■番外編 dark side パイプハウス 内藤更紗

パイプハウス




prologue -プロローグ

 南京町の、S商会の王さん。
 --とっさに、よく思いついたものだ。
 藤坂玲はモーニングのタイを緩めながら、ホテルの廊下を急いでいた。
 耳の奧には、いましがた式場で弾けた爆竹の音がまだ残っている。
(結婚式を中止せよ。さもないと命は保証しない)
 1週間前に届いた脅迫状の文面。
(いい度胸だな。式の後、今から言う場所にひとりで来い)
 爆竹直後に携帯電話にかかってきた男の声。
 覚えたての北京語で、なんとか会場はごまかしたが--
 --徹。
 たった今、式をあげたばかりのパートナーに、玲は何も話さなかった。
 大丈夫だ、これは僕の問題だから。
 玲は唇を噛みしめた。
 指示された扉を抜けて、バックヤードに出る。照明が一段と暗くなる。「リネン室」のプレートの前で彼は立ちどまった。
 しばらく息を整える。
 音はない。ドアのノブに手を掛けて、一気に開けた。
 蛍光灯の下にひとりの男がいた。
「久しぶりだな」
 黒縁の眼鏡の奧がきらりと光って、玲を見た。



Act.1 -秘密基地

 俺が生まれたのは、太平洋に開いた大きな湾内の地方都市だ。
 人口、約12万。かつての城下町に昔日の面影はない。城跡にはかろうじて石垣だけが残され、閑散とした公園の裏山に灰色の公務員団地が並んでいた。A棟104が俺の家だ。
 親父は県庁に勤めていた。お袋は教師だ。上に兄が2人いる。女はお袋ひとりだから、いつも何やら忙しがっていてキイキイ言っていた。
 ああ、女の子を産めばよかった。女の子だったら母さんを手伝ってくれるのに。男なんてうるさいだけだわ。なんであたしばかり苦労しなくちゃならないんだろう。
 そりゃないぜ、母さん。
 上の兄貴の話だと、俺たちはオルガスムス、とやらの結果だそうじゃないか。
「何?にいちゃん、そのオル・・・なんとかって」
 小学4年生の俺を物陰に連れ込んで、目をらんらんと光らせながら兄貴は講釈をたれたものだ。
「男と女がアレ、すんだろ?そんときに女が気持ちよがってアンアン言ったらさ、生まれるのは男なんだ」
「アンアン・・・?それ、誰が言うの」
 兄貴は馬鹿にした目つきで俺を見る。
「お袋に決まってんだろ」
「・・・何で言うの?」
「親父のアレが気持ちいいからだよ」
 アレって・・・アレかなあ。俺は、前に兄貴の部屋の押入で見た雑誌を思い出した。何か裸の人間が複雑に絡み合ってるやつ。
 お袋はアレが気持ちよくてアンアン言って、それで俺たち息子が生まれたってわけ?それも3人も!
 女の子が欲しけりゃ、アンアン言わなきゃよかったんだ!
 俺はお袋がくどくどと愚痴るたびに、そう怒鳴ってやりたかった。
 でも、怒鳴ったら、次はきっとヒステリーだ。俺は我慢した。
 親父は釣りと囲碁しか興味のない男で、無口なのが家長の威厳だと考えているようなやつだった。当然、親子の会話はない。
 兄貴たちは同級生同士の遊びで忙しかった。年下の「あぶらむし」なんぞ、かまってるヒマはない。俺はいつもひとりで遊んだ。
 波だけが友達だった。
 家から30分歩くと国道に出る。その道と垂直に交わり、街でただ1本のアーケード街をまっすぐに進むとやがて商店が途切れ、人家がなくなり、道が急にせりあがる。その先は--
 その先は、何にもない。
 ただ1本の水平線があるだけだ。
 沖に浮かぶ島も、波間を進む船も、ヨットもサーファーも、何もない。
 平刷毛で絵具をぺったりと塗ったみたいな、まったいらな空間。
 無愛想に空と海とを切り裂く直線、それが俺の知っている海だった。
 俺は砂浜に降り、波で足を洗いながら、その直線を見つめる。
 --この水平線の向こうには、湾の反対側の陸地がある。
 そこには人が住んでいるだろうか。
 そこにも俺と同じようなみそっかすの三男坊が海を見ているだろうか。
 それとも、あちら側の人はみんな笑っているだろうか。
 幸福に笑っているのだろうか。
 --早く大人になりたい、そう俺は思った。
 早く大人になって、家を出よう。
 本当に俺を愛してくれて、本当に俺を必要としてくれる人たちが、きっとどこかにいるはずだ。俺はその人たちを捜しに行こう。俺はその人たちのために生きていくんだ。
 9才の俺は、そう決心した。



