第21話 レインボー ■ 内藤更紗
レインボー

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     20.ブルー・ムーン


 踏み切りの音が聞こえたような気がして、悟は耳を澄ませた。
 あれは空耳だろうか。


「悟、まだ起きてるのか」
 部屋の中からベランダに、祐一郎が顔を出す。
「うん、…もう寝るよ。月がきれいだなと思ってさ」
「ほう。満月か今日は」
「うん」
 振り返りもせず、悟はずっと夜空を見ている。
(まるでかぐや姫だな)
 そう言いかけて、祐一郎は言葉を飲み込む。
 明日の朝、悟の郷里からまた高校時代の友人が訪ねてくるのだ。
 悟は夕食時からもの思いに沈んでいる。
 その理由を、祐一郎は考えまいと頭を振った。


「…もう寝るぞ」
 そう言って祐一郎が引っ込んでからも、
 悟はその場を離れなかった。
 …どうせ今夜は眠れないのだ。


 高校時代の友人は、卒業後ほんの一時期、恋人だった。
 今は年に一度、彼の家に新年会に集まるだけの関係だ。
 親の家に帰らない悟は、その前夜だけホテルに泊まる。
 どんなに静かな部屋をとっても、眠れたためしは一度もない。
 身体は正直だと、つくづく思う。


 その彼が、訪ねてくるのだ。
 仕事のついでと言っていたが、よければ泊めてほしいという。
 断る理由は見つからなかった。
 自分が一人暮らしではないことは、この前来た連中からもう聞いているだろう。
 その相手が祐一郎であることも。連中は何と言ったか知らないが、
 彼ならわかっているはずだ。自分と祐一郎が、ただの同居人ではないことが。


 それでも屈託なく泊まりにくるということに、
 今の彼の、自分への無造作な気持ちが表われていた。


 …それはわかっていたことだった。
 6年前の雪の日から。
 あの日 廃ビルの埃だらけの男子トイレの床の上で、
 悟は睡眠薬を喉に流し込んだ。
 死ぬつもりなどなかった。もうとっくに死人も同然だったから。
 ただ眠りたかった。いつまでもいつまでも眠りながら跡形もなく消えてしまいたかった。


 この世にひきもどされてから、悟は彼に葉書を出した。
 彼には自分のすべてを知っていてほしかったのだ。
 心も身体も、皮膚の外側も内側も、毛の一本にいたるまで自分のすべてを。
 悟の全身が彼を呼んでいた。


 だが、どれだけ待っても、彼の返事はこなかった。
 悟は現実を噛み締めずにいられなかった。
 彼にとって自分は もう過ぎ去った人間なのだと。
 だから興味もないのだと。


 その後毎年の新年会に招待されるようになったことだけでも、
 彼の心の広さに、悟は感謝すべきなのだと思う。
 葬られた古い過去。
 自分の心だけが、いつまでもそこから立ち去れないでいる…


(でも、大丈夫だ)
 悟は自分にそう言い聞かせた。
 彼は、とにかく、友人なのだ。いいやつだ。
 せっかく来るというのだから、歓迎しない理由はない。
 おれが自分の心にカタをつければすむ話なのだ。
 彼に嫌な思いをさせたくない。
 できるだけ楽しい時間を過ごしていってほしいと、悟は思った。


    * * *


「雅裕ー!」
 改札の向こうで悟が仔犬みたいに跳ねながら手を振っている。
「いらっしゃい」
「はじめまして…」
 悟の横で雅裕を出迎えた祐一郎をひとめ見て、
 雅裕は軽い圧迫感を覚えた。
 筋肉系だと聞いていたのでプロレスラーのような大男を想像していたのだが、
 すらりと上背のある体操選手のような体型である。
 厚い胸板の上に男らしく柔和な顔が乗っている。
「あの、…彼、祐一郎っていうんだ。小宮祐一郎。一緒に住んでる」
「小宮です」
「あ、おれ、布川雅裕です」


