■on the road 内藤更紗
on the road
Act.3 -プラット・ホーム
午前7時2分、新大阪発熊本行き深夜急行「阿蘇」は定刻通り博多駅に到着した。 日曜日とあって観光客がけっこう多い。改札に向かう人の波に混じりながら、おれはふと、この駅の匂いに不思議な懐かしさを感じて立ちどまった。 駅舎は、明るかった。射し込んだ光のなかで天井に舞い上がる細かな塵がきらきらと光った。朝の活気が窓口にもキヨスクにも、案内所のざわめきにもあふれている。人々は改札を抜けると、今日一日の目的に向かって足早にコンコースに散っていった。おれはフロアの真ん中に立って、ゆっくりとあたりを見まわした。 暁生の住んでいる街。 暁生がここで生きて、暮らして、笑っている街。 おれは駅前のバスセンターに向かう。手もとのマップと暁生の住所とを見比べて、最寄りのバス停を確認する。バスセンターの壁に掲げられた巨大な路線図で停留所を探し、その路線の時刻表を見た。 そうか、今日は日曜日なんだ、と改めて気づく。学生をメインの利用者にしている路線のせいか、休日の本数は極端に少なかった。35分待ち、か。 おれは待合室の椅子に腰掛けてジャケットのポケットを探る。セブンスターを取り出してから、何となくまたもとに戻した。 昔「檸檬」の片隅で暁生の気持ちとすれちがった時、おれは煙草の煙に邪魔されて彼の顔がよく見えなかった。あの時の暁生の声を思い出すたびに苦いものがこみ上げて、煙草に伸ばす手がついためらいがちになる。 バスが入ってきた。 乗客がぱらぱらと乗り込む。ブルブルと大きく車体を震わせて準備運動を終えると、バスはゆっくりと発進した。 駅前の賑やかなビルの間を抜け、繁華街をぐるりとまわって何人かの乗客を落とすと、窓からの景色はいつの間にか商店と住宅の混在する郊外の風景になってきた。ガソリンスタンド、ラーメン屋、ボーリング場、喫茶店。ときどき小休止のように畑が入る。 40分ほど乗って、おれは降りた。 バスの大きな図体が去っていくのを背に、今来た道を戻り始める。太陽が眩しい。おれはひたいに手をかざしながらアスファルトの上を歩いた。 ちらっと、前方に黒い影が動いた。 右側の側溝にわたされたコンクリートの橋の上に誰かが立っている。 中肉中背、やや小太りかな。よく見るとジーパンの脚が少し短めかもしれない。 無造作なシャツに無造作な髪。そしてイルカのようなまんまるい目。 おれは立ちどまった。 心臓が飛び出しそうに鳴っている。 大丈夫か、おれが訊く。 ・・・大丈夫だ、おれが答える。 おれはがくがく震える膝を叱咤しながら、何気ないようにまた前進する。 影がおれに近づいてきた。 逆光でも表情がもう見えるくらいだ。 おれは今、どんな顔をしている? 「圭」 暁生が微笑んだ。 何十回、何百回見た、暁生の笑顔だ。 何百回、何千回、おれは夢に見たかしれない。 「・・・よう」 そう言うのがやっとだった。 「遅かったね、もうずっと待ってたのに」 「え?・・・だって、列車の時間は言ってあっただろ?7時2分って」 それからまっすぐ来たんだぜ? おれは暁生の顔を見る。 暁生はちょっと、唇を噛んだ。 「この人、6時半から待ってるのよ、ここで」 不意に横合いから声が飛ぶ。 「いつ来るかわからないからって、もう2時間も動かないんだもの」 暁生がきっと横をにらむ。 いつの間にか暁生の隣に、色白の女が寄り添うように立っていた。 暁生の下宿はバス停から歩いて3分もかからない距離だった。道路から少しだけ脇に入る。おれたちの後から、女も当たり前のように部屋に入ってきた。 「同じ科の堀内由美さん」 暁生はそう簡単に紹介しただけで、立って珈琲をいれにいく。 おれと女は炬燵で向かい合って座ったまま、黙り込んだ。 女がおれを上目づかいでちらちらと観察する。眠そうな一重の目にマッシュルーム・カット。フォークギターを持たせたらよく似合いそうなタイプだった。 おれは無言で横を向いたまま、さりげなく部屋のなかを観察する。流し、冷蔵庫、本棚、ファンシーケース。おれの部屋と似たり寄ったりの殺風景な住まいだった。 ―別に同棲しているわけではなさそうだ。 思わずほっと緊張がゆるむ。 暁生と女・・・今まで考えてみたこともなかった。でもそう言われてみれば、暁生だってそうルックスは悪くない。本人が外見をあまり気にしないだけで、芝居の時でも衣装によってはおれより数倍引き立っていることだってあったのだ。 彼に目をつけるあたり、この由美という女はなかなかいい趣味をしていると思えないこともなかった。 「お待たせ。・・・圭はブラックだったよね」 暁生がマグカップをテーブルに置く。由美はすばやくおれの正面の席を暁生に譲ってその隣に移った。 「はい」 暁生が由美にクリープの瓶をまわす。由美は砂糖も2杯も入れた。ぷっくりと太った指が動いて砂糖が薄茶色の渦に飲み込まれていく。思わず目をそらしたおれは暁生の視線とぶつかった。 暁生はおれを見ていた。でも表情は読みとれない。彼はさりげなく視線をはずすと、脇からごそごそと何かを出してきた。 「煙草、セブンスターだったね、圭」 いつの間にか灰皿も前に出ている。 「いや、いいよ、おれ持ってるし、・・・それに」 ちょっと控えようかと思ってるところでさ、と早口で続ける。 「なんだ、圭が吸うと思って買っておいたのに」 暁生が頬をふくらませる。 そういえばこいつは高校時代、セブンスターじゃなくてピースだった。おれたち遊び仲間は女に無縁だったこいつを「チェリーにしとけよ、チェリーに」とひやかしていて、こいつはそれに反発してわざと強いピースを吸っていたんだ。おれはこいつが無理してたのを知っていたが、その、何ていうか、・・・あんまり可愛いので、ついそのまま眺めていたっけ。 あの頃から、もうこいつはおれの心のなかに入り込んで来ていたのか。 「暁生、じゃせっかくだから貰うよ、それ。・・・おまえは?相変わらずピースか?」 「うん、ピースもだけど、・・・でもほかのも吸う」 「じゃ、これいけよ」 おれはセブンスターの封を切って1本出し、暁生にすすめてから自分の分を取った。 ふうっと吐いた白い煙がもうひとつの煙と混ざり合っていく。 おれは視線を宙に浮かせて、考えていた。 あの殺風景な橋のたもとで2時間以上も立ちっぱなしでおれの来るのを待っていた暁生。おれの好きな煙草を買い置きして、嬉しそうに出してきた暁生。 ・・・少なくとも、おれは嫌われてはいないらしい。 じゃ、この女は、何なんだ? おれは由美の方を見た。甘ったるい珈琲を小指を立てて飲んでいる。おしゃべりでなさそうなのはありがたかったが、質問もしないということは、おれのことをある程度聞かされているということだった。 暁生は由美に、おれのことを何と説明したのだろう。 「圭」 暁生がくりくりとした瞳をおれに向けた。 「腹減らない?この近くに美味いラーメン屋があるんだけどさ。・・・あ、圭、とんこつ、いけたっけ」 「何だっていけるよ、おれは」 おまえと一緒ならな、と胸のなかでつぶやいて、おれは笑った。 とんこつラーメンは本当に美味かった。 実ははじめてだとおれが言うと、暁生はイルカのような目をまたまるくした。 「さすが圭だなあ、僕、最初の時はちょっと残しちゃったよ」 カウンターで食後の煙草を吸っている時、由美が手洗いに立った。 「なあ、暁生」 おれはできるだけ、さりげなく言う。 「長崎の方へ旅行しないかって・・・手紙に書いたよな」 返事がない。 「実は今夜の宿だけはもう予約が入れてあるんだけど」 おれはちらっと横を見る。 「・・・行かないか?」 暁生が目を伏せる 「・・・それとも都合、つかない?」 横顔が硬くなる。 ―やれやれ、ダンマリか。 ・・・しょうがない、まだ午後いっぱいは時間がある。 由美が戻ってきた。 店を出て3人で暁生の下宿に向かって歩き出す。おれは暁生とわざと接近して、おれたちと由美の距離が開いたのを見定めてから、声を低くして訊いた。 「暁生」 彼が振り向く。 「あの由美って子は、・・・何?おまえの彼女?」 「違うよ」 暁生は即答した。 「言っただろ、同じ科で―」 じゃなぜおまえにくっついてるんだ?