く海が。
 俺はじっと考えて--思い当たった。この建物から少し離れた私立の短期大学が、去年から増築工事を始めていたのだ。青いビニールシートに覆われた工事中の新校舎が視界を塞いでしまったのに違いない。
 ちぇっ、俺は心の中で舌打ちした。
 せっかく海が見えてたのに。
 玲だって、あんなに楽しみにしていたのに--
 ・・・え?
 不意に、頭の芯にぼっと火がともった。
 ちょっと待て--待つんだ。
 --玲が初めてここへ来たのはいつだ?・・・夏。--確か、7月だ。
 2回目のデートの時、玲は車で気分が悪くなって、俺がここにかつぎ込んだ。--その翌朝だ、彼がリエを胸に抱いてこのテラスから外を見ていたのは。
(高台だから風が通るんだね、ここ--それにあそこに見えるのは、海かなあ)
 増築工事が始まったのは去年の冬。--今年の夏にはもう青いビニールシートが出現していたはずだ。
 海なんか--見えなかった。
 あの時--玲は海なんか見ていなかったのだ。俺に内緒でテラスに出ていて--見つかったから、そう言っただけなのだ。
 胸が火であぶられているようにじりじりと燃える。俺は大急ぎで記憶のカレンダーをめくった。
 --あれからだった、玲と俺がデートの日の大半をこのマンションで過ごすようになったのは。玲はこのテラスからの景色が好きで、しょっちゅうここから外を見ていた。俺は海を見ているのだとばかり思っていた。
 白いベールに包まれた夏の朝、時がとまったような音のない昼下がり、夕涼みの風に吹かれた夏の終わり、金色に輝く秋の落日--
 彼はいつもこのテラスから外を眺めていた。眩しそうに目を細め、形のいい唇をきっちり結んで--
 強い陽射しに濃い蔭をつくり、夕陽に顔を染めながら、ただいつまでも外を見ていたのだ。
 一体、何を。
 俺はもう一度、目の前の風景のひとつひとつに焦点を合わせて舐めるように検分する。目が短期大学の校舎を過ぎ、真横の公園に移った時--
 きらっと光が反射した。
 俺のまわりで、世界が、ゆっくりととまった。
 まわりの音が遠ざかっていく。
 --知らなかった、俺は--今まで。
 このテラスから、あの家が見えていたなんて。
 徹と玲の住む、あの藤坂の屋敷が見えていたなんて。
 緑の樹々の間に見えかくれする銀色の屋根、それが玲にとっての海だったのだ。
 いつもいつも見続けていたのは、徹の住む銀色の海だったのだ。
 ぐにゃりとした俺の腕からリエがするりとすり抜けていった。