 …こいつか。
 雅裕を見たとき、祐一郎はみぞおちに冷たい針を差し込まれたような気がした。
 年齢よりも落ち着いた長男タイプ。
 いかにも悟の好きそうな、育ちのいい…。
 荷物を預かるとき、さりげなく左手の薬指を見た。指輪はない。
「布川さん、ご結婚は?」
 車を家路に走らせながら、祐一郎はバック・ミラーをちらっと見た。
「あ、いえ、おれはどうももてなくて…」
「雅裕は理想が高すぎるんだよな、もったいない。雅裕とこのおばさんならお嫁さん大事にすると思うけどな。うまい料理だって食えるしさ」
 悟が助け舟を出した。
「バカ、母さんの料理で釣れるのは食い意地のはったおまえぐらいのもんだよ」
「そっかー」
 悟が楽しそうに笑う。
 祐一郎は黙ってハンドルを切った。


    * * *


「すごいじゃないか。これみんなおまえがつくったのか?」
 雅裕はテーブルの前で眼をまるくした。
 酢豚に唐揚げ、肉じゃがにハンバーグ、酢の物和え物なめこスープ。
 取り合わせのセンスにやや難はあるが、まず賑やかな満艦飾である。
「いやー、エヘヘ…と言いたいけど、実はほとんどソーザイヤ」
 悟が頭をかいている。
「なんだ。…だろうな、これだけつくれたらむしろコワイ」
「普段これくらいはつくってるよな、悟」
「え?…祐ちゃん、…そうだね、今日は時間なかったし…でも、とっておきがあるんだよ、雅裕」
「とっておき?」
 悟はキッチンから何かを運んできた。


 ひとくち食べて、雅裕は驚いた。
「これ、うちの母さんの茶碗蒸しだ」
「…だろーー?おれ頑張ったもん、雅裕びっくりさせたくてさ」
「すごいな、全然区別つかないよ」
「エヘヘヘーーー」
 悟はデレデレと照れまくった。
「ね?ね?うまいだろ?祐ちゃん」
「ビールが足りないな、取ってくるよ」
 祐一郎は席を立った。


「…祐ちゃん」
 キッチンで煙草をふかしていると、悟がこわい顔をして寄ってきた。
「なんだ、あっちの部屋へいってろよ。久しぶりに会ったんだからつもる話もあるだろう」
「…あのね、祐ちゃん、雅裕は友だちなんだ」
 ガラにもなく真剣な声だった。
「…ほら、おれ、親との関係失敗してるじゃん。それで、高校のときからあまり家にいなくて、卒業してからも一度も帰ってないし…でも、雅裕んちのおじさんやおばさんはすごくいい人でさ、こんなおれのことすごく可愛がってくれて、心配もしてくれて…おれ、実の親より親みたいだっていつも思ってた。雅裕はその息子で、おれと高校ずっと一緒で、おれの、…一番大事な友だちなんだ」
「『友だち』なのか?」
「そうだよ。決まってるじゃん!第一雅裕は女好きだよ。一時は合コンにはまって女追っかけてばっかいたんだから」
 悟は笑った。
「…そうか、悪かったな、悟」


    * * *


 祐一郎がビールとウイスキーのボトルを持って戻り、
 沈んでいた座は再び賑やかになった。
 その中心は悟で、雅裕と祐一郎の席の間をひらりひらりと飛び回り、
 酒をついだり踊ったりして陽気にはしゃいだ。
 楽しい気分が伝染して普段無口な雅裕までが歌い出し、
 いつのまにか大カラオケ大会になっていた。
 夜が更けて、そろそろおひらきにしようかと祐一郎が言い出し、
 みんなで食器を片付けてLDKに雅裕のソファ・ベッドをつくった。
「こんなもんで寝られる?」
「ああ、十分だよ」
 悟はシャワーを浴びに行った。


「あれ?」
 雅裕がつぶやいた。
 ソファ・ベッドの下に氷がパラパラと落ちている。
「ああ、さっき悟が酔って床にぶちまけたやつだろう、そんなところにまで転がってたのか」
 雅裕が氷を両手にすくってキッチンに運んでいく。
 その後姿を見ながら祐一郎は寝室に入った。
 ロフト・ベッドに昇り、シーツを敷きながら何気なく見下ろすと、
 開いたドアからキッチンの端が視界に入った。
(……?)


