on the road 内藤更紗

on the road

ヘルメット
 1969年10月21日、国際反戦デーの高揚のなかで、日米安全保障条約粉砕、時の佐藤首相訪米阻止をうたう学生たちと機動隊との武力衝突が全国各地で繰り広げられ、大阪扇町でひとりの岡山大生が死亡した。
 この物語はそれから8年後、1977年の初秋に始まる。



Act.1 -ヘルメット



「おい、圭、起きろ。おまえ昼から講義があるんじゃなかったのか」
 太い指がおれの肩を揺さぶる。寝たりないおれはぐずった声を出した。
「ううん・・・今、何時」
「1時だ。急いで行けばもぐり込めるだろ」
 何の授業だったっけ・・・げ、ドイツ語だ。
 教官によっては30分も遅れて始まる授業だってあるのに、この講義に至ってはいつも時間ぴったりに始まってしまう。担当の島内のくそ真面目な口調と冷たい銀縁の眼鏡を思い出して、おれはげんなりした。
「・・・さぼろうかなあ」
「好きにするさ」
 シュッとマッチを擦る音がする。硫黄の匂いが鼻をついて、おれはかたわらを振り返った。
 日に焼けた赤銅色の広い背中。がっしりとした首を乗せた両肩の筋肉が盛り上がっている。肉体労働者風の―というより、時には本当に日雇いで稼いでいる男の、野馬のように引き締まった肉体がそこにあった。
「柴田さん」
 おれは布団から這い出して煙草をねだる。朝刊を読んでいた彼はハイライトを無造作に放り投げた。
「何の講義だって?」
 ふうっと煙が流れる。
「え?・・・ああ、ドイツ語。島内教授の」
「ふうん」
「知ってる?」
「語学の単位って、おまえ全然取れてないって言ってなかったっけ」
 ちらっと髭面がこちらを見る。垂れ気味の二重の目が笑っていた。
「柴田さんに言われたくないね」
 にゅっと太い腕が伸びてきて、おれの髪をくしゃくしゃにする。
「やめろよ、・・・もう、犬じゃないんだから」
「どこが違うんだ?」
 目尻に皺をよせて笑っている。
「ほう、柴田さんは犬とやるのが趣味なのか」
「圭、おまえな」
 おれはひゅっと体をかわし、タッチの差で馬の強烈なタックルをかわした。どすんと音をたてて部屋が揺れる。古畳から埃がたった。
「きったねえなあ。やっぱり講義に出るよ、おれ」
「おお、とっとと行ってしまえ、このくそガキ」
 おれはスニーカーをつっかけて柴田さんの下宿を出た。秋の陽が眩しい。空はその果てまで抜けるように青く澄んでいた。






 ドイツ語は休講だった。
 おれは教養部の掲示板の前でため息をつくと、その足で時計台のある法文学部の建物に向かった。背後から自転車が何台もおれを追い越していく。
 岡山大学のキャンパスは広い。おれが高3のとき、下見と称して旅行に行った各地の大学のなかでもここはずば抜けた広さだった。おれはその広さに惚れて入学したようなものだ。だだっぴろくて何もない無限の空間、そういうものに憧れる年頃だったのだ。絵が欲しければ自分で描けばいい、ドラマが必要なら自分でつくればいいとおれは思っていた。
 風がさわさわと銀杏並木の穂の先を撫でていく。
 古ぼけた灰色の校舎の1階奥から3番目に、おれの所属する西洋史研究室があった。
「おっ」
 ドアを開けるなり、聞き慣れた声がおれを迎える。
「あれ、長谷さん。久しぶりですね」
 おれより1年上、3回生の長谷さんが浅黒い顔をほころばせた。
「2年は今、講義の時間じゃないのか」
「休講になったんです。いつ帰ってきたんですか。9月に入っても、ずっとお家の方でバイトしてるって聞いてましたけど」
 長谷さんの家は松山の旧家だ。彼の無駄のない口調ときびきびした動作は、いつもおれに武士の風格、という言葉を思い起こさせる。
「うん、きのう帰ってきた。・・・水島、きょうの夜、ヒマか」
「何ですか?」
「いや、ひさびさにおれの下宿で飲んだくれようと思ってさ、そのへんのやつは大抵くるし、おたくもよかったら―」
「行きます」
 おれは即答した。
 長谷さんはあごひげを捻りながらにやっと笑った。
「かわいそうに、よっぽどヒマなんだな」
「おれだって、飲むの久しぶりですから」
「嘘つけ」
 目の奥で笑っている。彼は椅子を引いて立ち上がった。
「まあいい。声をかけたのはおたくが一人目だ。これ以上ここにいても誰も釣れそうにないから、その辺をひとまわりしてくるよ」
 ドアの前で、長谷さんは振り返った。
「それからな、水島」
 彼には珍しく、口ごもっている。
「何ですか」
「同じ下宿のやつに聞いたんだけど、おたく、柴田さん、知ってるのか」
 ぎくっとした。
「・・・柴田さんって?」
「柴田義人。経済科の古株。顔中髭だらけのごっつい男。おれの下宿の前の坂を登った奥の下宿家に住んでいる」
「・・・ああ、その人なら知ってますよ。面白い人ですよね。おれ、あがり込んでいろんな話聞いたりしてますけど」
 おれは先手を打った。
「そうか」
 長谷さんはまた、黙った。
「・・・水島、おれはひとの中傷はしたくないが、・・・気をつけろよ」
「え?」
「いや、・・・いろんな噂を聞くから」
 言いたいことはわかっていた。気にしてくれるのはありがたい。・・・でも。
「長谷さん」
 彼はおれを見た。
「大丈夫ですよ、おれ、ああいう人見てると芝居の参考になるんです。今度の大学祭に出す脚本のイメージづくりにって思って」
「ああ、それで」
 顔に安堵の色が浮かんだのを見て、胸が痛む。
「よかったら長谷さんも出てみます?いい役、つけますよ」
 笑いながらドアの外に出ていく彼を見送ったあと、おれはしばらくの間、窓の外の銀杏の樹を眺めていた。まだ紅葉には早い葉は、触れ合ってかさかさと乾いた音をたてた。






