on the road 内藤更紗
on the road 二人
Act.2 -ラブ・レター



 僕が暁生にはじめて会ったのは、高校の入学式の日だ。
 出席簿順に並んだ教室で、暁生は僕のすぐ前の席だった。
「ハヤシ、・・・ハヤシ、名前は何て読むんだ?」
 とうに還暦を越しているに違いない担任が老眼鏡をずりあげながら声を張り上げる。僕の目の前の詰襟の首筋がすうっと赤くなった。
「あの・・・アキオ、です」
 低いが、案外よく通る声。ふうん、と僕は何となく思った。
「おお、アキオ、か。暁に生きる、文学的な良い名前だ」
 あちこちでくすくす笑いがおきる。首筋はさらに赤くなった。
「ええと、次は水島圭、・・・男子だな?」
 どっと笑いが弾けた。
 ―またか。僕はうんざりする。
 男女混合の出席簿だから、担任に悪気がないのはわかっている。でもこの名前と容姿のせいで、僕は小さいときから苦労してきたんだ。
 僕の色が白いのも、僕が母親似で女顔なのも、別に僕のせいじゃない。でも3人の兄たちはそろって僕を毛嫌いした。英俊、尚道、道治と続いた後の末弟の「圭」だ。ひとりだけ女の子みたいな名前に加えて「あら、やっと念願の女の子かと思った」と母に投げかけられる大人たちの無神経な言葉が、幼い兄たちを傷つけていたに違いない。僕は誰からも遊んでもらえなかった。いつもひとりで家で絵ばかり描いて過ごすうちに、いつのまにかマンガを描くのが得意になる。クラスの女の子たちの人気者になった僕は、彼女たちとばかり遊ぶようになった。好みや、しぐさや、言葉づかい・・・僕は自分でも気づかないうちにどんどん女に同化して、ますます兄たちから嫌われるようになった。
「出来損ない」
 そう蔑んで僕のマンガのノートを破いた冷たい兄の眼が忘れられない。身内だからよけいに許せなかったのだろうと、今ならやっとそう思えるけれど。
 中学に進んだ僕は、とにかく男っぽくなろうと努力した。だがテニス部に入ってはみたものの、朝練ですぐに根をあげる。外で走りまわって遊んだ経験のない僕は、とても皆についていけなかった。すぐに他人と合わせるのは無理だ。それにまず基礎体力をつけないと・・・。僕はテニス部を辞め、毎朝ひとりでランニングを始めた。
 ひんやりとした夏の早朝、僕は海岸の堤防を走る。黎明の空が徐々に暁に染まり、空と海との境目の、たった1本の水平線から真紅の太陽が生まれ落ちる。僕はその光景を夏休みの自由画の課題に提出して、美術部の顧問から入部の誘いを受けた。絵は「男だから、女だから」なんて言わない、描きあげた作品が評価のすべてだ。僕はその潔さが心地よくて、卒業までの間油絵具の匂いのする美術室で放課後の時間を過ごした。
 それでも、僕のなかには依然として、もやもやとしたものがくすぶっていた。
 僕は確かに平均よりは細めだし、顔も態度もまだ多少は女っぽいかもしれないが、僕自身はどう見ても男だと思っている。でも男100パーセントかと言われると、正直言って自信がなかった。
 だって僕がはじめて胸をときめかせたのはテニス部のかっこいい先輩だったし、夜、布団のなかでむずむずするのも彼のことが多かったのだ。でもバレンタインに女の子からチョコをもらえばそれはそれで嬉しくて、お礼のデートをしたこともある。クラスの男は何となく僕のことを敬遠し、一部のやつらは僕を「圭子」とか「カマケイ」(おカマのケイ、の略らしい)と呼んでしつこく嫌がらせをしてきたけれど、僕は気にしないふりをして無視していた。
 一体、僕は何なのだろう。自分がふわふわしてつかみどころのない雲のように思えてならない。何人もの僕がその雲のなかに隠れているような気がして落ち着かなかった。
 高校に入ったら、そんな自分と決別するチャンスだと僕は思った。
 それまでどうしても言えなかった「おれ」という一人称を使おう。自分を男らしく、前向きに、オープンに変えて、新しい友だちをたくさんつくるんだ。
 もう誰にも「圭子」なんて呼ばせない。



「ねえ、えっと・・・あの、水島君」
 僕は我に返った。
 目の前に黒い学生服が壁をつくっている。見上げると、声の主はどうやら前の席のやつらしかった。
 中肉中背、やや小太りかな。顔立ちがどことなくイルカに似ている。黒目がちの眼が澄んでいてなかなかきれいだと僕は思った。
「これから講堂で入学式だって」
 背後でガタガタと音を立てながら生徒たちが移動していく。
「ああ・・・」
 僕は欠伸を噛み殺しながら立ち上がった。
 講堂へと続く渡り廊下で、そいつは不思議そうに言った。
「・・・水島君、その服さ・・・」
 僕は普段着のジーパンにTシャツだった。
「いや、家がビンボーでガクラン買えなくってさ」
 イルカが目をまるくする。その顔がおかしくて、つい顔がほころぶ。
「うーそだよ、だって服装自由なんだろ、ここ」
 やつがちょっと顔を赤くする。
「・・・変わってるね、君って」
「その、変わってるのを誘うおまえも変わってるじゃん、え・・・と」
「林だよ、林暁生、さっき聞かなかった?」
「寝てたもん」
「―」
「だから聞こえなかった、暁に生きる、だなんてさ」
 やつが真っ赤になってつかみかかってきた。僕は回廊の柱の蔭にまわりこんで防御する。こう見えたってすばしこいんだ。
「いいじゃん、おれだってみんなに笑われたんだぞ、おまえより」
「水島圭、・・・男子だな?」
 暁生は担任の口まねをした。
 こいつ!
 暁生が運動場の方に駆け出した。僕は後を追う。
 ピーッと背後で鋭く笛が鳴った。
「おい!そこ、何やってるんだ!」