と言いかけて、おれは言葉を飲み込んだ。 訊かなくてもわかるような気がしたのだ。あの子の暁生を見る、食い入るような眼。 ・・・おれと同じだ。 由美がどこまでおれのことを暁生から聞かされているのか、おれは知らない。でもおれが普通の「友達」としてやってきたのでないことぐらい、ひと目でわかったのだろう。だからあの子は不安になって、おれたちふたりにくっついているんだ。 暁生、おまえはどうなんだ。 おまえは、おれを、由美を、どうしたいんだ? 「暁生くーん」 後ろから由美が小走りに追いかけてくる。 おれたちはちょっと立ちどまり、暁生が微笑んで彼女に手を振った。 午後はのったりと過ぎていった。 3人はまた午前中と同じ並び方でこたつに座り、暁生は珈琲をいれ、由美は黙っておれたちの話を聞いていた。 暁生は楽しそうにおれたちの共通の遊び仲間の噂をし、この夏に起きた故郷の街の話題をあげた。まるで沈黙をおそれるかのように、次から次へと話し続ける。 気を使っているのだ、旅行の話題をしたくなくて。 行きたくないなら、そう言えばいいのに。はっきり断ったらおれが傷つくと思っているのだろうか。 おれたちは暗くなってから近くの定食屋で夕食をとった。帰りに公衆電話から長崎の宿にキャンセルの連絡を入れる。暁生を無理に引っ張っていくわけにはいかなかった。無理強いはしたくない。おれは酒屋で角とオールド、それに幾分かのつまみを仕入れて、今夜は飲もうと提案した。 「旅行費用が浮いたからさ、おれのオゴリ」 ヒュウッと暁生が口笛を吹く。由美はにこにこと笑っていた。 おれたちは端から見ればいかにも仲のいい3人組のように笑いさざめきながら、暁生の下宿まで競争で走りながら帰った。 部屋に帰って水割りをつくりはじめたおれに、暁生は、由美ちゃんの分は水みたいに薄くして、と注文をつけた。ほとんど飲めないのだという。そういう暁生だっておれだって、飲むのは好きだがそう酒に強い方ではなかった。おれなんて意地だけで飲んでるようなものだ。 それでも3人でグラスに氷の音を立てながら乾杯すると、座の雰囲気は昼間よりもずいぶんほぐれてきた。暁生はあいかわらず饒舌で、大学の話や芝居の話を延々と続ける。由美がそれににこにこと相づちを打った。 しかし12時が過ぎ、1時になっても2時になっても由美は腰を上げようとしない。訊くと、ここから1キロほど離れたところに下宿しているのだと言う。 「これから帰るのもかえって危ないからね」 暁生は平然としている。―これまでも、こうして泊めていたのだろうか。おれは黙って唇を噛んだ。 暁生の女関係については、おれは今さら何を言う資格もない。おれが高2で翔子とはじめて体験したとき、その晩すぐにおれは暁生に電話した。多少の見栄も優越感もあって、うまくいかなかったことはおくびにも出さず、 「女はいいぜ、あんないいもの絶対ない、もう最高。おまえも早くやれよ。何たって地球の半分は女なんだ。女を知らないってことは、地球の半分を知らないってことだぜ」 馬鹿なおれはそう言ったのだ。後で死ぬほど後悔するとも知らないで。 だからおれは、暁生が女と経験してもしょうがないと思っていた。たとえ女と経験したって、その後で・・・おれを選んでくれればいいと思っていた。 だが、こんな形で、・・・目の前で見せつけられるような形で暁生に応対されようとは思ってもみなかった。 これは暁生の復讐なのか?それともおれが試されているのか? おまえはおれに「僕も同じ気持ちだ」と言ってくれたのではなかったのか? "I think so"と言ってくれたのではなかったのか? 目の前では暁生が相変わらずにこやかに話し続けている。由美はほとんど水のような酒を飲みながら、絶対に先に寝ようとせずに頑張っていた。おれは営業用の笑顔をつくる。暁生の顔を見ていられる、ただそれだけのためにおれは最高級の笑顔をつくる。 最初の夜はそうして更けていった。 次の日も、また次の日も状態は変わらなかった。 おれたちはずっと同じ炬燵の同じ座布団に座って、同じようにしゃべり続けた。