 そいつに会ったのは、5年生の夏休みだった。
 夏真っ盛りの、とてつもなく暑い日。
 じりじりと肌を灼く太陽にうんざりしながら、俺は人気のない砂浜に座り込んで、熱心に「仕事」をしていた。
 突然、目の前が蔭になる。俺はびっくりして顔を上げた。
「よう」
 Tシャツに短パン、似たような格好をしたひょろ長いやつが俺を見おろしていた。切れ長の目、とがったあご--こいつ、見覚えがある。
「何してんの」
 そいつは俺の膝の上にある長方形の箱を、そのあごで指した。
 俺はむっとして、ぶっきらぼうに答える。
「からくり箱」
「・・・ふうん」
 そいつは勝手に俺の隣に腰をおろして「仕事途中」の箱を覗き込んだ。
 異なった木肌の模様が帯のように組み合わされた寄木細工。一見して、フタらしきものはどこにもない。それぞれの面を少しずつずらして開けていくのだ。
 昨日俺にこれをくれた叔父さんは「24回だ、頑張れよ」と笑い声を残して、説明書を持って帰ってしまった。
 16回目で、俺はつまずいていた。どこを押しても動かない。
 そいつはじろじろと俺の手元を見ている。
「力が足りないんじゃないか、ちょっと貸してみろよ」
「やだ」
 壊されたら元も子もない。
「いいからさ」
 俺は何度も手を振り払ったが、結局そいつに取られてしまった。
「壊すなよ、絶対」
「・・・ふうん・・・こうなってるのか」
 そいつはしばらく箱をあちこち触っていたが、突然叫び声をあげた。
「あ、わかった!ここだ!」
「えっ、どこ、どこ?」
「ほら、ここんとこ・・・半分だけ、元に戻すんだ、そうすると--」
 隣の面がするするっと開く
「なーる、半分だけ引くのか。要するにそいつがポイントか」
 後は楽勝だった。20回目にもう一度「半分バック」があっただけで、からくり箱は完全に開いた。
 もちろん、中はまだ空っぽだ。つんと木の香りがする。
 俺はいい気分で、箱を鼻に押しあてて、くんくん匂いをかいだ。
 そいつは黙って俺を見ている。なんとなく、もじもじしていた。
「あの・・・さ、その箱、さ--」
「何」
「いや・・・それ、おまえんだよな」
「やらないよ」
「そうじゃなくってさ--ちょうどいいかな、なんて--」
「何が?」
 そいつはしばらく考えていて、意を決したように顔をあげた。
「おまえ、秘密、守れる?」
「・・・何?」
「だから、さ」
 そいつは俺を見た。鋭い目。
「--守れるよ」
「そうか--じゃ、来いよ。こっちだ」
 俺たちは浜を10分ほど歩いた。岬が見えてくる。
 岬の突端には、今は使われていない灯台が赤茶けた姿をさらしていた。
 絶壁の裾に白い波しぶきが踊っている。
 灯台まであと20メートルの地点で、そいつは急にしゃがみ込んだ。
 驚く俺を尻目に、器用に岸壁を降りていく。
「来いよ」
 そいつはまたあごをしゃくる。俺は後に続いた。
 岩は乾いている。波がずっと下で砕けた。
 12歩くらい降りたとき、急にそいつの姿が見えなくなった。
「おい!」
 落ちたのか?まさか--
 突然、耳の近くで大きな笑い声がして、俺はもう少しで足を踏みはずすところだった。
「ここ、ここ!」
 岩の間から首が出ている。ぎょっとした。--よく落ちなかったものだ。
「こっち、来いよ」
 俺はそいつに近づき、覗き込んで--目をまるくした。
 洞穴だ!こんな絶壁のど真ん中に・・・。
 机の下くらいの空間が、ぽっかりと穴を開けていた。
 上からはちょうど草の蔭になって隠れている。
 沖合いからなら見えるのだろうが、そんな船を出す者などいないのだ。
 つまり--
「秘密基地だ!」
 そいつは狭い洞窟のなかで肩と肩をくっつけたまま、白い歯を見せた。
 俺も膝を抱えて丸くなる。すっぽりと包まれるような安心感。
 前方は海だ。一直線に伸びた、水平線。
 どこか果てない、未来--
「おい」
 突然、声が降りかかる。あいつが俺を見ていた。
「秘密だぞ、誰にも言うなよ」
「言わないよ」
「そうか・・・じゃ、悪いけど、提供してくれる」
「--何を?」
「だから、その箱」
「これ?--何に使うの」
「だからさ・・・ここは秘密基地なんだって」
「--だから?」
「秘密基地にはさ、秘密の箱がつきものだろ」
「ヒミツノハコ」
「そう、暗号文なんかを入れとくやつ」
「--」
「俺たちだけだろ、その箱さっと開けられるやつって。--それから、親とかに関係ない大事なものなんかも入れてもいいし」
「--」
「な、いいだろ?」
 まあ、いいか--この「秘密基地」も気に入ったしさ。
「うん、いいよ」
「よし。決定!」
 俺たちはおおげさに握手した。のるねえ。
「おまえさ--西条芳己だろ、2組の」
 --え。
「俺、知ってたよ」
 そいつは切れ長の目を細くした。
「俺は、5組の稲葉和彦」



Act.2 -幻の島

 ちくしょう、何だってこんなときに台風が来るんだ!
 俺は全身ずぶぬれになって必死でペダルをこいでいた。目の前を同じように猛スピードでとばしているTシャツの背中が見える。
 岬まで、あと10分ってとこか。あいだに国道もあるし。
 大型台風が急に針路を変えてこの街に向かったのが昨日の晩だ。夏休みの野外学習から帰ったばかりの俺たちは、皆ぐっすりと眠っていた。
 朝起きて台風を知った俺は、すぐに和彦の家に向かった。
 そしてふたりで、全力疾走だ。
 早く行かないと、波が来る。
 波が来ると、あの箱が・・・
 俺たちが「秘密基地」に例の箱をおさめてから、2週間がたっていた。
「芳己、何か入れたいもの、ある」
 和彦に訊かれて俺は考えた末、「ウルフ」の首輪にした。
 ウルフは、先月死んだ俺の家の犬だ。少し秋田犬に似たオスの雑種で、俺は強くしたくて「ウルフ」と名づけたけれど、あいつは気がやさしくて臆病で、名前負けもいいとこだった。
 一度散歩の途中に、クラスでハバをきかせているKたちと出くわしていじめられ、ウルフがこそこそ逃げ出したことがある。それから俺は何となく、あまり世話をしなくなった。車にはねられて死んだと聞いたのはそのすぐ後のことだ。
 俺は和彦の見ている前でからくり箱を開け、首輪をそっと入れた。
 からからという軽い音を今でもよく覚えている。
 あの「秘密の箱」が波にさらわれてしまったら--
 俺の脳裏に、波間に浮き沈みしながら、遠い外洋に運ばれていく茶色の箱が浮かんだ。
 ウルフが永遠に去っていってしまうような気がした。
 急げ。



   岬に着いた。海は荒れている。横なぐりの雨が皮膚をたたく。
 俺たちは洞窟の真上から下を覗き込んだ。
 --よかった!まだ、波はこの高さまで来ていない。
 すぐに降りようとした俺を、和彦がとめた。
「俺が行く。待ってろ」
 和彦は濡れた岩を注意深くつたいながら降りた。
 昇ってきたやつを見て、俺は吹き出した。箱を頭の上に乗せて、Tシャツであごにくくりつけている。長い顔がいっそう長く見えた。
「何だよ」
 そういえばこいつ、犬に似てるな。
 何て言ったっけ、ほら、頭が小さくて身体の細いやつ--そうそう、グレーハウンド。まあ、わりと--かっこいい系。
「おい、芳己」
 俺は笑いがとまらない。
 和彦の声音が、急に変わった。
「おい、--あれ、何だ!」
 その声で、俺は相棒の視線をたどった。
 台風の海。
 ごうごうと吹きすさぶ風。たたきつけるような豪雨。真っ黒な水。
 視界の先が砂嵐みたいにかすんでいる。
 その先に・・・
 俺は、息を飲んだ。
 荒れ狂う波間に、巨大な黒い影がひとつ、姿を現していた。
 形は--風雨ではっきりとはわからないが、かなり細長い。
 堂々とした威圧感が俺たちの身にずんずん響いた。
 何だ--これは--
「船か?--にしてはでかすぎるな」
「・・・島だ」
「--島?あんなとこに島なんかないだろ」
「でも、あの大きさは・・・」
「雲かなんかじゃない、海面近くの」
「雲じゃない」
「じゃ、--蜃気楼だ」
「はっきりしすぎてる」
「・・おい」
「島だよ!ほら、海底が隆起して、一夜で島ができることがあるって」
 そうだ、社会科で習った、昭和新山だ。
 だとしたら、これだって--
 なんとか新山って名前がつくかもしれない!
 すごい!
 俺は思わず和彦の腕を握った。
「俺たちがこの島の第1発見者だ!」
 ウルフ、おまえからのプレゼントか?
 俺たちは台風のまっただ中、髪からも額からも、あごからも腕からも滝のように雫を垂らしながら、息を弾ませていつまでもその島を見ていた。