 僕たちは体育主任にこづかれながら厳粛な入学式の会場に入った。
 こそこそと最後尾に並び、僕はふと、我に返る。
 僕、・・・さっき、自分のこと確かに「おれ」って、言ったよな。
 やっと「おれ」って、言えたんだよな。






 おれと暁生はすぐ仲良くなった。席が前後なのもあったけれど、おれは暁生の、一見おとなしそうに見えてなかなか気の強いところが気に入っていた。おれだってやわな外見に似合わず、けっこう気はきついのだ。言い返してくるくらいでないと相手にはならない。それにおれたちは不思議なほど、やりたいことが似ていたのだ。
 おれが演劇部に入りたいと言ったとき、暁生は驚いて、またイルカのような目をまるくした。
「実は、その・・・僕もそう思ってて」
 おれははじめてやつのよく響く声を聴いたとき、なるほどと思ったことを思い出した。
 校舎から少し離れた校庭の隅に、今にも崩れそうなバラックがある。力を入れて開けるとすぐレールからはずれる木製の引き戸。コンクリで固めた土間の上になぜか体操マットがうずたかく積まれ、残った空間に申し訳程度の机と椅子、それに黒板と等身大の鏡が置かれている。ここが演劇部のボックスだった。
 部員はいったい何人いるのか、幽霊部員と、その逆の、籍もないのにやってくるギャラリー部員が多かったために誰も正確なところはわからない。
 おれと暁生は数少ない男子部員として好意的に迎えられ、毎日発声練習や柔軟体操に励んだ。しかし文化祭に向けた練習が始まるのは夏休み前からだという。おれたちは時間と身体を持て余した。
「なあ、イラストサークル、つくらないか」
 おれが暁生に提案する。
 この学校にも美術部はあったが、おれはその顧問と喧嘩をしていた。もと日展画家だという白髪の老人は、第一回目の美術の授業でおれの絵を描き直せと命じたのだ。
 30分で人物を描くという課題に、おれは画面を斜めにして叫ぶ男の顔のアップを描いた。それが駄目だという。
「絵は水平に描くものだ」
 おれはキレた。おれにとって「絵」は応接間にちんまりと納まる小綺麗な観賞物ではなく、おれ自身の「叫び」そのものなんだ、とおれは思っていた。そうした人間の、自分たちの内奥のさまざまな感情をどのように引き出して画布に表現するか、それを教えるのが美術教育というものじゃないのか。・・・水平だあ?
 おれは描き直すことを拒絶し、その日の課題は0点になった。
「あのね、・・・あの人は美術の教師じゃなくてね、美術のなかでもごく正統派的な油絵の教師なんだよ。君の言う美術、ていうのとはちょっと違うと思う、だから噛み合わないの」
 暁生が帰り道でおれに言う。
「・・・わかってるよ。中学のときの美術部の顧問だって油絵だったもの。だけど彼はあんなふうに自分のやり方を生徒に押しつけなかった。おれたちに好きに描かせてくれたよ」
「うん、だから、そこがさ、・・・プライドってやつなんじゃないの、画伯の」
 おれは暁生の方を見る。
「長年さ、人物画・・・それも古典的な裸婦像ばっかり描いてきたって人だろ、その技術を正しく教えるのが彼の授業というか、・・・それ以外は教えられないっていうか。できないことを教えろっていわれたら彼自身、追いつめられちゃうんじゃない」
「追いつめるって・・・彼は教師だよ?まさか生徒になんか追いつめられないだろ」
「さあ、それはわかんないけど」
「―」
「でも、圭がやりあってくれてたおかげで僕たちは好きに描けて助かったよ」
 おれは暁生の描いた人物画を思い出した。
 隣席の女子の横顔をブルー1色の濃淡で描いたもので、それは画伯の絶賛を浴びた。
 おれには描けない、不思議な絵だ・・・おれはそう思った。



「イラストサークル、いいじゃん。自由に何でも描けるサークルがあってもさ」
「だろ?顧問は演劇部の畑中先生に名前貸してもらってさ」
「貸してくれるかなあ、あの人」
「さっき頼んできた、OKだって」
 暁生が呆れ顔でおれを見る。
「・・・らしいなあ、圭」