(あいつ、何やってるんだろう)
 祐一郎は目をこらした。
 雅裕が氷を両手にいただいたまま、シンクの手前で立ちどまっている。
 腕から水がポタポタ滴り落ちているのにも気がついていない様子だ。
 微動だにしない。
 祐一郎は、身を乗り出した。
 そのとき、ひときわ高くシャワーの水音が聞こえた。


 浴室のドアは曇りガラスだ。
 ガラス越しに悟のしなやかな裸身が動いている。
 キッチンの端で偶然それを眼にした雅裕は、その場に釘づけになっていた。


 シャワーの湯と無心にたわむれているぼやけた陰影。
 ひらひらと踊るように腕が身体にまといつく。
 髪をすくい、顔をなで、胸をそらし、腹をこすり、そして…


 雅裕の喉がごくりと鳴った。


 手のひらの氷がすっかり溶けているのに気づいて、雅裕は我に返った。
 足元が水びたしになっている。
 あわてて雑巾を探しにキッチンの奥に進んだ。


 その姿を、祐一郎はじっと見ていた。


     …何が「友だち」だ。


    * * *


 シャワーを終えてリビングに戻り、
 すでにソファ・ベッドに横になっている雅裕にあいさつしてから
 悟は寝室に入ってドアをぴたりと閉めた。
 壁1枚隔てたところに雅裕が寝ていると思うと、どうも落ち着かない。
 ロフト・ベッドに昇ってからも、祐一郎の隣でもぞもぞと身体を動かした。
「…どうした」
 祐一郎が訊ねる。
「シッ!聞こえるよ、雅裕に」
「…べつに聞こえたっていいだろう」祐一郎は苦笑した。
「会話がまったくないほうがよっぽど不自然じゃないか」それでも声を低めていた。
「それは、…そうだけど」
「眠れないのか?」
「ううん…」
「腕枕してやろうか?」
「いいよ」
 間に壁があるのだから雅裕に見られることは絶対ない。
 それなのに、壁を通して雅裕がじっとこちらを見ているような気がして、
 祐一郎に腕枕されている自分の姿をもし見られたらと思うと、
 それだけで悟は恥ずかしくて顔から火が出そうだった。
「何か、熱っぽいな、おまえ」
「そう?」
 祐一郎は悟の身体を包み込むように軽く抱いた。
「…かなり飲んだからじゃ…あ、祐ちゃん」
 祐一郎の唇が悟の頬に触れる。
「…色っぽいぞ、今日は」
 熱い息が耳元でささやいた。
「やだ、祐ちゃん、酔ってる」
「酔ってないさ、ほら」
 祐一郎は悟の手をとって自分の股間に導いた。
「酔ってないだろ?」
 生で握らせる。それはすでに根元から勃ち上がっていた。
「…祐ちゃん」
 また頬ずりをしながらのしかかり、悟の手の上に自分の手を置いて、擦らせる。
 手の中のものはますます固く怒張し、ぬるぬると滑った。
「祐ちゃん、ダメだよ…」
 雅裕に知られたら。
「ね、ダメだよ」
 引っ込めようとした手が強い力で戻される。
「いいじゃないか」
「ダメだって…」
「悟」
 業をにやした祐一郎が、いきなり悟のパジャマの股間に手を突っ込んだ。
「いやだ!」
 悟は反射的に身体をねじって祐一郎を強く振り払った。
(ひどい。雅裕の来てるときに)


「悟」
 祐一郎は黙り込んだ悟の肩に手をかけた。
 もしかして悟が、どこか痛くしたのではないかと思ったのだ。
 だが振り向いた悟の瞳には憎しみがあふれていた。
「何だよ!」