Act.3 -廃屋

「おい、芳己--次の時間、さぼんない?」
 和彦が俺のクラスにやってくる。俺たちは県立高校の1年だ。
「いいよ」
 俺は手早く鞄を持って廊下に出た。
「屋上?最近、見回りきついんじゃない」
「・・・それだけどさ」
 和彦はニヤリと笑う。
「いい場所を見つけたんだ」
 俺は黙って、やつと並んで歩いた。
 和彦は中学に入ってからぐんぐん背が伸びた。陸上部で走り込んでから、身体つきもたくましくなった。高校からは、さらにボクシングも始めている。まるでロッキーでもめざしそうな勢いだ。
 俺はといえば中学で新聞部、高校で地学部、と文化系に偏っている。体育会系のマッチョな雰囲気というのがどうにも好きになれなかった。
 それに--
「芳己、まだしつこく地学部なんて言ってるのか、いい加減にあきらめたら」と和彦は言うが・・・。
 俺たちが小学生のときに見たあの島は、なんと一夜開けたら跡形もなく消え去っていたのだ。何度、目をこすっても同じだった。
 でも、あれは夢じゃない。夢ならふたり同時に見るわけがない。
 俺たちはまわりの大人たちに訴えたが、誰も本気にしてくれなかった。「台風のときに出歩くなんて」と叱られただけだ。
 それに比べると、担任はずっとマシだった。
「一夜にして島ができ、島が消えるということはありえることだと思うわよ。でも、それなら沖の海底の地層にそのあとが残っているはずだし、気象にも影響がでるはずよね」
 その報道がないのは、やはり・・・という意見だ。
「先生はね、別の考えがあるんだけどな」
「--何ですか」
「クジラ、じゃないの?」
「・・・クジラあ?」
 和彦と俺はあんぐり口を開けた。
「そうよ。クジラが湾内に迷い込んできたって話、昔の記録にあるのよ。今度も、台風で迷っちゃったんじゃない?」
「はあ・・・」
 俺たちはふたりして「秘密基地」で頭を抱えたものだ。
 その後、俺は「新島」説をいまだ捨てきれずに高校で地学部なんてところに席を置き、和彦はむしろ「クジラ」説に傾いて、海洋生物学者になりたい、なんてぬかしている。海洋生物の調査には体力がなければ、とロッキーへの道をひた走り出したわけだ。
 実は俺も、今ではクジラに転ぼうかなあ、と密かに思っている・・・
「おい、芳己」
 和彦が急に振り返った。どきりとする。
「ここ、ここ」
 やつがあごをしゃくった。その方向を見る。
「ここって・・・何、これ」
 やつのあごが指す所には、崩れた小屋しかない。
 いや、まだ「崩れて」はいないのかもしれないが、「崩れそう」と「崩れた」のきわめてあいまいな境界線上にある小屋だとは言える。
 木造の壁はなかば腐り、窓はバッテン型に板が打ちつけられて、内部は全く見えない。屋根にはトタン板が申し訳程度についている。
 こんなぼろい、汚い、貧しい小屋が校庭の隅にまだあったなんて、さすがは旧制中学の伝統を誇る県立高校、てなもんだ。で、・・・
「--入るの?ここへ」
 愚問だった。
 和彦は小屋の裏手にまわると、窓の一部を器用にはずす。ひょいと身を翻すと、もう中に入っていた。
「来いよ」
 俺は後に続いた。



 小屋の内部は思ったより広かった。
 天井が高い--というより天井板そのものがないので、見上げればもう屋根なのだ。3メートル以上はある。日曜大工でつくられたようなベニヤ板の仕切壁がやたらと多く、ちょっとした遊園地の迷路みたいだった。
 窓はみな塞がれていて、真っ暗だ。ほこりっぽい匂いが鼻をついた。
「ちょっと待ってろ」
 和彦は暗闇の中をずんずん進んでいくと、明るいランタンを両手にぶらさげて戻ってきた。
「どしたの、それ」
 ニヤリと笑って、片方を俺に渡す。俺は気がついた。コンクリの床に埃がないのだ。以前からここに来ていたのに違いない。
(さては俺に隠してたな)
 俺はランタンを目の高さに掲げて、やつに続いて内部へ進んだ。
 入り口であったらしい戸の前の仕切壁に、木のパネルが釘で打ちつけられている。右上がりのかすれた文字が読めた。
「PIPE HOUSE ぱいぷはうす」
 パイプハウス?このぼろ小屋の名前だろうか。
 小屋の奧には、いろんながらくたがところせましと置かれていた。木の机、椅子、角材、モップ、バケツ、床マット、ゴムチューブ、変色したトイレットペーパー、歯磨きチューブ、黒板、そして大量の--
 大量の、褐色の紙の束。
 --何なんだ、これは。
 俺は灯りを近くに寄せた。
 丸い光の輪のなかにぼおっと文字が浮かびあがる。
「季節はずれ 7号 '76 6月」
ちいさな文字の下に、がりがりに痩せた頭でっかちの乳児がこちらを見ている絵が印刷されていた。切断されたへその緒が長く伸びている。
 自費出版か何かか?
  1976年?--今から、12年前だ。
 思わず、手が出ていた。いちばん上の紙に触れると、埃がもわっと舞いあがる。冊子のようだ。茶色い紙を2つ折りにして、ホッチキスで簡単にとめている。俺はぱらぱらとページをめくった。
「夢の余韻が 朝の思想を腐食する」
 手が、とまった。



   「   羊の群れを離れて   1975.秋  迅JIN

    夢の余韻が 朝の思想を腐食する
    何月ぶりかのぼくの射精が空に昇って星を犯し
    教室と少年たちにまつわる伝説が また一遍うまれた
    ぼくは革命を信じる 人間の解放を信じる
    だのに ぼくは不安だ へんな夢を見る
    季節はいつも外にあって ぼくのからだは落葉することがない

    ゆっくりと物語れ ぼくよ ゆっくりとつづれ
    早熟な果実を地に返せ
    それに気づくのが はやすぎても おそすぎても
    人が不幸になるような 何かが ある

    とどかぬ声に耳をすませて 羊の群れを はなれ
    しなければならないことを見失った
    何枚鏡を合わせても
    からっぽの部屋が増えるばかり
    やけにくどいね 今日の珈琲 今日の回想
    乾いた咽喉のせいかしら

    ゆっくりと物語れ ぼくよ ゆっくりとつづれ
    早熟な果実を地に返せ
    やがて うまれる 詩と愛の
    だれも気づかぬ かくし味           」



 --これは何だ。詩か?12年前の、この高校の生徒が書いた詩か?
 俺は顔を上げる。
 目の前に積み上げられたおびただしい量の紙の束。
 ランタンの黄色い光の下で、細かな埃の粒子がきらきらと舞っている。
 さまざまな表紙が妖しく揺らめいた。
 また、手を伸ばしかけ--
「おい!芳己。どうしたんだ」
 和彦の声で、俺は我に返った。
 彼がいぶかしげに見つめている。
「いや・・・何だろなと思ってさ」
「--同人誌かなんかだろ、昔の。それより、こっち来いよ」
 俺たちはいちばん奧の小部屋(あえて部屋と呼ぶならだが)に入った。
 四畳半くらいのスペースで、これまでの場所のなかではいちばん広い。
 窓枠に暗幕が押しピンでとめられ、登山用ランタンが中央で光を放っていた。隅に積まれた机の上に、バーナーやら毛布やらがかためて置いてある。ははん。
「いいだろ」
 秘密基地2、ってとこか。好きだねえ、和彦は。
 まあいいさ、俺だって嫌いじゃないし。
 そういえば、あの海岸の秘密基地はいつのまにか行かなくなってしまった。最初の内こそ、ふたりであれこれ暗号文をつくっては「秘密の箱」に入れ、どっちが早く解読するか競争したりして遊んだが、結局、真夏以外は海風が冷たすぎるのがわかって、嫌になった。あの箱も和彦に渡したっきり忘れている。どうせ押入の隅にでも眠っているに違いない--
 和彦がどこからか、三本足の丸椅子を持ってきた。
 向かい合って煙草に火をつける。
 紫煙がゆるやかに部屋のなかに溶けていく。
「・・・いいね、なかなか」
「名前つける?ここ」
「--パイプハウス、でいいんじゃない?そう呼ばれてたみたいだし」
「ふむ・・・」
 12年前か--俺がまだ3才の頃だ。このぼろ小屋には今の俺たちみたいな悪ガキが集まって、しゃべって、飲んで、煙草を吸って、詩を書いて、--たぶんセックスもして、同人誌?らしきものを発行していたんだろう。
 壁のいたることころに落書きがあった。