 「自由に何でも描けるサークル」はけっこう生徒たちの人気を集めた。マンガやアニメのイラストやアートっぽい絵を楽しんで描けるクラブが今までこの学校になかったのだ。サークル員は20名以上に膨れあがり、なりゆき上部長のおれと副部長の暁生は、ダメモトで予算を分捕りに生徒会室に出かけた。
「だめ」
 生徒会長の東浦さんの声が冷たい。
「各クラブの今年度の予算はもう決定済み。それにおたくんちはクラブじゃなくてサークルなんだろ、好きな者同士が集まる、ただの同好会。活動に歴史があるとかよほどの社会的意義があるとか、学校に貢献するとか、何かがなかったら予算化は無理無理」
 おれたちは顔を見合わせた。
「まあ、東浦君、1年生相手にそう身もふたもないことを言わないで」
 横合いから出される助け船・・・その声で、おれは思わず赤くなった。
 小田さんだ。・・・小田優子さん。生徒会副会長で、演劇部の副部長。
 涼しい目元に艶やかなロングヘア。おれは密かに年上のこの人に憧れていた。
「20人以上も集まってるっていうじゃない?それなら文化祭でも活躍が期待できるし、・・・今年度の予算は無理だけど、文化祭前に申請してもらえれば、別立ての予算枠の範囲内で考えてあげられるんじゃない?」
「小田さん」
 生徒会長がそっけなく言う。
「別立ての予算だって、欲しいというサークルは他にもたくさんあるんだよ」
「要は生徒会に貢献すればいいのね?」
 小田さんがにっこりして、おれたちの方を向いた。
「水島君、林君、・・・生徒会報の文化祭特集号の表紙のイラストをお願いできる?」
「・・・え」
 胸がどきどきする。
「小田さん」
 生徒会長の弱った声。
 そのとき、暁生のよく通る声がすうっとおれたちをかきわけた。
「あの、やります。何だったら特集号だけじゃなくて、毎月の会報も」
 小田さんはまた、にっこりした。



 その日からおれたちはちょくちょく生徒会室に出入りするようになった。
 ふたりとも、すっかり小田さんのファンになってしまったのだ。
 優しくて、知的で、ちょっと強引で―
 おれたちに姉さんがいたら、あんな感じかもしれない。
 おれは男兄弟しかいなかったし、暁生はひとりっ子だった。
 おれたちって、女の子の好みも似てるんだろうか?
 おれはそんなことを考えて、にやにやしていた。
 暁生の気も知らないで。






 文化祭は大忙しだった。おれと暁生は当日の朝までかかって「イラストサークル展」に出品するイラストを描きあげ、絵具も乾かないうちに演劇部のリハーサルに走った。やっと舞台がはねると衣装も着替えないまま、生徒会ブースの受付に座らされて来賓にリボンを配る。燕尾服がかわいいと言って記念撮影を頼まれることもあった。
 おれは男として自信をつけていきつつあった。演劇部もイラストサークルも、8割がた女子だ。一見おとなしい暁生よりもおれの方が話しやすいのか、おれはよく女の子たちから相談を持ちかけられたり、プレゼントをもらったりした。バレンタインには、まさかと思うような数のチョコレートがおれに集まった。
「マジで食べきれないな・・・おまえ、いらない?暁生」
「僕がもらってどうするの、僕だって食べられないよ、そんなに」
 暁生はおれだけもててても、当然だと言うようにあせらずゆったりと構えている。自分だったらとてもこうはいかないな・・・と思うたびに、おれはかなわない気分になった。要は、育ちがいいんだろう。
 おれはチョコで膨れた学生鞄を抱えて、放課後、暁生を家に誘った。
 学校から歩いて10分の新興住宅地におれの家がある。隣の市から電車で通っている暁生は、ときどき時間待ちでおれの家に遊びに来ていた。
 4畳半のベッドの上に、もらったチョコレートをざっとぶちまける。
 おれたちはふたりとも目隠しをして、手当たり次第につかんだチョコの封を切った。
「おっ、すげえ、これ生チョコじゃん」
「こっちもかわいいよ、ウサギとクマ」
「へえ、・・・あ、イルカもいるぞ、暁生、おまえ喰えよ、これ、共喰い!」
「何それ」
「だからイルカだって」
「どうして僕がイルカなわけ?」
 暁生は赤くなった。
「あ、赤くなった、おまえ黙って喰ったろ、このウイスキーボンボン」
「食べてないよ!」
 喰ったのはおれだったけど。
「いいよ別に喰ったって、おれだって生チョコひとりで食べたしさ」
「だから食べてないって!」
 怒るとますます眼がまるくなって、本当にイルカそっくりだ。
「何笑ってんだよ!」
「・・・だからおまえがイルカに似ててさ」
「―」
「来月のうちのサークルのお題はもう決まりだって」
「―」
「イルカ三昧!」
 言うが早いかおれはベッドから逃げようとしたが、暁生のタックルの方が早かった。
「こいつ!この!」
 組み敷かれて手足がぎゅうぎゅうベッドに押しつけられる。―こいつ、案外力が強い。
「何だよ、どうして怒るんだよ?」
「うるさい!」
「いいじゃないか、イルカだって、かわいいじゃん、おれ好きだし」
 暁生の手が止まった。
 まだ赤い顔をして、ぜいぜいと息をついている。
「・・・言ってみただけじゃないか」
「バカッ!」
 バカって・・・そこまで言うか?
 暁生は耳たぶまで真っ赤になって、ベッドの離れた位置に座り直す。
「なあ・・・機嫌直せよ、このチョコみんなやるからさ」
「いらないよ、君にきたチョコなんか」
 あれ・・・。
 まずい。やっぱり気にしてたか、おれだけもててること。
 おれってお調子者だからなあ・・・。
 沈み込んだおれをちらっと見て、暁生がぶっきらぼうに言った。
「・・しょうがないな、食べきれないなら半分もらってやるよ」
「え、そう?・・・悪いねえ、ひとりでもてちゃってさあ」
 おれはにこにこする。暁生がため息をついた。
「・・・圭はこれだからな」