 柴田義人の名前は1年の時から知っていた。この大学の「ぬし」のような古株の学生がひとり経済学科にいるのだと。わざと単位を取らずに留年しているのだとか、いやとっくの昔に除籍になったはずだとか、噂はいまいちはっきりしなかったけれど、修了年に期限のなかった頃のことだ。8回生だ、いや10回生だという話もあながち嘘とは言い切れなかった。10回生とすれば、ストレートで入ったとしても、もう28才だ。何が面白くて18、19の学生のなかに混じっているんだろう。
「紛争の時の生き残りだって話、聞いたぜ」
「フンソー?」
「・・・ほら、大学紛争だよ、70年安保の時の」
 そんなものはおれの小学生の時すでに終わっていた。アニメとプラモデルが興味のすべてだった頃、ブラウン管のなかで見た東大安田講堂の陥落さえ、おれにはウルトラマンのテレビのシーンと同程度の感想しか持たなかったものだ。万博で見た「月の石」の方がおれにはよっぱど大事件で、その後に続く「浅間山荘事件」で赤軍派の学生たちの凄惨な仲間内のリンチ殺人が世の明るみに出ると、それまで学生運動に対して共感的だった人々の気持ちもいっぺんに冷めてしまったのだ。
 「政治の季節」はすでに終わっていた。
 それなのになぜそんな、前世紀の幽霊のような男が学内を徘徊しているのだろう。
 その疑問は彼の名前とともに、おれの胸の底にずっと沈んでいた。



 幽霊本人に会ったのは今年の夏、夏休みに入る直前のある晩のことだった。
 おれはいつものように酒瓶をさげて、先輩の長谷さんの下宿へと急いでいた。
 通い慣れた道だったのでさして注意もせず、差し迫った夏公演の台詞を頭に入れながら歩いていたら、いきなり横あいから巨大な岩のかたまりが降ってきたのだ。
「いてっ!」
 おれはよろけて思わず瓶を取り落とし、ウイスキーを道路にぶちまけた。
「・・・あーあ・・・」
「悪かったな」
 岩は口をきいた。見ると短髪髭もじゃの、アラブ馬のようながっちりした大人の男だ。垂れ気味の鋭い目がじっとおれを見ている。
「おまえ・・・確か演劇部のやつだな、この間の新歓オリエンテーションで即興劇をやった・・・西洋史の2回生か」
 おれはうなずいた。
「ああ・・じゃ、長谷のところに来たんだな」
 彼は路上に散らばったオールドの残骸を見てなるほどという顔をした。
「弁償して酒屋に行ってもいいけど、ここからならおれんちの方が近い。この坂の上の下宿だが、取りに来ないか。2、3本持ってけよ」
 笑うといかつい相貌が崩れて、急に人なつっこい瞳になる。
 おれは肩を並べて坂を登りながら、きっとこいつが例の幽霊に違いないと思った。
 カンは、当たった。



 その夏、おれは何度その坂を登っただろう。
 坂の片側に植えられた太いシイの幹にしがみついて蝉がひっきりなしに啼いている。
 蝉時雨のなかで柴田さんはおれを抱いた。
 最初はぎこちなく、やがて確信的に太い指がおれの身体に触れていく。
 水を入れる器のようにおれは彼を受け入れた。
 意識だけが透明な風になって深緑の葉陰をわたっていった。