 何だよって何だ。祐一郎の顔色が変わった。
 おれが何も知らないと思っているのか。


「ゆ、祐ちゃん」
 悟のおびえた声は、もう祐一郎の耳に入っていなかった。
 次の瞬間、祐一郎のがっしりと鍛え込んだ肉体が悟を羽交い絞めにしていた。
「祐…」
 ロフト・ベッドがきしむ。
 這いずって逃げようとする悟をさらにきつく抱き締め、祐一郎は乱暴に悟のパジャマの胸をはだけた。
 なめらかな肩、胸、コリコリとした小さな乳首に唇を這わせ、淡いピンクの境目を舌で舐める。
「あっ……い、いや…」
 雅裕に聞かれまいと押し殺した声が余計祐一郎の扇情を煽った。
 パジャマのゴムに手をかけて、ブリーフと同時に一気にむしる。
 剥き出しにされた下半身。けぶるような薄茶の陰毛に囲まれて半透明のペニスが震えていた。
 包皮をずり下げ、中から露出したピンクの割れ目を舌先を使ってチロチロと舐める。
「ああ…」
 悟のかすれた声を聞いて、祐一郎はさらに尻を持ち上げて尻たぶを左右に大きく開き、舌を深く差し入れて激しく動かした。
「あ、ああっ…ああ…」
 えもいわれぬ快感が腹の下で縦横に這い回る。こめかみがはちきれそうだ。
 それでも悟は声をこらえた。雅裕には気づかれたくない。雅裕だけには。
 悟はぎゅっと眼を閉じた。
 身体の中でチロチロと動いていたものがふっと消えたのは、その時だ。


 ギシッ。ベッドがきしんだ。
 身体の中心にズンと衝撃が走った。
 うむをいわせぬ強さで、祐一郎の太いペニスが悟の尻にぐいぐいねじこまれる。
 カリの張ったその弾頭は悟の狭い穴を押し開き、押し広げ、珊瑚色の肉の内側にみっちりとはまった。
「祐…ちゃん…」
 青筋の浮き出した熱い肉塊が腹の中でぴくぴく動いている。
「祐ちゃん、やめて」
 小刻みに悟の内部をこすりはじめる。
「祐ちゃん、雅裕が…」
 湿った陰嚢がぴたぴたと尻に当たる。
「祐ちゃん!」
 悟は泣きそうだった。
「いいじゃないか、あいつだっておれたちのこと知ってて来てるんだろ?」
「それは…だって…」
「気になるのか」
「え」
 悟はギクッとして口ごもった。
 暗闇の中で、祐一郎が動きをとめてじっと自分を見つめている。


「どうして気になるんだ」
 低い声だった。
「…そんな…変だよ、祐ちゃん…」
「変なのはどっちだ」
 祐一郎は動きを再開した。


「…やめてよ…あ…」
 また腰を持ち上げられる。ゆらゆら、ゆらゆら、繋がったままシーソーのように揺らされて、
 不意に激しく打ち込まれる。
「ああ」
 応えるように腰が動く。尻がペニスをくわえる。ピンクの肉の唇がペニスの根元をしゃぶっている。
「いや…」
 雅裕が見ている。雅裕が見ている。おれのこんな姿を。
「あ…ああ…ああ…」
 やめて。彼に見られたら。彼に知られたら。
「いや…いや…」
 身体を完全に二つ折りにされ、剥き出しの珊瑚色の穴をぺろぺろと舐められる。
 深く、深く受け入れてしまう。
 ねじりこまれるペニス。体内で動く極太の熱いカリ首。
 いやだ、雅裕には、雅裕にだけは。
「あ、…」
 カリが動く。内臓の裏側がこすられていく。
「あ、いや、…やめて」
 膝がぶるぶる震えはじめる。痺れるような快感の波が熱く腰を満たしていく。
 やめて、祐ちゃん、雅裕に知られる。
「祐…ああ…」
 声をこらえなくては。
「…ああ、、ああ、ああああ、…」


 やめて、やめて


 声にならない叫びが頭蓋骨に反響する。
 叫ぶそばから、意識がきれぎれに彼方へ飛んでいく。


 やめて、やめて、やめて


 繋がれた性器から身体がどろどろに溶けていく。
 悟は祐一郎の背中にしがみついた。
 汗で湿った男くさい体臭。尻の奥がぎゅうっと締まる。
 その瞬間、


 ドクン


 とてつもなく熱いものが悟の腹の中に注ぎ込まれた。


 ドクン、ドクン、ドクン


 つづけざまに内臓の壁に熱いものが浴びせられる。
 祐一郎は悟の尻に何度も激しく腰を打ちつけ、
 最後の最後の一滴まで
 悟の体内で精液を絞り落とした。


「…祐ちゃん…」


 悟は、信じられない思いで祐一郎を見つめた。
 その時だった。


 バアン!