 2年に進級して、おれと暁生は別々のクラスに別れた。しかし活動の拠点を演劇部とイラストサークルに置いていたおれたちには大した影響もなく、むしろ、それぞれのクラスで親しくなった友人をサークルに引き込んで5、6人の遊び仲間をつくり、そのメンバーで騒いだりバカをやったりして遊んだ。おれが演劇部の新入生歓迎会ではじめて脚本を書かせてもらい、暁生が舞台美術を担当した芝居はけっこう評判を取って、おれたちの鼻息を荒くした。
 7月。体育祭で湧きかえっている校舎の廊下を、おれは生徒会室に向かって急いでいた。
 前日に小田さんから呼び出されていたのだ。
 ・・・何だろう?
 声の調子が秘密っぽかった。おれはなんとなくどきどきする。
 バタン、つい勢い込んで大きくドアを開けた。
 3つの人影がいっせいにこちらを向く。
「水島君」
 いちばん手前の影がにっこりしておれを差し招いた。
「小田さん」
 おれは彼女の方に歩きながら、後ろに立っている2つの影に目をやった。
 切れ長の目が涼しいワンレングスの子と、小柄で彫りの深い顔立ちが印象的な子。
「来てくれてありがとう。紹介するわ、あなたと同じ学年の菱田翔子さんと河村奈緒さん。ときどき演劇部の手伝いに来てもらってたから、顔は知ってるわよね?」
「・・・はい」
 知らないやつはいないだろう、とおれは思った。ふたりとも茶道部員で、いつも一緒に歩いている。日本人形とアンティーク・ドール、と誰かが言い出したのが皆に受けて、おれたちは蔭でそんなふうに呼んでいた。
 おれの視線を浴びると、人形たちはもじもじして顔を赤らめた。
「さて、と」
 小田さんがおれたちを等分に眺めてにっこりする。
「というわけで、よろしくね、水島君」
「小田さん!」
「小田先輩!」
 ふたりが異口同音に悲鳴をあげた。
「・・・何よ、あなたたち、情けないわねえ。・・・あたしだって忙しいんだから、後は自分たちでおやりなさい、しっかりね」
 小田さんは彼女たちを軽くいなしておれにちょっと会釈すると、しなやかに身を翻して生徒会室を出ていった。
 バタン、という残響が部屋に長く響く。
 ―何なんだ、これって。
 呆然としているおれの背に、意を決したようにアンティーク・ドールが声をかけた。
「あの・・・水島君、あたしたち・・・」
 顔が真っ赤だった。
「どっちが好きですか」
 何だって?
 思わず振り返ったおれの目に、思いつめた日本人形の切れ長の瞳が映る。
「はっきり言ってほしいの。かまわない、覚悟してきたんだから」
 おれはぽかんと口を開けた。



「おい、・・・ちょっと待てよ」
 おれは柄にもなく、焦った。
 女にもてるのは、そりゃ悪い気はしない。それもこんな目立つ子たちからだから、正直言って嬉しかった。でも今日はじめて話していきなりどちらかに決めろなんて、いくらなんでも急だろう。それも友だち同士の子の前で「じゃあ君にするよ」なんて言えるやつがいるんだろうか。
 おれがつっかえながらそう言うと、ふたりは露骨に落胆した。きっとこのふたりは今日こそ決着がつくに違いない、と勢い込んでこの生徒会室にやってきたのだ。その気持ちはわからなくもないけれど、ちょっと強引すぎるよな。
「でも、水島君・・・今、つきあってる人いないんでしょ」
 それは調査済みだろ、と声に出さず言う。
「それとも、誰か好きな人がいるの?」
 日本人形が突っ込む。
 おれは返事に詰まった。
 年上の人のにっこりとした顔がおれの胸のなかをすうっと通り過ぎた。



「で?どうなったの、あの子たちは」
 小田さんが涼しげな目元に微笑みをたたえる。
 おれは彼女をサルビアの花壇の前に呼び出していた。
「だから、・・・相手の中身もわからないのにどちらか選ぶなんてできないって言ったら、じゃあこれから個別におれをデートに誘うから、それで判断してってことになりました」
「ふふ・・・もてるわねえ、水島君」
「冗談じゃないですよ」
「あら、どうして」
「おれは・・・小田さんがおれに用があるっていうから行ったんじゃないですか」
「―」
「うきうきして・・・バカみたいだ」
「あたしがだましたみたいって、怒ってるの?」
「違いますよ」
「―」
「おれだって、そりゃ今はつきあってる子はいないけど・・・だからって好きな人がいないってことにはならないでしょ?その人がつきあってる人がいるって知ってて、黙って我慢してるかもしれないでしょ?そんな人から呼び出されたら、うきうきして行ったって不思議はないでしょ?」
「―」
「それなのに、後はよろしく、なんて言われたら、バカみたいでしょ?」
「水島君、・・・何を言ってるの?」
 おれは小田さんを見た。
 心配そうな深い色の瞳。さらさらとした長い髪が風に揺れている。
 おれは唾を飲み込んだ。
 今、言わなければ・・・今。
「おれ・・・さっきからアプローチしてるつもりなんですけど、必死で!」
 小田さんは真剣なまなざしで、おれに訊いた。
「誰に?」






