第20話 ブルー・ムーン ■ 内藤更紗
ブルー・ムーンタイトル

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     16.ドッグ・デイズ


 2本のレールの先端が次々と夜の闇に吸い込まれていく。
 闇の向こうに消えていく故郷を、雅裕は最後尾の車両から眺めていた。
 この電車に乗ろうと決めたのは昨夜のことである。
 会いに行こうとする相手には、さっき連絡をつけた。
 たとえ会えなくても、行くつもりだった。
 3回乗り換え、6時間もかかるのだが、
 それでも、会いに行くのが遅すぎたと思った。
 今までは、どんなことがあっても、行くまいと思っていたのだ。


 夜空に浮かぶ頼りない月。
 窓ガラスに揺れる自分の顔が
 いつのまにかあいつの顔になっている。
 不思議なものだ。出会ってからもう18年もたっているのに
 胸に浮かぶのはいつも出会った頃の、15才の彼だ。
 仔犬のように無邪気な笑顔しか思い出せない。


 彼の名は、悟。北村悟といった。


    * * *


 地方の共学の進学校。
 入学早々組まされた体育委員の相棒をひとめ見て、おれはやばいなと汗を流した。
 贅肉のない締まった身体つき、栗色の大きな瞳、きゅっと結んだ形のいい唇。
 ごつく汗臭い野郎どもにはまったく何も感じない自分が、
 この手のタイプの男に致命的に弱いことをおれは自覚していた。


 おれは注意深く相手に接したが、悟はすぐコロコロとおれになついてきて、
 学校から電車で1時間以上もかかるおれの家に入り浸るようになった。
 自分は学校のすぐ近くに住んでいるくせに、
 授業が終わるとすぐゲームやCDを持って、おれの家に直行するのである。
「おばさ〜ん」
 甘ったるい声を出しておれの母親のハートをがっちりつかみ、上客モードの手料理をせしめるのだった。
 泊まりにくれば、おれの布団にも遠慮なくもぐりこんでくる。
 男兄弟のなかで育った彼には当たり前のことかもしれないが、
 そのたびにおれの心臓はバクバクと不穏な音をたてた。


 一番ひどかったのは、高1の文化祭の前夜だった。
 この日ばかりは親と学校公認で校舎に泊り込みができるので
 教師の巡回の目を盗んで、あちこちで秘密パーティーが開かれていた。
 パーティーといっても可愛いもので要は酒盛りにすぎないのだが、
 おれが機嫌よく飲んでいたら悟がやってきて、かくまってくれというのである。
 どうやらつきあっていた女ともめたようだった。
 おれは柔道部の友人に練習場の鍵を借り、板張りの床に薄いシュラフを敷いてふたりで入った。
 11月の夜は寒く、アルコールが醒めると冷気が皮膚の下から忍び寄ってくる。
 悟がおれに抱きついてきたのはその時だ。
「おい、悟」
「…雅裕…やっぱりあったかいなあ…」
 そのささやきがおれの敏感な耳元の毛をやさしく撫でたかと思うと、次の瞬間やつはもう眠っていたのである。
 悟の体重を全身で受け止めながら、おれは途方にくれた。


 おれの中で、悟の存在が狂おしいほど拡がっていく。
 色とりどりの風船が極限まで膨らんで今にも破裂しそうだった。
 おれのベッドで、かたわらで寝入っている悟に、何度手を伸ばしかけたことだろう。
 寝ぼけたふりをして思いきり抱きしめてみたいと思わない日はなかった。
 それでもおれは耐え、
 ついに我慢し通すことができたのは、
 悟とは一生、つきあっていきたいと思ったからだ。
 おれは確かに男が好きだけれど、悟はただ欲望の相手として好きなのではない。
 こいつがどんな大人になっていくのかをおれはしっかり見てみたいし、
 おれがどんな風に生きていくかも、絶対そばで見ていてほしいと思う。
 ゲイだノンケだという枠を越えて、
 人間としても一生つきあっていきたい男なのだ。


 それなのに、悟はあっさりと海の向こうの大学の受験を決めた。
 どうして、と詰めよるおれに、
「だって去年冗談で遊びに行ったらキャンパスがすげー広くてさ、馬も歩いててさー、
 おれが見てると、ちょうど馬の背中に朝日が昇ったんだよね」と笑っている。
 馬に朝日か。おれは唇を噛んだ。
 自分の気持ちが踏みにじられたと思った。
 所詮、悟にとって自分はその程度の人間だったのだ。
 親友とか、一生つきあっていきたいとか、かっこつけて空まわりしてたのは自分だけ。
 自分の3年間は一体何だったのだろう。
 高校を卒業した年の秋、悟は上機嫌で留学地に旅立っていった。
 おれには空しさだけが残った。