「おっ、水島、いいところにきたな」
 扉を開けたとたん、もわっとした熱気と酒臭さが同時に襲いかかってきた。
 長谷さんの下宿はすでに超満員だ。煙草の白い煙幕のなかに黒い頭がうごめいている。威勢良く口から泡をとばしている研究室の男連中、4回生の先輩や1回生の女の子の姿も見える。12、3人はいるだろうか。狭い畳に座り込んで、てんでばらばらに盛り上がっている。おれが少し躊躇していると、長谷さんの歯切れのいい声がおれを招いた。
「水島、こっちへきてうわばみのお姉さまがたの相手をしてくれよ」
「まっ、長谷さん失礼ね、うわばみなんて」
「そうよ、今日はこれでもまだ遠慮してるんだから」
 迫力のある4回生の大関、横綱コンビが抗議する。西洋史研究室は伝統的に女性上位で、特に酒に関してはこのふたりにかなう者はいない。毎晩一升瓶の林のなかで眠っているという噂だった。
 長谷さんは何やら彼女たちに2、3こと言うと、おれと入れ違いに部屋を出ていく。おれはその後の席に座った。
「水島君、何飲む?ウイスキーなら角があるけど」
「あ、おれやります」
 腰を浮かせたおれを制して、大関こと宮本さんが慣れた手つきで水割りをつくる。
「いいなあ、圭ちゃんは」
「やっぱ、役者はもてるよな」
 横あいからひやかしがとぶ。
「そっちのお座敷にも行きますって」
「はいはい、長谷のいぬ間にうんときてちょーだいねー」
 隣でどっと笑い声があがった。
 頬が赤らむのを感じておれはくるっと向きなおり、宮本さんからグラスを受け取る。
「そういや、長谷さん、何しに行ったんですか」
「さあ・・・電話でもかけに行ったんじゃない」
「電話?」
 おれは横綱―石川さんの顔を見た。彼女がふうっと煙を吐く。
「例の、サハラ行きの件ね、ずいぶん難航してるみたいなのよ」
 長谷さんは以前からサハラ砂漠を自転車で横断する計画を持っているのだ。それで1回生の頃からバイトをかけもちし、生活費も切りつめて渡航資金を貯めていた。
「あいつの下宿へ行っても、コーヒーどころか茶もでない」
 そんな噂を聞いた誰かが、不躾にも普段は何を飲んでるんですか、と訊くと彼は、
「水!」
 水道の水だと言い放ったという。
「でもね、お金の工面はまあつくとしても、親御さんの方がね・・・。親にしてみれば、やっぱりひとり息子が心配なんでしょ。そんな遠いところに行って、もしものことがあったら、ってね。長谷君だってあまり身体が丈夫な方とは言えないし。それでこの休み中もずっと家に帰って説得したけど、頑として首を縦に振ってもらえなかったっていう話よ」
 知らなかった。長谷さんは自分のことは言わない人だから・・・
 石川さんはちらっとおれの顔を見た。
「でもまあ、彼なら大丈夫でしょ。今すぐはどうでも、きっとそのうち何とかするよ」
「そうよ、水島君、ひとのことばかり心配してないで、どうなの?君の方は」
「え?」
 宮本さんがおれに色っぽくウインクした。
「とぼけてもダメよ、あちこちで聞くんだから、女の子の噂。演劇部の坂井さんでしょ、仏文の江本さん、教育学部の加藤さん。ねえ、本命は誰なの?ちゃんと答えるまで逃がさないわよ」
 宮本さんはずいっとおれに詰め寄った。
 ―だめだ、目が完全に座っている。
 おれは答えに窮した。
「水島」
 涼しい声がした。おれは救われた思いで声の方を振り向く。
 長谷さんがドアの前でおれを手招きしていた。
「肴を仕入れてきたから、ちょっと手伝ってくれ」



「助かりました」
 共同キッチンへの廊下を歩きながら、おれは長谷さんに礼を言った。
「水島・・・おたくさ、もっと女性を選んだ方がいいんじゃない」
「え?」
「あの3人って、全然タイプが違うじゃないか」
 声に笑いがこもっている。おれは一瞬、つまった。
「・・・長谷さんこそ、もっと先輩を選んで下さいよ」
 彼も一瞬、おれの方を見た。
 そしてゆっくりとあごひげを捻りながら、苦笑した。
「おれにあの人たちが選べればなあ・・・」






 キッチンの台の上で、おれは長谷さんが抱えてきた包みを開けた。
「チーズに沢庵?・・・それに丸のままのハム。何だかすごい取り合わせですね」
「ああ、出がけに家からかっさらってきて、今まで隣の部屋のやつの冷蔵庫に置かせてもらってたんだ」
 2割ほど減ってたけどな、と長谷さんは笑った。そのままさっさと沢庵を切り始める。おれは何をしていいかわからずに、ぼうっとつったっていた。
「そこの椅子に座ってろ」
 振り返らずに長谷さんが言う。その声でおれは我に返った。
「かして下さい、おれがやりますから」
「できるのか?」
 ちらっと振り向いた目が笑っている。おれは無言で包丁を握った。
 小気味よい音とともにきっちり等間隔で沢庵が刻まれていく。
「ほう」
 彼が意外だ、という顔をした。
「おれんちは母親が看護婦やってるんで、兄弟みんな、小さい時からやらされたんですよ」
「ふうん・・・水島は、確か4人兄弟だったっけ?」
「ええ、野郎ばっかし4人」
「いちばん下か?」
 おれの手がとまった。
「・・・どうしてわかるんですか?」
 長谷さんは吹き出した。
「そりゃ・・・うちの研究室でも、おたくの兄貴になりたいってやつは多いと思うよ」
「―」
「たとえば、森口なんかさ」
(長谷のいぬ間にうんときてちょーだいねー)とひやかした野太い声が耳に甦った。
「まあでも、実の兄貴が3人もいるんじゃ、本人はもうたくさんだろうな」
 そんなことないですよ、おれだって兄貴が欲しいです、優しい兄貴ならね・・・と思わず言いそうになって、おれは言葉を飲み込んだ。
 おれは3人の兄たちからいじめられて育ったのだ。「出来損ない」とか「女の腐ったの」とか言われて馬鹿にされ、無視されて、口もきいてもらえなかった。母親の夜勤のときは自分の分の食事も洗濯もひとりでやった。そりゃ、10年もやってりゃ上手くもなるだろう。
 でも目の前のこの人には、そんなこと思いもつかないだろうな。
「水島」
 長谷さんがおれの顔を覗き込む。おれは営業用の笑顔をつくった。
 彼は少し黙ってから、トレイをおれに差し出した。
「・・・これ、できたから部屋に持っていってくれ」