  「ある者は
   真夜中
   鉄道構内を
   あてもなくさまよい
   まともな連中をおいて
   行ってしまった A・ギンズバーグ」

     「あの人はもう来ない、
      きっと来やしないのよ。
      だってあたしゃ、皆既日蝕・・・ 唐十郎」

  「風が吹けば
   ぼくらは飛べるのではないか?」

     「すべての
      記憶と
      運命が
      波の下深くもぐらされ、
      きょうのことはあすまで忘れよう ディラン」



 全共闘・・・という言葉が頭に浮かんだ。全共闘。それはひどく遠い言葉だ。俺たちの親の年代に等しい。12年前の悪ガキたちにとっても、兄や姉の世代のことだったのだろう。
 俺はその日からこっそりと、パイプハウスに入り浸るようになった。そして積みあげられた同人誌--「ミニコミ」と呼ぶのか?--を手にとっては読みふけった。
 和彦も常連だった。放課後はボクシングの部活があるので来なかったが、昼間、俺が授業をさぼって来るときは必ずといっていいほど、やつとかち合った。
 今にも崩れそうなちいさな廃屋のなかで俺はミニコミを読み、和彦がウオークマンを聴く。バーナーで珈琲を入れてはふたりで飲んだ。
 春が過ぎ、夏が過ぎた。
 俺たちは無口だった。



  「 静かなる午後       1974.1.9  在原岩美


       首までの安らぎに身を置きたくて
       季節に揺れる粗末なものに
       きっと照れながらも息をつまらせる
       あなたと抱き合いながらすごしたいくつもの午後


   空を見あげているとなにか確かなものが見えてくる
   ぼくたちの空はいつも通り過ぎている形でしかやってこない
   大きなボロ屋を改造して共同体を創りあげた時に
   ぼくたちはぼくたちの空を見あげることができるかもしれないんだ
   のんびりと日が暮れるまでぼくたちは空を見あげる
   都会であっても海のそばであってもいい
   ぼくたちはおたがいの体に触るようにして暮らすだろう


   あるものがあるようにすべてぼくたちは受け入れる
   とらわれずにぼくたちは通りすぎてゆくことだ
   ぼくたちは信じられる時のあの流れてくることばで
   どんな闇も照らす光があるように生きぬいてゆくことだ

                    (後略)     」



 その年の秋のある日、いつものようにパイプハウスの裏手にまわった俺は、ひとりの中年の男と出会った。男は短い髪にサングラスをかけ、濃い髭をたくわえている。威圧感があった。
 まずい、通り過ぎようとしたとたんに、俺の脇から例の冊子が落ちた。
「パイプハウスに何か用か」
 背後から低い声がかかる。金縛りにあったように俺は動けなかった。
「--まあ、なかに入って話そうか」
 男は佐々木と名乗った。



Act.4 -雪原

 思った通り、佐々木はこの学校の卒業生だった。
 そして高校時代のほとんどをこのパイプハウスで過ごしていた。
「ふうん・・・俺たちのあと、こんなミニコミを出していたのか」
 彼は発行年を確認すると、興味深そうな眼になった。
「俺たちもかなりアジビラは作ったがな・・・詩を書いてるやつも中にはいたけど」
 やさしいよな、こいつら・・・と、佐々木は笑った。眼の表情はわからないが、皮肉っぽい笑いではない。
「嵐の後に肌を寄せ合うようなやさしさだ。自分自身の肉体と感性のすべてでこの世界をとりこもうとして、漂っている--浮き沈みしながらな」
 俺にはこの人の言葉がよくわからない。口調のあたたかさだけがひどく身にしみた。
「ところで・・・これ、おまえがやったのか」
 佐々木はきれいに整頓された部屋のなかを見まわした。
「いや、俺と--ほかにもいて」
「そうか。よく来てるのか」
「・・・ええ」
「嬉しいね。--俺はずっと海外にいて、最近になって日本に帰ってきたんだ。20年ぶりに母校に来てみたら・・・この小屋なんか、とっくの昔に取り壊されてると思ってたよ」
 ああそうだ、俺の書いたの残ってるかな・・・彼は立ち上がって、隅に積んである椅子をどけはじめた。思わず手を貸す。
「ありがとよ」
 髭面が笑った。どきりとする。
「おおっと・・・これだ、まだあったよ、おい!」
 彼は口笛を吹いた。俺も覗き込む。

     日帝打倒!

 もとは赤ペンキだったのだろう、定規で引いたような、角ばった文字。
「・・・あの」
「ん?」
「佐々木さんは、ゼンキョートーだったんですか」
 彼は面白そうに、俺を見た。
「だった、という表現は正しくないな」
「--」
「俺は今でもそこを起点として、現在形で取っ組み合ってるつもりだけど」
「・・・何と?」
「世界だよ」
 --きざだなあ!
 第1日目の印象は、そんなとこだった。