    * * *


 だが、大学生活に慣れるにつれ、おれの悲しさも徐々に薄らいでいった。
 やっぱり健康な18の男なのだ。新しい知識も人間関係も新鮮で面白かった。
 ゼミやバイト先で気の合いそうな友人も何人か見つけた。
 大丈夫、やっていける。そう思った矢先だった。


 悟からエアメールが届いたのだ。中には薄っぺらい便箋と写真が入っていた。


     雅裕、元気ですか。
     僕は元気ですと言いたいけど、実はあまり元気じゃない。
     自分でもよくわかりません。寝てないせいかもしれないけど。
     よく雅裕の夢を見ます。
     雅裕。正直に言います。
     僕は多分、雅裕を愛しているのだと思う。ずっと前から。
     会いたい。とても会いたい。会えますか。


 おれは写真を手に取った。西海岸の明るい陽光の下、キャンパスの並木をバックに悟が白い歯を見せて笑っている。


(…ウソだろ)
 おれはひとりごちた。
(今さら、何言ってんだ)


 あんなに、あんなに好きだったのに、あきらめるのは辛かったのに、それでもあきらめたのに、
 この能天気さは一体何なんだ。ふざけるな。
 無視を決め込んだおれのもとへ、1週間後の夜、電話がかかってきた。


「雅裕、…おれ」
「……」
「あの…、わかる?おれは…」
「わかってるよ」一瞬だって忘れたことはない。
「今、来てるんだ」
「どこに」
「おまえの家の前」


 おれはあわてて部屋の窓を開けた。見上げた薄茶色の目と、目があった。思わず言葉が口から転がった。
「おれは会いたいなんて言ったおぼえはないけど」
「……」
 悟はたっぷり3分間おれを凝視し、眼を伏せた。
 そのままきびすを返して、歩き始める。
 痩せた姿が塀の角を曲がって消えた瞬間、おれは我に返った。
「悟!」


    * * *


 その夜、おれの家に泊まれという言葉に悟は頑として首を縦に振らず、
 ふたりで泊まれるホテルもなく、
 寒空の下をさまよったあげくとうとう街はずれの海岸まで吹き寄せられて、
 おれたちは堤防の中段の窪みに身を寄せ合った。
 勢いで出てきたものの、ふたりとも何を言えばいいのかわからない。
 晩秋の浜辺。
 蒼ざめた満月が銀の波を照らしている。


 沈黙に耐え切れず、おれがしゃべりだす。
 バイトのこと、ゼミのこと、友人のこと、高校の時の仲間のこと。
 関係のない話ばかりしているのに、悟はただ頷いて聞いているだけだった。
「悟、何か言えよ」
「うん…」
「何だよ、らしくないな」
「うん、あの、…おれさ、飛行機の中で、雅裕に会ったらあれも言おう、これも言おうって、
 ものすごくたくさん考えて、言う順番決めて、頭の中でシミュレーションして、
 あの狭いトイレに閉じこもってリハまでやったんだ」
「うん」
「でも雅裕の顔見た瞬間にみーんなぶっとんで、真っ白」
「……」
「…なんか、全部どうでもよくなっちゃった」
「何それ」
「うん、雅裕の声聴いたら、落ち着いた」
「変なの」
「変だよね。なんかバカみたい。あ、ヤダ、おれって相当バカだな」
 おれは笑った。
「おまえさ、疲れてたんじゃない?ほら初めて海外で暮してさ、ホームシックとか」
 だからあんな手紙寄こしたんじゃないかという意味を込めておれは言った。
「…それはないよ。おれ手紙のことは、けっこうマジだもん」
「……」
 悟は黙り込んだおれを横目でちらっと見た。
「でも、雅裕が迷惑ならもう言わない、安心していいよ」
 悟は爪でカリカリとコンクリートを引っかいた。
「雅裕、もてるしさ…かっこいいし」
「そんなことないよ、おまえの方が何倍ももててたじゃないか。しょっちゅうどっかの女とつきあってたくせに」
「でも好きなのはおまえだった…」
 カリカリ。
「…なーんてね」
 おれは黙った。