「おおっ、水島!いなくなったと思ったら、長谷と一緒にご帰還かあ?」
 場がどっと湧く。森口さんはゆであがったタコそっくりの顔でご満悦だった。
 ちらっと長谷さんを見ると、入り口付近で別の客につかまっている。おれは持ってきたつまみを適当に配り始めた。
「水島、ここ坐れよ。・・・なあ、新歓オリエンテーションのタテカン描いたのって、おまえか?」
「そうですよ」
 沢庵の大鉢を置こうとしたおれの腕をつかんで、森口さんが横に座らせる。
「演劇部だけじゃなくて、ほかの部のも?」
「ええと、シネ研とブラバンと・・・あと、UFO研究会」
 答えるだけ答えて、差し出されたグラスを事務的にあける。
「驚いたな。脚本書いて、役者もやって、ほかにそんな才能もあるのか、圭ちゃんは」
「才能じゃないですよ、たまたまクラブのボックスが隣同士で仲良かったから」
 絵を描くのは好きだったから、喜んで引き受けたのだ。
「いや、いいなあ・・・ますますいいな、圭ちゃん」
 周囲がわっとはやしたてる。
「いけ!森口」とかけ声がかかる。
 森口さんはそれらが全く聞こえないかのように、訥々と続けた。
「若いし、才能もあるし、それに可愛いしさ・・・」
 爆笑。
 女の子たちが涙を流して笑っている。
 彼はじろりとそれを睨むと、おれの両腕をつかんで、ぐっと顔を近づけた。
 ゆでダコの酒臭い息がかかる。
「笑いたいやつには笑わせておけ。圭、知ってるか・・・昔の、風雅を解する都人はな、才能のある若い歌舞伎役者の、才能を愛したからこそ庇護して、バックアップして、閨の相手をだな・・・」
 すうっと頭から血がひいた。
「森口!」
 背後から長谷さんの鋭い声が飛んだ。
「おまえは飲み過ぎだ、頭を冷やせ」
「何だと」
「水島はそんなやつじゃない。昔の歌舞伎役者なんかと一緒にするな」
「別に、おれはただ―」
「長谷さん!」
 おれは間に入ろうとして、急に両手で口を押さえた。胃から食べたものがせりあがってくる。皆の注視のなかで部屋を横切り、扉から出てトイレに走った。
 げえげえと胃のなかのものを吐く苦しさに涙が出る。
(水島はそんなやつじゃない)
(水島はそんなやつじゃない)
 長谷さんの声が頭に響く。
 鏡に薄汚れたおれの顔が映った。
 そんなやつだ、おれは。
 そんなやつなんだ、おれは。
 女とも男とも見境なく、誰とだって寝てしまえるやつなんだよ、長谷さん。






 肉厚のてのひらがおれの頬をそっと撫でる。煙草の匂いのしみついた太い指。
「・・・圭」
 目覚めるとおれは服のまま、毛むくじゃらの大きな胸にすっぽりと抱かれていた。
 垂れ気味の二重の瞳がじっとおれを見つめている。案外、睫毛が長い。
「気がついたか。気分はどうだ?」
 酔いは醒めていた。
 おれは夕べあれから這うように長谷さんの下宿を出て坂を登り、この部屋の窓を叩いたのだ。
「・・・うん、大丈夫」
 そう言って起きあがろうとして、急に顔をしかめる。
「いたたっ!」
 右肘と足の何カ所かに痛みが走った。服を脱ぐと紫色に変色した内出血の痕があちこちにできている。・・・記憶がない。
「きっとここへくる坂の途中で転んだんだ、おれ、酔ってたから」
 柴田さんは何も言わずに湿布薬を持ってきて、おれの身体をあちこちまわしながら、器用な手つきでシートを貼り始めた。
 ひやりとした感触が快い。
 さりげなく言う。
「なあ、圭・・・おまえさ」
「何?」
「長谷はやめとけよ」
 ぎくっとした。
「・・・何、それ」
「あいつは見込みがないぞ」
「別に、おれは・・・」
「そうか?・・・ならいいけどな」
 それきり、沈黙が落ちる。シートを切るハサミの音が部屋に響いた。
「・・・でも、どうして、そんなこと知ってるのさ」
 一瞬、ハサミが止まった。
「ああ、あいつが入学したての頃に、おれがコナかけたことがあってな」
「え?」
 おれは驚いて柴田さんを見つめた。髭面が苦笑する。
「おれはもともと、ああいういいとこの坊ちゃんタイプに弱くてな」
「悪かったね、育ちが悪くて」
「まあな」
「まあなって―」
 柴田さんは笑いながらおれを制した。
「とにかくあいつはそっちの気が全くない堅物だし、郷里には幼なじみの女が待ってるっていうしな」
「幼なじみの女?」
「両親公認だって話だ」
 そんな話は・・・初耳だった。
 両親公認の、幼なじみ。
「あきらめろよ、圭」
「だから、別におれはそんなのじゃないから・・・」
 言ったそばから、不意に疲れが押し寄せてくる。
 一度抜けたはずの酔いが海綿を絞ったように内臓から噴き出した。頭がじわっと痺れる。
「・・・情けないなあ、おれって」
 思わず、声が出る。
「何だ、落ち込ませちまったか」
 大げさな口振りで柴田さんが言う。おれは彼をにらんだ。
「落ち込んでなんかいないよ。現状認識を新たにしていただけだ」
「おお、せいぜい認識してくれ。認識から展望が生まれる」
 展望・・・なんて、今のおれにいちばん遠い言葉だ。
 また黙り込んだおれを見て柴田さんはやれやれという顔をし、流しに立って珈琲をいれ始めた。
 モカの香りが部屋中に漂う。
 俺の前にマグカップと分厚いトーストを乗せた皿が置かれた。卵とプロセスチーズが添えてある。
「食え。・・おまえ、少し太れ。抱き心地が悪くてかなわん」
「よけいなお世話だ」
 おれは目の前のトーストにかじりついた。