 その日から放課後になると、俺はパイプハウスで佐々木さんと会うようになった。
 彼の口にする言葉の半分は比喩的で、よくわからなかった。俺がそれを言うと、「わかろうとする必要はないさ」と笑うのだ。
 俺は知りたかった。この人にとって、世界は俺とまったく異なった風景を持っているに違いない。吹く風の色や、飛ぶ鳥の形さえ違うのだろう。
「芳己、おまえ毎日来てるけど、家のほうはいいのか」
 神経も細かい。
「別に・・・家に帰っても、俺ひとりっ子状態で、いづらいから」
「何だ?それ」
「上の兄貴たちが家を離れちゃってるもんで、お袋が俺べったりで」
「いいじゃねえか」
「よかないですよ」
 二人の兄たちは高校を卒業すると、申しあわせたようにとっとと遠くの大学に進み、金の無心のほかはまったく家に寄りつかなくなった。
 それからだった、お袋が俺にまつわりつくようになったのは。
 あんたが頼りなのよ、母さんは。
 あんたは昔からいい子だったものねえ。
 --冗談じゃねえって。
 娘の方がいいって言ってたのは、どこの誰なんだ?
 さんざんほっぽらかしといて、その言いぐさはないだろうに。
 母親ってのは、てめえの腹を痛めたってだけで、子どもが自分を愛してるなんて、どうしてそう簡単に信じられるんだ?
 悪いけど--勘弁してくれよ。
 何とかしろよ、親父。あんたの女房だろう。
 俺はお袋を見ただけで、吐き気を覚えるようになった。
 --でも、結局俺は、我慢した。
 できるだけ家にいる時間を短くする、という消極的解決策をとっただけだ。
 そんな俺を、実は俺自身がいちばん嫌いだった。
「俺はきっと、冷血人間なんですよ。親に愛情が持てないもん」
 俺の思考は、結局いつもそこに戻ってしまうのだ。
 佐々木さんはじっと俺の話を聞いていた。
「--あのな、芳己」
 サングラスがこっちを向く
。「おまえ、今、世界の人口、何人いるか知ってるか」
「ええ?・・・」
「--まあ、俺も正確には知らんがな」
 ひとなつっこそうに笑う。
「40億か50億か--まあ、その辺だろう。仮に40億として、だ」
「--」
「おまえのお袋は40億分の1だ。親父もそうだ」
「--」
「おまえが仮にその40億分の1が愛せなくたって、それが何だ?そこで身動きがとれずに立ちどまっているくらいなら、残りすべての人数を愛するようにしたほうがよほど建設的だと俺は思うが」
「残りすべての人数?」
「まあ、世の中というか、社会とか国家とか世界とか--だな」
「--」
「人間誰でも母親の腹からこの世界に生まれ出てくるわけだが、だからといって、親だけのために生まれたのでも、親だけのために生きるのでもないだろう。世の中のために生まれ、社会のために生き、世界の人々に愛されるのだって、・・・なかなかのもんだと思うがね」
「・・・佐々木さんは、そうなんですか」
 彼は黙った。
「佐々木さん」
「--」
「佐々木さん、俺--ひとつ、訊いてもいいですか。誰にも言いません」
 彼はいぶかしげに俺を見た。
「佐々木さん、今でも--何か、してるんでしょ」
 サングラスの奧は無表情だ。
「--佐々木さん」
 彼は黙って、煙草をふかすだけだった。
 しかしそれから数日後に、俺は彼のやっている地下活動のほんの一部を訊きだすことに成功した。俺は即座に、何か手伝えることがあればやりたい、と申し出た。
 待っているだけなのは、もう嫌だった。身動きがとれなくなるのも、まっぴらだ。俺の周囲は高1の今から、もう受験受験と眼の色を変えている。囲い込まれた羊のような従順さで、親や、教師に鞭うたれながら。
 俺は、違うぞ。俺は--
 いい大学に入り、いい会社に就職し、女房子どもを養い、家のローンを払って、老後は孫に囲まれて--
 そんなせこい人生なんか、豚に喰わせろ!
 俺は徐々に「活動」にのめり込んだ。
 --とはいっても、させてもらえるのは簡単なことばかりだ。
 代筆をする。決まった時刻に決まった相手に電話をかける。コンビニからファックスを送る。駅の掲示板を見に行く。原稿を録音する。
 前後の脈絡も、やっていることの意味も知らされない。
 指示はいつも佐々木さんからで、他の仲間との接触も一切なかった。
 それでも、俺はいちおう満足していた。
 首をひねったのは、和彦だ。
「芳己、おまえさ--最近、つきあい悪いぞ。さては女でもできたか?」
 じょーだん!
 俺は女なんてまっぴらだった。
(そのうち和彦に教えてやろう。びっくりするぞ、あいつ)
 俺はひとりでニヤニヤした。



 その日、佐々木さんは珍しく緊張していた。
 俺に、いつもよりかなり難しい任務が言い渡されたのだ。
「予定のやつがこの雪で来られなくなってな--そうでなければ頼まないんだが」
 俺にやらせろ、という上の方からの指示らしい。佐々木さんの「上の方」がどうなっているのか、俺には見当もつかなかったが。
 内容を聞いて、俺は興奮した。いつもよりずっとスリルがある。
 俺はまず、佐々木さんの車に同乗して郊外にあるショッピング・センターに向かった。少し手前の路地に車を停め、駐車場を確認する。聞いていたとおり、管理ボックスには人の気配がなかった。
 いちばん奧の、白のシビック--あれか。
 俺は時刻を確かめた。3時2分。
「そろそろいくか」
 佐々木さんがこちらを向く。
「--もう少し待ちませんか」
 俺は後部座席に目を走らせる。
 ショッピング・バッグに包まれた、黒い箱。
 内部に時計が仕込まれている。
 これをシビックの車体の下に置いて、その場を離れる--
 要するにそれだけの任務だった。
 車は無人だし、管理人もいない。
 3時半になれば車が1台吹っ飛ぶだけだ。
 ただ、あまり早くから車体の下に設置すると、万が一発見されるかも、という心配があった。
 3時15分。
「もう、行け」
「--はい」
 俺はフル・フェイスのメットをつけ、ショッピング・バッグを手に車を降りた。
 道には雪が積もっている。思いのほか歩きにくかった。
 早く、行かなきゃ、と焦ったとたん--
 氷状になった路肩で思いきり転んで、一回転した。
 あわてて、バッグを拾う。
 --落ち着け。
 俺は深呼吸して、慎重に駐車場に入った。
 人の姿はない。
 俺はシビックの背後にまわった。
 3時22分。
 車体の真下にバッグを置く。--よし。
 急いでその場を離れようとした俺は、突然、立ちどまった。
 --空耳か?
 いや、違う・・・確かに--
 聞こえる!
 俺はシビックに駆け戻って、車体の下を覗き込んだ。
 --いた!
 犬だ。--まだ、ちいさい、生後半年くらいの秋田犬。
 くりくりした黒い瞳。ぶるぶる震える背中。
 俺は必死で、手を差し出した。
 子犬はおびえて後ずさりする。
 耳にはコチコチ時計の音。
 おい!こっちだ!おい!
 メットがつかえて、手が--届かない!
 3時25分。針がまわる。
 来るんだ!俺は大声で叫んでいた。
 これは爆弾だ!爆弾なんだ!
 26分。針がまわる。
 佐々木さんの叫ぶ声。
 27分。針がまわる。
 28分!
「ウルフ!」
 俺は無我夢中でショッピング・バッグをひったくると、空中に放り投げた。
 騒ぎを聞きつけて、建物の中から人が出てくる。
 バッグは鈍い音をたてて、3台隣のカローラのボンネットに落ちた。
「おい!」
 佐々木さんが俺の肩をわしづかみにする。その瞬間--
 閃光が走った。
 空気を震わせる爆発音。
 カローラが轟音を上げて炎上する。
 俺は佐々木さんの手をふりほどいた。
 滅茶苦茶に走り出す。路地から路地へ、横道から横道へ--
 もう、駄目だ。
 --失敗した。
 人に見られた。佐々木さんも見られた。佐々木さんの車も見られた。
 警察に捕まる。いや、捕まらなくても--
 ・・・佐々木さんの組織に、捕まる--
 捕まって--どうなるのか--捕まって--
 逃げろ。逃げるんだ。捕まったら、殺される。
 おまえはただの高校生だ。16のガキだ。
 おまえひとりなんて、消すのは簡単だ。
 逃げろ!