「雅裕、何か言えよ」
 悟の声が不安げに震える。
「雅裕…」
 その言葉が終わらないうちにおれは悟の肩を掴んで引き寄せ、腕の中にきつく抱き締めていた。
「雅裕?…雅裕」
 腕の中のとまどいが、甘い歓喜に変わっていく。
 痺れるような恍惚の中で、不意にやわらかいものがおれの唇をふさいだ。
 悟の唇。悟が全身でおれにかじりついて、必死でおれの唇をむさぼってくる。
 熱い舌と舌が絡むと触れ合った接点から内部が溶けて身体が空洞になり、奔流のように悟が流れ込んできた。
「……ん…」
 悟の中にもおれが流れ込んでいるだろうか。悟が切なげに腰をすりつけてきた。
「…ん……あぁ」
 唇を吸い合ったまま身体をずらす。悟の腰を抱いて引き寄せ、ジーンズの上からそっと腿を撫でた。
 悟の肩がピクッと震える。おれにかじりついた両腕にぎゅっと力が入るのがわかった。
 おれはゆっくりと手を内股にすべらせ、小刻みに撫でながら、少しずつ核心に向かう。
「……ん…ん…」
 しかめた眉の、悟の頬が燃えるように熱い。
 指がジーンズの硬い膨らみに触れたか触れないかと思った瞬間、
「うわわあぁっ!」
 悟がすごい力で、おれを突き飛ばした。


    * * *


 一体、何がおこったんだ?
 おれはしばらく尻餅をついた姿勢で、あっけにとられていた。
 悟の様子が普通じゃない。おれに背を向けてしゃがみこんだまま、ぶつぶつ何かをつぶやいている。
「おい、悟」
「見るなっ!あっちへ行け!…どうしよう…この近くに病院…でも保険証が…でも」
 病院?
「どうしたんだ。ケガか?」
「あっちへ行けったら!…ちくしょう、よく見えないな…」
 焦る悟をなだめすかして、おれは夜でも煌々と灯のついている公園の公衆トイレに彼を連れて行った。
 悟は、暗い表情で個室から出てきた。
 どこかケガしたのかと聞くと、よくわからないという。場所はどこだと聞くと、股間を押さえた。
 痛いのかというと、痛くないという。何かよくわからないけど、ヘンなんだよ。
「見せてみろよ」
 悟はえっという顔をした。
「このまま病院行っても、説明できないだろ、それじゃ」
 悟はしぶしぶトイレの隅でジーンズとボクサーパンツをおろした。


 おれの目の前に薄くけぶる陰毛に囲まれて、今はすっかり縮んだペニスが現れた。
 やわらかそうなベージュの薄皮が先にいくにつれてゆるゆると緩み、、
 その先に二つに割れた桜色の半球が恥ずかしそうに顔をのぞかせている。
 おれはごくりと喉を鳴らした。
「…どこがヘンなの?」
「ここがさ」悟は半球を持ち上げて露出して見せた。「ここがさっき、急にズルッと皮が下がって丸見えになったんだ」
「さっきっていつ」
「その……キスしてるとき」
 おれが黙り込んだのを見て、悟は不安に駆られたようだった。
「ものすごい衝撃でズルッてきて…どうしよう、雅裕、おれ、どうしよう、一生治らないのかな、このまま」
「落ち着け、悟」
「だってさ」もう半泣きだ。
 おれは息を整えた。
「おれが思うに、おまえは剥けただけだと思うよ」
「え」
 悟はきょとんとした。
「だからさ、キスしたときデカくなったんだろ?急激に膨張したから皮が先っぽの下まで剥けただけだよ」
「でも、…おれ、これまでひとりで出すときだって、こんなこと一度もなかったのに…」
 言ってから、悟は赤くなった。
 おれも赤くなった。
 つまりそれは、悟がそれだけ感じていたということになるからだ。


 公衆トイレからの帰り道、おれたちは何となく気恥ずかしくて、離れて歩いた。
「おれって、ホント、バカみたい。アメリカからわざわざチンポ見せに帰ってきたんだろうか」
 悟は自嘲気味だ。
「でも、よかったじゃんか剥けて」
 悟は急に立ちどまった。おれは数歩先で振り返る。
「なあ、雅裕は、もう剥けてるの」
「…うん、まあ」
「見せてよ、おれに」
「…いいけど、暗くて見えないだろ」
「月の光でいいからさ」