友人と故郷と大学と芝居の話題がつきると読書や映画の話になり、果ては中学や小学時代のこと、家族や親戚のことまで話した。 おれの一生のうちでも、暁生の一生のうちでも、こんなにしゃべり続けた数日間はそれほどなかっただろうと思う。おれたちはまるで根のはえた植物のように炬燵にこもって日がな一日飽きもせずだらだらとしゃべり続け、腹が減ると近くの定食屋に行き、夜は酒を飲み、眠くなればそのまま倒れ込んで炬燵で眠り、起きればまたその位置で話し始めるのだった。そしてかたわらにはいつも由美が張りついている。 暁生の部屋にはあまり大きいとはいえない窓があって、おれの座った位置からは、きりりと晴れ渡った10月の青空と、隣家の物干し台にぱたぱたとはためく真っ白な洗濯物が見えた。窓枠に縁どられた秋らしい景色のこちら側は、昼間でも薄暗く沈んだ古い沼の底のようだ。 おれのなかにどんよりとした疲労が堆積していく。 何を話しても、もう駄目なのではないか。 暁生は絶対に、おれたちふたりに関する話をしないのだった。いや、それを避けるためだけに、そのほかの、ありとあらゆる話題を探し続けているとしか思えない。 由美を追い出そうとしないことで、もうそのことは明らかだった。長崎への旅行を拒んだのだって、そうだった。 暁生は、おれとふたりきりになりたくないのだ。 ふたりきりになって、おれが、・・・おまえはおれをどう思っているんだと問いかけるのを拒んでいるのだった。 暁生。 おれは確かに、おまえへの気持ちを長い間気づかないできた。でも、気づいてからは自分の気持ちに後ろめたさを感じたことは一度もない。それは、そのときすでに自分がそういう人間だということをはっきり自覚していたからだ。 でも、おまえはそうではなかったのか。おれが男だということが、そんなにもおまえのなかでネックになっているのか。それは、どうあっても認められないことなのか。"I think so."と書いて寄こしたにもかかわらず、どうしても口には出せないことなのか。 おれは、おまえが好きだ。好きだから、いつもおまえの顔を見たい、おまえをそばに感じていたい。おまえを抱きたいし、一緒に暮らしたい。そして一生、ふたりでいたい。泣いたり、笑ったり、議論したり、喧嘩したりしながら、おまえとふたりでこの長い道のりを歩いていきたい。それはおれにとってごく自然な感情だった。でも、おまえにとっては― 駄目なのだ。 おまえにはおれたちの未来が見えない。ふたりで歩いていくなんて信じられない。たとえおれのことが好きでも・・・好きだからこそ、おれに英語の返事を寄こすことしかできなかった。さんざん悩んだあげく、たった2行しか、書けなかった。遠くから訪ねてきたおれを2時間も橋の上で待ちながら、3日も間近におれの顔を見ていながら、それでも笑顔でごまかし続けることしかできないでいるのだ。 暁生。 おれは目の前の暁生を見た。夕方から飲み続けている酒が彼の顔を柿色に染め、目の下には黒ずんだクマがにじみ出ている。今日何十本めかのセブンスターが右手の指の間で震えていた。 おれは思わず手を伸ばして、彼の煙草を奪い取る。 「圭」 「やめろよ、・・・煙草」 そんなに吸いたくもないくせに・・・身体にだって悪いんだ。 おまえが身体を壊したら、命がほんの少しでも縮んだら、おれは。 由美がテーブルに突っ伏して眠っている。 暁生は真顔になっておれをにらんだ。 「何だよ、急に。・・・君だって吸ってるじゃないか」 横を向いて新しい煙草に火をつける。おれはまた、手を伸ばした。 「やめろったら」 「勝手だろ!」 暁生はおれの手を肘でブロックし、横を向いたまま煙を吐いた。 「僕が吸おうと、どうしようと、・・・ピースだろうとチェリーだろうとセブンスターだろうと、・・・たとえ―」 言葉が途切れた。 おれは暁生を見る。 暁生はぐっと唇を噛んで睫毛をしばたたせ、目の前の畳に視線を落とした。濃い焦燥が顔全体を覆う。たった今死人を見てきた者のような土気色の顔だった。 「暁生」 「―」 「・・・暁生」 彼は動かない。その姿は底の知れない深い沼に沈んでしまった鉛の船のように見えた。 暁生。