 食後の一戦は穏やかなものだった。
 打ち身でろくに動けないおれが終わった後もぼんやりと天井を眺めていると、かたわらからハイライトの煙がゆっくりと流れてきた。
「・・・なあ、圭」
 うつぶせになった裸体が汗で光っている。筋肉の張った腕で頬杖をつきながら、柴田さんはぼそりと言った。
「おまえ、長谷からおれのこと、どんなふうに聞いてるんだ」
「どんなふうにって・・・・別に、何も」
「嘘つけ」
 髭面が軽くおれを見る。
「あいつがおまえに、何もクギをさしてないはずがないだろ」
 おれは黙った。
「近づくなって言われなかったか」
「―」
「なぜ黙ってるんだ?・・・言ったんだろ、あいつ」
「近づくななんて、・・・そんなことは言われなかったよ。ただ、いろんな噂を聞くから気をつけろって、それだけ」
「それだけ?」
「・・・うん」
 彼はふうっと煙を吐き出した。
「お行儀のいいあいつらしいな」
「―」
「・・・で?噂ってのは、何を指すんだ。おれには多すぎてわからんが」
 彼は面白そうに言った。
「言えよ、圭」
「・・・おれだってわからないけど、おれの聞いてる範囲では、もと学生運動の―全共闘の活動家で、そして―」
 俺は黙った。
「・・・そして?」
 彼が先を促す。
「・・・ホモだって」
 たぶんあの時長谷さんは、「ホモ」の方を心配してくれていたのだろうと思う。
 おれは柴田さんの反応を見るのが怖くて、畳に目を落としていた。
「ふうん」
 無感動な声。
「いい加減な噂だな、半分しか当たってないや」
「え?」
 おれはまじまじと彼を見た。
「もと、じゃない。おれは今も現役の活動家なんだ」



 ゲンエキノカツドウカ?
 それって、一体どういうことなんだ?
 おれが頭のなかで必死に言葉を探していると、柴田さんが喉の奥で笑った。
「何て顔してるんだ」
 彼は起きあがって布団の上にあぐらをかく。少し猫背になってうまそうに煙草を吸った。ちらっとおれを見る。
「まあな、圭、おまえがどれだけおれたちのことを知っているのか知らないけど、おれはおまえにああだこうだとくどくど説明する気は全くないんだ。おれたちの思想がどうの、行動がどうの、セクトがどうのって、おまえたちには関係ないしな。おれがおまえを仲間に引き入れたいなら話は別だけど」
「―」
「おれにはそんな気も全然ないし、・・・ただな、この部屋におまえがよく来るからいちおう言っておくが・・・おれの活動の拠点は別にあって、ここは仲間にも知らせていないから、まず心配ないとは思うけど」
 目の奥が獣のように鋭く光った。
「他のセクトの連中に襲われる可能性が全くゼロとは言えない」
 おれの喉がごくりと鳴った。
 内ゲバ。
 セクト間の抗争。鉄パイプ。めった打ち。リンチ。殺人・・・
 話にしか聞いたことのない凄惨な光景が目に浮かぶ。
 青くなった俺を見て、柴田さんはちょっと笑った。
「脅かしちまったみたいだけど、まあここ当分は大丈夫だろう。襲われるにしたって、順番というものがあるからな。だけどな、・・・圭」
「―」
「もしこの話聞いておまえが少しでも不安なようなら、ここにはもう来ない方がいい。おまえの命までおれは責任持てないし、おまえだって、死んでから後悔したって遅いしな」
「―」
「わかったか?」
「・・・柴田さんは命が惜しくないの」
「惜しいよ、決まってるだろ」
 彼は呆れた、といった声をあげた。立ち上がって洗面器に水を汲む。タオルを絞って全身を拭き始めた。仁王立ちのたくましい背中、引き締まった臀部におれの目が吸い寄せられる。
「でもしょうがないだろう、おれはおれで。・・・今さら途中で放り投げるわけにもいかないし。死んでいったやつらは何にもできないんだから、生きてるやつが頑張るしかないだろう」
「死んでいったって・・・内ゲバで?」
「違うよ」
 彼はタオルをきゅっと絞ると、おれにそれを放ってよこした。
「まあ、いろいろだな。機動隊に警棒で殴られて留置場で死んだり、独房で2週間垂れ流しのまま正座させられて発狂して自殺したり、哲学書に書き置き残して下宿で首吊ったり、な」
「―」
「生き残っても、ガス銃で失明したり指なくしたり、身体壊して半病人になったり、ノイローゼになって郷里に帰ったりして、・・・結局」
「―」
「そして誰もいなくなった、てやつだな・・・おれ以外は」
「―」
「おい、タオル、拭かないのか」
「あ」
 おれはぎこちなくタオルを使った。冷たい感触に思わずぞくっとする。
「おい、アザのところ・・・痛むのか」
「ううん」
 おれはかぶりを振る。
「・・・まあ、おまえなんかには大昔の話だな」
 確かにおれにとってはほんのガキの頃の話だった。でもおれは当時高校生になっていたおれの兄貴たちから、ほんの少しではあるがその時代の雰囲気を嗅ぎとっていた。おれが柴田さんと会ってごく自然に打ち解けたのはそのせいかもしれない。おれが兄貴たちから取り残された弟だとすれば、彼は友人たちから置き去りにされた男なのだった。そして時代はいつも、遅れてきた者に対して厳しい。
「・・・圭」
「何?」
「構内でまた顔を合わせることもあるだろうから、その時は茶でも飲もうや」
「―」
 おれは柴田さんの顔を見た。
「大学祭でも芝居するんだろ、頑張れよ」
「・・・うん」
「やけに素直だな」
 柴田さんは苦笑した。
 おれは無言で衣服を着け、ドアのノブに手をかける。
「いつか言おうと思ってたんだが」
 おれは急いで振り返った。
「おまえ、台詞言う時の鼻濁音の発音、気をつけろよ」
「よけいな―」
「お世話か?」
 垂れ目が人なつっこく笑った。