 おれは堤防に座ってブリーフを脱ぎ、大きく股を開いた。
 夜風が冷たい。悟は目を見開いておれの股間を見つめた。その視線だけで勃起しそうになる。
「…すごいな、太いし、こんなにくびれてて……なんか青白いけど」
「それは月のせいだろ」
 満月の光が悟のやわらかな髪に反射してきらきら光っている。悟はおれの陰毛に顔を埋め、そっとペニスを口に含んだ。
 夜が二度と明けなければいいのにと、おれは思った。


 翌日、悟は留学先に戻り、おれと悟を海が隔てた。


    * * *


 Eメールもインターネットもない時代、
 おれたちをつなぐのはエアメールとごくたまの高価な国際電話だけだった。
 おれはデスクに時差の換算表を貼り、悟は同じものをベッドサイドに置いた。
 おれがベッドに入る時刻に、悟がベッドから起き出す。
 まるで1組の地球の寝床を共有するホット・ベッドみたいだ。
 広大な地球の寝床。回転する故郷。


 空に浮かぶ月を見てはこの月を何時間後かにあいつも見るだろうかと思い
 そのでこぼこのクレーターの影におれたちは必死で相手のメッセージを探した。
 海岸に出ては打ち寄せる波の音に相手の声が混じっていないかと耳を澄ませた。


    この空はつながっている。
    この海もつながっている。
    だからおれたちはひとりじゃない。
    手を伸ばせばその指先のはるか彼方にきっとあいつがいる。
    おれたちはつながっているのだと信じていた。


    * * *


 だが、おれたちの遠距離恋愛は、結局つづかなかった。
 ふたりとも生身の男だったのだ。特に悟の方に、周囲からの誘惑が多かった。
 休暇に悟が帰省したとき、彼が複数の男と交渉を持ったことを知っておれは激怒した。
 悟には、おれが貞操にこだわる気持ちが理解できない。
 誰とセックスを楽しもうがそれは身体の次元のことで、
 愛情は雅裕の上にあるのだからどこに問題があるのだというのだ。


 おれにとって愛情とは、こだわることである。
 多くのもののなかから、たったひとつを選び、
 たったひとつのものとして選ばれること、
 そこに生物としてのたった一度の運命を託すこと、それが愛でありセックスではないのだろうか。
 そう考えるおれは、悟がおれだけを選ばないことにひどく傷ついた。


 おそらくそのときのおれには、
 海の向こうの男たちのセックスにコンプレックスもあったのだと思う。
 おれには悟以外の男との経験がなかった。
 悟とセックスをしているとき、
 自分が彼らと比べられているのではないかという不安がいつもつきまとっていたのに、
 それを認めるのはプライドが許さなかった。


 おれには、悟の方が向こうの生活に感化されて変わってしまったように思えた。
 おれの知っているあいつから、おれの知らないあいつに。
 抱きしめるように育ててきたものが
 いつのまにか、手の中をすりぬけていく。
 さよならと言いながら遠ざかっていく。
 ある朝起きたら不意に何もかもなくなってしまうんじゃないだろうかとおれは不安に襲われ、
 そういう時は矢も盾もたまらずにあいつに国際電話をした。


 変わりたくなかった。変わりたくなかった。
 なぜ人間には静止することが許されないのか。
 だがそういうおれ自身が、おのれの言葉を裏切って変わっていく。
 一瞬先の自分は闇だ。
 おれは大海に投げ出されたボートのように、ただ必死で目の前の波を越えることしかできなかった。


 そして、気がついたときには、おれはあいつを見失っていた。


 あの日、電話口で何を言ったか、自分でも覚えていない。
 ただどうしようもなく疲れていて漏らしたひとことが、終わりのはじまりだった。
 バカなおれはそれに気づかず、
 電話の向こうで悟がずっと泣いていたのを知っていても、
 抱きしめてやれない自分自身に腹を立てて、おれはそのまま電話を切った。
 それきりだった。


    * * *


 4年の月日がたった。
 おれは郷里で地元企業に就職し、密かに悟の帰国を待っていた。
 交流は途絶えていたが、悟のことを忘れた日はない。
 むしろ昔よりも今の方が、純粋に彼を想っているのかもしれないと感じていた。
 しかし、おれの期待とはうらはらに、留学を終えた悟はもう郷里には戻らず、
 一足飛びに家から遠く離れた土地で大学院に通う生活を始めて、おれを失望させた。
 追いうちをかけるように、ひとつの噂が昔の同級生仲間の間を飛び交った。
 悟が女と同棲しているというのだ。