 暁生は笑い転げた。
 身体を揺すり、目には涙さえにじませて笑っている。
「・・・それでどうしたの、圭」
「どうしたもこうしたも、ここまできたらもう破れかぶれだと思ってさ、言ったよ。おれはあなたにアプローチしてるんです、って」
 彼は真顔になった。
「で?」
「そしたらあの人、真っ赤になってさ、・・・蚊の泣くような声で言うんだ、だってあたしにはもういるでしょ、って」
「ああ、つきあってるっていう人?確か小田さんと同学年の―」
「ラグビー部の秋山ってやつだろ、知ってたよ・・・でもさ、つきあってるっていったって、本人たちの気持ちが盛り上がってるとはかぎらないし、それだけであきらめるのは早いと思って小田さんに告白したわけだけど・・・」
「―」
「見事、ギョクサイ!」
 おれは暁生に苦笑してみせた。
 ここは学校帰りのおれたちのたまり場、喫茶「檸檬」の片隅だ。檸檬といっても梶井基次郎とは関係なく、マスターがそのころ流行った深夜放送の人気DJ、レモンちゃんのファンなのだった。笑うとアンコウに似ている、気さくな人だ。
 薄暗い店内は海の底のようで、客はおれたちだけだった。
 BGMが、マイルス・デイビスに変わる。
 おれはセブンスターに火をつけた。
「・・・なあ、暁生」
 ふうっとため息と一緒に煙を吐く。
「なんか、おれ、疲れちまった、・・・ものすごく」
 テーブルに肘を投げ出してあごを乗せる。
「どうしたの」
「だって考えたら気が滅入るんだもん、日本人形もアンティーク・ドールも」
「・・・どうして?」
「そりゃ、嫌いってんじゃないけどさ、・・・何だか面倒くさくって、女って」
「―」
「クラスのとかさ、サークルの子たちみたいにバカ話してるだけならいいんだけどさ・・・1対1でつきあうのって、なんか気ばっかり使いそうでさ」
「―」
「あーあ、今からユーウツ・・・」
 おれは腕のなかに顔を埋めた。
「・・・圭」
 低い声が頭上から降りかかる。
「・・・僕にしろよ」
 おれは顔を上げる。
 煙草の煙のなか、さらに逆光になって暁生の表情はよく見えなかった。
「・・・何?」
 おれは訊き返す。
「だから・・・僕にしときなよ」
 低いが、はっきりと通る声だった。



 おれは何も言わず、ただ微笑んだ。
 目の前の影も、微笑んだように見えた。
 おれは、なぐさめられていると思ったのだ。
 こいつはやさしいから、おれをなぐさめているのだと。



 それが暁生の、最初で最後の告白だったと気づいたのはずっと後のことだった。






 日本人形とアンティーク・ドールの決着は、思ったより早くついた。
 ひとことで言って、おれが日本人形と恋に落ちてしまったのだ。彼女―菱田翔子は、おれが真剣に恋した、おそらくはじめての女だった。端正な顔の下に炎のような激しさと繊細さを潜ませた少女で、時折それがきらきらと溢れ出る様子はとても魅力的だった。
 おれは夕暮れの海岸で翔子とキスをし、深夜の演劇部室ではじめてセックスをした。セックスは・・・うまくいかなかった。痛がるばかりの彼女に、おれは途中で行為を断念せざるを得なかった。でも彼女がおれに身をまかせようとしてくれたことに、おれは愛情を感じていた。
 だが、翔子とぎくしゃくしだしたのはそれからだった。おれは何とかきちんとセックスをしようとし、彼女はそれを拒み続けた。「それだけが目的なの」と翔子は訊く。なぜそんなことを訊かれるのかおれには理解できなかった。恋人同士が抱き合うのはごく自然なことじゃないのか?妊娠が心配なら、避妊をすればいいだろう。一体何が問題なんだ?
 馬鹿なおれは、よく暁生に愚痴をこぼした。
「うーん、僕は経験もないしよくわかんないけど、やっぱりいろいろと考えるんじゃない?」
「考えるって、何を」
「この人とそういうことして、先々どういうふうになるんだろうかとか」
「何だそれ」
「この人は自分を本当に好きなのかとか」
「バッカじゃないの?好きじゃなかったらしたいなんて思わないよ、おれは」
「うん、まあ・・・君はそうだろうけど」
「それに、そんなこといちいち考えるのって、ものすごくくだらなくないか?」
「・・・あのね、圭」
 暁生はおれを軽くにらむ。
「・・・恋愛してるときって、誰だって、よく考えたらくだらないようなことをいちいち気にしてしまうもんじゃない?それとも、圭は何にも悩まないわけ」
「そんなことない、おれだって悩むよ。翔子のことで悩んでるからこうやって話してるんじゃないか」
 暁生はため息をついた。
「わかってないよな、圭は」



 おれは暁生の言うとおり、多分わかってなかったのだろう。おれと翔子はまもなく別れた。おれは生まれてはじめて失恋の痛手で悶え苦しみ、「くだらないこと」で嫌ほど悩むはめになった。その年の秋が過ぎ、冬が過ぎると、おれは以前より少しだけ謙虚になり、少しだけ口数が少なくなった。
 そして3年の春になると、おれのそばにはいつの間にか、同学年のサークルの女の子が寄り添うようになった。いつもおれの絵を真っ先に誉め、おれの芝居をかかさず観てくれる子で、出しゃばらず、まわりに気を使わせない子だった。おれは男同士の集まりにその子を連れていったことが何度もある。そのなかには暁生もいた。おれと暁生は時折遠慮のない言葉の応酬をすることもあったけれど、そんな時でもその子はただにこにこと話を聞いていた。
「圭、おまえと梓ちゃんがもし喧嘩したら、おれたちは理由を一切聞かずに全員、梓ちゃんの味方にまわるからな」
 おれの友達にそこまで言わせた梓とも、おれは高校の卒業前に、別れた。
 そしておれたちは生まれ育った街を出て、おれは岡山、暁生は福岡、ほかのみんなもそれぞれの大学に散っていった。