 いつのまにヘルメットを脱ぎ捨てたのか。
 気がつくと、俺は髪を振り乱して橋のたもとでぜいぜいと息をついていた。
 薄手のジャケットにジーンズ。ちらちらとまた雪が降り始めていた。
 --どうしよう。
 家も学校も、佐々木さんに知られている。とても逃げ切れるものではなかった。身体中の力が抜けていく。
 肩をおとしたひょうしに、ふら、と重心が、傾いた。
 足がずるっと滑る。
 あわてて踏み出した足が空を切った。
 俺は凍った川岸をごろごろと転がり、派手な音を立てて水中に落ちた。
 --痛い!
 身体中にガラスの破片を突き立てられたような痛みが俺を襲う。
 頭がしびれて何も考えられない。すぐごぼごぼと大量の水を飲んだ。
 あまりの苦しさに必死で手を動かす。結果的にそれで水をかき、俺は何とか岸にたどり着いたようだった。
 岸の草も、土も冷たく凍っている。シャーベットのなかを這いずるようにして、やっと川堤に出た。雪が積もっている。
 ずぼ、ずぼと雪を踏みながら俺は歩いた。
 濡れねずみの肩に雪を受けながら、俺は歩いた。
 全身が痙攣している。がちがちとあたる歯の音がまるで他人のようだ。
 ぎりっ--と、頭の芯に疼痛がうずいた。
 俺は、つんのめった。



 --ああ、雪だ。
 頬がしびれて感覚がない。
 俺はうつぶせに転がったまま、ぼんやりと薄目を開けた。
 一面の白い闇。
 汚れた川の水と泥をスポンジのように吸って膨れた俺の身体が、
 雪のうえにその汚辱を染み出していく。
 どのくらいたったのだろう、俺は考える。
 どのくらいたったのだろう・・・生まれてから。
 とても短い夢のようだ。
 とても静かな歌のようだった。
 背にしんしんと雪が降り積もる。
 そのひそやかな重さが心地よい。
 このまま眠ってしまおうか。
 おそらくそうすれば死ぬのだろう・・・

 --さよなら。
 ついに俺を愛さなかった両親。
 ついに両親を愛さなかった俺。
 俺は、おそらく地獄に堕ちるさ・・・

 誰か、俺に言ってくれ。
 おまえははじめから生まれていなかったんだと。
 この世のすべては夢だったんだと。

 誰か、俺に言ってくれ。
 誰も悪くなかったんだと。
 誰も悪くなかったんだと。
 悪いのは俺だったんだと。

 --だから死ぬから、
 --だから死ぬから、許してやると。
 --せめて死ぬから、許してやると。
 誰か俺に言ってくれ。
 ちいさな声で、言ってくれ。
 まにあうように、ささやいてくれ・・・

 --和彦。
 おまえの笑い声が、聞こえる。
 頭のなかで、鳴り響く。
 何がそんなに、おかしいんだ?

 --今、おまえは何してるかな。
 部室でサンドバッグ、叩いているかな。
 家でクジラの本でも見てるかな。
 そろそろ俺に電話しようなんて--
 まさか考えてや、しないよなあ・・・

 --和彦。
 俺はこんなところで死ぬよ。
 俺はこんなにも汚れちまった。
 ・・・笑えるよな。

 --和彦。

 --和彦。
 おまえの手は白いか?
 このクソみたいな世界のなかで、
 おまえの手は、
 おまえの手は--

 今も、あのように白いのか?


 ・・・・・
 ・・・・・・・・



Act.5 -火炎

 気がつくと、俺はベッドに寝かされていた。
 傍らに佐々木さんの黒いサングラスが見える。
「おう、起きたか、芳己」
「--佐々木さん--」
 謝らなければ、と俺は上体を起こしかけた。
 --とたんに、くらっときた。頭が割れるように痛い。
「おいおい、まだ寝てろ。肺炎になりかけてたんだぞ、おまえ」
「・・・すみません、あの・・・」
「--例の一件か?」
「・・・はい」
 謝って済むとは思っていなかった。
「あれなら、いいんだ」
「--は?」
「なに、サツのほうなら大丈夫だ。あれぐらいのことでシッポを掴まれるようなことはしねえよ。プロだからな」
 佐々木さんは豪快に笑った。
「おまえそれより--いい友だち持ってるな」
「え?」
「ボクシングやってんだってな、あいつ」
「--あの・・・」
 佐々木さんはベッドに身を乗り出した。
「殴り込みにきたぞ、ここへ--いい度胸じゃないか」
 俺はあわてて周囲を見まわした。病院じゃない!--ここは--
「俺たちのアジトのひとつだ」
 アジト?
 --俺が考えをまとめようとしているとき、大きなノックの音が響いた。
「おう、噂をすればなんとやら、だな」
 扉が開くと、和彦が立っていた。
「芳己」
 彼は大股で駆け寄ると、俺の枕もとで笑いかけた。
 俺は愕然とした。
 やつの全身は紫色のあざだらけだったのだ。



 俺は3日ほどそこで寝てから、家に帰された。
 大したおとがめもなくて、ひと安心だ。
 俺は佐々木さんに名誉挽回しようと、以前にもましてよく働いた。パイプハウスにも、足が遠ざかった。和彦もあまり来ていないようだった。
 多分、部活が忙しいんだろう。今年の秋の新人戦で、やつは県で3位に入った。受験校では異例のことだ。期待されて、手が抜けないんだろう。
 放課後はもちろん、休みの日も、電話がつながらないことが多くなった。自主トレでもしてるのかな、と俺は気楽に考えていた。
 俺たちは2年に進級した。



 その日のことはよく覚えている。
 遅咲きの桜がもう散りはじめていて、街路は花びらでいっぱいだった。
 俺は佐々木さんのアジトに向かっていた。アジトと言っても、ただの民家だ。いちおう一戸建てにはなっている。
 俺は支給されていた合鍵で扉を開けた。手に翻訳原稿を持っている。
 --早めにできたから、喜ぶだろう。
 そう思って、なかに入った。--佐々木さんの姿はない。
 テーブルの上に置いて帰ろうか、と思った時だった。
 階段の上から、何か音がした。
 --ああ、2階にいるのか。
 俺は何の気なしに階段を昇って、バタンと部屋のドアを開けた。
 --その途端--
 その場が、凍りついた。
 俺は、目の前のものが信じられなかった。
 頭が真っ白だ。
 息ができなかった。
 --目の前のベッド。
 俺の真正面に、和彦の驚愕した表情がある。--全裸だ。
 その両肩に、臑毛だらけの太い脚が逆さまに乗っている。足の付け根に剛毛に覆われた赤黒いペニスが屹立して、濡れたように光る。
 和彦の両手は肩に乗せた脚を支え、腰は目の前の尻に押しつけられている。膝の下でシーツがよじれている。そのシーツを握りしめる毛深い手の甲が見えた。--この手。
 俺は後ずさった。
 仰向けになっていた人間が身体を捻って、俺を見た。
 佐々木さん--
「芳己・・・」
 和彦が両手を離し、身体を離してベッドから降りかけた。
 --抜いたばかりのペニス。
 ぬらぬらと光る先端から透明な雫がしたたり落ちる。
 俺はまた、後ずさった。
「芳己!」
 その声で我に返り、俺は階段を転がるように降りて、その家を出た。
 --何を見たのか、わからなかった。
 喉が乾いてヒリヒリした。
 俺は何度も唾を飲み込みながら、桜吹雪のなかを歩いた。