 その女の名なら、おれには記憶があった。
 悟が高1の文化祭のとき、つきあっていた隣のクラスのSだ。
 老舗の和菓子屋の一人娘で、落ち着いた大人っぽい生徒だった。
 …そうか、あのSと……。


 ショックだった。
 今まで、たとえ汚く罵り合っている最中でも、
 悟が自分のものではないと本気で思ったことはなかった。
 いや、悟の心が自分のものだという自信があったからこそ、
 どんな言葉でも言えたのだった。
 何年たっても、どんなに遠くに離れていても、
 いつかはわかってくれる、元に戻れるのだと思っていた。
 悟が、自分にとって、たったひとりの人間で
 自分の生物としてのたった一度の運命を託せる相手だと信じていたからだ。
 悟にとっても、自分がそうであると信じて疑わなかった。


 でも、それは、甘かったのだ。
 女と一緒にいるということは、そのうち子どもができ、結婚して
 家庭をもつということなのだろう。
 悟はそういう道を選んだのだ。けっしておれとは一緒に歩けない道を。
 あいつはそういう道を選んだのだ。


 おれは部屋にこもって、ひとりで泣いた。
 自分のバカさ加減に愛想が尽きる。
 同じ人間に、いったい何度失恋すれば気がすむのだろう。


    * * *


 おれが友人たちから「変わった」と言われるようになったのは、それからかもしれない。
(親には隠していたが)合コンに積極的に出席するようになったのだ。
 いい女性がいたらつきあってみてもいいかもな、と思った。
 まわりからは「やっと目覚めたか」などと冷やかされたが、
 その理由は自分が一番よく知っていた。


 おれは単純だ。
 少しでも悟と同じことをしていたいのだ。
 悟が女性とつきあったなら自分もつきあって、
 悟が家庭を持ったら自分も持って、
 悟と同じ次元で、同じ目線で、歩いていきたいのだ。
 たとえもう一緒には歩けないとしても、
 同じ景色を見ていたいのだ。自分が死ぬその瞬間まで。


 溺れる者が必死でわらを掴むように、
 おれはしゃにむに合コンの間を飛びまわった。
 その様子は友人たちの間で評判になり、悟と親しくしていた仲間の耳にも入った。
「雅裕の女狂い」と面白おかしく尾ひれがついて悟の耳に届いたことを、
 おれはずっと後になるまで、知らなかった。


 27歳になったある雪の日に、おれは悟から1通の葉書を受け取る。
 文面はない。
 誰か有名な写真家の作品だろうか、
 モノクロームの画面の中に、一脚の倒れた椅子だけが写されていた。


 悟に電話をしてみようかと思ったが、
 もしSが電話口に出たらと思うと、どうしても勇気が出なかった。


 雪がやんだある暖かい午後に、おれはその葉書を庭先で燃やした。
 悟からもらったラブ・レターも、エアメールの束も、全部燃やした。
 そして自分の心に墓標をたてた。


    * * *


 おれがやっと落ち着いて悟の顔を見られるようになったのは29になってからだ。
 合コン狂いも収まっていた。
 結局、ずっと一緒にいたいとまで思える女性とはついにめぐり合えなかったのだ。
 おれは自宅で毎年開く友人たちの新年会に悟を招待し、悟と10年ぶりに顔を合わせた。
「久しぶり、雅裕」
 少年の面ざしを残していた悟は、すっきりとした青年の顔になっていた。
 おれの胸がざわめく。しかしもう遠い相手だった。


 毎年の新年会、
 ほとんど自分の話をせずに、黙ってみんなの聞き役にまわっている悟の横顔を見つめながら、
 おれの一年が過ぎる。
 それだけが自分の一年なのだということをおれは知っている。
 誰も知らないし、知らなくていい。
 このまま年を重ねていければもうそれでいいと思っていた。


 悟と出会い、いつも一緒だった高校3年間。
 離れ離れになってお互いを想い、傷つけあった、わずか1年と少しの恋人期間。
 そしてその後の人生…。
 いつのまにかおれは33になり、それなりに職場でも中堅の位置を占め、
 家でも定年後の親父と専業主婦の母親と一緒に、ごく平穏な生活を送っている。