「あの、君さ、水島君じゃないか?」
 大学に入ってはじめての夏休み、郷里のアーケード街の夜店で金魚すくいに興じるこどもたちを眺めていたおれの背に、ポンとかかる声があった。
 振り返ると、おれよりゆうに頭ひとつ分は上背のある、体格のいい男が笑っている。その甘い顔立ちと日に灼けた肌に見覚えがあった。
 確か小田さんと一緒によく歩いていた・・・
「N高で1年上のラグビー部だった秋山っていうんだけど・・・覚えてるかな」
 おれは微笑しながら立ち上がった。
「覚えてますよ。ときどきうちの部にも来てましたよね」
 小田さんの練習が終わるのを待ちながら、舞台の裾でよく部員たちと立話をしていた男だった。
「嬉しいな。誰ですかって言われたらどうしようかと思った。・・・前から一度話してみたいと思ってたんだけど、どう、この先で一杯」
 おれは軽くうなずいて、買ったばかりの風鈴を手に下げながら、彼の後をついてデパートの屋上のビヤガーデンに行った。
 ハワイアンの調べに乗って、冷えたビールが心地よく喉をすべり落ちる。
「水島君は岡山へ行ったんだっけ?」
「よくご存じですね」
「ああ、優子がよく話していたよ、君のこと」
「小田さん、元気ですか?」
 少し、沈黙があった。
「いや、・・・実はね、いろいろあって、あいつとは別れたんだ」
「え?」
「・・・おれにはできすぎの彼女でさ」
 秋山さんの顔に苦笑いが浮かんだ。
「おれが東京、優子がこっちだろ、最初は電話や手紙もひんぱんにしてたんだけど、そのうちだんだん話が噛み合わなくなって・・・」
「―」
「いや、要するにおれが悪くて、いろいろあってさ、・・・それでもあいつは我慢してくれてたんだけど、やっぱりそれじゃお互いのためにもならないって言ったら」
「―」
「泣かれてさ・・・夕べ」
 彼はジョッキをぐいとあおり、照れたように話題をこっちに振った。
「水島君の方はどうなんだ、確かほら、丸顔の可愛い子がいたんじゃなかったっけ」
 ―梓か。胸に鈍い痛みが走った。
「あの子とは卒業前に別れました。だからおれも今、ひとりです」
「同類か」
「みたいですね」
 秋山さんは顔をほころばせた。
「・・・今日は飲もうや、水島君」



 その夜ふたりでネオン街にくりだして、あちこち河岸を変えながらへべれけになるまで飲み倒し、秋山さんの家の玄関先に転がり込んだところまでは記憶がある。
 翌日、おれが布団の上で目を覚ますとすでに陽は高く昇っていた。家族の人はみな出かけたらしく、家は静まりかえっている。時が止まったような午後のなかで風鈴だけが軒先で涼しい音を立てていた。
「ん・・・何、もう昼なのか?」
 隣で秋山さんが寝ぼけた声を出す。
 おれは何となく微笑んで、彼の方を見た。気配で彼もこちらを向く。
 目が合った。
 秋山さんの眼がおれを捕らえて離さない。赤くうるんだ眼のふちが泣き出しそうにおれに張りつき、瞳が細かく震えている。
 そのまま彼の手がゆっくりと空を切って、おれの方に差し出された。



「・・・水島君」
 やっとおれから身体を離した後、後始末をしながら秋山さんは言った。
「君、ずいぶん慣れてたみたいだけど、・・・ずっと前から、そうなわけ?」
「でもないです。大学に入ってからかな」
 おれは素直に答えた。
「4月の終わりに、・・・カリキュラムも決めたし、下宿にも慣れたし、そろそろバイトでも始めようと思って、タマゴ屋の助手のバイトをやろうとしたんですよ」
「タマゴ屋?」
 秋山さんはきょとんとしておれを見た。
「ええ、タマゴの卸をやってる会社の社長が助手を募集してて。月に一度、県北の養鶏農家をあちこち見まわらなくちゃいけないんだけど、手が足りないからって」
「―」
「泊まりになるけどペイもまあまあだし、定収入にもなるしなって面接に行ったら合格だって言われて、喜び勇んで初仕事に出かけたんですよ、そうしたら―」
「その趣味だったのか」
 おれは微笑した。
「逃げようと思えば逃げられたんですけどね、おれも、ほら、役者のはしくれだし、実は興味がないわけでもなかったし、いい機会だから教えてもらっちゃえなんて思ったりして」
 ・・・本当は凄く怖かった。がたがた震えるほど怖かった。やっぱりおれは・・・と思い知らされるのが怖かった。でも、おれは自分を試してみたかった。男と寝ることができるのか、寝たら自分がどうなるのか、それを知らずにいられなかったのだ。
 そしてそれをしてしまった後は、何かとてもさっぱりしたのを覚えている。
 おれは結局こういう人間だったのだと、あきらめとも居直りともつかない気持ち。確信がひとつのかたちになって、胸のなかにすとんと落ちていった。
 別人のような眼をした自分の顔を、いつまでも旅館の鏡で見ていたのを思い出す。
「じゃ、その人と、ずっと?」
「いえ。・・・そいつ、面接の時はすごくていねいで紳士面してたんですよ、それが一度寝たらもう、ころっと態度変えやがんの、腹立ってね。おれは身体売ったつもりはなかったから、朝飯喰ったらすぐに帰って、金は現金書留で突き返して、それっきり」
「バイト代まで返すことなかったのに」
「だっていやでしょ、そんな金」
 おれは笑って首を振った。
「でもさすがに年の功で、いろいろ教えてもらいました。タマゴまでは使わなかったけどね」
「・・・それからは?」
「まあ、男の方にも目覚めたというか、惹かれるものがあったというか。大学内でそれなりに・・・特にいやな相手じゃなかったら、基本的にはOKかな、男も女も」
「そうなんだ」
 こころなしか、彼の顔に安堵の色が浮かぶ。
「コンビニエンスでしょ、おれって」
 24時間OKってやつ?おれは笑う。
 秋山さんも笑って、おれをもういちど引き寄せた。
 ねっとりとしたキス。なまあたたかい舌が歯茎の裏を舐めていく。ちゅう、と大きな音をたてて唇が吸われる。ざらざらとした髭。荒い息。おれの膝をはさんだ内腿の筋肉に熱い力が込もっていく。
 ちりん、かすかに風鈴が鳴った。
 おれはゆっくりと身体を離す。帰るよ、と眼で合図する。
「水島、・・・これ、おれんちの電話番号だから」
 おれは紙片を受け取り、泊めてもらった礼を言って彼の家を出た。
 歩きながら煙草を吸う。
 艶やかなロングヘアがさらさらと胸のなかを舞う。
 にっこりと微笑んだ年上の人。
 おれは、小田さんを、裏切った。
 あの人は、おれを憎むだろう。
 ・・・それでいい、と思った。
 それでやっと、あの人をふっきることができる。
 またひとつ、おれは執着から逃れられる。
 またひとつ、身軽になれる。
 おれはふわふわと風船のように飛んでいけるかもしれない。
 何もない空に向かって。