 その夜、和彦は俺を公園に呼び出した。
 俺が40分も遅れて着いたとき、やつはひとりでブランコに乗っていた。俺も黙って、隣のブランコに腰をおろす。
 沈黙が流れた。
 和彦はポケットから煙草を取り出すと、口にくわえた。
「--」
 黙って俺の前に差し出す。
 1本抜くと、ライターを投げて寄こした。
 カチッと音がする。
 やつがうまそうに煙を吐き出す。
 白い煙が夜の大気のなかにゆっくりと溶けて消えていく。
 和彦がぽつりと言った。
「・・・俺さ、・・・昼間の誤解を解いとこうと思って」
「--何、それ」
「だから・・・あれは、その--おまえが考えているようなもんじゃ--」
「俺が何を考えてるの」
「--」
「俺だってガキじゃないよ。--いいんじゃないの別に」
「--」
「--まあ、そりゃ、ちょっとはびっくりしたけどさ、なんせ--」
「だから、違うんだって」
「何が」
「そういうんじゃないんだ」
「--」
「あれはさ、その・・・」
 つきあってられない。俺は立ち上がった。
「帰る」
「おい--待てよ」
 俺はすたすた歩き出した。
「芳己」
「--」
「芳己--あれは任務なんだ!」
 足がとまる。
「--何だって?」
 和彦の顔がゆがんでいる。
「あれは、俺の、--任務なんだ」



 和彦は静かに言った。
「俺、ずっと佐々木さんを手伝ってるんだ。--ほら、雪の日にあの家に行ってからさ。・・・俺がボクシングやってるって言ったら、あの人、喜んでさ。--いや、拳は凶器になるから使えないんですって言っても、ポーズとるだけでも十分通用するからいい、いいって・・・」
「--」
「それでしばらくは、上の人のボディ・ガードみたいなことをやらされてたんだけど、--春休み前から、別の指示があってさ」
「--」
「--その指示というのが、つまり--」
「セックスの相手?」
 和彦は夜目にも赤くなった。
「違うよ」
「--だって」
「違うんだ。つまり、手っ取り早く言うと、シンパ拡大作戦」
「・・・はあ?」
「役に立ちそうな人間を、シンパにしたてあげる」
「--」
「--で、俺がその餌ってわけ」
「餌?」
「うん・・・芳己、俺はさ--芳己みたいに英語とかコンピュータとか得意じゃないしさ、--要するに肉体派だから、それなりの使い方を、向こうも考えたんだろう」
「--」
「--でも、むずかしいんだぜ、佐々木さんが言うには、こっちから意図的に引き入れたということを絶対悟られないようにして、あくまで、相手の方から、自主的に協力させるようにする」
「そんなことができるの?」
「--だからさ」
「--?」
「だから、特訓してるんじゃないか」
「--ええ?」
 俺は驚愕した。 和彦はさらに赤くなった。
「俺だって・・・ほら、スパイ映画でよくあるだろ、セックスを武器にして、色仕掛けで相手をタラシこんで機密を盗むやつ--あんなこと、映画の世界だけのことだと思ってたよ。まさか自分がそんなハメになるなんてさ・・・」
「和彦、それって--」
 俺はさっきからずっと気になっていたことを、口に出した。
「男とも・・・やるわけ?」
 やつは両手で顔を覆った。
 --俺は絶句した。
「女のレクチャーは、この前・・・いちおう終わった。男の方のレクチャーが、--佐々木さんなんだ。今日の昼間は・・・そういうこと」
 俺は佐々木さんの毛むくじゃらの身体を思い出した。
「おまえ、それで--いいわけ」
「--」
「それとも、--案外、好きなわけ?タラシのおシゴト」
「・・・おい」
「冗談だよ--和彦」
「何」
「なんとか言って、断れないのか?」
 和彦は俺の方を見た。
 切れ長の瞳の奧が、少し、翳った。
「--駄目だろうね」
 瞼を閉じた。 



 1991年1月15日、まだ正月気分の抜けきれない俺たちの眼に、強烈な映像が飛び込んできた。俺たちはテレビの前に釘づけになった。
 燃えている。紅蓮の炎をあげて大地が燃えあがっている。
 建物が燃える。海が燃える。油田が燃える。--国が燃える。
 その映像はまたたく間に全世界に伝えられた。
 合衆国がイラクに空爆を開始したのだ。
 戦況は逐一映像となって世界中のお茶の間で放映された。
 燃えさかる火炎。煙。閃光。
 --それは夢のように美しく、映画のように完成された光景だった。



 「うう、寒い」
 俺はアラジンの石油ストーブに点火する。
 和彦がハンドルを持って、コンクリの床の中央にそれを移動した。
 高校生活最後の期末テストだった。
 共通一次はもう終わっている。内申にも関係がないとあって、生徒たちの関心は薄い。とりあえず名前だけ書いておこうという醒めた空気のなかで、天邪鬼の和彦と俺は、このテストに燃えていた。
 はじめて受験に関係のない勉強ができるのだ。
 俺たちは興味のない科目をいっさい捨てて、やりたい科目だけを徹底して勉強した。範囲はわかっている。その範囲のなかをできるだけ深く、緻密に埋めていく。担当教官の出題のクセをああだこうだと推量しながら、俺たちはパイプハウスに泊まり込んで、テスト勉強に興じていた。
 アラジンの上にラーメンの鍋が煮たつ。
 ひとつの鍋にふたりで箸をつっこみ、かわるがわる鍋の縁から汁をすすりながら、俺たちは菊正宗をあおった。
「なあ、・・・もう、寝るか」
 明日は最終日。世界史と物理だ。世界史ははじめから捨てているし、物理はふたりでやりつくした。
 ストーブを消し、カイロを下着に滑り込ませて毛布にくるまる。酒が身体に心地よくまわって、よく眠れそうだった。
 目を開けると、暗い梁の上に薄っぺらな屋根が見える。
 夜風がカタカタとトタン屋根を鳴らした。