 ポプラ並木がさわさわと音をたてる。
 キャンパスを南に下った県の総合グラウンドは豊かな緑に包まれていた。かつて軍用地だったその一角には、今も機動隊の施設がある。おれは無言でその高い塀の脇を歩いた。
 おれの下宿はグラウンドの南側の、入り組んだ住宅街のなかにある。1階が2人、2階が3人のごく普通の下宿屋だ。大家の老女が玄関先の一室に寝起きしていた。
「あら、水島さん」
 靴を脱ぐおれを目ざとく見つけて近寄ってくる。
「あんた最近また見かけないようだけど、毎晩どこに泊まってるの?」
 ここのところ、部屋に帰るのは5日に1度くらいになっていた。
「あ、すみません。大学祭の準備があるんで、夜遅くなるとクラブのボックスに泊まりこんじゃってて」
 おれは笑顔でその場を逃れると、追求の手がかからないうちに自分の部屋に逃げた。いちばん奥の四畳半。引き戸の鍵を手早く開ける。
 主のいない部屋は静まり返って、テーブルにはうっすらと埃が積もっていた。
 ―ただいま。今帰ったよ。
 ポットにネル袋をセットして熱い珈琲をいれる。コロンビアの香りがたちのぼって、やっとひと心地がついた。煙草の封を切る。
 カーペットの上にごろんと大の字になり、目を閉じて煙草を吸う。肺のいちばん奥までゆっくりと煙を含ませ、倍の時間をかけて静かに吐いた。気管支の粘膜を羽根のように軽く煙が撫でていく。喉から鼻に抜ける香ばしい香り。
「圭」
 おれがつぶやく。
「・・・圭」
 おれが答える。
 瞼の裏の闇の空に白い波紋が広がっていく。
 ひどく空虚な気分だった。
 おれには、何にもないのだ。
 柴田さんのようにこの世界を変革し、体制に闘いを挑もうとする意志も、
 長谷さんのような冒険への夢も。
 おれにあるのはただふらふらと大学に通いながら趣味で脚本を書き、芝居を演じ、遊びでポスターやタテカンを描き、友達と酒を飲んで騒ぎ、ときどき女の子や―誘われた男たちとセックスするだけの毎日で、それはそれなりに忙しく、楽しいものではあったけれど、何のためにかわからない、何になるというあてもない、風が吹けば消えてしまう一夜の夢まぼろしのような暮らしだった。
 おれは何をしたかったのだ?岡山まで来て。
 おれは何になりたかったのだ?この、岡山で。
 この無限のように広い、夢幻のようにとりとめのない空間で。
 おれはどんな絵を描きたかったのだろう。
(何?・・・圭、文学部受けるの?)
 なつかしい声を思い出す。
(てっきり、美術の方に進むのかと思ってた)
 おれの漕ぐ自転車の後ろで、あいつはそんなことを言っていた。
 おれの腰にまわされた2本の腕。少し低めの、湿り気のある声・・・
 おれは突然、目を開けた。
 天井が高い。
 ここは、どこだ?―と一瞬、迷う。
(岡山だよ、岡山の君の下宿!)
 ・・・夢を、見ていた。高校時代の夢を。
 金色の夕陽のなか。
 堤防を自転車でどこまでも走っていく夢だった。
 おれは、笑っていた。
 背中のやつも、笑っていた。
 夕陽がおれたちの影を濃く長く伸ばしていた。
 おれたちの視線の先には・・・
 おれはぶるぶると頭を振った。起きあがって、目をこする。
 顔を洗おうとして引き戸の取っ手に手をかけた時、足が何か薄いものを踏んだ。
 さっき、寝ている間に扉の間から差し込まれていったらしい。
 手に取ったおれの顔からすうっと血の気がひいていく。
 急にぐら、と世界がまわった。
 両手で頭を抱えたまま、おれはうずくまった。






 リーリーリー、リーリーリーン。
 夜道で鈴虫が鳴いている。
 坂道の少し奥にあるモルタル塗の建物。薄っぺらい窓ガラスをノックすると、カーテンの間から鋭い目が覗いた。
 おれは手に持った酒瓶をかざしてみせる。
「入れてよ、柴田さん」
 彼が何か答える前に、おれはもう入り口に向かって駆け出していた。