 マンションの玄関の鉄扉が派手な音をたてた。
 悟は凍りついた。


「雅裕!」


 悟はバネじかけのように飛び起きた。 
 祐一郎が何か言いかけるより早く、
 手当たりしだい服を着て玄関を飛び出していた。


 雅裕。
 雅裕が、聞いていたのだ。
 雅裕が…。
 泣き出しそうになる自分を叱りながら、悟はマンションの廊下を走った。


    * * *


 遠くの街のネオンが、まるで漁火のようだ。
 雅裕は外階段の踊り場で、ぽつんと膝をかかえていた。
 夜風が冷たい。
 どうしよう、と思った。
 あの部屋にはもう戻れない。


「…ここにいたの」
 聞きなれた声がした。
「うん。ここ見晴らしがいいな」
 悟は黙って雅裕の横に腰をおろした。


 何を話せばいいか、わからなかった。
 ふたりとも、ただ黙って遠くの街の灯を眺めていた。


 どれくらいの時間がたっただろう、
 雅裕が小さくくしゃみをしたのをきっかけに、悟が立ち上がった。
「雅裕、コーヒーでも飲みに行かない?この近くに24時間やってるファミレスがあるんだ」
「…そうだな、おまえのコーヒーよりうまそうだし」
 雅裕は穏やかに頷いた。
 悟はマンションの玄関から祐一郎に、雅裕とファミレスに行くからとだけ声をかけて家を出た。


    * * *


 深夜のファミリー・レストランは、半分くらい埋まっていた。
 雅裕と悟は窓際の席をとって、雅裕はコーヒー、悟は何やら複雑な構成のパフェを注文した。
 明るい店内で雅裕はやっと落ち着いたのだろうか、
 いつもの彼にもどって、快活に悟に話しかけた。
 郷里の話、友人の話、仕事の話…
 そこにはお互いのプライベートだけがすっぽりと抜け落ちていることを
 悟は気づいていたが、黙っていた。


 普段以上に饒舌な雅裕。ゲラゲラと笑いっぱなしの悟。
 ふたりとも沈黙が怖かったのかもしれない。
 少しでも話題が途切れたら、またさっきのように
 底知れない夜の闇に落ち込んでしまいそうな気がした。


 悟は窓の外を見る。
 真っ暗な闇の中で、このレストランだけがオレンジ色の灯に輝いていた。
 まるで夜の河を漕ぐ船のように。


     ねえ、雅裕。
     もし、このまま夜が明けないでいたら、
     おれたちは昔に戻れるのだろうか。
     もし このままおまえとこの街を出ていったら、
     おれたちは幸福になれるのだろうか。


     夜を旅する船を漕いで
     昨日はいらない 明日もいらない。 
     仕事も 暮らしも何もいらない。
     もし……


     滑稽だね。
     そんなことはありえないよね。
     おまえを好きなのはおれだけなのに。
     そして今、おれの身体の中には祐ちゃんの痕が残っているのに…


 オレンジ色の窓の下でふたりは笑い続ける。
 その姿を祐一郎が道端からじっと見ていたことを、彼らは知らなかった。


「やあ」
「…祐ちゃん」
 祐一郎がにこにこと店内に入ってくる。
「おれも腹減っちゃってさ。ここのホット・ドッグうまいんだよな。えっと…それとコーヒーね」
 手早く注文してから屈託なく雅裕に笑いかける。
「布川さん、明日の夜までいられるんでしょ?どこでもお好きなところ案内しますよ。な、悟」
 そう言ってパンフレットの束をどさっと雅裕の前に置いた。