39


「もしもし、--徹か、俺だ」
「ああ、俊男、--玲ならもう出たよ、1時間も前に」
「いや、・・・玲じゃなくて、--おまえに話があるんだ」
 徹は、ちょっと黙った。
「時間があまりないから、手っ取り早く言うぞ。--最近、玲に変わったこと、なかったか」
「--」
「--聞こえてるか?」
「聞こえてるよ。・・・いきなり、何なんだ?」
 むっとした様子が見て取れる。
「怒るなよ、大事なことなんだ--身体のことで--何かなかったか?」
「--何かって、どういうことだ」
 俺は、つまった。
「・・・この2、3日、玲とやったか?」
「何だと」
「--やってないのか?--風呂にも一緒に入ってないのか?」
「いい加減にしろよ!」
 徹が怒鳴った。
「何でそんなこと、いちいちおまえに報告しなきゃならないんだ」
「--」
「・・・身体のことなら、言ってたよ。--おととい、おまえのところに泊まった時--少し怪我をしたからって。・・・おまえ、無理させたんじゃないのか、玲が--華奢なの、知ってるはずだろう」
「--」
「そんなことをわざわざ訊くために電話してきたのか。それなら今日、玲の身体を見ればわかるだろう。自分で確かめてみろよ--切るよ」
「待て、徹」
「--何だ」
「おまえは間違ってる」
「--何だと?」
「おまえは根本的に間違ってる」
「何を言ってるんだ?」
「--和彦のことだ」
 軽い沈黙があった。
「玲が今でもその--和彦とやらを想ってるというのは、おまえの勝手な思い込みだ」
「なに?」
「玲の身体に傷痕が残ったから、おまえが毎日それを見ていて忘れられないから、--そいつに嫉妬してるだけの話なんだ。おまえはそいつの幻に踊らされて、玲が今でもそいつを好きなんだって勝手に決めつけて、勝手に悩んでるんだ--いい迷惑だ、俺は」
「--何でおまえに、そんなことがわかるんだ、何で--」
「玲が言ったんだ」
 電話の向こうで、息を飲む気配がした。
「--どれだけ説明しても徹は和彦のことを信じてくれない、こんな傷痕があるから徹はいつまでも自分を信じないんだ、と言って--」
「--」
「自分で自分の胸に煙草の火を押しつけて、傷痕を焼き消そうとした」
「何だって?そんな--馬鹿な、玲が--そんな馬鹿なことをするはずが--」
「錯乱してた」
 徹は黙り込んだ。--荒い息だけが伝わってくる。
「・・・徹」
「--」
「もうひとつだけ、いいか」
「--」
「おまえ、--隆史のアパート、覚えてるよな」
「--アパート?」
 意外そうな声。
「そうだ。玲と隆史が暮らしていたアパート。--よく張り込んでたよな、俺たち」
「--」
「おまえ、何であの時、アパートに踏み込まなかった」
「--え?」
「何で無理矢理にでも、玲を連れ戻しに行かなかったんだ」
「--」
「2週間--だっけ、もう少しだっけ--ずっとアパートの下で見ていながら」
「--」
「・・・今度だって、そうだ」
「今度?」
「月イチのデートの時、玲が俺のマンションにいたこと--知ってるよな」
 そうだ、玲はホテルや外に出かけるよりも、俺のマンションで過ごしたいと言っていたのだ。その方が彼の性分に合っていたのは確かだけれど、彼自身も気づいていない別の理由があったのではないだろうか。それは、俺のマンションなら--徹が知っている、ということだ。
「おまえ、何で玲を迎えに来なかったんだ」
「何でって--」
「何で自分で迎えに来ないで、俺にあいつを頼むなんて言ったんだ」
「--」
「おまえの気持ちはその程度なのか--そこまで醒めてるんなら--」
「醒めてなんかいない」
「じゃ、なんだ--意地か」
「--」
「玲が自分より若い男に惚れたり、俺なんかと浮気したいなんて言い出したから許せないのか。--だから自分から折れるのは嫌なのか」
「--」
「--だけどな、玲が湖に飛び込んで、一命をとりとめた時、おまえは何て言った?--ただ生きていてくれただけでいい、そう言ったんだぞ、忘れたか」
「--忘れてないよ--だから」
「--」
「だから僕は、玲のことを見ていよう、ずっと見守っていようと思ったんだ」
「馬鹿!人形じゃないんだぞ。見守っているだけなんて、そんなのあるか」
「--」
「徹、正直に言えよ、--やってないんだろう」
「--」
「--俺が玲とつきあい出してから、おまえ、あいつと一度もやってないんだろう」
「・・・一度も、てわけじゃないよ」
 玲の馬鹿野郎、何が(してるよ、ちゃんと--毎晩)だ。涼しい顔して嘘つきやがって。そうと知っていたら--
「ただ僕は、--玲が和彦を好きなんだって思ってたから--他の男に惹かれてるやつを抱くなんて--苦しくて。何だか、抱いてても、ものすごく--苦しくて」
「--」
「抱いてる最中に叫び出しそうになったり--大声で泣きたくなったりして--でも、玲には--玲だけには、そんなところを見せたくないし--だから・・・」
「--」
「--おまえの言うような男の意地、なんていうような立派なものじゃないんだ」
「徹」
「--」
「あいつ、待ってたぞ」
「--」
「おまえが迎えに来るのを--ずっと」あのテラスで、いつも。
「--」
「--行ってやれ」
「--え」
「あいつはおまえがいないと壊れちまうんだ--また、湖に飛び込ませる気か?」
 俺は笑った。
「俊男--でも」
「馬鹿。おまえはさんざん自分が傷ついてると思ってるだろうが」
「--」
「おまえが迎えに来ないことで玲がどれほど傷ついているかわからないのか?」
「--俊男」
「Nホテルの1507号だ」
「--」
 彼が黙った。
 不意に、俺の背後で搭乗アナウンスが流れた。
「俊男、--おい、そこはどこなんだ?--空港か?」
 --しまった、だから、早く切り上げようと思ったのに。
「俊男、返事しろ!」
「・・・バレたか。徹、いろいろ世話になったけど--俺、帰るわ、宮崎に」
「--おい、そんな急に--」
「--まあ、俺の場合そんなに急でもないし」
「--」
「また電話するしさ、会社の方もちゃんと始末はつけるからカンベンな」
「俊男、待てよ」
「待たないよ。--はじめからこうすりゃ良かったんだ。あの日--名神で事故なんかあったから、ちょっと遠まわりしちまっただけだ」
 遠まわり--長い遠まわりだったな。
「玲とうまくやれよ、徹。あいつはおまえが考えているのより100倍は、おまえのこと惚れてると思うよ。--もっともあいつのことだから、口が裂けてもそんなこと言わないだろうけど」
「俊男--」
「じゃ、な、徹。悪いな、--俺はあて馬はご免なんだ」
 俺はゆっくり携帯電話のスイッチを切った。



 ああ、終わったな--そんな気がした。
 なにもかも、終わった。
 また気楽な浮き草暮らしだ、--悪くないね、それも。 
 搭乗時間まではまだ間がある。俺は宮崎の知合いに土産のひとつでも仕入れていこうとして、旅行鞄に身をかがめた。
「ずいぶんだね--あて馬だなんて」
 背中に声が振りかかった。よく通る明瞭な声。
「僕は君のこと、あて馬だなんて思ったことは、ただの一度だってないよ」
 俺は振り返った。
 背丈ほどもある観葉植物の隣に、玲が立っていた。






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