 そして時々、あの夜の浜辺のことを思い出す。
 おれたちを照らした蒼い月。


 おれにとって悟は、あの月のようなものなのだ
 いつもそこにあるくせに、決して手には届かない。
 身体の中で月が満ち、細く欠けてはまた満ちていく。
 その果てしない繰り返しの中で、おれの心が研ぎ澄まされていく。
 月がおれを見ているからこそ、
 おれはこうして生きていられる。
 背筋を伸ばして、語りかけられる。
 悟。悟。おれは元気だ。


 悟。悟。おまえは元気か。


    * * *


 ゴトン、ゴトン。 
 列車の振動が、雅裕を我に返らせる。
 名前も知らない小さな駅のホームが、闇の中に現れては消える。


(知ってた?悟って、年上の男と一緒に住んでるんだぜ)


 その友人から電話があったのは昨夜だった。
 この春、悟の住む街に話題のテーマパークがオープンしたので、
 GWに高校時代の友人3人が連れ立って遊びに行き、
 ホテル代を浮かそうと悟の家に押しかけたのである。


(てっきりひとり暮らしだと思ってたからさ、おれたち焦ったの何のって)
(え?だって悟は女と暮してるんじゃなかったのか?ほら、隣のクラスのS…)
(雅裕、何言ってるんだよ、Sなんて大昔の話だぜ。半年も持たなかったんじゃないか?あいつら)
(……そうなのか)
 携帯を持つ手が震えた。


(その調子じゃ、一緒に住んでるやつのことも聞いてないな)
(どんなやつ?)
(見たとこおれたちより5歳以上は上かな。でかいやつだよ。スポーツ系、というか筋肉系?悟とは仕事先の知り合いって言ってたけどさ。そういえば悟ってわりと可愛い顔してるし、年上ウケするタイプかもな。けっこやばかったりして?)
(ハハ、そうかもな)
 額に汗がにじむ。
(まあオチはきっと、家賃だけシェアしてるただの同居でした、ってなるんだろうな。ほら悟の留学先ってそういうの盛んっていうし)
(ちぇっ、雅裕って簡単に盛り下げてくれるよなあ。まあおれもマジでそう思ってるわけじゃないけど…でもさ、寝室はひとつしかなかったぜ。あいつとこ1LDKで、LDKはおれたちが占領してたから)
(…で、夜中に何か聞こえてきたとか?)
(うーん、残念だけどYのやつが、情報誌でいい店見つけたから行こうって言い出して…)
 つまり3人でフーゾクに行って結局朝帰りになったらしい。
(好きだよなあ、おまえら、ったく…)
(おまえが枯れてんだよ。くすんでないでまた遊びにいこうぜ)
(遠慮しとくよ)
 ………


 電話が終わったとき、手がまだ細かく震えていた。 
 衝撃だった。
 悟が年上の男と暮している。でかいやつ、筋肉系の…
 女とではなく、男と暮している。
 そんなことは、知らなかった。毎年正月に会っていて、そんな話はただの一度もしなかった。
 あの涼しい笑顔の裏に、男との生活があったというのか。おれに向けられた、あの笑顔の裏に。


 女性と暮していると思ったから、おれはあきらめたのだ。
 相手が男だったら、話は別じゃないのか。
 そうだろう?悟、別だろう?
 悟……


 雅裕は唇を噛みしめた。こめかみがドクドクと鳴っている。
 顔を覆ってソファに深く身体を沈め、不意に立ち上がって列車の時刻表を調べた。
 それからキッチンでまだ起きている母親に声をかけた。


「母さん、おれ明日の晩外出するから」


    * * *


 悟、やっと会いにいける。
 どうしておれはもっと早くこうしなかったのだろうと、雅裕は思った。
 おそらく、時間が必要だったのだ。
 自分自身を知る、長い、長い時間が。


 列車がカーブにさしかかった。
 雅裕の行く手にぽっかりと、丸い月が浮かんでいる。
 今月2度目に訪れる満月、ブルー・ムーンが微笑んだ。
 蒼く透明な月面の
 でこぼこのクレーターの影に、
 雅裕はかつて自分が書いたメッセージを見つけた。


     この空はつながっている。
     この海もつながっている。
     だからおれたちはひとりじゃない。
     手を伸ばせばその指先のはるか彼方にきっとおまえがいる。
     おれたちはつながっている。


 銀のレールが伸びる ひとすじの闇
 闇の彼方に向かって 夜汽車は走り続ける。




第20話 ブルー・ムーン 了

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