    * * *


 ジリリリリリ。
 隣のホームで勢いよく発車ベルが鳴っている。
 雅裕の乗っている特急も、あと数分で出発だった。
 見送りは悟ひとりだ。
 昼間は3人でテーマパークに行って思いきり遊んだが、
 祐一郎は夕方から商談が入ったといってさっさと先に帰ってしまったのだった。


 悟は何となくほっとしていた。
 夕べのことがあるから、祐一郎と並んだ姿を雅裕に見られるのは恥ずかしかったのだ。
 それでも雅裕がひとこともそのことに触れないで、
 今日は落ち着いて旅を楽しんでくれたことが嬉しかった。


 発車のベルが鳴る。
「悟、いろいろありがとう。小宮さんにもよろしくな」
「うん、また来いよ、雅裕」
「仕事頑張れよ」
「うん、雅裕も、身体気をつけてね」
 悟がにっこりと微笑む。極上の笑顔だった。


 不意に、雅裕が言った。
「…悟、おれ、来てよかったよ」
「え?」
 悟はきょとんとした。
「おまえが幸せそうでさ」
「………」
「おまえが幸せで、よかった」
「……雅…」
「本当に、よかった」


「……雅裕……」


 悟は息を飲んで、棒立ちになった。 
 雅裕が悟に微笑んだ。
 悟がそれ以上何も言えないうちに、
 ドアが閉まって、列車は動き出した。


 遠ざかっていく列車のドアの前で、
 雅裕はいつまでも微笑んだまま、悟から遠ざかっていった。


    * * *


 終わった、と雅裕は思った。
 長い長い恋だった。
 15歳で出会ってから、33の今まで。
 悟なら自分のすべてをかけてもいいと思った。だから後悔もなかった。


 指定座席について、窓の外を見た。
 夕暮れが流れる。家々の灯火が流れていく。
 それらすべてがぼやけて、雅裕は自分が声もなく泣いているのを知った。


    * * *


 悟は、まだホームで呆然としていた。
 雅裕の言葉が、頭の中で反響している。
 どういう意味なのだ。今の言葉は。
 とまどう理性のそばから、歓喜の情が湧き上がってくる。


 雅裕は……おれを……


 自分は、片思いではなかったのだろうか。


 雅裕が……おれを!おれを!おれを!


 不意に、悟は頭の先から爪先まで真っ赤になった。息が苦しい。胸が破裂しそうだ。どうしよう。雅裕、どうしよう。
 もどかしく携帯を取り出し、ふと、その手をとめた。
 雅裕の乗った特急の後に、まだもう1本最終列車があったのを思い出したのだ。
 記憶に間違いがなければノンストップ特急で、
 終点で折り返せば雅裕より先回りができる。
 雅裕に会える、会えるのだ!
 雅裕!
 悟は発券窓口に向かって走り出した。


     雅裕!
        雅裕!
           雅裕!!


 突然、窓口の直前で、悟は足をとめた。
 乗車賃が足りないことに気づいたのだ。
 よりにもよって、こんな時に、もう少しで雅裕に会えるという時に。
 悟は泣きたいような気持ちでバッグの底をかきまわした。
 そのとき、指が何か固いものに触れた。


 テーマパークのパンフレットに挟まれた銀行のキャッシュ・カード。
 いつも祐一郎が管理している、悟と祐一郎のふたりの生活費のカードが
 悟のバッグにこっそり入れられていた。
 ミッキーマウスのイラストが陽気に笑っている。


「……祐ちゃん……」
 悟は立ちつくした。


    * * *


 祐一郎はキッチンで煙草をふかしていた。
 もうどれだけそんな姿勢でいるだろう。テーブルには吸殻が山盛りだ。
(…別にいいさ)
 煙草をもっとひかえろとそばでガミガミうるさく言うやつも、もういない。
 これからは好きなだけ煙草が吸えるのだ。
 塩分たっぷりの塩辛も食えるし、酒だって飲み放題。
 まずい玄米黒酢も飲まなくていいし、ガキのコンサートに連行されることもない。
 テレビの深夜映画に付き合わされることもなければ、
 第一風呂であの調子っぱずれの歌も無理やり聴かされなくてすむのだ。
(…実際、あれはひどかったよな。おれだから我慢したものの)
 思わず苦笑いが漏れる。