 おれは秋山さんにもらった紙片をびりびりに破いて道ばたの屑篭に捨てた。






 おれは大学に戻ってから、生協の男と寝た。
 コンパで知り合った仏文の女とも、演劇部の女ともおれは寝た。
 心は何も感じなかった。
 おれは疲れているのだろうか。わからない。
 生きているのか、死んでいるのかさえおれにはわからない。
 岡山の下宿の部屋でひとりこうして寝ていると、
 身体がどんどん重くなって、布団にめり込み、地面にめり込み、地の底までどんどんめり込んでいくような気がする。
 なぜだ?
 おれは自分を重くするものを、必死にふっきってきたはずだった。
 故郷も、家族も、友達も、恋人も、そしておれ自身の身体さえも・・・
 おれは自分に絡みつくもの、自分を貶めるものから必死で逃げてきたはずだった。
 そして限りなく0に近く、限りなく無限に近い空間に向かって
 自らを同化してしまいたかった。
 一点の曇りもない空に身を投げて消滅してしまいたかったのだ。
 それなのに―
 ふっきったはずの身体がなぜこんなにも重いのか、ふっきったはずの心がなぜこんなにも苦しいのか、そしてなぜこんなにもおれは疲れているのか、おれにはわからない。
 眠りたかった。
 ただ、何も考えずに眠ってしまいたかった。
 でも、起きてしまえばひとりだ。
 肌寒い4畳半の下宿でひとりで震えているのだった。
 カーテンから漏れる淡い光、雨漏りの染みのある天井板、かたかたと鳴るガラス窓。
 これがおれの城塞だ、これがおれのすべてだ。
 おれはこの部屋から逃れようと、あちこちの男や女の寝床を渡り歩く。
 まるで乞食のように意地汚く、野良犬のようにひくひくと喉を鳴らして。
 それなのに、いつも泣きながら目を覚ます。



 暁生が、いない。
 暁生が、いない。
 暁生が、おれのそばにいない。
 暁生の顔が、暁生の手が、暁生の声がおれのそばにない。
 おれの心の裏側にとてつもなく大きな空洞がある。暁生の形をした空洞がある。
 何をもってしても埋まらない。
 風がびゅうびゅう吹きすさぶ。
 暁生、暁生、おれは叫ぶ。
 暁生、暁生、暁生、暁生。



 そしておれははじめて気づく。
 あの高校2年の夏、薄暗い「檸檬」の片隅で彼がおれに言った言葉。
 あれは暁生の、告白だったのだと。
 おれはそれを聞き流して、それから翔子と恋に落ち、
 暁生にたっぷりとセックスの愚痴を聞かせた上に
 梓との仲まで彼に見せつけて・・・
 暁生は高校3年間、一度も女とつきあわなかった。
 その手の話に乗らなかった。
 奥手だと思っていたのだ、おれは。
 だから逆におれが見せつけることで刺激してやれと・・・
(わかってないよな、圭は)
 そうだ、おれは・・・わかってなかった。
 おれは、何もかも、わかってなかった。
 暁生の気持ちも、おれの気持ちも、おれは何にもわかってなかった。
 今頃になっておれは気づいたのだ。
 3年もかかってやっと本当の気持ちに気づいたのだ。
 どんな女と恋愛をしても、どんな男と寝ていても
 おれのなかにはいつもおまえが眠っていた。
 そしておれが気づいたときにはもう
 おまえはおれのそばにはいない。



 心が煮えたぎる地獄湯のように音を立てて沸騰する。それは高熱で内臓を溶かし、肉を溶かしておれの全身を溶解する。全身に毒がまわる。身体が痺れる。目が見えない。
 おれは断末魔の悲鳴をあげる。
 暁生。