 細めにドアを開けると、おれはまず首だけ入れてなかを見回した。
「ひとり?」
「何やってるんだ、目立つからさっさと入れ」
「へへ・・・」
 部屋の中央に炬燵が出してある。テーブルには小型ラジオとドイツ語の原書が乗っていた。そのほかは以前と変わらない、殺風景な部屋のままだ。
「・・・もう来るなって言っといたはずだが」
 机の上を片づけながら、仏頂面で柴田さんが言う。
「わかってるよ、だから2週間も我慢したんじゃないか」
 じろりとにらまれて、おれは首をすくめる。
「ひょっとしておれのこと追い払ってさ、新しいやつ入れてるのかと思ってさ」
「馬鹿言ってんじゃないよ」
 声にドスがきいている。
「危険だから来るなって言ったんだ、おれは!」
 鼓膜がびんびん震えた。
 ぐっと黙ったおれの顔を見て、彼はちょっと声をやわらげた。
「・・・圭」
「―」
「遊びでやってるんじゃないんだ、おれは」
「・・・おれだって、遊びじゃないよ」
 おれはぼそっと言った。
「あんた、言ったじゃないか。少しでも不安なようなら、ここにはもう来ない方がいい、って」
 彼がぎゅっと眉を寄せておれを見る。
「おれ、あの時は、内ゲバってことだけでビビっちゃって、ろくすっぽ考えもせずにふらふらここを出てしまったけど、考えてみればここへ来るのだって、どっかほかのところへ行くのだって、おれには・・・単なる遊びとか、気晴らしとかっていうところはひとつもないんだ。おれはその時、どうしても来たいからここへ来るので、それがおれにとって絶対的に必要だからここへ来るので、おれは・・・うまく言えないけど」
「―」
「だからその結果何が起こっても、それはおれの責任なわけで、おれはそれで誰を、何を恨んだりするつもりはないし、それに・・・そんなこと言ってたら、今時どこへも行けないと思うし、そんな風にして自分の行動をせばめていったら、それこそ俺には何も残らなくなってしまうし・・・そんなことはおれ、絶対嫌で、・・・それに、おれ」
「―」
「柴田さんの顔思い出したら、不安がみーんな、どっかへ行っちゃって」
 おれはなんとなく照れて彼の方を見た。
 むっとした髭面は変わらない。
 柴田さんは黙ったまま、のっそりと立ち上がって流しに向かった。
「・・・柴田さん」
「―」
「なあ・・・いいじゃないか、おれがいいって言ってんだからさ」
 彼が両手にグラスと氷を持って帰ってくる。おれは持参した酒でいつもどおりの水割りとロックをつくった。
 バーボンの芳醇な香りが喉の奥でじりっと溶ける。
 おれたちは1本のマッチでお互いの煙草に火をつけた。
「・・・圭」
 煙が流れる。
「おまえ、いくつだ」
「19」
「ガキだな」
「悪かったな・・・柴田さんだってそんな頃があったんだろ」
 髭面がにやっと笑った。
「おれはおまえほど馬鹿でも無鉄砲でも甘チャンでもなかったぞ」
「―」
「おまえ、今日から名前変えろ。水島圭、じゃなくて甘納豆圭、にしろ」
「ええ?やだよ、どうして―」
「甘納豆はおれの好物だ」
 え?
 ―一瞬、視線が絡む。
 不意に、目の前がふっと翳った。
 次の瞬間、おれの唇が熱いものでふさがれたかと思うと、おれはもの凄い力で抱きしめられ、畳の上に押し倒された。水割りのグラスが落ちる。氷がまわるカラカラという音のなかで、厚くやわらかい唇がおれの唇をむさぼっていく。煙草とバーボンの香りのする熱い舌。おれはむせかえりそうになって、喉の奧で細かく咳き込んだ。
「・・・圭」
 柴田さんは抱きしめた腕を少しゆるめ、唇を離しておれをじっと見る。おれの顔にかかった髪をすくいあげながら、太い指でおれの額と頬を何度も撫でた。
「この前打ったところは、まだ痛むのか」
「いや、そんなに・・・でも・・・あの」
「何だ?」
 おれは目をそらした。顔が赤くなっているのがわかる。
「布団を敷いた方が、どちらかというと―」
「そうだな」
 柴田さんは身体を起こすと部屋を片づけ、押入の上段から布団を出した。今日は冷えるから、とつぶやきながら、下段から毛布も引っぱり出す。
「あ」
 毛布といっしょに転がり出てきたものを見て、おれは思わず叫んだ。
 ヘルメット―
 それは黒い染みで汚れ、頭頂部から後ろまでがざっくりと割れて不気味な穴のあいたヘルメットだった。
 柴田さんはさりげなくそれを拾うと、無言でまた押入の奥に戻した。