「・・・なあ、和彦」
 俺は訊いておきたかったことを口にした。
「おまえさ、志望校、みんな工学部だって?」
「--」
 隣で、やつが身じろぐ気配がした。
「・・・佐々木さんに何か言われたのか」
 和彦はあれからも佐々木さんの指揮下にある。「タラシのおシゴト」にはまだとりかかっていないようだったが、何度か彼の「特訓」を受けているらしいことを俺は知っていた。
「おまえさ、--本当にやめろよ。卒業したら、あの人とは縁切れよ」
「--おまえは、縁切るの」
 やつは逆に訊いた。
「俺は・・・」
 俺はちょうど、今与えられている「任務」が面白くなってきたところだった。それは企業や大学等の人物情報を集めてデータベースを作る作業で、どこから入手するのかは知らないが、佐々木さんから渡される情報はかなり細かい個人情報が載っていた。普通公開されているデータからは窺い知ることのできない人間臭い面が覗き見できて、俺はけっこうのめり込んだ。
「俺はもう少しやるつもりだけどさ」
「--」
「でも、そもそもおまえは、やんなくちゃならない義理もないし」
「--」
「・・・それとも、おまえさ--もしかして--」
「--」
「--もしかして、佐々木さんに・・・惚れてるの」
「違うよ」
 やつは即座に言った。
「じゃ、問題ないじゃん」
「--」
「言いにくいんだったら、俺から佐々木さんに言ってやろうか?」
「いいよ」
「どうして」
「--」
「和彦」
 やつは黙った。
 俺は溜息をつく。
「--だいたいさ、工学部なんて、どうしたんだよ、クジラは--海洋生物学者になるって張り切ってたのはどうしたんだ」
「--」
「せっかく、あの島を見たのに--あの島を見たのは俺たちだけだったんだぜ。それって、クジラの--クジラが、何か俺たちに言いたかったんだと思わないか?」
「何だそれ」
 和彦は笑った。
「うまく言えないけどさ--あのクジラを見たことで、俺たちに、何かしてくれって-- 言いたかったんじゃないかと思うんだ」
「変わってないな、おまえ」
「何が」
「・・・ロマンチスト、というか、ね」
「--皮肉、それ」
「いや」
 頭にきた。
「和彦、--問題すりかえんなよ」
「--」
「俺、テスト終わったら、佐々木さんに言うよ」
「何を?」
「だから--おまえと縁切れって」
「・・・おい!」
「あんな、おかしなことやらされてて、いいのかよ」
「おまえに関係ないだろ」
「--和彦」
「勝手なことすんなよ!」
 本気かよ。
 やつは本気で、怒ってきた。
「あのな・・・芳己」
「何だよ」
「これ言うと、おまえショック受けると思って、今まで言わなかったんだけどさ」
「--」
「--あれ、クジラじゃなかったんだ」
 --え?
「俺も佐々木さんに聞いて・・・ショックでさ」
 そんな話は聞いてない。
「何だよ、それ--クジラじゃなかったら、何だって言うんだ」
「--船だよ」
「船え?」
 俺は笑った。
「おいおい、--あんなでかい船なんてあるかよ」
「ただの船じゃないよ」
「--」
「軍艦」
「グンカン?」
「うん。--アメリカの航空母艦だ」
「ええ?」
「名前は、--ニッドウェー」



「--でかいはずだ。長さが300メートル以上もあるという話だ。・・・普段は横須賀を母港にしていて、朝鮮半島、フィリピンからペルシャ湾まで出動するらしい。・・・ベトナム戦争って、聞いたこと、あるだろ?俺たちが生まれる前にやってたやつ。ニッドウェーは横須賀に来る前はその戦争にも何度か行って、今はペルシャ湾に派遣されてるんだって。
 甲板が滑走路になっていて、爆撃機や戦闘機がそこから飛び立てる。この湾岸戦争では、もう3000回以上も空爆をしてるそうだ」
 俺はブラウン管のなかで燃えさかる炎を思い浮かべた。
 雨のように落とされる爆弾。目標に投下されるミサイル。
 誤認したといっては繰り返される民間施設の破壊。
 焦土。
 人を焼く炎の熱さも、崩れ落ちる建物の音も、鼻をつく異臭も決して伝えることのないテレビのなかの美しい戦争。
「ニッドウェーは南下するときに太平洋を通る。あの時は・・・台風の針路が急に変わって、湾内に避難したときに俺たちが目撃したんだ。--だから、新聞にも何も載らなかった。米軍が関係してたから」
「--」
「・・・芳己」
「--」
「とんだクジラだろ。・・・核クジラだぜ、俺たちが見たものは」
「--」
「俺たちがあんなに興奮して--大発見だ何だって騒いでたのは」
「--」
「--まだ、島の方がロマンがあったよな」
「--」
「だから、海洋生物学者は、もういいんだ。俺は佐々木さんを手伝うよ」
「--和彦」
「よろしくな」
 やつは軽く言って、口を閉じた。
 沈黙が落ちる。
 俺は、--はっきり言って、ショックだった。
 小学生の時に見たあの島が脳裏に蘇った。
 胸を高鳴らせながら見つめ続けた俺たちの島。
 黒い塊。その神々しいまでの存在感。
 あれが--島でもなく、クジラでもなく、米軍の空母だって?
 胸のなかを真っ黒なコールタールが溜まっていく。
 思わず、咳込んだ。
「おい、--寒いのか」
「違うよ・・・平気」
「--そう」
 また、静かになった。
 目を閉じるとまたあの島を思い出しそうだ。
 俺は溜息をついた。
「--眠れないのか。・・・悪かったな。急にこんな話して」
「別に。・・・寝るよ」
 そうだ、寝よう。とにかく今は。
 俺は目を閉じた。
 カタカタカタ、屋根を鳴らす風が強くなった。
 急速に身体が冷えてくる。
 俺はぶるっと震えて、毛布を掛け直した。
 頭が冴えてくる。
 和彦はもう寝ているのか、ことりとも音がしない。
 --俺も早く寝よう。
 目を閉じてじっとしていれば、そのうち眠くなるだろう。
 俺は暗闇で目を閉じて、息を整えた。
 規則正しい呼吸。そう、それならそのうち眠れる・・・
 カタカタカタ--また風が鳴った。
 カタカタカタ--この春からは、
 カタカタカタ--この学校ともお別れだな。
 うまく第1志望に受かれば、
 カタカタカタ--あの家ともおさらばだ。
 この街とも、
 この18年ともおさらばだ。
 カタカタカタ
 パイプハウスとも・・・
 その時、俺の右手にあたたかいものが触れた。
 乾いた皮膚--すこし骨ばった--
 和彦の手だ。
 和彦の左手が毛布からはみ出して俺の右手に軽く触れている。
 その接点からあたたかさが伝わってきた。
 俺はやつの手の形を思い出そうとした。
 指が長かった--節がすこし高い。爪がきれいな四角形をしていた。
 次の瞬間、俺は電流に打たれたようになった。
 和彦の手の横腹が俺の手にぴったりとくっつけられたのだ。
 熱い手だった。
 そして--ほんのすこし湿っていた。
 そのまま--動かない。
 動かない・・・
「--芳己」
 低い声が漏れた。
 身体が、硬直した。
 心臓がとてつもなく大きな音で鳴っている。
「芳己・・・寝たのか」
 俺は目を閉じた。
 息をゆっくり吐き出して、ごく普通に呼吸しているふりをした。
 暗闇を通して、和彦の視線を感じる。
 じっと--俺を見つめている。
 右手がひりひりと熱い。
 汗ばんでいるのが見破られそうだった。
 全身が震える・・・
 どのぐらいの時間、そうしていたのか。
 ふっと、空気が軽くなった。
 気がつくと、刺すような和彦の視線は消えていた。
 手が、そっと遠ざかった。
 今までやつの手のあった空間に
 ひやりとした空気が入ってきた。
 それはひそやかな風のように俺の手を撫でて去った。
 手の形をした空洞だけが、俺に残された。



   「   余白のために    1974.1 在原岩美


    未練がましくふりかえりもするが
    教えてもらわなくても知っている
    ぼくらの夏はもうすぎたよと

    うしろすがたの自由を見送り
    余白のための一遍の詩をかきおえて
    ぼくらは何をするのだろうか
                          」



 1991年3月、俺と和彦は高校を卒業した。






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