イルカのようにくりくりした瞳で笑っていた暁生。 おれは、おまえにこんな顔をさせるためにここに来たのではなかった。 しらじらと3日目の夜が明けようとしていた。 さすがに疲れたのだろう、暁生と由美は炬燵で横になったまま、ふたりともぐっすりと眠っている。おれはまんじりともせず、ひとりで水割りを飲んでいた。 もう、これ以上ここにいても、無駄だった。 おれは暁生を追いつめることしかできない。 この数日間、おれたちはたくさんのことを話した。結局、おれはかんじんなことを何ひとつ口に出すことはできなかったが、それはもう仕方がない。おれは暁生の態度から、言葉以上のものを言ってもらったのだと思う。おそらくこれ以上の語らいはもう望むべくもないのだろう。だからこそ、後悔もない。 おれは眠っている暁生を見た。 蝉の幼虫のように身体を丸め、両手を唇の前で軽く合わせている。半開きの唇から静かな寝息が漏れるたびに、顔にかかった髪がかすかに震えた。真っ白い灰のような光のなかで、それはなにかを祈っているようにも思えた。 おれは由美に視線を移す。花柄のカーディガンを肩にかけ、由美もまた丸まったまま、静かに眠りに落ちていた。 おれは立ち上がり、旅支度を始めた。荷物は少ない。今からなら始発のバスに乗れるだろう。 テーブルの上に散らばったグラスや皿を、音を立てないように流しに運ぶ。振り返って、部屋のなかを見まわした。 透明な塹壕のような部屋だった。 このまま帰れば、暁生が心配するかもしれない。彼に置き手紙をしようとして、おれはちょっとためらった。 何を書いても、嘘になるような気がした。言い訳はしたくなかった。 おれの気持ちは、おれの行動でしか証明できない。 おれはしばらく考えた後、結局ただひとことだけを紙に書いた。 good-by 扉の前でもう一度部屋のなかを見まわしてから、おれは暁生の下宿を出た。 ひんやりとした朝の空気が肌を刺す。 時計を見ると6時少し前だった。始発のバスが来るまで30分ある。おれは歩道との境界に設けられたコンクリートの車止めに腰をかけてバスを待った。人通りはない。朝の遅い学生街は皆がまだ無心に眠りをむさぼっていた。 ポケットから煙草を取り出そうとして、やめた。ここ何日か分の煙が身体の奥深くに染み込んでいるような気がした。それは暁生の声を、暁生の顔を思い出させた。 おれは足もとのアスファルトに目をやった。ジーパンから伸びた足。履き古したスニーカーに無数の泥がついている。 おれはぼんやりとその泥を見つめた。 さまざまな想いが胸のなかを走り抜ける。 自分が何を考えているのかよくわからなかった。 ため息をついて両膝に顔を埋めようとした時、不意に、近くで足音がした。 おれはぎくりとして顔を上げる。 見覚えのある花柄のカーディガンが視界のなかで揺れた。 由美はバス停の前に腰をおろしたおれを見て、ちょっと立ちどまった。 おれは視線を前に戻す。余計な説明はいらなかった。 由美はゆっくりとおれに近づき、5歩ほど離れた地点で、もう一度とまった。 おれはなんとなくそっちを見る。 目が合った。 はれぼったい一重の目は無表情だった。 さよなら、でもない、お気の毒に、でもない、ごめんね、ではもちろんなかった。 確かめたかったのか、おれが去っていくのを。 それとも見送りたかったのか、暁生のかわりに。 由美は何も言わない。おれの方も黙っていた。 (暁生をよろしく) そんなきいたふうなことを言いたくない。おれはまだ、負けたわけじゃない。 暁生はまだ、おれのことを好きなのに。 あんな顔をして黙ってしまうほど、おれのことを好きなのに・・・。 ふと、おれの耳が車の音を捉えた。 フロントガラスいっぱいに朝の光を浴びて、始発のバスが姿を見せる。 おれはのっそり立ち上がった。ジーパンの埃を払う。 由美の表情が変わった。もの言いたげに瞳が揺れる。 バスはゆっくりとおれたちに近づき、おれの目の前でとまった。プシュッと音がして扉が開く。 おれはステップに片足をかけ、振り返った。 由美がそのままの位置で、喰い入るようにおれを見ている。 (暁生を・・・) その目が言っていた。 (暁生を) おれの目が答える。 ステップをもう1段あがる。扉が閉まった。 分厚いドアガラスの向こうで由美がおれを見上げている。歯をくいしばっておれをじっと睨んでいる。寝ぐせのついたままのマッシュルーム・ヘア、片肩にひっかけただけのカーディガン。おれはふと、笑い出したいような衝動に駆られる。 似たようなものだな。おれだって、ヒゲは剃ってないし髪はボサボサだし。 由美、似たようなものだよな、おれたちは。 バスが勢いよく発車した。 おれはドアの前に立ったまま、首をまわして由美の姿を目で追った。 窓枠のなかで小柄な影はどんどんちいさくなり、やがて点になってかき消された。 博多駅に着くと、おれはすぐ新幹線のホームに向かった。3時間前後で岡山に着ける。ひかりのシートに背をもたせながら、おれは見るともなく窓の外を見た。 アナウンスが流れ、車体がなめらかに動き出す。 景色がゆるやかに流れ始めた。 おれはぼんやりと考えた。 暁生はどんな未来を想像しているのだろう。 どこかの女と結婚して、家庭を持って、家族を守って・・・、案外そんなことを考えているのかもしれない。それは至極まっとうな夢だった。 そして少なくともおれは、暁生にどんな夢も提示できないのが現実なのだ。 暁生がおれのそばにいることに幸福を覚え、おれと寝ることに喜びを見いだし、おれと共に生きていくことに生き甲斐を感じるのでなければ、どうしておれのことを「好き」だなんて告白ができるだろう。それは出口のない暗い部屋に彼を無理矢理押し込めようとするのと同じことだった。その部屋が広々とした草原に通じていて、苦労もあるけれど楽しいこともたくさんあるのだと彼が信じることができなければ、おれの誘いは暗闇からの誘いに等しい。 だから彼は、あんなにかたくなにおれを拒んだのだ。あんな死人のような顔をして。 彼はおれたちの未来に、どんな意味の「希望」も持てなかったのだ。 おれは、自分が、口惜しかった。 おれがもし女だったら、暁生の望みをかなえてやれただろう。何のためらいもなく彼の欲望の処理をして、こどもでも安らぎのある家庭でも、望むままにつくってやれただろう。 おれがもし、もう少し知恵のある一人前の男だったら、おれは暁生を導いてやれただろう。だいじょうぶだ、おれたちは幸福になれると彼に信じさせることができただろう。 今のおれには、何もなかった。おれは女でもなく知恵もないただのちっぽけな19のガキで、はっきりとした夢も展望もなく毎日ただぶらぶらと親がかりで暮らしている、甘えた学生のひとりに過ぎなかった。おれには何の力もない。どんなに暁生に惚れていても、何の力もないのだった。 おれは地面を叩いて叫びたかった。 ・・・駄目なのだ、今のおれでは。 駄目なのだ、今のおれたちでは。 今のままのおれでは、いつまでたってもおれは暁生の未来に出会えない。 暁生はいつまでもあの部屋のなかでうつむいていなければならないのだ。 あの白い沼の底のような部屋のなかで。 窓の外で景色が飛んでいく。 山も、河も、街も、家も、鳥のように飛び去っていく。 決別しよう、とおれは思った。 慕情、未練、執着、追憶。 これまでの暁生とおれに関するすべてのことに、決別しよう。 そして探しに行くのだ、一から、おれたちのこれからの姿を。 暁生に会うために、今度こそ暁生を抱きしめるために、おれは全精力を傾けよう。 そしてその時が来たら、暁生を迎えに行こう。 おれは暁生を絶対に離さないだろう。 おれは、もっと愛したい。 おれの身体のすべてで、彼を愛したい。 おれの最後の血の一滴まで、暁生を愛しぬきたい。 あいつを確かにこの腕のなかに得られる日を、おれは夢見ている。 その日まで、さよならだ、 おれの、暁生。 ひかりはなめらかに岡山駅のホームに滑り込んだ。 真昼の陽射しが眩しいほどに降り注いでいる。 はじめてここに来たときのように、おれは息を深く吸い込んだ。 ―大学を、やめよう。 |
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