10

 秋の芝生の上に、ふたつの長い影が伸びている。
 日はかなり傾いて、黄金色の光の矢をたっぷりと解き放っていた。
 柴田さんがおれの方を振り向く。
「それで・・・?おまえはどうしたんだ」
 おれは、ちょっと押し黙る。
「そのままずっと、悶々としてるようなタマじゃないだろ、おまえは」
「ひどいな」
 おれは苦笑して、足元の芝をむしった。
「まあそのとおりだけど。・・・でも、何か言うにしたってあいつはずっと福岡だし、・・・電話で話せるようなことでもないと思ってさ」
「―」
「先月の初めに手紙を書いたんだ」
「手紙?」
「一世一代の、ラブ・レターってやつ」
「―」
「要点は、ふたつあって・・・ひとつめは、おれが暁生を好きだということ。・・・これは、誤解がないようにと思って、いちばんはじめに、はっきり書いた。ものすごく恥ずかしかったけど。・・・僕は、君を、愛しています、って」
 思い出して、また顔が火照る。
「それからもうひとつは、今後、おれが暁生やほかの友達の前で、彼に対してどう振る舞ってほしいかということを訊いた・・・これは答えやすいように回答を5つ用意して、選ぶだけでいいようにした」
「何だ、それ」
 おれは少し口ごもった。
「・・・だってさ、おれや暁生はいつも5、6人の仲間と一緒に遊んでるわけだし、これからだってそのつきあいはあるわけだろ?それなのに、おれが暁生に勝手に惚れちゃったら、あいつだってほかのやつの手前、困るじゃないか・・・だから、たとえば知らんぷりしてろっていうんなら、その通りしようと思ってさ、それに―」
 ちょっと、息を継いだ。
「もう会いたくないっていうんなら、それもその通りしようかと思って」
「―」
「それで返事をあれこれ考えさせるのも悪いかなって思ったから、回答を用意したんだ、・・・変かな」
「・・・まあ、おまえらしいと言えないこともないな」
 おれは黙って、また芝を少しちぎった。
「・・・で?それで返事はどうなんだろうかって考えてたら切なくなって、夕べおれのところで泣いてたってわけか?」
「・・・違うよ」
 彼は眉をそびやかした。
「無理するな」
「違うんだ」
「―」
「・・・返事が来たんだ、暁生から」
 彼の目の奧に閃光が射した。
「柴田さんから、危ないからもう下宿に来るなって言われた日、おれの部屋に帰ったら返事が来て―」
「―」
「葉書が、1枚」
「葉書?」
「・・・うん、郵便局で売ってる、官製葉書」
 彼が絶句する。
「でも、おれにはその内容が・・・よくわからなくて」
「―」
「2週間、必死で考えたけど・・・それでも、まだよくわからなくて」
「もってまわった言いまわしをしてるのか?」
「そうじゃなくて・・・英語なんだ」
「英語?」
「うん、・・・いや、簡単な英文で・・・それも2行だけなんだけど」
「2行?」
 おれは鞄の底から葉書を取り出して、彼に渡した。



   I think so. As same as your thinking.
   I cannot understand our term in future.



 薄っぺらい紙が太い指の間で震えた。
「なあ、柴田さん、教えてくれよ、それはいったいイエスなのかノーなのか」
「―」
「・・・恥ずかしいけどおれは単語のなかにおれの知らない意味があるのかと思って、何度も辞書を引いたんだ、でも・・・やっぱり普通の意味らしい」
「―」
「直訳すると、僕は君と同じように考えています。僕は将来の僕たちの関係が理解できません、だろ?」
「―」
「同じようにって、どういうことだ?おれを好きだっていうことなのか?好きだけど、先のことはわからないっていうことなのか?それもcannot understandだ、cannotだよ?それって、何なんだ、どうやっても理解できないということなのか。それはおれが男だからか、男だからおれたちはだめだっていうことなのか?それとも・・・」
「―」
「・・・おれがいやなら、そう言えばいいんだ、いやだ、きらいだ、今さら何言ってるんだ、ふざけるなって、罵倒してくれればいいんだ、それでおれは忘れられる、おれは辛いけどあきらめようとしていたんだ、だっておれが悪いんだから。おれが昔、あいつの気持ちに気づかずにさんざんひどいことして、傷つけて、やっとあいつがおれから離れられたと思ったら、おれが・・・愛してるなんて恥知らずな手紙を出して、今さらそんなことを言い出して、とんでもないやつなんだ、だから、・・・だから、ふざけるなって、言えばいいんだ。それなのに、僕も同じ気持ちだなんて言われたら、おれはいったいどうしたらいいんだ、でも先のことはわからないなんて言われたら、おれは・・・」
 おれは顔を膝頭に埋めた。
「圭」
 柴田さんは黙って葉書をおれに返した。
「・・・そいつに直接会って話してこいよ。遠くでああでもない、こうでもないって悩んでたってらちがあかんだろう」
「・・・うん」
 手の甲で涙をぬぐう。
「・・・おれもそう思ったから、会いに行こうと思って」
「いつ?」
「明日の夜行で。・・・できればそのまま、一緒に長崎の方へでも旅行して、・・・話ができたらと思ってさ」
「・・・そうか」
 柴田さんは立ち上がって、ジーパンの芝を払った。
「それじゃおまえ、今晩は下宿でおとなしく寝て、明日は身ぎれいにして彼氏に会いに行くんだな」
「彼氏じゃないよ、暁生は」
 おれは赤面した。
「おまえ、そいつのこと泣くぐらい好きなんだろ?・・そいつも同じ気持ちだって言ってきてるんだろ?」
「―」
「・・・じゃ、可能性は大いにあるじゃないか」
「・・・柴田さん」
 おれは彼の大きな身体を見上げた。
「情けないツラすんなよ、おまえらしくもない。・・・ひとりで帰れるな?」
「―」
「迷子になるなよ」
「・・・ガキじゃないよ」
「どうだかな」
 振り向いた髭面がまぶしそうに目を細める。彼は山の方に向かって歩き始めた。
 夕闇が彼のがっしりした背中に降り、キャンパスをゆっくりと覆っていく。
 渡り鳥の群れが空の端を駆けていった。




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