 服を脱いで布団に入り、あかりも消してさあ、という段になって、おれは彼がすっかりその気をなくしていることを知った。
「柴田さん」
 おれは彼の身体に覆いかぶさってキスをする。
「さっきのあれ・・・柴田さんの?」
 答えがない。
「・・・甘納豆の?」
「―」
 不意に、おれの背中に太い腕がまわされた。あえぐように小刻みに震えている。
 おれははっとして彼の顔を見ようとし、あわててその目をそらした。
 見てはいけないような気がしたのだ。
 さりげなく腕をどけようとしたおれの頭を、反対側の腕がぐっと抱え込む。
「圭」
 頭の上で低い声がした。
「あいつは19だった」
「―」
「おまえより馬鹿で、おまえより無鉄砲で、おまえより甘チャンだった」
「―」
「・・・一生、19のままだ」
「―」
 声はもう乾いていた。柴田さんは静かにおれの髪を梳いた。
 節くれだった、太い指。
 おれはゆっくり目を閉じた。
「・・・圭、おまえな」
「―」
「・・・ほんとに小さい頭だな」
 あの甘納豆もそうだったのか?柴田さん。
「悪かったな。どうせ脳味噌が少ないよ、おれは」
 ふっと微笑む気配がした。
 指が、急におれの髪をぐしゃぐしゃにかきまわす。
「おいっ、・・・こら、嫌だって、もう」
 おれは彼の手を払いのけながら、ふわふわと濃い胸毛の上を腹まですべる。
 臍を過ぎてさらに濃くなる茂みの奥に顔を寄せた。
 やわらかく縮んだ肌色の肉根が、縮緬のような袋の上で眠っている。
 ―おれは犬だよ、柴田さん。
 今日のおれは、あんたの犬だ。
 おれは縮れ毛に鼻を擦りつけ、唇で陰茎をそっと起こしてその先を軽く口に含む。やわらかな包皮の甘さ、・・・独特の匂い。この匂いが、おれはとても好きだ。
 おれは唇を少しゆるめ、舌でべろべろと舐めまわしながらゆっくりと彼を含んでいく。唇の裏でふるふると震えていたそれが徐々にその姿を現しはじめる。少しずつ、少しずつくっきりと目覚めてくるのがわかる。舐めるたびに、ぴくんと起きあがる。喉を使うたびに、さらに固く反り返る。愛しい。おれの手のなかで、おれの口のなかで悶えている彼の欲望。熱くたぎり、身をよじらせ、今にも弾けそうなほど膨れ上がった彼の野生。
「圭・・・」
 太い手が伸びる。
 指がおれの頭をつかんで引き離す。
 毛むくじゃらの大きな身体がおれの上にのしかかる。固く締まった腿の筋肉がおれの脚を割って入る。どくどくと響く厚い胸。濡れた唇がおれを襲う。唇に、耳に、首筋に、痛いほど鮮やかなキス・マークがつく。彼の手がおれを探る。いきりたったおれのものが湿った指に捕えられる。
「・・・圭」
 柴田さん、おれを使え。
 おれはこれだけのおれだが、おれを使え。
 その歳にしてはうぶなあんたと、この歳にしては手慣れたおれと。
 この無限のように広い、夢幻のようにとりとめのない街の片隅で行きずりのように交わるこの瞬間だけ、おれたちはからくも繋がっていられるのかもしれない。
 何を・・・何と?
 柴田さん。
 彼の熱い喘ぎ声がおれの鼓膜を震わせる。それは遠い砂嵐のようにおれの頭に反響する。遠く近く、近く遠く、おれの名を呼ぶかすかな声。



 どこか遠くの洞窟のなかで、闇色をした1羽の鳥がひっそりと目を覚ますのをおれは感じた。





10

 秋晴れだ。
 真っ白な飛行機雲が空を斜めに横切っていく。
 おれは学食の隣の芝生に寝ころんで、吸い込まれそうな青い空に見とれていた。
「圭」
 隣に座っていた柴田さんがこちらを向く。
「夕べ、おまえ何か話があって来たんじゃなかったのか」
「え」
 返事につまる。
「・・・別に、何も」
「何もなくて、あんなに泣くのか」
 おれは期せずして赤くなる。
 柴田さんはちょっと目をそらして、背中を向けたままぼそりと言った。
「あんな最中に泣かれたら、気になるだろ。・・・まさか、そんなにおれが良かったわけでもないんだろ?」
 違う、・・・でも。
 おれは迷っていた。
 本当は、聞いて欲しい話があったのだ。でも、聞いてもらったからどうなるというわけでもなかった。それはおれの―全く個人的な話だったのだから。
 柴田さんはおれの顔をちらっと見て、目をなごませた。
「好いた惚れたの話か?」
「―」
 顔色でばれてしまった。
 柴田さんはおれの顔を面白そうに眺めた。
「はねっかえりのおまえにしちゃ、えらくまたしおらしいじゃないか。何?長谷のことはもういいのか?」
「長谷さんはそんなじゃないよ!あの人はただの先輩で・・・」
「ふうん」
 からかうような目つきに、むかっ腹が立った。
「もういい!」
 おれは立ち上がる。ジーパンの尻についた芝を払ってさっさと歩き始めた。
「おい、圭」
 背後から声が追いかけてくる。
「待てよ」
 肩がぐいとつかまれる。
「待てったら、・・・おい」
 くるりと回転したおれの顔を見て、柴田さんが絶句する。
「おまえ、・・・どうして泣いてるんだ」
 どうして?
 ・・・わからない。
おれはとまどって彼を見た。その間にも熱いものが頬を伝うのがわかる。
 柴田さんはおれをじっと見つめた。
「・・・いいから坐れ」
 おれたちは黙って芝生に戻り、腰をおろした。
 ハイライトが横から差し出される。
 おれは1本抜き取って自分で火をつけ、煙を吐く。
 透明な空気のなかにゆっくりと白い煙が溶けていった。
 秋の空。
 ゆうゆうと天を舞うとんび。
 遠くで応援団の練習の声。
 どこかのサークルのコーラスが聴こえてくる。
「・・・柴田さん」
「―」
「・・・ごめん、おれ、情けない」
 おれはうつむいたまま、言った。
「・・・男?女?」
「・・・男」
 ちょっと、間があった。
「・・・いつからだ?」
「気がついたのは、最近。・・・この春くらいから」
「どこの学部のやつ?」
「うちの大学じゃないんだ」
 柴田さんは、はじめておれの方を振り向いた。
「今、福岡にいる」
「福岡?」
「うん。・・・あっちの大学、行ったんだ。・・・高校がおれと同じでさ」
「―」
 彼がゆっくりと煙を吐く。
「・・・聞いてくれる?おれの話」
 髭面がにやっと笑う。
「のろけなら聞かんぞ」
「まさか、・・・そんなはず、ないだろ」
 おれは苦笑する。彼がこっちを見た。
 目が、合った。
「・・・話してみろよ」
 柴田さんはそう言って、太い指で煙草をぎゅっともみ消した。




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