(まあ、とにかく万々歳じゃないか)
 これから気楽なひとり暮らしに戻れるのだ。
 若い男が欲しくなればまたクルージングすればいい。
(忙しくなるぞ)
 さっきからそう自分に言い聞かせているのに、
 実は一向に気が乗らないのだった。
 吸殻の量だけが増えていく。


(…よそう、湿っぽくなるのは)
 おれらしくない。20、30のガキじゃあるまいし、別れなんて山ほどくぐり抜けてきたおれだ。
 それが、たかがあんなガキ1匹。


 最初から、わかっていたのだ。
 あいつの心に誰かがいるということは。
 あいつをいつか、誰かがさらっていくということは。
 それがたまたま、今日だっただけじゃないか。そうだろう。


 祐一郎はベランダに出た。
 悟が取り込み忘れた洗濯物が下がっている。
 悟のTシャツ、祐一郎のTシャツ、悟のカットソー、祐一郎のTシャツ。
 色がグラディ−ションで並べられている。
(おまえ、ヘンなとこにこだわるんだな)そう呆れて言ったことがあったっけ。
 悟は黙って笑っていたが、
 おれはしばらくして気づいたのだった。
 近くを走る列車の窓から、それはレインボーに見えるのだ。


     レインボー・フラッグ。
     おれたちはゲイで、幸せなのだと…


     悟、この3年間、おまえもおれとの生活で
     少しでもそう思ってくれていたことがあったのだろうか。


 祐一郎は部屋に入った。
 時計を見る。
 悟が雅裕を送って、もし万が一ここに戻ってくるとしたら、とっくに着いている時間だった。


(……やっぱり、行ったか…)


 最後の望みだった。
 重たいものが喉を通って身体の中に深く沈んでいく。
 祐一郎はキッチンに戻った。
 何をすればいいか、わからなかった。
 また、煙草に火をつけた。


 ガチャリ


 玄関の音がした。
 祐一郎は飛び上がった。


「ただいま。あ〜あ、何?そんなに煙草吸ってさ。それにそんなに散らかして、もう!」
 悟は部屋に入るなり、祐一郎にガミガミ文句を言った。


    * * *


 潮風が堤防を吹き抜けていく。
 悟は雅裕の車から降りると、前方に見える洒落た欧風の建物を眺めた。
「…本当にマリーナになっちゃったんだなあ」
「うん」
 雅裕が答える。


 3年の歳月がたっていた。
 悟は正月の新年会以外にもときどき故郷の雅裕を訪ね、友人づきあいを続けていた。
 性的な関係はない。お互いにどちらかが望めば相手は拒まないだろうとわかっていたが、
 心はまた別物であることも知っていた。
 悟は祐一郎と一緒に暮らし、
 雅裕は目下のところ、ネットやケータイサイトで恋人を探している。
 彼は最近、両親にカミング・アウトを遂げたのだった。


「どうだった?おじさんやおばさん」
「うん、まあすぐにはね。まあぼちぼちやるさ」
 悟にはそんな雅裕が眩しい。


 目の前のマリーナは、かつてふたりがはじめての夜を過ごした浜辺だった。
 あの時の風を、波を、雅裕は昨日のことのように思い出す。
 浜はなくなってしまったが、悟はこうして今、自分のそばにいる。
 自分がどんな風に生きていくにしろ、そばで見ていてほしいと願った人間が、
 自分を穏やかに見つめている。
 同じ景色を見て、同じように感じ、同じように年をとっていく。
 雅裕は、もうそれでいいと思う。


「雅裕、ほら」
 一艘のヨットが風をはらんで進んでいく。
 真っ白な帆が陽光を浴びて天と海のあわいで虹色に溶けた。


 おれの恋は、今、成就している。





第21話 レインボー 了

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